閉店後の店で、二十年連れ添った夫が離婚届を突きつけ、私の通帳と店の鍵を奪いながら言った。「お前の夢は、今日で終わりだ。」その言葉に、私は震える指で署名をした。三年後、閉めたはずの店の前で、私は見覚えのない看板を目にする。そこには、私の名前が大きく掘られていた。そして、届いた一通の封筒の中には、あの日の開店写真と、たった一行のメモが入っていた。「あなたの夢は、まだ終わっていません。」誰が、何の…

閉店後の店で、二十年連れ添った夫が離婚届を突きつけ、私の通帳と店の鍵を奪いながら言った。「お前の夢は、今日で終わりだ。」その言葉に、私は震える指で署名をした。三年後、閉めたはずの店の前で、私は見覚えのない看板を目にする。そこには、私の名前が大きく掘られていた。そして、届いた一通の封筒の中には、あの日の開店写真と、たった一行のメモが入っていた。「あなたの夢は、まだ終わっていません。」誰が、何の...

「お前の夢は今日で終わりだ。」

閉店後の店に、直の声が落ちた。テーブルには離婚届。伸びてきた手が、私の通帳と家の鍵、そして店の鍵を順に取り上げていく。

「返して。それは私のお金よ。」

「店も家も俺の名義だ。」

二十年連れ添った夫が、目を合わせない。知らない男の顔だった。

「この店も、お前の夢も終わりだ。」

理由を尋ねても、夫はもう答えなかった。私は震える指でペンを握り、署名の欄に「杉浦弓」と書いた。その名前を書いたのは、あの夜が最後になった。店を出る扉が閉まる寸前、背中の向こうで何かが崩れるような音がした。

振り返らなかった。

夜道では、答えの出ない問いだけが回り続けた。二十年のうちの、一体どこで間違えたの? それから三年。閉店したはずの店の前で、私は立ち尽くすことになる。真新しい看板に刻まれていた名前。その意味と向き合う日が来るなんて、あの夜の私は思いもしなかった。

私は弓、四十九歳。三年前まで「杉浦弓」という名前だった。話はあの夜よりずっと昔から始めなければならない。私の原点は、母の台所にある。

母の名は片岡文子。海辺の隣町の古い一軒家に住んでいた。決して裕福ではなかったのに、母の台所からはいつも湯気が上がっていた。一人暮らしのおじいさんに肉じゃがを届け、学校の子供たちには芋の煮っ転がしを振る舞う。そういう人だった。

「料理はね、お腹だけじゃなく、寂しい心も温められるのよ。」

お玉を片手に母は笑った。幼い私はその隣で味見係を任されるのが誇らしかった。

忘れられない光景がある。連れ合いをなくしたばかりの近所のおじいさんが、母の肉じゃがを一口食べて、俯いたまま動かなくなった。泣いているのだと、子供の私にも分かった。帰り際、おじいさんは言った。

「文子さん、わし、明日も生きるわ。」

料理は人を生かすのだ。あの日の玄関先の光景が、私という人間の芯を作った。いつか自分の店を持ちたい。夢はあの狭い台所で生まれた。

高校を出て、私は町の食堂で働き始めた。皿洗いから始めて、コツコツと厨房へ上がった。オムライスの卵の巻き方も、デミグラスソースの寝かせ方も、体で覚えた。直と出会ったのはその店だった。週に三度、閉店間際にやってくる会社員。頼むのはいつもオムライス。食べ終わると必ず厨房に向かって頭を下げた。

「ごちそうさまでした。今日も、うまかったです。」

不器用で口数が少なくて、でも誠実な人だった。通い始めて三度目の春、その人は言った。

「俺と結婚してください。」

二十六の春だった。私は片岡弓から杉浦弓になった。式はあげていない。その分のお金も、いつかの店のために取っておこうと二人で決めた。

役所からの帰り道、母が私のバッグに小さな包みを押し込んだ。開けると、桜色の軸の印鑑が出てきた。掘られていたのは「弓」。苗字ではなく、名前の判子だった。

「あんたの名前の判子よ。銀行の届けにしなさい。苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のままだからね。お守り代わりにいつも持っておくの。」

母らしい贈り物だった。言われた通り銀行印にして以来、その印鑑は私のバッグから離れたことがない。カードは作らなかった。通帳とこの判子があれば足りる。それも母の教えだった。

結婚して五年目の夜だった。グラスを傾けながら、直がぽつりと言った。

「いつか、弓の名前をつけた店を出そう。」

「私の名前なんて、恥ずかしいわよ。」

「君の料理を食べに来る店なんだから、当然だろう。」

冗談めかして返したけれど、直の目は本気だった。その翌月から、夫婦の貯金通帳の表紙に「店」と書かれた紙が貼られた。安月給から一万円ずつ、二万円ずつ。ボーナスが出れば十万円。暮らしに余裕が出るたび、積み立ては二人で増やしていった。外食を減らし、旅行を我慢して、夢はゆっくりと、でも確かに積み上がっていった。

母は店を見ることなく亡くなった。私が三十四の冬のことだ。あの海辺の家と、桜色の印鑑と、台所の教えだけが残された。

棺の前で私は約束した。

「お母さん、あなたの台所みたいな店を、必ず作るから。」

開店の日を迎えたのは、それから三年後、十二年前の五月だった。見つけたのは商店街の外れに立つ古い店舗付きの家。一階が店で二階が住まい。南向きの窓から午後の光が床に長く伸びていた。

「ここだわ。」

内見の日、私は即決した。この光を見た瞬間、母の台所を思い出したのだ。壁のペンキは直が塗り、私は母の台所と同じ木の板を注文した。中古の厨房機器を磨き上げ、椅子は不揃いのまま並べる。それが、帰って家みたいだと言われる店になった。

貯めた八百万円を頭金にして、残りはローン。売買契約書も銀行の書類も、名前の欄は全部「杉浦直」だった。経営も名義も夫。私は厨房。名義なんて気にしたこともなかった。夫婦なんだから、どっちの名前でも同じこと。あの頃の私は、本気でそう思っていた。

店の名前は「日向」にした。開店の日、真っ先に暖簾をくぐってくれたのは呉服屋の女将、八重さんだった。当時六十代、着物姿の背筋のピンと伸びた人で、オムライスを綺麗に食べ終えると、帯から小さなカメラを取り出した。

「ご夫婦。看板の下にお並びなさいな。最初の日の写真は、後で宝物になるんだから。」

照れながら並んだ一枚。直は固い顔で、私は笑いすぎて目が線になっていた。八重さんは後日、焼き増しした写真を額に入れて持ってきてくれた。レジの奥の壁が、その額の定位置になった。

とはいえ商売は甘くなかった。開店の物珍しさが消えると、客足はぱったりと落ちた。雨の火曜日など、一人も来ない日があった。仕込んだハンバーグが十個丸ごと残った夜、二人でカウンターに並んで、冷めたそれを黙って食べた。

「うまいな。」

直がぽつりと言う。

「こんなにうまいのになんで客が来ないんだろうな。」

「宣伝が下手なんじゃないの? 営業担当さん。」

「違いない。」

力なく笑い合った。悔しかったけれど、不思議と絶望はしなかった。母の言葉が体の中にあったからだと思う。お腹と寂しい心を温める相手は、目の前の一人からでいい。だから私は、来てくれる一人ひとりの顔を覚えた。一人暮らしのお年寄りにはご飯を柔らかめにして、野菜嫌いの子供には人参を型で抜いてハンバーグの脇に隠した。お金のない学生には大盛を無料にした。そして常連さんの誕生日には、小さなプリンをそっと出した。

八重さんの誕生日が最初だった。

「なら頼んでないわよ。」

「お誕生日でしょ? お店からです。」

八重さんは目を丸くして、それから帯の辺りを押さえて笑った。

「この店は、料理と一緒に別のものを出すのね。」

店は育っていった。二年目には常連さんの顔ぶれが揃い、三年目には夕方の仕込みが追いつかなくなった。夫婦二人では手が回らない。そう思い始めた矢先、この店に一人の青年が転がり込んでくる。

その青年が店の暖簾を叩いたのは、開店から三年が過ぎた冬。九年前のことだ。のっそりと入ってきたのは痩せた若い男の子だった。年齢を聞くと二十二だという。名前は水島翔太。高校を途中でやめて、工場や引っ越し屋を点々としてきたらしい。履歴書の職歴の欄はどれも一年と続いていなかった。面接の間、翔太君は一度も目を合わせなかった。俯いたまま、ぼそりと言う。

「言っときますけど、俺なんかすぐやめますよ。」

客席の椅子で、私は思わず笑ってしまった。

「やめるかどうかは、働いてから決めればいいでしょう。はい、まずは明日も来なさい。」

その日の晩ご飯のつもりで、私はオムライスを出した。翔太君はスプーンを持ったまま固まって、それから一気に食べた。食べる間、鼻をすするような音が混じる。理由は聞かなかった。

翌朝、翔太君は開店の二時間前に来た。それから毎朝、続けた。最初の仕事は皿洗いと湯飲み磨き、次が玉ねぎの皮むき。キャベツの千切りが板につくまで半年。ソースの味加減を任せるまで二年。焦がして、しょっぱくして、その度に私と直の雷が落ちた。それでも翔太君は翌朝、開店二時間前に店に立っていた。

ある夜、片付けの途中で翔太君が口を開いた。

「俺、初めてだったんです。『明日も来い』って言われたの。どこ行っても、もう来なくていいって言われてばっかりだったから。」

手を止めずに、そう言うから、私も手を止めずに答えた。

「じゃあ、私は明日も言うわね。明日も来なさい。」

「はい。」

背中しか見えなかったけれど、声が濡れていた。接客は直が仕込んだ。閉店後の客席で、直が客の役をやって翔太君に練習させる。気真面目な顔で「いらっしゃいませ」を繰り返す二人が、まるで親子みたいで、私は厨房で笑いを噛み殺した。働き始めて四年目には、翔太君の作るナポリタンに常連さんの注文がつくようになった。

土曜の開店前には、通りの隅まで列が伸びるようになった。パートの奥さんを二人お願いして、それでも昼時は戦場だった。夜、二階の住まいに上がる階段で、直がよく言った。

「弓。俺たちの店、すごいことになってきたな。」

「私たちの店じゃなくて、みんなの店よ。」

「違いない。」

正月には店の座敷に八重さんやパートの奥さんたちの家族も呼んで新年会をやった。誰かの笑い声が絶えない座敷で、直がそっと耳打ちしてきた。

「お母さんの台所って、こんなだったのかもな。」

「そうね。きっと、こんなだった。」

夫婦で始めた小さな夢は、翔太君が育ち、常連さんの笑い声が重なり、確かな形になっていた。あの頃が私の人生で一番幸せな時期だったと思う。そして、幸せの絶頂で、あの人が店に現れた。

四年半前の春、町の情報誌に店が載った。見開きの写真には湯気の立つオムライスと、照れ笑いの直が映っていた。遠くの町から来る新しいお客さんも増え、嬉しい悲鳴の毎日だった。その雑誌を片手に、あの人は現れた。

「おお、直、繁盛してるらしいじゃないか。」

昼時の店に、図々しいほど大きな声が響いた。手のいいスーツ、金色の腕時計。直の五つ上の兄、隆さんだった。食品卸の会社「杉浦食品」を経営していて、法事のたびに景気のいい話ばかりする人だった。ただ、亡くなった親の思い出話さえ最後は金の話に変わる人で、私はどうにも苦手だった。

隆さんはカウンターの奥まで勝手に入り、厨房を見回した。

「狭いが、まあ小綺麗にやってるな。」

「兄さん、今は昼時だから。」

「おい、水。気が利かないな、この店は。」

翔太君が慌ててグラスを出す。隆さんは礼も言わずに飲み干して、直の肩に腕を回した。

「なあ、直。客が入ってるなら、仕入れも経理も身内に任せた方が安心だ。うちは卸のプロだぞ。他の業者に中抜きされてるのが、俺には見てられんのだよ。」

「いや、今の業者さんとは開店からの付き合いで……」

「付き合いで商売するから、個人は潰れるんだ。素人の経理なんて、穴だらけだしな。弟の店は俺の店みたいなもんだろ。悪いようにはせん。」

直は曖昧に笑って、はっきり断らなかった。断れない理由を私は知っていた。兄弟は早くに父親をなくしていて、直の高校の学費は働きに出た隆さんが出したのだという。

「兄貴には頭が上がらない」

直の口癖だった。恩は本物だったのだと思う。ただ、恩を盾にされた時、人は正しい判断ができなくなる。隆さんは返事を待たず、翌日から店に出入りするようになった。

最初に変わったのは、野菜だった。開店からの付き合いだった業者が、申し訳なさそうに頭を下げに来た。取引は杉浦食品に一本化すると、隆さんから通告されたのだという。届くようになったダンボールを開けて、私は手が止まった。玉ねぎの箱の底が、うっすら傷んでいる。豚肉の色も悪く見えた。

「お兄さん、この玉ねぎ、下の段が痛みかけています。お客さんに出すものですから、前のところと同じものを入れてください。」

勇気を出して言った私に、隆さんは鼻で笑った。

「いい男は分からんよ。味なんて、客には分からんのだ。経費を下げるのも経営のうちだぞ、奥さん。」

「分かりかねます。うちのお客さんには、分かります。」

「お、じゃあ聞くがね。原価率はいくつだ?

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人件費比率は? 答えられんのだろう。奥さんは厨房だけ見てりゃいいんだよ。」

言い返せなかった。数字は全部、直に任せてきたから。悔しさで、その夜は仕込みのキャベツを刻みすぎた。山になった千切りを、翔太君が黙って袋に分けてくれた。

それでも私は、傷んだ野菜を黙って使う気にはなれなかった。痛んだ部分を外して、芯を選り分けて、いつもの味になるまで手間を倍かけた。それでも隠しきれない日はある。ある昼下がり、八重さんがスプーンを置いて首をかしげた。

「弓さん、ハンバーグの味、変わった? 」

背筋が冷たくなった。ごまかしはこの人には通じない。

「ちょっと仕入れ先が変わって、すぐ戻します。必ず。」

「そうならいいの。この店の味はね、弓さん、あなたの味なのよ。誰にも触らせちゃだめ。」

帯をポンと叩いて、八重さんは笑った。私はその夜から、届いた食材の検品を自分の仕事にした。ダメなものはダメと伝票に書いて突き返す。隆さんの機嫌は目に見えて悪くなった。

「高が玉ねぎで、いちいちうるさい奥さんだ。」

「玉ねぎで、店は傾くんです。」

「だったら単価を上げろ。メニューを二割値上げりゃ済む話だ。年寄りの常連なんて、どうせ他に行く店もない。」

「うちのお客さんを、そんな風に言わないでください。」

睨み合いになりかけたところで、直が間に割って入った。仲裁はいつも同じ。兄には謝り、私には目で詫びる。その繰り返しだった。

そして、帳簿は、いつの間にか店の棚から消えていた。経理は杉浦食品の事務所で預かると隆さんが決め、月末の数字さえ私は見られなくなった。ある夕方には、レジの引き出しを開けた隆さんが、直の実印と店の銀行印を無造作に鞄へ入れるのを見た。

「お兄さん、そこまで持っていくんですか? 」

「経理を預かるってのは、そういうことだ。いちいち取りに来るのは、手間だろう。」

その夜、私は初めて直に強く言った。

「帳簿も判子も、店の外に出すなんておかしいわよ。いくら身内でも。」

直は皿を拭く手を止めて、困ったように笑った。

「兄貴にも悪気はないんだ。小さい頃から俺の面倒を見てきた人だから。でも会社のことは俺に任せて、弓は料理に集中してくれな。それが一番、店のためだ。」

直がそう言うなら、と私は自分に言い聞かせた。夫を信じることと目を瞑ることの区別が、あの頃の私にはついていなかった。

秋風が立つ頃、直の背中に、私は見慣れない影を見るようになる。最初に気づいたのは夜中の音だった。二階の寝室で目が覚めると、隣の布団が空いている。階段を降りると、店の明かりが漏れていた。カウンターの端で、直が電卓を叩いている。広げているのはコピー紙の束だった。

「どうしたの?

こんな時間に。」

「ああ、いや。棚卸しの計算だよ。すぐ寝る。」

紙の束を裏返して、直は笑った。その笑い方が、嘘の下手なこの人の精一杯の嘘だと分かった。思えば、その半年ほど前の春、建物のローンをようやく払い終えたばかりだった。あんなに晴れやかだった顔が、秋には別人のように曇っていた。

秋の彼岸を過ぎた頃から、直は昼の営業を私と翔太君に任せて出かけることが増えた。ある日、銀行の名前が入った封筒を小脇に抱えて帰ってきて、そのまま店の裏に一時間こもっていた。出てきた顔は、髪みたいに白かった。

「銀行に何の用だったの? 」

「ローンの手続きの残りだよ。」

ローンは春に終わったはずだ。喉まで出かかった指摘を、私は飲み込んだ。問い詰めて壊れそうなほど、直の顔は追い詰められていた。

ある晩、私は久しぶりに直の好物のオムライスを作った。直は半分だけ食べて、スプーンを置いた。

「ごめん。うまいよ。うまいんだけどな。」

「うまいんだけど」の続きは、最後まで語られなかった。電話も増えた。店の裏で、押し殺した声。

「兄さん、この請求書は何だ? うちはこんな量、仕入れてない。」

戻ってきた直に何の電話かと聞くと、仕入れの調整だという。目が合わない。食も細くなった。私のハンバーグを残して、味の感想も言わなくなった。二十年以上、どんなに疲れた日も「うまいな」だけは欠かさなかった人が。

一度だけ、店の裏で兄弟が向かい合っているのを見た。ゴミ出しに行った私に気づかず、直が低い声で言っていた。

「印鑑を返してくれ。経理も、もう自分でやる。」

「おいおい、今更、何を言い出すんだ、お前は。」

「兄さん、俺は兄さんを信じてたんだ。」

「信じてりゃいいだろう。悪いようにはせんと言ったはずだが。」

隆さんは笑いながら車に乗り込み、窓を開けて私に気づいた。

「おお、奥さん。景気の悪い顔した旦那で大変だな。まあ、うちの弟をよろしく頼むよ。」

何がおかしいのか、笑い声を残して車は消えた。直は私が見たのかとも聞かず、無言で店へ戻った。その背中に声をかけられなかった自分を、私は後々まで悔むことになる。

「ねえ、何かあるなら話して。夫婦でしょ。」

「何もないよ。心配するな。」

「私、数字は分からないけど、働くことなら手伝えるわ。」

「弓は、店のことだけ考えてくれ。頼むから。」

その言い方が、突き離すというよりすがるように聞こえて、私はそれ以上踏み込めなかった。そういえば、あの頃、直が妙なことを聞いてきた。

「弓。お母さんの家の権利書って、どこにある? 」

「実家の仏壇の抽斗よ。どうして?

「いや、大事にしまっとけよ。誰にも渡すなよ。」

海辺の家は母が私に残してくれた家だ。誰にも渡すはずがない。変なことを言う人だと、その時は聞き流した。

十月に入る頃、隆さんの出入りがぱたりと減った。ほっとするどころか、直の顔色は一層悪くなった。二階へ上がらず、店の座敷で朝を迎える日もあった。夫婦の会話は、業務連絡だけになっていく。布団の中で背中を向け合う夜。私は天井を見ながら考えた。同じ屋根の下に住み、同じ店に立って、それでも言えないことが、この人にはあるのだ。

翔太君も異変には気づいていた。

「弓さん、社長、大丈夫ですかね? 夕べ、閉めた店で一人で座ってました。レジの、開店の日の写真をじっと見て。俺にできることないですか? 」

「翔太君はいつも通りでいて。いつも通りが、一番の薬だから。」

そう答えながら、私自身がいつも通りの作り方を見失いかけていた。ある閉店後のこと、翔太君と厨房を磨きながら、私はぽつぽつと話した。

「翔太君、お店ね、多分、今、大変なの。詳しいことは私にも分からないんだけど。」

「はい。」

「でもね、この店は何があっても守るわ。直が困っているなら、私も一緒に背負う。それが夫婦でしょ。」

「弓さん、お給料のことは心配しないでください。あなたの分は、俺が畑を耕してでも払いますから。」

「畑持ってないじゃない。」

「借りますよ。」

翔太君がやっと笑った。その時だった。店と住まいをつなぐ廊下の床が、見知った音を立てた。直には誰もいなかった。階段の上で、寝室の戸が閉まる音だけがした。

数日後の朝、直が背中を向けたまま言った。

「弓。今夜、閉めた後で話がある。」

一日中、胸騒ぎが消えなかった。オムライスの卵を、九年で初めて破いた。八重さんに「顔色が悪いわよ」と心配される始末だった。

そして、夜が来た。暖簾をしまい、看板の明かりを落とし、私はテーブルに着いた。向かいに腰を下ろした直の手には、折りたたまれた一枚の紙があった。夜の店は、別の建物みたいによそよそしかった。夕方までお客さんの笑い声で満ちていた空間に、冷蔵庫の低い唸りだけが響く。直は向かいの椅子で、しばらく口を開かなかった。

やがて直は、その紙をテーブルの上で開いて滑らせた。緑色の枠、見慣れない書式。理解が追いつくまで数秒かかった。

「何、これ? 」

「見れば分かるだろう。離婚届だ。」

「どうして?

私、何かした? 」

「もう、お前と店を続けるつもりはない。」

「冗談なら、笑えないわ。」

「冗談で、こんな紙を出すか。」

「お兄さんに、何か言われたの? 」

「兄さんは関係ない。」

即答だった。早すぎる即答だったけれど、その意味を掘り下げる余裕は、あの夜の私にはなかった。

「ちょっと待って。話が全然見えないわ。店を続けないって、何? この店をどうするの?

「閉める。もう決めたことだ。」

「決めたって、二人の店でしょ。翔太君は? パートさんたちは? 常連さんたちは、どうなるの? 」

「関係ない。お前には、もう関係のないことだ。」

直が立ち上がった。レジ裏の引き出しを開け、深緑の通帳を取り出して戻ってくる。母の家の分も入れてある、私名義の通帳だった。続けて、レジ横に置いていた私のキーホルダーから、家の鍵と店の鍵が指の力で外されていく。

「返して。それは、私のお金よ。」

「店も家も、俺の名義だ。」

「名義の話なんてしてないでしょ。ねえ、私の顔を見てよ。何があったのか話してよ。お兄さんのこと、お金のこと。私も一緒に。」

直は答えなかった。私は泣き言に続けた。

「翔太君たちには、何て言うの?

あの子、私がいないとダメなのよ。」

「俺から話す。お前が心配することじゃない。」

「八重さんには? 商店街のみんなには? 」

「もういいだろう。」

テーブルを、直の拳が打った。水のグラスが跳ねて、水が広がった。

「うるさいな。」

低い声だった。初めて聞く声だった。

「この店も、お前の夢も終わりだ。」

息が止まった。「夢」という言葉を、この人はそういう風に使う人ではなかった。店に私の名前をつけようとまで言った人が、私の夢をゴミみたいに床へ払い落とした。

「お前の夢は、今日で終わりだ。」

とどめのように、直は繰り返した。私の中で何かの糸が切れた。怒りではなかった。悲しみとも違う。二十年かけて積み上げてきたものが、音もなく崩れていく感覚だった。

「一つだけ教えて。私の料理も、この店で過ごした時間も、全部いらなかったの? 」

「ああ。二度と、ここへ戻ってくるな。」

直は、やはり私を見なかった。テーブルの木目だけを睨んで、石みたいに動かなかった。争う気力は、もう残っていなかった。何を言っても、この人はもう戻らない。長年連れ添った勘のようなものが、そう告げていた。

ペンを取るまでに、随分長くかかった。すれば終わる。しなければ、何かが守れるのか。守れるものなど、もう何ひとつ思いつかなかった。私は震える指でペンを握り、署名の欄に「杉浦弓」と書いた。その名前を書くのは、それが最後になった。

財布と母の形見の印鑑が入ったバッグと、着ていた服。持って出たのは、それだけだった。二階のタンスも、母から譲られた鍋も、レジ裏の壁の開店の日の写真も、何もかも置いたまま、私は九年間立ち続けた店の床を横切った。翔太君の顔が浮かんだ。「明日も来なさい」と言い続けた私が、翌朝からもういない。戸口で一度だけ振り返った。

「さよなら。」

「ごちそう様も、言ってくれないのね。」

直の肩が揺れた気がした。それでも、言葉は帰ってこなかった。店を出る。扉が閉まる寸前。背中の向こうで、何かが崩れるような音がした。確かめる理由は、もう私にはなかった。振り返れなかったのではない。振り返らないと、決めたのだった。

その晩は隣町の駅前の小さなホテルに泊まった。眠れないまま天井を見ていたら、鞄の中の桜色の印鑑のことを思い出した。「苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のまま」。母の声が聞こえた気がして、私は声を殺して泣いた。こうして私は、店と家と夫と、そして夢を一晩で失った。杉浦弓は、あの夜に死んだ。しばらくの間、本気でそう思って生きることになる。

翌朝、私は高校時代からの友人、八重子に電話をかけた。事情を話す途中で、声が出なくなった。八重子は最後まで聞かず、住所だけを言った。その日の夕方には、彼女の家の食卓で、私は湯気の立つ雑炊を前にしていた。人の作ってくれたご飯で泣いたのは、母が亡くなって以来だった。

「ねえ、悔しくないの?

二十年よ。財産分与だって慰謝料だって、争えば取れるものがあるはずよ。」

「悔しいって思う元気も出ないのよ。それに、争う相手があの直なのよ。法律とかお金とか、そういう場所にあの人と並んで座るの。無理よ。私、あの人の作ったナポリタンの味も、野菜の炒め方の癖も知ってるのよ。」

八重子は何か言いかけてやめて、私の布団を軽く叩いた。

「分かった。今はね、眠れなくても、目をつぶってな。」

八重子の家には三週間いた。その間に離婚の後始末は淡々と進んだ。役所で手続きをして、私は杉浦弓から片岡弓に戻った。八重子の家を出る前に、一度だけ実家へ行った。海辺の隣町の、母が残してくれた古い家。仏壇に手を合わせて、私は報告した。

「お母さん、ごめんね。店、なくなっちゃった。あなたの台所みたいな店にするって約束したのに、守れなかった。」

仏壇の抽斗には、この家の権利書がそのままあった。直に言われた通り、誰にも渡さなかった家。売れば当面は暮らせる。でも、それだけはどうしてもできなかった。母の台所まで失ったら、私という人間の芯が、今度こそ折れてしまう。だから家はそのままにして、自分の食いは自分で稼ぐと決めた。通帳のことも考えなかったわけではない。私名義の口座だ。銀行に紛失を届け出れば、作り直せたのかもしれない。でも、あの銀行はあの商店街の隣にある。店の前を通らずには行けない場所だ。その町に戻る気力も、直と争う気力も、私には残っていなかった。それに、どうせ、と思ってもいた。店を閉めるほどお金の問題があったのなら、私の預金なんてとっくに借金の穴埋めに消えているに違いない。そう思い込むことで、諦めの理由にした。

携帯には翔太君からの着信が何度も残った。留守番電話も入っていた。

「弓さん、今、どこにいるんですか? 一度だけ、話せませんか? 」

再生するたび、指が通話ボタンの上で止まった。何を話せというの? 店を捨てて出ていった女が、今更、あの子に何を?

結局、一度も出ないまま、私は番号を変えた。

一ヶ月後、私は電車で一時間離れた隣の県に、六畳一間のアパートを借りた。四十六歳。道具はダンボール三つ。それが私の再出発だった。仕事はまず飲食店を探した。二十八年、料理だけやってきたのだ。それしかできることがない。面接を受けた食堂で「試しに一品作って欲しい」と言われた。厨房に立ち、包丁を握った。まな板の上には玉ねぎ。いつも通り、何万回もやってきた仕事のはずだった。

できなかった。玉ねぎの白い断面を見た瞬間、「日向」の厨房が蘇った。隣で鍋を振る直の背中、翔太君の「いらっしゃいませ」。八重さんの笑い声。潰れかけの玉ねぎを選り分けたあの意地、全部が一度に押し寄せて、手が動かなくなった。まな板の上に、涙が落ちていた。私は包丁を置いて頭を下げて、その店を出た。それから料理の仕事は探さなくなった。スーパーの品出しの仕事を見つけた。夜はオフィスビルの清掃。黙々と棚に牛乳を並べ、黙々と床を磨く。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。

ヤ子は月に一度、電話をくれた。話すことなんて何もないのに、欠かさず三十分、付き合ってくれる。誘いは毎回、やんわり断った。楽しむということが、うまく思い出せなかった。そうやって一年が過ぎた。

そして冬の始め、風の知らせがとどめを刺しに来た。その知らせは、八重子からの電話で届いた。

「弓、あのね、落ち着いて聞いてね。『日向』、閉めたんだって。」

「え? 」

「商店街の知り合いから聞いたの。もうだいぶ前から、シャッターが降りたままなんだって。」

受話器を持ったまま、私は台所の床に座り込んだ。閉めると、あの夜、直は確かに言った。でも、心のどこかで信じていなかったのだ。あの人は、あの店を私と同じくらい愛していたはずだから。

「それでね、直さんのことなんだけど……杉浦食品って、お兄さんの会社だったわよね。あそこ、潰れたらしいのよ。」

「潰れた? 」

「それだけじゃないの。警察が入ったとか、社長が捕まったとか、そんな噂まであって。直さんの行方は、誰も知らないって。家も店も、人手に渡ったって聞いた。」

言葉の意味が、うまく像を結ばなかった。あの、図々しいまでの隆さんが、警察? だったら、直は?

あの人は、今、どこで何をしているの? 「弓、大丈夫? 私、余計なこと言ったかしら。」

「うん。教えてくれて、ありがとう。知らないでいるより、ずっといい。」

不思議なことに、隆さんが捕まったかもしれないと聞いても、ざまあみろとは思えなかった。胸に広がったのは、暗い穴のような感覚だけだった。あの店を追われ、家を失い、それで悪い人に罰が当たったとして、私の九年は戻らない。誰かの転落は、私の何も埋めてくれない。それよりも頭を離れないのは、店のことだった。あの南向きの窓、不揃いの椅子、母の台所と同じ木の板。八重さんの指定席だった窓際の二人掛け。あの空間が、暗がりの中で、埃をかぶっている。想像しただけで、体の芯が冷たくなった。

年が明けて、離婚から二度目の正月は、海辺の実家で一人で越した。母の台所で何かを作るつもりだったのに、結局コンビニのおにぎりを二つ食べて、火は使わなかった。夜、仏壇の前でぼんやりしていたら、遠くで除夜の鐘が鳴った。

「お母さん、私、何のために生きてるのかしらね。」

仏壇の母は、写真の中で笑っているだけだった。一度だけ、店を見に行こうとしたことがある。二年目の春、電車に乗ってあの町の二つ手前の駅まで行った。そこから先へ、足が動かなかった。ホームのベンチに一時間座って、上りの電車で帰った。シャッターの降りた店を見てしまったら、今度こそ立てなくなる。それが分かっていたから。

八重さんの誕生日も、忘れられなかった。三月の初め、その日、私は仕事帰りにスーパーでプリンを一つ買い、アパートで一人で食べた。八重さん、お元気ですか? あの店の誕生日プリンは、もうどこにもないんです。プリンを洗いながら、気づいてしまった。人のために作る料理どころか、誰かと囲む食卓すら、私の毎日から消えて久しい。母が見たら、一番悲しむのは、きっとそこだろう。

生活は変わらず続いた。品出しと清掃と、見切り品の食材。白髪が増えた。手の甲の火傷の跡だけが、料理人だった頃の名残りだった。直を憎んでいたかと聞かれたら、今も答えにつまる。憎もうとした。憎めたら、どんなに楽だっただろう。でも、夜中にふと浮かぶのは、ひどい言葉を吐いたあの夜の顔ではなく、湯気の向こうで「うまいな」と笑った顔の方だった。それが一番、苦しかった。

夜、布団の中で、たまに夢を見た。夢の中で、私はいつも厨房にいて、オムライスを巻いている。目が覚めると、六畳の天井があった。私の夢は、本当にあの日で終わったんだ。

季節が三度巡り、三度目の秋が来た。金木犀が香る頃だった。その日、アパートの郵便受けに、一通の封筒が入っていた。白い、何の変哲もない封筒だった。宛名は「片岡弓様」。丁寧な細かい字。裏を返して、手が止まった。差出人の名前がない。消印だけが押されていて、そこにはあの町の名前があった。

部屋に上がるのも忘れて、玄関先で封を切った。中から出てきたのは、一枚の写真と一枚のメモだった。写真を見て、息が止まった。若い直と若い私が、真新しい看板の下に並んでいる。直は固い顔で、私は笑いすぎて目が線になっている。開店の日、八重さんが撮ってくれたあの一枚だ。レジ裏の壁に、九年間かかっていた額の中の写真。私が置いてきてしまった、思い出の一番深いところにあった一枚だ。

添えられたメモには、宛名と同じ細かい字で、一行だけこう書いてあった。

「あなたの夢は、まだ終わっていません」

それだけだった。説明も署名も、何もない。誰が、何のために?

閉めたはずの店の写真を、今更? 分からないことだらけなのに、たった一言が、動かなくなっていた私の芯を指先で突いた。三日目の夜、私はとうとう声に出した。

「見るだけ。見るだけよ。」

その同じ夜、八重子にも電話で打ち明けていた。

「写真とメモ? 何それ? 誰から?

「分からない。分からないから、怖いの。」

「弓、行ってきなさいよ。」

「え? 」

「三年間、あんたはあの町から逃げてきた。逃げるのが悪いとは言わない。でもね、差出し人はきっと、あんたに来て欲しい人よ。悪意のある人間は、開店の日の写真なんて選ばない。」

四日目の昼、私はあの町へ向かう下りの電車に乗った。膝の上のバッグには、あの封筒と、母の印鑑が入っていた。お守りは、ちゃんと持ってきた。改札を出ると、金木犀の匂いがした。何一つ変わらない、あの町の秋の匂いだった。商店街は、記憶より少し古びていた。八重さんの店先には変わらずダンボールが積んである。花屋さんの水の匂いも、そのままだった。八重さんの店先でご主人が客と立ち話をしていた。とっさに、私は電柱の影に身を寄せた。合わせる顔がない。三年間、挨拶一つなく消えた人間に、この商店街を歩く資格なんてない。

角を曲がれば、店が見える。足が止まった。心臓が痛いほどなっていた。シャッターの降りた、色褪せた看板。見えるのは、そのはずだった。三年間、想像の中で描いてきた、誇りをかぶったあの姿の、はずだった。私はゆっくりと、角を曲がった。

そこにあったのは、全く別の光景だった。建物が、生きていた。同じ場所で、呼吸を取り戻していた。外壁は塗り直され、木の窓枠は新しくなり、入り口では見覚えのない淡い色の暖簾をかけようと、誰かが脚立に乗っている。窓越しの店内には明かりが灯り、白いシャツの人影がいくつも立ち、働いていた。呆然と見上げた視線の先に、それはあった。

真新しい木の看板。掘り込まれた文字に、西に傾き始めた日差しが当たっていた。

「弓の食堂」

読み間違いかと思った。瞬きをして、もう一度読んだ。読み直しても、同じ文字がそこに並んでいた。私の名前が、看板の一番上に、一番大きく掘られていたのだ。二十年近く前、恥ずかしいからと私が断った、あの名前が。どうして? 声が、勝手に漏れた。

「弓……私の、名前だ。」

見間違いでも、同じ名前の誰かでもない。その証拠に、看板の隅には小さく、卵の形のオムライスの絵が掘られていた。私が九年、焼き続けたあの形だった。

立ち尽くす私の前で、店の扉が開いた。白いコックコートの男の人が、飛び出すように出てきて、そして固まった。記憶より、ずっと逞しくなった。でも、間違いのない顔だった。

「弓さん……」

翔太君だった。目に見るみる涙が盛り上がって、彼は深々と頭を下げた。

「やっと、やっと、来てくれたんですね。」

翔太君は店の中へ振り向いて、大声で叫んだ。

「みんな、来て! 弓さんが、帰ってきた!

窓の向こうの人影が、一斉にこちらを向いた。飛び出してきたのは、パートだった正代さんと恵さんだった。二人ともエプロンのまま、私に抱きついて、わんわん泣いた。

「弓さん、弓さん、心配したんですよ。どこにいたんですか? 」

私はもみくちゃにされながら、まだ看板を見上げていた。

「翔太君、教えて。これ、どういうこと? 」

翔太君は涙を拭いて、店の扉を大きく開けた。

「中で話します。全部、最初から。お帰りなさい、弓さん。」

導かれるまま、私は三年ぶりに店の敷居をまたいだ。暖簾をくぐる一歩に、これほど勇気のいる日が来るなんて。息を飲んだ。新しくなっていた。でも、同じだった。壁は塗り直され、床板は張り替えられ、椅子もテーブルも新品になっている。それなのに、配置がそっくりそのままだった。南向きの窓のそばに四人掛けが二つ。奥に座敷。カウンターは同じ木の色。窓際には、二人掛けの席。八重さんの指定席だ。厨房の壁を見て、また涙線が緩んだ。私の古いエプロンが、洗い上げられて掛けてあった。洗いすぎて色の抜けた布地に、焦げ穴が一つ。捨てられて当然のボロ切れを、誰かがずっと洗って、守っていた。

座敷に通され、翔太君は私の向かいに座して、膝の上で拳を握った。

「最初から、ですね。あの日の翌日です。社長が、直さんが、俺たちを店に集めました。クビを告げられると思いました。直さんは俺たちの前で、床に手をつきました。土下座なんて、あの人がするところを初めて見ました。そして、こう言ったんです。『弓を守るため、店を一度閉めます。俺は弓に憎まれることをしました。でも、あの人の夢だけは終わらせたくありません』って。」

意味が分からなくて、俺、直さんの胸ぐらを掴んだんです。「弓さんを守るって、なんだ? あんたが弓さんを追い出したんじゃないのか」って。そしたら直さん、抵抗もしないで、ただ「その通りだ」って。

「直さんは、最後の一円まで、皆さんの給料を払いました。最終の退職金も、直さんが銀行へ頭を下げて世話をしました。俺が隣町の食堂に移る時、直さんは俺にだけ、こう頼んだんです。『いつか必ず、弓の店をもう一度開ける。その時、あの人の味を隣で支えられるのは、お前しかいない。だから頼む。腕を錆びさせないでくれ』って。」

「それから三年、隣町で働きながら給料を貯めました。弓さんに教わったことは、全部ノートに書きました。三冊になりました。」

翔太君は使い込まれた大学ノートを三冊、卓の上に積んだ。表紙には「日向の味」と書いてあった。ページの端はどれも油を吸って、丸くなっていた。正代さんがお茶を継ぎ足しながら言った。

「私たちね、月に一度はここに集まってたんですよ。閉まったままの店の前を掃除して、いつ再開してもいいようにって。八重さんも、杖をつきながらいらしてね。看板が上がった日なんて、あの人、通りの真ん中で泣いてらして。」

「八重さん、お元気なの?

「ええ。口の達者なのも、変わらず。弓さんが帰ってきたって知ったら、飛んでいらっしゃるわよ。」

湯のみの中でお茶が揺れていた。私の手が震えているせいだった。

「でも……店は、人手に渡ったって。」

「はい。建物は一度売られました。買ったのは、駅前の不動産屋さんです。黒田さんが、銀行の支店長さんが、間に立ってくれました。事情を全部話して、いつか店として貸して欲しいって。不動産屋の社長さん、うちの常連だったんですよ。初カレーの大盛を、覚えています。」

あの、毎週金曜の、背広姿のいい人だ。福神漬け大盛が合い言葉だった。あの人が、この建物を買って、待っていてくれた。

「開店の資金は、俺たちの三年分の貯金です。黒田さんが、弓さん名義で借りられるように、銀行の融資を整えてくれています。あとは、店主が戻るのを待つだけでした。」

「どうして……そこまで。翔太君たちには、迷惑しかかけていないのに。」

「迷惑? 」

翔太君は初めて、怒ったような顔をした。

「弓さん、俺はこの店に拾われたんです。すぐやめると言った俺に、『明日も来い』と言い続けてくれた人がいたから、今の俺があるんです。この店は、俺たちに料理を教えてくれた、弓さんの店です。だから、看板には弓さんの名前が必要だったんです。」

それから翔太君は、あのメモと同じ細かい字で「あなたの夢はまだ終わっていません」と書いた下書きの紙を、ポケットから出して広げた。

「写真は俺です。勝手にすみませんでした。住所は、商店街の呉服屋のご主人経由で、八重子さんって方を探し当てて、頭を下げて教えてもらいました。看板が上がるまでは、弓さんに黙ってて欲しいって、俺がお願いしたんです。」

そうか。だから八重子は、「行ってきなさいよ」なんて言いながら、全部知っていたのだ。

「ただ、これだけは先に言わせてください。翔太君は畳に手をついて、頭を深く下げた。」

「直さんが何を守ろうとしたのか、俺の口からじゃなく、ちゃんと順番に聞いて欲しいんです。もうすぐ、来ますから。」

それから三十分もしないうちに、店の前に一台の車が止まった。降りてきた人を見て、私は座敷で腰を浮かせた。白髪の紳士。商店街の隣の銀行の、黒田支店長だった。店の口座を作った日からのお付き合いで、月末になると窓口の奥から「弓田さん、今月もご苦労様です」と声をかけてくれた人だ。黒田さんは深々と一礼して、座敷の向かいに座した。

「弓さん、お久しぶりです。お帰りなさい。」

「翔太君から、どこまで聞きましたか? 」

「店を閉めた経緯と、この店の再開の準備のことまで。でも、肝心なことは、まだ何も。」

「直が、私の何を守ったのか、あの夜、何があったのか。」

黒田さんは頷いて、湯のみを置いた。

「三年前の夏です。直さんが、閉店後の私を尋ねてきました。顔色は今も忘れられません。髪のように白かった。差し出されたのは、よその銀行から届いた一通の書類でした。直邸の借入返済予定表。心当たりのない額だった。血の気が引いて調べ始め、行き着いた先が、実の兄だった。」

「お兄さんは、店の経理と印鑑を預かる立場を利用していました。直さん名義の借入が二千万円。店とご自宅が担保、つまり返せなければ建物ごと取られる形です。杉浦食品からの仕入れには、実態のない水増し請求が上乗せされていました。」

そして、黒田さんはそこで一度、言葉を切った。

「連帯保証人の欄に、弓さん、あなたの名前がありました。あなたの筆跡を真似た、偽物の署名です。印鑑も、勝手に知らされた別物でした。」

私の声が、他人のもののように遠く聞こえた。印鑑を握られるというのは、そういうことだったのだ。名前一つ、指一本動かさないまま、私は二千万円の借金を背負う、紙の上の人間にされていた。

「それだけじゃありません。隆さんは、弓さん名義の預金や、お母様が残された家のことまで調べていました。いざとなれば、そちらも差し出させればいい。そういう腹積もりだったようです。」

「直さんは、隆さんを問い詰めたそうです。帰ってきた言葉を、私は直さんから聞きました。『夫婦なんだから、借金も一緒に背負えばいい。店が潰れたら、弓の実家を売れば済む話だ』と。それを聞いて、直さんは覚悟を決めたと言っていました。実の兄は、弟の家族を財布としか見ていなかった。恩を返し続けてきた相手の正体が、それだった。」

「それから直さんは、弁護士の真辺先生を交えて何度も相談を重ねました。真辺先生の見立てはこうです。署名が偽物である以上、争いは勝てる。ただ、争いになれば時間がかかる。その間、弓さんの口座やご実家が仮差し押さえ、つまり裁判の間、凍結されて動かせない状態にされかねない。だから。」

「はい。店を畳んで証拠を固め、隆さんの手が届く前に、弓さんを店の経営からも、杉浦の家からも切り離す。それが、直さんの選んだ道でした。」

「待ってください。守る方法なら、他にもあったはずでしょう。どうして、離婚まで? 」

黒田さんは、すぐには答えなかった。翔太君と、目を見交わした。

「それは、私の口からお答えすることじゃありません。ただ、事実だけお伝えします。真辺先生があげた選択肢に離婚は入っていました。ですが先生は、最後まで進めてはいません。」

含みのある言い方だった。進められてもいないのに、あの人は選んだということか。

その後のことは、黒田さんが淡々と教えてくれた。直は警察に告訴し、先方の銀行も被害届を出した。隆さんは私が町を出た年の暮れ、書類偽造などの疑いで逮捕された。会社は破産し、裁判で有罪になり、今も刑務所の中にいるという。騙し取られた金は、裁判で杉浦食品側へ請求された。直は、建物を売って、本当に返すべき最後の一円まで、清算したという。

不思議なくらい、胸は波立たなかった。隆さんの転落は、遠い国の出来事のように聞こえた。それよりも、たった一つの問いが胸の中で膨らみ続けていた。

「守られていた。それは分かりました。でも、どうして直は、私に一言も話してくれなかったんですか?

黒田さんと翔太君が、また目を見交わした。

「それをお伝えするには、まず、お返しするものがあります。」

黒田さんが膝元の鞄を引き寄せ、中から布の包みを取り出した。両手で、うやうやしく。包みの中から出てきたものを見て、私は目を疑った。通帳だった。深緑の表紙の、あの銀行の通帳。角が少し丸くなった、十年以上使い込んだ、私名義の通帳だった。

「これは、私の……」

「はい。弓さんの通帳です。あの夜のままの。」

受け取る手が、うまく動かなかった。この深緑の表紙を最後に見たのは、あの夜、直の手の中に消えていく瞬間だった。

「あの夜、直さんが奪ったものです。離婚の翌朝、一番に直さんは真辺先生の事務所へ、これを持ち込みました。預かり証を交わして、金庫で保管してもらうためです。ご自分の手元には置かない。兄の手にも、絶対に渡さない。弓さんが取りに来られる日まで、第三者の金庫で守る。それが条件でした。」

「でも、あの人、私のお金だって分かってて、私から取り上げて……」

「ええ、取り上げなければならなかったんです。あの家から一番先に消えるべきものだったから。考えても見てください。判子も帳簿も握っていた、隆さんの目と鼻の先に、弓さんの通帳が置かれたままだったんですよ。相手は、人の署名を偽造してでも金を奪う男です。手がかりの一つも、あの家に残しておきたくなかったのでしょう。」

言われて、ぞっとした。あの人は、レジ裏の引き出しも、二階のタンスも、我が物顔で開ける人だった。

「今朝、真辺先生の了承を得て、お預かりしてきました。その足で、記帳を済ませてきました。三年分、まとめて。手続きが面倒にならないよう、窓口で一行ずつ、打たせました。随分、長くかかりましたよ。中を、ご覧なさい。」

震える手で、私は表紙を開いた。見覚えのある数字の並び。最後の、あの十月の残高がある。

三百二十万円。母の家の固定資産税や修繕のために取り分けてきたお金と、食堂の勤め時代からコツコツ貯めた、私のお金。借金に消えたと思い込んで、諦めた数字だった。それが、そっくりそのまま、そこにあった。

その下に、数字は続いていた。翌月の十五日、杉浦直。その翌月の十五日、杉浦直。そのまた翌月も。同じ名前が、定規で引いたように、毎月十五日の行に並んでいる。ページをめくっても、めくっても、途切れていない。金額は月ごとに増減しながら、一度も、ただの一度も途切れることなく、三年分。二年目からは、夏と冬に一回り大きな数字が並ぶ。ボーナスの月だと気づいた瞬間、視界が揺れた。ボーナスなんて、出る暮らしではなかったはずだ。それでも、その月だけは、余計に入れずにいられなかったのだ。最後の行の残高は、六百八万円になっていた。減るどころか、増えてる。

「どうして……直さんは、何でこんなことを……。」

「直さんの言葉を、そのままお伝えします。」

黒田さんは背筋を伸ばした。

「『このお金は、一円も俺のものじゃありません。弓が店で働いて得た金と、まだ渡せていなかった弓の取り分です。何年かかっても、必ず本人に返してください。』そう言って、あの人は毎月、振り込み続けました。取り分というのは、店の建物を処分したお金のうち、弓さんに渡るべき分という意味だそうです。店の名前のことも、黒田さんは教えてくれた。『日向』の名前は、真辺先生が先に商標の出願だけ済ませて抑えていて、私の名義に移す手続きは、私の承諾を待って仕上げる形にしてあるという。誰にも、二度と店の名前を勝手に使わせないために。」

「私、そんなこと、何も頼んでいません。」

「ええ。だから、何一つ完了していないんです。お金も、名前も、この店も。あなたが受け取ると決めるまで、全部が途中で止めてある。あなたの人生を、あなたの承諾なしに動かさない。それが、直さんなりのけじめだと、私は受け取りました。」

遅すぎるけじめだ。そう思った。あの夜に、同じことができたなら、三年なんていらなかったのに。

「直さんはね、弓さん。」

黒田さんの声が、初めて詰まった。

「三年間、一番安い部屋に住んで、一番安い飯を食って。それでも、十五日の振り込みだけは、絶やさなかった。私はね、銀行員として四十年、いろんなお金を見てきました。綺麗な金も、汚い金も。でも、この通帳の三年分ほど、人の祈りみたいな金は、見たことがありません。」

通帳のページの間に、小さな紙が挟まっていた。折りたたまれたメモ用紙。開くと、見慣れた下手くそな字があった。伝票の裏に、メニューの思いつきを書き殴っていた、あの字だった。

「これは君の人生だ。俺には奪う権利はない。」

文字が、涙で読めなくなった。メニューの試作を書きつける時、あの人はいつも語尾の棒を跳ねる。君の字の最後も、癖のまま跳ねていた。こんな短い走り書きにまで、あの人の二十年が滲んでいた。気づけば、私は通帳を胸に抱きしめていた。声を上げて泣くのは、久しぶりだった。分かっているのに、止まらなかった。翔太君も、正代さんたちも、誰も何も言わずに、私が泣き止むのを待っていてくれた。

「勝手よ。」

しゃくり上げる合間に、言葉がこぼれた。

「勝手だわ。あんまりだわ。守るなら、守るって。どうして一言。私、一緒に背負いたかった。背負わせて欲しかったのよ。」

誰も答えなかった。答えは、この場の誰のものでもなかったからだ。

窓の外は、いつの間にか夕暮れになっていた。南向きの窓から差し込む赤い光が、テーブルの木目を照らしている。九年間、何千回も見た、店の夕方の光。その光の中で、私は通帳を抱えたまま、長いこと座っていた。奪われたと思っていた。全部、奪われたと思っていたのに。お金も、店の名前も、そして夢も。何一つ欠けないまま、ずっと守られていた。

それでも、涙の底から、小さな棘のような問いが、もう一度、頭をもたげた。だったら、なおさら。どうして、あの夜、一言言ってくれなかったの? 一緒に戦わせてくれなかったの? 「あと一つだけ、弓さんにお渡しするものがあります。」

黒田さんは、厨房の方へ目をやった。翔太君が立ち上がって、厨房を指さした。

「厨房に、手紙が置いてあるんです。直さんから、弓さんへの。」

厨房の作業台の引き出しに、それは入っていた。白い封筒。表には「弓へ」とだけある。裏には何も書いていないけれど、差出人を間違いようがなかった。語尾の棒を跳ねる、あの下手くそな字だった。

「直さんから預かったのは、半年前です。店の開店が決まった日でした。『弓が来たら、厨房で渡して欲しい。ここが、弓の帰る場所だから』って。」

みんなが座敷へ下がって、厨房には私一人が残された。夕方の光の中で、私は封を切った。

「弓へ。この手紙を君が読んでいるなら、君はあの店の厨房に立っている。それだけで、俺には十分すぎる。三年の夜のことを、順番に話す。言い訳になることを承知で、それでも、君には、全部を知る権利がある。兄の不正に気づいた経緯、偽物の署名、母の家まで狙われていたこと、真辺先生と黒田さんに相談したこと。真辺先生は、離婚しろとは一度も言わなかった。弓と二人で戦う道もあると、最後まで言ってくれていた。それを選ばなかったのは、俺だ。あの秋の夜、廊下で聞いてしまったんだ。君が翔太に言っていた。『この店は、何があっても守る。直が困っているなら、私も一緒に背負う。それが夫婦でしょ』と。嬉しかった。そして、心の底から、怖くなった。君に事情を話せば、君は必ず、一緒に戦うと言っただろう。借金も、裁判も、兄の悪意も、全部、半分に背負おうとしただろう。君は、そういう人だ。二十年、隣にいた俺が、一番よく知っている。裁判は何年かかるか分からないと言われた。その間、君を差し押さえの恐怖と、警察と、兄の顔と同じ世界に立たせておくのか。お母さんの遺した家まで担保にされかけている事実を、君に背負わせるのか。考えるほど、分からなくなった。だから俺は、君が俺を嫌いになる方法を選んだ。憎ませて、遠ざけて、あの泥沼から君だけを外へ出す。それしか、思いつかなかった。守ったつもりだった。でも、本当は、君を信じる勇気がなかっただけかもしれない。一緒に戦おうと言ってくれる君を信じて、隣で戦い抜く勇気が、俺にはなかった。兄が捕まった後、すぐにでも君に話に行くべきだった。それも分かっていた。だが、行けなかった。店を潰し、君の人生を勝手に決めた男が、どの面下げて会いにいく。せめて店を、君に返せる形に戻すまでは。そう決めて、翔太たちと準備をしてきた。振り込みの金は、最初の一年は俺の蓄えから。建物を売ってからは、残った金と、今の職場の給料から出している。兄を告訴する書類に判を押した夜、初めて酒に酔えなかった。血の繋がった人間を警察に売る。そうしなければ、君を守れない。あの夜の俺には、どちらの顔も残っていなかった。建物を明け渡す前の晩は、一人で厨房を磨いた。九年分の油の焼き付きを落としながら、ここで君が焼いたオムライスの数を考えた。数えきれなかった。明け渡しの朝、鍵を不動産屋に渡す手が、離婚届に判を押した時より震えた。お母さんの仏壇には、まだ手を合わせに行けていない。台所みたいな店を作ると誓った娘の店を、俺は一度潰した。合わせる顔ができたら、真っ先に詫びに行く。店も、通帳も、鍵も奪った俺を、許して欲しいとは言わない。翔太たちには、返しきれない借りができた。生意気だが、あいつらは本物だ。あいつらを頼む。ただ、君の夢だけは、君に返したかった。いつか看板に君の名前をつけるという約束だけは、守らせて欲しい。あの夜、君が出て行った後、俺は床に座り込んで、立てなかった。扉の向こうの君に聞こえていないことだけを、祈った。あんな音を残して、すまなかった。」

何かが崩れるような、あの音。ずっと耳の底に残っていた音の正体は、崩れ落ちた夫の体の音だった。

手紙の最後に、短い一文があった。

「俺は今、南の港町の水産加工場で、社員食堂の調理場に立っている。元気でやっている。君が幸せなら、それでいい。工場の名前と、町の名前が書き添えてあった。」

読み終えて、もう一度、最初から読んだ。二度目は、涙で滲んでいた。一番安い部屋で、この便箋に向かう、猫背が見えた。書いては消し、消しては書いたのだろう。所々、字が薄く擦れていた。私は手紙を折りたたんで、封筒に戻した。それから、厨房を見回した。磨かれたコンロ、真新しい作業台、壁にかかる私のエプロン。そして、ここへ帰ってくるはずのない私を、待ち続けていた人たち。守られていた。それは、もう疑いがなかった。でも、と私は思う。手紙を胸に当てたまま、はっきりと思う。守るためだったとしても、何も説明せず、私の人生を勝手に決めたことは、間違いだ。一緒に背負うと言った私の言葉を、あなたは聞いていたくせに、信じなかった。私から奪ったのは、店でも通帳でもない。あなたの隣で戦う、その資格だ。

座敷へ戻ると、翔太君たちが心配そうに私を見上げた。泣き腫らした顔のまま、私は言った。

「翔太君、私、行ってくるわ。」

「はい。行ってらっしゃい。」

行き先は、聞かれなかった。聞くまでもなかったのだろう。その晩、アパートに帰って、八重子に電話をかけた。順番に全部話すと、受話器の向こうで鼻を啜る音がした。

「何よ、それ。何よ、それ? バカじゃないの?

あんたの元旦那、バカなのよ。とびっきりのね。で、会いに行くんでしょ? 」

「ええ。言いたいことが、山ほどあるから。」

翌週の休みの日、私は南へ向かう電車に乗った。電車を二本乗り継いで、二時間。言うべきことを道中、いくつも組み立てた。ありがとうが先か、バカ野郎が先か。組み立てては崩し、崩しては組み立て、結局まとまらないうちに、車窓に海が見えた。着いた港町は、塩の匂いと魚の匂いが混ざる小さな町だった。水産加工場は、港のすぐそばにあった。昼下がりの社員食堂は、作業着姿の人がまばらに残るだけだった。

配膳台の奥、湯気の向こうに、その人はいた。白い調理服、ネズミ色の混じった髪、頬がこけて一回り小さくなった背中。それでも、鍋を振る腕の角度は、変わっていなかった。壁際の献立表に、「今週のおすすめ」の文字があった。「木曜オムライス」。あの卵の形は、海の町でも巻かれ続けているのだろうか。その手前で、調理場の年配の女性が私に気づいて、直に声をかけた。

「杉浦さん、お客さん。お知り合い? 」

直はまだ、私に気づかない。手元の鍋を見たまま、答えた。

「え? ああ、どうなさったでしょう?

「ほら、あそこの綺麗な方よ。」

呑気なやり取りに、離れていた歳月を思った。この人は、ここで誰にも過去を話さず、湯気の中で生きてきたのだ。私は配膳台の前に立った。気配に気づいた直が、顔を上げる。

「いらっしゃい。定食でいいですか? 」

言葉が、途中で消えた。お玉を持った手が、空中で止まる。目が、私の顔に釘付けになったまま、動かない。

「どうして、ここに? 」

「二度と戻るなと言ったのは、あなたでしょ。声が震えないように、お腹に力を入れた。戻るなと言われたのは、店よ。ここは、初めて来たもの。約束は、破ってないわ。」

直は、お玉を置いた。調理服の裾を握りしめて、俯いて、それから深く腰を折った。配膳台に額がつきそうなほど、深く。

「すまなかった。」

厨房の若い人が、何事かとこちらを見ている。私は構わず、言葉を待った。三年分待つのは、慣れている。

「翔太から、聞いたんだな。全部。」

「手紙も読んだわ。通帳も受け取った。看板も見た。」

「そうか。」

直は顔を上げられないまま、絞り出すように言った。

「君を守りたかった。それは、嘘じゃない。でも、守ると言いながら、君の気持ちも人生も、勝手に決めた。ひどい言葉で傷つけて、三年、放り出した。俺のやったことは、兄貴と同じだ。君の署名を、君に無断で書いたのと同じことだ。」

「そこまで分かってるのね。」

「毎晩、考えた。考えない夜は、なかった。俺に会いたくないなら、それでいい。連絡先の前には現れない。ただ、これだけは、許さないわよ。」

直の言葉を、私は遮るようにした。顔を上げた直と、ようやく目があった。あの夜、一度もこちらを向かなかった目だった。

「あなたのおかげで、守られたものはある。母の家も、お金も、店の名前も。それは、ちゃんと分かってる。ありがとうとも、思ってる。でもね、あの日から三年間、私は自分に価値がないと思って生きてきたのよ。二十年が、全部、いらないものだったって、あなたに言われたと思って生きてきたの。料理も作れなくなった。包丁を持つと、手が止まるの。私から料理を取ったら、何が残るのよ。」

言いながら、目の縁が熱くなるのを、止められなかった。

「守るためなら、どんな言葉で傷つけてもいいわけじゃない。一緒に背負うと言った私の言葉を、あなたは廊下で聞いていたくせに、信じなかった。それが、一番、悔しい。」

直は、言い訳をしなかった。もう一度、頭を下げた。

「すまなかった。本当に、すまなかった。」

下げられた頭のてっぺんに、白いものが増えていた。この三年を、この人は、この人で罰のように生きてきたのだろう。それでも、と私は思った。それでもだ。泣くのは、渡すものを渡してからだ。

食堂の窓の外で、カモメが鳴いた。私は息を整えて、バッグから、あるものを取り出した。真新しい、銀色の鍵。前の日に、店へ寄って、翔太君から預かってきた、新しい店の鍵だった。窓からの光を受けて、手のひらで小さく光っている。差し出された鍵を見て、直は後ずさった。

「翔太たちが、どうしてもと言うんだ。心持ちだけで十分だと伝えてくれ。それは受け取れない。俺に、あの店へ戻る資格はない。」

「ええ、ないでしょうね。」

私は頷いた。

「夫としての資格は、ないわ。あなたが自分で捨てたんだもの。だから、これは、夫として渡す鍵じゃないわ。」

私は、差し出した鍵を一旦、手のひらに握り込んだ。これが道中で組み立て続けた末の、私の答えだった。許すのでも、切り捨てるのでもない。私の店の、私の決め方で、もう一度始める。

「翔太君に聞いたわよ。フライから焼き場まで、何でもできる調理員さんがいるって。うちは今、人手不足なの。店で働きたいなら、一人の料理人として、面接に来て。」

直が目を見開いた。

「面接? 」

「そう、面接。この鍵は、採用が決まった日に、渡します。履歴書も、書いてきてね。言っておきますけど、時給は安いわよ。新人ですから。」

「……必ず、行きます。」

直の喉が、上下に動いた。

「世界一の、あなたの店に。」

私は背筋を伸ばして、今までで一番綺麗に笑ってみせた。

「私の店ですから。店主は、私よ。」

湯気の向こうで、直の顔がくしゃりと歪んだ。笑ったのか、泣いたのか。多分、両方だった。

それから、季節がいくつか巡った。私は弓。五十歳になった。「弓の食堂」の店主だ。開業の届けも、保健所の営業許可も、銀行の融資の書類も、今度は全部、私の名前で出した。ペンを握るたび、母の印鑑がバッグの中で鳴る。苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のまま。お母さん、あなたの言う通りだったわ。

開店までの数ヶ月は、あっという間だった。翔太君の三冊のノートを二人で読み直し、正代さんたちとメニューの試食会を重ねる。開店の初日、開店前の通りには行列ができた。先頭は、杖をついた八重さんだった。

「遅いわよ、弓さん。三年も待たせて。」

「すみません。仕込みに時間がかかりました。」

「うまいこと言って。」

八重さんは窓際の二人掛けに座り、オムライスを綺麗に食べ終えて、それから小さなプリンに目を丸くした。

「あら、頼んでないわよ。」

「三年分の、お誕生日です。お店からです。」

「もう、この店は昔から、料理と一緒に別のものを出すのよね。」

八重さんは袂で目元を押さえながら、笑った。列の中には、八重子もいた。黒田さんは春に定年を迎え、今は月末の客として顔を出す。厨房は料理長の翔太君が仕切っている。ホールは正代さんと恵さん。そして、新たな仕入れと調理に、面接を経て採用された新入の調理員がいる。

履歴書を持ってきた日の直は、別人だった。緊張で膝の落ち着かない五十二歳に、私は店主として告げた。

「採用します。ただし、皿洗いからです。返事は、以上しか受け付けません。」

仕入れを任された直が、真っ先に頭を下げに行ったのは、あの業者だった。野菜は、またあの店から届く。その業者が、先日、煮込みの鍋に口を出しかけた。デミグラスの味加減が、昔の癖で気になったらしい。私はお玉を持ったまま、にっこりと振り返った。

「店主は、誰でしたか?

「弓、店主です。」

「よろしい。皿、溜まってますよ。」

厨房の隅で、翔太君が吹き出していた。あの雷を落とされていた青年が、今は落とす側の顔で笑う。賄いの時間には、みんなで座敷の卓を囲む。誰かが冗談を言い、誰かが翌日の仕込みの話をする。湯気の向こうの顔ぶれを眺めると思う。ここは、もう母の台所に似てきた。レジの壁には、あの額が戻っている。開店の日の、若い夫婦の写真。その横に、私は母の言葉を小さな木の板に書いて、掛けた。

「料理は、お腹だけでなく、寂しい心も温める。」

ある日の午後、常連の親子連れの女の子が、看板を指さして聞いた。

「ねえ、『弓』って、誰? 」

皿を下げていた直が、腰をかがめて答えた。

「この店を作った人だよ。」

「違うでしょ。みんなで作った店よ。」

思わず口を挟んだ私に、直は首を横に振った。

「でも、守りたかった夢は、弓の夢だった。」

全く、この人は、皿洗いのくせに、時々そういうことを言う。夫婦に戻るかどうかは、まだ決めていない。信頼は、通帳の数字みたいに、少しずつしか積み上がらない。それでいいと思っている。あの人は今、逃げずに、一月ずつ積んでいる。今度は、私の見ている場所で。

閉店後、一人で表に出て、看板を見上げるのが日課になった。「お前の夢は、今日で終わりだ」。あの夜、この場所で、私はそう宣告された。同じ場所に、今、私の名前がかかっている。夕日に照らされた、弓の名前と、卵の形のオムライス。私の夢は、あの日、終わらなかった。憎まれ役を選んだ不器用な人と、「明日も来なさい」を守り続けた青年と、帰りを待っていてくれた町の人たちが、終わらせなかったのだ。だから、私は明日も暖簾を出す。お腹を空かせた誰かの、寂しい心まで温められるように。この店を、母の台所のような場所に育てていきたい。