たけしが突然、離婚届を突きつけてきた。理由は「お前はもう必要ない」の一点張り。私は呆然とするしかなかった。1年前から彼は優しかった頃の面影を失い、不満と苛立ちを私にぶつけてくるようになっていた。穏やかで優しかった夫が、まるで別人のように変わってしまった。
離婚届を突きつけられた日、私はただ震えるしかなかった。カレンダーには月末まで残り1週間。彼は「今月中に書け」と言い放ち、家を出て行った。理由を問い詰めても、彼は頑なに口を閉ざしたまま。スマホを手放さず、頻繁にアラームを鳴らし、落ち着かない様子で動き回る。何かを必死に隠しているように見えた。
「もしかして、他に好きな人ができたの?」
息子からの電話に、私は自嘲気味にそう問いかけた。彼は必死に否定したが、父の様子を「すごく寂しそうだった」と表現した。何か大きな秘密を抱えている。それは私も感じていた。
離婚の準備を進める中、たけしから最後の晩餐の提案が届いた。指定されたのは、私が知らない小さな料理屋。彼が通勤で使う駅の近くにあった。
約束の日。私は記入済みの離婚届を鞄に忍ばせ、指定された店へ向かった。しかし、1時間待っても彼は現れなかった。メールも電話も通じない。事故にでも遭ったのだろうかと不安になった時、個室の扉が開いた。
そこにいたのは、険しい表情をした店の主人だった。
「実は、ご主人が昨日、私どもに手紙を預けてくれたんです。もし自分がたどり着けなかったら、妻にこれを渡してほしいと。」
差し出された白い封筒。震える手で開けると、そこには歪んだ文字が並んでいた。彼が認知症を発症していたことを知ったのは、その時だった。1年前に発症した若年性認知症。物忘れが増え、駅の出口が分からなくなり、病院で診断を受けた。職場にも迷惑をかけ始めた彼は、3ヶ月前にすでに退職していた。毎日、会社に行くふりをして公園で薬を飲み、時間を潰していたのだ。
「君に冷たい態度を取ってしまったのは、僕の頭の中の霧が限界を迎えて、パニックになりそうだったからなんだ。」
手紙には、私を突き放すための優しい嘘が綴られていた。そして、こうも書かれていた。「今夜僕は消える。これ以上一緒にいたら、君の名前さえ忘れてしまった僕を見せてしまうだろう。そんな惨めな姿を、世界で一番愛する里には見せたくないんだ。」
私は店を飛び出した。足は自然と、若かりし頃にプロポーズを受けた公園へと向かっていた。噴水の前で、彼はいた。季節外れの薄手のジャケットに、書き違えたボタン。左右で違う靴。ぼんやりとした表情で、噴水の水を手ですくってはこぼしていた。
「あの、すみません。探し物をしていまして。」
彼は私を見ても、誰だか分からない様子だった。彼の頭の中では、33年前のプロポーズの日に戻っているのだ。婚約指輪をなくしたと言う彼に、私は自分の指輪を差し出した。
「これじゃありませんか?」
指輪を見た瞬間、彼の瞳の霧が晴れていくようだった。認知症の記憶混濁が収まり、本来の彼が戻ってきた。私の顔を見た彼は、絶望した表情を浮かべた。
「見ないでくれ。来ちゃいけなかったんだ。」
「もう遅いわよ。お願い、隠さないで。」
私は彼を強く抱きしめた。彼は私の肩に顔を埋め、涙を流した。「ごめん、巻き込みたくなかった。看護師を目指す君を、また僕の介護で縛りつけたくなかったんだ。」
彼の行動の理由が、ようやく理解できた。私を不自由にさせたくないという、不器用な優しさだったのだ。
私は離婚届を取り出し、真っ二つに引き裂いた。「お願い、もう一度プロポーズしてくれない?」
彼は戸惑いながらも、震える手で私を抱きしめ返した。
それから、私たちの生活は再スタートを切った。たけしは家事を手伝い、料理を覚え、穏やかな時間が戻ってきた。しかし、彼の病気は確実に進行していた。夕方になると不安が増し、暴れてしまうこともあった。息子のあつしが帰ってきて、一緒に介護してくれるようになった。
あつしがたけしを「お父さん」と認識できない時があった。洗面所に行った隙に、私は店の主人に彼との関係を尋ねた。昔、彼ら夫婦は借金に苦しみ、人生を終える決心をしていたのだという。それをたけしが必死の形相で止めた。車の窓を叩いて、「バカなことをするな。生きてれば何度でもやり直せる」と言ったのだ。そして、借金の肩代わりまでしてくれた。赤の他人のために、そこまでできる人なのだと、我が夫を誇らしく思った。
私は61歳で看護学校に通うことを決意した。たけしの症状が重くなった時、最新の知識が必要だと思ったからだ。そして、何より私自身が看護の世界に戻りたかった。あつしは在宅ワークに切り替え、私の学校生活を支えてくれた。3年間の月日が流れ、実習を経て、国家試験を迎える日が近づいてきた。
その時、たけしが家を抜け出す事件が起きた。初雪が降る寒い日だった。必死に探すと、噴水のある公園のベンチで見つけた。薄着で震え、雪をかぶっていた。彼の瞳は白く濁り、意識も混濁していた。私は学んだ知識を総動員し、救急車を呼ぶ準備をした。
「あなた、看護師さんですか?」
彼はまた、私たちの出会いの頃のように私に問いかけた。私は「いいえ、まだ見習いです」と答えた。彼は微笑み、「そうか。きっといい看護師さんになる」と言った。その言葉が、救急車が到着するまで、凍えるような雪の中で私の心を温めてくれた。
たけしは低体温症で搬送され、そのまま認知症の入院病棟へ移ることになった。私は医療保護入院の同意書にサインをした。手が震えた。彼の症状は急速に進行し、言葉を失い、動くこともなくなっていた。呼びかけても反応しない。医師は言った。「彼は、もう苦痛を感じないように、自らシャッターを下ろしている状態です。」
私は病室に通い続けた。彼の体はどんどん痩せ細っていった。私は、せめてもの思いで、彼の体のケアを買って出た。オムツ交換も、体位変換も、シーツ交換も。看護学生としての知識と、妻としての愛情を込めて。彼が小さく頷いた気がした。「気にするな」と、言っているようだった。
そして、国家試験の日が来た。試験を終え、自己採点で合格ラインを超えたことを確認した。ルカちゃんと喜びを分かち合っていると、あつしから電話が入った。
「父さんが、急に脈も呼吸も弱くなった。既得状態だって。」
私は病院へ駆けつけた。酸素マスクをつけ、荒い呼吸を繰り返すたけしがいた。モニターの心拍数は140を超え、酸素飽和度は低下していた。医師も看護師も、もはや処置はしていなかった。完全に、見取りの体制に入っている。
「あなた、私よ。分かる?」
涙で視界が歪む。その時、モニターの音が静かで規則正しいリズムに変わった。たけしのまぶたがゆっくりと開いた。そこにあったのは、濁った瞳ではない。かつての、優しく強い彼の目だった。
「さとみ。」
酸素マスクの奥から、かすれた声が漏れた。確かに、私の名前を呼んでいる。私は彼の手を握りしめた。
「試験、頑張ったな。きっといいナースになれるよ。」
彼は人生で一番優しい微笑みを浮かべ、こう言った。
「家の引き出しの奥を見てくれ。渡したいものがある。ずっとずっと考えてた。ごめんな。こんな僕で。」
「謝らないで。私はあなたの妻で幸せだったのよ。」
「僕もだ。愛してるよ、さとみ。僕の奥さんになってくれて、ありがとう。」
彼の目尻から、一粒の涙が静かにこぼれ落ちた。深く長い息を一つ吐き出し、そのままゆっくりと瞳を閉じた。モニターが無常な電子音を響かせ、緑色の線はまっすぐな一本の線になった。週末期明。神様が最後にくれた、ほんの数分間の奇跡が終わった。
葬儀はひっそりと行われた。店の主人も来てくれた。たけしがどれだけ多くの人に愛されていたかを、私は知った。そして、静かになった家の中で、私は彼の言葉を思い出した。
「家の引き出しの奥を見てくれ。」
リビングにあるたけし専用の棚。彼に怒られたことがあって、それ以来近づけなかった場所。一番下の引き出しを開けると、指輪のケースがあった。中には、あの日公園で必死に探していた婚約指輪と、一枚の手紙が入っていた。
「愛する里見へ。残念ながら、僕には他の人と幸せになってくれと言う勇気がない。何度忘れても、何度生まれ変わっても、君にプロポーズをするだろう。だからこの指輪は大切にしまっておく。もし君がずっと妻でいてくれるなら、受け取ってほしい。その際はこれからもどうぞよろしく。君の夫、たけしより。」
私は震える手で指輪を取り出し、左手の薬指にそっと通した。結婚指輪の上に重なったそれが、カチンと冷たい音を鳴らした。私はずっと彼を支えていると思っていた。でも、本当はずっと支えられていたのは私の方だったのだ。
3月下旬、看護師国家試験の合格発表の日。厚生労働省のサーバーは繋がりにくくなっていた。何度もリロードする。すると、ルカちゃんから電話がかかってきた。
「さとちゃん、受かった!うち、受かったよ!さとちゃんの番号もあったよ、259番!」
電話越しに、私たちは子供のように声を上げて泣いた。あつしが優しく「おめでとう、小倉看護師」と笑ってくれた。
私は近所のデイサービスの看護師として働き始めた。利用者さんに薬を渡し、バイタルをチェックする。母やたけしが「優しい手」と言ってくれた私の手は、今、新しい誰かの命を温めるために動いている。施設の窓から見える桜の花びらを見つめながら、私はそっと呟いた。
「あなた、私、一人前の看護師になれたわ。」
前を向いて歩いていく。たけしの愛が、今もこの指輪のように、ずっとずっと私を照らし続けている。



