見合いの席で、20年ぶりに再会した相手が、痩せ細ったあの夏の恩人だった。彼女は私を見て「人違いでした」と嘘をつき、私は「病院で働いています」とだけ言った。お互い、一番大事なことを隠したまま、お茶を飲んでいた。彼女が薬のシートを落として、必死に拾う姿を見て、私は医者の直感が止まらなくなった。あの時、私が「いつからですか?」と聞いたら、彼女は初めて強い声で言ったんです。「私のことはもういいんです…

見合いの席で、20年ぶりに再会した相手が、痩せ細ったあの夏の恩人だった。彼女は私を見て「人違いでした」と嘘をつき、私は「病院で働いています」とだけ言った。お互い、一番大事なことを隠したまま、お茶を飲んでいた。彼女が薬のシートを落として、必死に拾う姿を見て、私は医者の直感が止まらなくなった。あの時、私が「いつからですか?」と聞いたら、彼女は初めて強い声で言ったんです。「私のことはもういいんです...

秋の午後、見合いの席で襖が開いた。中井さんに続いて入ってきた女性が、俺の顔を見たまま動かなくなった。痩せ細ったその顔を、俺は知っていた。20年前の夏、腹を空かせて商店街をうろついていた俺に、毎朝パンを差し出してくれた女の子の顔だった。

「人違いでした」
彼女はそう言って、無理に笑った。俺も医者だということを隠すために、わざと古いスーツを着て、名刺も持たずにこの席に来ていた。断るつもりだったのだ。だが、20年前に俺を生かしてくれた人が、痩せ細って目の前に座っている。この見合いが、人の人生ごと引き受ける覚悟を迫ることになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。

俺は神谷直、34歳。東成医療センターの脳神経外科医だ。頭を開ける手術を専門にしていて、病院では少しばかり名前が知られている。親はいない。兄弟もいない。10歳の時に両親を事故で失い、引き取られた叔父の家からは、中学2年の夏に締め出された。3ヶ月ほど、昼の間は家に入れず、夜は庭の物置きで過ごした。あの頃、俺を生かしたものが2つある。商店街の水飲み場と、あの子のパンだ。

毎朝8時前、公園のベンチに座っていると、同じ中学の制服を着た女の子が紙ナプキンに包んだパンを持ってきた。最初は断った。受け取ったら、施しを受ける人間だと認めることになる気がした。彼女は困った顔をして、パンを真ん中からゆっくり2つに割った。

「半分なら私も食べられるでしょ」

俺はその半分を受け取った。気がついたら涙が出ていた。彼女は何も言わず、俺が食べ終わるまで隣で空を見ていた。10月の終わり、俺の生活は突然変わった。家庭訪問だと言って、学校の先生と市の職員と民生委員の人が来て、俺は一時保護され、養護施設に入った。あの子に何も言えないまま、俺は町を離れた。連絡の取りようもなかった。

施設で高校を卒業し、国立の医学部に入った。学費は免除され、奨学金と家庭教師のアルバイトで6年間を過ごした。医者になったのは、自分が生きていい人間かどうか分からなかったからだ。医者という仕事は、目の前の誰かが「あなたが必要だ」と言ってくれる仕事。それが欲しかったのだと思う。施設にいた頃、毎年一通、差出人の名前がない年賀状が届いた。「今年も元気でいますように。しっかり食べていますか?」という短い文。誰からのものか、ずっと分からなかった。5年前を最後に、パタリと来なくなった。

見合いの日、彼女は自分のことを「杉浦はな」と名乗った。俺はその名前を知っていた。胸の奥で心臓が跳ねた。彼女は、落とした茶碗の器を持ち上げられなかった。左手がうまく動かないのだ。痛み止めの薬のシートには、鉛筆で飲んだ日付が書いてあった。いつからですか、と聞くと、彼女は「私のことはもういいんです」と、強い声で言った。俺は、その言葉の出方を知っていた。病院で何度も聞いてきた、自分のことを話す番になると急に扉を閉める人の声だった。

彼女は帰っていった。断るための見合いで、断られたのだから、これで終わりのはずだった。だが、俺の足は家に向かわなかった。20年ぶりに、あの町の駅に降りた。商店街の真ん中に、あのパン屋があった。宮下ベーカリー。営業時間は朝7時から午後3時までと書いてある。次の水曜、俺は休みを取って、その店に行った。カランと鈴が鳴った。焼き上がったばかりの、バターと小麦と少し焦げた砂糖の匂い。20年前と同じ匂いだった。

「パンを買いに来ました。病院の売店のパンに飽きたので」
彼女は、小さく吹き出した。

それから俺は、週に1、2度、その店に通った。彼女は高校1年の春からこの店で働き、もう19年になるという。弟が大学生で、学費を払っているとも言った。ある日、店の奥で彼女が生地をこねているのを見た。右手は迷いがない。だが、左手で生地を丸める時、指がうまく動かず、5回に1回くらい手を止めていた。彼女は「春くらいから」と言った。朝が一番ひどい頭痛。左足がつまづくこともあるらしい。俺は医者の目で、確信に近いものを感じていた。これは、ただの疲れではない。

11月の夜、駅で彼女を見かけた。私服で、大きなバッグを下げている。「これから用があって」。隣の市まで行くと、彼女はオフィスビルの裏口に入っていった。清掃の仕事だった。夜の9時から1時まで。その日、俺は駅前のファミリーレストランで4時間待った。彼女は出てきて、初めて怒った顔をした。

「待ってたんですか?」
「はい。話がしたかったからです」

夜の駅前のベンチで、彼女は自分のことを話し始めた。父が3年前に倒れたこと。脳梗塞で、右半身に麻痺と言葉を失ったこと。労災も出ず、介護は全部自分がやっていること。朝3時半に起き、パン屋に行き、10時に一度家に戻って父の様子を見る。3時に店を閉めて夕飯を作り、9時にビルの清掃に行く。それで寝るのは1時半。弟の学費のために、200万の借金もある。

「私が倒れたら、うち終わるんです。だから行くんです」
「倒れる前に行けば、終わらずに済むんです」

彼女は首を振った。「神谷さんにも、お金がないでしょ。私にかまってる場合じゃないです」。俺は何も言えなかった。俺は自分の職業を隠していた。その嘘が、今そのまま返ってきていた。彼女は最後にこう言った。「私、20年前のあなたのこと、ずっと覚えてました。こんな姿、あなたにだけは見られたくなかった」。

その夜、俺は机の引き出しから年賀状を取り出した。15枚、畳に並べた。丸い字で、所々力が強くなる癖。彼女の母親が亡くなったのは、年賀状が来なくなったのと同時期だった。あの日の雨のことを思い出していた。傘も持たずにビショ濡れで走ってきた彼女が、パンを半分に割って言った言葉を。「食べて。明日も学校に来て」。

12月16日、俺は彼女を病院に連れて行くつもりで店に行った。彼女の笑い方が、左だけ遅れていた。次の瞬間、彼女の左腕が跳ね、そのまま床に倒れた。全身が硬直し、痙攣していた。俺は救急車を呼び、自分の病院に搬送した。CTの画像を前に、大峰部長が言った。「典型的だな。髄膜腫だ」。右の頭頂葉、頭の頂点に近いところに、直径5cmを超える塊があった。左手を動かす場所を押している。場所が悪い。だが、彼女が目を覚ましたのは、夜の8時過ぎだった。俺は白衣を着て、名札をつけていた。彼女はそれを見て、長い間黙っていた。

「お医者さんだったんですか」

なんで言えなかったのか。怖かったからだと、俺は言った。職業を告げた瞬間に、相手の目が変わるのを何度も見てきた。特にあなたには、知られたくなかった。20年前にパンをくれた相手は、腹を空かせた汚い中学生だった。そのままの俺で、あなたの前に座っていたかった。彼女は泣きながら言った。「私、あなたのこと心配してました」。俺は彼女の左手を両手で包んだ。「今度は俺が返す番です」。

手術の説明の日、大峰先生は「全部取れば再発の心配はないが、左手に麻痺が残る危険がある」と告げた。彼女は静かに笑った。「すみません。手術はしません」。父の世話ができない、店を2週間も閉められない。彼女は、自分の体を自分のものだと思っていない人間だった。大峰先生は俺に言った。「お前はメスを持つな。お前は迷わないから、難しい手術を任されてきたんだ。その手が止まる相手を、手術台に乗せるな」。

俺は言い返せなかった。だが、その夜、俺は彼女の家に行った。古いアパートで、弟の誠君と、言葉を失った父親に会った。壁には、手書きのメモが貼ってあった。朝の薬、血圧を測る時間、リハビリの日。献立表まで、全部柔らかいものだ。この家は、1人の人間の頭の中で回っていた。俺は、介護保険の申請ができること、障害年金のこと、医療ソーシャルワーカーがいることを説明した。誠君は「知らなかった」と、何度も言った。帰り際、父親が左手でノートに字を書いた。大きな字で、「春(はな)飯食ったか」。それから、「頼む」。俺は畳に手をついた。「お預かりします」。

12月20日、彼女は病室で、母親の遺品の段ボールを開けていた。中には、家計簿が5冊。母親の字は丸くて、所々力が強い。俺の机の中にある年賀状と、同じ字だった。彼女はページをめくる。7月の終わり。「はなが朝ごはん1つ持って出る。3日続き。困った顔をして紙に包んでいる。誰かにあげているらしい」。8月の半ばには、「私の昼ごはんしばらくなし」。そして、10月18日。

「田村さんに相談する。よその家のことだからとずっと迷っていた。でもこれから寒くなる」
「はなのことで相談。はなの名は出さない。あの子が困るから」
「子供のことは子供に頼むべきじゃない。大人がやること」

彼女は顔をあげた。「神谷さん、あなたあの時……」。俺は、担任の先生が気づいてくれたのだと思っていた。違った。役所に俺のことを届けてくれたのは、彼女の母親だった。その日の夕方、俺は15枚の年賀状を病室に持っていった。彼女は家計簿と並べて、比べるまでもなかった。「お母さんだ」。彼女は声をあげて泣いた。最後の1枚は5年前の正月。「無理をしないように」。その年の春に、彼女の母は死んだ。

翌日、宮下ベーカリーの大将に全てを話した。大将は、久子さん(彼女の母)の写真を見せて言った。「あの人はな、うちのパートで一番残り物を持って帰る人だった。持って帰るくせに、自分は食わんのよ。近所の子に配るんだ。あそこの家の子は今日ご飯がないだろうって」。大将は俺を見た。「あんたのことも、多分それだよ。うちの店の前に、毎日立ってた痩せた男の子がいた。匂いだけ嗅いで帰るんだ」。そして、久子さんの口癖を教えてくれた。「半分なら私も食べられるでしょ」。あの夏、公園で俺にパンをくれた14歳の女の子は、母親の言葉をそのまま使っていた。善意というのは、そういう形で伝わるものらしい。

12月22日の朝、彼女は手術を受けると言った。理由を聞くと、「母に怒られる気がしたので」と答えた。手術の日は1月8日。それまでの2週間で、志村さん(医療ソーシャルワーカー)は父の介護保険の申請を出し、短期入所の枠を確保した。誠君は大学の窓口に行き、返さなくていい奨学金の話を聞いてきた。手術の方針は、全部取ることを目指すが、左手の反応が落ちたら残す、というものだった。そして、手術の執刀を任せてほしいと彼女が望んだのだ。大峰先生は俺に言った。「迷ったら、言え。それが言えるなら任せる」。

1月7日の夜、彼女は病室から消えた。1階の外来ロビーに、コートを着て荷物をまとめた紙袋を持って立っていた。「助けてもらうのが怖いんです。返せないのに、取るのが一番怖いんです」。俺は言った。「返さなくていいです。20年前、あなたが俺にくれたパンは、返して欲しくてくれたものですか?」。「生きてください。俺が受け取りたいのは、それだけです」。

1月8日、午前8時30分、手術開始。髄膜腫は脳に食い込んでいた。左手の反応が落ち始めた。大峰先生が聞いた。「迷ってるか?」。「迷っています」。俺は言った。「残します。この人の左手は、この人の仕事です。手は一度失くしたら戻りません」。手術が終わったのは、10時間10分後だった。目を覚ました彼女に、「左手を握ってください」と言うと、握れた。俺はマスクの下で息を吐いた。次は、あなたの明日をつなぐ番だ。

入院10日目、誠君が父親を連れてきた。父は左手を上げて、自分の口を指し、腹を指した。彼女は泣きながら言った。「私、ずっとお父さんの世話をしてるつもりだったの。でも違ったんだね。お父さんも、ずっと私のこと心配してくれてたんだね」。退院の前日、俺は彼女に言った。「これからの毎日を、俺と半分にしてもらえませんか。俺が助ける側で、あなたが助けられる側だという話じゃない。20年前にあなたから半分もらった。これは返してるんじゃなくて、そのまま続けたいだけです」。彼女は泣きながら言った。「半分なら、私も受け取れます」。

それから4ヶ月が過ぎた。彼女は3月に店に戻り、4月からパンをこね始めた。父はデイサービスに通い、先月、初めて「あー」という声を出すことができた。誠君は給付型の奨学金が通り、3年生になった。5月の連休、俺たちはあの公園のベンチの前を通った。そして、店で、彼女はいつものようにメロンパンを真ん中から割った。「半分したら、増えるので」。来月、俺たちは市役所に行くことになっている。

20年前のあの夏、俺は自分が生きていい人間だと思えなかった。そんな俺の前に、14歳の女の子がパンを持って立った。彼女は俺に施しをしたのではない。半分に割って、自分も一緒に食べた。その割り方は、彼女が知らないうちに母親から受け継いでいた。その母親は自分の昼飯を抜き、知らないところで俺を助ける大人を呼んでくれた。俺はそれを知らずに、あの半分に生かされて医者になった。俺が本当に取り除きたかったのは、多分、髄膜腫ではない。この人が20年ずっと持っていた「頼ってはいけない」という思い込みの方だ。あれは髄膜腫と同じで、ゆっくり大きくなって、本人が気づかないうちに人を押し潰す。今の彼女は、怖い時に怖いと言う。疲れた時に座る。俺に半分を渡してくる。それを見るたびに思う。あの日彼女がくれた半分のパンは、俺の命をつないだ。20年後に俺が救ったのは、彼女の命だけではなかった。誰かに頼ってもいいのだという、彼女の心の方だった。

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