彼は私を睨みつけた。その目には敵意があった。偶然再会しただけなのに、まるで私が何か悪いことをしたかのように。
「行くぞ」
新太郎はそう言って踵を返す。隣にいた女性が慌てて顔を上げた。
「え、帰るの?」
強い口調だった。新太郎は私たちに背を向け、女性と子供を置いて足早に去っていく。彼女は戸惑いながらも、私たちに小さく会釈をして、ベビーカーを押しながら新太郎の背中を追った。
やがて家族3人の姿は人混みの向こうへ消えていった。
私は元夫、新太郎と5年ぶりに再会していた。離婚してから、私は姓も変わり、新しい人生を築いていた。夫の高遠寺は、新太郎が勤める会社の取引先の重役だった。新太郎は高遠寺に一方的にライバル心を燃やしているようだった。同い年で、片や取引先の重役、片やまだ一社員。その立場の差が気に入らないのだろう。
高遠寺は言った。
「平川さんとは仕事以外にも縁があってね。小学校と中学校が同じだったんだ」
私は目を丸くした。
「嘘。そんな偶然あるの?」
「あるみたいだね。もっとも向こうは気づいてないけど。子供の頃は別の苗字だったし、見た目もかなり変わったから」
新太郎は昔から人を序列で見るタイプだったらしい。先生の前ではいい子を演じ、裏では気の弱い子をからかう。高遠寺も何度か嫌味を言われたことがあるという。
その再会から数日後、高遠寺が会社から帰ってくるなり、ひどく疲れた様子を見せた。
「会社に、匿名で妙な電話がかかってきたんだ」
嫌な予感がした。
「内容は、高遠寺の妻の父親は放火犯で犯罪者だ、という感じのものだった」
私は言葉を失った。続けて、ボイスチェンジャーを使ったような声で、重役にそんな人間の身内がいるのはおかしい、取引を見直すべきだ、という旨まで言われたという。
誰がやったか、すぐに分かった。新太郎だ。
高遠寺も同じ結論だった。
「会社としては無視できなくて、俺も聞き取り調査を受けた。形式的なものだけどな」
私は申し訳なくなった。
「ごめんなさい。私がちゃんと新太郎の誤解を解いていれば」
高遠寺は首を振った。
「違う。お前のせいじゃない。この件は悪いのは一人だけだ」
そして、父の名誉を守るために、記事を書くことを提案した。父が助けた少年の実話を、ネットニュースで発信するのだ。
私はすぐに父に連絡をした。父は最初こそ渋ったが、新太郎の現在進行形の愚行を説明すると、考え込んだ末に頷いてくれた。そして、かつて父が火災現場から救い出した少年にも連絡を取った。彼は今、13歳になっていた。両親は離婚し、親戚の家で穏やかに暮らしているという。彼は言った。
「僕は大丈夫です。相澤さんのことを悪く言われるのは嫌ですし、僕にできることがあるなら協力します」
記事はネットニュースに掲載された。消防士と少年の絆。姉が弟を守り、一人の消防士が生きている弟を救ったこと。二人の交流は今も続き、少年は消防士を目指しているという内容だった。記事はSNSで拡散され、大きな反響を呼んだ。父を知る人たちからは、やっと本当の話が伝わった、と連絡が来た。
一方、高遠寺の会社は、匿名電話の発信元を調査した。犯人は、あっさりと判明した。新太郎だった。しかも、自分の会社の電話を使っていたのだ。高遠寺の会社は、新太郎の会社へ正式に抗議した。取引の見直しを検討したい、と。新太郎は取引担当から外され、社内でも大騒ぎになった。全て自業自得だった。
それから少し経った頃、私は久しぶりに電車に乗って、気分転換に遠くの住宅街を散歩していた。公園のベンチに、ベビーカーを置いた女性が座ってぼんやりしている。中の女の子は大声で泣いていたが、女性は反応しない。以前、ショッピングモールで会った、新太郎の隣にいた女性だった。私は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
彼女は驚いたように肩を震わせた。私は名乗り、新太郎の元妻だと伝えた。彼女は「はるか」と名乗った。明らかに疲れ切っていて、精神的に追い詰められている様子だった。私は彼女を家に招き、温かい食事を振る舞った。はるかはナポリタンを一口食べた瞬間、ポロポロと涙をこぼした。
「すごく…美味しいです」
彼女は話し始めた。元々は医者を目指していたこと。新太郎と出会い、妊娠したこと。中絶するつもりだったが、新太郎に「子供の命を奪う選択なんてするな」と説得され、結婚したこと。しかし、仕事には戻れず、「母親失格」だと責められ、家から出してもらえないこともあったこと。新太郎が勝手に研修先の病院に連絡し、辞めさせたこと。両親とは絶縁状態だと聞かされていたこと。近所の人たちは自分を避けていると思い込んでいたこと。新太郎の精神的な支配によって、彼女は全てを諦めかけていた。
私は、かつての自分と重なる彼女を放っておけなかった。私は言った。
「実はね、私、そのご近所さんたちと話したの。みんなはるかさんのことを心配してた。話しかけようとするたびに、新太郎が邪魔してたんだよ。『うちの妻は忙しい』って」
はるかは呆然としていた。
「私…何も知らなかった」
そして、両親に電話をすることを勧めた。はるかは怖がったが、私は背中を押した。電話はすぐに繋がった。はるかの母親は、ずっと電話をかけていたが、一度も出なかったと言った。新太郎は、はるかの両親に「はるかはもうあなたたちと話したくないと言っている」と伝えていたのだ。二人の間の誤解は、全て新太郎が作った嘘だった。はるかは母親と、存在を確かめるように何度も呼び合っていた。
それから、はるかは少しずつ変わっていった。新太郎の目を盗んで両親と連絡を取り、私の家にも頻繁に遊びに来るようになった。明るさを取り戻し始めたある日の午後、玄関先で新太郎に鉢合わせした。新太郎ははるかを連れ戻そうと怒鳴った。
「帰るぞ」
しかし、はるかはベビーカーの手を握ったまま、真っすぐに新太郎を見返した。
「帰りません。私はあなたと離婚します」
新太郎は完全に固まっていたが、すぐに私を責め始めた。
「お前がはるかをそそのかしたんだろう!」
すると、ご近所さんたちが続々と外に出てきて、スマートフォンを構えていた。元保育士の女性が新太郎の首元を掴み、門から引き剥がした。
「あんたは夫としても父親としても失格だよ。昼間から妻と子供を怒鳴りつけて、今度は千里さんにまで手を上げようとして。全部撮ったからね」
「警察呼びましょうか?」という声も上がり、新太郎の勢いは明らかに落ちた。私は彼に言った。
「これ以上恥をさらす前に帰ったら?」
新太郎は悔しそうに歯を食い縛っていたが、何もできないと悟ったらしい。逃げるように去っていく新太郎の背中を、全員が見ていた。
はるかは娘を連れて実家へ身を寄せ、弁護士を立てて離婚を成立させた。新太郎は仕事も家庭も失い、自暴自棄になっていった。やがて、自分が住んでいる家に火を放った。皮肉なことに、かつて私の父を放火犯だと決めつけた彼が、自ら放火事件を起こしたのだ。新太郎は大やけどを負い、現在も昏睡状態が続いているという。
あれから、私たちの暮らしには穏やかな日常が戻った。私は高遠寺と新しい家を建てる計画を立てている。そこでは父とも同居する予定だ。父は最初こそ遠慮していたが、高遠寺が何度も誘い、私も説得した結果、ようやく頷いてくれた。
「お父さんの部屋は日当たりがいい場所にしよう」
信頼できる人たちと過ごす日々は温かい。私はこれからも、その大切な縁を守りながら歩いていく。



