「銀行員の旦那を持つ妹を見習いなさい。この親不幸者。農家の嫁なんて友達にも言えないわ。恥ずかしくて近所も歩けないんだから。ボロ家に行ってらっしゃい」
令和7年3月のある夜。渋谷区の住宅街にある実家のリビングで、秋の継母・みち子が封筒を揺らしながら嘲笑った。その前に立つ秋は、ただ静かに下を向いていた。
秋・25歳。食品会社の一般社員。手紙には「山形大地・27歳・職業・農家」とだけ書かれていた。その一行だけで、みち子の判断は決まっていた。
「わかりました」
秋の声は震えなかった。涙も抵抗もなかった。まるでこの日が来ると分かっていたかのように。
「分かったじゃないのよ。ちゃんと考え直しなさい。農家に嫁いで親に恥をかかせるつもり? 縁を切るわよ。本気で」
妹の鈴花が玄関の入り口に寄りかかり、笑った。鈴花の婚約者である杉山優太も、うつむいたまま何も言わなかった。笑い声が部屋に満ちた。誰も秋の味方をしなかった。ただ一人、廊下の奥から少女が静かにその様子を見ていた。
「みち子、もうそれくらいに」
秋の実父・正司の小さな声。しかし妻に逆らえない男の一言は、すぐにみち子に遮られた。
「あなたは黙っていてください。これは娘のためを思って言っているの。口を出すなら、この家のことも考え直してもらいますよ」
少女の足が止まった。秋は一瞬少女を見て、ゆっくりと小さく首を振った。止めなくていい——その目が静かにそう語っていた。
これは、不当な扱いに追い詰められた秋が最後に勝利する因果応報の物語。でもこの時、誰も知らなかった。翌日、この家族に何が起こるのかを。そして、農家へと婿入りする義父が本当は何者だったのかを。
秋が10歳の時、実母が病気で亡くなった。病院の廊下で父が泣き崩れるのを、秋はただ見ていることしかできなかった。2年後、父はみち子を連れて帰ってきた。みち子には連れ子がいた。鈴花。当時10歳。秋より2歳下だった。
「これからは4人家族ね」
その日から秋の生活は一変した。家事のほとんどが秋の仕事になった。洗濯、皿洗い、鈴花の弁当作り。毎朝6時に起きて全員分の朝食を用意した。鈴花は毎朝ゆっくり起きて、当然のように食べた。
「私の好みくらいちゃんと覚えてよ」
「ごめんなさい。次は気をつける」
みち子は毎日こう繰り返した。「あなたはお母さんのいないかわいそうな子なんだから、しっかりしないとね」。秋は何も言わずに頷いた。正司はそれを見ながら、茶を飲むふりをして視線を落としていた。
高校卒業後、秋は地元の食品会社に就職した。大学進学を諦めた。学費の話を出すと、みち子は「この家にそんな余裕はない」と言ったからだ。鈴花は翌年、都内の短大へ進んだ。学費は父の口座から出ていた。秋はそれについて誰にも何も言わなかった。
就職してからも、秋は毎月2万円を実家に入れ続けた。みち子から「ありがとう」と言われたことは一度もなかった。
そんなある日、秋は農業ボランティアのサークルに参加した。週末だけ都内近郊の農地で収穫作業を手伝う活動だった。そこで出会ったのが山形大地だった。大地は27歳。農業の後継者として実家の農家を守っていた。
初めて会った日、大地は泥だらけの軍手で手を差し出し、照れながら引っ込めた。
「あ、汚くてすみません」
「いえ、気にしないでください。私もすぐ汚れますから」
大地は少し驚いた顔をして、それから笑った。その笑顔を秋はずっと覚えていた。大地は農業について静かに熱く語る人だった。
「農業って地味に見えるかもしれないけど、土って正直なんですよ。ちゃんと手をかけた分だけ答えてくれる。裏切らないんです」
「裏切らない」という言葉は、秋にはほとんどないものだった。ボランティアを通じて、2人は自然と距離を縮めていった。
半年後、大地が秋に告白した。「一緒に農業をやってみませんか? 人生の相手として」。秋はしばらく黙っていた。それから静かに頷いた。
1年の交際を経て、秋は大地から婚約指輪を受け取った。その夜、初めて大地の実家を訪れた。義父・五一・51歳が玄関で出迎えてくれた。
「よく来てくれた。大地がお世話になっているね」
穏やかな笑顔だった。食卓には五一が丁寧に作った料理が並んでいた。豚汁、切り干し大根、炊きたての米。秋は気がつくと涙をこらえていた。
「どうした? 口に合わなかったか?」
「いえ、すごく美味しいです」
五一は静かに微笑んで、もう一杯おかわりを入れてくれた。秋にとって、そんな夜は初めてだった。
婚約を報告した翌朝から、みち子の嫌がらせが始まった。毎日のようにみち子は秋に言い続けた。
「まだ考え直す気にならないの? 農家なんて将来性ゼロよ。鈴花はちゃんと銀行員と婚約したのよ。あなたと大違いだわ」
鈴花の婚約相手・杉山優太は、東北の地方銀行・北斗銀行の行員だった。28歳。スーツをきっちり着こなし、物腰も丁寧だった。鈴花は優太との婚約を毎週のように秋の前で自慢した。
「優太さん、今日も残業だって。できる男は忙しいよね。お姉様は農家の泥まみれの人と毎朝5時起きなんでしょ? 大変ね」
秋は黙って皿を洗い続けた。
ある日、みち子が秋を呼び出した。「あなたにはこれからも毎月この家に仕送りしてもらわないと。農家の嫁になったら給料だって下がるでしょ。ちゃんと考えてるの?」
「大地さんの収入は十分あります」
「農家の収入なんて天候次第じゃない。安定しないでしょ。銀行員の優太さんみたいに安定した給料をもらってくる人の方が、どれだけお母さんは安心できるか分かる?」
秋はそれ以上何も言えなかった。みち子は自分を「お母さん」と名乗るが、秋の本当の母ではない。10歳の時に亡くなった実母の温かさが、どれだけ遠い昔のことか。
みち子は続けた。「鈴花は今度のゴールデンウィークに優太さんの両親に挨拶に行くのよ。向こうのご両親も大喜びで、旅行にも連れて行ってもらうんですって。農家の義父なんかに挨拶するあなたとは大違いだわ」
鈴花も横から顔を出して得意そうに口を添えた。「お母さんにすごく気に入ってもらったって言ってたよ。三軒茶屋のタワマンに住んでて、すごく素敵な家族なんだって。お姉様とは出発点が違うよね。農家ってどんな家なの?」
数日後、鈴花が婚約指輪を食卓に広げた。「見て。優太さんが選んでくれたの。20万のリングよ」
「まあ素敵ね。センスいい人はやっぱり違うわ。農家の人の指輪とは格が違うよね」
2人は笑い合った。秋は手の中の小さな指輪を静かにポケットにしまった。大地が土の上で渡してくれた指輪だ。値段よりも、あの瞬間の大地の目が秋には何より大切だった。秋は静かに立ち上がり、外に出た。誰も引き止めなかった。
外に出た秋は大地に電話をかけた。
「どうした? 声が疲れてる」
「少し話したくて」
「分かった。今から行く」
30分後、大地は車で迎えに来た。2人は近くの川沿いを歩いた。秋はぽつりぽつりと話した。みち子に言われたこと、鈴花に笑われたこと。大地は黙って聞いていた。それから静かに言った。
「秋さんが決めたことなら、俺はどこまでも一緒にいる。農業を恥だと思ったことは一度もない。でも辛いなら言ってくれ」
秋の目に涙が滲んだ。ずっと誰かにそばにいてほしかった。それだけだったのかもしれない。
両家の顔合わせの日が2週間後に決まった。場所は都内の料亭。五一が予約を入れてくれた。
みち子はその知らせを聞いた時、こう言った。「その程度くらい自分で予約できるの? 農家にしては気が利くわね」。秋は返事をしなかった。
顔合わせの前日、みち子は鈴花と2人でブランドの服を選びに行った。秋への一言もなく帰宅した2人の買い物袋は重そうだった。
「農家の親父に圧倒されないように、ちゃんとした格好で行かないとね」
「お姉様の義父って、どうせ田舎っぽいんでしょ」
その夜、大地からメッセージが届いていた。「明日そばにいる。ちゃんと一緒にいるから」。秋はそれだけで眠れた。
顔合わせの当日。都内の料亭・春の個室に2組の家族が集まった。藤原家からはみち子、鈴花、その婚約者・優太、そして秋の父・正司。正司は末席に座り、妻の顔色を伺うように視線を泳がせていた。山形からは五一と大地。五一は紺のシャツに落ち着いたジャケット姿だった。高価な服でも派手な時計でもなかった。
みち子はそれを見た瞬間、隣の鈴花と目を合わせた。2人の目に、ありありと軽蔑の色が浮かんだ。
挨拶が始まった。
「山形大地です。秋さんをよろしくお願いします。父の五一です」
「息子がお世話になっています」
五一の声は穏やかで低く、よく通った。
「藤原み子です。秋の母としてよろしくお願いします」
みち子は「母として」と付けた。秋はその言葉を聞いて、かすかに目を細めた。
料理が運ばれ、会話が始まった。みち子はすぐに自分のペースで話し出した。
「うちの秋、農業は初めてでご迷惑をかけるかもしれませんが。大地さんのお仕事って何の農業なんですか?」
「野菜が中心ですが、米も少し加工もしております」
「加工ですか? 小さな農家さんが自分でやるんですね」
みち子の口調には、はっきりとした見下しがあった。大地はただ「はい」と答えて微笑んだ。鈴花は横から涼しい顔で口を挟んだ。
「うちの婚約者の杉山優太さんは、北斗銀行の行員なんですよ。すごく忙しい方で、将来も安定してるって言われてて」
五一は鈴花の顔を穏やかに見た。大地は何も言わず、箸を置いた。
「北斗銀行さんですか」と五一は静かに言った。
「ご存知ですか? 東北ではかなり大きな銀行ですよ」と鈴花は得意に続けた。「優太さん、将来は支店長を目指してるって期待されてるんです。本当に頼りになる方よ。うちの鈴花は玉の輿でしょねえ、優太さん」
物静かな優太は、その場をかわすかのような微妙な笑みで一言も発せずに頭を下げた。みち子は五一と大地を交互に見て、比べるような目を向けた。秋はテーブルの下で膝の上に握りしめた拳を強くした。
「北斗銀行さんですか?」と五一はもう一度静かに繰り返した。その声にどこか重みがあった。鈴花はそれを聞き流した。
「やっぱり銀行員さんって頼りになりますよね。羨ましい。姉のことがどれだけ心配か。農業って本当に大丈夫なのかしら?」
五一は何も言わなかった。ただ穏やかにみち子の顔を見ていた。みち子はそれを「まあ、何も言い返せない」という意味にとった。
その後もみち子の発言はじわじわとエスカレートしていった。
「農業って奥さんも一緒に働くじゃないですか。秋は体力ないのに。育ちの子が農家に嫁いで、うまくやっていけるのかしら」
「お母さん、そういうこと言っちゃだめだよ」
「でも本当にそうよね」
鈴花は薬を笑った。五一は箸をそっと置いた。そしてゆっくりとみち子を見た。その目は怒ってはいなかった。ただ静かだった。みち子はその視線に気づかず続けた。
「正直に言わせてもらえば、農家に嫁ぐって家の恥だと思ってるんです。友人にも言えないし、親戚にも紹介できない。秋にはもっとちゃんとした相手を選んでほしかったわ」
その言葉が部屋に落ちた。秋は膝の上で手を握りしめた。大地は静かにテーブルを見つめた。正司だけが箸を持つ指を強く握りしめていた。
「待ってくれ」
声は小さすぎて誰の耳にも届かなかった。妻の横顔を見て、言葉を飲み込んだ。正司のいつもの癖だった。
五一はしばらく何も言わなかった。
「もし気を悪くされたなら申し訳ないですが、本音ですから」
五一はそれを聞いてもまだ何も言わなかった。ただ静かに箸を置き、みち子をまっすぐ見ていた。秋にはその沈黙がやけに長く感じた。
「父さん」と大地が低い声で言った。五一はわずかに頷いた。
「みち子さん、1つだけ確認させていただいてもよろしいですか?」
五一の声は穏やかだった。だが、空気の温度が1段階下がった気がした。
「あ、何でしょう?」とみち子は笑顔を保ちながら、姿勢をわずかに正した。
「農業は恥だとおっしゃいましたね」
「ええ、まあ、私個人の感覚ですが。世間的にもやはり母の言う通りだと思いますよ。ねえ、お姉様も分かってるでしょ?」
鈴花は秋に目を向けた。秋は何も言わなかった。
「そうですか」
五一はゆっくりと一度頷いた。その一言の重さは、まだみち子には届いていなかった。
「ところでみち子さん。先ほど北斗銀行のお話が出ましたが」
「え、ああ、はい。娘の婚約者が務める銀行ですよ。東北ではかなり大きくて、東北では死に身ですね」
「地域の農家とも長いお付き合いがある銀行です」
みち子はやや驚いた顔をした。農家がそこまで銀行事情を知っているとは思わなかったのだ。
「農家の方が銀行のことをご存知なんですね。詳しいですね」
「ええ、少し関わりがありまして」
五一はそう言って静かにお茶を飲んだ。みち子はその言葉をさらりと流した。「関わり」の意味を深く考えなかった。
「まあ、農家の方でも口座くらいは持ってますもんね」と鈴花が薬を笑った。
「農業以外にも少し資産運用をしておりまして」
「資産運用? あら、農家さんでも今は投資するんですか?」とみち子は少し笑った。まだ余裕があった。
「株をいくらか持っております」
「株、それはどちらの?」
「北斗銀行の株を少々」
静かな沈黙が個室に落ちた。みち子は笑顔のまま固まった。鈴花も箸を置いた。
「あら、北斗銀行の株を少し。それは器遇ですね。娘の婚約者の銀行だわ」
みち子はまだ笑っていた。「少し」が何を意味するか分かっていなかった。
「そうですね。器遇といえば器遇ですが」と五一は穏やかに続けた。その穏やかさが秋にはひどく怖く感じた。大地は静かに目を閉じた。
「少しと申しましたが、実際のところ」
五一は一息置いた。部屋に重い沈黙が落ちた。みち子の笑顔が少しずつ薄れていった。鈴花の表情が固まっていった。
「筆頭株主でして」
みち子が固まった。鈴花の箸がテーブルの上で止まった。
「ちょうど今日、全株を売却しようかと思っていたところです。3000億円ほどの株ですが、今日限りで売却しますね」
みち子の顔から血の気が引いた。鈴花の声が震えた。
五一はあくまで穏やかに続けた。
「農業を恥だとおっしゃる方のご親族に、息子の嫁を迎えることは少し難しいかもしれませんね」
秋はただ、嫁を静かに守る義父の横顔だけを見ていた。
翌日、北斗銀行の株価が急落した。筆頭株主の全株売却という一報が地上に伝わった。株価は一時、前日比で18%下落した。銀行内部では緊急会議が招集された。
営業部でその報を聞いた杉山優太は、顔色を変えた。上司が難しい顔でデスクに近づいてきた。
「杉山。筆頭株主の山形五一という人物、知っているか?」
「はい。昨日顔合わせに同席された山形五一氏です」
上司はしばらく優太を見つめた。「昨日の顔合わせで何があった?」。優太は全てを話した。上司の目が細くなった。
「婚約者の家族が株主を怒らせて、この事態を招いたということか」
「はい」
その日の午後、役員会議が招集された。株価の下落幅は続いており、含み損が数十億に達していた。頭取が険しい顔で口を開いた。
「山形五一との関係は回復できるのか?」
「現状困難です。先方は売却の意思を固めています」
「杉山の婚約者の家族が原因とのことだが、本人はどう対処する?」
会議室が静まり返った。優太は窓の外の景色を見ていた。昨日まで自分はエリート銀行員だと思っていた。鈴花の隣に立ち、誇らしく笑っていた。その全てが一晩で崩れていた。
「申し訳ありません」
会議が終わった後、上司が優太を呼び出した。2人きりになった応接室で、上司は静かに言った。
「個人的に聞くが、婚約者との関係はどうするつもりだ?」
優太はすぐに答えられなかった。鈴花との2年間が頭をよぎった。初めて会った日、指輪を選んだ日。それでも上司の次の言葉が全てを変えた。
「君の将来をここで終わらせたくはない。分かるな」
優太はその日の夕方、鈴花に電話をかけた。
「優太さん、どうしたの?」
「昼間から一度会えるか」
カフェで向かい合った鈴花に、優太は書類を差し出した。婚約解消の同意書だった。
「ねえ、何これ?」
「君の家族が、秋さんの婚約者の父親を侮辱した。その結果、俺は職場で責任を問われている。君の家族のことだ」
「ちょっと待って。そんなの私のせいじゃ―」
「俺はこれ以上、君と婚約を続けることはできない」
鈴花は言葉を失った。視界がぼやけた。婚約指輪の光が、涙越しにゆらめいた。
「私、何かしたっけ?」
優太は答えなかった。その目が全てを言っていた。鈴花には、指輪と農家を笑った自分が蘇っていた。
「お母さんに電話しなきゃ」
鈴花は初めてその重さを知った。母の言葉が自分の未来を壊したのだと。
みち子への連絡は鈴花がした。電話口のみち子は最初信じなかった。
「そんなはずないわよ。農家の人が銀行の株を持ってるわけないでしょう」
「本当なの? 株価が下がってて、優太さんが責任取らされてるの」
みち子は電話を切った後、スマートフォンで北斗銀行の株価を調べた。画面の数字と赤いチャートが全てを物語っていた。みち子はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
鈴花の婚約。優太の職場。自分のあの一言。
「私が壊したの?」
誰も答えない部屋で、みち子はそう呟いた。
その夜、秋の父・正司がみち子に離婚を言い渡した。
「正司さん、待って!」
しかし正司は振り向かなかった。秋の父・正司は、長年妻に尻に敷かれ口を閉じてきた男だった。娘が虐げられても「内のせいで家の和が乱れる」と言い訳をして目をそらしてきた。しかし顔合わせの場で、大切な娘の将来を踏みにじられた。それが13年間の我慢の最後の一枚だった。
「お願い、正司さん。話を聞いて」
正司の足はもう止まらなかった。その背中が廊下の奥で小さくなっていった。
その夜、みち子は初めて一人で泣いた。家の中が静かすぎた。台所から正司が帰宅する音がしなかった。玄関に誰かの靴が増えることもなかった。
みち子は13年間、この家の女主人だった。
「私の家だったのに」
低い声でみち子はそう呟いた。夜明けまで、みち子は一人で座り続けた。
翌月、みち子と鈴花は2人で都内のワンルームのアパートに引っ越した。家賃は5万8000円。みち子がいたマンションとは別世界だった。台所に2人分の食器が並んだ。洗濯機は1台。冷蔵庫も1台。
「お母さん、ご飯の炊き方分かる?」
「分からない」
みち子は初めてそう言った。ご飯の炊き方を鈴花に教わった。その鈴花も、スーパーのレシートを睨みながら食材を選んでいた。
「お母さん、今月の食費もう残り3000円だよ」
みち子は黙って財布を開いた。1000円札が3枚入っていた。かつて1万円を何気なく使っていた女の、今の全財産だった。
2週間後、鈴花が秋に電話をかけた。
「もしもし」
「き、ちょっと話したいんだけど。あの、少しお金を貸してもらえないかしら」
しばらく沈黙が続いた。
「お母さん」
「何?」
「私はずっと助けを求めていました。家事を手伝ってほしいと言った時も、進学したいと言った時も、あなたたちは笑っていたね」
電話の向こうで、みち子の息を飲む音がした。秋の声は怒っていなかった。責めてもいなかった。ただ静かだった。その静けさがみち子には一番辛かった。怒鳴られた方がまだ良かった。この静けさは、13年間積み重なったものだとみち子は初めて分かった。
「ごめんなさい」
「今はお断りします」
電話が切れた。みち子はしばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。鈴花も隅で見ていたが、みち子を責める気にはなれなかった。自分も笑い、指輪を見せて得意にしていたのだから。
「お母さん」
みち子は振り向かなかった。鈴花もそれ以上何も言えなかった。2人はしばらく部屋の中で黙っていた。返す言葉も慰める言葉も、どこにもなかった。
翌朝、鈴花はコンビニのアルバイトを始めた。みち子は近所のスーパーでレジ打ちの仕事を見つけた。
「私、こんなはずじゃなかった」
ある日、コンビニのレジに立っていた鈴花の前に、見知った顔が現れた。かつて銀行員の婚約者がいると自慢した相手だった。同年代の友人・尚が買い物かごを持って立っていた。
「鈴花ちゃん。え、ここでバイトしてるの?」
鈴花は笑顔を作るしかなかった。
「うん。ちょっと色々あって」
尚は「大変だったんだね。頑張ってね」と言って去っていった。たった30秒だった。鈴花はレジに手をついたまま、前を向けなかった。
少し前まで、自分が「大変だったんだね」と声をかける側だと思っていた。それが全部逆になった。誰も聞いていないレジカウンターで、鈴花はそう思った。アパートの薄い壁の向こうで、赤ちゃんが泣いていた。
2人は朝から夕方まで働いた。夜は疲れてすぐ寝た。数週間後、正司から時効案の書面が届いた。慰謝料などの見積もりだった。訴訟ではなく話し合いで示された金額だ。総額は200万円だった。
みち子のパートの時給は950円。鈴花のコンビニは1050円。200万円。返し終えるのはいつになるの? みち子は計算するのが怖くなった。
「お母さん、今月の家賃まだ足りないんだけど」
「分かってる。私が出す」
かつて「親を養ってくれる妹を見習いなさい」と叫んでいたみち子が、今は妹の家賃を払う側にいた。かつて「銀行員の旦那を持つ妹を見習いなさい」と言ったみち子が、今は損害賠償金を返す側にいた。
因果は静かにやってくる。
ある夜、食事の後でみち子がぽつりと言った。
「秋にひどいことをしたわね」
鈴花は何も言わなかった。ただ箸をそっと置いた。2人は長い間黙っていた。
その年の秋、山形の農園は豊作だった。山形大地と秋の結婚式は、農場の片隅の小さな場所で行われた。参列者は15人ほどだったが、全員が笑顔だった。五一は白いシャツ姿でずっと笑っていた。
「大地、良かったなあ」
「はい。お父さん、ありがとうございます」
秋は義父に深く頭を下げた。
「頭を上げて。ここが秋さんの家だよ」
その言葉で、秋は初めて声をあげて泣いた。大地はただ秋の隣に立っていた。
「ありがとうございます」
翌朝から秋の農場生活が始まった。秋は農業の仕事を少しずつ覚えていった。土を触るたびに、大地の言葉を思い出した。「裏切らない。土はちゃんと答えてくれる」。秋は毎朝早く起きた。でも今度は、自分のために起きた。
「秋、準備できた?」
大地の声が農場の朝に響いた。山形の農場では、夜明けと共に2人の1日が始まった。大地は軽トラックのエンジンをかけ、秋が水筒にお茶を詰めた。
「今日は夏の収穫ですよね」
「うん。終わったら川沿いに行こうか」
2人が最初に語り合ったあの川沿いだ。秋は少し笑った。あの夜、辛いと言えた場所にまた行ける。それだけのことが、今は何より嬉しかった。
「行きたいです。川沿い」
大地が頷いた。農園から見える空は広かった。かつて毎朝バスで通い続けた渋谷の空とは違った。あの頃、空を見上げた記憶がない。いつも下を向いて、早く家を出ようと思いながら歩いていた。
「大地さん」
「どうした?」
「ここに来てよかった」
大地は何も言わずに笑った。いつもそれだけで十分だった。秋は軽トラックに乗り込み、助手席の窓を開けた。畑の風が顔を撫でた。農場の入り口で五一が手を振っていた。
「行ってらっしゃい」
秋はその一言がすごく嬉しかった。
一方、半年後もみち子と鈴花は返済を続けていた。みち子はある日の帰り道、かつての知人・広瀬と鉢合わせした。広瀬はみち子を見て一瞬目を丸くした。
「みち子さん。あら、お久しぶり」
「ああ、お久しぶり」
みち子は曖昧に笑った。スーパーのレジをしているとも言えなかった。夫に離婚届を突きつけられたとも言えなかった。広瀬はすぐに「また連絡しますね」と去っていった。みち子は一人、重い袋を持ちながら歩き続けた。
「私って、何だったのかしら?」
鈴花にも同じような日が来た。コンビニ帰り、優太との思い出の道を通ったのだ。街灯が夜道をぼんやりと照らしていた。
「何が悪かったんだろう」
誰に向けた言葉でもなかった。でも心のどこかでは、もう分かっていた。友人への連絡も、いつの間にか途絶えていた。「婚約者は銀行員よ」と自慢していた頃の自分が遠かった。もう消えてしまいたかった。でも今は返すべき借金があった。それだけが鈴花を朝に起こしていた。
ある冬の夜、2人は仕事を終えて台所に並んだ。みち子がキャベツを切り、鈴花が味噌汁を作った。無言だった。ただ一緒にいた。
「お母さん、私たち変わらないといけないね」
みち子は箸を置いて頷いた。
「そうね」
みち子はある夜、秋に手紙を書こうとした。「秋へ」と書いた。次の言葉が出なかった。何を書いても言い訳になりそうで、便箋のまま机の引き出しにそっとしまった。
まだ言えない。でもいつかは言わなければならない。みち子は初めてそう思った。
年が明けたある日、鈴花はハローワークに足を運んだ。コンビニバイトを続けながら、正社員の仕事も探すためだった。窓口で書類を受け取りながら、鈴花は思った。「私、ちゃんとやり直せるかな?」
担当者は「大丈夫ですよ」と言った。その一言が、鈴花には思ったより響いた。銀行員の婚約者がいた頃、周りは「すごいね」とは言った。でも「大丈夫」と言ってくれた人は誰もいなかった。
「やってみます」
3ヶ月後、鈴花は食品会社の事務職の採用通知を受け取った。月給は高くなかった。でも自分で掴んだ仕事だった。
「お母さん、今月から返済少し増やせる」
みち子はしばらく黙っていた。それから頷いた。
「頑張ったね」
みち子が鈴花を褒めたのは、多分初めてだった。鈴花は何も言わずに自分の部屋に戻った。ドアを閉めてから、少しだけ泣いた。
みち子は秋への連絡を、もうしなかった。できなかった。
一方、秋の元には、実父・正司から年に一度手紙が届いた。「お前が幸せそうでよかった」と最後に書いてあった。
「お父さん」
秋はその手紙を農作業の合間に読んだ。畑の風が静かに吹き抜けた。遠くで大地が手を振っていた。
「うん。私は幸せだよ」
秋は小さく呟いた。きっと空の向こうで、実母も笑っているだろう。そう思いながら、便箋を畑用のエプロンのポケットにそっとしまった。
「秋、お昼だ。父さんの豚汁ができたぞ」
「はい。今行きます」
走り出す前に、秋は空を一度だけ見上げた。雲の切れ間から光が差して、眩しかった。胸の奥が静かに温かくなった。ここが帰る場所だと、改めて思えた。



