「レジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるって。」
見合いの前日、実家の玄関で靴を履く私の背中に、妹の美ゆが笑い声を投げてきた。母は奥から「いつも通りの格好で行きなさい」とだけ言って、玄関まで出てこない。私は1000円台のブラウスと、角のすり切れた鞄を持って家を出た。
相手は時グループの社長。妹が写真を見て「つまんなそう」と放り出した縁談だった。断ってもらうつもりで行った。だから「お仕事は何を?」と聞かれた時、私は迷わず答えた。
「スーパーでレジを売っています。」
これで終わる。そう思った。ところが、時優馬という人は眉一つ動かさなかった。話は途切れず、私はグラスに手を伸ばした。その瞬間、彼の目が止まった。私の右手に。
「まさか…」
低い声だった。
「僕と結婚してください。」
私は水を飲むのを忘れた。あの人が見ていたのは、私の顔ではなかった。
私は瀬彩佳。32歳。東京の職人町に小さな工房を借りている。表に看板は出していない。そこで毎日、金属を削っている。週に1度、火曜の夕方だけ、工房から歩いて5分のスーパーでレジに立つ。3時間だけの登録パートだ。
なぜレジに立つのか。一度、店長に聞かれた。人の手が一番よく見える場所だからだ。1日に何百人もの手が私の目の前に1000円札を置いていく。節くれだった手。指輪の跡だけが白く残った手。その手を見ていると、次に作りたい形が浮かぶ。
私に別の仕事があることは、店長も知っている。ただ、「細工」とだけ聞いている。会社をやっているとは思ってもいない。
実家は埼玉の川口。父は瀬金属工業という会社の社長で、従業員は12人。母と、28歳の妹・美ゆがいる。9年前、私が勤めをやめて自分の工房を始めた時、父はこう言った。
「勤めもしないで遊ぶなら、家に10万入れろ。それが筋だ。」
父の中では、給料をもらう者だけが働いていた。その月から毎月10万円を実家に振り込んでいる。9年、一度も欠かしていない。合計は1080万円。振り込みの控えは全部取ってある。数字を覚えるのが苦手だから、紙に残す。工房を始めた日からの癖だ。
2年前の秋、母から電話があった。美ゆが独立するので、200万円必要だと言う。私は翌日に振り込んだ。美ゆからも母からも、礼の一言もなかった。
実家では、私の席は決まっている。食事が終わると母が言う。「彩佳、あんたは手が開いてるでしょ。」そして私は台所に立つ。父と美ゆはテレビの前から動かない。母は茶を飲みながら、流しの私にこう言う。
「美ゆは指を痛めたら仕事にならないんだから。あんたは元々汚れてる手だし、ちょうどいいわ。」
その手で何を作っているのか、母は一度も聞いたことがない。2年前の春、美ゆが私の隣に座って画面を見せてきた。
「ねえ、お姉ちゃん、これ知ってる?『彩佳』って言うブランド。デザイナーが女の人でね、顔を絶対に出さないの。映るのは手だけ。ミステリアスでしょ。あのさ、笑っちゃうんだけど、この会社の社長、お姉ちゃんと同名なんだって。どうせ同名なのに、あっちは世界的なデザイナーで、こっちはレジ打ち。受けるよね。」
母も笑った。「やめなさいよ。彩佳がかわいそうでしょ。」
私は湯飲みを持ったまま、何も言わなかった。言っても信じない。9年かけて、それだけは分かっていた。
6月の夕方、父から電話があった。「見合いの話が来てる。相手は時グループの社長さんだ。分かるか?時グループだぞ。」時グループ。その名前は、父の会社ではなく、私の工房の請求書に毎月載っている。私の一番大きな取引先だ。
見合いの前日、実家に行くと、母と美ゆは写真を挟んで大騒ぎだった。「社長夫人って、どれくらいのバッグ持つの?」父は腕を組んで鼻の穴を膨らませていた。美ゆが写真を持ち上げて、光にかざした。35歳の時優馬さんは、灰色のスーツを着てまっすぐこちらを見ていた。美ゆは写真をテーブルに放った。
「うーん。なんか真面目そう。つまんなそう。」
父が私を見た。「彩佳、お前でいいから行ってこい。」そして付け加えた。「向こうと話が続いたら、うちの会社の名前を出せ。瀬金属工業だ。取引の話まで持っていければ、それでいい。」
私はその時、初めて父の顔をまともに見た。父はこの縁談で娘を嫁がせようとは思っていない。私を使って時グループに入り口を作ろうとしている。私は断るつもりで行く。そして、向こうから断ってもらえばいい。どうすれば断ってもらえるか。電車の中で指を折った。服は1000円台のブラウス。鞄は角のすり切れたもの。仕事は、
「スーパーでレジを打っています。」
嘘ではない。その気になれば、1時間もかからないはずだった。決まっていなかったのは、手のことだけだった。
その日の午後、工房に戻ると、室井さんがルーペを上げた。68歳。私に鍛金を教えてくれた人だ。この仕事に入ったのは、祖母のおかげだ。私の右手の親指と人差し指の間に火傷の跡がある。布の研磨パフを高速で回して磨く機会があって、当てた地金は摩擦で触れないほど熱くなる。それを素手で抑え続けた。14年経っても消えない。中指の側面には硬いタコがある。糸のこぎりとやすりを握り続けた場所だ。この2つが私の履歴書だ。
室井さんの口癖がある。「あんたの手はね、顔より正直だよ。持ち主が何をしてきたか、全部書いてある。もし顔じゃなくて手を見て決める人がいたら、その人は本物だよ。」
9年前にこの工房を借りて、自分で作ったものに名前をつけた。自分の名前の音をそのまま借りて「彩佳」。漢字は使わずカタカナにした。ただの目印のつもりだった。売れ始めたのは6年前。海外で評価されたのが4年前。今では社員が40人いて、前期の売上は14億円。もう私一人の手が届く大きさではない。私が見るのは図面と限定品の仕上げと、新しい取引先だけだ。
5年前、私には結婚を考えていた人がいた。その人は私の作ったものを一度も褒めなかった。別れ際の言葉を今も覚えている。「彩佳さんじゃなくて、その会社と付き合ってたようなもんだよな。」それから決めた。私を測るのに肩書きを使う人には、肩書きを渡さない。顔は隠せても、手は隠せない。
約束の朝が来た。出がけに、父から電話があった。「いいか?忘れるなよ。瀬金属工業。二度言った。」私は靴を履く手を止めた。
「お見合いなんだから。」
「だから言ってるんだ。向こうが乗ってきたら、白木さんにつながる。お前は名前を出すだけでいい。」
「私が何を話すかは、私が決めます。」
父の声が跳ね上がった。「生意気なことを言うな。お前みたいなのを座らせてもらえるだけでありがたいんだぞ。」電話が切れた。続けて母から短い文が届いた。「余計なことは喋らないでね。恥を欠かせないで。」
待ち合わせは都心のホテルのラウンジだった。コーヒーが運ばれてくる。5分前に相手が来た。「時優馬です。」写真より目が優しかった。初めの10分は天気とコーヒーの話をした。それから時さんが湯飲みの向こうで言った。
「お仕事は何を?」
来たと思った。私ははっきり答えた。「スーパーでレジを打っています。」一拍の間があった。ところが時さんはカップを置いて言った。
「立ち仕事は大変でしょう。夕方の時間は特に。うちのホテルにも売店がありますから。」
話が終わらない。私は慌てた。「あの、お給料もそんなに高くないんです。」
「本当に、それが結婚と何か関係ありますか?」
私は口を開けたまま黙った。「うちのホテルに30年、お客様の荷物を運んでいる者がいます。給料の額でその人の値打ちが決まるなら、僕はとっくにその人に負けています。」
穏やかな声だった。押し付けがましさがない。だから困った。仕方がないので、もう一段深く掘った。「実家にも毎月お金を入れているので、貯金もほとんどなくて。9年になります。」時さんはカップに伸ばしかけた手を止めた。「駆け持ちをしていますので。9年は長い。続けられるものじゃありません。」
そこで初めて、私は言葉に詰まった。9年間、誰にも言われたことのない一言だった。父は当然だと言った。母は足りないと言った。妹は知らないふりをした。「続けられるものじゃない」と言った人はいなかった。
話題が変わって、祖母の話になった。私が祖母の指輪を今も持っていることを言うと、時さんは自分の母の話をした。3年前に亡くなったこと。母が使っていた小さなブローチを今も社長室の引き出しに入れていること。「止め金が硬くて、僕の母はいつも爪で押していました。爪で押すと、そこだけ地金が光ります。」
「金属は残るんです。人がいなくなっても、残ります。」私はそう答えた。仕事の話をしていないのに、仕事の話をしている気分になった。父に言われたことを、私は一度も口に出さなかった。「瀬金属工業」という名前も、取引の話も出さなかった。この席を早く終わらせたかったはずなのに、私はこの人の前で「家の道具」になりたくなかった。
気づけば3時間近くが経っていた。喉が乾いた。私は水のグラスに手を伸ばした。その時だった。時さんの視線が、私の右手で止まった。話が途切れた。ラウンジの音だけが遠くなった。
「失礼。その手、どこかで見たことがある気がして。」
私はグラスを持ったまま動けなかった。親指と人差し指の先の火傷。中指の側面のタコ。隠しようがない。この手だけは、9年ずっと表に出してきた。時さんの喉が上下した。
「まさか…」
私はグラスを置いた。氷が鳴った。それからその人はテーブルに手をついて、頭を下げるようにして言った。
「僕と結婚してください。」
「今、何かに気づきましたよね。」
「気づきました。でも、それは半分です。残りの半分は、この3時間です。」
その場で返事はしなかった。「今日初めてお会いしたんですけど。」
時さんは真面目な顔で頷いた。「では、返事は後日ということで。」
「はい。お待ちします。」
別れ際、その人はもう一度だけ私の右手を見た。見て、何も言わなかった。
実家に帰ると、3人が揃っていた。「どうだった?」母が身を乗り出した。「やっぱり断られたんでしょ。」「1時間で帰ってきた。」私は鞄を置いて、正直に言った。
「3時間かかりました。結婚してくださいって言われました。」
テレビの音だけが残った。3人が同時にこちらを向いた。それから美ゆが吹き出した。「嘘でしょう。」今が笑いで埋まった。母が手を叩き、父まで喉を鳴らして笑った。「あんた、面白いこと言うようになったね。社長がレジ打ち選ぶわけないじゃん。」
父は笑いを納めた顔で言った。「彩佳、相手に失礼なことだけはするなよ。」私は説明しなかった。説明しても、この人たちは同じことを言う。9年で覚えた。
翌日の午後、工房に花が届いた。白と淡い緑の花束で、抱えるほど大きかった。カードには「交際を前提にお付き合いさせていただきたい」という一文と、日付。差し出し人の欄に、印刷ではない文字でこう書いてあった。「時グループ代表取締役 時優馬」。白と緑、棘のない花ばかり選んだある。手を怪我しないようにという意味だと、後で知った。
その日の夕方、母から電話があった。「彩佳、あんた本当だったの?」それから、すぐに美ゆに代わった。声の作り方が前の日と違った。甘く、軽く、機嫌を取る声だった。
「ねえ、やっぱり私も一度会ってみたいな。家族になるかもしれない人でしょ。」
母が横から受話器を奪った。「ねえ、一度みんなで食事しましょう。」
「まだ交際もしていません。」
「だからよ、早い方がいいの。」
母の声が一段低くなった。「あのね、言いにくいんだけどね。美ゆの方がお似合いじゃない?あの子、華があるでしょう。社長さんの隣に立つなら、そういう子の方が向いてるのよ。あんたは昔から地味だし。」
「その人が私に言ったんです。」
「言われたって、あんた続かないわよ。3ヶ月もしたら飽きられるわ。その時に美ゆが控えてたら、家として繋がりが残るじゃない。」
最後に父が出た。「食事会をやる。日曜だ。場所はこっちで決める。時さんに伝えろ。」
食事会の2日前、父に会社へ呼び出された。父は「参考の見積もりと会社の案内」を渡してきた。「時グループの商業施設の分、手すりと建具の金物、うちでできる。これを日曜に時さんに渡せ。」
「お見合いの席で渡すものじゃないでしょう。」
「食事の席だから渡すんだ。会社に持って行っても担当止まりで終わる。社長に直接渡せば違う。」
母が横から言った。「彩佳、あんたがこの家の役に立てる、初めての機会でしょう。」
初めて。9年で1080万円、2年前に200万円。それは役に立ったうちに入らないらしい。
その時、白木さんが現れた。「おお、正さん、書類はできたかい?いや、うまくいってよかった。あんな話でもやってみるもんだね。お父さんに3月から頼まれてね、時さんとこの役員に話を通すのに、こっちも骨が折れたよ。」
3月から。私は聞き返した。妹が写真を見て「つまんなそう」と放り出したのは6月だ。父はこの縁談を3ヶ月かけて作らせていた。誰が座るかも決まっていなかった。座るのが美ゆでも私でも、父にとってはどちらでも良かったのだ。先に妹に持っていって、妹が蹴った。だから私に回ってきた。
「お父さん、最初から取引のためだったんですね。」
父は目をそらさなかった。「両方だ。娘の縁と会社の縁、どっちも家の得だろう。」
帰り際、母が言った。「日曜、美ゆにも新しい服を買ったのよ。あの子、時さんに会うって決まってから、毎日エステに行ってるの。」
「美ゆの機材の時は、母さんが私に電話してきましたよね。」
母の声が一段冷たくなった。「あれは投資でしょ。美ゆはこれから伸びる子なんだから。あんたはもう32でしょ。伸びないんだから、その分を回すのは当たり前じゃない。」
玄関の戸を閉めてから、私はしばらく動けなかった。美ゆからは1円も取らない。私からだけ取る。理由がやっと分かった。理由はなかった。
その夜、工房に戻って、私は棚の下から古い箱を出した。振り込みの控えが束になって入っている。9年分、108枚。輪ゴムで12枚ずつまとめてある。その横に、黒い手帳がある。母から何を頼まれ、いついくら出したのか。日付と金額だけを書いてきた。数字を覚えるのが苦手だから、紙に残す。束をめくると、9年が指の下を流れていった。最初の年、私の月の売上は15万円もなかった。それでも10万円を送った。残りで家賃を払い、地金を買った。米を切らした月もある。
その夜、私は控えの束とその黒い手帳を鞄に入れた。それから財布を開けて、名刺入れから1枚だけ抜き、鞄の奥に差した。「彩佳ジュエリー株式会社 代表取締役 瀬彩佳」。使うつもりはなかった。ただ、もし次に「嘘つき」と呼ばれたら、その時は出そうと決めた。
食事会は2日後の日曜だった。父が決めた店は都内の日本料理屋だった。個室に通されると、父は値段を気にするように欄間を見回していた。美ゆが入ってきた。遅れてきたのは多分わざとだ。真っ赤なワンピースで、髪は巻いてあった。そして当たり前のように時さんの隣に座った。私の席からは一番遠い場所だった。
「美ゆ、そこはいいじゃない。」
「お姉ちゃんは毎日会えるんでしょ。」
母が笑った。「まあまあ、下の子も挨拶したいというものですから。」
美ゆは最初の10分で何度も自分の仕事の話に戻した。「私、美容のお仕事をしていて、動画で化粧品を紹介するんです。今、企業さんのお仕事も頂いてて。4社目の会社だけ、やたらと身元のことを聞いてきて、姉との関係を証明して欲しいとか言い出したから、面倒になって止まってるんです。」
私は箸を置いた。半年前に紹介をよした企業のことが、頭の隅で光った。けれど、名前が出るまでは動かないと決めている。
父が話を戻した。「時さん、うちの会社の話なんですが。」
「お父さん。」
父は聞こえないふりをした。「金属の加工をやっておりまして、手すりや建具でいくらでも。」
「今日は、そのお話は伺わないことにしています。」時さんは静かにそう言った。角のない断り方だった。父の顔が赤くなった。
美ゆが場を取り戻した。「時さん、社長夫人って、やっぱりお付き合いとか大変ですか?私、そういうの慣れてるんです。姉より社交的だから、多分社長夫人向きですよ。」
母が声を上げて笑った。「まあ、あの子ったら。でも、本当のことじゃない。」
美ゆはこちらを指さした。「時さん知ってます?姉なんて、毎日スーパーのレジですよ。レジ打ち。ピッピって。」
母がまた笑った。父が酒を置いていった。「長女は昔から要領が悪くてね。何をやらせても続かん。」
「9年続けてます。」
「そんなもの、続けたうちに入るか。」
そこで初めて時さんが顔を上げた。「どこが良かったかですか?まだ全部は分かりません。分かる前に決めてしまったので。」
それから時さんは私の家族に質問を始めた。従業員の数、会社の歴史、美ゆの仕事の取引先。どれも柔らかい聞き方だったけれど、答えが変わるたびに小さく頷いて、次を聞いた。まるで部屋の中の柱を一本ずつ叩いて回っているようだった。私は黙って座っていた。言い返さないのは我慢しているからではない。その日の夕方までは、誰にも何も言わないと決めているからだ。半年前から園田さんが追っている売り手の名前が、その日出る。もし出た名前が知らない人なら、私はその日のことを黙って飲み込んで帰る。出た名前が知っている人だったら、その時は飲み込まない。
デザートの前に、美ゆが身を乗り出した。「そうだ。時さん、これ見てください。」美ゆは首元に手をかけて、ネックレスを両手で持ち上げた。18金の細い鎖に、小さな粒が7つ。粒の大きさをわざと揃えず、光の散り方で夜空に見せる。私が3年前に作ったものだ。「星くず」という名前をつけた。
「これ、『彩佳』ってブランドの限定品なんです。直営だけで100点しか出てないんです。定価で48万円ですよ。」
「よく手に入りましたね。」
美ゆの目が一瞬泳いだ。「まあ、ルートがあって。そういうの詳しい人がいるんです。私、顔が広いので。」
母が得意気に口を挟んだ。「この子ね、そういうのを見つけるのが上手なんですよ。安く買えるルートを持ってるって、いつも自慢してるんです。」
「お母さん、それ言わないでよ。」美ゆは母の肩を軽く叩いて笑った。
私は鎖を持ち上げた。粒の並びは合っている。金具の形も鎖の編み方も、うちのものだ。指を滑らせて止め金を裏に返した。プレートの裏に小さな刻印がある。品番の印と工房の印と、通し番号。うちの限定品は、私が一つずつ打つ。爪を立てた瞬間、違和感が来た。引っかからない。打った印は地金が逃げて縁がわずかに盛り上がる。叩けば必ずそうなる。削って掘った印は盛り上がらない。
番号は明かりにかざして目を細めれば読めた。その番号には見覚えがあった。番号は苦手でも、自分の手で直した品の番号だけは忘れない。そして、その番号を持っている千葉のお客様は、今もこれを手放していない。前の年の秋、鎖の直しで預かったばかりだ。つまり、同じ番号が2つある。どこをなぞっても、縁が起きていない。削り取った後だ。
顔を上げると、時さんがこちらを見ていた。私は鎖を見つめたまま息を整えた。言うのは簡単だった。今ここで「これは違う」と言えばいい。けれど、この子はその晩のうちに出品を消す。それに、今の私には偽物だと言い切る根拠がない。あるのは刻印の癖だけだ。名前が出るまでは黙る。それだけを守ればいい。私は鎖を畳んで、テーブルの中ほどへ戻した。
その時だった。時さんが湯飲みを置いて、こう言った。
「買う必要はないでしょうね。」
場の空気が白んで、遅れて止まった。
「え、『彩佳』さんは、それを買う必要がありません。逆です。その『星くず』を作った本人ですから。」
個室が静かになった。父の箸が止まった。母の口が半分開いた。美ゆは意味を取り損ねた顔で時さんを見ていた。「うちの姉ですよ。うちの姉のレジですよ。ピッってやってる人ですよ。作れるわけないじゃないですか。」
「作れます。手を見ました。」
最初に立ち直ったのは父だった。父は時さんに向かって深く頭を下げた。「娘がとんでもないことを吹き込んだようで。」
「吹き込まれてはいません。」
父は私を見もせずに言った。「彩佳、お前も謝れ。」
「何をですか?」
「嘘をついたことをだ。」
私は膝の上の手を見た。爪が短い。指の腹が硬い。この手で9年やってきた。「嘘はついていません。」
母がテーブルを平手で叩いた。「彩佳、いい加減にしなさい。あんた、昔からそうよ。目立ちたがりで話を大きくして。中学の時も作文で嘘書いたじゃない。」
「あれは創作の宿題でした。」
「口答えするところが可愛くないのよ。」
「私、口答えしましたか?」
「ほら、それが口答えでしょう。」
美ゆが笑い出した。笑いながら、目だけが笑っていなかった。「じゃあ何?お姉ちゃんがあのブランドの社長だって言いたいわけ?証拠は?これ作ったって言うなら、今ここで同じもの作って見せてよ。できないでしょ。当たり前だよね。嘘なんだから。」
私は答えなかった。今この場で同じものを作れと言われて作れる人間は、この世にいない。鎖を編み、粒を7つ溶かして揃え、止め金をつけて仕上げるまで、工房で手で4日かかる。「ほら黙った。」美ゆが勝ち誇った顔で母を見た。
父が畳みかけた。「時さん、こんな娘ですが、悪い子じゃないんです。ただ、その…頭の中で作る癖があって。『妄想癖』ってやつですよ。」
美ゆが言い添えた。「昔から友達もいないから、そういうことでもしないと。」
その時、時さんが顔を上げた。目は母ではなく美ゆに向いていた。その時だけ、声の温度が変わった。
「先ほど、何とおっしゃいましたか?」
「え、妄想癖と。」
「例えばの話で。」
「『例えば』って、人にその言葉を使いますか?……では、彩佳さんも笑っているはずですね。」
個室が静まった。誰も私の顔を見なかった。見れば、笑っていないことが分かるからだ。
その時、鞄の中で携帯が震えた。私は廊下へ出て、画面を見た。園田さんからだった。園田まりさん。42歳の弁護士だ。
「社長、出ました。アプリの外で買った1点です。指定された振り込み先の名義と、荷物の発送元を確認しました。『美ゆ』さん。ご住所は埼玉県川口市。」
その後読まれた番地は、私が生まれてから18年住んだ場所だった。私は壁に手をついた。驚きはなかった。半年前、私はそのアカウントを自分の指で開いて、そして閉じている。あの時閉じた画面の中にいた人が、今そこにいる。「これから先はこちらで手順を踏みます。まず書面を出して、事実だけを確認します。断定はしません。その場では、ご自分の言葉で相手を決めつけないでください。順番を守れば、この件は必ず片がつきます。」
「わかりました。」
電話を切って、私はしばらく壁を見ていた。半年前、私はどうして打ち切ったのだろう。化粧品ばかりが並んだ画面を見て「違う」と決めた。決めたかったのだと思う。妹だと思った瞬間から、先に進むのが怖かった。進めば、この家に残っている最後の1枚が剥がれる。私はそれを剥がしたくなかった。自分の弱さの分だけ、半年が伸びた。
私は襖の前に立った。中ではまだ私の話が続いていた。「本当に困った子で」という母の声。「まあ、悪い子じゃないんです」という父の声。「昔からああなんですよ」という妹の声。私は襖を開けた。奥に差してある1枚を指で引き抜く。使うつもりはなかったけれど、2日前に決めていた。次に「嘘つき」と言われたら、その時は出すと。
襖を開けると、3人が一斉にこちらを見た。私は席に戻らず、テーブルの端に立ったまま、その1枚を父の前に置いた。白い紙が1枚。それだけだった。父は最初、名刺だと分からなかったらしい。老眼鏡を探して胸を叩き、それから顔を近づけた。
「彩佳ジュエリー株式会社 代表取締役 瀬彩佳。」
父の口が動いた。声が出るまで時間がかかった。母が横から覗き込んだ。「社長、誰が?」
「私です。」
「あんたが?」
「はい。」
父は携帯を取り出した。震える指で会社の名前を打ち込んでいる。画面が光って、父の顔が固まった。「代表取締役 瀬彩佳。従業員40人。」
美ゆは動かなかった。胸に押し当てていたネックレスは、気がつかないうちに美ゆの膝の前まで下がっていた。「嘘?」
「本物です。」
「だって、どうせ同名だって。」
「2年前にネットで見て、お姉ちゃんと同じ名前の人がいるって笑ったじゃん。笑ってたね。」
そこで時さんが口を挟んだ。「うちのホテルで、大切なお客様にお渡しする品は、全部こちらの会社のものです。年間で8000万円ほどです。去年からお願いしています。決めたのは僕です。品を見て決めました。うちのお客様は目が肥えています。名前で選ぶと、必ず見抜かれます。」
時さんはこちらを見た。「『瀬彩佳』。同じ名前だと思ってはいました。調べないことにしているんです。肩書きを先に見ると、人を測ってしまう。だから会う前に相手のことは調べません。今日も、白木さんから伺った以上のことは知らずに来ました。ですが、あなたは工房の話を一言もしなかった。だから聞き違いだと思いました。手を見るまで、気づきませんでした。」
私は父を見た。「お父さん、1つ伺っていいですか?去年の秋、うちの工場が宝飾の会社に売り込みをかけましたよね。相手の会社の名前を覚えていますか?」
「担当が会ってもくれんで断ってきたんだ。名前なんぞ。」
「『彩佳ジュエリー株式会社』です。2年前、私と同じ名前の社長がいるって、みんなで笑いましたよね。お父さんは、売り込んだ会社の代表者の名前すら見ていなかったんですね。」
父の指から名刺が落ちた。「あの見積もり書は、担当のところで止まっていません。うちは小さい会社なので、新規の取引は私が全部見ます。断ってから、私は担当に頼んで、業界の名簿と小さい仕事から出している組合を教えさせました。返事は来ませんでした。お父さんは断られた相手の名前を覚えていない。私は断った相手の名前を覚えています。娘の会社だったからです。」
父の顔から血の気が引いていった。そこで初めて、私は自分の中の何かが冷たく落ち着くのを感じた。怒りではなかった。9年分の、静かな片付けだった。
母が急に高い声を出した。「ちょっと待って。じゃあ彩佳、あんた、お金は?社長さんなら、その、いくらくらい。だってあんた、うちに10万しか入れてないじゃない。もっとあるでしょって話をしてるの。」
美ゆの手だけが動いていた。膝の前に下ろしたままの「星くず」へ、ゆっくりと手が伸びていく。指先が鎖に触れる寸前だった。伸びた手より、時さんの方が早かった。その人は鎖を指で救い上げると、誰の前でもない場所へ置いた。テーブルのちょうど真ん中だった。
「しばらくここに置いておきましょう。」
沈黙を破ったのは母だった。手のひらを返す音が聞こえた気がした。「彩佳、あんた、やっぱりね。お母さんね、昔から思ってたのよ。この子は手先が器用だって。ほら、小学校の図工でね、賞をもらったことがあるの。」
「もらっていません。」
「あら、そうだった。でも器用だったのは本当よ。賞をもらったのは美ゆです。習字で。」
父が身を乗り出した。「彩佳、なんで言わなかった?」
「言ったら、どうなりましたか?」
「そんな話をしてるんじゃない。親に言うのが筋だろう。」
美ゆが椅子ごと近づいてきた。「お姉ちゃん、すごい。なんで教えてくれなかったの?私、お姉ちゃんのブランドめちゃくちゃ好きだったんだよ。知ってたら自慢したのに。」
「さっきまで『ねじ打ち』って笑ってたよね。」
場が止まった。母がすぐに取り繕った。「あら、彩佳、家族の冗談じゃない?」
「冗談ですか。私は一度も笑えなかったけど。」
母は湯飲みを置いて、携帯を探し始めた。「おばさんによ。あの人、いつも美ゆばっかり褒めるから。彩佳が社長だって聞いたら、どんな顔するかしらね。」
「やめてください。私の仕事は、お母さんの自慢の材料じゃありません。」
美ゆが横から言った。「ねえ、お姉ちゃん。私、あのブランドのファンだったんだよ。だから宣伝してあげよっか。フォロワー4万人いるから。お姉ちゃんのブランドですって出せば、絶対バズるよ。」
妹の顔に嘘はなかった。本気でそれが姉への贈り物だと思っている顔だった。自分が今まで何を言ってきたかは、この子の中でもう片付いている。
父が咳払いをして話を戻そうとした。「まあ、その話は後だ。彩佳、それより会社のことだが。あの見積もり書、時さんじゃなくて、お前のところでもいい。宝飾なら、うちの技術で。」
「その話は、さっきしました。」
その時、廊下から店の人の声がした。「失礼します。お連れ様がお見えです。」襖が開いて、園田まりさんが立っていた。黒いスーツに、大きめの鞄。この人がこの鞄を持って現れる時は、中身が全部揃っている。園田さんは畳に膝をついて、丁寧に頭を下げた。「彩佳ジュエリーで法務を担当しております、園田と申します。」
園田さんは私の隣に座り、鞄から書類の束を出した。「半年前、ある企業様から当社に紹介がありました。当社の社長の親族と名乗る方から商品を仕入れているという人物がいるが、事実かと。当社の商品は直営店と正規の取り扱い店以外に下ろしていません。そこで調査を始めました。実際に買ってみました。全部で6点です。うち5点がアプリの中。最後の1点はアプリの外で買いました。」
園田さんは、その場で封を切ってから、白い紙に包まれたネックレスを取り出していった。どれも細い鎖に粒が7つ、「星くず」と同じ形だった。私は1つ手に取った。粒の大きさが揃っていた。揃っていたら夜空にならない。それを知らない人が作ったものだと、すぐに分かった。
園田さんは1枚の紙を出してテーブルに置いた。「振り込み先の口座の名義と、送られてきた荷物の発送元です。……『美ゆ』さん。ご住所は、埼玉県川口市。」
母の声が小さくなった。「これ、うちの住所よ。」
園田さんが続けた。「取引の実績と評価の記録から数えられる範囲で申し上げます。この1年2ヶ月で200点。1点あたり5万円。合わせて1000万円ほどです。正規の値段の10分の1ほどです。そして、売る時にこう説明されています。『姉から特別価格で仕入れている』と。」
「待って。」美ゆが顔を上げた。「待ってよ。それは本当のことだもん。私、本当に社長の妹じゃん。」
「さっきまで、私が社長だって知らなかったよね。1年2ヶ月前から名乗ってたんだよね。私が社長だと知ったのは、今日この席でだよね。知らなかったのに、姉からどうやって仕入れたの?まず私に頼んだのはいつ?何を頼んだの?私は何て答えたの?」
美ゆは答えられなかった。そんなやり取りは存在しないからだ。存在しないものを、200回人に説明した。その200回のうち1度でも、この子が私に電話をかけていたら、全部その場で終わっていた。
園田さんが言った。「『星くず』は100点しか作っていません。ですが、この1年2ヶ月で200点が売られています。数が合わない。……私はまだこれが偽物だと断定していません。断定するのは、ここにある現物を当社の工房で確認し、地金の成分も外の機関で調べてからです。今日申し上げられるのは、この刻印は当社が打ったものではないということだけです。」
美ゆは畳を見たまま答えた。「私は本物だと思ってた。ちゃんとした人から買ってたもん。知り合いの紹介で、社員向けの譲渡品だって。最初のは特別に譲ってもらったんだって、売ってた相手が言うから。」
「確かめましたか?」
「確かめてない。だって、本物かどうかって、私が確かめる話じゃないでしょ。売ってる人が本物だって言ってるんだから。」
「あなたはそれを売る時に、私の名前を使った。それは確かめる話じゃなかったの?本物かどうかは、あなたには分からなかったかもしれない。でも、姉から仕入れたかどうかは、あなたにしか分からない。私に一度も聞かずに、あなたはそう言った。なんでそんな嘘がつけたの?」
長い沈黙の後、美ゆが小さく言った。「どうせ同名だと思ってたから。2年前に『彩佳』ってブランドの会社のページを見たの。代表者のところに『瀬彩佳』って書いてあって、びっくりして笑っちゃって。でも、お姉ちゃんのわけないじゃん。スーパーでレジ売ってるんだよ。他人だと思った。そしたら、使えるなって。同じ苗字なんだもん。誰も調べないし。」
園田さんが補った。「実際、こちらへの問い合わせは半年前の1件だけでした。紹介をくださった4社目の企業様から、やり取りの写しをいただいています。この一文がありました。『姉は完全に非公開なので、会社への問い合わせは絶対にしないでください』。契約中の3社は、当社は何も把握していません。その4社目だけがこの条件に従わず、契約を止めたままになっています。」
「3社とはいくらで契約したの?」
「1年契約で、3社とも80万。合わせて240万円です。」
私は父を見た。「お父さん、もう1つはっきりさせておきたいことがあります。今日の食事会、何のために開いたんですか?3月から白木さんに頼んでいましたよね。妹に断られたから私に回ってきた。お父さんには、座るのが美ゆでも私でも、良かったんですよね。」
父の声が裏返った。「家のためだと言ってるだろう。うちは今、仕事が減ってるんだ。12人いるんだぞ。」
「わかります。私も40人います。」
母が急に泣き出した。「お母さんはね、彩佳のことも心配してたのよ。ただね、美ゆは体が弱いから。」
「美ゆは健康です。お母さん、私は手帳を出しました。黒い表紙の、日付と金額しか書いていない手帳です。9年で1080万円、2年前に200万円。合計1280万円です。美ゆからは、いくら受け取りましたか?一円も受け取っていませんよね。私が28の時、母さんに旅行代を渡しました。その分も、この中に入っています。」
それから時さんが口を開いた。「1つだけ、僕の話をさせてください。僕は3年前に母をなくしました。僕の母は、この会社の人間からずっと肩書きで扱われた人でした。『社長の妻』として丁寧にされて、1人の人としては誰にも扱われなかった。先に肩書きを知っていたら、僕はあなたを違う目で見ていたはずです。順番が逆で良かった。先に知っていたら、僕はあなたを『社長』としてしか見なかったはずです。」
私は自分の指先に目を落とした。5年前に別れた人の言葉が浮かんだ。「会社と付き合っていたようなものだ」と言われた時のことだ。あの日から、私は顔も名前も表に出さないと決めた。決めたはずなのに、名前だけは会社の案内に残っていた。残していた理由が、その日やっと分かった。どこかで気づいて欲しかったのだと思う。ただし、正しい人にだけ。
「園田さん、これからどうしますか?」
園田さんは書類を揃えて、静かに言った。「まず書面を出します。事実の確認と販売の停止のお願いです。取引先の企業様には、当社が把握している事実だけをお伝えします。買われた方への返金について、当社が申し上げられるのは、当社が返金の義務を負うということだけです。返金などの請求先は、販売した方になります。ただ、買われた方はそのままにしません。お持ち込みの品は無償でお調べします。同じ『星くず』は作れませんので、ご希望の方には同等の品をお取り替えします。かかった分は、売った方へ請求します。」
「私、そんなお金ない。」美ゆが顔を上げた。
園田さんの声が柔らかくなった。「今日ここで何かが決まるわけではありません。ただ、明日から売るのはやめてください。」美ゆは頷き続けた。その日はそこで終わった。
次の日曜、私は川口へ向かった。時さんも一緒だった。食事会の帰り道で、私は返事をしていた。「結婚はまだ早いです。始めるなら、交際からにしてください。」
「はい。お願いします。」その人はそう言って頭を下げた。
実家の座敷には、4人分の座布団が並べてあった。父はネクタイを締めていた。家でネクタイを締めている父を、私は見たことがなかった。
「今日は私から話します。3つあります。」
父の顔が硬くなった。
「1つ目、実家への振り込みは、今月で終わりにします。」
母の手から茶碗が滑って畳に落ちた。「なんで。9年続けたじゃない。」
「十分だと思います。」
「ちょっと待ってよ。あんた、社長なんでしょ?10万なんて、あんたには小遣いみたいなものでしょう。」
「はい。だからやめるんです。スーパーのレジ打ちの娘から、毎月10万円もらうなんて、申し訳ないでしょ。……『ねじ打ちの娘』からは9年もらってよかったんですか?2年前の200万円も同じです。あれで最後です。人のお願いも、これからは受けません。」
父が割って入った。「彩佳、金の話は分かった。それより会社の話だ。」
「2つ目がそれです。」私は鞄からあの見積もり書を出して、テーブルに置いた。「これはお返しします。うちとの取引はお受けできません。」
「なんでだ?娘の会社だぞ。」
「親の会社だからです。お父さんは去年の秋、うちに断られています。理由は先週お話ししました。あれから体制は変わりましたか?変わっていないなら、答えは同じです。娘だからという理由で通すことはしません。それをやったら、同じ理由でお断りした他の会社に顔が立ちません。」
父は反論できなかった。それから私に向かって怒鳴った。「お前は、親の会社をパート以下だと思ってるのか?」
「逆です。お父さんが私の会社をパート以下だと思っていたんです。それは聞いてなかったからだ。知った途端に利用しようとするから、言わなかったんです。……お父さん、あの日、何とおっしゃったか覚えていますか?あの日、見合いに行く前、お父さんこう言いましたよね。『お前でいいから行ってこい』。私はそれで行きました。行った先で『結婚してください』と言われました。お父さん、あの縁談、私で本当に良かったですね。」
父は何も言わなかった。
その時、母が急に時さんの方へ膝を向けた。「時さん、お願いがあるんです。彩佳に言ってやってください。家族を大事にするようにって。結婚なさるなら、この子の家族は時さんの家族でもあるでしょう。娘に援助を続けるように言ってください。」
時さんはまっすぐ母を見た。「あれは彩佳さんのお金ですよね。」
「でも、家族なんですから。」
「家族なら、どうして彩佳さんの成功をご存知なかったんですか?会社を作って、人を40人雇って、海外で評価されるまでの9年。家族の誰一人、ご存知なかった。それは彩佳さんが黙っていたからだと思いますか?僕は3時間で気づきました。手を見ただけです。」
そこへ美ゆが入ってきた。その日も着飾っていたけれど、先週より化粧が薄く、目の下に隈があった。妹は座らずに、時さんの前に立った。
「時さん、あの、私。私の方が若いし、社長夫人としてふさわしいと思います。姉は地味だし、写真映えもしないし。私なら時さんの会社のことも、いっぱい宣伝できます。」
時さんは立ち上がった。そして妹に向かって、静かに言った。「あなたがお姉さんをどう扱ってきたか、先週よく分かりました。僕はまだ何も持っていない人として彩佳さんに会いました。あなたは僕の名前と会社しか見ていない。肩書きしか見ていない人とは、結婚したくありません。」
美ゆは口を開けたまま、私の方を見た。そして最後にこう言った。「でも、あの見合い、最初は私だったんでしょ?私が行っても良かったんだよね。」
私は妹を見た。かわいそうだとは思わなかった。哀れだとも思わなかった。ただ、はっきり言った。「よかったね。行かなくて。」美ゆが座り込んだ。
「3つ目です。」父が顔を上げた。「これから、この家との連絡を減らします。絶縁するのではありません。用がある時は電話をください。出ます。ただし、お金の話なら出ません。」
「そんな線引きが。」
「9年、線がなかったから、こうなりました。」
話はそれで終わった。私は座布団を戻して、鞄を持った。母が慌てて立ち上がった。「彩佳、お茶。もう1杯入れるから、台所から持ってきて。」9年間、私はその言葉で立ってきた。「手が開いてるでしょ。あんたが持ってきて。」
私は鞄を肩にかけて答えた。「今日は座っていました。座っていた側の人間なので、持ちません。」母は何も言えなかった。
玄関で靴を履いていると、時さんが後ろから言った。「いい家ですね。柱が太い。」外はよく晴れていた。
その夏から秋にかけて、園田さんが順番通りに片をつけた。書面を出し、販売を止め、取引のあった企業には当社が把握している事実だけを伝えた。買った方には品物を無償で確かめる窓口を作った。窓口に来た方には、私が印を打った代わりの品をお渡ししている。妹の仕事は秋を待たずに消えたそうだ。契約を切られた時期はそれぞれ違った。ただ、行きつく先は同じだった。まず投稿を下げるよう言われ、次に経歴の説明を求められ、答えられないと分かると離れていった。買った方への返金と合わせると、返しきれない額だけが残る。妹のところには、買った人からの問い合わせが今も届いているという。「本当に社長の妹なのか」と。本当だった。ただし、名乗った時点では本人が信じていなかった。妹が自分でついた嘘が、そのまま帰っただけだった。
父は私や時さんの名前を使えなくなった。使えなくなって、自分の会社を自分で立て直すしかなくなった。秋に一度だけ電話があり、原板の記録を残す仕組みを入れたと言っていた。その話だけは最後まで聞いた。母は旅行をやめ、買い物を減らしたらしい。おばの手紙で知った。「あなたのお母さんは、今も自分は悪くないと言っている」と書いてあった。「彩佳がいうことを聞けば」と、3人とも同じことを言っているそうだ。
私は連絡を最低限にした。電話がなれば出る。金の話なら切る。それだけだ。
工房は変わらない。室井さんは相変わらず朝から作業台に座っている。私が刻印を打っていると、後ろを通りながら一言だけ言う。「そこは浅い。」「打ち直します。」そういう日々が、私には一番向いている。
10月の火曜、港屋のレジに立っていると、店長が通りがかりに言った。「は瀬さん、最近ちょっと顔つきが変わったね。なんていうか、肩の力が抜けた感じ。」私は笑って、次の客を引き寄せた。田島さんだった。指輪の抜けない、あの人だ。小銭を数える手を、私は見ていた。細い金の輪が指の肉に埋まっていた。40年。私はまだ9年だ。
年末に母から電話があった。要件は金の話だった。私は切った。切った後、しばらく携帯を握っていた。切るのは簡単だった。その簡単なことを、私は9年やらなかった。
年が開けて春になった。私と時さんは婚約した。指輪は、自分で作った。祖母の指の細さを測って、同じにした。室井さんに見せたら、一言だけ言われた。「浅いね。」「打ち直しました。2回。」「じゃあ、いい。」
婚約の日、2人で小さなレストランへ行った。料理の途中で、私はグラスに手を伸ばした。向かいで視線が動いた。「また見てる。」「すみません。もう正体はバレてますけど。」その人は笑って、それから真面目な顔になった。「この手を見つけて、本当に良かった。」
「最初はレジ打ちだと思ってたくせに。」
「思っていました。それで、結婚したいって言ったんですよね。」
「はい。変な人。その時から好きでしたよ。」
私はグラスを置いた。親指と人差し指の先の火傷は、まだ消えない。中指の横の硬いところは、多分一生このままだ。肩書きを隠したら、人が何を見ているのかがよく分かった。私の肩書きしか見なかった家族。そして、私の手を見た人がいた。それだけの話だ。
これからも、私は名前も顔も出さずに作り続ける。そして週に1度、レジに立つ。あの場所には、まだ私の知らない手がいくらでも並んでいる。その手を見て、私はまた何かを作る。それが私の仕事だ。



