兄が40歳の誕生日を祝うために予約してくれた高級寿司店。作業着のまま駆けつけた俺に、新しく変わった大将は明らかに見下すような目を向けてきた。「お客様にはかっぱ巻きがおすすめですよ」と。温厚な兄が静かに笑顔で言い放った。「じゃあ、かっぱ巻きを3人前。それからオーナーを呼んでください」大将は鼻で笑い、俺たちを馬鹿にし続けた。兄がスマホを取り出して電話をかけると、大将は「電話するふりなんていいです…

兄が40歳の誕生日を祝うために予約してくれた高級寿司店。作業着のまま駆けつけた俺に、新しく変わった大将は明らかに見下すような目を向けてきた。「お客様にはかっぱ巻きがおすすめですよ」と。温厚な兄が静かに笑顔で言い放った。「じゃあ、かっぱ巻きを3人前。それからオーナーを呼んでください」大将は鼻で笑い、俺たちを馬鹿にし続けた。兄がスマホを取り出して電話をかけると、大将は「電話するふりなんていいです...

「お客様にはかっぱ巻きがおすすめですよ」

大将は明らかに見下すような口調で、俺たちの作業着を見てそう言い放った。俺の40歳の誕生日を祝うために、兄が予約してくれた高級寿司店での出来事だった。

「じゃあ、かっぱ巻きを3人前。それからオーナーを呼んでくれ」

兄は笑顔のまま、静かにそう言った。俺はこの兄の笑顔をよく知っている。本気で怒った時の兄の顔だ。幼い頃から何度も見てきたその表情に、大人になった今でも背筋が寒くなる。

俺の名前は石松修二。今年で40歳になった。漁業を営む家に生まれ、根っからの海の男だった親父は、俺と兄の太地を小さい頃からよく海に連れて行ってくれた。大きな海で泳ぎ、魚を釣り、その場で焼いて食べる。今でも思う、あれが世界で一番魚を美味しく食べる方法だと。

兄はその海の魅力に魅了され、親父の跡を継ぐことを決心していた。一方の俺は、海や魚も好きだったが、それ以上に物を作ることに興味が湧いていった。きっかけは海釣りで使う「疑似餌」だった。本物の餌に似せて作る偽物の餌を、俺は自分で手作りして兄にあげたのだ。

「修二の作った疑似餌が一番よく釣れるよ」

そう兄に褒められた時、ものすごく嬉しかったのを覚えている。そこから工作にはまった俺は、次に釣り竿を作り、魚を入れるクーラーボックスを作り、座る椅子を作り、そして家で使うテーブルや本棚、ベッドまで作るようになった。その度に兄は褒めてくれた。

「修二の作ったテーブルのおかげで部屋が明るくなったな」
「修二の作ったベッドの寝心地は最高だ」

尊敬する兄に褒められるのが、俺にとって一番の喜びだった。

大学は建築学科に進んだ。テーブルや本棚よりも大きな、家や建物を作れることに俺は興奮しっぱなしだった。兄もまた、親父の跡を継いで忙しくしながらも、自分の好きなことを仕事にできる喜びに満ちていた。

「自分の好きなことを仕事にできるなんて、こんなに幸せなことはないぞ。お前もさっさと大学卒業して、自分の得意なことで生きていけ」

兄は会うたびに満面の笑顔でそう言った。

大学を卒業した俺は建築関係の会社に就職した。60代の社長が率いる、とても気骨のある会社だった。俺と同年代の若い人間は誰もいない。社長と同じ60代の社員や、少し下の50代の社員たちが元気に働いていた。息子ぐらいの年齢の俺のことを、みんなとても可愛がってくれた。仕事になれば優しく、時には厳しく、建築のことを一から百まで丁寧に教えてくれた。

社長に「みんな修二のことが可愛くてしょうがないんだよ。許してやってんな」と言われることもあったが、俺は少しも嫌ではなかった。

「全然鬱陶しくないですよ。皆さん可愛がってくれるので、楽しく働かせてもらってます」

そう言うと、社長は「それなら良かったよ」と笑った。

会社に就職して10年以上が経った頃、会社での仕事が終わり帰宅してくつろいでいる時に、スマホが鳴った。会社の先輩からだった。

「社長が…」

先輩は慌てていた。社長が現場で怪我をしたという。すぐに病院へ車を走らせた。

「社長、大丈夫ですか?」

病室に駆け込むと、ベッドに横になる社長の周りに社員たちが集まっていた。社長の足にはギプスが巻かれている。現場での事故で足を骨折したのだと先輩が教えてくれた。

「いや、やってしまったよ。年は取りたくないね」

社長は小さく笑ったが、元気がなさそうだった。

「いい機会だと思って、ゆっくり休んでください」

そう励ますが、社長の顔に明るさは戻らない。

「俺ももう潮時かもな」

「社長、何言ってるんですか?まだまだこれからでしょう」

「いや、前から思っていたんだよ。年も年だし、体力的にもそろそろ引退も考えないとな。それにいいタイミングだとも思うんだ。若くて元気な後継ぎもできたしな」

そう言って社長は俺の肩に手を置いた。

「あとは頼んだぞ」

「いやいや、だって先輩たちがいるじゃないですか」

「その先輩たちにずっと相談してたんだよ。修二に後を任せていいかって。みんな『他にはいないだろ』ってさ」

周りを見ると、みんな笑顔で頷いていた。

「わかりました。皆さん、よろしくお願いいたします」

俺は全員に深く頭を下げた。まだ35歳で、社長の後を継ぐ自信なんて正直なかった。しかし、みんなの笑顔と、今までお世話になった社長への恩返しのために、この話を受けることに決めた。

いきなり30代の若手が社長になったと言っても、取引先やお客さんから実力を信用してもらえるとは限らない。だからしばらくは社長が回復するまでの「社長代理」として仕事をすることになった。

「頼んだぞ、社長代理」

そう言う社長の顔は、安心してくれているのか柔らかい笑顔だった。その笑顔を見たら自然と気合いも入るというものだ。

社長代理として働き出してから1年ほどが経った頃、会社の業績は伸び悩んでいた。

「すいません」

そう謝る俺に、先輩たちは「お前のせいじゃない。時代も変わったし、取引先で潰れている会社も多いからな」と励ましてくれた。

そう言われて気づいた。時代は変わり、今では自分でDIYをする人も増えている。個人のリフォームや内装の仕事も受け終えば、業績は伸びるのではないか。社長に相談すると賛成してくれた。

「ただ、お客さんに対する丁寧なサービスと徹底したアフターフォローは忘れるなよ」

「はい」

その狙いは見事に当たった。マイホームを持つお客さんには大胆なリフォームを提案し、賃貸に住んでいるお客さんには現状回復の可能なリフォームを提案する。それを売りに仕事をしていたら、業績は右肩上がりに伸びていった。

「さすがだな。やっぱり修二に任せてよかったよ」

そう社長に褒められ、その日から俺は正式に社長に就任した。俺が40歳になった日のことだった。

数日後、兄から電話がかかってきた。

「よ、社長」

「なんだよ。からかってんの?」

「違うよ。お祝いをしたくて。あの店予約しておくから。今度の土曜日、開けとけよ」

兄は今では実家の漁業の運営にまで関わる立場になり、毎日忙しくしている。それなのに、俺のためにわざわざ時間を作ってお祝いしてくれるという。そのことがとても嬉しかった。

そして当日の土曜日。昼間に急な仕事が入ってしまい、俺は作業着のまま兄が予約してくれた店に来てしまった。その店は1日に10組しか入れない有名な高級寿司店だった。今まで何度かお祝い事で来たことがあったが、久しぶりに訪れるその店に多少緊張した。

「着替え持ってきておいてよかったな」

こうなるかもしれないと、車には着替え用のスーツを積んでおいた。店の入り口前の駐車場に車を止め、後部座席に置いたスーツを取るために運転席を降りる。すると店から見覚えのない男性が出てきた。

「ご予約の石松様ですか?」

「そうです。すいません、急いで着替えますので」

「いえ、個室ですのでそのままでどうぞ。お連れ様ももういらっしゃってますし」

そう言われたが、この格好で兄に恥をかかせるわけにはいかない。俺はスーツを持って店に入った。

「よ、修二。待たせてごめんね」

俺が個室に入ると、その男性は扉を閉めて出ていった。

「今の誰?」

「ここの大将。最近変わったみたいでな」

「そうなんだ」

それから俺と兄は近況を報告し合った。しかし、いつまで経っても店員がオーダーを取りに来ない。注文用のインターホンを押し、やってきた店員にとりあえずビールを頼んだ。

しかしそこからまたしばらく音沙汰のない状態が続いた。

「ビールしか頼んでないのに遅いな」

またインターホンを押す。すると今度は大将が現れた。

「ご用でしょうか」

その言い方に俺は少し苛立ったが、兄は冷静に対応していた。

「ビールを頼んだのにいつまでも来ないし、予約した料理もまだ1品も来ないんだが」

すると大将はいきなり吹き出した。

「ご予約はコース料理となってますが、お間違いではございませんか?」

その態度は明らかにこちらを馬鹿にしている。俺はさらに怒ったが、兄はまだ冷静だった。

「いや、間違えてはないんですけど」

「うちの店は最高級の食材を使っていて、コースとなりますとお1人5万円になりますが、よろしいですか?」

その言い方は「お前らにその額払えるのか」と言いたげだった。これには俺も我慢の限界だった。しかしそれが表情に出たのだろう。大将はまた馬鹿にした態度を取ってくる。

「申し訳ございません。そのような作業着で来店されるお客様は他にはいらっしゃいませんので、どう対応していいか私ども戸惑ってしまいまして」

大将は明らかにこちらをバカにした態度でそう言い、その態度を崩さぬまま俺たちを馬鹿にし続けた。

「当店にはかっぱ巻きという、とてもリーズナブルなメニューもございます。お客様にはそちらがおすすめかと思います」

その一言には、温厚な兄もさすがに堪忍袋の緒が切れたようだった。

「じゃあ、かっぱ巻きを3人前。それからオーナーを呼んでください」

そう笑顔で言う。俺の兄は本気で怒った時、感情に任せて怒鳴ったりしない。笑顔で冷静に淡々と話す。昔からその様子を何度も見ている俺は、大人になった今でもその笑顔に少し体が震えた。

しかし、そのことを知らない店の大将はまた俺たちを馬鹿にした態度を取った。

「オーナーは今、姉妹店の準備で忙しくて、今ここにはいないんです」

「でしたら俺が自分で呼ぶので構いませんよ」

その一言に大将がまた吹き出す。

「あなたがオーナーの連絡先を知ってるわけないでしょ。こんなバレバレの嘘ついて見栄張らない方がいいですよ。嘘がバレた時、恥をかくのはお客様ですから」

その大将の笑い声を無視して、兄はスマホをポケットから取り出すとすぐに電話をかけた。

「電話するふりなんていいですって。嘘を重ねたら重ねただけ、バレた時恥ずかしいですよ」

しかし兄は構わずに会話を続けた。

「ああ、私です。今そちらのお店に弟といるんですが」

兄が電話をするふりをしていると思い込んでいる大将の顔は、まだ嫌味な笑顔を浮かべていた。

「じゃあよろしく」

そして電話を切った兄が大将に言う。

「おい、かっぱ巻きを3人前だ。すぐに到着するオーナーと3人でいただく。早く作って持ってこい。おすすめなんだろ」

その兄の冷静かつ凄みのある言い方に、大将は何も言い返せなくなり、返事もせずに部屋から出ていった。

「なあ、なんであんなやつが大将なんかやってるんだよ」

俺はつい興奮してそう怒ったが、兄は相変わらず冷静だった。

「まあまあ、オーナーが来てから話を聞こう」

するとすぐに、扉の向こうの廊下からドタバタと走る激しい足音が聞こえてきた。

「ほら来たぞ」

兄は小さく笑った。

そして俺たちのいる個室の扉が勢いよく開く。そこに現れたのは、顔面蒼白になっているオーナーと、何がなんだか分からないと言った顔の大将だった。

「本当に申し訳ありませんでした」

オーナーはすぐにその場に土下座をして謝ってきた。大将はオーナーのその姿を見てもまだ不思議そうな顔をしている。

「何してんだ?お前も謝るんだよ」

土下座をするよう怒鳴られ、そこでようやく大将もその場に土下座をした。

「まあ、顔をあげてくださいよ」

両手を地面に置いたまま顔をあげた2人に、兄がこれまでの大将の霊舞いを全部告げた。

「オーナー、あなたはこの店を開く時に言いましたよね。金持ちもそうでない人にも平等に美味しい料理を提供し、みんなが幸せになる店を作りたいって」

「はい」

「俺はその気持ちに感動したから、この店にうちのマグロを下ろすことに決めたんですよ。なのにこのざまは何ですか?」

「本当に申し訳ありませんでした。私からもよく言って聞かせますので」

オーナーは地面に額を擦りつける勢いで土下座をした。

「どういうことですか?」

まだ事態を把握できていない大将が、おずおずとオーナーに尋ねる。

「うちの店で売上の半分を占めるあのマグロは、この方が養殖しているブランドマグロだ。それにこちらの弟さんは一級建築士をなさっていて、うちの店のデザインから設計から何から何までやってくださった方だ。この2人がいなければ、うちの店は成り立ってないんだぞ」

オーナーの話を聞いて、ようやく自分がしたことの重大さに気づいた大将は、みるみる顔が青ざめていった。

「本当に申し訳ありませんでした」

そして慌ててまた土下座をし、何度も頭を下げてきた。勢いよく何度も頭を下げるので、そのまま首の骨が折れるんじゃないかと思うほどだった。

「大将、このスーツのブランドはご存知ですか?」

俺が着替えのために持ってきたスーツのタグを見せる。そのスーツはオーダーメイド専門のハイブランドのものだった。そして次に、左腕に巻いた腕時計を見せた。

「この腕時計も、決して簡単に買える額のものではありません。しかも限定モデルです」

その腕時計は、超有名ブランドの世界に5つしか存在しない、幻と言われたモデルだった。

「あなたには汚く見える作業着を着ていても、それは働いている証拠です。その働きの裏にはお客様の大きな笑顔と幸せがあります。そして大きな利益を産んでるんです」

「はい」

「あまり人を見かけや服装だけで判断していると、このお店の評判を落としてしまいますよ」

俺のその一言がとどめになったのか、大将は額から汗を垂らし言葉を失っていた。

その後、オーナーが抜け殻のようになった大将を引っ張って、2人で部屋を出ていった。そして俺と兄は美味しい魚料理を食べながら、いろんな話をした。

「でも持ち物を自慢するなんて、ちょっとダサかったかな」

怒りに任せて取った行動を少し反省した。

「いや、そんなことはないさ。それに見た目や服装で判断してはいけないってことが、あの男にも身に染みて分かっただろう。むしろかっこよかったよ」

「ありがとう」

兄に褒められて少し嬉しくなった。兄が下ろしている魚を使った料理はとても美味しく、その後は2人でとても楽しい時間を過ごすことができた。

後日兄から聞いた話だと、オーナーから連絡があり、あの大将を首にしたらしい。そして兄はたまたま立ち寄ったチェーン店のファミレスで、その厨房で働く大将を見かけたそうだ。

「心を入れ替えて立ち直ってくれればいいけどな」

「そうだね」

2人でそんな話をしたのだった。

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