深夜の病院の個室で、目が覚めた時、天井が真っ白だった。体が重く、口の中が乾いていた。窓からは昼の光が差し込み、昨夜の出来事はまるで霞の向こうのことのように感じられた。
看護師が入ってきて、胃の出血があり内視鏡で処置をしたと言った。もう出血は止まっているとも言った。竜平はただ頷くことしかできなかった。
ベッドの脇には誰も座っていなかった。妻も息子もいなかった。病室に自分一人だけがいた。
物語は、それから数ヶ月遡る。61歳になった日の夜、竜平は冷たい汗をかきながらスマートフォンの残高表示を見つめていた。普通預金は42万円。マンションの住宅ローンはまだ3200万円以上残っている。毎月の返済額は24万円。それに生活費、スーツの維持費、車のリース代、息子の学費、カードの引き落とし。手取りの月収は61万円だが、全ての支出を合計すると毎月3万円から5万円のマイナスになっていた。それをカードのリボ払いでごまかしてきた。
その夜から竜平は眠れなくなった。日中は変わらず、部下を率いる事業所長として振る舞った。スーツはすべて青山の仕立て屋で作ったビスポーク。7着のスーツがクローゼットに並び、その日の気分と天気で選ぶのに5分かかった。かつてはそのすべてが自分の積み上げてきたものの証明だった。
6月下旬のある夜、竜平はプライベートの古い端末を引き出しの奥から取り出し、10年前に会社を追われた同期の男、宮島誠治を検索した。宮島は上司への媚び方が不器用で役員と衝突し、会社を去った男だった。検索を続けると、物流系の会社を起業していることが分かった。
翌日、竜平は古い名刺に印刷された番号にメッセージを送った。断られると思っていたが、返信はすぐに来た。「いいですよ。来週の水曜日、浜松町でどうですか?」と。
水曜日の夜、居酒屋で再会した宮島は、10年前とは別人のように穏やかな顔をしていた。ユニクロのTシャツにスニーカー姿で、緊張した様子がまるでなかった。竜平が「資金の流れが少し苦しくなっている」と切り出すと、宮島は黙って聞いていた。そして最後にこう言った。
「それは全部、誰のためにやってきたんですか?」
竜平は答えに詰まった。仕事のためと言いかけたが、言葉が喉で止まった。宮島はそれ以上は掘り下げなかった。「何か方法を探しているなら選択肢はある。すぐに答えを出さなくていい」とだけ言い、財布から現金を出した。
その店を出た時、小雨が降り始めていた。宮島は傘も差さずに駅の方向へ歩き出した。竜平はその背中を見ながら、内心で何かが引っかかるのを感じた。それは羨ましさだったが、認めたくなかった。
翌朝、竜平は会社に行く前に駐車場に寄った。黒いドイツ車のリース代は月7万8000円。ハンドルの革の質感が手に伝わってきた。この車を手放すことなど考えたこともなかった。しかし、その時ふと思った。この車に乗る時、自分は誰を意識しているのか——。
宮島との二度目の昼食は、新橋の路地裏にある定食屋だった。宮島は日替わり定食800円を頼み、無言で食べていた。竜平は刺身定食1100円を頼んだ。以前なら迷わなかったはずの差額に、少し迷った。
竜平は低い声で話した。住宅ローンの残債がおよそ3200万円であること。カードのリボ払いの残高が110万円を超えていること。定年後の再雇用では給与が大幅に下がり、年金受給までの4年間に穴が開くこと。数字を並べると、感情が少し引いていった。
宮島は最後まで黙って聞き、それから言った。「今すぐ収入を増やしたいのか、それとも支出を減らす方法を探しているのか、どちらですか?」 竜平は「両方」と答えた。宮島は小さく笑った。
「今、環境関連素材の仲介をやっている業者が足りていません。特にリサイクル対応の放送資材を調達したい中堅メーカーは多いが、どこに当たればいいかわからない。黒川さんはその両方を知っているはずだ」
ブローカーという言葉が竜平の胸の中で引っかかった。組織の肩書きなしに個人として動く。名刺もない。後ろ盾もない。しかし宮島は続けた。「黒川さんには30年分の業界の顔がある。それは今の会社に帰属しているわけじゃない。黒川さん自身の財産です」
「1つだけ条件がある。今の会社に在籍しているうちはやらないこと。退職してからやる」
7月、竜平は定年を迎えた。退職後の最初の2週間は、何もできなかった。毎朝同じ時間に目が覚め、スーツを着ようとして、どこにも行くところがないと気づいた。
3週目に入った頃、竜平は動き始めた。かつての取引先と個人として情報交換を続ける中で、一見の話が浮かんだ。食品メーカーが生フィルムの代替素材を探しているという話だった。竜平にはその素材を扱っている中部地方の中小メーカーに顔があった。双方に連絡を取り間に立ち、価格交渉に時間はかかったが、最終的に取引が成立した。竜平の取り分は成約金額の3%。振り込まれた金額は62万円だった。一枚の電話とメールのやり取りで、それだけの金が動いた。最初は純粋な驚きだった。それからすぐに別の感覚が来た。もっとできるという感覚だった。
8月の第1週、かつての同業者からあるパーティへの招待が届いた。業界関係者と投資家が集まる非公式の懇親会だった。行くかどうか迷ったが、投資という言葉が目に留まった。竜平は参加を返信した。
会場の港区の会員制レストランで、倉田が連れてきたのは柴田という30代半ばの男だった。フィナンシャルアドバイザーをしていると言い、すぐに話し始めた。「最近、脱炭素関連のプロジェクトへの資金需要が急増していますね。特に南米のバイオマスエネルギー開発は、日本から出た資金の運用先として非常に注目されています。今月末に締め切りがある案件があって、月利20%が保証されています」
竜平は月利20%という言葉を聞いた時、胸の中で何かが反応した。少しだけ警戒する気持ちも来たが、それはすぐに「自分はビジネスを30年やってきた人間だ。詐欺師には分かる」という根拠のない自信に押し流された。
柴田は「今夜は何も決めなくていいですよ」と言って、にこやかに別のグループへ向かった。
帰り道、竜平は軽自動車のシートに座りながら思った。こういう場に久しぶりに出ると、自分がまだその世界に属せるような気になる。肩書きがなくても、スーツを着てそういう場所にいるだけで誰かであるような気がした。
3日後、柴田から詳細な資料が送られてきた。南米のある国のバイオマス発電プロジェクトのスキーム図が整った資料にまとめられていた。図表は整っていて、竜平には判断の根拠がなかった。
翌週、竜平は柴田の銀座のオフィスを訪れた。柴田は資料を使いながら改めて説明した。「このプロジェクトに参加できる最低金額は3000万円からです。今月末の締め切りに間に合わせるには、今週中にお返事をいただく必要があります」
3000万円という数字が、竜平の中で住宅ローンの残債とほぼ同じ額だったことに重なった。その日は返事をしなかった。考えさせてくださいと言い、オフィスを出た。
夜、妻の千鶴が寝てから、竜平はリビングでソファに座った。宮島の「やめてください」という言葉が何度も浮かんだ。同時に柴田の穏やかな声と整った資料も浮かんだ。なぜ宮島の言葉に素直に従えないのか。答えは分かっていた。62万円の仲介報酬では足りないという感覚があった。このペースでは、ローンを返し終わるまでに何年かかるか。
柴田のあのオフィス、受付の女性、綺麗に製本された資料。そういうものに囲まれた時、竜平はある種の安堵を感じていた。自分がまだその世界の人間として扱われているという感覚だった。宮島が自転車で定食屋にTシャツ姿でいるのとは、まるで違う世界だった。
明け方、竜平は柴田に返信を書いた。「詳しい話をもう一度聞きたい。来週もう一度会えますか」
翌週の月曜日、竜平は再び銀座のオフィスを訪れた。竜平の方から質問を用意していた。プロジェクトの現地責任者の名前、日本国内での法的根拠、途中解約はできるのか。柴田は1つずつ答え、全ての回答に対して追加の書類や資料を出してきた。竜平にはその書類の中身を精査する専門知識がなかった。しかし、それを認めることができなかった。
最後に柴田は静かに言った。「黒川さんのような業界経験を持つ方が判断されるなら、この案件は非常に相性がいいと思います。エネルギーと流通両方を知っている人はそう多くない」
その一言が、竜平の残っていた抵抗を緩めた。3000万円という金額をどう調達するか。今の貯蓄では到底届かない。しかし、マンションを担保に借りれば出せる。リターンで返済する。2年で元が取れれば、その後は黒字になる。竜平はこの計画の前提が崩れた時のことを考えなかった。考えようとしなかった。
その日の夕方、竜平はオフィスのデスクで震える手でペンを持った。契約書は5ページあった。柴田はその間何も言わず、静かに待っていた。竜平はペンを動かし、自分の名前を書いた。文字がいつもより強く押されていた。
8月に入ると、柴田から経過報告のメールが届くようになった。グラフが添付され、数字が並んでいた。竜平にはその数字が本物かどうかを確かめる手段がなかったが、毎回綺麗にまとめられた書類が自分を安心させた。
8月の半ば、柴田から電話がかかってきた。「先月分の配当が確定しました。60万円です」 3000万円の出資に対して月利20%であれば600万円になるはずだったが、柴田は「初月は手数料と現地コストの精査があるため、配当は段階的に増えます」と説明した。竜平はその説明に頷いた。翌朝、指定口座に60万3000円が振り込まれていた。本物だという感覚と、やはりそうだったという感覚が同時にあった。
9月の第1週、柴田からメッセージが来た。「重要なご連絡があります」 電話で柴田は言った。「政府の方針で、来月から海外への資金送金規制が強化されます。今のプロジェクトのポジションを維持するために、今月末までに追加の資金を入れていただく必要があります。今週金曜日までに3000万円の追加出資をお願いしたい」
急すぎると思った。しかし、すぐに規制の話は本当にあり得るとも思った。今の日本の金融環境は変化が早い。竜平は少し考えさせてくださいと言った。
その夜、竜平がパソコンで不動産担保ローンの金利と審査条件を調べている間、千鶴は寝室のクローゼットを整理していた。季節の変わり目で夏物を奥にしまおうとしていた。竜平のジャケットを動かそうとした時、その下に薄いファイルが挟まれているのに気づいた。クレジットカードの明細だった。最新のものは先月の日付。利用残高の欄には117万円という数字があった。3年前の日付からずっと、リボ払いの残高が月を遡って記録されていた。
千鶴はファイルを閉じ、元の場所に戻した。
竜平が帰宅したのは夜7時を過ぎた頃だった。食事が終わりかけた頃、千鶴が口を開いた。「クローゼットを整理しようとしたら、カードの明細を見ました。100万円以上。ずっと隠していたんですね」
竜平はテーブルの木目を見た。「仕事のためだ。接待とか会社のために使ってきたんだ」
千鶴は静かに言った。「私に相談して欲しかった」
竜平は「大丈夫だ。今、別の収入がある。ちゃんと返せる」と言った。千鶴は何も言わなかった。「信じてほしい」と言うと、千鶴は顔を上げずに「わかりました」とだけ言った。その夜、千鶴はいつもとは逆に背を向けて寝ていた。その背中が竜平には広く見えた。
翌朝、柴田からメッセージが届いていた。「金曜日まであと3日です。ご確認いただけましたか」
竜平は千鶴名義の実印と権利書がどこにあるかを知っていた。以前マンションを購入した時に使った実印で、保管場所を千鶴本人から教えてもらっていた。火曜日の朝、千鶴が買い物に出た。マンションに竜平一人になった。頭の中で何かが叫んでいた。やめろという声だった。その声を別の声が押しのけた。方法がないという声だった。
竜平はクローゼットの奥に手を入れた。実印の入った桐の小箱を取り出し、あらかじめ用意していた抵当権設定の申請書類に千鶴の名前を書いた。文字は千鶴本人のものとは似ていなかった。しかし、銀行の窓口担当者がそこまで見ることはないだろう。
翌朝、竜平はスーツを着て銀行の窓口に行った。書類を出すと、担当者は少しお待ちくださいと言って奥に入った。10分後、担当者が戻ってきて別の用紙を1枚持っていた。「確認のご連絡を、ご本人様にさせていただいてもよろしいでしょうか?」
竜平の心臓が一拍早く打った。「今日は妻が体調を崩していて。本人確認はこちらの書類で足りますでしょうか」
担当者はしばらく書類を見て、また奥に戻った。10分後、担当者が戻り、「今回は書面確認で対応させていただきます」と言った。審査のうえ、3営業日以内に振り込むと続けた。
3日後、竜平の口座に3100万円が振り込まれた。竜平は柴田に電話し、振り込めると言った。振り込み先は法人口座だった。会社名は柴田の名刺に書かれていた会社名とは少し違った。竜平はそれを一瞬おかしいと思ったが、「グループ会社でしょう」と自分に言い聞かせた。3000万円を入力し、送信ボタンを押した。画面に振り込み完了と表示された。
翌日の木曜日、竜平が仲介の電話をしていた時、見慣れない番号から着信が入った。太洋パッケージの人事部からと名乗った男は言った。「退職後の活動について確認したいことがある。在職中に取引のあった複数の企業と、個人として仲介業務を行っていたことが判明した。退職時の誓約書には競業避止義務の記載があった。これは違反に当たる可能性がある」
電話が終わった後、竜平は椅子に座り、机の縁を両手で掴んだ。仲介の収入が消えた。柴田への入金はすでに終わった。毎月の配当だけが唯一の収入源になった。
その翌日の土曜日、千鶴が郵便受けから一通の封書を取り出した。差出人は銀行名で、宛名は千鶴本人の名前だった。中に入っていたのは抵当権設定に関する通知書だった。マンションを担保に3100万円の借入れが設定されたことを知らせる内容だった。書類の署名欄を見た。自分の名前が書いてあった。しかし、自分は書いた覚えがなかった。印があった。自分の実印だった。
竜平がコーヒーカップを2つ持ってリビングに入ってきた。「これは何ですか?」 千鶴の声は低く震えていた。「私の名前が書いてあります。私の印鑑が押してあります。でも、私はこんなものを書いた覚えがありません」
竜平はコーヒーカップをテーブルに置いた。「投資をした。まとまった資金が必要で、担保を使った」 千鶴は「私に黙って?」 と言った。竜平は顔を上げられなかった。
千鶴は少しの間何も言わなかった。それからゆっくりと言った。「全部話してください」
竜平は話した。仲介の仕事を始めたこと。柴田という人間にあったこと。南米のプロジェクトに出資したこと。3000万円を振り込んだこと。それをどうやって調達したかを最後に話した。
千鶴は「なぜ話してくれなかったんですか?」 と言った。「心配させたくなかった」 と竜平が言うと、千鶴は言った。「心配させたくなかったのではなく、知られたくなかったんでしょう。今まで何十年もずっとそうだった。何かまずいことが起きると私には知らせなかった。車を変えた時も理由を言わなかった。カードの明細を隠していた時も。この家のこともそう。私に相談しなかったのは、私を信用していないからじゃないですか」
竜平は「そうじゃない」 と言った。「じゃあ、何のためですか?」
「この家のためだ。俺がずっと稼いでみんなを食わせてきた。それがどれだけ大変だったか。体裁を保つことがどれほど大変だったか分かるか」
「体裁。誰のための体裁ですか? 私はこんな部屋じゃなくてよかった。この物件もこのマンションもあなたが決めた。私は意見を言う前にもう契約が終わっていた。あなたは私たちのためにやってるという。でも本当は、自分が恥ずかしくないようにやってきただけじゃないですか」
竜平は反論したかった。しかし出てこなかった。代わりに体の中の圧力が弾けた。「俺はこの家のために全部やってきたんだ。それが何が悪いんだ」
千鶴は一歩後ろに下がった。「私は今夜、健二と話します。これからのことを」
千鶴はその夜、マンションに戻らなかった。健二の友人の家に泊まると、短いメッセージだけが来た。
夜になって竜平は柴田に電話した。しかし、柴田の電話は呼び出し音が鳴り続け、繋がらなかった。メッセージを送っても返信は来なかった。翌朝、もう一度かけると、無機質な自動音声が流れた。「おかけになった番号は現在使われておりません」
3000万円が消えていた。その事実がゆっくりと体の中に落ちてきた。竜平はでもまだ何かあるはずだと思った。誤解かもしれない。電話番号が変わっただけかもしれない。銀座のオフィスに行けば、柴田はいるはずだ。そう思わないと足が出なかった。
9月の朝の銀座。柴田のオフィスが入っていたビルの6階。エレベーターの扉が開くと、そこには何もなかった。ドアはあった。しかし、ガラスの向こうに家具がなかった。受付のカウンターも、革張りのソファもなかった。壁に貼ってあったロゴのシールも剥がされ、掃除の女性が言った。「ここは先週の終わりに退去されましたよ。引っ越し業者が来て、中を全部運び出していきました」
3000万円は消えた。その事実が今度は体の芯まで届いた。眼の下の方がじわりと熱くなった。
その週の金曜日、竜平の元に太洋パッケージから書留が届いた。退職後の競業避止義務違反が確認されたこと。具体的な取引先の名前と取引の事実が記載された通知書と、損害賠償請求の可能性について言及した文書だった。竜平はその2枚をテーブルに並べ、1枚ずつ読んだ。読んでいる間、感情が動かなかった。驚きもなかった。ただ紙の上の文字が目に入ってきた。
土曜日の昼前、インターフォンが鳴った。千鶴の声だった。「少し荷物を取りに来ました」 千鶴はキャリーケースとバッグを持ってリビングに戻ってきた。玄関で靴を履きながら言った。「銀行から封書が来ていましたよ。テーブルの上に置いてあります」 それから鍵を一本、玄関の棚の上に置いた。かちんと小さな音がした。扉を開け、出ていった。扉が閉まる音がした。鍵をかける音はしなかった。
マンションに一人になった。食べる気力がなかった。コンビニで買ったものを食べることが増えた。夜は眠れず、横になっても頭の中が動いた。数字と千鶴の声と柴田の顔が混ざり合って浮かんでは沈んだ。
宮島に連絡しようかと何度か思った。しかし、スマートフォンを手に取るたびに止まった。宮島はあの時「やめてください」と言った。それを無視して進んだ。今更何と言って連絡すればいいのか、言葉が見つからなかった。それでも他に連絡できる相手がいなかった。
10月の頭に入ったある夜、竜平は夕食代わりのカップラーメンを食べ、ソファに横になっていた。その時、中心部に鋭い痛みが来た。最初は食べすぎかと思った。しかし痛みは引かず、少しずつ強くなっていった。立ち上がろうとした足に力が入らなかった。台所まで歩き水を飲んだが、逆に痛みが波のように強くなった。竜平は台所の床にしゃがみ込んだ。ここ数週間の積み重なりが一気に崩れるような感覚だった。眠れない夜、食べられない日、頭の中を占領していた数字と不安。それらが胃袋の中に凝縮されたものが、今夜になって破裂した。
痛みがさらに強くなり、吐き気が来た。竜平は台所の流しに向かったが、間に合わなかった。床に暗い色のものが広がった。赤かった。竜平はリビングまで這うようにして戻り、テーブルの上のスマートフォンを掴んだ。119番を押した。オペレーターの声が聞こえた。「救急です」 竜平は言った。声がかすれていた。住所を聞かれ、マンションの名前と部屋番号を答えた。
単価が来て、竜平はそれに乗せられた。救急車の中で救急隊員が聞いた。「ご家族に連絡しますか?」 竜平は少し間を置いた。「妻は……別居中です」 「緊急の連絡先はありますか?」 竜平はまた間を置いた。宮島という名前が浮かんだ。他に浮かばなかった。
竜平は目を閉じた。これだけのことが起きて、連絡できる人間が一人しかいなかった。その一人は、竜平が無視した忠告をくれた男だった。その事実が痛みよりも重く、竜平の中に沈んでいった。
4日間の入院の後、宮島が迎えに来た。宮島は何も聞かず、どこへ行きますかとだけ言った。竜平はマンションの住所を言おうとして止まった。「少しだけ何か食べられる場所によれますか?」 宮島は頷いた。
小さなラーメン屋で、竜平は塩ラーメンを頼んだ。待っている間、竜平は口を開いた。「全部話します」 宮島は水を飲みながら「どうぞ」と言った。竜平は話した。柴田のこと、3000万円のこと、千鶴の名前を使ったこと、千鶴が出ていったこと。ラーメンが来ても食べながら話し続けた。宮島は食べながら聞き、口を挟まなかった。
話し終えた時、竜平のラーメンは半分以上残っていた。宮島はどんぶりの底を見てから顔を上げた。「弁護士に相談した方がいい。千鶴さんの名義の件は、刑事上の問題になる可能性があります」 竜平は頷いた。「柴田の件は警察ですか?」 と聞くと、宮島は少し間を置いてから言った。「詐欺として立件されるかどうかは証拠の問題もある。ただ、黒川さんが3000万円を取り返せる可能性は低いと思っています」
それは冷たく言ったのではなかった。ただ正直に言ったのだ。竜平はその言葉を受け取った。3000万円は戻ってこない。それをきちんと受け入れたのは、この瞬間が初めてだった。
10月の末、銀行から通知が届いた。担保設定した物件について返済が滞っているため、売却手続きを開始することがあるとの予告書だった。11月に入り、宮島が紹介してくれた弁護士に相談した。弁護士は千鶴の名義を使った書類の件は、千鶴が被害届を出さない限り刑事事件にはならない可能性が高いが、民事上の損害賠償は別問題だと説明した。そして、任意売却という選択肢があると説明した。銀行と交渉して、競売より有利な条件で物件を売却し残債を整理する方法だと。
「最終的には物件を手放すことになります」 と弁護士は言った。
物件を手放すという言葉が耳に残った。マンションを失う。17階のあの眺めを、35年かけて手に入れたはずのもの。しかし、不思議なことに予想したほどの痛みがなかった。もうずっとそうなるとは勝手に分かっていたのかもしれなかった。
11月の初め、マンションに戻ると一通の封筒が床に置かれていた。千鶴の字だった。短い手紙には「弁護士を通じて正式に手続きをしたいと思います。健二のことは2人で話し合いたい。ただ今は難しいので、少し時間をください」と書いてあった。
11月の中旬、任意売却の手続きが始まった。竜平は書類に署名するだけの役割になっていた。以前なら自分が全てを決定する立場だった。今は他人に整理してもらう立場だった。その楽さを、竜平は驚くほど穏やかに受け入れていた。
12月の初めに物件の引き渡しが決まった。竜平は少しずつ片付けを始めた。クローゼットにはスーツが7着並んでいた。全て仕立てのものだった。竜平はそれを1着ずつ取り出し、ハンガーにかけたまま段ボール箱に立てかけた。食器棚には千鶴が選んだ白い食器が残っていた。竜平はそれを眺めた。千鶴に連絡して取りに来てもらうべきかもしれないと思った。
荷物を整理しながら、竜平はこの部屋に越してきた日のことを思い出した。20年前だった。引っ越し当日の昼、千鶴がコンビニのおにぎりを買ってきて、段ボールの上に広げて食べた。そのことだけはなぜかはっきり覚えていた。
引き渡しの前日、竜平はマンションで最後の夜を過ごした。リビングのソファは大きすぎて持っていけなかった。竜平はそのソファに最後の夜も座った。照明をつけず、外の夜景だけが部屋を薄く照らしていた。東京の光がガラスを通して入ってきた。明日からここではなくなる。17階の眺めが、コンビニのおにぎりの朝食が、エスプレッソマシンのコーヒーが、仕立てのスーツが、全部なくなる。しかし、怒りではなかった。悲しみとも少し違った。重かったものがここに置いていけるという感覚に少し近かった。
竜平は窓に近づいた。ガラスに額がつくくらい近くまで行き、夜の東京を見た。遠くまで光が続いていた。「俺はこれからどうなるんだろう」 と思った。答えはなかった。しかし、その思いが恐怖ではなく、初めてただの思いとして浮かんでいた。
埼玉県の外れにある木造アパートは、駅から歩いて18分かかった。部屋は6畳一間だった。南向きの窓があったが、すぐ前に別の建物の壁が迫っていて、日が差し込む時間は1日のうちにほとんどなかった。壁は薄く、隣の部屋のテレビの音がうっすらと聞こえた。竜平は荷物を運び込んだ。段ボール箱が8個、それだけで部屋の半分が埋まった。スーツは2着だけ持ってきた。残りは処分した。エスプレッソマシンは持ってこなかった。置く場所がなかったし、必要でもなかった。
61年生きてきて、6畳一間に段ボール8個。それが今の自分の全てだった。竜平はその事実を、不思議と重くは感じなかった。ただ確認した。そういうものとして受け取った。
翌朝、竜平は5時半に目が覚めた。着替えて外に出た。駅までの18分の道を今日は走った。朝の6時前で、通る人間はほとんどいなかった。駅のロータリーを折り返してまた同じ道を戻った。合計で36分。以前の5kmのコースより短かったが、足は動いた。体はまだ動くのだという気持ちを持った。それだけでその朝は十分だった。
朝食は昨日コンビニで買ってきたパンを1個食べた。インスタントコーヒーを作った。マグカップは100円ショップで買ってきた白いカップだった。コーヒーを飲みながら、今日から何をするか考えた。仕事を探さなければならなかった。スマートフォンで求人サイトを開くと、61歳という年齢を入力すると表示される件数が一気に減った。それでもいくつかあった。警備員、清掃員、工場の軽作業、配送ドライバー、マンションの管理人。ドライバーの欄に目が止まった。夜間の中型トラック運転という項目だった。竜平にはかつて業務で使っていた準中型免許があった。応募ボタンを押した。
2日後、面接の日程を知らせるメールが来た。面接会場は埼玉市内の物流センターだった。竜平はグレーのスーツを着た。残してきた2着のうちの1着だった。待合室には既に選考待ちの男性が3人いた。3人とも竜平と同じようにスーツではなく、綺麗な普段着に身を包んでいた。竜平だけがスーツだった。
担当者の男性は履歴書を見て言った。「放送資材の会社で30年。事業所長まで務めた。それが今、なぜここに?」
竜平は言った。「定年退職後に、自分で少し仕事をしてみたのですが、うまくいかなかった部分があって」
担当者は深くは聞かなかった。「夜間の配送は、体力的に大丈夫ですか?」 竜平は頷いた。「毎朝走っています」 担当者は少し間を置いてから言った。「来週から研修という形で入ってもらえますか」
研修初日、竜平は夜の9時に物流センターに着いた。担当の先輩ドライバーは田辺という40代の男だった。無駄口を叩かなかった。「まず積み込みから覚えてもらいます」 と田辺は言った。ダンボール箱は15kgほどあった。それをトラックの荷台に、配達先に近い順に積んでいく。竜平は黙ってやった。1箱積んでまた倉庫に戻り、次の箱を取る。それを繰り返した。汗が出て、エプロンの背中が湿った。
出発は日付をまたぐ少し前だった。深夜の幹線道路に出ると、信号が少なくトラックは淡々と走った。2件目に向かう車内で田辺が言った。「最初はきついですけど、慣れます」 竜平は「そうですね」と答えた。田辺はそれ以上は言わなかった。
3週間が経った頃、竜平は1人で配達に出られるようになっていた。ある夜、積み込みをしているとダンボールのラベルを見た。ラベルには取引先の名前が印刷されていた。見覚えのある名前だった。かつて竜平が事業所長として取引していたメーカーだった。竜平がルートを作り、価格交渉をし、関係を育ててきた取引先だった。さらに放送資材のメーカー名も印刷されていた。太洋パッケージと書いてあった。竜平がかつて務めていた会社だった。
自分がかつて売っていた放送資材を、今は配送している。竜平はその事実を荷台の前に立ちながら受け取った。笑えるような笑えないような感覚があった。しかし、恥ずかしくはなかった。不思議と恥ずかしくなかった。
深夜の首都高速をトラックで走った。この時間帯の高速道路は乗用車よりトラックの方が多かった。竜平はハンドルを握りながらふと思った。この道を以前は黒いドイツ車で走ったことがあった。日曜の昼にどこかへ行こうとして、特に行く場所もなくてただ走ったことがあった。あの時の車の静粛性と今のトラックのエンジン音はまるで違った。しかし、どちらも同じ道を走っていた。違うのは、今は荷物を積んでいるということだった。誰かに届けるものを持って走っている。それだけのことが、以前との一番大きな違いのように思えた。
月が変わり、初めての給料が振り込まれた。夜間手当込みで手取り22万4000円だった。以前の月収と比べると3分の1以下だった。しかし、この22万円は誰の名前にも使っていなかった。誰かを欺いてもいなかった。自分の体を動かして自分で稼いだ金だった。竜平はその数字をしばらく見た。
生活費の内訳を紙に書いた。家賃3万8000円、食費1万5000円、光熱費と通信費で合わせて1万2000円、交通費と雑費で5000円。合わせて7万円。残りの15万円を返済に当てていく。数字が綺麗に収まっていた。以前のリボ払いの泥沼とは、まるで別の世界だった。
ある夜、配達から戻って部屋に入った時、竜平はテーブルの上に1枚の紙を広げた。コンビニで買ったメモ用紙だった。千鶴への手紙を書こうと思った。竜平はペンを動かした。「千鶴」 と書いた。「今、埼玉で夜間の配達の仕事をしている。体は動いている。借金の返済を始めた。時間はかかるが、続けるつもりでいる。君に黙っていたこと。名前を使ったこと。謝っても取り消せないことは分かっている。それでも謝りたい。すまなかった。健二のことをよろしく頼む」
翌朝、ポストに入れた。返事が来るかどうかは分からなかった。来なくてもそれはそれで仕方のないことだと竜平は思った。届けることができただけで、今は十分だった。
1月の半ば、宮島から連絡が来た。「近くを通るけど、少し寄っていいですか?」 宮島は夕方に自転車で来た。竜平の部屋の扉を開けると、宮島は室内を1度だけ見て、それから竜平の顔を見た。「ちゃんとしてますね」 宮島は上がり込んで床に直接座った。椅子がないことを気にする様子がなかった。竜平もその隣に座り、インスタントコーヒーを作って出した。宮島はそれを受け取り一口飲んだ。「うまいですね」 竜平は「そうでもないと思いますが」と言った。宮島は笑った。「前にあった時より、顔が軽くなった気がします」 竜平は少し考えてから「そうかもしれないです」と言った。
「仕事はどうですか?」 と宮島が聞いた。「体は動いてます。荷物を積むのが最初きつかったが、慣れてきました」 宮島は頷いた。「俺も最初の仕事は配達回収の手伝いでしたよ。会社を辞めてから、知り合いの手伝いで1年くらいやってた」 竜平はその話を聞いた。宮島がそういうところから始めたことを、今まで知らなかった。「聞いておけばよかった」 と竜平は思った。もっと早くちゃんと聞いておけばよかった。その言葉は口に出さなかった。ただ頷いた。
2月に入ったある朝、郵便受けを確認すると一通の封が入っていた。差出人の欄を見た。「黒川健二」 と書いてあった。竜平は封書を部屋に持ち帰り、テーブルの上に置いた。着替える前に封を開けた。便箋1枚だった。「お父さんへ。元気ですか? 僕は今、大学のゼミが忙しい。母は今のところ落ち着いています。2人で色々話しました。まだ整理できていないことも多いけど、父が働いているということは聞きました。返事を書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。それだけです。健二より」
竜平は便箋を持ったまま、窓の外の壁を見た。「返事を書くかどうか迷いましたが、書くことにしました」 という一文が竜平には重かった。迷った上で書いた。それだけのことが、今の竜平には十分すぎるほどだった。1週間後、短い返事を書いた。「元気でいる。仕事を続けている。それだけでいい。返事をくれてありがとう」
3月に入ったある夜、配達のルートを走っていると、見覚えのある交差点を通った。左手に古ぼけた集合住宅が並んでいた。千鶴と健二が今住んでいるアパートがこの近くのはずだった。信号で止まり、竜平はハンドルを左に切った。トラックで入るには細い路地だったが、ゆっくり進んだ。集合住宅の前に来た。2階建てで、外廊下に洗濯物が干してあった。部屋番号は分かっていた。2階の窓に光があった。誰かがいた。起きていた。竜平はその光を少しの間だけ見た。降りて行こうとは思わなかった。今の自分には、あの扉を叩く資格がなかった。資格を取り戻すにはもっと時間が必要だった。何年かかるかは分からなかった。しかし、今夜ではなかった。
次の配達先に向かう前に、竜平はダッシュボードの上に置いておいた封筒を取った。昨夜のうちに用意していたものだった。今週の給料から封じた現金だった。全部ではなかった。しかし、今の自分が出せる精一杯の額だった。竜平はトラックをUターンさせ、集合住宅の前に停車した。エンジンは切らなかった。ハザードランプをつけて外に出た。郵便受けの列があった。千鶴の部屋番号の受け口に封筒を入れた。封筒の表には何も書いていなかった。差出人もなかった。ただ中に小さなメモを入れてあった。「少しずつ返していきます」 と書いただけだった。
竜平は郵便受けから手を離し、トラックに戻った。ハザードを消し、アクセルを踏んだ。また夜の道に出た。
その夜の最後の配達が終わったのは、夜明け前の4時過ぎだった。センターへの帰り道、首都高の登りルートに乗った。東の空が少しだけ色を変え始めていた。まだ暗かったが、暗さの質が変わっていた。夜の黒とは違う、薄い灰色になっていた。竜平はラジオをつけなかった。エンジンの音だけが聞こえた。
ハンドルを握りながら、今夜の自分のことを考えた。あの光のついた窓を見たこと。郵便受けに封筒を入れたこと。それが良かったかどうかはまだ分からなかった。受け取ってもらえるかどうかも分からなかった。ただ、できることをしただけだった。今の自分が今夜できることを。
空がさらに明るくなった。東の方角にうっすらとオレンジが混じり始めた。竜平はその色を見ながらふと気づいた。今、体がどこも痛くなかった。眠れない夜が続いていた頃は、いつもどこかが張っていた。頭の後ろか、肩か、胸の内側か。今夜はそれがなかった。
疲れてはいた。体は確かに疲れていた。荷物を積んで、夜中に走って、夜明け前に戻ってくる。これが今の仕事だった。以前のスーツの仕事と比べれば、体の消耗は比較にならなかった。しかし、今感じているこの疲れは、以前の疲れとは違っていた。以前の疲れは、体と別のものが疲れていた。何かを維持しなければならないという疲れだった。体裁を保ち、体面を整え、数字をごまかし、自分を大きく見せ続ける。その疲れだった。今の疲れは、体だけだった。
センターが見えてきた。広い駐車場にトラックが並んでいた。竜平はウィンカーを出して、入り口を入った。駐車場にトラックを止め、エンジンを切った。静かになった。朝の空気が入ってきた。3月の朝はまだ冷たかった。
ダッシュボードの上に、コンビニで買ってきたおにぎりがあった。海苔の巻かれた塩結びだった。1個だけ買ってきていた。竜平はそれを取り、袋を開けた。一口食べた。冷たかった。米が少し硬かった。それでも食べた。
窓の外。東の空が焼けていた。オレンジは少し薄くなり、代わりに全体が明るくなってきた。雲の端が光を受けて白っぽく輝き始めていた。竜平はおにぎりを持ったまま、その空を見た。
35年かけて手に入れたものが全部なくなった。名刺も、肩書きも、スーツも、車も、マンションも、家族も。手元に残っているのは、6畳一間と1台の中古の自転車と、今月の給料の残りだけだった。それでも、なぜか今この瞬間、竜平は息ができていた。胸が締めつけられていなかった。何かを証明しようとしていなかった。誰かに見せようとしていなかった。
ただ、夜明けの空の前に1人で座って、冷たいおにぎりを食べていた。それだけのことが、ひどく自由だった。
おにぎりを食べ終え、袋を丸めた。竜平はドアを開けて外に出た。3月の冷たい空気が体に当たった。空はもう完全に明るくなりかけていた。竜平は少しの間そこに立った。誰もいない駐車場の真ん中で、1人で立って朝の空を見上げた。
何かが変わったとは思わなかった。何かが始まったとも思わなかった。ただ、今日という日がまた来たと思った。それだけだった。
竜平は歩き出した。ゴミ箱に向かって、1歩ずつ。



