たった1枚の黄色い封筒が、8年間必死に守ってきた家族の形を、音もなく崩そうとしていた。66歳の私は、半額弁当を待ちながら、引きこもりの息子を養ってきた。区役所から届いた書類には、「世帯員全員の収入申告」とあった。40歳で8年間外に出られない息子を、どう申告すればいいのか。そして、私はついに役所の窓口で言った。「私がそばにいる限り、息子は救われない」。そう悟った私は、ある“決断”をしようとして…

たった1枚の黄色い封筒が、8年間必死に守ってきた家族の形を、音もなく崩そうとしていた。66歳の私は、半額弁当を待ちながら、引きこもりの息子を養ってきた。区役所から届いた書類には、「世帯員全員の収入申告」とあった。40歳で8年間外に出られない息子を、どう申告すればいいのか。そして、私はついに役所の窓口で言った。「私がそばにいる限り、息子は救われない」。そう悟った私は、ある“決断”をしようとして...

血が滲んだ指先で、それでも彼女は便器を磨き続けた。誰の目にも止まらない、使い捨てられた部屋の汚れ。それを黙って拭き取ることこそが、66歳の草壁より子にとって「生きるということ」の意味になっていた。

役所から届いた一枚の黄色い封筒が、彼女の人生を根底から揺さぶった。冷たい紙に書かれた数行の文字が、8年間、半額シールを集めながら息子を養ってきた母親に、過酷な決断を迫るのだった。

大阪・十三の団地からほど近いビジネスホテル。朝の空気がまだ眠っている時間に、より子は制服に着替え、勝手口からなじみの職場へと入っていく。駅前の看板は錆びつき、一泊3800円の宿だった。

2026年の夏は記録的な暑さだった。気象予報士が「命に関わる暑さ」という言葉を繰り返す夏。しかし、従業員用のエレベーターに冷房はなく、清掃用のカートを押しながら廊下を移動するたびに、背中に汗が張り付く。

代車の車輪がリノリウムの床を擦る音が響く。使い古されたカートには清掃スプレーと、たたんだタオル、新しいトイレットペーパーが積まれている。

手首に巻いた黒いプラスチックの時計は、午前9時12分を指していた。1部屋に与えられた時間は15分。前の担当者が辞めてから、割り当て部屋数は12部屋から14部屋に増えていた。休憩時間はほぼ消滅した。

より子が最初に訴えると、店長の田中は「まあ、慣れたらいけますよ」と笑って流した。清掃の仕事をしたことがない32歳の田中の言葉だった。

307号室のドアを開けると、前の客の残した湿気とタバコの匂いが顔にのしかかった。無言で窓を全開にし、シーツをはがし始める。

問題はトイレで起きた。洗剤を含んだスポンジを便器に押し込んだ瞬間、左手の中指の付け根のひび割れから、じわりと赤いものが滲んだ。

手の甲から指の第1関節にかけて、常にひび割れている。皮膚科の先生には「手湿疹だ」と言われたが、処方された軟膏は1本1800円で、1日3回塗ると1週間でなくなる。仕事が休みの日だけ塗るようにしているから、常に中途半端な状態だった。

痛みには慣れていた。慣れるしか選択肢がなかった。

指先を洗剤の液に浸したまま、もう一方の手で時計を確認する。9時19分。残り8分。便器、洗面台、床、鏡、補充、バスタオル交換、ベッドメイキング。頭の中でリストをたどりながら、体は機械のように動いていく。

鏡を拭いていると、ふと自分の顔が映った。茶色に染めた髪の生え際に、白いものが広がっている。1センチ以上は伸びているだろうか。美容院に最後に行ったのはいつだったか、もう思い出せない。

午前9時27分。307号室を出て、カートを次の部屋へ押し進める。車輪が床の継ぎ目に引っかかり、軽く蹴って動かす。

こうして午後5時まで、より子は廊下と部屋の間を往復し続けた。

夕方になると、従業員休憩室でベージュのポロシャツに着替える。襟元がうっすら黄ばんでいる。洗い方が悪いのではなく、何度洗っても落ちない汗の色だった。

スーパーの総菜コーナー。半額シールを貼る瞬間を待つ人々の中に、より子も立っていた。隣に初老の男性が来て、同じように待ち始める。

より子は視線を斜め下にずらした。近所の誰かに、半額弁当を待ち構えている自分を見られたくなかった。この店は、駅から一つ離れている。それもそのためだった。

店員が機械を手に取り、コーナーに近づいてくる。より子は半歩前に出た。サバの塩焼き弁当が2つ残っていた。420円が、半額の210円になる。

より子はその2つだけをエコバッグに入れた。他のものは見なかった。必要なもの以外を見ると、欲しくなる。欲しくなっても買えないことが分かっているなら、見ない方がいい。それが習慣になっていた。

自宅の団地は、昭和40年代に建てられた古い公営住宅だった。外壁はかつてクリーム色だったはずだが、今は雨染みとコケで斑模様になっている。

エントランスの自動ドアは、とっくに手動に切り替えられていた。重い鉄の扉を引くと、金属が擦れる音がする。

部屋は4階。今日はエレベーターが動いていたが、より子は迷わず階段を選んだ。エレベーターの中で誰かと鉢合わせたくなかった。

廊下に出ると、向かいの部屋から料理の匂いがした。誰かが夕飯の支度をしている。

より子は足音を立てないように歩いて、自分の部屋の鍵を開けた。玄関で靴を脱ぐ時も、音を立てないようにする。これは毎日の習慣だった。

廊下を挟んで、突き当たりに息子の部屋がある。元々は6畳の和室で、昔は客間として使っていた部屋だった。ドアの隙間という隙間に、黒いガムテープが貼られている。光が漏れないように、音が漏れないように。息子の草壁深夜が自分で張ったものだった。

深夜は今年で40歳になる。8年前、会社が「経営効率化」の名目でリストラを行い、深夜はその対象になった。入社して12年、ルーティンワークを黙々とこなしてきた深夜にとって、それは突然の出来事だった。

再就職活動を半年ほど続けたが、40歳に近い年齢と、長期間同じ職種しか経験のない経歴は、どこに出しても相手にされなかった。ある面接で、20代の面接官に「スキルの幅が狭すぎます」と言われた日から、深夜は部屋に引きこもった。

最初の1年は「いつか出てくるだろう」と思っていた。2年目は「もう少し待てば」と思っていた。8年が経った。

今日も、深夜の部屋の前に、お盆を置く。ドアを2回、指の関節でそっと叩く。廊下に、星座のような格好で待つ。3分ほど待つと、かすかな気配がして、ドアが5センチほど開く。日に当たらない白い手が伸びてきて、お盆を掴み、素早く引き込む。ドアが閉まる。

より子は、自分の分はご飯だけ皿に取り分け、サバの部分は明日のために残した。醤油を少し垂らした白米と、薄くなった麦茶。それがより子の夕食だった。

翌朝のこと。郵便受けの中に、黄色い封筒が入っていた。差出人は大阪市淀川区役所。

より子は、封筒を手に持ったまま、しばしば立ち止まった。役所からの封筒は、大抵いいことが書いていない。それだけは長年の経験で分かっていた。

仕事の後に開けた封筒の中には、エイオンの用紙が2枚折りになって入っていた。

「建物の老朽化が著しく、来年(2027年)4月をもって取り壊しが決定しました。現在居住している全世帯は、それまでに対応が必要です。区では、住み換えを希望する高齢者や低所得世帯のため、市営の新しい住宅への入居をあっせんします。ただし、申請にあたっては、世帯全員の住民票、所得証明書、及び現在の居住実態を確認する書類を提出すること、世帯員全員について、氏名、年齢、収入の状況を漏れなく申告することが条件となります」

より子は書類を持つ手が、かすかに震えているのに気がついた。世帯員全員。深夜のことだ。住民票は、この住所に同居している。収入はゼロだ。仕事についていない。外にも出ていない。それをどう説明するのか。

40歳の男が8年間一切働かずに、年老いた母親の稼ぎで生活している。その事実を、役所の窓口で書類として提出する。

夜、より子は封筒を持って廊下を歩いた。深夜の部屋のドアの前に立ち、ドアを2回叩いた。返事はない。もう一度、少し強く3回叩くと、室内で何かがうごめく気配がした。

「区役所から手紙が来た。引っ越しのことで、深夜にも関係があることだから、少し聞いてほしい」

声が少しかれた。すると、待ったよりも早く、ドアが内側から開かれた。8年で息子の姿は随分変わっていた。頬がこけ、目の下に隈ができている。髪は肩の辺りまで伸びていて、束ねてもいない。

深夜は、より子の顔を見なかった。封筒を受け取り、中から書類を引き出して読み始める。より子は待った。

深夜の手が止まった。「世帯員全員の深刻」と書いてある部分で。深夜の呼吸が変わった。鼻から息を吸う音が、急に早くなった。

より子が「大丈夫だから、一緒に行けばいい」と言おうとした、その時だった。深夜が書類を両手で掴み、1度、2度と手首を動かしたかと思うと、それを丸めるようにして、より子の顔に向かってぶつけた。

紙の塊がより子の胸の辺りに当たって、床に落ちた。同時に、深夜が声を上げた。言葉ではなかった。「うわあ」というような、押し殺したような、喉の奥から絞り出した声。動物が罠にかかった時に出すような音だった。

より子は後ずさった。ドアが閉まり、鍵がかかる音がした。

廊下に、より子一人が残された。床に落ちた紙を拾い上げると、埃だらけになっていた。

より子は壁に背中を預けながら、ゆっくりと膝をついて、その場に座り込んだ。涙が出た。音を立てずに出た。いつ覚えたのだろうか、隣の部屋に聞こえないように、下の階に聞こえないように、声を出さない泣き方をすることを。

封筒の中には申請の締め切り日が書かれていた。11月30日まで、あと4ヶ月あった。

翌日の昼休み、より子は田中店長に相談した。引っ越しの手続きで役所に行く必要があるので、来週の火曜日に1時間だけ相対させてもらえないか、と。

田中はシフト表から目を上げて「まあ、10時には戻ってきてくださいよ」と言った。それだけだった。

火曜日の朝、より子は淀川区役所へ向かった。住宅係の窓口で番号を呼ばれたのは、23分後だった。

担当として出てきたのは、「村瀬」という名札をつけた男だった。30代前半だろうか。白いカッターシャツの袖をきっちりまくり上げ、髪は短く整えている。顔の作りは悪くないが、どこかのっぺりしている印象だった。笑顔を作るのが習慣になりすぎていて、笑顔が顔の表面に張り付いたまま、中身と切り離されているように見えた。

より子が「住宅の移転申請について相談したい」と言うと、村瀬は書類に目を通しながら「はいはい」と軽く頷いた。

「こちらに同居されているご家族のお名前がありますね。草壁深夜さん、40歳。この方についても確認が必要になります」

より子はとっさに「息子は今仕事の都合で遠方に出ていまして」と嘘をついた。村瀬の笑顔は変わらなかった。

「そうですか。申請の際には、ご本人様に直接来ていただくか、それが難しい場合は、医療機関の診断書など、来所が困難であることを証明する書類をご用意いただく必要があります。本人確認ができない場合、世帯全体での申請として処理することができません。その場合、お一人でのお申し込みとなりますが、空き状況や優先度の関係で、案内できるお部屋が変わってまいります。また、期日までに書類が揃わなければ、今回のあっせん対象から外れることになります。自力で民間の賃貸を探していただくことになりますね」

「次の方どうぞ」と、村瀬はより子の後ろに向かって声をかけた。

区役所を出て、より子は外の光の中に立った。しばらく動けなかった。

深夜の診断書。深夜は病院に行っていない。精神科にも行っていない。より子が何度か受診を進めたが、深夜は首を横に振らなかった。病院に行けないから引きこもっているのか、引きこもっているから病院に行けないのか、より子には判断がつかなかった。

その日の午後、より子は清掃中にミスをした。312号室で、前の客が忘れた充電器に気づかず、そのまま部屋を出てしまったのだった。数分後に気づいて戻り、フロントに届けたが、田中は何も言わなかった。

翌週の火曜日。今度はロビーの花瓶を拭いている時に手が滑り、花瓶を床に落として割ってしまった。田中が事務所から出てきて、床のかけらを見て、より子を見た。

「最近、ちょっと集中力が落ちてますよね」と田中は言った。「先週の忘れ物の件もあったし」

「正直に言いますけど、うちも余裕がないんで。来月から週3にさせてください。体のこともあるだろうし」

より子は「分かりました」とだけ言った。週3になると、月収はおよそ4万5000円前後になる。家賃と光熱費を払えば、食費に当てられる金は1万円を切る。

帰り道、より子はコンビニに寄った。ガラスに映った自分の姿を一瞬見て、目をそらす。そして、履歴書の用紙を1枚買った。合わせて210円。レジで出した小銭が1枚足りなくて、100円玉をもう1枚出した。

夜、より子はテーブルに座って、履歴書の用紙を広げた。深夜に書いて欲しかったわけではない。書けるとも思っていなかった。ただ、何か手がかりになるものを渡したかった。

形のあるものを渡すことで、現実として伝わることもあるかもしれない。そんな根拠のない期待があった。

より子は、折りたたまれた求人情報誌を一緒に添えることにした。それだけで十分かもしれない。

夜が更けて、より子は深夜の部屋の前に、履歴書の用紙と求人情報誌を置いた。ドアをそっと叩いて、声をかけた。

「仕事のことで、相談したいことがある。役所の手続きのことで、困っていることがある。お母さん1人では、どうにもならなくなってきた」

「お母さんのことは気にしなくていいから。ただ1度だけでいいから、お医者さんに行くだけでいい。それだけでいい」

声が途中で詰まった。涙が出そうになったが、出す前に鼻で息を吸った。

室内は静かだった。しばらく待つと、ドアの向こうで何かが動く気配がした。それからすぐに、室内で何かが投げられる音。壁か床かに当たる鈍い音。

次の瞬間、床に置いていた履歴書用紙と求人情報誌が、ドアの下の隙間から外に押し出されてきた。ガムテープの切れ目をこじ開けたようで、テープの端が少し剥がれていた。

それだけだった。返事はなかった。

翌日、より子はいつもより1本早い電車に乗った。帰宅時にエントランスで、自治会の塚本と鉢合わせた。

塚本は72歳で、1つ上の部屋に住んでいる。ゴミ捨てのルールや分別について、他の住人よりも熱心に取り仕切っている。

「ちょうど良かった。ゴミ捨ての話だ。最近、指定曜日以外にゴミが出されることがある。深夜に誰かがこっそり捨てに来ているようで、管理組合に苦情が入っているんだ」

それから塚本は声をひそめて言った。

「4階の奥の部屋じゃないか、という話があってね。深夜に男の影が見えたという人もいてね。うちの棟はお年寄りだけだから、若い人が夜中に動いてたら目立つじゃないですか」

より子は腰を折った。

「申し訳ございません。私の方でよく確認いたします。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした」

塚本は「まあ、別に責めてるわけじゃないんだけどね」と言いながらも、その目はより子の顔をしっかり観察していた。

部屋に入って、鍵をかけて、廊下の壁に背中を持たせかけた。外から見られているという感覚が、肌に張りつくようだった。

深夜がいることを、知られてはいけない。でも、深夜は深夜にゴミを出している。自治会に目をつけられている。区役所では書類を要求された。シフトは減らされた。

どこから手をつければいいのか、分からなかった。

その夜、より子は一つの考えを頭の中で固め始めた。決して綺麗な考えではなかった。でも、他に道がなかった。

区役所に、自分は独居だと申告する。深夜は、別の場所に住んでいることにする。そうすれば、高齢者の独居世帯として、市営住宅への入居を申請できる。入居が決まってから、深夜を連れてきて一緒に住む。住民票の移動は、後から考える。

自分でも、それが正しくないことは分かっていた。でも、正しいかどうかを考えていたら、3月には路頭に迷う。

2日後、より子は実行に移すことにした。まず、深夜がここで暮らしているという証拠になりかねないものを、部屋から排除する必要があった。

男性の靴が玄関にある。男性の傘がドアの脇に立てかけてある。それだけで、十分すぎるほどの痕跡だった。

より子は深夜に断りを入れて、玄関から深夜の靴と傘を取り出し、黒いゴミ袋に入れた。くたびれた白いスニーカー。ゴムの部分が黄ばんでいた。黒い折りたたみ傘は、骨が1本曲がっていた。

袋は押入れの中に入れ、午前3時を回ったら出しに行くと決めた。

その夜、より子は日付が変わっても眠れなかった。午前2時15分になった時、布団から出た。音を立てないように押入れから袋を取り出し、スリッパをつっかけてドアを開けた。

1階のゴミ捨て場にたどり着いた。他のゴミ袋の後ろに、黒い袋を押し込んだ。上から新聞紙を乗せて、見えなくした。

2日後の燃えないゴミの日、より子はゴミ捨て場に行って、自分の袋が収集車に持って行かれるのを確認した。靴と傘が、この世界から消えた。

区役所には、翌週の金曜日に再び行った。今度は、村瀬ではない、小柄な女性が担当だった。名札には「西岡」とあった。

より子は、先日来た際に息子の書類が揃っていないと言われたと説明した。そして、息子は数ヶ月前から別の市に仕事の都合で移っており、住民票はまだ移してもらっていないが、実態としては自分1人で暮らしているのだと話した。声が少し震えた。

西岡は「住民票では同居となっていますが」と言った。

「実態と異なる場合は、住民票の移動手続きをしていただく必要があります。息子さん本人から転出届けを出してもらうか、こちら側で職権移動の手続きを取ることもできますが、そのためにはいくつか確認が必要です」

「職権移動」という言葉が、より子の耳に刺さった。

「住民票の実態を調査した上で、実際にその住所に居住していないと確認できた場合に、行政側から住民票を移す手続きです。調査が入ることになりますので、ご自宅に担当者が確認に来ることになります」

より子の胃が収縮するような感覚があった。

「いえ、それは大丈夫です。息子は遠くにいるので、本人から手続きをするように言います」

そう言って、頭を下げた。

月曜日の朝。より子がベランダで洗濯物を干していると、1階の方から声が聞こえた。下を見ると、水色のジャンパーを着た人間がバインダーを持って、団地のエントランスの前に立っていた。隣には塚本がいた。水色のジャンパーには、「福祉事務所」と小さく印刷されていた。

塚本が手で4階の方向を指した。より子の手から、洗濯バサミが落ちた。

より子はすぐに室内に入り、ベランダの雨戸を閉めた。そして、深夜の部屋のドアの前に立った。

「深夜、役所の人が来るかもしれない。しばらく静かにしていてほしい。何があっても、声を出さないで欲しい」

室内が、少し動いた気配があった。

より子はドアに手を当てた。開いた。深夜は鍵をかけていなかった。部屋の中に入るのは、8年ぶりに近かった。

カーテンが締め切られ、薄暗い。6畳の和室だったが、床にはダンボールと衣類と雑誌が積み上がっていて、歩ける場所が限られていた。押入れの前に布団が敷きっぱなしになっていた。

深夜は布団の端に座っていた。より子の顔を見た瞬間、その目が大きく開いた。驚きと怯えが入り混じった表情だった。

より子は両手を前に出して、「怒っていない。大丈夫だ」ということを示した。言葉より先に、身体で示した。

「静かにして欲しい。役所の人が来るかもしれない。お母さんが外で対応するから、中にいてくれるだけでいい」

深夜の目が泳いだ。呼吸が少し荒くなった。それでも、深夜は何も言わずに、また座った。より子はドアを静かに閉めた。

その時、玄関のチャイムが鳴った。

より子は数秒その場で息を止めた。チャイムがもう1度鳴る。より子は玄関に向かい、ドアスコープから外を見た。水色のジャンパーの人間が立っていた。30代に見えた。より子は声を出す。少し声を震わせながら。

「どちら様ですか」

「淀川区福祉事務所の者です。住宅移転に伴う、居住実態の確認で伺いました」

「申し訳ありません。今日は体調が優れなくて、服もちゃんと来ておらず…。1人暮らしですので、ご心配をおかけして申し訳ないのですが。書類は、ご連絡いただければ郵便で送ることもできますでしょうか。体が回復しましたら、必ず窓口に伺います」

外の人間が、バインダーに何か書く音がした。

「では、ポストにご案内の書類を入れておきます。またご連絡ください」

足音が廊下を離れていった。エレベーターのドアが閉まる音がするまで、より子はドアから離れなかった。

静かになった。より子はドアを背に、ずるずると座り込んだ。

深夜の部屋から、布団が擦れる音がした。より子は動かなかった。肩が小刻みに揺れた。声は出さなかった。今日も声は出せなかった。

しばらくしてより子は立ち上がり、台所に行って水を飲んだ。それから、夜の夕食の支度を始めた。冷蔵庫にキャベツの残りと卵が2個ある。卵を1個使えば、もう1個は明日の朝のために取っておける。

キャベツを千切りにして、フライパンで炒める。深夜の分を先に多い方に取り分け、お盆に乗せて廊下に置いた。2回ノックして待つ。ドアが少し開き、白い手が出てきて、お盆を引いた。

今日、深夜が部屋の中で静かにしていてくれたこと。より子はそれにどう感謝すればいいか分からなかった。言葉にすれば、何かが崩れる気がした。

その週の金曜日、より子は再び区役所に向かっていた。福祉事務所の職員が置いていった書類は読んだが、どう動けばいいか分からないままだった。締め切りだけが近づいている。

今日の担当は、また村瀬だった。より子は意を決して話し始めた。

「息子のことを話したい」

「息子は40歳で、8年間外に出ていない。先週、ようやく一緒に駅まで行ったが、コンコースに入った瞬間に動けなくなった。病院には行けていない。これは私がどう頑張っても変えられないことだと思っています」

村瀬が何かを言いかけ、口を開く。より子は少し手を上げて続けた。

「私がそばにいる限り、息子は制度の対象にならないと聞きました。扶養義務があるから。だから、私は今日、この場で息子を自分の扶養から外す手続きを教えてほしい。私が別の住所に移ることで、息子が独居の無入者として福祉の対象になる方法があるなら、その方法を知りたい」

村瀬の手が止まった。キーボードを打つ手が止まり、画面から目を上げて、より子を見た。今度は、笑顔がなかった。

村瀬は少しの間より子の顔を見ていた。それから「少々お待ちください」と言って、奥に引っ込んだ。

5分ほどして、年配の女性職員と一緒に戻ってきた。名札には「西田」とあった。50代に見える。眼鏡をかけていて、村瀬より少しだけ目に表情があった。

西田はより子の向かいに座って、「詳しく聞かせていただけますか」と言った。

より子は話した。8年間のことを、順を追って話した。深夜がリストラされたこと、引きこもるようになったこと、病院に行けないこと、先月仕事を失ったこと、電気代の督促が来ていること、今月の家賃が払えるかどうか分からないこと。

話しながら、声が揺れた。揺れたが、止まらなかった。西田は途中でメモを取り始めた。村瀬は隣でそれを見ていた。

話し終えた時、より子は右手の親指が左の手のひをこすっていることに気がついた。

西田は、より子に向かって少し前のめりになって言った。

「今すぐここで結論が出ることはないですが、息子さんの状況は、支援の対象になり得ると思います。ただ、お母さんが完全に住所を移す前に、福祉事務所と連携して、息子さんの状態を確認する手順を踏む必要があります。それを飛ばしてしまうと、息子さんが1人になった時点で、何も支援がない状態になってしまうので」

「お母さんが、今日すぐにどこかに行ってしまうつもりなら、少し待ってほしい。連絡を取って、来週には福祉事務所の担当者を息子さんの元に向かわせる手配ができるかもしれない。それまでの間、息子さんのそばにいてあげられるか」

より子は少し黙った。今日、出ていくつもりでいた。この言葉は、より子が1人で8年間考え続けてきたことへの、初めての応答だった。

「わかりました。来週まで待ちます」

西田は連絡先を聞いて書き止め、担当者の名前と福祉事務所の電話番号が書かれた紙をより子に渡した。「何かあれば、すぐに電話してください」と言って。

区役所を出て、より子は日陰を選んで歩いた。帰り道、商店街の入り口の前で立ち止まった。今日、出ていくつもりだった。深夜に封筒を置いて、声もかけずに出ていくつもりだった。

でも、今夜はまだ帰る。もう1週間だけ。

1週間後、本当に出られるかどうかより子には分からなかった。でも、今日より少しだけ、手順が整った状態で出られるかもしれないとは思った。

家に帰ると、より子は朝に置いておいた封筒を手に取り、ガムテープの切れ目から、ドアの下に差し込んだ。少し押すと入った。ドアを2回ノックした。返事はなかった。

それから1週間が経った。その1週間、より子と深夜の生活は、表面上は変わらなかった。弁当か自炊のものをお盆に乗せて廊下に置く。2回ノックする。白い手が出てきて引く。ドアが閉まる。

変わったのは、より子が毎朝、西田から渡された紙を財布から出して確認するようになったことだった。

木曜日の午後、福祉事務所から電話がかかってきた。担当は「中川」という男性だった。声は落ち着いていて、早口でもなかった。

「状況を確認したいこと。来週の月曜日に、息子さんの様子を見に伺いたいこと。その際には、事前に連絡を入れること」

より子は、1つだけ聞いた。

「息子がドアを開けなかった場合は、どうなるか」

中川は少し間を置いてから答えた。

「すぐに何かが決まるわけではないですが、それも状況の一部として記録に残ります。継続して関わっていくことができる、ということです」

「継続して関わっていく」。その言葉が、より子の中で少しだけ引っかかった。8年間より子1人で関わり続けてきたことを、他の誰かが引き継いでくれるかもしれない。そういう意味だった。

月曜日、中川は午後2時に来た。紺色のジャケットを着た40代の男で、名刺をより子に渡した。

より子は深夜の部屋のドアの前まで行き、ドアをノックした。そして、言った。

「深夜。今日、役所の人が来ている。怖くない。顔を見るだけでいい。何も話さなくていい。ドアを少しだけ開けてくれるだけでいい」

室内が静かになった。中川は何も言わなかった。より子の隣に立って、ドアを見ていた。

3分ほど、誰も動かなかった。それから、室内で音がした。布団が擦れる音。立ち上がる音。ドアの内側から、鍵が動く音。ドアが、5センチほど開いた。

隙間から、深夜の目が見えた。充血した目だった。より子の顔を見てから、中川の顔を見た。中川を見た瞬間、目が少し細くなった。怯えていた。

中川は動かなかった。声も出さなかった。ただ、目を合わせて、軽く頭を下げた。ドアが、また閉まった。それだけだった。

廊下に、3人分の沈黙があった。

中川は小さな声で、より子に言った。

「確認できました」

それから今後の手順について、今に移動して説明した。精神科の訪問診療を手配すること。定期的に担当者が状況確認に来ること。より子の挙も、息子さんへの支援は継続すること。住まいの件は、より子が動いた後の状況を見て判断すること。

中川が帰ってから、より子は押入れからバッグを出した。あの朝から、そのままになっていたバッグだ。中身を確認する。下着と着替えと財布と目薬と軟膏。それだけ入っていた。1週間前と変わらない荷物だったが、今日のより子には少しだけ違って見えた。

出ていくことが、深夜を見捨てることではなく。深夜のための手順の1つだと。今日初めて、誰かに言葉として確認してもらえた気がした。

それが正しいかどうか、より子はまだ分からなかった。でも、1人で考え続けてきたことが、ようやく他の誰かとつながった。

より子はバッグを押入れに戻した。今夜は、もう少しここにいる。

その夜遅く、より子は夜行バスの予約を確認した。愛媛県の農場から連絡が来ていた。みかんの選別作業の季節労働で、食事と宿舎がついている。7月末から10月末まで。時給は低くないが、それより「住む場所がある」ということが、今のより子には意味があった。

来週の土曜日の夜行バスに乗る。それが決まっていた。

土曜日の夜まで、あと6日ある。6日間、より子はいつもと同じことをした。弁当を置いた。味噌汁を作った。電気代の分割を確認した。

金曜日の夜。より子は最後の夕食を作った。冷蔵庫に残っていたものを全部使った。卵、豆腐、キュウリ、缶詰のサバ。全部出して、それぞれに火を通した。

深夜の分を大きなお盆に乗せた。いつもより品数が多かった。廊下に置いて、2回ノックした。待った。ドアが開いた。白い手が出てきた。

お盆を一度見て、それから引いた。ドアが閉まる前に、より子は言った。

「明日、お母さんはしばらく遠くに行く。封筒に書いた番号に電話すれば、助けてくれる人が来る。深夜のことが心配じゃないわけじゃない。でも、信じている」

最後の一言が、声にならなかった。ドアが閉まった。

廊下に、より子1人が残された。右手の親指が、左の手のひをこすっていた。いつの間にか、また始まっていた。より子は、その手を静かに止めた。

土曜日の朝、より子は4時に起きた。バッグを持って台所に立ち、お茶を沸かして1杯だけ飲んだ。深夜の分の食パンを廊下に置いた。ノックはしなかった。

玄関で靴を履いた。鍵を持った。ドアを開けた。

廊下に出た。朝の4時の廊下は暗かった。豆電球だけがついていた。より子は振り返らなかった。階段を降りた。1段ずつ、音を立てないように。3階から4階の電球は、まだ切れたままだった。

1階のエントランスに出た。より子は自分の郵便受けの前で立ち止まった。鍵を出して開けると、中に1枚の紙が入っていた。薄暗い中でそれを引き出すと、中川からの書類だった。訪問診療の日程と、福祉事務所の今後の連絡予定が書いてあった。より子はそれをバッグの外ポケットに入れた。

エントランスの重い鉄の扉を開けた。外に出た。7月の夜明け前の空気は、梅雨が開けてから乾いていた。遠くで電車の音がした。始発が動き始める時間だった。

より子は団地を振り返らなかった。バス停まで徒歩で20分ほどある。より子は歩き始めた。商店街はまだ眠っていた。シャッターが降りていた。コンビニの明かりだけがついていた。より子はその前を通り過ぎた。

バス停に着いた時、すでに数人が並んでいた。より子は列の後ろに並んだ。バッグを足元に置いた。時計を見た。4時42分。夜行バスは時間通りに来た。乗り込んで、窓側の席に座った。

より子は窓の外を見ていた。深夜のことを考えた。今頃、廊下の食パンに気づいているだろうか? それとも、まだ眠っているだろうか? 封筒の紙を読んだだろうか?

分からなかった。でも、中川の連絡先が書いてある。訪問診療の日程が決まっている。深夜の部屋に、人間が来る日が、カレンダーの上では存在している。それだけが、今のより子に確認できることだった。

目の奥が熱くなった。涙が出た。音を立てないように出た。これは、いつも通りだった。より子の涙は、いつも音がなかった。

右手の親指がまた左の手のひに当たりそうになって、より子はそれを途中で止めた。手を重ねて、膝の上に置いた。

バスが高速道路を走り続けた。大阪の光が遠くなった。より子は目を閉じた。眠れるかどうか分からなかった。でも、今夜は目を閉じることができた。

オレンジ色の街灯が、まぶたの向こうに残像として流れていった。バスは西へ、夜の高速を走り続けた。

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