「お前、清掃員だろ? 三流ブランドのスーツなんか着て偉そうに」 同窓会で十年ぶりに再会した男・桐生正解は、俺を見下すようにそう嘲笑った。彼の隣には、かつて俺を捨てた元彼女がりんとした顔で立っている。だが、その嘲笑は長くは続かなかった。会場に現れた一人の女性が、全てをひっくり返したのだ。 「彼にそんな態度を取るなんて、首になる覚悟があるってことなのかな」…

「お前、清掃員だろ? 三流ブランドのスーツなんか着て偉そうに」 同窓会で十年ぶりに再会した男・桐生正解は、俺を見下すようにそう嘲笑った。彼の隣には、かつて俺を捨てた元彼女がりんとした顔で立っている。だが、その嘲笑は長くは続かなかった。会場に現れた一人の女性が、全てをひっくり返したのだ。 「彼にそんな態度を取るなんて、首になる覚悟があるってことなのかな」...

桜航空の社員だと胸を張る男、桐生正解が同窓会で声を張り上げた。高校時代からずっと同じだった。彼の視線には、今も昔も変わらない軽蔑の色が浮かんでいた。

「それに比べてお前はどうよ? 貧乏人はコンビニのバイトかな?」

周りに聞こえるように、わざと大きな声で言う。その横には、かつて俺と付き合っていた琥珀の姿があった。彼女もまた、冷たい目で俺を見下ろしていた。

「ねえ、失礼だって。東田君、高校の時は成績トップだったけど、お金なくて大学に行けないんじゃ、いい会社なんて行けないよね。家柄も実力のうちってことかしら」

琥珀は正解の腕に自分の手を絡ませながら、哀れむように俺を見た。

その時だった。会場の扉が大きく開かれ、時が止まったかのような静寂が訪れる。現れたのは一人の女性。桃色のワンピースに身を包んだその姿は、まるでファッション誌から抜け出してきたかのようだった。空気が一瞬にして変わった。

「あら、面白そうなお話ね」

凛とした声が会場に響き渡る。彼女は正解を上から下まで見渡し、退屈そうな表情を浮かべた。

「彼にそんな態度を取るなんて、首になる覚悟があるってことなのかな」

その一言で、正解の顔から血の気が引いていく。彼女は桜航空の社長令嬢、藤井千鶴だった。

俺は東田シンジ。母子家庭で育ち、病気がちの母を支えるために高校時代から清掃員のアルバイトをして授業料を自分で払っていた。成績はいつもクラスの上位だったが、そんな努力も正解にとっては笑いのネタでしかなかった。そして当時付き合っていた琥珀も、大学に行けない俺を見限って正解のもとへと去っていった。

あれから十年。俺は桜航空の本社、経営企画部で働いている。千鶴との婚約も内々に決まっていた。だがそれを表に出すつもりはなかったし、彼女がわざわざ同窓会に現れるとは思ってもみなかった。

「ちょ、ちょっと待ってください。あなたが東田を知ってるんですか?」

正解が困惑した表情で俺を指さした。

「ええ、もちろん。だって経営企画部のエース社員だもの。先日のアジア路線再編プロジェクトも、シンジさんが中心になって進めてくれたじゃない」

千鶴は当然のように答える。場の空気が一瞬で凍りついた。

「嘘だろ。東田が桜航空の本社で?」

正解は信じられないという表情を浮かべた。千鶴は首をかしげる。

「高知支社? おかしいな。先週も高知支社の全体会議に出席したんだけど、苗字が同じ人はいるけど」

正解の顔がみるみる青ざめていく。千鶴は柔らかな微笑みを浮かべながら、次々と質問を始めた。

「高知支社の支社長は誰?」
「武田弘志支社長です」
「新規就航する高知から那覇の初便の日付は?」
「来月15日です。午前10時45分発のAZ521便になります」
「車内システムの大規模アップデートの日程は?」
「今月25日の深夜2時から、約6時間のダウンタイムが見込まれています」

正解は戸惑いながらも答えていく。その全てが正確だった。俺も思わず息を潜める。確かに彼は正社員として働いていた経験があるのだろう。だが、千鶴の目は冷たかった。

「でも、なぎりさん。シンジさんにそんな態度を取るなんて、首になる覚悟があるってことなのかな」

千鶴は俺の方に歩み寄り、自然な仕草で腕を組んだ。

「シンジさんは私の婚約者。つまり、将来の桜航空の社長になる人ということよ」

会場が水を打ったように静まり返る。正解の顔から血の気が引いていくのが分かった。

「う、嘘でしょ」

千鶴は最後ににっこりと笑って付け加えた。

「もしシンジさんに何か失礼なことを言ったり、変な噂を流したりしたら、即刻解雇だから。分かったわね」

正解は膝から崩れ落ちそうになっていた。千鶴は優雅に俺の方を向き、腕を差し出した。俺は無言で頷き、彼女の隣に並ぶ。会場を後にする時、同級生たちの視線が背中に突き刺さるのを感じた。扉が閉まる直前、正解が膝から崩れ落ちるのが見えた。

ホテルのエレベーターを降り、ロビーを抜けるともう日は落ちていた。初夏の夜風が千鶴の黒髪を優しく揺らす。

「千鶴、今日はありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。私が勝手に来て首を突っ込んだだけだから」

彼女は少し考え込むように空を見上げた。

「それにしても、あんな人が支社にいたなんて。気になるね」
「うん」

でも今日はもうそんな話は忘れましょう。千鶴は立ち止まり、俺の方を向いた。外灯の明かりが彼女の瞳に映っている。

「だって今日は、私たちの婚約を同級生のみんなに知ってもらえた特別な日でしょ」

風が吹いて千鶴の髪が揺れる。その言葉がおかしくて、俺は思わず笑いをこぼした。

「何考えてるの?」

千鶴が俺の袖を軽く引っ張った。

「いや、不思議だなって。こんな幸せが俺に訪れるなんて」
「私の方こそ幸せよ。だって、本当に素敵な人と巡り合えたんだもの」

彼女は俺の胸にそっと頭を寄せた。

「覚えてる? 私とあなたが出会った日のこと」

もちろん忘れるわけがない。高校を卒業してから、俺は清掃会社に就職した。入社して四年後、俺は桜航空の本社ビルの清掃を任されることになった。誰もいなくなった深夜のオフィスで、社長室の床を磨きながら、机の上に積まれた書類に目が留まった。アジア路線の収支分析レポート。最初は気にも留めなかったが、毎日目にしているうちに、自然と内容が頭に入るようになっていた。

その日も、シンガポール路線の燃料費計算が気になった。前月のレポートと比べると、何かが違う。

「君、今何て言った?」

振り返ると、そこには薄井社長が立っていた。俺は正直に説明した。このままでは年間で約二億円の誤差が生じる可能性がある。社長は俺を会議室に招き入れた。俺は雑巾を持ったまま、ホワイトボードの前に立って数字を並べ、計算式を書き出していった。

「君の学歴は?」
「高校卒です。大学は行けませんでした。母が病気で学費が払えず」

社長は黙って頷いた。

「君、明日から経営企画部に来てくれないか?」
「え?」
「君が毎日磨いてくれる床に、私たちは助けられている。だが、君の中で輝いている才能はもっと大きな場所を求めているはずだ。もちろん最初は契約社員からだ。でも、君の才能は清掃の仕事だけには惜しい」

その日から半年後、俺は正社員となった。そして、経営企画部に新しい部長が着任した。それが千鶴だった。社長令嬢であり、将来の社長候補。だが彼女は誰よりも早く出社し、深夜まで働き、自分を追い込んでいた。

ある夜、残業の後で彼女がまだ残っていることに気づいた。

「このプロジェクト必ず成功させないと。お父様に、私にも経営者としての才覚があると証明しないと」

彼女は誰に言うでもなく呟いていた。その姿はまるで檻の中で走り続けるハムスターのようだった。俺は立ち上がり、声をかけようとした。だがその前に、彼女の上半身がゆっくりとデスクに崩れ落ちた。

過労で倒れた千鶴を救急車で運び出す頃には、夜明け前だった。病室で目を覚ました彼女に、俺は静かに話しかけた。

「部長、もう少し自分に優しくていいんですよ」
「余計なお世話です。私は薄井の娘。この会社の後継ぎ。父の期待を裏切るわけには」

彼女は顔を背けた。点滴を差した腕がわずかに震えている。

「本当にそうですか?」
「どういう意味?」
「社長令嬢だからという言葉を、部長は盾にしていませんか?」

俺は清掃員として毎晩社長室の掃除をしていた時のことを話した。床や机を磨きながら書類が目に入り、そこからこの会社のことを学んだ。でもそれは誰かに認められたいからじゃない。この会社をよりよくしたいと本気で思っていたからだ。

「でも部長は違います。社長令嬢という肩書きに縛られて、自分の本当の思いを見失っている」

千鶴の瞳がわずかに揺れた。

「確かに私……小さな頃からずっと薄井の娘として生きてきた。周りの期待は重かったけど、それが当たり前だと思ってた」
「部長は部長です。薄井千鶴という、かけがえのない一人の人間なんです。肩書きのために生きるんじゃなくて、自分の思いのために生きてほしい」

彼女の頬を一筋の涙が伝った。

それから千鶴は変わった。プロジェクトに戻った彼女は、部下の意見に耳を傾け、現場の声を拾い上げ、チームと向き合うようになった。半年後、彼女がリーダーとして進めていたアジア路線再編プロジェクトは大成功を収めた。

「特に東田さん、あなたに教えられました。本当の価値は肩書きやではない。自分の思いを込めたその生き方にあるんだって」

千鶴は俺に向き直った。その瞳にはもう迷いはなかった。

それから一ヶ月が経った頃だった。千鶴は少し遅くまで付き合ってもらえないかと言った。夜の会議室で、二人で向き合いながら作業を進める。

「不思議。最初は社長の娘として一人で何でも頑張らなきゃって思ってた。でも今は、東田さんがいないと心細い」

彼女の指先がそっと俺の手に触れた。俺はそれを優しく握り返した。

「俺も、部長のことが好きです」
「部長って呼ばないで。千鶴でいいよ」
「分かった。千鶴」

彼女は頬を桜色に染めて、小さく笑った。こうして俺たちは交際を経て、正式に婚約者となった。

同窓会から一週間後のある朝、千鶴が一枚の報告書を持ってきた。

「この資料、確認してもらえる? 高知支社の収支レポートなんだけど」

資料に目を通した瞬間、俺は眉をひそめた。前年比で業績が三十パーセントも落ち込んでいる。売上の減少に加えて、経費が異常に膨らんでいた。

「それだけじゃないの。この半年で、高知支社の離職率が急上昇してる。特に営業部が深刻。平均在籍期間が一年を切っているの」

高知支社の営業部といえば、正解が所属しているはずの部署だった。

「調査に行ってもらえる?」

俺は無言で頷いた。翌日から高知支社の調査を始めた。休憩室で若手社員と雑談を交わし、廊下ですれ違う派遣スタッフに話を聞き、清掃員と世間話をする。断片的な証言を集め、データと照らし合わせていくうちに、見えてきたものがあった。

翌日、俺は支社の応接室に正解を呼び出した。

「なんだよ、東田。お高く止まりやがって。本社の経営企画部で社長令嬢の婚約者か。いい身分だよな」

皮肉めいた言葉を吐きながらも、正解は促された椅子に腰を下ろした。

「高知支社の状況について確認させてほしい。まず営業部の離職率。この半年で異常な上昇を示している。さらに利益率が著しく低下。経費は膨らむ一方だ。何か心当たりはないか?」
「知るわけないだろう。そんなことまで俺に分かるわけないだろ」

声が裏返っているのが分かった。正解の額にはうっすらと汗が浮かび、ブランドネクタイを緩める指が小刻みに震えている。

その時、ドアが開く音がした。

「おや、弟よ。まだ会社に残ってたのか」

現れたのは、桐生薫。営業課長のバッジを光らせて、ゆらりと部屋に入ってきた。

「にしても正解。お前、なんでそんな格好してんの? 三流ブランドのスーツなんか着て偉そうに。お前の制服は作業服だろう。あの灰色の小汚いやつ」

薫は笑うように正解を上から下まで眺め回した。正解の肩が小刻みに震え始める。

「全く、うちの家の恥さらしが。こんなところで一丁前にスーツなんか着ちゃってさ。お前みたいな無能は、せめて身の程知れよ。無様な真似は見苦しいだけだぞ」

薫は高笑いを残して部屋を出ていった。部屋には重苦しい空気が残った。正解は俯いたまま、唇を噛んでいた。

「お前、清掃員なんだろ?」
「!?」

正解の体が震える。

「他の社員に聞いた。なんで同窓会の時、支社で働いてるなんて嘘をついたんだ?」
「嘘なんかついてねえ。俺は本当にここで働いてたんだ」

正解は怒りの表情で顔をあげ、俺を睨んだ。

「正解。一体お前に何があったんだ?」

俺の穏やかな問いかけに、正解は肩を落とした。それから震える声で、その身に起きたことを語り始めた。

正解の家は全国に名を知られた大手企業を経営している。長男が会社を継ぐことは生まれた時から決まっていた。次男の薫は家族の誇る秀才だった。そんな兄たちを持つ三男の正解には、家族の中で居場所がなかった。

ある日、正解は薫と共に父親の書斎に呼び出された。

「お前たちには別の大手企業に入社してもらう。会社を継がないお前たちは、そこで社会勉強をしてくるんだ」
「はい、父さん。俺なら余裕だよ」

薫は笑って答えた。一方の正解には、二人とも冷めた目を向けてきた。

案の定、薫は一発で桜航空に内定を勝ち取った。正解も必死に努力し、なんとか同じ桜航空への入社を果たした。同じ支社で、しかも同じ部署に配属された。正解はこれをやっと掴んだチャンスだと考えた。同じフィールドで兄に追いつけるかもしれない。家族に認められるかもしれない。そう思って必死に働いた。深夜まで資料を作り、休日返上で顧客回りをする。だが、その努力は報われることはなかった。

大口契約を取りまとめても、最後の締めは薫が行う。新規開拓の企画書を出しても、薫の名前で上層部に提出される。正解の成果は全て兄の手柄として塗り替えられていった。

「兄貴、それは俺が考えた企画だ」
「何を言ってるんだ? お前みたいな無能が考えついた程度の提案が通るわけないだろ。家と同じだよ。お前は最初っから俺のおまけだ」

薫の言葉を、みんな信じた。正解の言葉は誰にも信じてもらえなかった。

そしてある日、薫は満面の笑顔を浮かべて正解を呼び出した。

「もうさ、お前営業やめろよ。向いてないって。正直迷惑なんだよ。鳴桐家の人間がこんな低レベルの仕事しかできないって知られるのが恥ずかしい。父さんにも伝えておいたよ。正解は使い物にならないってね」

薫は立ち上がり、正解の肩に手を置いた。

「お前は首だ。だが、まあ、情けをかけてやるよ。お前にお似合いの仕事を用意してやった」

机の引き出しから取り出したのは、灰色の作業服だった。

「清掃員だよ。床を拭いて、ゴミを拾って掃除する仕事。これこそお前の本来の居場所じゃないか。家族の恥さらしにはこれがお似合いだろ」

声を潜めて付け加える。

「もし嫌なら、お前は路頭に迷うことになる。父さんはなんて言うかな? 勘当するかもしれないな。さあ、どうする?」

追い詰められた正解は、ただ黙って頷くことしかできなかった。

語り終えた正解は項垂れていた。

「そうか。正社員として働いていたのか。だから会社の内情に詳しかったわけか」

俺は静かに口を開いた。

「俺も清掃員から始めたんだ。毎日一生懸命働いて、会社の仕組みを学んで。今の地位も、清掃員としての経験があったからこそ気づけたんだよ」

正解は黙ったまま俺の言葉を聞いていた。

「もう帰っていいよ」

立ち上がる正解を見送りながら、俺は彼の背中にかつての自分の姿を重ねていた。

それから俺は千鶴に電話をかけた。

「予想以上に根が深い」

俺は窓の外を見つめながら状況を説明した。電話の向こうで千鶴が小さく息を吐く音が聞こえた。

「実は、薫さんのことは私も知ってるの。父の家とは古くからの知り合いで、薫さんとは子供の頃から顔を合わせていたの。正解さんとは会ったことがなかったから、同窓会で気づかなかったけど、きっと家族ぐるみで正解さんを表に出さないようにしていたのね」

彼女の声が少し沈んでいる。

「薫さんは車内での噂は聞いてるわ。確かに成績はずば抜けてる。でもいつも強引なの。自分の思い通りにならないと気が済まない。周りが見えてない。それに、車内の集まりがあるたびに私に近づいてくるの。さも自分が私の隣に立つのにふさわしいみたいな態度で」

千鶴の声が少し震えていた。俺は受話器を強く握りしめた。

「早く私たちの婚約を公表したい。これ以上、薫さんの迫り方が強くなる前に」

本社に戻ってから二週間、調査報告書の作成と対策案の検討に追われる日々が続いていた。その日は千鶴と外で昼食を一緒に取る約束があった。本社ビルの裏手にある非常階段の入り口。一目を避けられる場所として、俺たちのお気に入りの待ち合わせスポットだった。

約束の時間より少し早く着いた俺は、聞こえてくる声に足を止めた。

「もういい加減、答えが欲しいな、千鶴」

薫の声だった。

「薫さん、その話はもう」

千鶴の声が震えている。

「俺には価値がある。成績も実績も申し分ない。君にとって俺以上の男はいないはずだ。両家の関係からしても、これは理想的な縁談だろう」

俺は二人の姿を確認した。薫が千鶴を壁際に追い詰めるように立っている。

「千鶴」

俺は静かに、だが確かな声で呼びかけた。振り返った薫の目が、俺を認めて細くなる。

「お前、誰だ? 何の用だ?」
「経営企画部の東田です。千鶴は俺を待っていたんです。解放してください」
「俺に命令するなんて、何様のつもりだ。こいつに用があるなら他を当たれ。今大事な話の最中だ」

薫の声が低く唸るように変わる。その時、千鶴が一歩薫から離れた。

「ごめんなさい、薫さん。彼との約束があるから。それに、私の気持ちはすでに伝えた通りよ」

俺は千鶴の隣に立った。

「兄貴、何やってるんだよ。千鶴さんにまた横暴出してたのか」

後ろから聞こえた声に振り向くと、そこには正解が立っていた。真っ直ぐに薫を見つめている。薫の表情が歪む。

「ほお。お前が偉そうに口を挟むのか」

薫は低く唸るような声を出した。

「お前みたいなゴミが、社長令嬢の前で人間らしい格好してるんじゃないよ。そのスーツもまともな物じゃないだろう。掃除道具を持つ手にお似合いの安物じゃないか。そもそも、お前が営業なんかやってたのが間違いだったんだ。そうだろ? 毎日毎日失敗ばっかりで、挙げ句の果てには俺の手柄まで横取りしようとして。家族の恥さらしが」

「課長。清掃は立派な仕事だ。毎日一生懸命働いて、この会社を支えている」
「はあ? お前、本気で清掃の仕事を誇りに思ってんの? バカじゃねえの? 清掃員なんて、世の中のクズがやる仕事だよ。頭も学歴もねえ。誰からも必要とされない人間の最後の受け皿さ」

薫は高笑いを続けた。

「でもまあ、お前にはお似合いだよな。だってお前はクズだもんな。家族の恥さらし、無能な三男坊。生まれた時からゴミと一緒に生きていく運命だったんだよ」

その時、俺は一歩前に出た。

「課長。清掃の仕事をそこまで見下げ果てる資格が、あなたにありますか?」
「何?」
「高知支社で働く清掃員に聞きました。正解の仕事ぶりを、彼女は高評価していましたよ。あんなに几帳面な人は見たことがないって。窓ガラスの細かい曇りまで見逃さない。床の隅々まで丁寧に磨く。誰も見ていない夜でも、決して手を抜かない」

俺は清掃員として働いていた日々を思い出しながら、言葉を続けた。

「トイレの換気口の埃まで気づく細やかさ。机の裏の配線まで整理する几帳面さ。それに、夜勤の清掃員たちへの優しい気遣い。コーヒーを入れてくれたり、重い荷物を持ってくれたり。清掃員として与えられた仕事を完璧にこなすだけじゃなく、周囲の人にも気を配れる。それって、立派な社会人としての証じゃないですか? 上も下もありません。大切なのは、どんな仕事でも誠実に向き合うことです」

「比べて課長。高知支社の営業部は、この半年で離職率が上昇していますよね。若手社員が次々と辞めていく。パワハラの噂も絶えない。経費の使い方を不審に思う声も出ています」

薫の顔が引きつる。

「出張報告書に記載された取引先の担当者の名前が、実在しません。経費だけが計上されています。それに、若手社員の残業代が実態の半分も計上されていません。この差額は、一体どこへ消えているのでしょうか? さらに、取引先からの接待の返礼として渡されたお礼の品。本来なら会社に報告すべきもの。防犯カメラには、課長が自分の車に積み込む姿が映っていました」

薫の顔が青ざめていく。

「それだけの不正を、どうやって隠してきたんだと思いますか? 証拠隠滅。誰にも気づかれずに書類を処分できる、都合のいい片棒が必要だった。実の弟を、そうやって利用していたんですよね」

薫の顔から、最後の血の気が引いていく。

「違う! お前、何を」

其の時、正解が一つの封筒を取り出した。

「兄貴に処分しろって言われた書類のコピーだ。全部取っていたんだ」
「お、お前! 何てことを! 家族を裏切るのか! この恩知らずが!」

薫は掴みかかるように正解に手を伸ばした。正解はそれを避けた。

「もう、こんなことはやめたいんだ。家族だから仕方ない。兄の言うことだから従うしかないって、ずっとそう思い込んでいた。でも違った。部下たちを苦しめて、会社の金を着服して、その証拠隠滅を弟に押し付ける。そんなの、家族のすることじゃない」

正解は封筒を俺に差し出した。

「これが、兄の不正の証拠の全てです。もう、こんな嘘をつき続けるのに疲れました。兄とは、本当の意味での家族になりたかった。でも、それは兄の更生から始めないと。例えそれが兄を告発することになったとしても、これが弟としてできる最後の義務だと思うんです」

薫は見る見るうちに顔を青ざめると、その場に膝から崩れ落ちた。

その後、薫の不正は厳正な調査の対象となった。経費の着服、パワハラ、実績の横取り、証拠隠滅。次々と明らかになる不正の数々に、会社は懲戒解雇と損害賠償の要求を下した。会社を去る日、薫の背中には昔の威厳も傲慢さもなかった。ただの疲れきった後ろ姿があるだけだった。

正解も兄の不正に加担していた責任を問われ、降格処分と半年間の謹慎という処罰を受けた。ただ、自ら不正を告発したことが情状酌量として認められ、免職は免れた。正解は高知支社で営業アシスタントとして再出発することを決めた。今度は誰の威を借りることもなく、自分の力だけで。

琥珀は高知に居を決めた。正解の近くにいたいのと、笑顔で言っていた。今は支社から徒歩十分のマンションで、二人の新生活を始めている。

正解の生活が変わったことが影響しているのか、支社の雰囲気も見違えるように明るくなった。若手社員の離職率は激減し、新しい営業案件も次々と決まっている。薫時代の重苦しい空気は微塵もない。

一方、本社でも大きな変化が起きていた。俺が提案した「現場の声を聞く制度」が、本社に新しい風を吹き込んだのだ。清掃員から派遣社員まで、立場を問わず全社員の意見に耳を傾ける仕組み。この取り組みの結果、残業時間は前年比で三割減。社員満足度調査では「働きがいを感じる」という回答が二十ポイント上昇した。

婚約発表の前日、本社ビルの屋上で千鶴と待ち合わせていた。夕暮れ時の空がオレンジ色に染まり始めている。

「いよいよ明日は婚約発表ね。この日をどれだけ心待ちにしていたか」

小さくはしゃぐ千鶴の隣で、俺の視線が足元に落ちた。

「どうしたの? シンジさん。この間から少し様子が変よ」

夕暮れの風が俺たちの髪を揺らす。隠していたつもりだったが、千鶴にはバレてしまっていたようだ。

「この前、琥珀が言ってたことになってるんだ。俺が勉強ばっかりだったから寂しかったって。今になって考えると、周りのことを全然見てなかったのかも。もしかしたら、千鶴にもそんな寂しい思いをさせていたことがあるのかも。これからも、そんな思いをさせてしまうかもって考えると、本当に千鶴は俺と結婚してもいいのかなって」

すると千鶴がくすっと笑った。

「そこもひっくるめて好きになったの。周りの目なんて気にせずに、ただ信じる道を歩いていく。シンジさんのそういう真っすぐな生き方が、私の心を奪ったんだから」

千鶴は柔らかな瞳で俺を見つめ、そして俺の方に身を寄せる。

「シンジさんの一生懸命な姿は、きっとこれからも変わらない。変えないでいて欲しいと思う。その代わり、たまにはこうして私の方も見てくれたら嬉しいな」

俺は千鶴の方を見た。夕日に照らされる彼女の横顔が、まるで光をまとっているように見える。

「ずっと見てるよ。これからも」

そっと千鶴の顔を掌で包むと、俺は千鶴と唇を重ねた。夕暮れの風が俺たちの周りを優しく包んでいた。

人は時として、肩書きや地位に囚われすぎてしまう。俺は清掃員として働いていた時も、ただ誠実に目の前の仕事と向き合っていた。一方で千鶴は社長令嬢という肩書きに苦しみ、正解は見栄を張ることで自分を見失っていた。でも、みんなが本来の自分を取り戻した時、より一層輝きを増した。仕事に上も下もない。大切なのは、どんな立場であっても自分の生き方に誇りを持てるかどうかだ。人の価値は、肩書きや地位で測れるものじゃない。日々の仕事に誠実に向き合い、周りを大切にする。そういう生き方を、俺はこれからも続けていこうと思う。

Thumbnail