「バーバ、助けて」
浴室から聞こえてきた孫の弱々しい声に、私の心臓は凍りついた。
今日は久しぶりに5歳の孫、レンに会うために息子の家を訪れたのだ。玄関のドアが開きっぱなしになっていることに違和感を覚えながらも、私は「レンちゃん、バーバだよ」と声をかけた。しかし返事はない。リビングにも子供部屋にも誰もいない。不安に胸が締め付けられる中、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
浴室のドアを開けた瞬間、私は目を疑った。レンが裸のまま両手を紐で縛られ、浴槽の中で震えていたのだ。痩せ細った体には無数の青あざが浮かんでいる。
「レンちゃん!」
私は慌てて駆け寄り、震える小さな体を抱きしめた。体は冷たく、どれだけの時間この状態だったのか想像するだけで恐ろしかった。
「バーバ、怖かった…」
涙でぐしゃぐしゃの顔でレンが私にすがりつく。怒りで手が震えた。一体誰がこんなことをしたのか。いや、分かっている。息子夫婦以外にいるはずがない。
「大丈夫よ。もう大丈夫。バーバが守るから」
レンを抱きしめながら、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。同時に激しい怒りが込み上げてくる。絶対に許さない。この子にこんなことをした者を、私は絶対に許さない。
レンを浴槽から抱き上げ、バスタオルで優しく体を包んだ。涙が止まらない小さな体を拭きながら、私はこらえるのに必死だった。
「レンちゃん、パパとママはどこにいるの?」
「…2日前からいない」
レンの言葉に私は耳を疑った。2日前からこの5歳の子を一人で放置していたというのか。リビングに戻ると、テーブルの上に一枚の紙が置いてあった。息子の字だ。
「家族で海外旅行中です。レンは留守番してください。冷蔵庫に食べ物あります」
…留守番。家族で海外旅行。怒りで手が震え、視界が歪んだ。冷蔵庫を開けると中はほぼ空っぽ。賞味期限切れの牛乳と、しなびた野菜が少しあるだけだった。
「ご飯、食べてないの?」
「…食べてない」
その言葉に私の理性が完全に切れた。息子夫婦はこの子を縛って放置し、自分たちだけで海外旅行を楽しんでいるというのか。
「もう大丈夫。バーバがご飯を作ってあげる」
レンを抱きしめながら、私は決意した。この子は私が守る。そして息子夫婦には必ず報いを受けさせる。親として、人として、絶対に許されない行為だ。
「バーバ、ママたちいつ帰ってくるの?」
その問いに私は答えられなかった。いつ帰ってくるかなど、もうどうでもいい。帰ってきた時が地獄の始まりだ。
レンに温かいおかゆを作って食べさせた。小さな口で少しずつ食べる姿が痛々しく、その間に私は近所のコンビニで子供用の服と下着を買ってきた。
「バーバ、美味しい」
涙を浮かべながらおかゆを食べるレンを見て、私の怒りはさらに深まった。
翌朝、私はレンを連れて病院へ向かった。診察の結果に医師の顔が曇った。
「脱水症状と栄養失調です。それに、この青あざは…」
私が事情を説明すると、医師は診断書を作成してくれた。虐待の可能性があるため、児童相談所への連絡も進められた。
病院から帰宅後、私は息子のSNSを確認することにした。息子と嫁は普段から写真を投稿するのが好きだったからだ。そこで見たものに、私は言葉を失った。
「ハワイ最高!家族水いらずの時間」
昨日投稿された写真には、ビーチで笑顔を見せる息子と嫁が映っていた。高級レストランでの食事、ブランドショップでの買い物、プールサイドでのカクテル。家族水いらず。レンはあなたたちの家族じゃないの?
コメント欄には友人たちからの「いいね」や「素敵な家族旅行」といった言葉が並んでいた。誰も、レンがいないことに疑問を持っていない。
「バーバ、痛い」
レンが急に泣き出した。着替えを手伝っていると、背中に新しい傷を見つけた。
「これ、どうしたの?」
「パパが…悪い子だからって。旅行の前の日。ママも邪魔だからって」
私の中で、息子への最後の情が消えた。レンの小さな体には、よく見ると古い傷跡もいくつかあった。これは今回が初めてではない。日常的に虐待していたのだ。
すぐにレンの体の傷を全て写真に収めた。証拠として必要になる。そしてレンに、これまでのことを優しく聞いていった。
「パパとママに叩かれたこと、前にもあった?」
「うん。悪い子だからって」
「レンちゃんは悪い子じゃないよ。絶対に」
「でもママが言ってた。レンがいなければ、もっと楽しく暮らせるって」
5歳の子供が言うには、あまりにも悲しい言葉だった。
過去の写真を遡って確認していくと、ある時期からレンが写真に映らなくなっていることに気づいた。1年前までは家族3人の写真があったのに、ここ最近は夫婦2人だけ。まるで最初からレンなど存在しなかったかのように。
隣の奥さんに最近の息子夫婦の様子を聞いてみることにした。
「ああ、有村さんちのこと。最近お子さんの泣き声がよく聞こえてましたよ。それに、奥さんの怒鳴り声も。うるさいとか邪魔とか、気になってたんです」
隣人の証言も得られた。これで十分だ。レンを抱きしめた。この子の人生を、息子夫婦は破壊しようとしていた。でももう大丈夫。私が必ずこの子を守り抜く。
「バーバ、ずっと一緒にいて」
「もちろんよ。もう誰にもレンちゃんを傷つけさせない」
私はスマートフォンを手に取った。まず、すべきことがある。警察に電話をかけた。
「5歳の孫が両親に放置されて、2日間一人でいました。虐待の痕跡もあります」
「すぐに伺います。現在お孫さんは安全ですか?」
「はい、私が保護しています」
30分後、警察官が2名到着した。レンの体の傷、病院の診断書、そして縛られていた状況を説明すると、警察官の表情が厳しくなった。
「これは明らかな虐待案件です。児童相談所とも連携して対応します」
「両親は今、海外旅行中なんです。帰国は明後日の予定です」
警察官は驚いた顔を見せた。
「5歳児を放置して海外旅行…全く呆れた話です。帰国次第、事情聴取を行います。場合によっては逮捕もありえます」
「逮捕、ですか?」
「はい。保護責任者遺棄罪、場合によっては殺人未遂も視野に入ります」
警察官の言葉に、私は複雑な気持ちになった。息子が逮捕される。でも、レンにしたことを考えれば当然の報いだ。
次に私は児童相談所へ連絡を取った。担当者が自宅まで来てくれることになった。
「こんにちは、レン君。お話聞かせてもらえるかな?」
優しい女性職員に、レンは少しずつ心を開いていった。両親からの暴力、食事を与えられないこと、長時間の放置。職員は丁寧にメモを取っていく。
「お風呂に入れてもらえなかったの?」
「うん。ママが、汚い子は嫌いって」
「ご飯は?」
「…昨日の残り物。ない時もあった」
職員の顔が青ざめていく。私も聞いていて辛かった。
「有村さん、これは深刻な案件です。一時保護も検討すべきですが…」
「私が面倒を見ます。この子は私が守ります」
「わかりました。では祖母である有村さんを一時的な保護者として手続きを進めます」
その後、私は知り合いの弁護士に連絡を取った。中山弁護士は、私の亡くなった夫の友人で信頼できる人物だ。
「富美子さん、これは酷い。親権剥奪は十分可能です。刑事告訴も視野に入れましょう」
「お願いします。あの2人を許すわけにはできません」
「まず証拠を全て整理しましょう。写真、診断書、隣人の証言、全て法廷で使えます」
中山弁護士はすぐに動いてくれた。警察との連携、児童相談所との調整、そして家庭裁判所への申し立て準備。慰謝料請求も行うことになった。最低でも1000万円は請求するとのことだった。
私は息子の会社にも連絡を入れた。上司だという人物が電話に出た。
「実は息子が大変なことをしまして…」
事情を説明すると、電話の向こうで沈黙が続いた。
「そんなことがあったとは…信じられません。会社としても看過できません。児童虐待は重大な問題です。人事とも相談します」
嫁の実家にも電話をした。嫁の母親は最初、信じようとしなかった。
「うちの娘がそんなこと…嘘でしょう」
「申し訳ありませんが、これが現実です。レンの傷の写真を送ります」
写真を見た途端、電話の向こうで嗚咽が聞こえた。
「まさか…うちの娘が…信じたくない」
「でも、これが現実なんです。レンは今、私が保護しています」
「申し訳ありません。本当に申し訳ありません」
「謝罪はレンにしてください。そして、あんなさんをきちんと叱ってください」
「はい。必ず」
次に私は息子夫婦の帰国便を確認した。明日の午後、成田空港着。中山弁護士と警察にその情報を伝える。
「空港で確保します。人目のつく場所での逮捕になるかもしれません」
「構いません。むしろ、多くの人に見てもらいたいくらいです」
「逮捕の瞬間は相当な騒ぎになるでしょう。覚悟はよろしいですか?」
「はい。息子とはいえ、許すわけにはいきません」
SNSの投稿も全てスクリーンショットで保存した。時系列で並べると、その異常さがよくわかる。レンを縛って放置した日の夜に「最高のディナー」という投稿をしている。
「バーバ、パパとママ、怒られる?」
レンが不安そうに聞いてきた。この子は虐待されていたのに、まだ両親を心配している。
「レンちゃんは何も心配しなくていいの。バーバが全部なんとかするから」
「でも、パパとママ、レンのこと嫌い」
その言葉が胸に刺さった。
「レンちゃんは何も悪くない。パパとママが間違っていたの」
私はレンを心理カウンセラーのところへも連れて行った。専門家の意見も聞いておく必要がある。
「深刻な心理的虐待の痕跡があります。時間はかかりますが、必ず回復します」
カウンセラーは裁判で使える意見書も書いてくれることになった。
帰国日の前日。私は最後の準備を整えていた。中山弁護士から詳細な打ち合わせの電話が入った。
「富美子さん、明日の段取りを確認します。警察は到着ロビーで待機。私たちは少し離れた場所から様子を見ます」
「レンは連れて行かない方がいいでしょうか?」
「そうですね。お孫さんには刺激が強すぎます。信頼できる方に預けられますか?」
私は隣の奥さんに頼むことにした。事情を知っている彼女は快く引き受けてくれた。
「レン君のこと、お任せください。あんな酷いことをした親には、きちんと罰を受けてもらわないと」
その夜、レンが不安そうに聞いてきた。
「バーバ、明日どこか行くの?」
「ちょっと用事があるの。すぐ帰ってくるから、隣のおばさんと遊んでてね」
「パパとママに会うの?」
鋭い質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
「大人の話をしてくるだけよ。レンちゃんは心配しなくていいの」
翌朝。私は早めに起きて全ての証拠資料を確認した。写真、診断書、録音データ、SNSの投稿記録。弁護士に渡すものと自分で持っておくものを分けてファイルに整理する。
息子からは一度も連絡がない。海外からでも電話やメールはできるはずなのに、レンの安否を確認することすらしていない。本当に親なのかと胸が痛くなる。
午前11時、私は家を出た。レンを隣に預ける際、小さな手が私の服を掴んだ。
「バーバ、すぐ帰ってくる?」
「もちろんよ。夕方には迎えに来るから。約束」
「…約束」
成田空港へ向かう電車の中で、私は複雑な心境だった。息子を警察に突き出す。普通の親なら躊躇するだろう。でも、レンのあの姿を思い出すと、迷いは消えた。
空港に到着すると、中山弁護士がすでに待っていた。
「富美子さん、警察も配置についています。あとは到着を待つだけです」
午後2時45分、到着便の案内が表示される。もうすぐだ。胸が高鳴る。怒りと悲しみ、そして固い決意が入り混じっていた。
午後3時10分。到着ゲートから乗客が出てきた。その中に、息子と嫁の姿があった。二人とも日焼けして、高級ブランドのバッグを持ち、楽しそうに話している。
「最高の旅行だったね」
「また行きたいわ。次は違う国もいいかも」
その会話が聞こえてきて、私の怒りが再び燃え上がった。レンを縛って放置しておいて、「最高の旅行」だと。
中山弁護士が私の肩に手を置いた。
「落ち着いて。もう少しです」
二人が税関を通過し、ロビーに出てきた瞬間、私は前に出た。
「はるき、あんなさん」
二人の顔が驚きで固まった。
「母さん、なんでここに?」
「レンはどうしたの?」
私の問いかけに、嫁が慌てたように答えた。
「家で留守番してるよ。ちゃんと食べ物も用意して…」
「嘘はやめなさい。レンは私が保護しました」
息子の顔が青ざめた。
「ちょっと、何を大げさな…」
「大げさ?あの子は縛られて、2日間も食事もなく放置されていたのよ」
言い訳をしようとする息子を、私は手で制した。
「もういい。話は後で聞きます。その前に、会いたい人がいるそうよ」
私が合図すると、警察官が近づいてきた。周囲の人々がざわめき始める。
「有村はるきさん、有村あんなさんですね。保護責任者遺棄の疑いで逮捕します」
空港のロビーに緊張が走った。息子と嫁は顔面蒼白になっている。
「ちょっと待って。何かの間違いです。レンは大丈夫なはずです」
必死に抗議する二人を、警察官は冷静に制した。周囲の視線が痛いほど二人に注がれていた。スマートフォンを向ける人もいる。
「母さん、どうして?」
息子が信じられないという顔で私を見た。
「どうしても何も、親として当然のことをしただけよ」
「でも俺は息子だろ」
「息子?わが子を虐待する人を、私は息子とは呼べません」
私の言葉に、息子は絶句した。中山弁護士が前に出た。
「私は有村富美子さんの代理人です。親権剥奪と損害賠償請求の手続きを進めさせていただきます」
「親権剥奪…」
嫁が小声で呟いた。
「当然です。虐待する親に子供を任せられません」
警察官が二人を促した。連行されていく姿を、私は黙って見送った。涙は出なかった。これが正しいことだと、心の底から確信していたから。
空港での逮捕から3時間後、私は中山弁護士と今後の対策を話し合っていた。
「富美子さん、先ほど警察から連絡がありました。お二人は容疑を否認しているそうです」
「否認?あの状況で?」
「ちゃんと準備をしていた。大げさに騒ぎ立てていると主張しているようです」
呆れて言葉も出ない。証拠は山ほどあるのに、まだ認めようとしないのか。
その夜、ネットニュースに事件が載った。「5歳児を縛って放置、ハワイ旅行の両親逮捕」という見出しで、空港での逮捕の様子も写真付きで報道されていた。
翌朝、息子の会社から電話があった。
「有村さん、昨日のニュースを見ました。実は、はるき君について相談があります。このような事態になった以上、会社としても…」
「解雇ということですか?」
「…懲戒解雇を検討しています。児童虐待は企業イメージに関わる重大な問題です」
話は明確だった。息子は一瞬で、築き上げたものを全て失おうとしている。
嫁の実家からも連絡が入った。嫁の父親の声は怒りで震えていた。
「有村さん、娘の件で改めてお詫びします。そして…お伝えしたいことがあります」
「何でしょうか?」
「娘とは縁を切ります。もう二度と実家の敷居はまたがせません。子供を虐待するような人間は、もう娘ではありません。あんなには一切の援助もしません」
嫁の母親も電話に出て、泣きながら話した。
「レン君に本当に申し訳ないことをしました。どうかあの子を大切にしてあげてください」
「もちろんです。レンは私が守ります」
3日後、ワイドショーでも大きく取り上げられた。コメンテーターたちが口々に批判していた。
「信じられません。5歳の子を縛って放置なんて」
「しかもSNSで『家族水いらず』って投稿していたんですよね。最低です」
炎上は止まらなかった。二人の個人情報まで特定されて拡散されている。私はそれを止める気はなかった。自業自得だ。
1週間後、息子から面会の申し出があった。拘置所の面会室で、縁を切ったはずの息子と対面した。
「母さん。どうしてこんなことに?」
「どうしても何も、あなたがしたことの結果よ」
「でも、レンは無事だったでしょう」
まだ分かっていない。この後に及んで、まだ反省していない。
「無事?あの子は心に深い傷を負わされたのよ」
「大げさだよ。子供なんてすぐ忘れる」
その言葉に、私の最後の情が完全に消えた。
「はるき、あなたはもう私の息子ではありません。今後、一切連絡も取りません。レンにも合わせません」
「ちょっと待って、それは…」
「さようなら」
私は席を立った。後ろから息子の叫び声が聞こえたが、振り返らなかった。
2週間後、初公判が開かれた。私はレンの代理人として出席した。検察官が証拠を提示していく。縛られたレンの写真、病院の診断書、隣人の証言、そしてSNSの投稿。
「被告人らは5歳の実子を縛って放置し、自分たちだけで海外旅行を楽しんでいました。これは明らかな保護責任者遺棄であり、殺人未遂とも言える重大な犯罪です」
息子と嫁はそれでも「やりすぎただけ」「殺すつもりはなかった」と弁解していた。
裁判長が私に発言を求めた。
「被害者の祖母として、何か言いたいことはありますか?」
私は立ち上がった。
「レンは今も悪夢にうなされます。パパとママに捨てられたと泣きながら目を覚まします。この子の心の傷は、一生消えないかもしれません。親として、あってはならない行為です。厳罰を望みます」
法廷は水を打ったように静まった。実の息子に厳罰を求める母親。でも、私に迷いはなかった。
判決の日。息子には懲役3年、執行猶予5年。嫁には懲役2年、執行猶予4年が言い渡された。そして親権は剥奪され、私に養育権が認められた。さらに慰謝料として1000万円の支払いが命じられた。
判決を聞いて、二人は力なく首を横に振った。控訴はしなかった。
法廷を出ると、マスコミが押し寄せてきた。
「お気持ちを聞かせてください。息子さんへの思いは?」
私は一言だけ答えた。
「レンの未来を守れて、ほっとしています」
その後、息子は会社を懲戒解雇された。退職金も出ない。嫁もパート先から解雇通告を受けた。二人の住んでいたマンションも、ローンが払えなくなり手放すことになった。
息子は私に泣きついてきたが、私は一切援助しなかった。
「母さん、お願い。もう反省してる」
「反省?本当に反省しているなら、レンの慰謝料をきちんと払いなさい」
「でも金が…」
「それは自分で何とかしなさい。レンを苦しめた報いです」
嫁の実家も約束通り一切の援助を断った。嫁は実家に土下座までしたらしいが、父親は許さなかったという。自業自得だ。
息子と嫁は別居することになった。お互いを攻め合い、夫婦関係も破綻した。最後は離婚したと聞いた。
3ヶ月後、息子から手紙が来た。
「母さん。もう一度だけチャンスをください。レンに合わせてください」
私は返事を書かなかった。もう終わったことだ。嫁も友人を通じて連絡してきたが、私は全て断った。
「レンに謝りたいんです」
今更謝られても、傷は消えない。
ある日、息子の元同僚から連絡があった。
「はるきがホームレスになりかけてます。なんとかしてあげられませんか?」
「それは自分で巻いた種です」
「でも、息子さんでしょう?」
「息子は、レンを虐待した時点で死んだと思っています」
冷たいと思われるかもしれない。でも、レンの受けた苦しみを考えれば、これでも軽い報いだ。
全てを失った息子と嫁。金も、仕事も、家も、信用も、家族も。何もかも失った。これが、幼い子供を虐待した者への当然の報いだ。
あれから1年が経った。
レンは私と暮らし始めてから、みるみる明るくなった。笑い声が部屋中に響いている。
「バーバ、おはよう!今日も公園行く!」
「もちろんよ。お天気もいいしね」
かつての怯えた表情は消え、6歳になったレンは本来の子供らしさを取り戻していた。小学校への入学準備も順調だ。ランドセルを選びに行った時の嬉しそうな顔は忘れられない。
「バーバ、これがいい!青いやつ!」
「レンちゃんが気に入ったなら、それにしましょう」
「やった!バーバ大好き!」
純粋な笑顔を見る度、この子を守れて本当に良かったと思う。
カウンセラーの先生もレンの回復ぶりに驚いていた。
「最初に会った時とは別人のようです。愛情って本当に大切なんですね」
週に一度の面談も、もう必要ないかもしれないと言われた。それほどレンは元気になっていた。
近所の人たちもレンを温かく見守ってくれている。
「レン君、すっかり元気になったわね。有村さんの愛情のおかげよ」
「本当の家族って、血の繋がりだけじゃないのね」
その言葉に、私は深く頷いた。そう、本当の家族とは、お互いを大切に思い合える関係のことだ。
ある日、レンが絵を見せてくれた。そこには、私とレンが手をつないで歩いている姿が描かれていた。
「これ、バーバとレン」
「うん。いつも一緒だから」
「上手に描けたね。先生も褒めてくれたよ。『幸せそうな絵ね』って」
幸せ。そう、今の私たちは確かに幸せだった。
レンの6歳の誕生日、ささやかなパーティーを開いた。ロウソクを吹き消す横顔を見ながら、私は去年の誕生日のことを思い出していた。あの時、レンは一人ぼっちだった。でも、もう二度とそんな思いはさせない。
「バーバ、お願い事した」
「何をお願いしたの?」
「バーバと、ずっと一緒にいられますようにって」
その言葉に、私の目に涙が浮かんだ。
「大丈夫よ。ずっと一緒よ。約束」
「約束!」
小さな指切りをした。この約束は、必ず守る。
最近、レンは将来の夢を語るようになった。
「レンね、大きくなったら警察官になる」
「どうして警察官?」
「悪い人を捕まえて、みんなを守るの。バーバみたいに」
私は警察官ではないけれど、レンにとって私は正義の味方なのかもしれない。
「素敵な夢ね。応援するわ」
「うん。頑張る!」
夜、レンが寝た後、私は日記を書いている。
「今日もレンは元気だった。学校の準備も楽しそうにしている。この子の笑顔が私の生きる力になっている。あの時、息子夫婦を許さないと決めたことに後悔はない。レンを守ることが私の使命だったのだ」
時には、血の繋がりよりも心の繋がりの方が強いこともある。レンと私がそれを証明している。
私は思う。同じような境遇の人たちへ伝えたい。虐待は決して見過ごしてはいけない。たとえ身内であっても、子供を守ることが最優先だ。私も最初は迷った。息子を警察に突き出すことにためらいもあった。でも、この子の命と心を守ることの方が大切だった。正しいことをするのに、遠慮はいらない。
今、私たちは本当に幸せだ。血の繋がった親子よりも深い絆で結ばれている。
レンの寝顔を見ながら、私は思う。この子が大人になった時、今度は自分の子供を大切に育ててくれることを。虐待の連鎖はここで断ち切る。愛情を受けて育った子供は、愛情を与えられる大人になる。レンはきっと、素敵な大人になってくれるだろう。
「バーバ…」
寝言で私を呼ぶレン。そっと布団をかけ直してあげる。この小さな命を守れたことが、私の人生で最も誇れることかもしれない。
息子と嫁への怒りはもうない。ただ、哀れみを感じるだけだ。人として最も大切なものを自ら捨ててしまったのだから。でも、それも自業自得。選んだ道の結果は、自分で背負うしかない。
私とレンは、これからも二人で歩いていく。時には三人だった頃を思い出すこともあるかもしれない。でも、振り返らない。前を向いて、幸せに生きていく。それが、私たちの選んだ道だ。



