助けて。足がつった。溺れる。
大丈夫ですか?今行きます。
お気に入りのビーチでのんびり休暇を楽しんでいたはずの俺。女性が溺れかけているので海に入ると、目の前に女性のものと思われる水着がプカプカ浮いてきた。
ということは、彼女は今そんなことを考えている場合じゃない。俺は必死に水着を手に取ると、あの、これ手渡そうとした。
それと私の水着返してよ。この変態。
と変態扱いされてしまった。彼女との出会いは最悪だった。
しかし、その夜俺を待っていたのはまさかの展開で――。
「こんばん。一緒に寝てもいいですか?」
うーん。やっぱり最高だな、海って。雲ひとつない青空。程よい風と共に照り付ける日差し。真っ白な砂のビーチには穏やかな波が小バルトの海から押し寄せてはゆっくりと引いていく。
その音はまさに天然のヒーリングミュージックだ。日々の仕事で溜まった悪いものが体から抜けていくみたいだ。塩の匂いに身を任せながら、お気に入りの缶ビールをグイっと傾ける。
こんな天国のような休日を満喫している俺は、明日森高つぐ28歳。本来ならこの時間は会社で仕事に精を出しているはずだったが、都会の喧騒で疲れた心と体を海に癒してもらいたくなって、急遽有給を申請してしまった次第だ。
有給あと何日残ってたかな?まあいっか。
ここは知る人ぞ知る、穴場中の穴場なスポットだ。たどり着くには限られた人間しか知らないルートを通る必要がある。さらに陸地からは目視できないほど遠く小さな離島ということで、まさしくサボりにはうってつけ。海以外は何もないのですぐ退屈になってくるのがたまに傷だが、もう何十回と来てるしな。
はあ。大きなあくびをしながらマットに寝転がっていた体を起こす。退屈しのぎに漂流物でも探すか、と波打ち際に向かって歩き始めたその時だった。
ん?水面にプカプカと浮いているものがある。空よりも濃い青色をした布のようなもの。海にザブッと足を入れてそれを拾い上げてみると、え?思わずぎょっとしたのは、それが水着だったから。より詳しく言えば、上半分。女性が胸元を覆うためのビキニのトップ部分ではないかな。
なんでこんなものが。俺の他に人はいないはずなのに。どこからか漂流してきたにしてはまるで新品みたいだ。と俺が首をかしげると、にわかにバシャバシャとまるで水面を叩くような音が鳴り始めた。そして――。
「助けて」
え、確かに今人の声が聞こえた。驚いて音がした方に目を向ければ、そこには近場で最も大きな岩が。その裏だけ、なぜか激しく水面が動いている。
そして再び一段と大きく「助けて」という声が響いた。
「大丈夫ですか?」反射的に俺は海に飛び込んで急いで岩まで泳ぎ、裏に回ると、突然白い手が俺の肩をガシッと掴んだ。
「うわっ」
「助けて。足、足が…私…」
「落ち着いて。肩じゃなくて手に捕まって。そんなに深くないから」
「痛い…」
どうやら足がつって溺れかけていたのは、なんと若い女性だった。年は20歳かそこらで、長い黒髪を後ろでひとつにまとめている。パニックになり、俺の肩を掴んだ手を離そうとしない。
「やだ。離したら溺れちゃう」
「大丈夫だから、そっちの手を伸ばして」
恥ずかしがってる場合か。彼女が俺の肩を離せない理由。それはもう片方の手で胸元を隠しているから。彼女が着ている水着のボトムは濃い青色だった。
「もうダメ」
体力の限界か、女性の体からふっと力が抜ける。この隙にと、俺は彼女を引っ張りながらビーチまで泳いだ。
マットを波打ち際まで運び、その上に寝かせて。裸になってしまっている胸元には自分のタオルをかぶせてあげる。
一体どうしてこんなところにこんな人が。気を失ったままの女性を隣に座って、思わずしげしげと眺める。陶器のような真っ白い肌。海水で張り付く髪に覆われていてもわかる。整った目鼻立ち。
それにスタイルもかなりいい。どこからどう見ても、まるでモデルか女優かのような美人だ。
「うん…」
ここで女性が意識を取り戻し、目をキョロキョロと動かす。最初は胸元にかけられたタオルにハッとなって、続いて俺を見つけると、ギッと目を見開いた。
「あ、嘘。きゃあ」
「え」
「見ないで。私の水着はどこですか?返してください。この痴漢」
「痴漢?違う。これはさっき流されてきて…」
「いや、来ないでください」
「あ、ちょっと待った」
俺の傍から水着のトップを奪い返すと、真っ赤な顔で走り出す女性。冤罪を晴らそうと追いかける。傍から見ればまるで変質者のような俺。
静かだったビーチはにわかに大騒ぎになった。日頃の疲れを癒すはずが、飛んだ休日になってしまったものだ。
「すみませんでした。それから、ありがとうございました。助けていただいて」
走り回っているうちにだんだんと記憶が蘇ってきたらしい。落ち着きを取り戻した女性は、ハッと肩を落として俺に頭を下げた。
「それと、水着も拾っていただいて」
「もういいよ。誤解が解けたなら。それより、どうやってこの島まで?まさか泳いできたわけじゃないよね」
「それが…」
瀬戸ゆいと名乗った彼女は、俺に助けられるまでの経緯を語った。友達が運転するフェリーでこの島まで海水浴にやってきた。ところが遊んでいるうちにはぐれてしまい、さらには水着を流されて、仕方なくあの岩に隠れていた。だが寒さで限界を迎え、ビーチに上がろうと泳ぎ始めたところで、とのことだった。
「ふうん。随分腕がいいんだな、その友達は」
「ええ、でも帰ってしまったみたいで、どうしようかと」
大きなくしゃみをして、瀬戸さんはブルッと体を震わせた。腕には鳥肌を立てて、唇は薄く紫色になっている。
「泊まっていく?」
「え」
「もう日が傾いてきたし、今日だけ。明日になったら助けを呼べばいい。こっちだ」
俺は自分が今晩泊まる予定の場所に瀬戸さんを案内した。少し迷ってから、瀬戸さんはおずおずと俺の後をついてきて、やがて足を止めると「えっ」と言葉を失った。
「すごい…」
「知り合いの別荘だけど、遠慮しないでどうぞ」
ビーチの背後に広がる森。その中に立つある建物の玄関を開ける。1階部分はガラス張りで、リビングにいながら森林浴を楽しめる。2階にはウッドデッキのバルコニーとプライベートプール。3階のテラスからはオーシャンビューを一望できるように設計されている。建物を取り囲むのは、どこまでも続きそうなほど長くて巨大な白壁。そんな豪邸の中へと、俺はためらうことなく足を踏み入れたのだった。
「あの、お風呂、ありがとうございました」
俺が貸した服を着てバスルームから遠慮がちに出てくる瀬戸さん。その姿を見るなり、俺はドキッと勝手に心臓が跳ね上がった。サイズの大きなYシャツから伸びる、細くて長い美脚。お湯でしっかりあったまったことでほんのりピンク色に染まった白い肌。湯上がりなのか、少し息が上がっているのもまた、目のやり場に困るな。
「え、いや、こっちの話。食事も用意してあるから、適当に食べて。俺はもう済ませたから」
「え、こんなに」
森さんがダイニングテーブルを指差すと、瀬戸さんは大きな目を丸くした。その理由は、テーブルにずらっと並んでいる和洋中様々な料理の数々。ほんの数十分でこんなに用意したのかということだろう。
「美味しそう。いいんですか?」
「使った食器はそのまま置いといて、残ったものは冷蔵庫に。ああ、すごく疲れたから、もう俺は寝るよ」
「あ、あの…」
「何?」
「い、いえ…」
何か言いたそうに瀬戸さんは俺を見たり、うつむいて床を見つめたり。はっきりしない態度に俺は少々もどかしくなってきて、眠気もあって無理やり会話を切り上げた。
「寝室は最初に案内したところ。トイレや洗面所は1階でも2階でも勝手に使って。それと、用事があるならいつでも俺の部屋にどうぞ」
「え」
「なんて、冗談だよ。それじゃ」
背中に瀬戸さんがギョッと固まった気配を感じながら、彼女を助けたり、痴漢に間違われたりでクタクタの俺はさっさと自分の寝室に向かった。
そしてベッドに入り、スマホに届いていたメールを確認。そして明日からの予定について考える。これは休暇を延長だな。どうせ俺がいなくたって。
大きなあくびをすると、一気に眠気が襲ってくる。遠くで響く波の音。風で木々がざわめく音に包まれながら、俺は目を閉じてほんの少しの間うとうとまんだろうか。まだ深い眠りに落ちない頃、「コンッ」と控えめな音が響いた。
「森さん、すみません。いいですか?」
「ああ、はい」
「今開けますよ」
寝ぼけまなこでベッドを出て部屋のドアを開ける俺。ドアをノックした瀬戸さんは、戸惑った様子で入り口に立ち尽くしていた。
「どうしたの?用事があるから来たんだよね」
「え、は、はい。実は…」
手足をもじもじさせながら、俺の顔と床を交互に見る瀬戸さん。そして――。
「こんばん。一緒に寝てもいいですか?」
とうとう思い切ったように切り出したのだった。
「一緒に、この部屋で?」
「はい。こんなに広いお家初めてで、寂しくなっちゃったというか。そう、昼間に溺れたことも思い出して、怖くて眠れないんです」
「いいよ」
「え」
あまりに俺があっさり受け入れたので、瀬戸さんはポカンと目を丸くした。そして次の瞬間、みるみるうちに顔が真っ赤に染まって、同時に手足がカタカタと震え始めた。
「どうかした?入るのか、入らないのか?」
「は、入ります。お、お邪魔します」
「どうぞ」
まるで昔のロボットのようにギクシャクした動きで部屋に入ってくる。その姿に俺は思わず吹き出しそうになって、わざとニッコリ笑うと、瀬戸さんの手首を掴んでベッドの方に誘導した。
「え、一緒に寝るんだよね。俺は歓迎だけどさ」
「きゃっ」
瀬戸さんが短い悲鳴をあげる。俺が突然グイッと腕を引っ張り、その体をベッドに投げ出したせいだ。ボスッと背中からベッドに着地した瀬戸さん。そこへ俺は覆いかぶさった。
「いや…」
「いや、自分から来たんだろ。一緒に寝てくださいって。つまり、そういうことだよな」
「あ、私…」
「違うのか。じゃあ、どういうつもりでこの島に来たんだよ」
その両手首を掴んでベッドに押さえつけながら、俺が耳元で尋ねると、ハッと瀬戸さんは息を飲んだ。
「ど、どうして…」
「おかしいと思ったんだ。この島までフェリーで来たっていうのも、運転してきた友達とやらがあんたを置いて帰ってしまったのも嘘だな。全部、あの岩の裏で俺と接触するタイミングを測ってたんだろう。あ、ああ。うっかり水着を流されて○○部分だけは本当か。誰か作戦のうちなら、あの段階で『助けてください』って俺に呼びかければいいもんな。こんな回りくどい色仕掛けをしなくても、あんな格好なら効果抜群だったと思うよ」
「ご、ごめんなさい」
「知ってたんだな。俺が足森だって」
俺がベッドから降りると、震える瀬戸さんは無言でコクンと頷く。そして真っ赤な顔に涙が一筋伝い落ちた。
ア森グループといえば、この国では知らない人がまずいない。ITから介護業界まで実に幅広く事業展開する巨大グループ企業。俺は膨大な数の子会社を束ねる本社のトップ。安森社長の息子と言っても、後継ではない。俺は次男で、将来は3つ上の兄が社長の座を継ぐからだ。要するに、俺は大金持ちの家に生まれたお坊っちゃん。適当に親の会社で働き、いずれ責任ある立場になることもないので、日々フラフラと遊んで気ままに過ごしている、そんな人間だ。
「だから、俺を落としたってメリットが労力に釣り合わないと思うよ。ろくに仕事もせずサボってばかりで、会社じゃ評判は最悪だし、我が家の恥晒しだって、株主から追放されるのも時間の問題かな。え?資金難に陥ったところで、潰れかけの会社が復活できるとも思えないし。むしろ失敗して良かったと思…」
「どうして、会社のことまで…」
その反応から、俺は自分が掴んだ情報が正しかったことを確認した。彼女が風呂に入っている間、人を使って調べさせたのだ。一体何の目的で、わざわざ俺なんかに近づいてきたのかを。
瀬戸って名前には聞き覚えがあったから、試しに調べさせたらビンゴだった。うちの子会社だよね。株式会社瀬戸不動産は。しかも、案の定、経営難で倒産寸前。こんなところの社長令嬢が、俺に近づこうなんて。あいつかな。そんな真似をするのは。
「お願いします。助けてください」
ガバッと体を起こすと、瀬戸さんは床に膝をついた。そして俺に向かって勢いよく土下座した。
「高つぐさんと結婚すれば、会社が立ち直るまで支援してもらえるって、両親が泣いて喜ぶんです。だから、私と…」
「親の言いなりになって、初対面の男に体を差し出すのか。あんたに自分の意思はないの?」
「そ、それは…」
「ま、俺も似たようなものだけど。父に命令されるまま、大学卒業後はア森の本社に就職した。好きでもない仕事をする日々を、なんとなくダラダラと送って。同僚からは『入社のダメ人間』と陰口を叩かれます。気力を失って…」
親の言いなりとはいえ、自分で覚悟を決めた彼女の方が、俺なんかよりずっと立派かもしれない。
「いいよ。結婚しても」
「え」
「ちょうどいいかもな。こっちもいい加減、鬱陶しくなってたところだから」
真面目で会社を何より大事にする兄は、不真面目な俺を目の敵にしている。やる気がないならさっさとやめてどこへでも好きなところに行けばいい。でなければ、せめて家庭を持つなりしてフラフラ遊び歩くのをやめろ。と世間体を気にしてチクチク小言を浴びせてくるのだ。
だから、今回の件も実のところ、兄の差し金だろうと見当がついている。
「本当ですか?」
顔をあげた瀬戸さんが、涙に潤んだ目で俺を見つめる。好きでもない男と結婚するのが、そんなに嬉しいのか。親のために人生を差し出そうとしている彼女に、俺は複雑な気持ちになって少し意地悪がしたくなった。
「そこまでして、ご両親を助けたい?」
「あ、はい」
「本当に?」
「はい」
「だったら、協力料は前払いだ。結婚してやるから、その体で払ってもらうぞ」
「え?」
絶句した瀬戸さん。その首元までしっかり留めたYシャツのボタンに、そっと手を伸ばす。俺の目的に気づいて、彼女がビクッと体を固くしたところで、俺は腕を掴んで強引に立ち上がらせた。
「分かったら、さっさと自分の部屋で寝ること。それと、誘惑する気なら、もう少し格好からどうにかしてきなよ」
「え?」
「高つぐさん、もう眠くて限界なんだよ。はいはい、おやすみ」
瀬戸さんを部屋から追い出すと、俺はバタンとドアを閉めた。そして、ドアの前でしばらく行ったり来たりして、やがて去っていく足音を聞いて。ああ、俺だけど、ちょっと頼みがあってさ。ある人物に電話を入れると、今度こそグッスリと深い眠りに落ちたのだった。
「きゃあ、ごめんなさい。ごめんなさい」
翌日、俺は1階の騒がしさで目を覚ました。女性の叫び声に、ガシャン、パリンと皿が割れるような音。そこで思い出した。ああ、そっか。俺が頼んだんだっけ? 頭を抑えながら、2階の寝室から1階のキッチンに降りる。すると、そこには予想以上の光景が広がっていた。
「うわ、臭い。さすがに家事は起こしてないだろうな」
「おはようございます、坊っちゃん」
顔をしかめた俺に笑顔で挨拶するのは、俺が子供の頃からア森家で働くバアの活用さん。70歳。この道50年以上のベテランだけあって、辺りに焦げ臭い匂いが漂っていようが、床に割れた皿が散乱していようが平然としている。
「本日より瀬戸様、ゆいさんには、私のアシスタントをしていただきます。坊っちゃんの申し付け通りに」
「頼むよ。彼女の服も用意してくれたんだね」
床に散らばったガラス片を掃除する、今にも泣きそうな顔の瀬戸さんにちらりと目をやる。エプロンの下にワンピースを着ているのも、俺が勝よさんに頼んだからだ。こういうところから使用人として働いてもらうのに、Yシャツ1枚では目のやり場に困ってしまう。
「本当にごめんなさい。お料理もお片付けも、何のお役にも立てなくて」
「まだ始めたばかりじゃありませんか。大丈夫ですよ。ゆっくり覚えていけば」
ハッと肩を落とす瀬戸さんを、勝さんがおっとりした顔で慰める。やっぱり彼女に任せて正解だった。これなら安心して休暇を満喫できる。
俺は昨日のア森家のプライベートビーチに向かう支度を始めた。
「まあ、最悪、家が火事になっても平気だよ。本当は俺の家の別荘だから。ここ、もちろん知ってただろうけど」
「はい」
「勝さんと2人で逃げられないこと。それと、やっぱり体で弁償してもらうけどね。一体何十年分働きすることになるかな」
俺は笑いながら1人でビーチに向かった。戻ってきた時、別荘が無事に残っていることを願いながら。
代々続く瀬戸不動産が倒産の危機に陥ったのは、ここ2年かそこらの話だ。生まれた時から社長令嬢の瀬戸さんは、22年間ほとんど家事をした経験がなかった。家計が苦しくなっても、彼女の両親は家事など自分たちの仕事ではないと、片時も使用人を手放さなかったとかで。ま、その使用人も今はいないことだし、苦労して覚えるしかないよな。
昨日散々人に迷惑をかけた分、たくさん苦労すればいいんだ。大変なのは勝さんだけど、俺がわがままを言うのは今に始まったことじゃないので、勘弁してもらおう。
「いいなあ、やっぱり海は」
ビーチに寝転んで波の音を聞きながら目を閉じる。あまりの心地よさにうっかり睡魔が襲ってきて、俺はガンガン照りの中、パラソルも刺さずに昼まで眠ってしまったのだった。
「ああ、坊っちゃん、そんなに日焼けなさって。昔からお肌が弱いんですから」
別荘に戻るなり、プリッと怒った顔の勝さんが駆け寄ってくるけれど、どこにも瀬戸さんの姿は見えない。何か失敗して「ごめんなさい」と謝る声や、物を落とすような音も聞こえなかった。
「瀬戸さんは?」
「ゆいさんは、少し困ったような」
勝さんが俺をリビングに連れて行く。すると、そこには窓際に置いたソファーに腰かけて、安らかに寝息を立てる瀬戸さんがいた。
「お疲れになったんでしょう。何しろ、大変な半日でしたから」
「ああ、そうみたいだね」
その指から手にかけて貼られた大量の絆創膏。俺が出ていく前は真っ白だったのに、様々な汚れでいっぱいになったエプロン。そして見るからに疲れたような顔。慣れない家事で失敗を重ねて、すっかり疲れ果ててしまったのが一目瞭然だった。
「もういいよ。このまま寝かせておいて」
「よろしいんですか?」
「彼女だって、兄貴に利用された被害者だ。勝さんがいれば人手は足りてるし、元々ある程度こらしめたら解放するつもりだった。彼女が苦労する姿を見て楽しもうとか、俺にそんな趣味はない。目を覚ましたら、勝さんが手配してくれるフェリーで、自宅に帰ればいい」
そう思っていたのだが。
「いてて」
「大丈夫ですか?このお薬を塗れば、少しは楽になるそうですから」
「あ、タオルで冷やすといいかも。ちょっと待っていてください」
「ああ」
昼寝から目を覚ましても、瀬戸さんは別荘を出ていかなかった。それどころか、日焼けで体半分が真っ赤な俺の世話を焼くではないか。勝さんにもらった薬を塗ったり、何度も冷水に手をひたして濡れタオルで冷やしてくれたり。
「もう帰っていいって伝えたはずだけど」
「私が勝さんにお願いしたんです。高つぐさんのお世話をさせて欲しいって」
「はあ」
「私も昔はすごく肌が弱くて、日焼けをするたびにこうして手当てをしてもらいました。両親ではなく、お手伝いさんに」
少し寂しそうな顔で笑って、瀬戸さんは水に浸したタオルを絞った。だが力が弱くて絞るのも下手なので、ポタポタと水が垂れてくる。座っているソファーも、着ているシャツやズボンも濡れていく。俺はため息をついて、彼女の手からタオルを奪い取った。
「貸して。帰れって言ったのは、あんたが予想を超えて役に立たなかったからだよ。この別荘は気に入ってるんだ。めちゃくちゃにされたらたまらない」
「首だよ。首」
「あ、明日はもっと頑張りますから。高つぐさんにも勝さんにもご迷惑をおかけしないように。なので、ここに置いてください」
「どうして?」
眠るほど疲れたなら、さっさと逃げればいいのに。どうしてそこまで頑張るんだ? 自分だったらきっとそうすると、俺は不可解な気持ちで瀬戸さんに尋ねた。父の会社に就職したのも、就職活動が面倒だったから。職場で少し嫌な思いをすれば、すぐに休暇を取って仕事を投げ出す。そんな人生を送っていた俺には、逃げられるのに逃げないことは理解できなかった。
「心配しなくても、結婚はするよ。ご両親にも伝えればいい。大成功だ。これで会社は助かるって。だから、さっさと…」
「まだ、助けてもらったお礼ができていません」
ハッと戸惑う俺の額に、瀬戸さんはひんやりと冷え切った手を押し当てた。
「うわっ」
「私、海で溺れた時、もうダメだと思ったんです。どんどん体が沈んでいって。22年間の中で、1番苦しかった。色仕掛けを命令された時じゃなくて」
「はい」
「そんな時に助けてくれた高つぐさんは、私にとって命の恩人なんです」
「そんな、大げさな。普通に、足がつくよ。あそこは」
「だから、少しでもお役に立ちたくて。それまでは、どれだけ大変でも帰りません」
ニッコリと、初めて瀬戸さんが笑顔を見せた。額に手を当てたまま至近距離で微笑まれて、俺はドキッと心臓が跳ねて、みるみる顔が熱くなった。
「あ、まだすごく暑い。そうだ。保冷剤を持ってきます」
「あ、ああ」
キッチンに駆けていく背中を、俺は熱に浮かされたようにボーッと見送った。ガシャン、ガラガラと冷凍庫から物を落とす音も、キャーッと上がる悲鳴も、どこか遠くの出来事のように聞こえる。彼女が戻ってくるまで、まだ少しかかりそうだ。タオルで顔を覆って、それまでに少しでも冷やそうと思ったが、考えれば考えるほど、やっぱり理解できなくて。まるでオーバーヒートするように、むしろどんどん熱くなっていくようだった。
他人のために頑張るなんて。そんな人間、いるはずないのに。
翌日の朝、俺は勝さんに頼んでもう1枚エプロンを用意してもらった。
「まあまあ、急にどうなさったんですか、坊っちゃん」
「別に。あんまり暇だったから、なんとなくだよ」
あまりにも驚かれたものだから、気恥ずかしくなって顔を伏せる。そんな俺を見て、遅れて1階に降りてきた瀬戸さんも目を丸くしていた。
「高つぐさん」
「俺も勝さんに家事を習うことにしたんだ。瀬戸さんと一緒に。だから、エプロンを」
「さあ、それでは始めましょうか。お2人とも、やることは山ほどありますからね」
ニヤリと妙な笑顔を浮かべて、勝さんが声をかける。この時、俺はそう言っても所詮家事だろうと甘く見ていたのだが。
「さあさあ、お次は洗濯物を干しますよ。坊っちゃんは籠を持って、私についてきてくださいね」
「ま、待って、ちょっと休憩を」
「情けないこと。ゆいさんも昨日はお昼まで頑張りましたよ」
何せ、午前11時を回る頃には俺はヘトヘトで息が上がっていた。7時から朝食作りに取り掛かり。それが終われば、次は掃除と、ノンストップで動きっぱなしなのだ。しかも料理は意外に神経を使うし、そもそも俺は初めてなので、手間がかかる。掃除をするには、この別荘はあまりに広く、無駄に部屋もありすぎて。
「この後はお昼の準備ですからね。パパッと終わらせますよ。いつもより時間が押していますから」
「冗談だろ。いつもは勝さん1人でやってるのに」
「コツがあるのですよ。あと50年も続ければ、坊ちゃんにも分かりますとも」
「50年?!

」
50年間も。思わず気が遠くなった俺を、勝さんが肩を揺らして笑う。言葉にしなくても伝わってくる。所詮家事なんて、もう2度と言えないだろうということだ。
「頑張りましょう、高つぐさん」
一緒にバルコニーまでの階段を登る瀬戸さんが、拳を握って励ましてくれる。自分と同じく彼女も家事初心者のはずなのに、その姿はなぜか妙に頼もしく見えた。
それから10分以上格闘した末に、俺はどうにか3人分の洗濯物を干した。シーツにシワが寄っている。それじゃ、崩れますよ。と散々勝さんにダメ出しされながら、やっとお墨付きをもらえた頃には、もはや階段を降りる元気もないほど疲れ果てていた。
「明日森の親屋敷では、毎日この倍は洗濯物が出ますよ。私も年ですからね。もう、腰やら肩やらがいたんで」
「う、それはいつもありがとう」
その言葉が俺の口から自然にこぼれ出ると、勝さんはとても嬉しそうにニッコリと笑った。
「こちらこそ、坊っちゃんがお手伝いしてくださって、とても助かりました。ありがとうございます」
「おう」
その瞬間、俺の中で大きな変化が起きた。ズシッと全身にのしかかるようなひどい疲労感が、心地よい疲れと不思議に爽やかな気分に。これはきっと、達成感というものだ。
「少し休まれたら、ゆいさんと一緒に降りてきてくださいな。お昼の準備をしておきます」
弾むように軽い足取りで、勝さんがバルコニーを出ていく。すると、瀬戸さんは風に揺れるシーツを見上げながら呟いた。
「綺麗」
「え?」
「高つぐさんが干したシーツです。シワがピンと伸びていて、とっても綺麗。すごくお上手」
「あ、偉そうに評価できる立場でもないんですが、昨日の私よりずっとお上手です」
「ああ。そういう瀬戸さんこそ」
彼女が干したシーツは、俺よりも尚且つシワが伸びているように見える。そういえば、今朝は皿を1枚も割らなかった。あの居眠りも、手の絆創膏も、家事を覚えようと努力した証。そして、彼女は実際にたった1日で大きく成長した。
「すごいな」
今度は俺がボソッと呟いて、そんな自分に驚く。多分、これが生まれて初めてだったから。誰かを素直に褒めるのも、何かを最後までやり遂げて、こんな風に達成感を感じるのも。
「兄貴はきっと、俺よりうまいよ。何でも器用にこなすし。ダメなんだ。俺は昔から。俺はア森家の落ちこぼれだ。子供の頃から勉強もスポーツも苦手で、習い事もすぐ嫌になって投げ出してばかり。名門大学を卒業した兄に対して、俺だけ二流大学をギリギリの成績で卒業。優秀な兄の影で、いつしか自分は何をやってもダメだと、何かを始める前から諦めるようになった。同じ職場で働くようになってからも、わざとやる気がないように振る舞った。比べようもないほど差があれば、誰も自分と兄を比べたりしないはずだと」
「だけど、今だけは。家事をするのは、兄貴より俺の方がうまいかも。だって、兄貴も家事なんて生まれてから1度もやったことがないはずだから」
「はい」
俺が笑うと、瀬戸さんも肯定するように微笑んでくれた。
「そして、ダメなんかじゃないですよ、きっと。お兄さんにはお兄さんの、高つぐさんには高つぐさんのいいところがあります。勝さんもおっしゃっていました。高つぐさんは素直じゃないけど、本当はすごく優しいんだって。そんな坊っちゃんが、私は昔から大好きですって」
「…勝さんが思い浮かんだら、お腹が空いてきちゃいました。とっても美味しいですよね、勝さんのお料理」
「うん。俺も早く食べたいな。手伝いに行くか」
「はい」
笑顔で駆け出す瀬戸さんを追って、俺も不思議なくらいスッキリした気分でバルコニーを出た。長年抱えていた思いに、この時ようやく変化が訪れた。瀬戸さんの言葉のおかげで。
ところが、この日の午後のことだった。夕食の仕込みを終えて、俺たちがリビングで休憩していると、にわかにエントランスから大声が響いた。
「高つぐー。ヤッホー。遊びに来たよ」
「げっ」
多分、俺は感情が顔に出てしまったんだと思う。瀬戸さんは不思議そうに、どうしたんですか、どちら様でしょう?お約束の方ですか?と首をかしげた。
「いや、いいよ。俺が出る」
出迎えに行こうとする勝さんを制して、エントランスに向かう。そして精一杯明るい顔で、彼らに挨拶をした。
「いやいやあ、よく来たね、こんなところまで」
「本当だよ。ああ、喉乾いた。とりあえず、俺はビール」
「私、ワインがいいな」
「あったりします。お兄さん、あるでしょ。こんな豪邸だもん」
突然の来客のうち1人は、大学時代の同級生、船木だ。そして彼が連れている2人の女性。彼女たちのことは全く知らない。
「ああ、こっちは俺の女友達。海で遊びたいって言うからさ。あ、じゃあ高つぐの別荘に行こうかなって。そしたら、朝まで遊べるし」
「俺が来てるって誰かに教えたかな?」
「聞いてないけど。ま、お前がいなくても別にいいし、勝手に泊まらせてもらうからさ」
「ああ」
俺が絶句すると、船木たちは「お邪魔します」と勝手に中へ上がり込んでいく。こういうところが昔から大嫌いだった。けど、俺にとって船木は友達だ。その理由は――。
「ああ、ばあさんまだ生きてたんだ。ビールと何かつまめるもの、適当に出してよ」
「い、いらっしゃいませ、船木様。ただ今」
困り顔の勝さんが、それでも俺の友人だからと丁寧にもてなしてくれる。それに船木は調子に乗って、まるで王様のようにソファーへどっかり座り込む。その左右に座った女性たちも、口にしたい放題し始めた。
「私、汗かいちゃった。シャワー浴びたい。案内してくれる?」
「あ、で、では、タオルとバスローブの準備を」
「ねえねえ、ここ何回まであるの?探検したい」
「申し訳ございません」
「はあ?ケチだな。お金持ちなのに、いいでしょ。高つぐ君」
「おいおい、俺の立ち、つまりお前の立ちがこう言ってるんだぜ。いいよな、高つぐ」
「ああ」
以前の俺なら、船木が口を開く前に、いいよ、と頷いていたはずだ。ところが、今日はなぜか首が動かない。石のように固まった俺。そのシャツの裾を、誰かが控えめに引っ張った。
「高つぐさん、いいんですか?」
「え」
「勝さんが困っています。それから、高つぐさんもあまり嬉しそうではありません。ご友人が遊びにいらしたのに」
「ああ」
耳元で瀬戸さんが囁いた言葉は、俺のズブシを思い切り突いた。そうだ。嬉しくない。俺は船木たちが来て、全く嬉しくない。それどころか、今すぐ帰ってほしい。
だって、船木は――。
「よっしゃ、今日は飲みまくるぞ。なんか音楽でもかけろよ、お前ら」
テンションが上がった船木はソファーに立ち上がると、ビールの缶を持った手を高く振り上げた。女性たちはスマホで爆音のJ-POPを流しながら体を振って踊り始めた。
3人が盛り上がるほど、リビングはどんどん汚れていく。テーブルには料理のクズがボロボロと散らかる。ソファーにはビールやワインがこぼれてシミになる。床はベタベタと足跡だらけになって。みんな、午前中の俺たちが、汗をかきながらピカピカに掃除したのに。
「おっと」
「あ、悪い悪い。気づかなかったわ。まあ、乾けば分からねぇだろ」
俺の視線に気づいた船木が、濡れたソファーをゴシゴシと手で拭く。それでも俺が無言なので、どうした、と顔を覗き込んできた。
「なんだよ、その顔。まさか、怒ったのか?そんなわけないよな。だってさ、俺らは友達だもんな」
その一言が船木から飛び出した瞬間だった。
「違います」
「え」
一瞬、自分の口から出た言葉かと錯覚するけれど、それは俺の隣にいた瀬戸さんの言葉だった。
「お友達なんかじゃない。そうでしょ?高つぐさん」
「瀬戸さん」
「あのソファーは高つぐさんのお気に入りですよね。そんなことも知らず、汚しても平気な顔をしている。そんな人、お友達なんかじゃありません」
「なんだと?使用人ごときが。おい、こっちを向け」
怒りに青筋を立てて、船木が手を伸ばしてくる。それが瀬戸さんの細い肩に届く、直前で、俺は船木の手を払いのけた。
「触るな。彼女は使用人じゃない。それに、お前も俺とは何の関係もない。赤の他人だ」
「はあ?」
絶句した船木が、口をあんぐり大きく開ける。
船木は俺の友達だった。それは、俺が誰でもいいので自分を認めて欲しかったからだ。兄と比べることなく、俺自身をすごいと言ってほしい。何の取り柄もないダメな俺と、それを知ってもなお、一緒にいてほしい。だから、向こうから近づいてきた船木と友達になったが、結局彼も、俺が持っている金や別荘が目当てだった。それが原因で、他人を信じられなくなりながら、現実を受け止めることができなかった。瀬戸さんに喝を入れられるまでは。
「おい、お前の父親は、確かア森の子会社の下請け企業で働いていたな。そして、お前の会社は、その下請けの下請けだな」
「ど、どうしてそれを…」
「そこの2人を連れて、今すぐ出ていけ。出ないと、ア森と繋がっている限り、親子友どもこまでも追い詰める。俺と無関係な会社に再就職するまで」
「ああ、そんなものが国内にあったかな」
「ひっ、分かったよ。帰ればいいんだろう。帰れば」
顔を真っ赤にした船木は、女性たちを連れてエントランスに向かった。最後に、俺に向かって捨て台詞を吐いて。
「そうやって、親父の力なしでは何もできないんだよな。情けないんだよ。こっちから絶交してやるから、後悔すんなよ」
「さっさと出ておいきなさい」
勝さんに大量の塩を撒かれて、船木たちは悲鳴をあげながら別荘を飛び出していった。
ドアが閉まる音。バタバタと外を駆けていく音がして、俺はドッと強い疲労感に襲われた。これほど誰かに怒るのも、今日が初めてだったから。
「ありがとうございます。高つぐさん。守ってくれて」
床にへたり込んだ俺に、瀬戸さんが心配そうな顔で寄り添ってくれる。そんな彼女の手を、俺は覚悟を決めて掴んだ。
「え?」
「話があるんだ」
2人きりで。
「もう終わりにしよう」
夕暮れのビーチに連れ出すと、俺は瀬戸さんに切り出した。
「終わり…?」
「今日付けで、勝さんのアシスタントは終了ってこと。迎えを呼ぶから、もう家に帰っていいよ」
「それって、私が全然高つぐさんのお役に立たなかったから…」
「いや」
俺は首を振って、そうじゃないと瀬戸さんに伝えた。それどころか、十分役に立ってくれたと。
「いや、違うな。すごく助かったよ。瀬戸さんのおかげで。だから、今までありがとう」
「高つぐさん…」
「瀬戸さんが日焼けを一生懸命冷やしてくれたおかげで、今日は随分楽だった。瀬戸さんが怒ってくれたから、俺も思い切り怒ることができた。それから、瀬戸さんのおかげで、俺は見つけた」
「見つけた?」
「瀬戸さんの姿を見ていたら、やっと俺にも頑張ってみたいことができた。こんな俺でも、頑張れそうなことを、瀬戸さんが教えてくれた。だから、この島を別荘ごと売るよ」
「え?」
「ここは父さんが成人祝いにプレゼントしてくれた島だから、俺のものだ。そこを売って、俺は瀬戸不動産を買収する。そうすれば、瀬戸さんは俺と結婚せずに済む。君を自由にしたいんだ」
瀬戸さんの目をまっすぐに見て、俺は自分の覚悟を告げた。
「経営体制は現状のままで、瀬戸不動産をア森グループから切り離す。そうすれば、兄も簡単には手出しができなくなり、もう瀬戸さんが利用されることもないはずだ。経営不振の問題は、俺から父さんに頼んで、優秀な人材を紹介してもらうよ。父さんの力を借りるのは、これで最後にする。瀬戸不動産が立ち直り次第、俺は会社をやめて家を出るつもりだ。自分の力だけで頑張ってみたいから。だから、もう大丈夫だ」
瀬戸さんが安心するように、俺が笑うと。その途端、彼女の目からポロッと涙がこぼれた。
「え、そんなに嬉しかった?俺と結婚せずに済んで」
「違います」
「私」
ポロポロと涙をこぼしながら、瀬戸さんが何度も首を振る。声をつまらせて、何度も何かを言いかけてはやめる。
そして、最後に思い切り声を振り絞った。
「私、高つぐさんと一緒にいたいです」
「う、言ったじゃないですか。結婚してくれるって。私、すっかりそのつもりだったのに」
涙で濡れた顔を拭いながら、怒ったように俺を睨む。
その時、俺は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けていた。
「それは、まさかとは思うけど、俺のことが好きってこと?」
「はい」
「どうして。どこ?俺はア森家の息子と言っても、会社を継ぐ予定のない次男なんだ。これまでの行いのせいで人望もないから、重要なポストに着くこともない。だから、兄貴らともかく、自分といても何のメリットもない」
と混乱しながら、俺が改めて念押しすると。
「お兄さんと高つぐさんなら、私は絶対に高つぐさんを選びますよ」
「だから、どうして」
「私が好きになったのは、高つぐさん自身だから。例え高つぐさんが社長になったとしても、嫌いになったりしないのと同じように」
「うん」
どこか煙に巻くような答え方をして、瀬戸さんはニッコリと笑った。釈然とせず首をかしげる俺だったが、はっきりしていることもあった。この笑顔を見られなくなるのは、嫌だ。他の誰かが見ることになるのも、きっと俺は嫌なんだ。
「瀬戸さん、ゆいさん。俺と一緒に来てくれますか?」
その手を取って、ギュッと握ると、ゆいさんは驚いたように目を丸くして、それからゆっくりと満面の笑顔になった。
「もちろん。高つぐさんとなら、どこへでも」
そして、この翌日。久々に出社した俺は、ゆいさんを連れて1番に父の元へ向かった。
「申し訳ございませんでした。社長。まずは社員として、歯を食いしばって働き続けていた、これまでの勤務態度についても謝罪する」
島を出る前から決めていたことだった。
「ふん。まあ、お前の勤務態度については耳に入っていた。さすがに行き過ぎる。何らかの処分を下すべきだという声も上がっていてな。皆にも謝罪したとして、これまで通り働き続けるというのは難しいかもしれないぞ」
「はい」
厳格主義の父が、珍しく難しい顔で苦言を呈する。これは相当にまずい状況だということ。だが、それも覚悟の上だ。俺はツバをゴクリと飲み込んで、今度は息子として切り出した。
「父さん。俺は、ここにいるゆいさんと結婚したいんだ」
「何?」
驚いたように目を見開いた父は、一瞬ポカンと間抜けな顔になって、けれど次の瞬間、豪快に笑い始めた。
「あ、そうか。そうか。改まって話があると言うから、一体どうしたかと思ったら。これでお前もようやく1人前だな、高つぐ」
「もしかして、父さんなのか?兄貴を焚きつけたのは」
「人聞きの悪いことを言うな。私はただ、警部に相談しただけだ。いい年をして結婚の気配すらない高つぐに、ちょうどいい相手はいないものかと。だが、なるほど。察するに、あいつがお前たちを出会わせたんだな。よかったじゃないか」
父も、父そっくりの兄も、こういうところがある。自分で手を下すことなく、陰で自分の思い通りに事を運ぼうとする。けれど、俺は違う。違う人間になりたいと、今は思っている。あなたには、あなたのいいところがある。とゆいさんが言ってくれたから。
「俺を解雇してください」
「なんだと?」
「俺が結婚するのは、父さんあなたの体裁を守るためじゃない。ここにいるゆいさんと、これからも一緒にいたいからだ」
テーブルの下で、ゆいさんがギュッと手を握ってくれる。それだけで、俺はいくらでも勇気が湧いてくる。
「これが俺の覚悟だ。遠くから応援するんじゃなくて、俺が瀬戸不動産を立て直す。そして、胸を張ってゆいさんと一緒にいたい。俺が自分の力で、俺たちの居場所を守ることだ」
「お、それは、ここをやめて瀬戸不動産に転職すると?不動産の知識など何もないお前が、本気で倒産寸前の会社を立て直せると?」
「私がいます」
答えに詰まりかけた俺に変わって、ゆいさんが声をあげる。
「これでも、瀬戸不動産の後継ぎとして人並み以上の勉強をしてきました。だから、高つぐさんに足りない部分は、私がカバーします」
「私は今までずっと、両親の言いなりでした。両親に言われるまま、高つぐさんを罠にはめようとまでして。ですが、もう違います。高つぐさんと出会って、自分の言いたいことが言えるようになりました。だから、私が両親を説得します。高つぐさんを新社長として迎えてくれるように」
「え、そこまでは打ち合わせになかったぞ」
俺が思わず横を向くと、ゆいさんは「あなたなら大丈夫」とニッコリ笑ってくれた。すると、父も「ワハハ」と大きな声で笑い始めた。
「それはいい。ただの社員では中途半端だ。行くなら、社長として行きなさい、高つぐ」
「父さんまで」
「それなら、逃げ出すこともできまい。ま、根性なしのお前には不可能だろうが。やれるものなら、やってみるといい」
こちらを挑発するように、父がニヤリと不敵に笑う。それは俺の心に火をつけた。
「やってやる。絶対に立て直して見せる。いつか、この会社を追い越すくらいに」
「よく言った。男に二言はないな」
「ああ」
父と睨み合う俺を、ゆいさんはニコニコと見守っていた。それから、ありがとう。と、そっと目元に浮かんだ涙を拭ったのだった。
その後、ゆいさんの説得で、俺は社長というのはさすがに無理だったものの、社長と同等の権限を持つ、副社長として瀬戸不動産に迎えられた。
ここにも、ア森のダメ次男の噂は広まっていて、最初は社員たちに警戒されっぱなしだった。そこで、俺は副社長として2つのことを心がけた。
まずは、何があろうと必ず毎日出勤すること。そして、できる限りたくさん社員たちと話すことだ。
ここで、俺は父や兄にはない力が自分にあることを知った。2人に社員たちの上に君臨するカリスマ性があるなら、俺には社員たちと同じ目線に立って話ができる親しみやすさがあったのだ。優秀ではない自分に悩んだからこそ、彼らの悩みにも寄り添うことができた。
俺はゆいさんを先生に不動産の勉強をする傍ら、徐々に社員たちからの信頼を集めていった。
「私がお客様に提供したいのは、1人になれる時間です」
兼ねてから温めていた計画を、社員たちの前で提案した。これは以前の俺のように、現実から逃げて1人になりたい人のためのビジネス。あえてアクセスの悪い土地を買い、そこに別荘を建てる。土地が安く手に入るので、別荘の価格も比較的安価に抑えられる。道を知っている人が少ないからこそ、誰とも会いたくない人には売ってけ。そんな売り文句で、アクセスの悪さをメリットにしてしまおうと。
「本当に売れるんだろうか?」
もちろん、社員たちからは慎重な意見も上がった。そこで試しに、空き地の古民家をリノベーションして別荘として販売してみた。すると、問い合わせが相次ぎ、あっという間に売買契約が成立。俺の提案は正式に採用され、全国各地へ広がると、それぞれ飛ぶように売れていった。
おかげで業績はV字回復。失われていた社員たちのやる気は復活し、新たなアイディアが活発に提案されるように。その結果、瀬戸不動産は見事に立ち直ったばかりか、売上の伸び率ではア森グループ本社も超えるほどに成長したのだった。
「そうだ、高つぐ。そろそろ、親元が恋しくなってくる頃じゃないか」
瀬戸不動産の評判を耳にした父は、それまでノータッチだった俺に連絡を寄越した。つまり、自分のところに戻ってこないかと。
「成長した今のお前なら、うちの社員たちも歓迎するだろう。そうだ。あいつも言っていたぞ。いつか自分が社長になる時、高つぐが補佐をしてくれたらな、と」
「兄さんが」
それは、初めて兄が俺を認める言葉だった。父も、俺の成長を期待して、あえて挑発することで背中を押してくれたのだった。
2人に認めて欲しい。ずっと抱いていた夢が叶って、俺は――。
「ごめん、父さん。俺はこっちで頑張るって決めたから。俺の助けが欲しい時は、自分で頼みに来ればいいって、兄さんに伝えてくれる?」
「そうか。高つぐも、言うようになったものだな」
父は笑いながら、もう連絡しない、と言って電話を切った。突き放すような言葉なのに、その声がどこか嬉しそうだったのは、これからもきっと遠くで俺の成長を見守ってくれているから。そんな気がして、俺は胸の辺りがじわりと温かくなったのだった。
そして、出会いから3年後。長らく指輪を入れていただけだった俺とゆいは、俺の社長就任と同時に結婚式を挙げた。そして、新婚旅行先は、あの別荘がある離島。俺たちが出会った場所だ。
「ゆいが俺のところに来てくれてよかった。あの時は、なんて大胆な真似をする女性なんだって驚いたけど」
水平線に沈む夕日を眺めながら、当時をしみじみと回想する俺。すると、ゆいはふいにクスクスと笑い始めた。
「ええ、高つぐさん。自分で言うのもなんだけど、あの時の私は箱入りのお嬢様だったのよ。初めて会う男の人にあんな風に迫れると思う?『一緒に寝てください』なんて」
「え、あの時が初めてじゃなかったの?私が高つぐさんと会うのは」
そう言って、ゆいは驚きの真実を明かした。
話は、俺が15歳。ゆいが9歳だった。16年前に遡る。父が開いたア森グループの創立記念パーティーへ。ゆいは両親と一緒に出席していた。それが、実は俺たちの出会いだったという。
「他にも子供たちがたくさん集まっていたわ。気が弱かった。私は退屈していた子たちのターゲットにされて、追いかけ回されたり、髪を引っ張られたり、たくさん意地悪をされて、今にも泣きそうだった。その時に、高つぐさん、あなたが来てくれた」
『その子をいじめるなら、俺が相手になってやるぞ』
俺は子供たちを一喝して蹴散らした。そして、小さなゆいに言ったそうだ。パーティーが終わるまで、一緒にいよう、と。
「あ、思い出した。あの時守ってくれたお兄さんが、私の初恋なの。他の誰でもなく、私はずっと高つぐさんに恋をしていたの」
「あなたじゃなかったら、あんなに大胆なことはできなかったわ」
そう言って微笑むゆいを、俺はきっと一生忘れない。夕日に照らされた横顔は、結婚式でドレスアップした姿よりも綺麗で。俺との思い出を大切に持ち続けた彼女が愛しくてたまらなかったから。
「ゆい。ありがとう」
たくさんの思いを込めて、俺は腕を広げた。その中へ、ゆいが勢いよく飛び込んでくる。
「こちらこそ、高つぐさん。私と出会ってくれてありがとう。私を変えてくれてありがとう」
言葉にしなくても、お互いの思いが伝わってくる。それが嬉しいから、夕日が沈んでも、俺たちはいつまでも抱きしめ合っていたのだった。
自分は絶対に変われないと、昔の俺は思い込んでいた。自分を変えられるのは自分だけ、と誰かは言うけど、今の俺は少し違うと思っている。最終的に自分を変えるのは、変わろうと決意した自分自身だけど、そのきっかけは、他の誰かが与えてくれることもある。だから、俺はどんなに些細だったり、一見とんでもない出会いでも、大切にしたい。いずれ壁に突き当たった時、それまでの自分から変身するきっかけをくれるかもしれないから。そして、俺自身も誰かのきっかけになれるかもしれない。なれたら、嬉しいと思っているから。


