「ねえパパ、私にもママが欲しいな」
八歳になる娘の、けのその言葉を聞いた瞬間、俺は胸が締め付けられる思いだった。
俺の名前は墓田州。三十三歳。地方の商店街で小さなお好み焼き屋を営んでいる。
妻の魔ホとは二十五歳の時に出会い、気が合った俺たちはすぐに結婚した。これまでの人生で一番幸せな日々を共に送っていた。しかし、その幸せは一瞬で消えてしまった。娘のけを出産する際、魔ホは亡くなってしまったのだ。
生まれたばかりの娘を一人で育てることになった俺は、しばらく現実を受け入れられずにいた。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。安定した仕事を探している中で、日頃から買い物で利用している商店街に空きスペースを見つけた。
とっさに「お好み焼きを売りたい」と思った。魔ホが亡くなる前、二人で食べに行ったお好み焼きの味がずっと忘れられなかったからだ。あの店の味を再現できれば、魔ホとの思い出をこれからも大事にしていける気がした。
開店当初は人が集まらず頭を悩ませた。そんな時、この商店街に長く住んでいる年配の夫婦が店を訪ねてきてくれた。二人も昔からこの町で食料雑貨店を営んでいて商売経験が豊富だった。その日から、その夫婦は頻繁に店に来てくれるようになり、旦那さんは旬の食材の使い方や接客のコツを教えてくれた。
さらに、その夫婦は魔ホのことを寂しそうに語る俺を見て、お見合いの話を持ってくることもあった。しかし、気持ちの整理がつかない俺はその話に乗り気ではなかった。それなのに、けは再婚することに前向きで、「ママが欲しい」と言うのだ。
こうして俺は年配夫婦とけに支えられながら、なんとかお好み焼き屋を営んでいた。
今日は年に一度の夏祭り。俺たちの店も屋台を出すことになっていた。祭りが始まる前に少し時間があったので、俺とけは商店街をぶらぶら歩くことにした。
すると、けがある店を指差した。
「あそこのたこ焼き屋さん、全然人いないね」
指差したのは、外観がボロボロで今にも潰れてしまいそうなたこ焼き屋だった。看板の文字もかすれて読むのがやっとで、店内には誰もいない。
「確かに人は入ってないね。それにしてもかなり古そうな店だな」
俺は今までこの店の存在にすら気づいていなかったが、けはなぜかその店が気になっているようだった。
「まだ時間あるし、たこ焼き食べてみよう」
そう言って俺の方をちらりと見た。店頭にはいくつかパックに詰められたたこ焼きが並んでいたが、できてから時間が経っているようだった。
「あんな放置されたこ焼きなんて美味しくないんじゃないか?うちのお好み焼きの方がよっぽど美味しいよ」
そう言って店を横切ろうとしたが、けは走ってその店へ向かってしまった。慌てて後を追うと、ベンチに小さな女の子が一人座っていて、店内では女性が作業をしていた。
「いらっしゃいませ」
けが店の前に行くと、ベンチに座っていた女の子が話しかけてきた。その声に反応して、店内の女性も笑顔で出てきた。
「たこ焼き一つください」
けが元気に言うと、女性は笑顔で頷き、焼きたてのたこ焼きをパックに詰めてくれた。
「はい、お待たせしました。暑いので気をつけてくださいね」
まだ熱かったので少し冷ましてからけに食べさせようと思い、俺が一口食べてみた。
驚いた。そのたこ焼きは意外にも絶品だった。
「け、これすごく美味しいよ。食べてみて」
「本当だ。めちゃくちゃ美味しい」
俺とけはその味に感動した。こんなに美味しいたこ焼きを提供しているのに、外観のせいで損をしている。そう思っていると、けが無邪気に質問した。
「どうしてこんなに美味しいのにお客さんがいないんですか?」
俺は慌てて謝った。
「け、失礼だろ。すみません」
それでも女性は笑顔のままで理由を教えてくれた。
「ここの近くに有名なたこ焼き屋さんがあって、そこはトッピングの種類も豊富だし、毎月のように新商品も出しているんです。だからお客さんはみんなそっちの店に行っちゃうんですよね」
確かに、個人で店を営んでいる身としては大手チェーンは手ごわい存在だ。けはその有名な店も気になったようで、実際に見てみたいと言い出した。
俺たちは店を後にして、近所の有名なたこ焼き屋へ向かった。その店は遠くからでも分かるほど見た目が派手で、カウンターの上には様々なトッピングが並んでいた。メニューも斬新なアイデアのものが多く、見た目にもインパクトがある。
実際にたこ焼きを一つ注文して食べてみると、これまた意外なことに、味はそれほど美味しくなかった。トッピングは豊富だが、たこ焼き自体の味がいまいちだったのだ。
「味はさっきのお店の方が全然美味しいね」
けが率直な意見を口にしたが、俺も同じ意見だった。選べる楽しさや低価格は強みでも、肝心の味の満足感は、先ほどの店の方がつば抜けて良かった。
気づけば夏祭りの開始時間が近づいていたので、俺たちは慌てて自分の店に戻った。夏祭りは賑わったまま無事に終わり、いつもの日常が戻ってきた。
しかし、それからの俺は嫌な予感を感じながらモヤモヤした日々を送っていた。理由は、この商店街から数キロ先にできる予定の大規模ショッピングモールだった。
年配の旦那さんが持っていたチラシを見せてもらうと、そこにはお好み焼き屋の大手チェーン店も入るらしい。
「これはまずいね。あの店は家族連れにも人気だし、人が流れていっちゃうかもしれないよ」
確かに、モールがオープンする前に店をもっと多くの人に知ってもらわなければ、客を取られてしまうかもしれない。とはいえ、打開策が浮かぶわけでもない。
お好み焼きを作りながら考えていると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
やって来たのは、先日訪れたボロボロのたこ焼き屋の女性と、ベンチに座っていた女の子だった。
「え、あなたは」
彼女もすぐに俺のことに気がついたようで驚いていた。その女性は「あね」と名乗った。一緒にいる女の子は、あねの娘で「エミ」と言うらしい。その日は偶然、年配夫婦も店にいて、俺たちはあねとエミを紹介した。
「あの後、実際に大手チェーンの店にも行ってみたんですけど、あねさんの店のたこ焼きの方が圧倒的に美味しかったです」
俺がそう報告すると、彼女は嬉しそうな表情を見せたが、どこか複雑そうだった。すると、あねは驚くべきことを告白した。
「私、あの店を畳もうと思っているんです」
俺が驚いて理由を尋ねると、彼女は店を始めた経緯から語ってくれた。
あねの店は元々、彼女の祖父母が営んでいたらしい。店を継いだあねは当時結婚していて、旦那と共に経営する予定だった。ところが次第に意見が食い違うようになり、最終的に離婚したという。それから一人でエミを育てながら店を続けてきたが、なかなか客足は伸びず、この夏祭りが最後のチャンスだと思っていたらしい。それでも現実は甘くなく、店を畳むことを決めたのだという。
「もう私の心は決まっているので、エミのためにも次の仕事を探さなくちゃ」
あねは悲しそうな表情でそう呟いた。
俺も同じ商売をする者として、彼女の気持ちは痛いほど分かった。すると、それまで黙って話を聞いていたけが突然口を開いた。
「私、またあねさんのたこ焼きが食べたいな」
すると、それを聞いたエミも身を乗り出して言った。
「私もママのたこ焼き食べたい」
二人の素直な言葉に、あねは目に涙を浮かべた。すると今度は、年配の旦那さんが話に入ってきた。
「それならここで働くといいよねえ。し君」
あまりにも突然の提案に、俺は言葉を失った。正直、今は常連のお客さんのおかげでなんとか黒字を保っているが、人件費を増やすほどの余裕はない。しかし、あねの作るたこ焼きの味の良さは認めているのも事実だ。彼女がうちの店で働いてくれるのなら即戦力になるとも考えた。けも気に入っている彼女のたこ焼きを、いつか復活させてあげたいとも思っていた。
俺は店の現状と自分の思いを天秤にかけて揺れ動いていたが、けと旦那さんの熱い視線に、ついつい頷いてしまった。
けと旦那さんは嬉しそうに喜び、あねも安心した表情を見せて俺に頭を下げた。
「本当にありがとうございます。私にできることは何でもしますから」
こうして、あねはうちの店で働くことになった。
数週間が経つと、店の回転率が上がり始め、徐々に客が増えているように感じた。それでも大手チェーン店と戦うにはまだ力不足だ。もしここで負けてしまえば、これまで必死に築いてきた全てが台無しになってしまう。その恐怖心は日に日に大きくなっていった。
そんなある日、俺はあねにその気持ちを打ち明けることにした。
「あんな大手の店と戦えるかどうか、正直不安なんですよね」
普段ならこんな弱音を人に吐くことはないのに、あねに対してはなぜか自然と話していた。俺の告白を聞いて、あねは真剣な表情で答えた。
「大丈夫ですよ。愛情のこもった手作りのこの店の味は、大手には出せません。だから私は絶対に勝てると思ってますよ」
その自信に溢れた言葉に、俺ははっとした。そうか、この店にはこの店なりの武器があるんだ。俺はあねの言葉を受け止めてゆっくり頷くと、彼女もニコッと笑って同じように頷いた。
俺は彼女と一緒にいる時の安心感を感じるようになっていた。
そんなある日のこと、けは放課後にエミと一緒に遊んでいた。俺たちが店で働いている間は、こうしてけがエミの面倒を見ることが多かった。二人が散歩から帰ってくると、すぐに俺の方に駆け寄ってきた。
「さっきね、アメリカンドッグを食べながら歩いている高校生がいたんだよ。すごい美味しそうだった」
けがそう言うと、隣でエミも頷いている。
「エミも散歩しながら食べたい」
「それで私思いついたの。お好み焼きもそんな風に食べ歩きができたらいいんじゃないかって」
けの提案に、俺とあねは顔を見合わせた。確かに、うちのお好み焼きをたくさんの人が食べ歩きすれば、それだけで話題になるし、店の新たな武器になるかもしれない。けの一言が、俺たちに希望の光を与えてくれたのだ。
俺たちは翌日からすぐに新商品の開発に取りかかった。そして試行錯誤の末、「棒巻き」と呼ばれる、お好み焼きを串に挿した商品を売ることにした。これならアメリカンドッグのように食べ歩きもできて、小腹を満たすこともできる。
俺とあねは何度も試作品を作っては、子供たちに食べさせて感想を聞いた。しかし、この棒巻きは作るのがなかなか難しい。生地が多すぎると重みで下に落ちてきてしまうし、薄くしすぎると本来のお好み焼きの満足感が得られない。何度も失敗をしながらも、家族同士で助け合い、改良に改良を重ねて、ついに店オリジナルの棒巻きが完成した。
数週間後、まずは常連さんに向けて新商品を試食してもらうことにした。味だけでなく食べやすさにもこだわった棒巻きは、とても好評だった。自信を持った俺たちが実際に販売してみると、部活帰りや学校帰りの学生たちが買ってくれるようになり、少しずつ店の名前と新商品の棒巻きが広まっていった。
新商品の売れ行きを見て勢いに乗った俺は、さらにあることを思いついた。あねの作るたこ焼きを、うちの店で出すことだ。店を畳んだとはいえ、彼女の中には自分が作るたこ焼きの味を残していきたいという思いがあるはずだ。
「今度はあねさんの作るたこ焼きをカップに入れて販売してみませんか?手軽に楽しめるっていう点では棒巻きと同じような効果が得られると思うんです」
提案を聞いて、あねは驚いた表情を見せたが、嬉しそうにも見えた。
「それ、いいアイデアかもしれません。私やってみたいです」
あねの心の奥に眠っていた料理人としての熱い思いが、再び燃え始めた瞬間だった。その日の夜から、あねは新商品の開発を始めた。この商品に関してはあねが中心となって、毎晩遅くまで研究をしていた。
その努力が実り、完成したカップたこ焼きは、時間が経っても外はカリカリ、中はトロトロ。これまた店の自慢の商品が一つ出来上がった。棒巻きと並べてカップたこ焼きの販売を始めると、狙い通りたくさんの人が買って行ってくれた。新商品が売れていくにつれて、店を訪れるお客さんも増えていき、これまでにないほどの忙しさを感じるようになった。
「新商品、大ヒットですね」
あねが俺の耳元で囁いた。俺は、あねが心の底から喜んでいるのを見られたのが嬉しかった。その一方で、俺は魔ホのことも忘れられずにいる。彼女が生きていれば、娘の三人でこのお好み焼き屋を営んでいたかもしれない。魔ホは真面目で人に優しい女性だった。そんな彼女なら、きっと俺の背中を押してくれるだろう。
そんなある日の営業終了後、あねも帰宅して店に一人残った俺は、店内の清掃をしていた。すると、棚にしまってあった一通の白い封筒が落ちてきた。
拾い上げると、それは亡くなった魔ホから結婚前にもらった手紙だった。もらった当時はとても嬉しくていつも持ち歩いていたのに、彼女が亡くなった後は読めずにいた。しかし、この時の俺はなぜかその手紙を読みたい気持ちになり、封筒から便箋を取り出した。
「私はあなたの優しさと愛情にいつも救われています。本当にありがとう。でもね、時には自分のことを一番に考えてほしいの。みんながきっと応援してくれるはずだから」
数年ぶりに妻からの手紙を読むと、少しずつ涙で視界が滲んでいった。当時の魔ホの気持ちが、今になって俺の心に染み渡る。
俺は前に進まなくちゃいけないんだ。経営のためにも、自分自身のためにも。ひょっとしたら俺は、魔ホに愛されていた自分に別れを告げること自体を恐れていたのかもしれない。それでも、自分の人生を前に進めるためには、過去の自分を宝箱にしまって、新しい自分を見つけに行く勇気が必要なんだ。
俺はあねの優しくて穏やかな人柄と、彼女と一緒にいる時の安心感に惹かれていた。そんなあねを、魔ホのように失いたくない。
こうして俺が一人で悩んでいる間にも、時間は進んでいる。この間に、何かできることがあるはずだ。俺は頬を両手で叩いて自分を鼓舞し、自分の気持ちを素直に伝えることを決めた。
次の週末、忙しい営業時間を終えた俺は、あねとけ、エミを呼んだ。
「今日は、僕からみんなに伝えたいことがあります」
俺の改まった様子に、三人も少し緊張しているようだった。深呼吸をして、俺はみんなの前で告白した。
「えっと、僕たち、家族になりませんか?」
その瞬間、あねの目からは涙が溢れ出した。
「それって、プロポーズですか?」
俺が静かに頷くと、あねはニコッと笑った。
「本当に、私でいいんですか?」
気持ちが伝わったことに、俺は安心した。
「当然じゃないですか。だって、あねさんなら大丈夫だよ」
俺が答える前に、けがあねに飛びついた。
「ママー!」
その隣ではエミもニコニコしながら言った。
「しさんがパパになるの?」
「そうだよ。これからは僕がエミのパパだ」
俺はほっとすると同時に、これからの日々に大きな期待を持つことができた。俺が始めたこの店を一緒に守ってくれたあね。そんな彼女と一緒に新しい人生を歩めることが、本当に嬉しかった。
それから数週間が経ち、俺たちは一緒に住むことを決めて、あねとエミが俺の家に引っ越してくることになった。二人から四人になったことで、最初は思うように行かないこともあったけど、毎日一緒に生活していく中で、俺たちは本当の家族になっていった。
「けちゃん、エミ、ご飯の準備手伝ってくれる?」
今日はあねがご飯を作る日だ。けもエミも、いつも笑顔で協力してくれる。夕飯の支度をするあねの後ろ姿を見ながら、俺はしみじみと幸せを感じていた。
けとエミも、一緒に暮らしていく中で今まで以上に仲良くなり、いつしか本当の姉妹のようになっていた。あねはそんな二人を平等に可愛がり、俺も二人の娘のことがますます大事になった。こうして俺たちは日を重ねるごとに、家族の絆を深めていったのだ。
それから一年が経ったある日、俺とあねは婚姻届を出し、正式に夫婦となった。生活が大きく変わることはなかったが、家族が増えるということは、俺にとって気が引き締まる思いだった。
数日後、俺がいつものように店先に立っていると、けが駆け足気味で店の中に入ってきた。
「ねえ、今エミと散歩してたら、この近くに新しいたこ焼きのお店ができてた。人もいっぱい並んでたよ」
二人はニコニコしながら、その店に行ってみたいと誘ってきた。その日はいつもより早めに店を閉めて、新しい店に俺たち家族は全員揃って並んだ。そして、みんなで味の違うたこ焼きを食べ比べていると、けが何かに気がついたようだった。
「ねえ、パパ。やっぱりママが作るたこ焼きが一番美味しいよ」
小声でそんなことを言うと、あねはフフッと笑った。あねに出会うきっかけになったのも、けがあねの店を偶然見つけたことだった。家族揃って仲良くたこ焼きを食べられているのも、あの時あねとエミが店を続けてくれていたからで、さらにそれをけが見つけてくれたからなんだ。
「帰ったら、みんなでママの作ったたこ焼きを食べよう」
帰り道、エミはけと手をつなぎながら嬉しそうにそう言って歩いていた。俺とあねは、そんな様子を見て微笑みながら後ろを歩く。
その後も店は順調で、常連の老夫婦も相変わらず頻繁に通い続けてくれていた。二人に結婚の報告をした時はかなり驚いていたが、幸せな報告に心から喜んでくれた。
「四人で力を合わせて頑張ってな。これからも俺たちはずっと応援してるから」
そんな心強い言葉をもらった俺は、今日も店に立っている。商店街で愛されていて、家族四人で経営している人気店。そこで提供されるのは、家族の愛情が込められたお好み焼きとたこ焼き。かつて俺が憧れていた世界が、今は自分の目の前に広がっている。そんな今の生活が、俺にとっての宝物で、心の底から愛しいと感じていた。
「パパ、ママ、行ってきます」
「行ってきます!」
いつも通りの朝。同じ小学校に通う娘たちは楽しそうに手をつないで、笑顔で俺たちに手を振った。大きなランドセルを揺らしながら家を出ていく二人に、俺とあねも笑顔で手を振り返す。そして俺は、玄関に置いている家族写真をじっと眺めて、今日も店に向かう準備を始める。



