「遺産は全て長男の正太に残すことにしたわ。だって嫁は家族じゃないし。まあ、しおりさんには今まで通り介護は続けてもらうけどね」
その言葉を聞いた瞬間、私の体は怒りで震えていた。遺産が欲しいからではない。9年間、夫の咲夜の代わりに義母を支えてきた私が、たった一言で「他人」扱いされたことが許せなかったのだ。
「そうですか。わかりました。では、今日で引っ越します」
私はそう言って立ち去ろうとした。義母の鋭い声が背中に突き刺さる。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!そんなに簡単に終わらせないで!」
彼女は慌てたようにまくし立てた。
「引っ越すってことは、つまり私を捨てるっていう意味になるのよ。それをちゃんと理解しているわけ?それでも出ていくというなら、あなたは人の心がない悪魔よ。咲夜が生きていたら、あなたのそんな態度を見てどれほど悲しむか考えなさい」
しかし、自分のことを大切にしてくれない相手から言われても、私の心は傷つかなかった。むしろ、怒りが倍増するだけだった。
「しおりさんがいなくなったら、正太のご飯はどうすればいいのよ!あの子は繊細だから、コンビニ弁当やインスタント食品ばかり食べていたら体を壊してしまうわ」
正太というのは義母の長男、つまり私の義兄だ。もうとっくに成人して30代半ばになる男の食事を心配しているなんて、彼女には幼稚園児にでも見えているのだろうか。
「それに、あなたは専業主婦でしょ。そんなあなたが1人で暮らしていけるとは思えないわ。咲夜の遺産だけじゃ、とても持たないでしょうに」
義母は私が亡き夫の遺産で生活していると思い込んでいる。だが、残念ながらそんなことは全くない。
私は首を横に振り、きっぱりと言い放った。
「私は1人でも十分生活していけますよ」
「はあ?まだそんなことを言うの?現実をちゃんと見なさい。あなたはずっと家事と介護しかしてこなかったじゃない。社会経験もないのにどうやって生きていくつもり?」
私は無表情で淡々と返した。
「1人で生きていくことができないのは、私ではなく正太さんの方ですよね」
義母の顔から表情が抜け落ちた。正太は現在、無職で引きこもり状態だ。夜遅くに寝て昼過ぎに起き、私が作った食事を取った後はまた部屋に戻っていく。仕事を探している様子は全くない。
「あ、あの子には私の遺産があるから大丈夫なのよ!それに資格も持っているし、いつでも就職できる。ただ今は心の整理をつけている時期なの。それにあの子は男の子だから。しおりさんとは状況が全然違うんだから」
聞きたいことは山ほどあったが、私はそれ以上詰め寄らず、スマートフォンを取り出してある人物に電話をかけた。
それから数分後、玄関のチャイムが鳴った。白いブラウスに紺のパンツスーツという仕事帰りの格好をした女性が立っていた。義母が目を見開く。
「ど、どうして柚月がここに?」
その女性は義母の実の娘、柚月だった。2人は絶縁状態にあった。柚月は嫌味を隠そうともせず、義母に分厚い封筒を差し出した。
「ちょっと早く受け取ってよ。わざわざ仕事の合間を縫って持ってきたんだから。あなたが知るべき真実が詰まっているの。自分の可愛い息子のために、ちゃんと見てあげなさいよ」
義母が封筒を開けると、中からはびっしりと細かい文字が並んだ書類の束が出てきた。彼女はそれを読み進めるうちに、次第に顔色が青ざめていった。唇もガタガタと震え出している。
その書類は、正太に関する調査報告書だった。柚月は金融関係の知識を生かし、彼の資産状況を調べていたのだ。結果、彼が義母の資産を担保に多額の借金を抱えていることが判明した。遺産を使ったとしても返済できないほどの額だった。
「な、なんでこんなことが…信じられない…」
「こんな書類、捏造に決まっているわ!あの子が私に隠れて借金をするだなんて、そんなはずないわ!」
義母は現実から目を背けるかのように書類を封筒へ戻すと、私と柚月を攻め立てた。
「どうせこれも私を騙すための嘘なんでしょ。柚月、あなたはいつも私が正太を可愛がっていたから嫉妬しているのよね。本当に性格の悪い子に育ったわ」
しかし、正太が借金を抱えていることは変えようもない事実だ。私は静かな口調で伝えた。
「お母さんと翔太さんの2人で、きちんと話し合ってください。私を家族ではないと言ったのは、お母さんなんですから」
「言われなくても分かってるわ!恩知らずの嫁なんて、もう2度と顔も見たくない!柚月も同じよ!もう私の家族じゃないんだから!」
義母はそう吐き捨てると、ピシャリと扉を閉めた。
それから数日後、私のスマートフォンが振動した。画面に表示されていたのは、予想通り義母の名前だった。私は応答ボタンを押した。
「お願い、しおりさん、助けてちょうだい!もう限界なの!どうにもならないわ!お願いだから戻ってきて!」
義母は泣き叫ぶような声で訴えてきた。
「このままだと私も正太も生活できなくなってしまうわ。生活費が底をついてしまって、光熱費も払えなくなって電気や水道が止まってしまったの。掃除も洗濯も皿洗いもできないから、家の中が悲惨な状況になってしまって…あなたがいなくなってから、家がどんどん汚くなってもう進める状態じゃないの。毎日掃除や洗濯をしてくれていたあなたの存在が、どれだけ大きかったか今になって痛感しているわ」
私は一度スルーして、彼女がこれまで気がついていなかったであろう真実を伝えることにした。
「お母さん、知っていますか?実は私が生活費のほとんどを出していたんですよ。咲夜の遺産でもない。あなたの預金から出ていたものでもない。私が働いて稼いだお金で、家計を支えていたんです」
「え、そんなはずないわ!しおりさんはずっと専業主婦だったじゃない!」
「実は私はお母さんの介護をしながら、在宅ワークもしていたんです。咲夜さんが残してくれた仕事を引き継いで、毎日夜遅くまで作業していました。あなたも正太さんも早く寝ていたから気づかなかったんでしょうけど」
その在宅ワークは、亡き夫である咲夜から引き継いだものだった。病気を患い、自分の命が長くないと悟った彼は、私が一人でも生活していけるようにと用意してくれたのだ。今ではすっかり安定した収入を得られるようになっている。
「今日私がお母さんの電話に出たのは、あなたが知らなかったことを伝えるため、現実を思い知ってもらうためです。私はもう実家には戻りません。あなた方の生活も助けません」
「ま、待ってちょうだい!お願い、しおりさん、考え直して!私が悪かったわ!ちゃんとあなたを家族として大切にするから、戻ってきてちょうだい!」
「私は家族ではないんですよね。人様の家庭の問題に介入する筋合いはありません。あなたが自分でおっしゃったことです」
「ごめんなさい!あなたは私たちのために色々としてくれていたのに!お願い、許して!もう絶対にあんな発言はしないから!」
私は眉間にしわを寄せて、ゆっくりと首を横に振った。
「私はお母さんたちをもう助けられません」
彼女の返答を待たずして、私は電話を切った。
その翌日、再びスマートフォンが震えた。今度は義母ではなく、正太という名前だった。予想はしていた。義母には助けるつもりはないと言い切ったが、彼本人には何も伝えていなかったからだ。
「もしもし」
数秒ほど沈黙が続いた後、ようやく正太の声が耳に届いた。
「ああ、よかった。着信拒否でもされているんじゃないかって焦ったよ。出てくれてありがとう。しおりさん。久しぶり。元気にしてた?僕は正直最悪な状態なんだ。母さんから聞いたと思うけど、家はもうめちゃくちゃで…」
弱々しい声に私は面食らってしまう。これまで関わってきた中で、彼のこんな声はほとんど聞いたことがない。
「何のご用ですか?」
「どうしても直接会って話がしたいんだ。本当にしおりさんには申し訳ないことをしてしまったから、せめて直接顔を見て謝りたくて。母さんにもあんなひどいことを言われて傷ついたよね。僕からも謝るべきだと思って。それに、実は頼みたいことがあって…でも電話じゃなくて、直接会って話したいんだ」
「謝罪なら電話でも十分ですよ。わざわざ会う必要はありません」
「お願いだ!どうしても話がしたいんだ!母さんが寝込んでいて、このままじゃどうなるか分からないんだ!しおりさんだけが頼りなんだよ!僕も必死で食べ物を探しているけど、もう何もなくて…1度でいいから会って話を聞いてくれないか!頼む、しおりさん!」
延々と電話を続けられるよりも、会って話した方が早いと判断した私は、渋々了承してしまった。すぐに後悔することになる。自分1人で足を運んで何かあったらどうしようという思いから、柚月と共に向かうことにしたのだが、待ち合わせ場所であるカフェに着くなり、先に来ていた正太がギロリと私を睨みつけてきた。声に出さずとも「どうしてそいつも一緒なんだ」と思っているのがありありと分かった。
彼は来てくれたことへの感謝の言葉もなしに、金を払えと要求してきた。電話での反省したような口調はどこへやら。対面したら上から目線で私を従わせようとする魂胆だったようだ。
「お前のせいで母が寝込んでしまったんだぞ!お前が新居に引っ越すだとか、今後助けないとか言ったせいで、見捨てられたってショックを受けて…かわいそうだとは思わないのか!母さんはいつもお前のことを褒めてたじゃないか!ちょっと遺産の話をしただけで出ていくなんて、恩知らずにも程がある!母さんの体調が悪くなったのは、お前の責任だ!」
震える声で叫ぶ正太の目は血走っていた。私は冷静さを保って続ける。
「正太さん、少し冷静になってください。あなたは自分の言葉がどれだけ私を傷つけてきたか、考えたことがありますか?咲夜が亡くなってから、私がどれだけ努力してきたか。毎日お母さんの食事を作り、家事をし、仕事をし…それなのに1度も感謝されることはなく、遺産の話が出た途端、嫁は家族じゃないと言われたんです」
すると彼は、さらにめちゃくちゃな一言をぶつけてきた。
「こうなったのはお前のせいなんだから、責任を取って金を出せ!俺は母さんに治療を受けさせてやりたいんだよ!お前が出ていったせいで家はめちゃくちゃ。母さんは病気、俺は路頭に迷いそうなんだぞ!」
「今の状況を招いたのは誰だと思っているんですか?あなたが借金をして実家のお金を使い込んだから、こうなったんですよ。なのにどうして私が責任を取らなければならないのですか?」
「俺のせいじゃない!」
彼はギャーギャーと喚き続ける。幼い子供にしか見えなかった。義母が食事の好みまで把握して世話を焼いていたわけだ。
「俺たち家族だろう!家族は支え合うものだろうが!お前が出ていったせいで家族の絆が壊れたんだぞ!」
「どこに支え合いがあったんですか?私が一方的にあなた方を支え、その見返りは『家族じゃない』という言葉だけでした。家族とはお互いに尊重し合い、感謝し合うものではないのですか?咲夜が亡くなってから、1度でも私にありがとうと言ってくれましたか?家族という言葉を盾にして私から搾取しておいて、いざという時には他人と切り捨てる。そんな一方的な関係が家族だとは思えません」
その時、柚月が追撃した。
「お兄ちゃんこそ、家族と支え合う気がないくせに、しおりさんにばかり求めるのはどうかと思うんだけど。『家族だから』とか理由をつけて理不尽な要求を通そうとするなんて間違ってる。あなたがお母さんのお金を使い込んだから今の状況があるのに、今更しおりさんを責めるなんて、よくそんな図々しいことが言えるわね」
柚月は声を震わせながらも続けた。
「私ね、ずっと黙ってたけど、お兄ちゃんが咲夜兄さんに嫉妬してるの。子供の頃から分かってたよ。咲夜兄さんは真面目で優しくて…なのに咲夜兄さんが亡くなった途端、その妻であるしおりさんを自分の思い通りにしようとする。本当は咲夜兄さんのようになりたかったんじゃないの。でも努力はしないで、ただ周りを支配して満足したいだけ。そんなのは家族じゃない。ただの依存だよ」
正太は返す言葉もないようで、唇を噛みしめて唸り声を漏らすばかりだった。
私は柚月に帰ろうかとアイコンタクトを送り、椅子から立ち上がった。すると、正太が大声をあげた。
「待ってくれ!頼む!見捨てないでくれ!どうか助けてほしい!お願いだよ!母さんが本当に苦しんでるんだ!俺も悪かった!もう2度と借金なんかしないから、どうか力を貸してくれ!」
なんと彼は、周りに客がいる状況にも関わらず、ガバッと床に頭を擦りつけて土下座したのだ。周囲のざわめきが聞こえる。しかし正太は顔をあげる気配がない。
すると、唐突に借金をした理由について語り始めた。
「俺は将来のことを考えて、資金を増やそうとしたんだ。投資で一発当てて、母さんにも楽させてあげたかった。それなのにうまくいかなくて…今は本当に後悔している。だから、しおりさん、僕たちを見捨てないで。お金を貸してくれるだけでいいから」
私は柚月と顔を見合わせ、短く息を吐いた。演技が上手だな、と悪い意味で感心するため息だった。
すると柚月が言った。
「違うでしょ。そんな理由なんかじゃないはずだけど。よくもまあそんな嘘がつけるわね。しおりさんに見せたいものがあるの」
柚月は鞄から取り出したものを正太の前にばらまいた。そのうちの何枚かが彼の頭にパサッと落ちる。彼が後頭部に手をやると、指先が触れたのは彼が映った写真だった。
それは正太が女性をはべらせて遊興している様子を捉えたもの。高級クラブでシャンパンを開け、複数の女性に囲まれて楽しそうにしている姿が映っていた。
「お兄ちゃんが借金をしたのは、ただ単に遊ぶお金が欲しかっただけでしょう。投資なんかじゃなく、こうやって浪費していたんでしょ。他にも証拠はたくさんあるわよ。3ヶ月で200万円以上使っているわね。これが投資?これのどこが母さんを楽にさせるための行動なの?しおりさんはあなたが遊んでいる間も、毎日働いて家事をして介護をして家計を支えていたのよ。まだしおりさんに責任を取れと言えるの?」
正太は痛いところを突かれたと言わんばかりにうつむき、顔を歪めた。否定の言葉も出てこないほど打ちのめされたようだ。
私は少しだけ腰をかがめると、正太と目を合わせて淡々と言い放った。
「『家族は支え合うものだ』っていうのであれば、お母さんと支え合って生きていってくださいね。もう私は他人なので、あなた方のことは助けません。自業自得というものです」
私の声に力はなかった。しかし、それは怒りではなく、すでに過去のものとなった関係への区切りをつける、静かな決意の現れだった。
正太は目と口を大きく開いて固まった。魂が抜けてしまったかのように、もうすがってくることも反論してくることもない。
抜け殻のようになった彼を残し、私は柚月と一緒にその場を去った。
その後、義母は福祉施設へ入居することとなった。柚月が彼女を説得し、行政の介入を促したからだ。絶縁された挙句「2度とうちに来るな」とまで言われた相手ではあるが、家族としての情が少しだけ残っていたらしい。柚月は優しい人だ。
家を離れるということは、すなわち正太とも別々に暮らすということ。彼が「あの子と一緒じゃなきゃ嫌だ」とでも言い出すのではないかと危惧していたが、彼の借金の件を知ってから色々と思うところがあったようで、適切な距離を置いて穏やかに過ごしているという。
家を手放さざるを得なかった正太は、安くて古いアパートに移り住み、アルバイトを始めたそうだ。しかし、まだまだ借金は返せておらず、借金取りに追われながら苦しい生活を強いられているらしい。
義母や正太との騒動から、私は色々なことを学んだ。他人に依存するのではなく、自分で人生を選び取れば必ず道は開けるということ。そして、自分を傷つけてくるような人からは離れて、自分を本当に尊重してくれる人と生きるのが大切であるということ。
今の暮らしがあるのも、咲夜や柚月のおかげ。常に感謝を忘れず、これからも幸せを噛みしめながら過ごしていきたいと思っている。



