倉庫の中は蒸し暑く、埃っぽい空気が肌に張り付いていた。俺はダンボールを抱え上げて奥の棚へ押し込む。祭りの準備だ。
「おい、田中。そっちの机もこっちに運んでくれや」
夏で焼けた顔に麦わら帽子の宮本会長が、入り口から声をかけてくる。
「はい、すぐ運びます」
一人で持つには少し重い机だが、文句は言わない。こういう仕事はいつも俺の役目だ。俺の名前は田中良平。四十五歳。母と二人暮らしで、町内会では何でも屋兼記録係だ。住民たちからすれば、働きもせずに母親の世話になっている頼りない中年男に見えていることだろう。否定する気も、訂正する気もない。もう十年以上、そう見られて生きてきた。
「田中はええな。お袋さんに飯作ってもらえて、外で稼がんでええんやから」
役員たちの笑い声が倉庫に響く。俺は軽く頭を下げるだけだ。反論するだけ無駄なことを、俺はもう知っている。
その日の夕方、町内会館で診療所に赴任してきた新しい医師の歓迎会が開かれた。俺は端の方で議事録のノートを開いていた。戸が静かに開き、一人の女性が入ってきた。白いブラウスにベージュのスカート。背筋を伸ばして、丁寧にお辞儀をする。
「朝倉千恵と申します。未熟者ですが、町の皆様の健康を支えられるよう精一杯努めます。よろしくお願いいたします」
三十五歳、独身、東京の病院から来たという。広間が大きな拍手で包まれた。
挨拶が終わり、料理と酒が運ばれてくる。俺は挨拶の様子を記録に取っていると、千恵が一人ひとりに挨拶して回っていた。
「初めまして。朝倉と申します」
「田中良平です。町内会で議事録などを担当しています」
「議事録ですか? それは大切なお仕事ですね」
言葉は丁寧だったが、彼女の目はすぐに次の人へ向いていた。
「先生、田中はね、雑用係なんですよ。便利な男でね」
横から宮本会長が口を挟んだ。千恵は曖昧に微笑んで、軽く会釈をする。それで終わりだった。
家に帰ると、玄関の明かりがついていた。古い木造二階建て。母と俺の二人暮らしだ。
「ただいま」
「お帰り。遅かったね」
母の和子がエプロンで手を拭きながら出てくる。白髪は増えたが、背筋は今でも真っ直ぐだ。若い頃は産婆として町で長く働いてきた。居間に入ると、座卓の上に何かが置かれていた。古い革のケースだ。中から年期の入った聴診器が顔を覗かせている。チューブの黒色は、ところどころ白く擦り切れていた。母はそれを手に取り、柔らかい布で丁寧に磨き始める。
「母さん、まだそれ大事に持ってるんだな」
「ええ、これはね、私の宝物だから」
「誰かにもらったって前に言ってたか」
「そうね、古い知り合いからもらったの」
母はそれ以上は語らなかった。この聴診器のことを、母は昔から何も話してくれない。ただ、年に何度か取り出しては磨いている。
「今日、新しい女の先生にお会いしたの。買い物の帰りに」
「朝倉先生か」
「ええ、お若くて綺麗な方ね」
母の手がふと止まった。聴診器を持ったまま、物思いに耽っている。
「母さん?」
「いえ、なんでもないのよ」
母は微笑んで、また聴診器を磨き始めた。その夜、布団の中で天井を見上げる。診療所では、医師が一人足りず、千恵が夜遅くまで奮闘していると聞く。俺にできることは、診療所の裏で重いダンボールを運んだり、壊れた椅子を直したりすることくらいだ。
七月の終わり、夏祭りの準備が本格化した。町内会館の前には櫓の骨組みが組まれている。俺は朝から汗だくで釘を打っていた。
「おい、田中。そっちの角もうちょい締めとけよ」
「はい、分かりました」
会長は日陰の椅子に座って麦茶を飲んでいる。動いているのは俺ともう数人だけだ。その時、通り向こうの診療所の前で、買い物袋を下げた母が誰かと話しているのが見えた。千恵が少し頭を下げる。母も会釈を返した。二人は数秒、何か言葉を交わしたようだった。その瞬間、母の表情がわずかに変わったのが、櫓の上からでも分かった。驚いたような、それでいて懐かしいものを見たような顔だった。
夕方、母が帰ってきてから俺は何気なく聞いた。
「昼間、診療所の前で朝倉先生と話してたな」
「ええ、少しだけね」
「何か知り合いだったのか?」
「いいえ、今日初めてちゃんとお話したの」
母はそう言って台所に立った。背中越しに、座卓の上に超音波検査の画像を見ていた。
明日は祭り当日だ。朝から雲一つない晴天だった。焼きそばの匂い、たこ焼きの匂い、子供たちの歓声。俺は櫓の足元で最後の点検をしていた。
「田中、夕方の太鼓の時には、若いのを前に出してマイクを持たせろよ」
「はい、声をかけておきます」
「お前は裏で進行を見ててくれ。慣れてるからな」
「分かりました。裏方は任せてください」
午後二時を回った頃だった。町の北側の交差点の方角から、鈍い衝撃音のような響きが届いた。続いて人の悲鳴。誰かが走りながら叫んでいる。
「トラックが! トラックが歩道に突っ込んで、人が倒れてる!」
その場の空気が一瞬で凍り付いた。俺はとっさに駆け出していた。現場はひどい有様だった。横転した大型トラックの脇に、何人もの人が倒れている。祭り見物に来ていた家族連れだ。泣き叫ぶ子供、動かない大人、怪我をした通行人。町の救急体制は手薄で、隣町から救急車が来るには時間がかかる。俺は近くの男に叫んだ。
「診療所へ走れ! 朝倉先生に伝えてくれ。重傷者が複数だと、受け入れの準備を頼む!」
男は頷いて駆けていった。俺は倒れている人々を一人ずつ確認していく。意識はあるか、呼吸は、出血の位置は。体が勝手に動いていた。宮本会長もトラックのすぐそばで倒れていた。頭から血が出ている。意識はあるが、呼びかけへの反応が鈍い。
「会長、聞こえますか? 動かないでください。今すぐ診療所へ運びます」
「田中か……すまん……」
他の怪我人とともに会長を診療所へ運び込んだ。中はすでに修羅場になっていた。千恵が血のついた手袋のまま、次の患者へ駆け寄っている。
「隣町の救急は、あと四十分かかるそうです!」
事務の職員が必死で叫ぶ。四十分。千恵の声に、動揺のようなものが滲んでいた。そこへ、頭部から血を流す男性が運び込まれた。
「外傷性脳損傷の疑い。血圧、下がっています! 私一人じゃ……」
彼女の手がわずかに震えているのが、俺には分かった。俺は処置室の入り口に立ち尽くしていた。十年だ。俺がメスを置いて、十年が経つ。あの日から、俺は二度と人の命に手を触れないと決めていた。
患者の呼吸が、また一段浅くなった。俺は深く息を吸って、白衣のかかったハンガーへ手を伸ばした。
「朝倉先生、手伝います。指示は俺が出します。処置はあなたがしてください」
「え、田中さん……? 何を……」
「説明は後でします。今はこの人を助けることだけ考えてください」
千恵の目が揺れた。
「……分かりました。お願いします」
俺は患者のそばに立った。脈を取り、瞳孔を見る。頭の中に、十年前の手順がまるで昨日のことのように戻ってくる。
「先生、輸液のルートを二本確保してください」
「左側の瞳孔反射が鈍い……脳ヘルニアの初期です。マンニトールは使えますか?」
「あります。すぐ準備します」
千恵の手が、迷いなく動き始めた。俺の声を聞きながら、彼女は的確に処置を進めていく。若いが、いい医者だ。ふと、親父さんによく似ている、そんなことを考えている自分に内心驚いた。
三十分が経った頃、患者の血圧がようやく安定し始めた。呼吸も規則正しいリズムを取り戻している。俺は患者の手首から指を離し、ゆっくりと息を吐いた。千恵が汗で張り付いた前髪を払いながら俺を見る。
「助かりました……本当に、助かりました」
「先生の処置が早かったから、間に合ったんです」
俺は手袋を外しながら答えた。指先がわずかに震えている。十年ぶりに人の命を救った手だ。震えて当然だった。
日が暮れて、診療所がようやく静かになった頃だった。重症者は皆、隣町の病院へ搬送された。俺は廊下のベンチに腰を下ろし、自販機の缶コーヒーを開けた。体の奥がまだ熱を持っている。
事務の職員がスマートフォンを片手に、青ざめた顔で近づいてきた。
「田中さん……失礼を承知で、お名前を検索させてもらいました」
「心臓外科医、田中良平。東京の大学病院、年間手術数、全国トップクラス……記事がいくつも出てきます」
俺は答えなかった。その声に振り向いたのは、白衣のままの千恵だった。廊下の蛍光灯の下で、彼女の顔が硬くなっていく。
「田中さん……本当ですか?」
「ええ。十年前までは、メスを握っていました」
「どうして、辞めてしまわれたんですか?」
俺はしばらく缶の淵を指で撫でていた。語る日が来るとは思っていなかった。ただ、ここで黙るのは彼女に対して誠実ではない気がした。
「親友がいたんです。同じ病院の外科で。腕も、人柄も、俺なんかよりずっと上だった人だ。十年前、その人が交通事故で運ばれてきました。……俺のミスです。手術には成功したが、その後、合併症で亡くなった。俺の判断ミスで、手遅れにした」
千恵の表情がわずかに動いた。
「それから、メスを握ろうとすると手が震えるようになって。患者さんに申し訳が立たない。それでやめました」
俺は拳を握りしめた。
「町に帰って母と暮らして、議事録をやって。それで十分だと思っていたんです」
「その、親友の方のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「……朝倉健さん」
千恵の口から、小さな息が漏れた。彼女の目に涙が溢れ出す。
「父です。私の父です」
俺は顔を上げた。
「父が生前、何度も話してくれていました。良平という名前を。お酒を飲むと、必ず口にしていました。一番信頼している後輩で、親友だって。言葉が出てきませんでした」
「俺は、あの日のことを一日も忘れたことはない」
「私も、父のことを忘れたことはありません」
廊下の窓の外で、祭りの片付けをする住民たちの声が遠くで聞こえていた。俺と千恵は、しばらく何も言わずにその音を聞いていた。
祭りから三日が経った朝だった。診療所もようやく落ち着きを取り戻した。俺はいつも通り台所で茶を入れていた。座卓の上には、また聴診器のケースが置かれていた。母は今朝もそれを丁寧に磨いている。ただ、いつもと違うのは、その手がどこか落ち着かないことだった。
「良平、ちょっと座ってちょうだい」
「どうした? 母さん」
「お話しなきゃいけないことがあるの」
母は俺の顔を真っ直ぐに見た。
「あなたが診療所で朝倉先生を助けたって、町中の人が話しているのよ」
「ああ、まあ、成り行きでね」
「お母さんね、もう隠しているのが苦しくなってしまったの」
母の声は低く、ゆっくりとしていた。
「この聴診器はね、三十四年前にある先生から頂いたものなの。私が産婆として最後の方に立ち会ったお産だったの。お母さんも赤ちゃんも、危ない時間が長く続いたの。その時に、母親の旦那さんで、若い外科の先生が病院から駆けつけてくださって」
母の指が聴診器をそっと撫でた。
「その先生がね、無事に産声を聞いた後に、これを私にくださったの。『母子ともに助かったのはあなたのおかげです。これは私が研修医の頃から使ってきたものですが、よろしければ受け取ってくださいませんか』って」
「その先生の名前は……朝倉健先生。生まれた赤ちゃんが、千恵先生よ」
俺は自分の手のひらを見つめた。
「あの先生にね、『この子の成長を、影ながら見守ってやってください』って言われたの。だから、千恵に会った時、あんな顔をしてたんだな」
「ええ。あの子の目元が、本当に先生にそっくりで」
母は深く息を吐いた。
「良平。あなたが医者をやめてから、お母さんね、ずっと考えていたの。あなたが背負っているものを、どうしたら下ろしてあげられるのかって。でも、お母さんは何も言えなかった」
俺は黙って母の手を見ていた。皺の刻まれた、小さな手だ。
「母さん、ありがとう。俺の方こそ、何も気づけなくて悪かったな」
「いいのよ。あなたが今、もう一度人を助けてくれた。それでお母さんは十分なの」
その日の午後、診療所から連絡があった。千恵が父の遺品を整理している中で、俺に見せたいものがあるという。俺は母と一緒に診療所の裏手へ向かった。座敷の隅に、古いダンボール箱が積まれている。千恵はその中から、一冊の革張りの手帳を取り出した。
「父の日記です。倉庫の奥にしまったままで、私もずっと開けずにいました」
「いいんですか? 見せていただいて」
「田中さんに読んでいただきたいんです」
千恵は付箋を貼ったページを開いて、俺の前に置いた。そこには、俺の名前がいくつも書かれていた。
「良平と深夜の救急を回した。あの男はメスを持つと別人になる。判断が早く、迷いがない。そして、患者の家族への気配りを忘れない。私は彼のそういうところを心から尊敬している」
ページをめくる手が止まらなくなっていた。日付が進むにつれて、健さんの文字には俺への信頼が増していく。
「千恵が医者になりたいと言い出した。嬉しくもあり、心配でもある。もしこの子が本当に医師の道を歩むなら、良平のような人と共に働ける医師になってほしい。腕だけでなく、人の痛みを我がことのように感じられる、あの男のような医師に」
俺の目の前が滲んだ。涙が溢れ出した。
「父は田中さんのことを、本当に信頼していたんです。私は、父が亡くなった時のことを、心のどこかで田中さんのせいにしたいような気持ちがあったかもしれません。でも、父は違ったんです。父は田中さんに、自分の命を預けてもいいと思っていたはずです」
「健さんは立派な人でした。俺なんかには、もったいない人でしたよ」
「いいえ。田中さんだから、父は心を許したんです」
三十四年間、一人で抱えてきたものが、ようやく溶けていくようだった。
「父の願いを、私が叶えたいんです。田中さんと一緒に、この町の患者さんを支える医師になりたいんです」
俺は手帳を閉じて、千恵の顔を見た。若いのに、覚悟の座った目だった。ちゃんと、健さんの目に似ていた。
「俺の手は、もう若い頃のようには動かないかもしれない。それでもいいんですか?」
「田中さんの判断と、田中さんの目があれば、それで十分です」
俺はゆっくりと頷いた。
それから数ヶ月が経った。俺は医師免許の更新手続きを済ませ、診療所に非常勤として通うようになっていた。朝は母と朝食を取り、白衣を持って家を出る。診療所では千恵と並んで患者を見る。最初は戸惑っていた住民たちも、今では普通に「田中先生」と呼んでくれるようになった。宮本会長は退院してから一度、家を尋ねてきた。玄関先で深く頭を下げて、しばらく顔を上げなかった。
「田中。わしは長い間、お前のことをずっと見ておった。本当にすまんかった」
「会長、頭を上げてください。俺も、自分から何も言わなかったんです。お互い様ですよ」
「これからは、町のために、お前の力を貸してくれよ」
「もちろんです。議事録係も、続けさせてもらいますから」
翌年の夏祭りの前夜だった。俺は町内会館で議事録のノートを広げていた。窓の外では、櫓の組み立てが進んでいる。去年と同じ、子供たちの声。戸が開いて、千恵が入ってきた。白衣ではなく、薄い水色のワンピースだ。
「お疲れ様です。今、終わるところでした」
「田中さん、よろしいですか?」
「どうぞ」
「相変わらず、几帳面ですね」
「これだけは、昔から変わらないんです」
櫓の方から、太鼓を試し打ちする音が届いてきた。
「田中さん。来年の夏祭りも、議事録お願いしますね」
「来年も、再来年も、その先もずっと書きますよ。あなたが隣にいてくれるなら」
千恵は少しだけ顔を赤らめて、静かに頷いた。窓の外で、太鼓が一つ、また一つと鳴り始めていた。



