「半額納期、半分か選べ。無理なら契約中止だ」
歪んだ笑みを浮かべてそんな要求を突き付けてきたのは、取引先の部長だった。俺は岡田、39歳。中堅電気メーカーの研究開発部で働いている。
仲のいい同期の中村がいた。次世代型バッテリーの開発を進める中村は、よく俺に相談を持ちかけてきた。冷却装置のサイズについて意見を交わし合う時間は、いつも楽しかった。
しかし、俺が37歳の誕生日を迎えた直後、中村が突然病に倒れた。長期入院が必要で、生きて帰れるかもわからないという。
病室で中村は言った。「開発中のバッテリー。お前が引き継いでくれよ」
すでに会社への連絡も済ませてあったという。俺はその頼みを笑顔で引き受けた。中村が始めた仕事を必ず完成させると、病院の廊下で心に誓った。
開発には1年半かかった。何度も壁にぶつかったが、そのたびに「中村ならどうするか」と自問しながら前に進んだ。そうして開発はなんとか終了。中村も少しずつ回復傾向にあった。
ある日、別の仕事の時間が迫っていることに気づく。取引先の村瀬部長のところへ行かなくてはならない。あの村瀬部長だ。ため息をつかずにはいられない。
2年前、村瀬部長の会社から試作品の製作を依頼された。俺は発注書通りに試作品を作ったのに、翌日、検品チェック担当者から「発注内容とだいぶ違う」と電話が来た。
発注書を確認すると、なんと村瀬部長自身が間違った内容の注文書を作っていたのだ。だが、この部長は社長の甥で、多大な権力を持つ人物だった。
「俺のミスだって? 身に覚えがないな。お前が勝手に書き換えたんじゃないのか」
部長は平然と言い放ち、俺を脅した。「俺が社長に頼めば取引をなくすことだってできるぞ」
我が社の売上は村瀬部長の会社が大きく占めている。取引がなくなったら困るのはこちらだ。結局、部長のミスは表に出なかった。さらにこの一件で、俺は部長から目をつけられるはめになった。定例の納品のたびに、部長は嫌みを言うためにわざわざ顔を出すのだ。
そんな日々を耐えながら、中村と作ったバッテリーは業界誌に掲載されることになった。俺はその記事を中村に見せようと、お見舞いに行く準備を進めていた。
その翌日、いつも通り村瀬部長の会社に納品に行くと、部長から信じられない言葉を突き付けられた。
「今後の納品だが、半額か納期半分か選べ。無理なら契約中止だ」
物価高を理由にしたコストカットだと言うが、演技が嘘臭い。真の目的は俺をいびることだと、表情から透けて見えた。部長は中国系企業の見積書を見せ、「お前の会社の3分の1の価格で作っている」と脅してきた。
しかし、俺は冷静に言い放った。「了解です。では取引は中止ということで」
部長は予想外の答えに驚く。「自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「ですから、それで構いませんと言ってます」
「そうかよ。上等だ。お前の会社の悪評を業界中に広めてやる」
そこまで言われて、俺の中で何かが決まった。俺は鞄から中村に見せようと思っていた業界誌を取り出し、部長に突きつけた。
「そうかよ。では昨日俺に土下座してた社長に250億の独占契約は破棄と伝えとけ」
部長は言葉を失う。俺は続けた。「俺と同期が開発した次世代型バッテリーについての記事だ。特許取得済みの優れものだぞ。お前のところの社長は、このバッテリーの独占契約をしたいと昨日わざわざ俺を訪ねてきたんだよ」
昨日、俺を訪ねてきたのは村瀬部長の会社の社長、麻野だった。突然の訪問に驚いたが、社長は俺に土下座までして「250億出します。どうか我が社と独占契約をして欲しいのです」と懇願してきたのだ。
中村が最もこだわったのは安全性。その価値を麻野社長はきちんと見抜いていた。だが、懸念点が一つあった。村瀬部長の存在だ。この人がいる会社に大切なバッテリーを渡していいものか。
そんな迷いを吹き飛ばすように、村瀬部長はこんな恫喝をしてきた。「これで心が決まったよ。特許バッテリーは他の会社と契約するから」
俺は自社に戻りながら、麻野社長に電話をかけた。「村瀬部長に脅されたので、特許バッテリーの契約は破棄とさせていただきます」
1時間後、会社に戻った俺のところへ、麻野社長と顔面蒼白の村瀬部長が訪ねてきた。麻野社長は床に額を擦りつけて謝罪する。「本当に申し訳ございませんでした。おい、お前も謝れ」
村瀬部長は悔しそうに唇を噛みしめながら頭を下げた。俺は2年前のことも含めて、部長の所業を全て麻野社長に明かした。
「もういい。お前は首だ」
麻野社長の言葉に、村瀬部長は初めて俺に謝罪の言葉を向けた。「すまなかった。この通りだ。反省している」
「うわべだけの薄い謝罪の言葉は結構です」
俺は麻野社長に条件を提示した。「であれば、私個人の意見ですが、上層部にそのように進言した上で、特許バッテリーの件の破棄は撤回する方向で動きたいと思います。今後、契約について詳しく話を進めていきましょう」
250億という価格はこれ以上ない好条件だ。村瀬部長がいなくなるのであれば、麻野社長と契約したい。
村瀬部長は絶望の表情を見せ、力なくその場に膝をついた。村瀬部長は解雇となり、転職もうまくいかず、バイトを掛け持ちして生活しているらしい。
そして、中村と作ったバッテリーは麻野社長の会社と契約することになった。後日、お見舞いに行って契約金額を伝えると、中村は病院のベッドから転がり落ちそうになった。
「びっくりしすぎて元気になるところだったぜ」
「是非そうなってほしいな」
病室に明るい笑い声が響く。中村の病状は日に日に良くなっていた。この調子なら退院も間近だろう。
俺が5年間格安で提供してきた特許反動体の契約更新に訪れると、大手家電メーカーの新部長は俺の説明を遮り、「弱小企業は消えろ」と一方的に契約終了を告げてきた。
俺は稲村、45歳。家電用反動体を製造する工場を経営しながら技術開発も手掛けている。10年かけて開発した特許取得済みの反動体が俺の工場の生命線だ。この特許反動体は従来品の3倍の精度で温度の変化を検知し、サイズは半分以下。冷蔵庫やエアコンなどあらゆる家電製品に組み込まれている。
主要取引先として5年間、大手家電メーカーと取引してきた。きっかけは、特許取得時に石井調達部長が声をかけてくれたことだった。石井は技術者で俺の技術を深く理解してくれていた。俺は石井の姿勢に応えたくて、格安の特許使用料で供給を続けてきた。
しかし3ヶ月前、石井から電話があった。「先月の株主総会で大変なことがあったんです。大株主から安定配当と収益体制への転換を強く要求され、役員は徹底的なコスト削減方針に舵を切りました。それに伴い、私は技術開発部に移動になりました。後任は高山というもので、コスト削減の実績はありますが、技術に関しては詳しいとは言えません」
石井の不安はそのまま俺の不安でもあった。
1ヶ月後、新担当の高山部長が俺の工場を視察に来た。黒塗りの高級車から降りてきたのは、高級スーツに身を包んだ40代後半の男だった。俺が挨拶を始める前に、高山は工場の外観を眺めて鼻で笑った。
「随分古くてボロい建物だな。まあこんなもんか」
舌がはっきりと聞こえる。王兵で人を見下す態度に、俺は呆れてしまう。高山は目も合わせずに「来月に契約更新の相談があるんで、その時に」とだけ言って、2分で帰ってしまった。
俺は顧問弁護士に相談した。相談前日、石井からまた電話があった。「高山が長年取引していた部品メーカーとの契約を切って、海外の格安部品に切り替えたそうです。前年比5%のコストカットを実現したと役員会で高く評価されているんです。今や我が社は技術より数字なんです。高山は引き継ぎ資料の技術的な内容が理解できなかったようです」
そして契約更新当日。俺は本社で1時間も待たされた。ようやく現れた高山は、「悪いが忙しいんだ。さっさと終わらせよう」と言う。
俺が特許反動体について説明しようとすると、高山は強引に遮った。「特許かなんか知らんが、うちは大手だからね。技術なんてものはいくらでも調達できるんだよ。問題はコストなんだよ」
「この反動体は音社の全製品ラインに組み込まれており」
「製品? そんなの他でも調達できるだろう」
「温度検知精度が従来品の3倍で、サイズは」
「精度だの何だの? そんな細かいこと知るか。問題はコストなんだよ。コスト」
高山の声が大きくなる。「大量に安く調達できるのは大手だけだ。規模の経済を知らんのか」
そして高山は腕を組んで続けた。「この前見たけど、随分小さくてボロい工場だったな。あんたの会社、年間どれくらいの規模なんだ?」
「数量で申し上げますと、年間5000万」
「たった5000万? いやはや。そんな小銭にしか稼げん弱小企業。うちはいらんから消えろ。うちは年間何千億も動かしてるんだ。オタクみたいな小規模工場との契約、今月末で終了な」
「いえ、これは生産個数の話でして」
「悪いが、これ以上弱小企業と付き合ってる暇はないんだよ。何回も言わせるな。もう契約終了だ」
高山は年間5000万個という反動体の生産数を、俺の会社が年間5000万円だと勘違いしている。技術の説明を聞こうともせず、ただコストと規模だけで判断する。技術があれば大手も中小も関係なく対等に戦えるという俺の信念を、この男は真っ向から否定している。
俺は静かに口を開いた。「分かりました。念のため、こちらにサインをいただけますか? これは特許契約終了の確認書です。本日、高山部長から契約終了の意向を受け、承諾した旨記載しております」
高山は面倒そうにサインした。俺は心の中で誓った。二度と、技術を軽んじる者とは組まないと。
工場に戻り、すぐに顧問弁護士に電話をかけた。弁護士は「先方の署名入りで契約終了の意思が明確です。こちらも正式に書面で承諾する形にしましょう」と答えた。
しばらくすると、石井から連絡があった。「高山は『あんな弱小企業、当然切った』と言いました。私があの特許反動体は代替不可能で全製品ラインに使われていると説明しても、全く聞く耳を持ちません。会社はこれから大変なことになります。全製品ラインが止まる。莫大な損失が出る。私にはそれが容易に想像できるのに、高山には何も見えていない」
俺は静かに答えた。「石井さん、あなたは十分やってくださいました。これは高山部長自身の判断の結果です」
俺は以前から何度か声をかけてくれていた国内の競合メーカーの担当者に連絡を入れた。「実は大手家電メーカーとの契約が終了する予定になりまして、新規取引先を探しております」
相手は即座に反応してきた。「本当ですか? 我が社はずっと稲村さんとの契約を切望していました。あの大手メーカーが業界トップシェアを維持できているのは、稲村さんの特許反動体があるからです。これは業界で実績のある者なら常識です」
数日後、顧問弁護士から正式な終了通知を送付したという連絡を受けた。契約は1ヶ月後に執行される。
契約終了まで2週間となった時点で、石井から緊迫した声で電話があった。「製造部門から特許反動体の在庫が枯渇しかけているとの報告が上がり、高山は国内外のメーカーに片っ端から問い合わせを始めたそうです。どのメーカーからも同じ技術水準のものは作れないと拒否されたとのことです」
そして契約終了まで1週間となった日の夕方、高山から俺の工場に直接電話がかかってきた。
「稲村さん、頼む。契約を継続してくれないか?」
「私が伺った日、高山さんは契約終了だと断言しました。確認書に署名も頂いているはずです」
「しかし、代わりの業者がどこにもいないんだ。このままでは製造ラインが止まってしまう」
「それは高山さんの判断の結果です」
「頼む。条件は見直す。2倍。いや、3倍の使用料でどうだ?」
「お断りします」
「じゃあ4倍だ。4倍なら文句ないだろ」
「金額の問題ではありません」
「5倍だ。5倍でも構わない。こっちは本気なんだ」
「高山さん、あなたは私の工場をボロいと言いました。私の説明を聞こうともしませんでした。そして『弱小企業は消えろ』と言いました。私は技術を評価していただけない企業とは取引いたしません」
「待ってくれ。あんたのような弱小企業が、うちを敵に回して業界でやっていけると思ってるのか?」
「脅しですか? それならなおさらお付き合いする理由はありませんね」
俺は静かに電話を切った。
2日後、大手メーカーの専務、北野が突然工場を訪ねてきた。北野は深々と頭を下げた。
「稲村さんの特許反動体に変わる部品を製造できるメーカーは見つからず、1週間後には製品ラインが止まる見込みです。この度は弊社の不手際を心よりお詫び申し上げます。なんとか契約を継続していただけないでしょうか?」
俺は北野を見据えて言った。「北野専務、金額の問題ではありません」
そして、隣で俯いている高山に視線を向けた。「高山さん、覚えていますか? あなたが初めて私の工場を視察に来られた時、工場の外観を眺めただけで2分で帰られました。私は会議室で1時間も待たされました。技術の説明をしようとしても、何度も遮られました。そして『たった5000万。そんな小銭にしか稼げん弱小企業は消えろ』と言われました。私はその場で決めたんです。あなたのような方と取引するのはやめようと」
北野が言った。「それは高山の完全な落度です。弁解の余地もございません」
俺は続ける。「北野専務、これは高山さん個人の問題だけではありません。音社は株主からの要求に応じて、技術より数字を優先する経営に舵を切られた。技術を理解していた石井さんを移動させ、財務畑の高山さんを調達部長に据えられた。これは音社の経営判断です」
「しかし、コストカットは経営に必要でしょう」
俺は立ち上がっていた。「技術の価値を理解しないコストカットが、今回の事態を産んだのではないでしょうか」
北野は深く頭を下げたまま言った。「おっしゃる通りです。全て我々の責任です」
「私は技術を評価していただけない企業とは取引しません。すでに新しい取引先が決まっています。高山さんに言っておきます。技術があれば、大手も中小もない。これが私の信念です。あなたは私の信念を踏みにじった。それは私があの反動体の開発に費やした10年を否定することでもある。それを理解できない者に、私の技術を使う資格はない。どうかお二人ともお引き取りください」
黒塗りの高級車がゆっくりと発進していく。5年間の取引が今日で完全に終わる。それでも俺は後悔していない。むしろ信念を貫き通すことができた自分に、清々しさを感じるのだった。
あれから1ヶ月後、石井から連絡があった。大手メーカーは生産ラインが止まり、未だ再開の目途は立たず、損害は膨らむ一方だという。取締役会は高山を即座に解任した。その後、高山は会社を去った。同時にコストカットを推進してきた役員も更迭された。
一方、俺は大手メーカーとの契約が終了した直後、競合メーカーと新規契約を締結した。特許使用料は相場の3倍。次世代技術の共同開発も始まる。
「ぼったくりもいいとこだ」
俺が特注機械の修理に向かった取引先で、担当者の課長が言い放った。
俺は伊藤、38歳。産業機械メーカーの技術部サポート課で働いている。先日、食品加工会社から特注機械の修理依頼が来た。連絡をくれたのは製造部の課長、小宮だ。彼は技術や品質よりも価格を重視する傾向がある。
俺が取引先に到着すると、挨拶もそこそこに小宮がせっついてくる。「来たか。早速頼むよ。今週中になんとかできるよな」
点検を始めると、すぐに故障の原因がわかった。制御基盤の一部が焼損していた。だが、この特注機械はきちんと扱っていれば10年は基盤交換せずに済む設計のはずだ。ログを確認すると、かなりの稼働時間を記録していた。ひどい時は24時間稼働を3ヶ月にわたって頻繁に行っていた時期もあるようだ。
「小宮課長、点検が終了しました。制御基盤が焼けてしまっているので交換が必要です。他にも熱の影響でダメになっている部分がありました。部品を取り寄せないといけないものもありますし、今すぐにというのは不可能です」
俺の言葉に、小宮は一瞬にして顔を赤くした。「ふざけんな。何のために呼んだと思ってる? 高い金を払って買ったんだ。なんとかしてもらわないと困るよ」
俺は丁寧に説明した。「この特注機械は適切な扱い方をしていれば10年は問題なく稼働する設計です。ログを見ると連続稼働が続いています。これは設計想定を超えています。それから、冷却ファンの清掃はされていましたか? 長らく清掃されていないように見えましたが」
小宮は視線をそらした。彼は以前、メンテナンス契約を費用を惜しんで断り、自社でやると言った経緯がある。今回は完全に自己責任だ。
俺はタブレットに修理費用の金額を表示した。180万円。小宮は声を張り上げた。「基盤1枚でそんなにするわけない」
「基盤1枚の値段ではなく総額です。この基盤は特注ですし、他の調整作業にも高度な技術が必要です」
「ぼったくりもいいとこだ。せめて半額だ。90万なら承諾してやる」
「申し上げにくいですが、これは防げた故障ですよ。音社の扱い方に問題があった以上、修理費にサービス適用ができないんです。契約書の保証規定をご確認ください。推奨稼働時間を超える仕様、それから定期メンテナンス。これらは保証の対象外になります」
小宮は俯いて肩を震わせていたが、突然顔を上げ、真っ赤になった目で俺に指を突きつけた。「いいから言われた通り、修理代を半額にしろ。無理なら、うちで内製化する」
内製化? 自分のところで修理ができないから俺を呼んだのに。俺にとってそんなものは脅しでも何でもない。
「承知いたしました。では、どうぞご自由に」
俺が淡々と告げると、小宮は一瞬たじろいだようだ。だがプライドがあるのか、「ふん。2度と来るな。大切な顧客を失って後悔すればいい」と吐き捨てた。
俺はすぐに部長へ報告し、話は社長にまで伝わった。社長は職人上がりの人で、技術を馬鹿にされるのが何より嫌いだ。「伊藤君の提出してくれたデータや画像を見るに、先方の扱いに問題があったのは明白だろうな。内製化するというなら、してみればいいんです。馬鹿にしてますよ」
2日後、俺の私用のスマホに見知らぬ番号から電話がかかってきた。相手は小宮だった。会社の番号だと俺がブロックしていることを見越して、私用の方にかけてきたのだ。
「あの、先日は申し訳ございませんでした。私も感情的になっていたと申しますか。ですから、どうかもう一度話を聞いて欲しくて」
「音社で内製化するとおっしゃっていたのに」
小宮は言葉を詰まらせた後、言いづらそうに答えた。「実は、うちの設備保全の技術者たちが揃って無理だと言いまして。他の業者さんにも当たってみたんですが、特注機械だからメーカーじゃないと無理だと言われてしまって。本当に困っているんです。修理代はもちろん全額を支払いしますし、土下座でも何でもしますから」
どうやら、小宮の上司の山口部長にも事の経緯が全てバレて、大目玉を食らったらしい。小宮は山口部長の指示で無理な稼働スケジュールを組んでいたことや、修理代を安くしろと圧力をかけられていたことも弁解してきた。
「私に決定権はございません。それに小宮課長、あなたは『今後一切うちの会社は使わん』と言いました。お忘れですか?」
俺は短くそう答えて電話を切った。部長と社長に報告すると、社長が「謝罪の場に自分も出るから、当事者である君にも同席して欲しい」と言ってくれた。
次の日、俺が社長室に入ると、小宮ともう一人の人物が床に膝をついて土下座の姿勢でいた。もう一人は山口部長だろう。
「製造部部長の山口でございます。小宮課長の所業、心からお詫び申し上げます」
社長が山口に尋ねた。「うちが納品した特注機械を内製化するとおっしゃったのは事実ですか?」
小宮は「間違いございません。浅墓だったと反省しております」と言った。山口も続ける。「特注機械の調子が悪いとは聞いていたのですが、担当の小宮が大丈夫だというのを信用してしまい、まさか担当の伊藤さんに暴言を働いた上、内製化なんて大言を口にしているとは」
山口は、自分は何も知らず小宮が1人で暴走した結果だと言わんばかりだ。だが、社長は鋭く突いた。「山口部長、あなたは部長という立場でありながら、部下の小宮課長がどのような対応をしていたのか、全く何も把握していなかったのですか?」
すると、黙って頭を下げていた小宮が声を張り上げた。「そうですよ。私に全部丸投げして、自分はサボってばかりだったじゃありませんか。特注機械の稼働スケジュールだって、そもそも山口部長が無理を言うから」
小宮によると、山口は形だけは立派な部長だが、その実はいい加減な人間で、現場のことは小宮に任せきり。今回の故障に関しても「とにかく安くなるようにしろ」と圧力をかけていたという。
俺は指摘した。「だからと言って、自分の言動が許されるとでも言いたいのでしょうか? 結局、内製化すると言い出したのは小宮課長、あなたです」
その場は一旦収束したが、後日、取引先の社長が改めて謝罪にやってきた。話を聞くと、小宮と山口には経費の不正請求や取引先への横領疑惑もあったらしく、今回の件で調査が入り、それが全て明るみに出た結果、2人は解雇になったという。
今後は修理やメンテナンスの一切は受けないが、基盤などうちでなければ対応できない部分のみ、依頼があれば対応するという方針になった。機械に罪はない。職人肌のうちの社長らしい考え方だ。
同級生の紹介だからと取引を始めたが、どうやら足元を見られてたみたいですね。
取引先の課長は俺に向かって「根も歯もない言いがかり」をつけてきた。
俺の名前は井上、50歳で工場を経営している。精密加工や特殊な材質の加工を専門としていて、他者が断るような製品を製造できる。元々は職人として働いていて、前社長に徹底的に技術を叩き込まれた。
うちの従業員で10歳年下の小野という男がいる。俺が初めて育成を担当した男で、今は俺の右腕と言えるほど信頼している。
小野が高校の同窓会に行った後、「同級生から相談されまして」と話してきた。VRゴーグルを売り出しているメーカーに務める同級生が、部品の精度がいまいちなので取引先を探していると言うのだ。俺は一度話がしたいと伝えた。
同級生の佐々木という男がやってきた。佐々木は課長だ。うちの工場を見回して顔をしかめた。まあ、うちの工場は古いからな。
佐々木が必要だというのは、VRゴーグル内部のレンズやディスプレイの位置を調整するための特殊ネジだった。光軸を調整する部品で、このネジの精度が悪いと映像が二重に見えたり、ぼやけたりする。最重要部品と言っても過言ではない。
俺は具体的な製造スケジュールと取引金額を伝えた。普段同様の部品を取引するより金額を下げていた。だが、佐々木は「この金額、もう少し下がりませんかね」と言う。
「うちも慈善事業じゃないんで、クオリティを保ち、相当の利益を得るためにはこれがギリギリです。これ以上金額を下げることはできません。ご納得いただけないのであれば、他を当たってもらうしか」
佐々木は一旦持ち帰ると言って帰っていった。数日後、俺が提示した金額での取引に合意し、製造を開始した。
うちがネジを製造してからのVRゴーグルの評判は良く、映像のずれがなくなったという声が増えた。だが、1ヶ月もすると佐々木の態度が変わってきた。
「できればもう少し納期を早めて欲しいのですが」、「入金を3日待ってもらえませんか」。どんどん要望が増えていった。そして「やっぱりもう少し金額を下げてもらえませんか」と言い出した。
「それは無理だと最初にお伝えしていますよね」
小野に聞くと、佐々木は上司から金額の交渉をしろと言われているらしい。そして1ヶ月後、佐々木が突然工場にやってきた。
「社長、どういうことですか? 色々な工場に交渉に行ったが、こんな金額を提示してきたのはここの工場だけだ。それにオタクはぼったくりって聞いたぞ」
小野が「おい、ぼったくりって何だよ」と反射的に大きな声を出したので、俺はそれを止めた。佐々木は「どこに行っても、そんな金額はぼったくりだって言われた」と言い張る。
俺は冷静に確認した。「本当にいいんですね」
「オタクと契約していると、このままぼったくられるんでしょ。うちはこれから年末を控えてるんで、ここが勝負なんですよ」
「わかりました。では契約破棄で」
佐々木が工場を後にすると、小野が「社長、いいんですか」と言う。
「ぼったくりとまで言われているんだ。うちの技術力を馬鹿にするやつと取引する理由なんてない。小野の顔を潰してしまってすまないな」
「いえ、俺の方こそ、とんでもない案件を持ってきて申し訳ありませんでした」
「そんなことないよ。こうやって取引先が増えていかなければ、いいビジネスパートナーも増えないからな。だが、この特殊ネジ、せっかく作ったのにこのまま製造をやめてしまうのはもったいないな」
すると小野が「同じような業界なら需要があるんじゃないでしょうか。俺ちょっと調べてみます」と言った。小野は情報収集が得意で、これまでもそこから売り込みに行き契約になったケースがある。
そして1ヶ月後、佐々木がアポなしでやってきた。以前よりげっそりしていて、脂汗で駆け込んできた。
「井上社長、助けてください」
「他の工場で作られたネジではダメでしたか?」
「はい。どのネジで試作品を作っても、映像の調整ができません。髪の毛の太さの1/4以下の精度の微調整に耐えられず、少し力を加えるだけでネジ山が潰れてしまったり、調整後に微妙にずれて戻ってしまったり。結局1つも完成していないんです。これでは年末商戦にも間に合いません」
小野が横から「でもうちはぼったくりって言われるしな」と言うと、佐々木は首を大きく横に振った。「ぼったくりといった価格が、この精度を保つための適正価格だと身に染みて分かりました。どうか、どうか今一度取引を」
俺はため息をついて断った。「とはいえ、うちも時間的余裕があるわけじゃないんで、オタクに納品する部品を作ることはできません」
佐々木は青ざめた顔で訴える。「そこをなんとか。オタクだって、せっかく製造した特殊ネジを持て余すだけでしょ」
すると小野が「いや、あのネジは全て納品済みです。今でも製造してるよ」と言った。俺も続ける。「他の会社が適正価格で取引したいと言ってくれたので、これ以上製造する余裕もないですし、オタクへの納品は無理ですね」
佐々木は真っ青な顔で訴えた。「うちは最新のVRゲームをプレイするための高性能VRヘッドセットを年末に売り出すんです。莫大な投資をしたのに、VRヘッドセットが作れなければ全面。競合他社に先を越されるし、キャンセルによる巨額の違約金と会社の信用を失うことになります。助けてください」
「無理なものは無理です。それはオタクの都合でしょ。『信用も技術もない』とまで言われて、頭を下げられたからって、はい、そうですかと取引はできません。あなたが契約を申し出た時に、私は念を押しました。あなたは頷いたじゃないですか。うちはこの技術力を理解してくれる会社と取引がしたい。技術も分からないやつに『ぼったくり』なんて言う資格ないだろう。自分の知識のなさを後悔しろよ」
絶望した顔をしている佐々木をそのまま追い出した。
うちの特殊ネジは、小野が見つけてきたIT企業と取引が始まっている。公開前だが、高精度なビジネス用途のAR、VRゴーグルを開発していて、ちょうど光軸の調整でつまづいていたという企業だ。うちの特殊ネジがあれば、この年末に間に合うという。そこからは急ピッチで製造納品をし、今まさにそのAR、VRゴーグルが話題になっている。
そのIT企業はうちの特殊ネジを絶賛していて、社長のインタビューが載った雑誌ではうちの名前も出してくれている。そのおかげで他の問い合わせも増え、うちの工場はフル稼働だ。
一方、佐々木はと言うと、代わりの工場が見つからず降格になったそうだ。ボーナスもカットだと嘆いていたと小野が同級生から聞いたらしい。このまま発売ができなければ、責任を取って退職もありうると青い顔をしていたという。
それからさらに3ヶ月後、佐々木の会社のVRヘッドセットは、年末には間に合わなかったが、なんとか春先に市場に出して発売となった。だが大失敗だった。目が疲れる、頭痛がすると評判は悪く、当然売上も伸びなかった。海外の工場で作ってもらったネジがかなりの粗悪品だったようだ。SNSでも「ゴミ商品」などと散々叩かれていた。
小野が「地元のスーパーでアルバイトとして働く佐々木を見たらしい」と言った。おそらく本当に首になったか、いづらくなって退職したのだと思う。実家に戻るも、実家から恥ずかしいと追い出され、アルバイトをしながらボロアパートで生活しているらしい。
うちの工場はあれから新人社員を3人雇った。取引先も増え、従業員へのボーナスも出た。これからも従業員や取引先との信頼関係を築き、うちの技術力を生かせる仕事をしていきたいと思っている。
「無能じじいは会社のお荷物。意味わかる?」
会社から8年ぶりに本社に戻った俺に、社長の甥でもある部長は容赦なく侮辱の言葉を浴びせてくる。
俺は牧原、45歳。8年ぶりに精密機械メーカーの本社に戻ってきた。本社で俺に与えられた任務は内部監査。この任務は他の社員には極秘で進められるため、俺は子会社から出向した臨時社員として製造部に配属されることになった。
8年前、当時の上司との意見対立から子会社への出向を命じられた。製造現場の安全基準について厳格すぎると上司から批判され、左遷という形で本社を去ることになったのだ。しかし、子会社で学んだ現場の知識と管理のノウハウは、今回の任務でも役に立つはずだ。
製造部のオフィスに入ると、白井という若い女性社員に案内された。白井は俺を見るなり露骨に嫌そうな表情を見せた。
「金村部長、臨時社員の牧原さんです」
白井はまるで荷物でも運んできたかのような表情で俺を部長に紹介した。金村は38歳で俺より7歳年下。社長の甥という立場にあるためか、平然とした態度で俺に言った。
「途中入社の年寄りか。挨拶はいいから、さっさと目の前から消えてくれ。とりあえず適当な作業でもやっててよ」
白井も金村の態度に同調するように俺を見下すような目で見てくる。「部長、こういう人って使え物にならないんですよね。前にいた臨時の人も全然ダメでしたし」
「臨時社員なんて、所詮は戦力外通告を受けた連中だからな」
昼休み、食堂で1人で昼食を取っていると、金村と白井がやってきて俺の前に座った。「あんた前は何してたの? どうせ大した仕事してなかったんじゃないの?」
「品質管理の仕事をしていました」
「品質管理って、要するに検査員ってことね。単純作業じゃん。どうせ大した経験もないんでしょう」
「そんな人がうちの部署で何ができるんですか? 正直お荷物にしかならないと思うんですけど」
金村は得意げな表情を浮かべて俺に言い放った。「無能じじいは会社のお荷物。意味わかる?」
俺は内心で怒りが湧き上がるのを感じたが、深呼吸して平静を保った。「よくわかりました」
翌日から俺は、表向きは雑用をこなしながら密かに製造部の実態調査を始めた。子会社で8年間培った現場経験がここで大いに役立つ。製造ラインを観察すると、すぐに異常に気づく。安全基準を無視した作業手順、品質チェックの手抜き。さらに手書きの検査データには、修正テープで上書きされた痕跡があり、明らかに改ざんされている。しかも修正テープが雑に貼られているため、元の数値がテープの端から見えてしまっている。
俺はこっそりとスマートフォンのカメラで不正な作業の様子を撮影し、改ざんされた検査表のコピーを密かに取った。
昼休み中、製造部の課長である田辺が申し訳なさそうな表情で俺に声をかけてきた。「牧原さん、昨日の食堂での件や部内での金村部長の態度を見ていました。あまり気にしないでくださいね。あの人はああいう性格なんです」
「でも、この部署の状況、本当に大丈夫なんですか?」
田辺の表情が曇る。「実は、金村部長になってから品質管理がおろそかになっているんです。部長に意見しても『売上が最優先だ』と一蹴されてしまって。それに金村部長は社長の甥です。下手に意義を唱えたら、逆に左遷されかねない」
田辺から情報を得て、金村が売上を優先して品質管理を軽視していることが明らかになった。さらに、取引先への不正請求も行っているという疑いも浮上する。
その日の夕方、俺は金村の机の周辺を清掃するふりをして重要な書類を発見した。取引先への請求書だった。過去の請求書ファイルと比較すると、同じ製品の3ヶ月前の請求単価と比較して30%も高く設定されている。この取引先は大手企業で支払い部門と製造部門が分かれているため、価格変動には気づきにくい。金村はその盲点をついて水増し請求を繰り返し、差額を着服しているのだろう。
俺はこっそりとその請求書を撮影し、過去の請求書との比較資料も作成した。夜、自宅で取締役の山口に内密に電話をかける。山口は俺の正体を知る数少ない人物の1人だ。
「牧原君、さすがの仕事ぶりだ。近日中に製造部で緊急会議を開く必要がある。君には内部監査報告をしてもらう。金村には事前に何も伝えずに会議を設定する」
山口が俺を子会社から本社の内部監査に抜擢してくれたのは、子会社での俺の実績、特に品質管理体制の改善と不正防止の取り組みを高く評価してくれたからだった。8年前、俺が本社で安全基準について厳しく指摘していた時、周囲から理解されず左遷されたが、山口だけは俺の判断が正しかったことを覚えていてくれた。
翌日から俺はさらに徹底的な証拠収集を開始した。金村と白井は俺を完全に見下しているため、俺の前で堂々と不正行為を行っている。
昼過ぎ、金村が外出から戻ってきた際に机の上に新たな書類を置いているのを目撃した。それは取引先との新しい契約書だったが、よく見ると納期の部分が書き換えられており、「早期納品手数料」という名目で追加料金が設定されていた。この手数料は通常の契約には存在しない項目で、明らかに水増し請求の一環だ。俺はその書類を撮影した。
さらに白井が品質検査の記録を処理している際、俺は清掃作業を装って近くで作業していた。白井は現場の作業員から受け取った検査表に、慣れた様子で修正テープを貼って改ざんしたのだ。不良品を示す数値が修正テープで隠され、その上から合格ラインの数値が記入されていた。俺は改ざんされた検査表を撮影した。
夕方、田辺課長が俺のところにやってきた。「牧原さん、金村部長のこと、私ももう少し強く言えればいいのですが」
「田辺さん、きっと状況は変わりますから」
その夜、俺は山口取締役と再び電話で連絡を取った。「金村の不正は想像以上に悪質です。請求書の改ざん、品質データの偽装、安全基準の意図的無視など、枚挙に暇がありません」
「ひどい状況だな。会社の存続に関わる大問題だ。明日、緊急役員会議を開く」
翌日、金村の嫌がらせはさらにエスカレートした。「牧原、お前みたいな無能が俺様の会社にいること自体が迷惑なんだよ。分かってるのか? お前の顔を見ていると、本当に腹が立つ」
「本当にそうですよね。牧原さんって存在価値がないですよね」
しかし、数々の証拠を掴んでいる俺はどこ吹く風だ。午後、俺は製造部での最後の証拠収集を行う。安全基準を無視した危険な作業を指示している金村の音声を録音し、それに従って現場の様子も撮影した。もし事故が発生すれば、会社は重大な責任を問われることになる。
その時、金村が俺に気づいて近づいてきた。「おい、牧原、お前何をこそこそやってるんだ?」
「清掃作業です。部長のご指示通り、隅々まで綺麗にしています」
金村はしばらく俺を睨んでいたが、やがて立ち去っていった。
金村に「無能じじい」と侮辱されてから3日後、山口取締役から緊急会議を開くと連絡が入った。招集がかかった金村と白井は不思議な顔を浮かべて会議室に向かった。そこで隣の部屋で控えていた俺が分厚い資料を持って会議室に入っていく。
「牧原、なんで臨時社員のお前がここにいるんだ? 会議に関係ないだろ」
しかし、山口取締役が重々しい口調で口を開いた。「金村部長、紹介しよう。こちらは牧原内部監査官だ。今回の部署の調査を行ってもらった」
金村と白井の顔が一瞬にして青ざめる。俺は冷静に挨拶した。「お二人には臨時社員として大変お世話になりました。特に金村部長には『無能じじいは会社のお荷物』と評価していただきましたね」
俺は用意した資料を机の上に広げ、プロジェクターで証拠資料を映し出した。「調査結果を報告いたします。まず請求書の水増しについてです。同じ製品でありながら単価が30%も引き上げられています。同業他社の価格は横ばいです。これは明らかに不当な水増し請求です」
「次に、取引先との不正契約についても確認しました。『早期納品手数料』と記載された契約書です。通常の契約には存在しない架空の手数料を設定し、水増し請求を行っていました」
「そして、改ざんされた検査表です。本来であれば不合格となる数値が修正テープで隠され、その上から合格ラインの数値が記入されています。これにより不良品が市場に出荷される危険性が生じていました。会社の信用に関わる重大な問題です」
山口取締役は厳しい声で金村に言った。「金村部長、これらの不正行為についてどう説明するのか」
金村は必死に弁解しようとする。「これは、売上を上げるためで、会社のためを思って。それに私は社長の甥なんです。叔父に相談してからじゃないと」
「社長にはこの会議の前に君の所業は報告済みだ。社長も『身内だからこそ厳しく処分する』とおっしゃっている」
山口取締役は最終宣告を行った。「金村、白井両名とも、本日より職務を停止する。また、会社に与えた損害については賠償してもらうことも検討する」
金村は最後の悪あがきを見せた。「こんなの罠だ。俺を陥れるための罠だろ。内部監査なんて卑怯な手を使いやがって」
俺は冷静に答えた。「金村さん、あなたは私に『無能じじいは会社のお荷物。意味わかる?』と聞かれましたね。私も同じことを言えます。不正行為の代償。意味わかりますか?」
金村は言葉を失い、白井は机に突っ伏して泣き始めた。
その後、今回の調査が高く評価され、俺は正式に内部監査部門の責任者への昇進を命じられた。製造部では田辺が部長に昇進し、健全な職場環境が戻りつつある。
一方、金村と白井のその後は悲惨だった。2人は懲戒解雇により退職金は0。さらに会社から数千万円の損害賠償請求を受けている。金村は社長の甥という立場も失い、親族からも見放された状態だ。転職活動は続けてはいるものの、不正行為による解雇歴が障害となり、なかなか次の職場が見つからないと聞いている。白井も金村に従った結果、同じような無残な結末を迎えた。
俺の新しい使命は、会社全体の健全化だ。他の部署にも同様の問題が潜んでいないか、徹底的な調査を行う予定だ。
「ああ、お前戻ってきたんだ」
長期出張から戻った俺に、そんな言葉を投げかけたのは同僚だ。以前から腹の立つやつだったが、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった。
俺は高橋、40歳の会社員だ。エンジニアをしていて、今は長期出張中。取引先のとある会社でネットショップに関するシステムを任され、もうすぐ約束の2年が経とうとしている。
うちの会社には、年功序列の古い考えを持つ人と、年齢ではなく実力で勝負したい人がいる。俺はどちらかと言うと後者の実力で勝負したいタイプだ。しかし、同僚の中には木下という社内政治のうまいやつがいる。木下は目上の人の懐に入るのが本当にうまい。木下の父親は地方議員で、うちの会社も仕事をもらっているので、上層部は木下を可愛がっている。
2年前、俺か木下どちらかが昇進するかもしれないという噂が立った。それを知った木下は俺の仕事を妨害し、俺は大きなビジネスチャンスを逃したことがある。それがきっかけで、俺は長期出張を上司に打診された。同期の佐藤は「行く必要はない」と引き止めてくれたが、社内にいるより気が楽かもしれないと思い、俺は長期出張に行くことにした。
出張先はネットショップを運営する会社で、俺はその在庫管理に関するシステムを担当している。社長の田中さんは60代で、完全に実力主義の会社だ。若い人が役職者ということもざらにある。短時間勤務なども積極的に採用していて、成果に応じてボーナスも出るらしい。
2年間でこの会社は成長を遂げた。田中さんも「高橋君のおかげで在庫管理もしやすくなったし、効率が上がったよ」と言ってくれている。俺は田中さんに新しいシステムを提案し、田中さんは「長期出張を終えたら、そのシステムを正式に取引させてもらいたい」と言ってくれた。システム化したら20億の価値があると言い、さらに「契約書には高橋君個人を担当者として指定させてもらう。それが条件だ」と。つまり、俺が担当から外れたら契約は向こうになる専属契約だ。
2年の長期出張を終え、会社に足を踏み入れると、木下がにやりと笑って言った。「お前、俺の部下だからな。2年もいなかったんだから、少しは役に立てよ。と言っても、2年間何の実績も出さずに戻ってきたお前にできる仕事なんてないか。とりあえずお前は今日から俺の雑用係な」
「雑用係って……」
俺が口にすると、木下はわざとらしく大きな声で言った。「上司に向かって口ごえか。お前は俺の部下なんだぞ。雑用係が嫌ならやめれば」
「俺は2年間、あの会社でシステムを維持し改良してきました。現場に入り込んだからこそ分かったことがあるので、それをもとに新しいシステムを開発すればもっと効率が上がります」
すると木下は言った。「ああ、そこからの社長から連絡が来てたな。お前との専属契約をしたいとか言ってたから、断っておいたぞ。何でも20億の価値があるとかなんとか。そんな大きな仕事なら、うちのエースにやらせるよ」
木下が指さした先には、見知らぬ男がいた。「あいつ神山。今年入社した社長の息子だよ。有名大学を出ていて、去年まで海外留学してたんだって。今は俺の部下だけど、時期社長だ」
神山は俺を見るなり「こちらが昇進できずに出張させられたという人ですか?」と見下してくる。俺が睨むと、木下は「おいおい、自分より優秀な人物が出てきたからって睨むなよ」と笑う。神山も「僕は海外留学もしていましたし、有名大学も出ています。あなたとは頭の構造が違うんですよ」と馬鹿にする口調で言ってきた。
「あの会社のシステムは、私が2年間現場に入ったことを元に開発していくものです。現場に行ったこともない人間が担当するのは無理ですよ」
「お前は神山君がどれだけ優秀か分かってない。それに自分のポジションを取られそうだからって、そんなこと言ってるだけだろ。とりあえずこれのコピーでもしといて」
木下は大量の書類を出してくる。俺はそれを受け取らず、木下を睨んだ。木下は「嫌ならやめろって」もう一度言ってくる。
その瞬間、田中さんの会社の雰囲気とは真逆であるこの会社に愛想がつきた。
「じゃあ、退職します」
木下と神山が馬鹿にしたように笑う。
「私が20億の契約を取りましたが、担当者指定の専属契約なので、私が退職すれば破棄ですね」
俺は丁寧な口調で、契約が破棄になることを強調してやった。しかし木下は「そんなのは何とでもなる。お前より優秀な人材が担当すればいいだけのことだからな。やめるならさっさと退職届を出せよ」と突き放した。
俺はその場で退職届を書き、木下に突きつけた。「2週間後に退職します。有給が残っているので、今日から消化させてもらいます」
「もう来なくていいよ。お前の顔なんて見たくもない」
外に出てすぐ、俺は田中さんに報告した。「退職します」
「え? 退職?」
「自分より優秀な人材が担当するらしいです」
田中さんは言った。「いや、他の人には無理でしょう。私は高橋君だから契約したかったんだよ。ただ会社間の付き合いもあるし、向こうの上層部から頼まれたら断れない。だから、違約金条項を突きつけることで渋々承諾したんだ。もし納品されたシステムがこちらの要求を満たさなければ、契約金の30%つまり6億円を違約金として支払ってもらう契約だ。本当に優秀な担当者ならやってみる価値はあるかもしれない。でも、高橋君が抜けた時点で私は期待していないよ」
そう言うと田中さんは続けた。「それで、これからどうするつもりか」
「起業することにします。田中さんの会社のように、それぞれの特性に合わせたシステム開発をする会社を立ち上げます」
「田中さんが最初の顧客になると約束してくれた。今回の契約が終わったら、次は必ず高橋君の会社に頼むよ」
こうして会社を立ち上げてから半年。最初こそ大変だったが、少しずつ安定していった。
そして今日、田中さんから呼び出された。神山が開発したシステムをテストする日だそうで、俺は外部の相談役として田中さんの会社に向かった。木下と神山がやってくる。木下は「私の優秀な部下が完璧なシステムを開発しました」と自信満々に言った。
だが、神山のシステムは確かにそれなりに優秀ではあるが、田中さんが求めているものではない。
「このシステムは確かに在庫管理に関しては優秀です。ただ、この倉庫の構造を全く考えていない。それに配送ルートも考慮されていませんね。これでは無駄が省けません。田中社長が求めているものではないと思いますが」
「お前は自分の仕事を取られたからって文句を言いたいだけだろ」
「これはあくまで客観的な意見です。私の個人的な意見としては、現場に入ったこともない人間が乏しい想像力で作っただけのシステムじゃ意味がないといったところでしょうか」
神山は「俺の想像力が乏しいだって」と俺を睨みつけた。俺は続けた。「あなたたちは一度でもこの現場に足を運び、ここで働く人たちから話を聞きましたか? どれだけ優秀でも、相手が求めているものが作れなければその知識は無駄です。現場の声も聞かずにできるわけがない。ここではこのシステムは使えませんね」
すると田中さんも「そうですね。私はどういったものが必要か、かなり詳しくお話ししたつもりです。こちらの要望に添えない場合は、契約金の30%つまり6億円の違約金が発生する契約ですが」と言った。
違約金という言葉を聞いて、木下が一気に青ざめる。「田中社長、もう一度チャンスをください。1ヶ月で完璧なシステムを作らせます」
田中さんは大きなため息をつき、「では1ヶ月だけ待ちます」と言った。木下と神山は慌てて帰っていった。
1ヶ月後、約束の日に俺は再び田中さんの元を訪れたが、木下と神山は現れなかった。田中さんが木下に電話をすると、「申し訳ありません。神山が交通事故に会いまして」と言葉を濁す。
翌日、田中さんと俺は木下の会社を訪れた。社内に入った途端、受付まで「社長の息子さんと連絡つきませんか」という叫び声が響いてくる。木下の声だ。「違約金が発生する? そんなものは踏み倒せ」と社長の声も聞こえてきた。
俺と田中さんが社内に声をかけると、その場が一瞬で静まり返った。木下が田中さんの元に飛んできて、「実はシステム開発をしていた神山が昨日、病気で入院してしまったんです」と言い訳を始める。
「昨日は事故と言っていましたよね?」
「あ、はい。そうです。事故に会いまして、私も気が動転してしまい申し訳ありません」
俺は口を挟んだ。「もしかして神山さんは音信不通ですか? いわゆる逃げたというやつですかね。で、そうなると6億円の違約金が発生する。その違約金を踏み倒せと社長は言っていたようですが」
木下は「いや、それは違うんだ」と口ごもる。その間に奥にいた社長は姿を消してしまった。
同期の佐藤が俺のところにやってきた。「社長の息子はシステム開発に挫折して、仕事を放り出して、社長宅の現金やブランド品を持ち出して逃げたらしい。社長も連絡がついていないそうだ。これが今回の契約書。違約金についてもしっかり書いてある。社長は以前からそんな違約金、踏み倒せと言っていた。ここにいる社員のほとんどが聞いているはずだ」
佐藤は神山が田中さんを満足させられるようなシステム開発ができず、徐々に追い詰められ参ってしまったようだということも教えてくれた。木下が佐藤に「お前」と言いかけたが、佐藤は木下に退職届を突きつけ、「あんたたちにはついていけないよ」と言って出て行ってしまう。
呆然とする木下に、田中さんは契約書を見せて言った。「では、契約通り6億円の違約金を請求させていただきますね」
青ざめる木下に向かって、俺は笑った。「偉そうなこと言って、その結果がこれか。部下の始末もできないんだな」
翌日、田中さんから「違約金を請求した。やっぱりあのシステム開発は高橋君にお願いしたい。待っていたこの時間が本当に無駄だったよ」と言われた。俺は「任せてください」と言い、3ヶ月でシステムを仕上げて納品した。すでに設計は完成していたので、実装するだけだった。
納品後、従業員からも好評だ。それから田中さんと会社に行った時に助けてくれた同期の佐藤が、「うちで働きたい」と連絡が来た。ちょうど人手を増やそうと思っていた俺はすぐに了承した。
佐藤から聞いた話によると、神山は警察に被害届が出され、今や逃走中だという。木下は今回の件で上層部からの信頼を落とし、降格という懲戒処分になったそうだ。そんなこともあり、あの会社はまともな人からどんどん辞めていき、今はほとんど残っていないという。
俺は佐藤に力を借りながら事業を拡大。今はエンジニアの見習いを雇って現場にも連れて行き、色々教えているところだ。これからも俺はお客様の要望を聞き、しっかりとその要望に答えていきたいと思っている。



