「お前、俺に反抗するのか? なんて生意気なやつだ。いい加減にしろよ」
本社から視察に来た課長が、ドナルと同時に目の前のテーブルにあったコップを掴んだ。まずいと思った時には、もう遅かった。冷たいお茶が、俺の顔面に浴びせられたのだ。
「大学まで出ておいて、こんな店舗で下っぱ従業員をやってる負け犬が、エリートの俺に歯向かうなんて100年早いんだよ。今日のことはマイナス査定だ。次のボーナスの時、泣くはめになるぞ」
そう言って、愉快そうにゲラゲラと笑う。最初は理解が追いつかず呆然としていたが、時間が経つにつれて、ふつふつと怒りが湧いてきた。一番忙しい時間に、くだらないことで呼び出しておいて、何がエリートだ。単なる邪魔でしかないじゃないか。
俺が意見したのだって、店とお客様のことを考えてのことだ。なのに、この人は全く分かっていない。
「今日のことはマイナス。さて、それはこっちのセリフです。最も、あなたの場合はボーナスで泣くだけでは済まないでしょうけどね」
そう言い放ち、満足げな表情をして帰っていく課長の背中を見ながら、俺はある行動を起こすことにした。
俺の名前は橋本ひ。地方に展開している食品スーパーで働いている。大学在学中にマーケティングを専攻していたのだが、その知識を生かして店舗を盛り上げることにやりがいを感じている。学んだことを実際の現場で試し、良くも悪くも出た結果を元にして、次を考える。そんなトライアンドエラーを繰り返す日々は、とても充実感があるものだし、お客さんに喜んでもらえた時の笑顔を見るのも大好きなので、この仕事を選んで本当に正解だと感じている。
「ひ君、ちょっと来てくれ」
ある日、店長にバックヤードに来るように呼び出された。店長にそんな風に呼び出された経験がないため、ちょっとドキッとしながらバックヤードに行った。
「最近、本社の人間が抜き打ちで視察しているらしいんだ」
「そうなんですか」
「しかも、視察された他の店舗は、ことごとく小言を言われてるらしくて」
「それって、その店舗がよっぽどひどかったってことですかね?」
「うーん。その店舗の店長の話では、そんなことはないらしいんだ」
店長は、抜き打ち視察が来ることを心配しているようだ。
「ちょっとしたことでも指摘されて、きついことを言われるという話も聞いたから、気をつけてね」
俺自身、与えられた仕事はしっかりやっているつもりだ。抜き打ち視察が来ても、指摘されるような部分はないと思ったが、気をつけるに越したことはないだろう。ちょっとしたことでも、本社の人間からすれば問題視されてしまう可能性もある。とりあえず、視察のことにも気を配りながら仕事をしようと思い、仕事場に戻った。
そんな店長の呼び出しから数日後。お店のピーク時間で、お客さんが多く、忙しく働いていた。
「ひ君、ちょっと来てくれるかな?」
そんなタイミングで、店長に呼び止められてしまった。
「今すぐにですか?」
「ああ、ちょっと」
店長は少し青ざめたような難しい顔で言うと、そそくさとバックヤードへと戻っていく。今が一番忙しい時間なのに、早く現場に戻らないとまずい。店の状況を理解している店長は、普段この時間帯に俺を呼び出したりしない。
不思議に思いながらバックヤードに着くと、そこにいたのは店長に加えて、見たことがない男性だった。誰だろうかと頭の中で考えていると、
「この無能が」
突然、怒号を浴びせられた。いきなり見知らぬ男性に怒鳴られ、何が何だか分からず混乱してしまう。
「まあまあ、横部さん。ひ君、この人はね、視察に来られた本社の横部課長だよ」
俺と男性の間に割って入った店長が、怒っている男の正体を教えてくれた。横部という名前には聞き覚えがあった。30代前半で課長へスピード出世を果たした切れ者だという噂が、俺の耳にも届いている。少し前に店長が話していた、抜き打ち視察をしていた人物というのが、この横部さんだったらしい。
そんな人物が今、俺に対して怒りをぶつけている。身に覚えはなかったが、出会い頭に怒鳴られているということは、俺は何かしてしまったのだろうか。
「あの、俺、何かしましたか?」
なぜ自分が怒りを向けられているのか、その理由が知りたくて横部さんに訪ねた。
「何かしましたか、だと? お前、なんで怒られてるのか分からないっていうのか」
「すいません。本当に身に覚えがなくて。教えていただけますか?」
「よくもまあ、白を切れるもんだな。これを見ても、同じことが言えるのか?」
再び横部さんは怒鳴りながら、目の前の机に写真を数枚並べた。その写真には、ぐちゃぐちゃになった陳列棚が映っている。物は散乱し、商品が違う場所にあったりと、パッと見で荒れていることが分かる。
「荒れてますね、これは。だが、写真に撮られている荒れた陳列棚は、俺が担当している棚ではない」
「こんな売り場で許されるとでも思ってるのか?」
写真を見せ、ドヤ顔で詰め寄ってくる横部さん。だが、俺が担当していないところのことで、なぜ怒鳴られるのか理解できない。
「すいません。この売り場は自分の担当ではなくて」
「はあ? そんなこと聞いてねえよ。一つの売り場が荒れてたら連帯責任だ。しかも、今日来てる社員はお前一人なんだから、お前に責任があるんだよ」
独自の理論を展開されて、なんと返したらいいか分からなくなってしまう。確かに写真の陳列棚は、いつも以上に荒れている。だが、この時間はお客さんの数がすごい。たくさんのお客さんが陳列棚の商品を取るため、ぐちゃぐちゃになりやすいのだ。それにお客さんの対応でいっぱいの従業員は、陳列棚の整理までする余裕がない。どうしてもこの時間の陳列棚を綺麗な状態で維持するのは難しい話。いつもみんな、ピークが終わり、少し余裕が出てから陳列棚を整頓するのが日常だ。
「この時間はお客さんが多いので、陳列棚はどうしてもこうなってしまうんです」
「はあ? こうなってしまうじゃないだろう。しないようにするんだよ。お前の手は何のために付いてるんだよ。飾りか?」
「そんなことを言われましても」
仕方のないことだと思うのだが、横部さんはそう思わないらしい。現場を見ていないからそう思うのかもしれないが、従業員はピーク時、止まることなくずっと動いているような状態だ。それだけ忙しいのに、陳列を綺麗な状態で営業し続けるなんて、今よりも従業員を数人追加しないとできない話だ。
「すいません。この時間は本当に忙しいんです。現場に戻らせてください」
「ああ? 俺の話はまだ終わってないぞ」
「お願いします。早く現場に戻らないと」
横部さんはまだ言い足りない様子だったが、これ以上横部さんに時間を割くわけにもいかない。俺がこの場所にいる間も、残された従業員たちが必死でお客さん対応に追われている。この時間は従業員が一人欠けるだけでも大きな影響が出てしまう。それこそ、正社員として俺が仕切らなければいけないことも多い。それが分かっている俺は、一分でも一秒でも早く現場に戻りたかった。
その焦りから、俺は横部さんを押し切るような形で自分のお願いを通そうとしてしまう。だが、横部さんが怒っている状態で俺がこういう反応をしてしまったのが、良くなかったようだ。
「お前、俺に反抗するのか? なんて生意気なやつなんだ。いい加減にしろよ」
横部さんがどなると同時に、目の前のテーブルに置いてあったコップを掴んだ。まずいと思った時には、すでに遅く、コップに入った冷たい液体が俺の顔面に浴びせられていた。匂いから、それがどうやらお茶らしいことが分かる。おそらくは店長が横部さんに出していたのだろう。髪の毛からお茶がポタポタと滴り落ち、俺は驚いて声が出せない。
「コラ、なんてことを」
「うるせえな。お前は黙ってろ」
慌てる店長を一喝し、その場で固まっている俺のことも気にも止めず、横部さんはファイルを手に取り、中身を見始める。
「ええ? お前、こんないい大学出ておいて、こんな店舗で下っぱ従業員かよ。負け犬じゃないか」
「え? 何の話ですか?」
「親御さんもかわいそうにな。いい大学にお金かけて入れたのに、スーパーの従業員とか」
どうやら横部さんが見ていたのは、俺の履歴書だったらしい。俺は、大体の人が聞けば分かるような、名前の知られている大学に行っていた。横部さんは、いい大学を出ている俺がスーパーの従業員をしていることで、ここでしか内定がもらえなかった奴だと認識したらしい。その認識は大きな間違いなのだが、俺は別にそんなことはどうでも良かった。俺は今の仕事にやりがいを感じているし、この会社で働いていることに対して不満はない。自分で望んでこうしているのだから。
だが、横部さんは俺を責める新しい理由ができたと嬉しそうに、暴言を吐き続ける。
「こんな負け犬が、エリートの俺に歯向かうなんて100年早いんだよ。今日のことはマイナス査定だ。次のボーナスの時、泣くはめになるぞ」
俺が黙っているのをいいことに、横部さんは好き勝手に言い放ち、最後は満足げな表情をして帰っていった。正直、お茶をかけられたインパクトが強すぎて、その後の横部さんの話はボーッと聞いていただけだった。
「なんて人だ。いきなり来て好き勝手言うだけじゃなく、人にお茶をかけるなんて」
いつも穏やかで人の悪口を言わない店長が、憤慨している。俺もその声でふと我に返り、横部さんに言われたことを思い出して、とても腹が立ってきた。だが、本人が帰った後で怒っても意味がない。店長に頭を下げ、俺は気持ちを切り替えて仕事へと戻った。
だが、人の話を聞かず、あんなにひどいことを言う人が課長だなんて。仕事に集中するつもりだったが、思い出してしまう。このままにしておけば、俺のような人がたくさん出るだろう。店長から聞いた話では、他の店舗にも抜き打ち視察に行っていたという。店長の口ぶりからも、他の店舗でも俺みたいな人がいる可能性は十分にあるだろう。
横部さんを、このままにしておくべきではない。そう思い至った俺は、である行動を起こすことにした。
翌日、俺は本社で行われる会議に出席することになった。この会議は、会社の中でも社長を含め、上の役職の人々が参加する会議だ。普通であれば、役職も付いていない従業員である俺が会議に出ることは、とても不思議な状況だ。
会議室に入ってきた横部さんは、すぐに俺の姿を見つけ、顔を真っ赤にして近づいてきた。
「お前、昨日の件、何しに来た?」
そう怒鳴り散らす。他にも会議室には人がいるというのに、周囲が見えていないのだろうか。
「何しにって、会議に参加をしているのですが」
怒りを露わにする横部さんと対照的に、俺は冷静に答える。
「スーパーの従業員なだけのお前が、この会議に参加できるわけないだろう。いいから、さっさと帰れ」
横部さんは俺をこの場から追い出したいようだ。俺に役職がないことを理由に、帰れと命じるが、従うつもりはない。
「横部さん、俺はあなたと昨日のことを話し合いたいんですよ。そのために来ました」
俺がこの会議に参加した目的は、従業員に対する横部さんの目に余る態度を、上の人間に知ってもらいたいからだ。
「何を言っているんだ? 俺は間違ったことをしていないし、こんな場で話し合う必要は全くない。昨日は幻を見たんだろ?」
横部さんは、自分が俺にしたことが間違っていることだと理解していないのだろうか。そう思っていたところで、今まで話を黙って聞いていた社長が口を開いた。
「ひ君が、話し合うべきだと言っている。一度、しっかり話し合ってみてはどうかな」
ただの従業員である俺の言葉を社長が通したことで、横部さんは口をあんぐり開けて驚いた。
「社長、なぜ役職のある私ではなく、一従業員のこいつの言うことを聞くんですか? こいつは問題がある従業員だったから、昨日私が指導しただけで」
横部さんからすると、昨日の言いがかりとしか言いようがない出来事が、指導だったらしい。呆れて言い分にため息が出そうになる俺の視線の先で、社長が横部さんの知らない真実を明かした。
「ひ君はなあ、私の孫だ」
「え? 社長のお孫さん?」
横部さんが両目を目一杯見開いて驚いた後、俺と社長を交互に見た。
「創業者の一族でもある人には、この場での発言権もあると思うのだが、君は不満だというのかな?」
「え? いや、そ、それは本当なんですか? そんな話、私は一度も聞いたことがないのですが」
横部さんはそう言うが、偽りはない。この会社の社長は、俺の祖父なのだ。父親は他に夢があるとかで会社を継ぐ予定はなく、今は違う会社で仕事をしている。俺には兄弟がおらず、会社を継ぐ可能性が今一番高いのが、社長の孫であるこの俺だった。
「まあ、社長に言わないでもらってましたし、自分でも誰にも言ってませんでしたからね。まだ言う必要はないと思っていましたし」
俺はこの事実を知られたくなかったのだ。会社の人にこの話を知られてしまったら、おそらく周囲の人間に気を使われるようになってしまう。俺は社長の孫として周囲に気を使われながら働きたいわけではなく、一社員として普通に仕事をして、実績を積み上げていきたかった。そのために、俺は会社を支えられる知識を身につけようと大学でマーケティングを学び、現在は最も顧客と近い場所であるスーパーで従業員として働いている。こういった背景があったので、今日まで俺が社長の孫であることを知っているのは、会社側のごく近い一部しかいない状況だった。
どこか呆けたような表情で固まってしまった横部さんをスルーして、俺は立ち上がると、一つ咳払いをしてから、会議に参加している役員の方々を見渡した。
「皆さん、こちらをご覧ください」
そう言って、会議室のスクリーンにとある映像を流し出した。そこに映し出されたのは、横部さんだった。横部さんは、俺が働くスーパーの売り場に立ち、何やら周囲を伺うように見渡した後、その手を商品へと伸ばす。そして、整っていた売り場を荒らしていった。
「なんてことを」
会議参加者の誰かが呟くのが聞こえてくる。横部さんが視察に来た日、俺は横部さんに売り場が荒れているという理由で怒られた。売り場が荒れていたのは、横部さんが自ら荒らしたからであって、俺や従業員、お客様のせいでもなかったのだ。
「横部さん、これは一体どういうことでしょうか?」
「あ? なんだよ」
「ここに映っている、売り場を荒らしている人物は、どう見ても横部さんですよね」
監視カメラに映っていた情報をもとに、俺に言いがかりを付けているという事実を暴露したのだ。
「これが俺だって? こんな不鮮明な映像で、俺に罪をなすりつけるのか」
しかし、横部さんは映像を見せても、映っているのが自分であるということを認めてくれない。それどころか、俺が冤罪で訴えているかのような言い草だ。
「この映像でも認めませんか? 映像なら、他にもありますよ」
本当はすぐに認めて謝罪して欲しかったが、認めないので仕方ない。横部さんは、俺が働く店舗以外でも同じことをしていた。俺の店舗の映像は確かに少し画質が荒い部分があり、苦しいながらに自分じゃないと否定できたかもしれない。しかし、他の店舗の映像では、言い逃れができないほどはっきりと横部さんの姿が映っていた。
「どうですか? どう見ても横部さんですけど」
「これは、その」
どうにか否定したいようだが、こうはっきり映っていると、何の言い訳も見つからないようだ。
「横部、これはどういうことだ? お前は自分じゃないと否定していたが、どう見てもお前だな」
「えっと、はい、すいません」
社長に厳しく問い詰められ、もう横部さんも認めるしかなくなったらしい。青い顔をして、肩を落とした。
「君は、なぜこんなことをしたんだ? 理由を教えなさい」
「それは、その。抜き打ちで検査に行くと、現場の人間はすごく焦る。そして、この指摘をすると、ストレス発散になったんです」
「それで」
なんて身勝手な理由なんだ。俺がこうやって真実を暴けたから良かったものの、それができなかったら、俺だけではなく他の店舗の従業員も、不当な評価を受け続けることになっただろう。
「あなたの仕事は、現場を持て遊ぶことですか? そんなことで給料が発生するとでも思ってるんですか? 自分の役職の責任を考えてください」
怒りで体が震える。
「そんなつもりでは、あの、すいません」
もう反論する気も起きなくなったのだろう。俺が経営者の親族なことも分かり、以前のように俺に対して威圧的な態度は取れない。それに証拠も、他の役職のあるメンバーに見られてしまったのだから。
「横部、お前はもう課長でいられると思うなよ。処罰は追って通達する。それまで、自宅謹慎だ」
社長の言葉に、横部さんは力なく、ヘナへとその場に崩れた。
その後、横部さんは役職なしの平社員への降格と、一年間の実店舗勤務という処分が下された。店舗で従業員として働かせることで、彼の思い違い、スーパーを経営する会社の社員としてのあり方を学ばせようとしたらしい。だが、その処分を聞いて、横部さんのあの性格で実店舗で働くことなんてできるのだろうかと思ったが、俺のその心配は的中した。
「横部さん、解雇されたらしいよ」
休憩中に店長と雑談している時、店長が横部さんのその後を語ってくれた。横部さんは、ただの従業員という立場になったにも関わらず、課長だった時と態度が変わることはなかったのだ。偉そうな態度、他の従業員に対して命令するといった問題行動が、度々見られたらしい。課長という役職があれば他の従業員も言うことを聞くだろう。しかし、問題を起こして降格になった人間に偉そうにされても、素直に従う人間なんてそういない。さらにはお客さんにも横柄な態度を取り、度々クレームが入ったそうだ。その状況だけでも上層部は問題視していたというのに、横部さんは自分のミスを他の従業員に押し付けようとしたらしい。
それが決定打となり、横部さんをこのまま会社に置いておくわけにはいかないと思った上層部が、横部さんを解雇することを決めた。
「俺は悪くない。周りの奴らが俺を貶めたんだ。無能な奴らが俺をはめようとしただけなんだ。俺はいつだって正しい」
解雇を告げられた横部さんは、そう喚き散らしたようだが、そんな横部さんの言葉を信じる者などいない。彼は短時間で問題を起こしすぎた。最後のセリフからも分かる通り、彼は何も変わっていないし、反省していたわけでもない。このまま店舗で働かせていても、問題ばかりを起こし、職場を混乱させるだけなのだから、この判断が間違っているとは思わなかった。
俺が横部さんを断罪した会議室では、謝罪を突きつけられて反省しているかのように見えたのだが、人間はそう簡単には変わらないらしい。
「それにしても、ひ君。まさか君が社長の孫だったなんてね。お手柔らかに頼むよ」
「店長、もうやめてくださいよ」
店長の意地悪な笑みに、俺も苦笑してしまう。横部さんの一件以降、俺が社長の孫であるという噂はあっという間に広まってしまい、周囲の知るところとなった。本当はこんな予定ではなかったのだが、横部さんの悪事を暴くことができたのだから、仕方ないと思うことにした。
「皆さん、俺は確かに社長の孫です。しかし、皆さんと同じように働きたいと思って、その事実を黙って働いていました。どうか、今までと同じように接してください」
そうは言ったものの、俺が逆の立場だったら、どう接したらいいか悩んでいたはずだ。実際、周囲も俺をどう扱っていいか戸惑っていたようだった。それでも、少しずつ前と同じような態度で接してくれるようになった。今では、こうして社長の孫を雑談のネタとして言ってもらえるくらいだ。
俺の希望通りに振る舞ってもらえて、周囲の人たちには頭が上がらないくらい感謝している。周囲の協力のおかげで、以前と同じように仕事に励んでいた俺だが、ある日、社長である祖父から久々に連絡が来た。
「ひ、最近はどうだ? うまくやってるか?」
「みんな、社長の孫だって分かっても変わらない態度でよくしてくれて、本当に助かってるよ」
「そうか。ひ、そろそろ本社に移動してこないか」
祖父からの急な申し出に驚く。将来的にはと考えていたが、自分自身、まだまだ本社勤務できるような器ではないと思っている。
「本当にありがたいお話なのですが、自分はまだ本社勤務は」
「お前、頑張っていると周囲からも聞いているぞ。お前ならできると思うが」
そう言ってもらえるのは嬉しいのだが、自分自身、まだ今のお店でやりきれていない部分もたくさんあるのだ。
「もう少し時間が欲しいです。まだ自分には経験が足りません。もう少し、現場で経験を積みたいんです」
「そうか。お前がそう言うなら、もう少し今の場所で頑張ってみなさい」
周囲も祖父も認めてくれていることは素直に嬉しいし、本当に恵まれていると思う。わがままを言っているとも思ったが、祖父も俺の気持ちを理解してくれたようだ。もうしばらくは、今の店舗で働くことになった。
本社勤務になってしまうと、お客さんと直接関わる機会も減ってしまう。今はもう少し、お客さんと直接関われる環境で経験を積んでいこうと思う。後々、上に立つ者として恥ずかしくない人間になるために。



