同窓会の会場に足を踏み入れた瞬間、あの頃の空気が蘇ってきた。薄暗いバーの片隅で、学生時代に一番見下してきたイケメンの瀬川が、相変わらずの笑顔で俺の首をホールドしてきた。
「よっ、社会人になっても存在感空気すぎんだろ。しけた面に磨きかかってんじゃん。お前、一生彼女できねえんじゃないの?」
悪意はない。それがまた腹立たしい。俺は苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。学生時代のスクールカースト上位の彼にとって、俺はいつだって引き立て役の陰キャだ。
そんな時、俺が片思いしていた小山レナさんが現れた。彼女はさらに綺麗になっていて、俺の心臓は跳ね上がった。瀬川が「抜け出そうよ」と誘うのも聞かず、彼女はすっと俺に近づいた。
「ずっと会いたかったのよ。この後、予定ある?」
耳元で囁かれた言葉に、俺は固まった。俺の名前は杉本大。居酒屋の店長をしている。学生の頃から生活費のためにバイトをしていて、大学には進学せずそのまま働いている。早くに父が亡くなり、母子家庭で育った。貧乏だった。高校生の時、妹のひなはまだ小学生だった。妹には大学まで行って欲しかった。母に「大学には行かないよ」と告げた時、寂しそうな顔をした母の顔は今でも忘れられない。
今夜は中学の同窓会だ。正直参加する気はなかったが、大学首席の自慢の妹・ひなに見つかって、行けと言われてしまった。俺は妹に弱い。
「お兄ちゃん、初恋の人によろしくね」
ひなの言葉に、昔の俺は顔に出ていたんだろうなと思った。思い出すこともないだろうと思っていた片思いの彼女のこと。ひなに言われたからだろうか、俺は急いで会場へ向かった。
会場はおしゃれなバーを貸し切っていて、すでに盛り上がっていた。誰も俺に興味がないのか、声をかけてくる人はいなかったが、カウンターに腰かけた途端、瀬川にがっつり首をホールドされた。出席番号が前後だったからか、俺に話しかけてくる数少ないクラスメートだった。
「よっ、彼女いないだろ。俺さ、今日はな、決めて来たわけよ。ちょうど彼女と別れたとこだし、同窓会なんて機会逃せないだろ」
当たり前のように俺の独身を決めつけないでくれ。瀬川には悪気がないから困ったものだ。
「あそこで飲んでるセクシーな美人。見えるか?」
瀬川が指さした先には、薄暗い店内でも輝いて見える女性がいた。誰だか分からなかったが、瀬川が言うには小山さんらしい。
「やっぱ小山さんがピカイチだな。俺、一丁告白してくるわ。こういうのは思い立ったが吉ってやつだからな。行くぞ、よ」
「は? いや、なんで俺まで?」
「彼女独身らしいけど、さすがの俺も緊張するってことで。よ、お前は影みたいに横にいてくれるだろう。俺を引き立てろよ」
イケメンの余裕というものなのだろうか。理解する暇もなく、俺は瀬川に腕を引っ張られ、会場の中心へ連れて行かれた。
「久しぶり、小山さん」
「あら、瀬川君と杉本君。久しぶりね。会えてとっても嬉しいわ」
大人っぽくなった彼女を見ていると、俺の片思いは少し歪な形で幕を閉じることになるんだろうなと思った。瀬川がついに本題に入ろうとした時、別のグループから次々にお呼びがかかり、瀬川は仕方なく小山さんに「また後で」と伝えて一度立ち去ることになった。
俺は腕を引っ張られながら小山さんをちらっと見た。彼女は学生時代とは違う大人な笑顔で瀬川を見送っていた。
ようやく解放された瀬川が機会を伺っていると、小山さんの方が来た。
「いいよ、いいよ。それより2人ともまだお酒大丈夫かな? よければお店変えて3人でどうかな?」
「行く、行く。よし、店探すよ」
彼女がそっと出した名刺には「クラブナイトレディ」と書いてあった。
「私のお店だよ。どうかな?」
上目遣いで俺を見てくる小山さんに思わずドキリとしたが、俺は複雑だった。片思いしていた人。記憶の中の大和撫子は本当に変わってしまっていたようだ。職業のことじゃない。これじゃ営業じゃないか。そんなことする人じゃなかった。
店に着くと、小山さんは一層輝いて見えた。酒も入っていたからか、陰キャらしく身の上話なんかもしてしまった。すると、酔った瀬川が突然立ち上がって言った。
「ひな野さん、俺と付き合ってください」
俺は立って手を前に突き出している瀬川の真っ直ぐさを少し羨ましく思っていた。自分には到底できない。少しの沈黙の後、小山さんは笑ってかわした。
「瀬川君ってば盛り上げ上手なんだから。イケメンにそんなこと言われたら照れちゃってお話できなくなっちゃうよ。シャンパン飲んじゃおっと」
学生時代では考えられないことだ。相手が小山さんとはいえ、瀬川が振られる姿を見ることになるなんて。
数時間後、終電間際で酔いつぶれた瀬川を抱えながら店を出ようとすると、小山さんが息を切らせてやってきた。
「また来てね。今日は久しぶりに会えて嬉しかったよ」
そう言って、そっと渡された小山さんの連絡先。
「杉本君は特別だから」
これも営業なのか? 片思いは終わったとか自分に言い聞かせておきながら、心臓の鼓動は高鳴り続けていた。散々言い聞かせたけれど、彼女のことを知りたい気持ちの方が勝ってしまい、俺は彼女に連絡を入れた。
後日、俺と小山さんは近くのカフェで会うことになった。デートということでいいのだろうか。服を悩むなんて初体験で、死にそうだった俺はひなの着せ替え人形となり、1時間も前に着いてしまった。結局俺は5分遅刻をした。本当に情けない。小山さんは笑いながらケーキの奢りを要求してきた。同窓会とは違い露出の少ない可愛らしい服を着て、ショートケーキを美味しそうに食べている彼女は、なんだか学生時代と重なるところがあった。
「驚いたかな? 急に働いてるクラブへ連れて行ったりして」
「いや、少し、かな。でも小山さんはやっぱり美人だなって」
「やっぱり優しいね。杉本君は」
外を眺めながら、小山さんはぽつりぽつりと話し出した。
「私ね、中学卒業してすぐ父が亡くなって、そのまま母も病気になって頼れる人もいなくてさ。入院費や妹の大学費用のために今の仕事してるの」
大人になった小山さんの姿から勝手に作り出した俺の想像とはかけ離れた話に、俺は口ごもってしまった。誰かのためにひたすらに我慢してきたのだろうか。その姿はまさに俺だった。
「それで今の仕事やってるんだ。仕事、その、辛い?」
「どうかな? 運良くいいお店に入れたし。母のこともだけど、今は妹の幸せが何よりも大切。妹は今大学生なんだよ。私の学生生活は中学で終わってしまったから、妹には苦労させたくないの。青春ってやつかな? 思いっきり楽しませてあげたい」
俺はまた心臓が跳ね上がって、今にも泣いてしまいそうだった。あまりにも小山さんの気持ちが分かりすぎたからだ。俺と同じだったからだ。
その後、些細な会話でも俺は小山さんと連絡を取っていた。彼女の身の上を聞いて、自分と同じところがあると親近感が湧いた。
そんなある日、仕事の関係で早めに家を出たものの、早々に終わってしまい、俺は出勤時間までぶらぶら散歩していた。すると、目の前を少しおぼつかない足取りの女性がいた。小山さんだ。そういえばここはクラブナイトレディだった。駆け寄ったその時だった。
どさっと小山さんが倒れた。
「小山さん、大丈夫か?」
「え、杉本君、なんで」
「いいから。頭打ってないか? 起きられる?」
「うん。ちょっと目眩がしただけ。ありがとう。大丈夫だよ。もうお店だから」
店のオーナーらしき人が飛び出してきて、小山さんを心配していた。オーナーの話によると、小山さんはほぼ休みなしで働いていて、最近掛け持ちも始めたとのことだった。
「君、ひな野ちゃんの彼氏?」
「え、いや、同級生です」
「君からもさ、ひなのちゃんにそれとなく言ってやってくれよ。俺が言っても全然聞かないんだよね。休みを取れと言っても、妹に自分と同じ苦労をさせたくないの一点張りだそうだ」
俺は後のことを頼んで仕事へ行った。もちろん遅刻したが、初めての遅刻だったのでスタッフのネタになってしまった。家に帰ると、ひなが嫌な感じの含み笑いをしながら言った。
「お兄ちゃん、小山さんのこと、相当助けたいんだね」
「そうだよ。力になりたいって思うのは当たり前だろう」
「好きな人ならさ。支えてあげなよ。お兄ちゃん、バレバレだよ。大丈夫。イケメンじゃなくてお兄ちゃんに連絡先くれたんだもん。相当脈ありだよ」
1ヶ月後、俺の店に面接の子が来た。ひなと同じ大学の子だった。面接も終わりに差しかかった頃、悩んだが俺は聞いてみることにした。
「もしかして、履歴書にある同居の姉って、小山レナさんだったりする?」
「え、はい。姉だと思います。知り合いなんですか?」
あの小山さんが自分の全てをかけて守っている妹かもしれないんだ。履歴書には小山レミと書いてあった。俺は彼女を採用した。小山さんの負担が減るだろうと思った。
しかしそのタイミングで、他の店舗からヘルプ要請が来てしまった。つまり俺は2週間店を離れることになった。出張先で俺は働き、店には進捗確認のメールを送っていた。なんとか2週間の仕事を終え、ひなにメールをすると、いつも以上に即返事が来た。
「なんだよこれ。冗談だよな」
信じられない内容を見て、俺は一刻も早く帰るため新幹線に飛び乗った。ひなやスタッフから話を聞き、レミさんと再度面談すると決めた。
翌日、出勤時間ギリギリに彼女は来た。
「店長、お帰りなさいです。すみません、ギリギリになってしまって。あの、お話って何でしょうか?」
レミさんは完璧だった。みんなが話していたのは本当にこの子のことなんだろうかと疑ってしまうほどだ。俺は深呼吸した。
「小山さん、お客さんを大切にすることは間違っていない。でもね、仲間を大切にできないのはダメなんだよ。あんたさ、平気で『消えろ』だの『ゴミ』だのスタッフに言うの。なんでキッチンに帰ってくる度に『だるい』『うざい』ってみんなうんざりしてるんだよ」
すると、すうっと人格が変わったように彼女から表情が消えたかと思うと、勝ち誇るような顔で話し始めた。
「で、私、クレーム出てます。それに新人ですよ。新人いじめですか? てか、裏でちょっとだけ毒を吐くだけじゃないですか? ノリでしょ? それくらい普通に返せないとか、そっちの方が器は小さくありません?」
理解が追いつかない。ひなから連絡をもらった時以上に頭が混乱していた。これをノリだと言い切り、火は全てこちら側にあると思えるのか。
「君ね」
と俺が言った瞬間、食い気味に彼女が言った。
「ああ、あと姉にも言っといてよ。あんたのせいで私は不幸。人生めちゃくちゃだってさ。杉本君って店長のことでしょ? 同窓会の話、聞いてないのにしてきたんだよね。店の詳細まで行っちゃってさ、笑えるんだけど」
この目の前の子は本当に小山さんが幸せにしたいと願った妹なんだろうか。倒れるまで働いてでも守りたいものだったんだろうか。俺の混乱は続き、彼女の演説を聞くだけになっていた。
「あいつの、守ってやるみたいなの、振りがむかつく。どこが守ってるって? 自分は好きな化粧品いっぱい買うくせに、私のおしゃれには出せる金ないからってお金けちってさ、自己中もいいとこでしょ。みんなはめっちゃ好きなように遊んでんのに、私には働けっての。そもそも、あんな姉がいるってだけで人生終わってんの」
最後には詰まっていた物を吐き出すように彼女は言った。
「今時大学まで行くのなんて普通でしょ? それが中卒ですよ。学校サボってたやつから『レミのお姉ちゃん、コンビニで働いてたけど高校行ってないの?』とか聞かれて、そんな話になるとみんな『やべ』って顔して話そらすんですよ。惨めだと思いません? 分かるんだよ。『ああ、こいつ貧乏だったわ』って思ってるって。別に欲しくないから買わなかっただけなのに。貧乏だから買って決めつけられて。何をしてもついてくるのよ。貧乏だから。貧乏だから。小山は貧乏だからって」
見えない誰かたちと小山さんを攻撃するように、レミの言葉は棘だらけだった。その勢いのまま、今度はそばにいたひなの方へ視線を向けて笑いかけた。
「杉本先輩。わかりますよね。私の惨めな気持ち。店長も高卒でしょ。こんな兄がいたんじゃ恥ずかしいったらないわよね」
ひなは何も言わず、ただ小山レミを睨みつけていた。
「ああ、先輩なら私の気持ち分かると思ったのにな」
「言い訳するのもいい加減にしないよ。あんたの見てると、こっちまでイライラしてくる」
言い切るまでもなく、ひなの平手打ちがレミを吹っ飛ばした。
「何すんのよ!」
「お兄ちゃんをバカにする奴は絶対に許さない。大切な時間を全部私のために使ってくれた。あんたみたいな嫌がらせする奴がいても、私のために我慢してくれた。あんた、お姉さんが何をしてくれているのか、何も知らないんでしょ。何も知らないのに、大切な家族を馬鹿にする奴は-」
「ひな、もうやめろ」
ひながもう一度振りかぶったところで、俺はひなの腕を取った。そして唇を噛みしめ震えている妹を抱きしめて止めた。
「私、やめます。止める理由ないですよね。元々働きたくなんてなかったし」
転んだ椅子を直し、出て行こうとするレミに、俺は何も言えなかった。パタンと扉が閉まり、レミが出ていくと同時に、ひなが号泣し出した。
「お兄ちゃん、ごめん。ごめんなさい。私、悔しくて。お兄ちゃんのこと、あんな風に言われて。お兄ちゃんが大学行きたかったってこと。私のために全部犠牲にしたってことも、でもいつも笑ってくれるお兄ちゃんに、ありがとうも何も私言えなくて」
「もう泣くな。ひなは笑ってなきゃだぞ。ありがとうな、ひな」
泣きじゃくるひなの頭を撫でた。小さい頃からいつもこうやって撫でていた。やっぱり大きくなっても妹は妹だな、なんて改めて実感してしまった。小山さんも、そのはずなんだ。
「店長、そろそろ店出られそうっすか? さっき小山帰ったみたいっすけど」
小山さんに妹を採用したことは話しているし、やめたことを伝えないといけない。どう伝えればいいのか。今は言葉が浮かばなかった。
結局、俺は小山さんに一連のことをどう説明すればいいか決めきれないでいた。しかし小山さんからの既読がつかない。レミの件ではなく、体調は大丈夫かと送った件が一向に読まれていないようだった。俺の足はあの店へ向かっていた。
「ああ、この間の兄ちゃんじゃないか。ひなのちゃんの知り合いの」
「オーナーさん、どうも。あの、ひな、いや、小山さんはいますか?」
オーナーは眉をこれでもかと寄せ、俺を見ては空を見てを繰り返し、うーんと唸っている。
「実はな、ひなのちゃん、ついに救急車で運ばれちまって」
「病院、どこですか?」
俺はすぐにタクシーを捕まえて病院へ向かっていた。オーナーによると説得して休みを取らせたが、次の日出勤と同時に倒れてしまったそうだ。何も力になれない自分が悔しい。今は妹の話より小山さんの回復が優先だ。俺は深呼吸を2回してドアを開け、カーテン越しに声をかけた。
「小山さん、杉本です」
「杉本君、どうぞ。オーナーが連絡をくれていたのよ。どうぞ」
小山さんの笑い声にほっとして、俺はすっとカーテンを開けた。そこには点滴をつながれ、少しやつれた小山さんがいた。
「わざわざありがとう。心配かけてごめんね」
「いや、こっちも急にごめん。体調はどう?」
お見舞いのテンプレ会話しか浮かばず、俺は急に情けなくなってきた。俺が来たところで小山さんの休息時間を削ってしまっているのでは。一旦帰った方がいいと結論を出したところで、帰ってきた小山さんの言葉は全くテンプレではなかった。
「体調? うん。疲れたね。とても疲れた」
てっきり「大丈夫だよ」とか「早く退院したいな」とかが返ってくると勝手に思っていた。その言葉を聞いた途端、下を向いていた顔を思わず上げた。そこにいたのは、窓のない壁を寂しげに見つめ続ける小山さんだ。
「杉本君。同窓会の時、私のこと、どう思った?」
「あ、ま、前も言ったけど、美人だなって思ったよ」
小山さんは壁から目を離して俺を見た。分かっていた。答えはこれじゃない。俺が感じていたもう1つの方だ。
「営業みたいだって思ったよ」
「うん。実際営業だった。少しでもお客を掴まえていこうと思っていたの。同窓会なのに最低だよね。瀬川君にも悪いことしちゃった。他にも自分の会社アピールしてる奴なんてたくさんいたんだ。小山さんは最低でも何でもない。必死だったの。お店でトップを取っていても、お金はもっといる。私はどう思われても構わない。妹を幸せにするためなら、なんだってできた。杉本君なら分かってくれるよね」
何も知らない人が聞いたら、彼女の言葉の意味は分からないだろう。だけど俺には分かった。痛いほど分かった。いや、違う。きっかけは俺だ。俺が壊してしまったんだ。2人のギリギリの均衡を、俺が崩してしまったんだ。
「あの日、オーナーに休めって言われて、お昼のバイトが終わった後に杉本君にお礼を言おうと手土産を持ってお店へ行ったの。まだ開店前だったから少しうろうろしてて、裏手からレミの声が聞こえた。あれはレミだよね。レミが言ったんだよね。『戻りたい。あの時に戻らせてほしい。ちゃんと目も覚めて、ちゃんと冷静に話せるようにするから』って。俺の頭は彼女の言葉を聞くことに限界を迎えていた。姉のせいで不幸だって。私は事故中に遊んでて、自分は遊べないんだって。中卒が嫌だって。そんな姉が恥ずかしいって。全部、全部、私のせいだって、レミは言ってたんだよね。杉本君。私の、私の、今までは何だったの?」
小山さんは叫ぶように俺を問い詰め、涙と声が枯れるまで泣き続けた。俺はただ、彼女の手を握っていることしかできなかった。長かったようで短い時間が過ぎた。すぐに看護師さんが様子を見に来たからだ。小山さんは泣きやんでいて、顔だけ布団に突っ伏していた。俺は彼女の手を握っていた。
「小山さん、俺が小山さんに連絡取ったのって、俺も似た境遇だったからだよね。それ、正解だよ」
返答はない。
「どういう意味?」
「それは一生閉じ込めておくつもりだった気持ちだ。汚い感情。みんなを苦しめる感情。けれど、今の小山さんに聞いて欲しかった。どうして俺だけ、なんて何度も思った。周りの奴らが羨ましくて、妬ましくて、ひどい時はひなさえ憎かった。うん。綺麗な心の自分を、優しい心の自分を作った。うん。本当は大学生やってみたかったんだ。うん」
握っていた手が、握られる手にいつの間にか変わっていた。陰キャの俺がこんなにすらすら話せるのが自分でも不思議だ。きっと自分の代わりに小山さんが泣いてくれたからだろう。
「小山さん、もう自由になろう。十分頑張ったんだ」
「私、でも」
「やってみないと分からないこともあるさ」
泣きはらした目をした小山さんは、少し驚いたように俺を見ていた。その時、自分が人の顔、ましてや小山さんの顔を見つめながら話していたことにようやく気づき、思わず目をそらしてしまった。
「杉本君って、そんなキャラだったっけ?」
「いや、あの、えっと、その、居酒屋には色々あるからさ」
「何それ?」
空気も読まず俺はドキドキしてしまった。それは月でも落ちたかのように屈託なく笑う、とても可愛い女性が俺の手を強く握っていたからだ。
小山さんの退院後、俺たちはカフェにいた。以前小山さんと一緒に来たカフェだ。違うところといえば、隣に座っていることと、会話がないことだ。俺は自分で言い出したこととはいえ、緊張していた。
「大丈夫、杉本君?」
「え、大丈夫だけど、大丈夫?」
俺がわけのわからない返事をしてしまったところで、彼女は来た。
「てか、なんで元店長までいるわけ?」
「私がついてきてもらったの。レミ、コーヒーでいい?」
「いらない。さっさと終わらせてサークル合流したいんだけど」
とんでもない雰囲気だ。レミという人間は元々こういう感じなんだろうか。そう思うと途端にひなに感謝したくなった。これからどんな雰囲気になろうと、これは小山姉妹の問題だ。俺は見届け人として口出しは厳禁だと改めて誓った。
「レミ、今までごめんね」
「はあ? 何が分かんないんだけど。何? お金くれなかったこと? そもそも貧乏なこと?」
「そうじゃない。今まで話し合ってこなかったこと」
「何それ?」
俺はレミの物言いに少し違和感を感じつつ、ひたすらにじっとしていた。小山さんは俺の方をちらっと見た。俺はこくんと頷いた。
「大学へは奨学金で行って。教科書は取り寄せたから。自分の使うお金は自分で稼いで。お母さんのことは、私がなんとかする。終わりにしたいの」
妹の方をじっと見て、小山さんは目の前に封筒を差し出した。それを見ることもなく、レミは窓の方へ目をやっていた。しかし空気は突然動いた。レミは表情を変えることもなく封筒を鞄にしまい、立ち上がった。
「レミ、それでも私はあなたのお-」
「ちょうど良かったわ。『助けてあげてます』みたいなの、うんざりだったんだよね。彼氏と話して家も出るから。これで十分でしょう。じゃあね」
振り返らず立ち去ろうとする姿。あの面談の日の姿と重なった。あの時は何も言えなかったけど、今、俺には言わないといけないことがあった。
「小山レミさん。まだ何かあんの? 元店長」
「あのさ、君、もしかして病院での話、聞いてたんじゃないのか?」
「え? ああ、俺が小山さんのお見舞いに行った日だ。帰る時、看護師さんに『妹さんは一緒じゃないのか』って言われたんだ。来てたんだよね」
「その時、話、何の話? 知らないんだけど」
相変わらず彼女は振り向かなかったが、拳をぎゅっと握りしめ、肩を震わせていた。
「レミ、レミ」
口出し厳禁を破って聞いてしまった。俺がまた姉妹の関係を崩してしまうかもしれない。ただ、どうしてもレミの雰囲気があの面談の時と違うように見えて仕方がなかった。見えなかった姉妹愛というのを、今は少し感じる気がしていた。
「杉本って、うざい奴ばっかじゃん。本当、もう会うか分かんないし、言っとく。今まで何にも知らなくて、ごめんなさい。ありがとう」
気がつくと、横にいたはずの小山さんは駆け出していた。振り返らず肩を震わせているたった1人の妹の元へ。大きな鞄ごと後ろから抱きしめた。
「いいんだよ。だって、お姉ちゃんだもん」
「お姉ちゃん、ごめん。ごめんね。私、恩返しするから。大学もちゃんと行って頑張るから」
「うん。うん」
意地でも振り返らず泣きじゃくるレミを見ていると、泣いた後布団に突っ伏していた小山さんを思い出した。きっとあれが本当のレミで、小山姉妹の形なんだろう。俺の口元は意図せず緩んでしまった。
「何笑ってんのよ、元店長」
「え、いつの間にか振り向いていた小山姉妹に驚いて、俺は椅子から転げ落ちそうになってしまった」
「杉本先輩に言っといてよ。平手打ち、結構効いたって。あと、次の首席は私が取るってさ」
自信満々な、くしゃっとした笑顔を向けて、レミは去っていった。一安心するかどうかは、これからの小山姉妹が決めることだ。そしてそれは、俺にとってもそうだろう。
俺と小山さんは向かい合わせに座り直し、言葉もほどほどに、窓から空を眺めていた。数ヶ月後、俺はエリアマネージャーに昇格した。ひなも早期卒業者として推薦を受けられそうだ。そして一番変わったことは、小山さんがうちの店で働き始めたことだ。クラブをやめて、今は専門学校に通っている。ネイリストになるのが夢だそうだ。
「私、仕事とプライベートはしっかり分けるので」
「なんでそう? 恥ずかしくないのか、不思議だよ」
彼女というのは、その、彼女という意味であって。俺と小山さんは、今、そういう関係だ。色々あったが、俺にとっては変わらない初恋の人。しっかり時期を見て気持ちを伝えるつもりだった。
少し時間が経ったとはいえ、その時のことは今思い出しても恥ずかしい。
「小山さん、笑っていてくれますか?」
「え、急に恥ずかしいな。こう?」
「ああ、間違えた。言葉が足らなすぎた」
しまった、しまったと頭が真っ白になってしまったが、俺を見つめる柔らかい笑顔を見た時、勝手に口が動いてしまっていた。
「俺の横で、ずっとです。あなたが好きです」
あの瀬川の告白を目の前で見ていた分、OKしてくれたことが俺は不思議でならなかった。作業を終え、俺は小山さんと店を出た。夜で暗いのが幸いだ。顔が赤くなっているのもバレないだろう。小山さんと付き合っているという事実にまだ慣れない。些細なことにどぎまぎしてしまう。
「杉本君ってば、聞いてる?」
「え、や、ごめん。な、何だっけ?」
「もう、私の名前の話、まだしてなかったよね」
「名前? レナ?」
「そっちじゃなくて、ひなの?」
そう、それは初めから気にはなっていた。偶然といえばそれまでだが、元同級生が妹とほぼ同じ名前を名乗っていたこと。瀬川ですら気にしていたくらいだ。俺は相変わらず下を向きながら聞いてみた。
「もしかして、ひなから取ったの? 違うかもだけど」
「それ、正解だよ。ひなちゃんから借りちゃったの。ごめんね」
「いや、別に。でも、なんで?」
「中学の卒業前だったね。『高校生になったら』ってお題で1人ずつ発表することになって、みんなめんどくさそうだったな。『勉強頑張る』『部活頑張る』そんなのばっかりの中、杉本君が言ったんだよ。『俺は妹のひなを幸せにします』って」
ああ、これもまた思い出すと恥ずかしい。俺はさらに下を向いてしまった。
「俺の発言の後、クラスの陰キャが急にそんなこと言い出したから、教室は冷やかしの盛り上がりを見せたんだったっけ。確か瀬川君が『なら幸せにしたひなちゃんと俺は結婚します』って言って和ませたんだよね」
「あいつのああいうところ、尊敬するよ。本当」
ふと、小山さんが立ち止まった。
「あの言葉に救われたの。あの時の私は、その後自分がどうなるかなんて夢にも思ってなかった。あ、そうか。その後、小山さんは父親を亡くしたんだもんな。不安と汚い気持ちでいっぱいになった。そんな時、いつも浮かぶのは、堂々と妹を幸せにするって言い切った杉本君だったんだよ。だからね、私も幸せになれるって思いを込めて、ひなのにしたの」
「そうだったんだ」
「うん。私の初恋は、なかったね」
一瞬思考が停止したが、鞄の中のスマホが震え続けていることに気づき、そっちを優先することにした。なぜだか汗が止まらない。そんな俺を、相変わらずの綺麗な笑顔で小山さんは見つめている。
「じゃ、着信すごいな。あ、どうしたの?」
「瀬川に、俺たちのこと言ってない。小山さんの店に行こうって」
「うわ、また電話かよ。どどどうしよう」
「私たちのこと、瀬川君によろしくね。よっ太君」
大切な人のために生きることだけが俺の人生だった。それで終わっていいと思っていた。それを否定するつもりはないけれど、少しだけ飛び出してみたら、ここには想像もしなかった世界があったんだ。俺にとっての大切なものはたくさん増えてしまったけれど、その中に自分自身もいることを忘れずに生きていこうと思う。きっとそれが、自分の気持ちに素直になるってことのはずだから。



