私は医者を辞めて逃げるように山奥の温泉宿に流れ着いた。身元を隠し、一晩だけのつもりだった。だが、女将が私の名字を見た瞬間、目を止めた。そして深夜、帳場から「あの男、沢田と書いていた」という声が聞こえた。翌朝、私は宿の主人に「先生の名前を背負ったまま長居されるのは困る」と追い出されかけた。その夜、宿の常連客が胸を押さえて倒れた。私は迷わず飛び込んだ。脈を取った瞬間、主人が低く言った。「──あな…

私は医者を辞めて逃げるように山奥の温泉宿に流れ着いた。身元を隠し、一晩だけのつもりだった。だが、女将が私の名字を見た瞬間、目を止めた。そして深夜、帳場から「あの男、沢田と書いていた」という声が聞こえた。翌朝、私は宿の主人に「先生の名前を背負ったまま長居されるのは困る」と追い出されかけた。その夜、宿の常連客が胸を押さえて倒れた。私は迷わず飛び込んだ。脈を取った瞬間、主人が低く言った。「──あな...

バスの最前列で目を覚ました。

「お客さん、終点ですよ」

運転手の声で、俺はようやく腰を上げた。肩にザックを一つ掛けて降りる。ジャンパーの裾はくたびれ、スニーカーは泥と埃で色を失っていた。

俺の名前は沢田おむ。四十二歳。肩書きはもうない。

二年前まで、東京の大学病院で医者をやっていた。ある夜の手術で患者を一人失った。判断ミスじゃないと、今でも思っている。だが責任は全て俺にあるとされ、裁判で敗れた。病院は俺を切り、世間は俺を叩いた。医師免許は過労の末、まだ手元にある。ただ、それを使う気力がもう残っていなかった。

バスを降りた俺は、何となく目に入った旅館の看板に足を向けた。「藤の湯」と古い木札に墨で書いてある。玄関の引き戸を開けると、土間の冷たい空気と、奥から流れてくる湯の匂いが混じった。

「すみません。一晩泊めてもらえますか」

声を出すのは久しぶりだった。奥から現れたのは、和服姿の女だった。年は四十前後だろうか。化粧は薄く、髪はきっちりと結い上げている。俺の顔を一目見ると、わずかに目を細めた。

「お一人様ですね。お荷物、お預かりします」

落ち着いた声だった。俺の身なりを見て嫌な顔一つしないのが、逆に不自然なくらいだ。泥だらけのスニーカー、伸びた無精髭、目の下の隈。普通の宿なら断られても文句は言えない格好だった。

「私はこの旅館の女将で、藤崎影と申します。ごゆっくりどうぞ」

そう言って彼女は深く頭を下げた。俺は曖昧に頷いて、宿帳に「沢田」とだけ書いた。名前を見た女将は、ほんの一瞬、筆を持つ俺の手元に視線を留めた。

部屋に通された後、俺は窓を開けて外を眺めた。小さな温泉街だった。通りには土産物屋が数件、当時宿が肩を寄せ合っている。人の姿はまばらで、夕暮れの中に呼び込みの声もない。寂れているというのが正直な印象だった。

俺はザックを下ろし、畳の上に大の字に寝転んだ。

夕食を運んできたのは女将ではなかった。白髪が混じりの男性だった。作務衣を着て、背筋が真っ直ぐに伸びている。膳を畳に置くその所作には、無駄が一つもなかった。

「女将の藤崎洋平と申します。何かあれば申し付けください」

俺の顔を見るその目には、明らかに警戒の色があった。身元の知れない男を泊めることへの、職業人としての警戒だ。

「ご丁寧にどうも。一晩だけ世話になります」

そう答えても、男は表情を緩めなかった。

「失礼ですが、沢田さんはどちらから?」

「東京です。少し歩き回っていまして」

「お仕事は?」

「今は何も」

男はしばらく俺の顔を見ていた。やがて何も言わず、襖を閉めていった。廊下を踏む足音が遠ざかっていく。俺は膳を取った。

三菜の煮物、岩魚の塩焼き、味噌汁。飾り気はないが、旨かった。久しぶりにまともな食事を口にしたせいか、味がよく染みた。

食事を終え、廊下に出て湯に向かった。途中、帳場の前を通りかかった時、声が聞こえた。男と女将が低い声で話している。俺は足を止めた。

「あの男は、宿帳に『沢田』と書いていた。まさかとは思うが……」

「私もそう思いました。目元がよく似ているのです」

「だとしてもだ。身元の分からん男を長く置くのは関心せん」

「おじさん、今夜は冷えますから。一晩くらい……」

俺はそれ以上聞かずに、その場を離れた。廊下の板が、足の下で小さく鳴った。女将は「誰に似ている」と言ったのだろう。考えるのも面倒だった。湯舟に体を沈めると、肩の力がゆっくり抜けていった。

翌朝、俺はもう一泊することに決めた。理由は自分でもよくわからない。急ぐ旅でもないし、ここを離れたところで、行く先があるわけでもない。女将にそう伝えると、彼女は静かに頷いただけだった。男は奥にいて、顔を出さなかった。

朝食の後、宿の前の縁台で煙草を吸っていると、隣に男性が腰を下ろした。首にタオルを巻き、湯上がりの赤い顔をしている。俺をちらりと見て、人懐こく笑った。

「兄さん。見かけない顔だね。一人旅かい?」

「ええ、まあ。昨日来たばかりで」

「ここはいいよ。湯がいい。飯がいい。人がいい。私はもう十五年通ってる」

「十五年は長いですね」

男性は腹の辺りをポンと叩いて、また笑った。

「持病のね、腎臓と心臓と、まあ色々抱えとるんだが、ここの湯に浸かるとそれを忘れる。村瀬公平です。よろしく」

「沢田おむです」

「沢田さんか。いい名前だ」

村瀬は煙草を断り、代わりに飴玉を一つ取り出して口に放り込んだ。医者に止められとるんだ、と笑いながら言う。その明るさが、不思議と嫌じゃなかった。

しばらく他愛のない話をしていると、通りの向こうから足早にこちらへ来る女がいた。紺のジャケットにローファー。役所勤めらしい格好だった。彼女は村瀬を見つけて、軽く頭を下げた。

「村瀬さん、おはようございます。今日もお元気そうで」

「リナちゃん、また役場の妖怪か」

「ええ、先月の検診結果のことで少しお話を」

そう言いながら、彼女は俺の顔も一瞬見た。

「ああ、こちらは沢田さん。昨日からの泊まり客だそうだ」

「町場の高岡リナと申します。ようこそ、こんな寂れた町に」

「いえ、静かでいいところですよ」

「お世辞でも嬉しいです。本当に、人がどんどん減っていって」

リナは苦笑いを浮かべた。それから、ふと真顔になった。

「特にお医者さんがいなくて困ってるんです。診療所が一つあるんですが、先生がご高齢で、来月には閉めるという話で」

「閉まるのか。それは困ったな」

「町としても何とか後任を探しているんですが、こんな山奥に来てくださる先生はなかなか……」

医者、という言葉が耳の奥で小さく反響した。聞こえなかったふりをして、俺は遠くの山を見た。

村瀬がぽつりと呟いた。

「リナちゃんはようやっとる。あの子一人で、街を背負っとるようなもんだ」

俺は何も答えなかった。代わりに煙草をもう一本取り出して、火をつけた。煙が朝の冷たい空気の中に、ゆっくりと溶けていった。

三日目の朝になっても、俺はまだ藤の湯にいた。女将にそれを告げると、彼女は少し驚いた顔をして、それからすぐに頷いた。男の姿はこの朝も、奥に隠れたままだった。俺を歓迎しているわけではないというのは、態度でわかる。それでも追い出されないのは、女将の温情なのだろう。

朝食を済ませ、宿の下駄を借りて温泉街をぶらついた。昨日リナが口にした診療所のことが、頭の片隅に引っかかっていた。

通りを抜け、川沿いに少し下ったところに、その建物はあった。木造の平屋で、ガラス戸に「診療所」と古い書体で書かれている。縁台のベンチには、患者らしい女性が二人、順番を待って腰かけていた。

俺は道の反対側に立って、しばらく建物を眺めた。中から咳の音と、穏やかな声が薄く漏れてくる。ガラス戸の向こうに、白衣の背中が一瞬よぎった。医者だった頃の自分と、その背中が一瞬重なって、すぐに離れた。

「何をしてるんだ、俺は」

声に出して呟いた。歩き出そうとした時、後ろから声がかかった。

「沢田さん」

振り返ると、紺のジャケットのリナが書類の束を抱えて立っていた。

「お散歩ですか?」

「いえ、ただの散歩です。患者がたくさんいるんだなと思って」

「ええ、今は何とか回っていますが、来月先生が引退されたら、この町から医者がいなくなるんです」

「次の方は、本当に見つからないんですか?」

「県にも何度も掛け合っているんですが、こんな山奥に来てくださる方は誰もいないんです」

リナは書類を抱え直した。それから、俺の顔をちらりと見上げた。

「失礼を承知でお聞きしますが、沢田さん、何かの専門職でいらっしゃいませんか? そんな気がして」

「今は何もしていない。ただの流れ者です」

「そうですか。すみません。付け入るようなことを」

リナは頭を下げて、診療所の中へ入っていった。俺はもう一度、白衣の背中をガラス越しに見た。

昔、父が温泉街で無償診療していたと聞いたことがある。聞いただけで、俺は一度も尋ねたことがなかった。

その夜、夕食の膳を運んできたのは女将だった。女将は膳を畳に置くと、すぐには立ち上がらず、襖の脇に座った。何か言いたいことがあるという座り方だった。

「沢田さん、少しだけよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

「ご気分を害されたら申し訳ございません。沢田広先生というお名前を、ご存知でいらっしゃいますか?」

箸を持つ手が止まった。

「父です。亡くなりましたが」

「やはり、そうでいらっしゃいましたか」

女将は深く頭を下げた。それからゆっくり顔を上げた。

「私が十二の頃でした。母が倒れまして、町の診療所では手に負えないと言われたんです。その時、ちょうど東京から沢田先生がいらしていて、母を見てくださいました。お代もお受け取りにならなかった」

「父らしい話です」

「あの先生がいらっしゃらなかったら、私は母を見送っていたと思います。だから、宿帳にお名前を拝見した時、もしやと」

俺は何も答えられなかった。父の顔が、はっきりと目の前に浮かんだ。

「お顔立ちが、本当によく似ていらして」

「よく言われました。ありがたいような、迷惑なような、複雑な話ですよ」

「ご職業もお父様と……」

「どうでしょうね」

俺は曖昧に笑った。女将はそれ以上踏み込まなかった。

「差し出口を申しました。ごゆっくり召し上がってください」

そう言って、女将は静かに襖を閉めた。

一人になった部屋で、俺は天井を見上げた。父の理想を、俺はずっと嫌っていた。無償で診て、家を顧みず、母にも俺にも背中しか見せなかった人だ。「医者は仕事だ。ボランティアじゃない」。そう言って父と喧嘩になった夜のことを、今でも覚えている。その父が、こんな山合いの町で彼女の母親を救っていた。

夜更け、湯から戻る途中、帳場の明かりがまだついていた。男が一人、机に向かっていた。その背中が規則正しく、廊下に響いていた。俺はそのまま通り過ぎるつもりだった。だが、男の方から声がかかった。

「沢田さん、少々よろしいか?」

俺は足を止めた。男は眼鏡を外し、茶を一つ俺の前に置いた。

「女将から聞きました。沢田先生のご子息だそうですね」

「ええ、まあ」

「先生には、私もこの足を見ていただいたことがあります。もう四十年も前の話ですが」

「父のことを覚えている方が、こんなに残っているとは思いませんでした」

「あの先生をお忘れするものは、この町にはおりませんよ」

男は間を置いた。湯呑みの湯気がゆっくり立ちのぼる。

「単刀直入に申し上げます。沢田さん、あなたはお父上のお仕事を継いでおられますかな?」

「免許は持っています。今は使っていません」

「使っておられないということは、何かご事情が?」

「お話しするほどのことじゃありません」

男の目が、ふっと鋭くなった。

「失礼を承知で申し上げますが、先生の名前を背負ったまま、この町に長居されるのは、私はあまり関心しません」

「と言いますと?」

「町の者は、先生のお名前にまだ夢を見ています。リナちゃんなんかは、診療所のことで必死だ。あなたが医者だと知れたら、皆すがります。その時になって『やはり使えません』と言われては、町の者が二度傷つく」

俺は黙って話を聞いた。

「ご気分を害したらお詫び申し上げますが、私は女将の叔父として申し上げねばなりません」

男の言葉は、責めるような言い方ではなかった。ただ、真っ直ぐにこちらの胸を突いてきた。

「ご忠告、ありがとうございます。明日、宿を立ちます」

「そうしていただけると、ありがたい」

男は深く頭を下げた。

部屋に戻り、ザックの中身を確かめた。着替えが二着。財布。それから、封筒に入ったままの免許。免許を取り出し、掲げた。髪の上の名前が、他人のように見えた。窓の外で夜風が木々を鳴らしていた。俺は免許を封筒に戻し、ザックの底に押し込んだ。明日の朝、ここを立つ。そう決めたはずなのに、布団に入ってからも俺はなかなか眠れなかった。

夜明け前のことだった。宿の廊下を、慌ただしい足音が走った。襖の外で、女将の押し殺した声が聞こえた。

「沢田さん、起きていらっしゃいますか?」

「ええ、起きています」

「村瀬さんがお部屋で倒れられて。意識はあるのですが、胸が苦しいと」

俺は布団を跳ね上げた。考えるより先に、体が動いていた。廊下を走ると、突き当たりの部屋からうめき声が漏れていた。男が枕元に座り、村瀬の手を握っていた。村瀬は布団の上で胸を押さえ、額に脂汗を浮かべていた。唇の色が、紫がかっている。

俺は枕元に膝をついた。脈を取る。早くて弱い。村瀬の顔を覗き込んだ。

「村瀬さん、聞こえますか? 胸のどの辺りが苦しいですか?」

「ま、真ん中から左の方へ突き抜けるみたいに……」

「いつからですか?」

「一時間ほど前から……だんだんひどく……」

「狭心症か、心筋梗塞の疑いがあります。救急車を呼んでください。一番近い病院まで、どれくらいかかりますか?」

「車で四十分はかかります」

「間に合うかどうかは分からない。だが呼んでください。今すぐ」

女将がすぐに帳場へ走った。俺はジャンパーを脱ぎ、村瀬の枕を低くした。シャツのボタンを外し、胸を開いた。

「村瀬さん、楽な姿勢にします。喋らないで、ゆっくり呼吸してください」

「沢田さん、あんた、医者かい?」

「昔の話です。今はただの流れ者ですよ」

村瀬が苦しい息の下で笑った。男が俺の指示で、宿の救急箱からニトログリセロンの舌下錠を探してきた。常連客のための備品として、宿に置いてあったものだった。俺は一片を村瀬の舌の下に入れた。

時間が、嫌に長く感じられた。村瀬の呼吸を数え、脈を取り直す。窓の外が少しずつ白み始めていた。十五分ほどして、村瀬の唇に血の気が戻ってきた。脂汗が引き、呼吸も落ち着いてきた。危険な山は、ひとまず越えた。だが油断はできない。

救急車のサイレンが、遠くから近づいてきた。玄関で女将の声がした。担架で運び出される村瀬は、俺の手をしっかり握って放さなかった。

「沢田さん、あんたがいてくれて助かった。本当に」

「病院でちゃんと見てもらってください」

「また湯に浸かりに来るよ」

「ああ、また飴を分けてやるよ」

救急車が走り去った後、玄関先には男と女将と俺が立っていた。誰も、しばらく口を開かなかった。

「沢田さん」

「はい」

「昨夜の話は、忘れてください」

男は深く頭を下げた。背中が、わずかに震えていた。

その日の昼過ぎ、リナが宿に飛び込んできた。村瀬が病院に運ばれたという話は、もう町中に広まっていた。リナは俺の顔を見るなり、深く頭を下げた。

「沢田さん、村瀬さんを助けてくださって、ありがとうございました。さっき病院から連絡があって、もう峠を越えたと」

「間に合ってよかった。あれ以上遅れたら、私の手には負えませんでした」

「やはり、お医者さんでいらしたんですね」

俺は黙って頷いた。リナはしばらく言葉を探していた。ジャケットの裾を指で握りしめていた。

「沢田さん、図々しいお願いだと分かっています。この町の診療所を、引き継いでいただけないでしょうか?」

「リナさん……」

「先生のお父様のお話は、女将さんから少し伺いました。私はお父様の名前にすがろうとしているわけではないんです。あなたを見て、お願いしたいと思いました」

リナの目に、涙が浮かんでいた。俺はしばらく、彼女の足元の畳を見ていた。

「私は二年前に、患者を一人亡くしています。裁判にもなって負けました。世間から見れば、医者として終わった人間です」

「存じています。沢田さんのお名前で、調べさせていただきました」

「知っていて、頼みに来たんですか?」

「はい。それでも、お願いしたいんです」

リナは深く頭を下げた。頭を上げない。男がこちらを見ていた。何も言わなかった。

俺は天井を仰いだ。父の顔が浮かんだ。無償で診て、家を顧みなかった父の背中。ずっと嫌っていたはずのその背中が、なぜか今朝の自分と重なって見えた。

「少し考えさせてください。今日中にお返事します」

「ありがとうございます。お待ちしています」

リナが帰った後、俺は宿の裏手の川に下りた。石を一つ拾って、川に投げた。波紋が広がって、すぐに流れに消えた。二年前のあの夜のことを、久しぶりに正面から思い出した。判断ミスじゃなかったと、今でも思う。逃げ続けて二年が経った。川の水音が、嫌に冷たく聞こえた。

夕方、俺は帳場で女将と男に頭を下げた。

「診療所の話、受けようと思います。すぐにはいきません。県に届けも必要ですし、引き継ぎもあるでしょうが、やってみます」

女将が口元に手を当てた。男がゆっくりと深く頭を下げた。頭を上げた時、その目は赤かった。

「沢田さん、私の言葉、本当に申し訳ございませんでした」

「いえ。あれがなければ、私は今朝逃げていたかもしれません」

「お部屋は、しばらくこのままお使いください。落ち着き先が決まるまで」

「ありがとうございます。甘えさせていただきます」

女将は奥へ下がっていった。廊下の向こうで、彼女が小さく鼻をすする音が聞こえた。

その夜、俺はザックの底から封筒を取り出した。医師免許を引き抜き、ランプの明かりにかざした。俺は机に向かい、便箋を一枚広げた。亡くなった患者の遺族に、二年ぶりの手紙を書こうと思った。返事が来るとは思っていない。ただ、書くことだけは自分でしなければならない気がした。

ペンを握ると、最初の一言がなかなか出てこなかった。窓の外で夜風が木々を鳴らしていた。父の声が聞こえた気がした。気のせいだろう。俺は息を一つ吐いて、ペンを動かし始めた。

一週間後、村瀬が退院してきた。杖をつき、誰かに支えられながら、村瀬は腰を下ろした。俺の顔を見ると、ポケットから飴玉を一つ取り出して差し出した。

「先生、一つどうかね?」

「先生はやめてください。まだ何も始めていない」

「いや、先生だ。私の中ではな」

俺は飴玉を受け取り、口に入れた。甘さが舌の上にゆっくり広がった。リナが役場の書類を抱えて坂を駆け上がってきた。男が玄関先で山を見ていた。女将が湯呑みを盆に乗せて運んでくる。

俺の名前は沢田おむ。四十二歳。明日から、この町の診療所で、もう一度白衣を着る。肩書きはまだ何もない。ただ、父の背中を少しだけ分かりかけている。雪が夕日に溶けて、ゆっくりと山の方へ流れていった。

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