高級料亭の個室で、家族の誕生日会の真っ最中。義理の娘が突然、私にだけ聞こえる声で言った。「お義母様、今日は帰ってくれませんか? 旦那の母が、美容師がいるだけで家の格が下がると言ってて…」。35年間、ハサミ一本で家族を支え、息子の学費も家のローンも全部私が払ってきたのに。夫も息子も、うつむいたまま何も言わない。私はただの「小銭を出してくれる美容師」だったのか?…

高級料亭の個室で、家族の誕生日会の真っ最中。義理の娘が突然、私にだけ聞こえる声で言った。「お義母様、今日は帰ってくれませんか? 旦那の母が、美容師がいるだけで家の格が下がると言ってて…」。35年間、ハサミ一本で家族を支え、息子の学費も家のローンも全部私が払ってきたのに。夫も息子も、うつむいたまま何も言わない。私はただの「小銭を出してくれる美容師」だったのか?...

高級料亭の個室で、息子の嫁レイナが放った一言。その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
今日は夫の還暦祝い。息子夫婦が企画してくれた家族水入らずの食事会のはずだった。陽気な雰囲気で始まった宴の最中、レイナが申し訳なさそうな顔で私に近づき、信じられない言葉を投げつけた。
「あちらのお母様がおっしゃるには、小母さんがいると場が引き締まらないそうで…」
レイナのことは実の娘のように可愛がってきたつもりだった。それなのに、なぜ私だけが拒絶されなければならないのか。震える声で隣に座る夫に助けを求めた。
しかし夫は私と目を合わせようともしない。
「まあ、仕方ないだろう。向こうのご両親もいらしているんだ。波風を立てるな」
夫は面倒臭そうにそう言うだけだった。息子の剣も困り果てたような顔で私を見つめ、言った。
「母さん、今日は悪いけど帰ってくれないか? また今度別の機会に埋め合わせするから」
私は愛する家族の輪から、完全に締め出されてしまった。

私の名前は佐藤洋子、68歳。35年間美容師として朝から晩まで立ち続け、ハサミ一本で家族を支えてきた。息子の学費もマイホームの頭金も、全て私が稼いだお金だ。
料亭を追い出され、夜風に吹かれながら、これまでの35年間が走馬灯のように蘇ってきた。結婚当初、夫はまだ給料の安い平社員だった。生活は苦しく、私は美容師として必死に働いた。毎朝5時に起きて弁当を作り、息子を保育園に預けてから出勤。仕事が終われば急いで迎えに行き、夕食の支度、風呂、寝かしつけ。夫は仕事が忙しいと言い、家事も育児も全て私任せだった。それでも教育だけは妥協したくないという一心で働き続けた。その結果、幼稚園から大学まで教育費だけで総額1200万円。全て私の美容師としての収入から捻出した。通帳の残高は減る一方だったが、息子の成長だけが私の生きがいだった。
10年前、剣がレイナを連れてきた時のこと、今でも鮮明に覚えている。
「母さん、僕たち結婚したいんだ」
嬉しくて、本当の娘ができたような気持ちだった。結婚式の費用として500万円を援助し、心から祝福した。
「レイナさん、これからは本当の家族よ。何でも相談してね」
あの時のレイナの笑顔が、今となっては虚しく思い出される。私は一体何のために身を削って働いてきたのだろうか。

料亭を出て駐車場に向かうと、レイナが小走りで追いかけてきた。
「小母さん、本当にごめんなさい。でもうちの母が、小母さんの職業を気にしていて…その、格が違うって言うんです」
格が違う。その言葉が私の胸に深く突き刺さった。
「母が言うには、うちは代々大手企業の役員を排出してきた家系で、小母さんはその…美容師でしょう? だから話も合わないだろうって」
私は息を呑んだ。誇りを持って続けてきた仕事。そんな風に見下されていたなんて。
「レイナさん、美容師という仕事がそんなに恥ずかしいの?」
「いえ、そういうわけでは…でも、母が言うので…」
レイナは最後まで自分の意見を言わず、逃げるように料亭へ戻っていった。

車に乗り込み、ハンドルを握りながら、最近の不快な出来事が次々と思い出された。そういえば、おかしなことが増えていた。
3ヶ月前の孫の運動会。家族席が用意されていたのに、なぜか私だけ一般席に案内された。席が足りなくて、と係員は言ったが、彼女の両親はしっかりと家族席に座っていた。
2ヶ月前の孫の誕生日会。子供の友達が増えちゃって、と当日になってキャンセルの連絡があった。しかし後でSNSを見たら、レイナの家族は全員参加していて、高級ホテルでの豪華なパーティーの写真がずらりと並んでいた。
1ヶ月前から家族のグループメッセージでのやり取りも変わった。私のメッセージは無視されるのが当たり前。息子に直接聞いても「忙しくて見てなかった」の一点張り。でもレイナの母親のメッセージには即座に返信している。
今日、全ての謎が溶けた。私は「格が違う」から、家族として扱われていなかったのだ。

信号待ちをしているとスマートフォンが鳴った。夫からのメッセージだった。「俺はまだ食事中だから残る」
私を追い出しておいて、自分だけ楽しく食事を続けている。夫までもが私の味方ではなかった。
どうしても納得がいかず、私は車をUターンさせた。料亭の駐車場に戻り、少し離れた場所に車を止めて様子を伺った。個室の窓から、楽しそうに談笑する家族の姿が見える。私がいなくても、何の問題もないかのように。
ちょうどその時、レイナの両親が外に出てきて、タバコを吸い始めた。窓を少し開けると、会話が聞こえてくる。
「それにしても、あの嫁はよく我慢してるわね」
レイナの母親の声だった。
「何が?」
「だって、お義母さんが美容師でしょう。うちは代々一流企業の役員家系なのに、恥ずかしくないのかしら」
「確かに、俺の親戚に合わせる時も、向こうの母親の職業は言いにくいよな」
私の手が震え始めた。ハンドルを握る力が入らなくなるほどに。
そこへレイナも外に出てきた。
「あら、レイナ。お義母さんは帰ったの?」
「はい、お母様の言われた通りに」
「そう、よかった。だって、うちの親戚に合わせたらどう思われるかわからないもの。美容師なんて、人の髪を切るだけの仕事でしょう」
レイナが小さく笑った。
「そうですよね。正直、恥ずかしくて…夫の会社の人たちにも、小母さんの職業は内緒にしてます。何をしてるのって聞かれたら、もう引退したってごまかしてます」
「賢いわ。階級の違いはどうしようもないものよ。私たちのような家柄と、庶民とは住む世界が違うの」
「でも、お金は出してくれるんでしょう?」
「ええ、そこは助かってます。結婚式の時も500万円出してくれたし、この前も子供の塾代15万円、全額出してくれました」
「それならいいじゃない。お金だけ出してもらって、あとは距離を置けば。使えるものは使わないと」
「本当にそうですね。美容師でも、小銭だけは持ってるみたいだから」
3人は高笑いしながら料亭に戻っていった。
車の中で、悔し涙が頬を伝った。美容師として必死に働き、息子を育て、家族を支えてきた35年間。それが「恥ずかしい」「格が違う」と言われ、まるでただの財布のように扱われるなんて。私の存在価値は、お金でしかなかったのだ。

深夜、家に戻ると夫は先に帰っていて、リビングでテレビを見ていた。まるで何事もなかったかのように。
「お前、さっきのことだけど…なんだ、まだ根に持ってるのか」
「根に持つって…私だけ追い出されたのよ。あなたの還暦祝いなのに」
「仕方ないだろう。向こうの親も来てるんだから。レイナ君の父親は大手商社の取締役だぞ。そういう人たちと、美容師のお前じゃ話も合わないだろう」
夫の口から出た言葉に、私は凍りついた。
「あなたも、そう思ってたの? 私の仕事を恥ずかしいと?」
「恥ずかしいとは言わんが、向こうの家とは釣り合わないのは事実だろう。俺だって片身が狭いんだ。『奥様は何をされてるんですか?』って聞かれた時、『美容師です』なんて言いづらくてな」
「じゃあ、なんて言ってるの?」
「専業主婦って言ってる」
私の中で、何かが音を立てて崩れていった。35年間、朝から晩まで働いて家計を支えてきた私の存在を、夫は「専業主婦」という嘘で塗りつぶしていたのだ。
「あなた、知ってたのね。レイナさんたちが私を見下してることも、息子がそれを容認してることも」
「まあ、息子の立場もあるしな。レイナの実家は金持ちだし、将来のことを考えたら、あっちの機嫌を損ねるわけにはいかんだろう」
「私より、レイナさんの実家の方が大事なのね」
「そういうわけじゃないが…現実を見ろよ。お前ももう年なんだから、美容師なんていつまでも続けられないだろう。大人しく隠居でもしてればいいんだ」
隠居。まるで私が厄介者だと言わんばかりだ。
「一つ聞かせて。この家のローン、誰が払ってきたと思う?」
「そりゃ、俺の給料から」
「嘘ばっかり!」
私は思わず声を荒げた。
「あなたの給料じゃ足りなくて、毎月私が補填してたでしょう。それに頭金の800万円は全額私が出したじゃない」
夫は黙り込んだ。図星だからだ。
「それに息子の教育費1200万円も、ケンとレイナさんの結婚資金500万円も、全部私のお金よ。あなたは何を出したの?」
「俺だって、働いてきただろう」
「働いてきた? 毎晩飲んで帰ってきて、休日はゴルフ。家事も育児も全部私に押し付けて、それで働いてきたって?」
夫は立ち上がった。
「もういい。お前みたいな美容師と結婚したのが、そもそもの間違いだったんだ」
その言葉を聞いて、私の心は不思議なほど冷静になった。もう怒りさえ感じない。
私は書斎に向かい、金庫から重要書類を取り出して、一つ一つ確認し始めた。
まず、この家と土地の権利書。私は震える手でページをめくった。所有者、佐藤洋子。間違いない。この家も土地も私の名義だ。夫は「二人の家」だと言っていたが、実際には私一人の単独所有。
次に通帳を確認した。普通預金2800万円、定期預金8500万円、外貨預金1200万円。現金だけで1億2000万円を超えている。さらに証券口座も確認した。国内株式1億3000万円、投資信託5000万円、外国株式2000万円。証券口座だけで2億円。さらに個人年金保険や養老保険なども合わせると、私の総資産は3億円を超える計算になる。
書類を見つめながら、私はうっすら笑みを浮かべた。ただの美容師が、これだけの資産を築いていたなんて。家族の誰も知らないだろう。いや、知ろうともしなかった。
鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。確かに年は取ったが、その顔には35年間の努力の証が刻まれている。手は、何万人もの人を美しくしてきた、誇り高い手だ。
35年間、ただの美容師として見下されてきた私。でも、本当の私を誰も知らない。
鏡の中の自分に向かって、私は静かに微笑んだ。
「今まで本当に、よく頑張ったわね。でも、もう我慢しなくていいのよ」
その瞬間、私の中で決意が固まった。家族という名の差別者たちに、思い知らせてやる時が来たのだ。
私はスマートフォンを手に取り、ある番号をタップした。
「もしもし、佐藤です。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
電話の相手は、長年の付き合いがある不動産業者だ。
「実は、家と土地を売却したいと思って」
電話の向こうで相手が驚く気配が伝わってきた。
「佐藤さん、あの一等地の物件をですか? 今なら相当な値段がつきますよ。周辺の相場から考えると…そうですね、土地だけで2億は下らないでしょう」
「そう、それくらいになるのね。建物も含めれば、もっと行くかもしれません」
「でも、ご家族は…」
「家族のことは気にしないで。私の名義だから、私の一存で決められる」
「わかりました。では、早速査定の手配をさせていただきます」
電話を切った後、私は次の行動に移った。銀行への連絡、証券会社への確認、そして何より重要な、新しい住まいの手配。全ては新しい人生のために。
「格が違う」と言われた美容師が、どれだけの力を持っているか。もうすぐ彼らは思い知ることになるだろう。

書斎でスマートフォンが鳴った。先ほど連絡した不動産会社からだ。
「佐藤様、先ほどはお電話ありがとうございます。査定の件で早速動きました。建設会社の社長と連絡が取れまして、以前からの希望通り、現金で購入したいとのことです。金額は土地が2億3000万円。建物を含めて2億5000万円でいかがでしょうか? これは破格の条件です」
私は即答した。
「その条件で結構です。すぐに契約を進めてください」
「承知いたしました。では、1時間以内に司法書士と一緒に伺います」
「今晩で申し訳ありませんが…」
「いえ、今中に済ませたいので、お願いします」
電話を切ると、私は必要な書類を準備し始めた。権利書、実印、証明書。全て手元にある。
次に、銀行の担当者に電話をした。
「佐藤です。先日相談していた件ですが、本日中に実行したいのですが」
「承知いたしました。3億1000万円の資産移動の件ですね。新規口座への振り込み手続きは、オンラインでも可能ですが、それでお願いします」
夫は相変わらずリビングでテレビを見ている。2階の書斎で、妻がこんな大きな決断をしているとは夢にも思わないだろう。
私は静かに寝室に向かい、最小限の荷物をスーツケースにまとめた。下着、化粧品、数日の着替え、そして一番大切な美容師免許と思い出のハサミ。その他のものは、後で処分すればいい。今はこの家から離れることが先決だ。
パソコンを開き、ネットバンキングにログインした。全ての残高を確認し、新しい口座への振り込み手続きを進める。金額が大きいため、何度も確認画面が表示されたが、迷いは全くない。
「実行しますか?」
「はい」
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。不動産会社の人たちが来たのだ。
夫は来客に少し驚いた様子だったが、「仕事の関係で来客がある」と伝えると、興味なさそうに視線をテレビに戻した。
応接室に通した3人は、不動産会社の社長、司法書士、そして買主の建設会社の代表だった。
「佐藤様、夜分に申し訳ありません。でも、この物件を何年も探していましたので」
建設会社の社長は恐縮していた。
「いえ、むしろ好都合です。すぐに契約を進めましょう」
司法書士が書類を広げる。売買契約書、登記関係書類。全て完璧に準備されていた。
「引き渡しはいつに?」
「1ヶ月後で…」
「いえ、1週間後にしてください。それまでに私たちは出ていきます」
「1週間ですか?」
3人は顔を見合わせたが、私の真剣な表情を見て、それ以上は聞かなかった。
契約書にサインをし、実印を押す。手付け金として、その場で5000万円が振り込まれることになった。
家を手放すことができ、不思議と解放感が湧いてくる。
来客を見送った後、私はもう一度書斎に戻った。スーツケースにもう少しだけ荷物を追加する。家族の写真は…いえ、もう必要ありません。

午後8時。そろそろ息子たちが帰宅するだろう。私はダイニングテーブルに封筒を置いた。中には、家の売却契約書のコピーと、簡単な手紙が入っている。
「お望み通り、格の違う美容師は消えます。なお、この家は1週間後に引き渡しとなります。家も土地も私の名義でしたので、私の判断で売却しました。35年間、ありがとうございました。息子へ」
スーツケースを持って玄関に向かうと、夫がようやく気づいた。
「おい、どこへ行くんだ?」
「ちょっと、実家に顔を出してきます」
「実家? お前の実家なんて、もうないだろう」
「あら、そうでしたね。じゃあ、友人のところに」
「いつ帰る?」
「さあ、いつになるかしら?」
夫は面倒臭そうに手を振る。まさかこれが最後の会話になるとは、思ってもいないだろう。
タクシーを呼び、荷物を積み込んだ。運転手に行き先を告げる。
「都心のホテルまでお願いします」
車が走り出すと、35年間住んだ家が遠ざかっていった。あの家で、私は必死に家族を支えてきた。でも、もう終わりだ。
スマートフォンを見ると、銀行から入金完了の通知が届いていた。3億2000万円。これが35年間、美容師として働き続けた私の財産だ。
「格が違う」と言われた美容師が、これだけの資産を持っていたこと。家族はどう思うだろうか? もうすぐわかる。あと1時間もすれば、家族みんなが私の手紙を見るだろう。そして、全ての真実を知ることになる。
車窓から夜景を眺めながら、私は新しい人生の第一歩を踏み出していた。

午後10時。都心の高級ホテル、その最上階のスイートルーム。大きな窓から見える東京の夜景を眺めながら、私はソファに深く腰を下ろした。手にはルームサービスで頼んだ赤ワインのグラス。35年間、こんな贅沢をしたことはない。
一口飲んで、その芳醇な味わいに驚いた。いつも家ではスーパーの特売品ばかり。家族のために節約することが当たり前だったから。でも、もうその必要はない。
バッグの中でスマートフォンが振動し始めた。画面を見ると、夫からの着信。もう始まったのね。私は笑みを浮かべながら、着信を無視した。一件、二件、三件。着信履歴だけが増えていく。
今頃、家では大騒ぎだろう。テーブルに置いてきた手紙を見て、パニックになっているはずだ。
正直に言えば、少し心が痛んだ。35年間連れ添った夫。必死に育てた息子。でも、その痛みよりも、今日受けた屈辱の方がずっと大きかった。
「母が言うので…」「お義母様抜きでお願いします」
レイナのあの言葉がまだ耳に残っている。そして、それを当然のように受け入れた夫と息子の態度も。
私はもう一度、ワインを口に運んだ。スマートフォンの振動が止まない。今度は息子の剣から、そしてレイナからも。画面には通知が次々と表示される。剣、不在着信13件。レイナ、不在着信18件。夫、着信31件。メッセージアプリにも、メッセージが続々と届いている。
私は深呼吸をして、電源を切った。静寂が部屋を包む。やっと静かになった。35年間、いつも誰かのために動いていた。でも今、私には時間がある。誰にも邪魔されない、私だけの時間が。
バスルームに向かい、自家製のバスオイルを湯舟に入れた。ラベンダーの香りが広がる。これも、初めて自分のために買ったもの。
お湯に浸かりながら、今日の出来事を振り返った。不動産会社との契約。あの時の社長の驚いた顔。「本当によろしいんですか? ご家族は…」「家族のことは考えなくていいです」。そう言い切った自分に、今でも少し驚いている。でも、後悔はしていない。銀行での手続きも、思っていたよりスムーズだった。これで、私の人生は私のものになったのだ。
風呂から上がり、バスローブを羽織って再びリビングに戻ると、充電器につないでいたもう一台のスマートフォンが鳴っていた。仕事用の番号だ。
「はい、佐藤です」
「社長、やっと繋がりました!」
電話の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。私の美容室の店長、由美子だ。
「由美子さん、どうしたの? こんな時間に」
「実は、明日の予約の件で…あの女優の咲さんから、どうしても社長にカットしてもらいたいって」
「ああ、そう。じゃあ11時でいいかしら」
「はい、お伝えしておきます。それと社長、最近お疲れみたいですけど、大丈夫ですか?」
由美子の優しい気遣いに、胸が熱くなる。
「ありがとう。でも、もう大丈夫よ。明日からは、今まで以上に仕事に打ち込めそう」
電話を切った後、私はプライベート用のスマートフォンの電源を入れる。予想通り、着信履歴は100件を超えていた。
ため息をついて、私は電話に出ることにした。
「はい」
「母さん! やっと出た! どういうことだ? なんで家を売ったんだ?」
剣の怒声がスピーカーから響く。昔なら、息子の大声に委縮していたかもしれない。でも、今は違う。
「あら、ケン。楽しい食事会は終わったの?」
「そう、そんなこと聞いてるんじゃない! 家を勝手に売るなんて!」
「勝手に?」
私は鼻で笑った。
「私の家を、私が売って何か問題でも?」
「母さんの家じゃないだろう! 俺たちの家だ!」
「あら、違うわよ。登記簿を確認した。あの家は最初から私の名義。土地も建物も、全て私のものよ」
「で、でも…家族の家だろう!」
家族。その言葉を聞いて、私の中で何かがプツンと切れた。
「私は家族じゃないんでしょう? 『ママが言うので』除外されたじゃない」
「あ、あれは…」
「ケン、あなたも言ったわよね。『母さん、今日は帰ってくれないか?』って」
沈黙が流れた。剣が何か言いかけましたが、言葉が出てこないようだ。
そこへ、レイナの声が割り込んできた。
「変わって!」
受話器を奪う音が聞こえ、レイナの必死な声が響く。
「お義母様! お願いします! こんなことしないで!」
「あら、レイナさん。どうしたの? そんなに慌てて」
「家を売るなんて…私たち、どこに住めばいいんですか?」
「知らないわ。『格の違う美容師』には関係ないことでしょう」
「それは…」
「あなたのママが言ってたじゃない。『階級の違いはどうしようもない』って。だから、違う階級の私は出ていくことにしたの」
レイナが泣き始めた。電話越しにも、すすり泣く声が聞こえてくる。
「お義母様、本当にごめんなさい。私が悪かったです」
「何が悪かったの?」
「全部です! お義母様を除外したことも、職業で差別したことも…」
「ふん。でも、もう遅いわね」
私は腕時計を見た。もう11時近い。
「そろそろエステの時間だわ。また今度ね」
「待って! お義母様!」
レイナの必死な声を無視して、私は電話を切った。すぐにまた着信が入るが、今度は完全に電源を切った。静寂が、再び部屋を包む。
私はソファに深く体を沈めて、天井を見上げた。35年前、夫と結婚した時、私には夢があった。温かい家庭を築いて、幸せに暮らすこと。そのために、必死に働いてきた。美容師として独立することも考えたが、家族のためにと我慢した。いえ、正確には違う。独立して成功していることを、家族には隠していたのだ。なぜなら、ただの「お母さん」ではなく、普通の「お母さん」として愛されたかったから。
でも、それは間違いだった。彼らは私を愛していなかった。ただ都合のいい存在として、利用されていただけ。
涙が一筋、頬を伝った。でも、それは悲しみの涙ではない。解放の涙だった。
私は立ち上がり、持参していた書類を広げる。店舗の美容室の売上表、スタッフ名簿。これが私のもう一つの顔。家族が知らない、経営者としての私。
明日から、本当の意味で自由になる。誰かの母でも妻でもない、佐藤洋子として。
もう一度シャンパンのボトルを開けた。今度は一人で。
「35年間、お疲れ様でした」
グラスを高く掲げて、私は自分自身に乾杯した。窓の外では、東京の町が輝いている。明日から始まる新しい人生が、今から楽しみでならない。

1ヶ月後、私は都心の高級マンション、その最上階から朝日を眺めていた。60階建てのタワーマンション。ここから見える景色は、まるで私の新しい人生を象徴しているかのようだ。リビングには真っ白なイタリア製のソファ、キッチンには最新の調理器具。そして壁一面の本棚には、ずっと読みたかった本がぎっしりと並んでいる。
35年間、自分のために使うお金なんてなかった。でも、今は違う。
朝食を済ませ、私は身支度を整えた。今日は大切な日だ。
タクシーで向かった先は、表参道にある私の店「ベル・エール」。フランス語で「美しい時代」を意味する、私の美容室チェーンの1号店だ。
ガラス張りの店内に入ると、スタッフたちが一斉に顔を上げた。
「社長! おはようございます!」
「みんな、おはよう」
私はただの美容師ではない。15年前に独立し、今では都内に3店舗を構える美容室チェーンのオーナーだ。表参道、銀座、そして六本木。どの店も予約が3ヶ月先まで埋まっている人気店なのだ。従業員は総勢45名。みんな私が一から育てた優秀なスタイリストたち。
「社長、咲様がお見えです」
受付の真理子が告げた。誰もが知る女優。私の顧客の中でも、特に大切な一人だ。
「洋子さん、会いたかった!」
個室に入ると、彼女は親しみを込めて抱きついてきた。
「最近、お店にいらっしゃらないから心配してたのよ」
「ごめんなさい。ちょっと家庭の事情があって」
「そう…でも、もう大丈夫?」
「ええ、完全に解決しました」
私は微笑みながら、彼女の髪に触れた。この感触。この仕事が、私は本当に大好きだ。
カットをしながら、彼女が言った。
「洋子さん、知ってる? 業界では『魔法の手』って呼ばれてるのよ」
「まあ、大げさな」
「本当よ。だって、洋子さんにカットしてもらうと、運気まで上がるって評判なんだから」
私たちは笑い合った。35年間、美容師として働いてきてよかった。心からそう思った。
施術を終えてオフィスに戻ると、秘書の香織が報告してくる。
「社長、先月の売上ですが、3店舗合計で8500万円でした」
「順調ですね」
「はい。特に六本木店が好調で」
昼食はスタッフたちと一緒に撮った。みんな、私を慕ってくれる大切な仲間たちだ。
「社長、最近すごく生き生きしてますね」
店長の由美子が言った。
「そう?」
「はい。なんか、吹っ切れたような」
鋭い観察眼。さすが、私が最も信頼するスタッフだ。

午後3時、スマートフォンが鳴った。番号を見ると、夫からだ。この1ヶ月、何度も電話がかかってきている。息子からも、嫁からも。でも、私は一度も出ていない。
今日は、なぜか出てみる気になった。
「はい」
「よし! やっと出てくれたか」
夫の声は、以前とは打って変わって弱々しいものだった。
「何か用?」
「あのな、俺が悪かった。謝る。だから…戻ってきてくれないか」
「今さら」
「家もなくなって、俺たちはレイナの実家に転がり込んでる。俺は会社の寮に…情けない話だが、それで…頼む。やり直そう。俺が間違ってた。お前の仕事を恥ずかしいなんて…」
「違うでしょう」
私は冷たく遮った。
「私の仕事が恥ずかしいんじゃない。私という存在が邪魔だったのよ。一緒になって、私を追い出したでしょう」
「それは…」
「もういいわ。私は今、とても幸せだから」
そして、私は電話を切った。もう、振り返る必要はない。

夕方、最後の顧客を見送った後、私はスタッフたちを集めた。
「みんな、ちょっと聞いて欲しいことがあるの」
全員が注目する中、私は話し始めた。
「私ね、美容師であることを恥ずかしいと言われたことがあるの」
スタッフたちは、驚いた顔をした。
「でも、私は美容師であることを誇りに思ってる。人を美しくする仕事。人を笑顔にする仕事。こんな素晴らしい職業はないわ。だから、みんな自信を持って。私たちは誇り高い美容師なのよ」
拍手が起こった。温かい拍手が。
世の中には、まだ職業差別が存在する。「高が美容師」「所詮は髪を切るだけ」。そんな偏見を持つ人たちがいる。でも、真の価値は肩書きではない。その人がどれだけ情熱を持って仕事に取り組んでいるか、どれだけの人を幸せにしているか。それこそが、本当の価値なのだ。

夜、マンションに戻った私は、ベランダから夜景を眺めていた。今、私は本当に自由だ。家族という名の差別から解放されて。風が心地よく、肩を撫でていく。
35年間の結婚生活。それは決して無駄ではなかった。息子を育て、家庭を守り、そして美容師として成功を収めた。全てが、今の私を作っている。でも、もう我慢する必要はない。差別や偏見に屈することなく、自分の価値は自分で決める。それが、私が35年間かけて学んだことだ。
明日も、たくさんのお客様が待っている。「魔法の手」と呼ばれる私の技術で、また誰かを笑顔にできる。それだけで、十分に幸せだ。
私は美容師、佐藤洋子として、これからも誇りを持って生きていく。

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