彼に「派遣社員なんて、人の価値はお金で決まるんだよ」と言われ、私は妊娠していることを報告したのに、彼は笑いながら一万円札を置いて去っていきました。3年間、信じて働いてきた派遣先も契約更新を打ち切られ、絶望の底にいました。しかし数年後、その彼の会社が倒産の危機に瀕した時、私は彼を救う決断をしました。「なんで私が、あなたを見捨てなかったと思う?」…

彼に「派遣社員なんて、人の価値はお金で決まるんだよ」と言われ、私は妊娠していることを報告したのに、彼は笑いながら一万円札を置いて去っていきました。3年間、信じて働いてきた派遣先も契約更新を打ち切られ、絶望の底にいました。しかし数年後、その彼の会社が倒産の危機に瀕した時、私は彼を救う決断をしました。「なんで私が、あなたを見捨てなかったと思う?」...

妊娠の数値だ。お腹に赤ちゃんがいる。病院の処置室で、看護師がもう一度それを繰り返した。妊娠陽性反応、確認できました。パートナーはその場にいなかった。今月、正社員登用の辞令が出ると聞いていたから、サプライズで検査結果を伝えようと思ったのだ。

しかしスマホの通知は彼のものではなかった。職場の同僚、晶子からだった。「彼、今日の歓迎会で幹部の娘さんとすごく楽しそうにしてたよ。知らなかった?」その一文で、私の手からスマホが滑り落ちそうになった。

私、西村美咲は、32歳。派遣社員として8年間、同じ食品工場で働いてきた。いつか正社員になれるはずだと信じて。そしていつか家庭を持てるはずだと信じて。彼、川島裕樹は、同じ工場で働く35歳の正社員。3年前に付き合い始めた。彼は周りから「真面目で誠実」と言われていた。

私は急いで彼のマンションに向かった。今日こそ、妊娠のことを伝えて、結婚の約束をしてほしかったからだ。しかし、マンションの廊下で見たのは、彼がもう一人の女性と笑い合いながら部屋に入る姿だった。女性は着物の似合う、品のある人。それに比べて私は、仕事帰りのままの、少し汗ばんだジャージ姿だった。

その夜遅く、彼からLINEが来た。「今日は急にごめん。明日話したいことがある。」

翌日、待ち合わせたのは工場近くのファミレスだった。彼はいつものスーツ姿ではなく、ラフな格好で来ていた。椅子に座るなり、彼は言った。「美咲、別れよう。」

「え…?でも、私は妊娠したかもしれないの。」

私が言うと、彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷たい表情になった。「本当か?それは俺の子か?まさか、他の男と…」

「そんなわけないでしょ!今月、辞令が出るって言うから、それを伝えたかっただけよ。あなたの子よ!」

私は声を荒げた。しかし、彼は私の目を見ようともせず、スマホをいじりながら言い放った。「俺な、もう来月結婚するんだ。相手は、工場の取引先の社長の娘さん。まあ、俺の将来のことを考えたら、派遣社員を嫁にするわけにはいかないよ。」

「でも…私はあなたのために…」

「人の価値はお金で決まるんだよ。君みたいな、底辺の派遣社員と結婚なんてできるわけないだろ。まさか、妊娠したとか言って金を脅すつもりか?そんなのはただの脅迫だぞ。」

彼は財布から一万円札を取り出し、テーブルに置いた。「これで諦めてくれ。養育費なんて期待するなよ。俺はこのことは無かったことにする。」

そして、彼は席を立った。変わり果てた彼の背中は、もう昔の彼じゃなかった。私は一人、ファミレスのテーブルに残されて、一気に世界が崩れ落ちるのを感じた。

後日、工場に行くと、彼の部署移動と、正社員登用の話が嬉しそうに彼の部下から語られていた。どうやら彼は、工場内の別の部署へ異動になり、係長に昇進したらしい。私の妊娠のことは、彼の上司に「彼とは何の関係もない」と伝えられていた。つまり、私は都合のいいように捨てられたのだ。

私は派遣契約の更新を打ち切られた。晶子からの「気の毒にね。派遣さんは10年いても所詮派遣だもの」という言葉も、私に容赦なく突き刺さった。私はすべてを失った。仕事も、恋人も、将来の希望も。そして、お腹の子だけが残された。

出産するかどうか、何日も悩んだ。ワンルームのアパートで、私はお腹を撫でながら泣いた。しかし、私の心の中に、もう一つの感情が芽生えていた。それは怒りだった。「人の価値はお金で決まる」と言った彼の言葉が、頭の中で反芻される。そんなことを言う人間に、絶対に負けたくなかった。

私はこの子を育てることを決めた。そして、必ず這い上がってやる、と心に誓った。

それから私は、昼夜問わず働いた。派遣先を2つ掛け持ちして貯金をし、実家には頼らなかった。やがて我が子を出産した。名前は「結衣」と名付けた。私と彼との「縁」が結びついた子。私の命を懸けて守ると誓った。

産後、私はすぐに職探しを再開したが、幼子を育てながらの就職は困難を極めた。正社員は難しく、結局、また工場の派遣作業員として働き始めた。結衣を保育園に預け、朝早くから夜遅くまで、ライン作業に明け暮れた。指先は荒れに荒れ、肩は激痛を訴えた。給料は安く、生活費と保育費で、常にカツカツだった。結衣を連れて、私は精神的に限界に近づいていた。

ある日、私はふとアルバムを開いた。そこには、私がかつて工場で働いていた時に、仲間に誘われて行った、工場慰安旅行の写真があった。そこには笑顔の私がいて、その隣に彼の姿もあった。その写真の裏には、彼の字で小さく書かれたメッセージがあった。それは、私が忘れかけていた、優しい言葉だった。

「美咲さん、いつも工場を支えてくれてありがとう。もう少しだけ、ここで働いてほしい。」

これは何?工場を支えてくれて?私はその言葉の意味を考えた。彼は、私を「底辺の派遣」と言ったが、その彼の字は、私のことをとても大切に書いているように見えた。

もしかしたら、彼は何か知っているのか?そんな考えが頭をよぎった。私は、写真の裏に書かれた言葉を頼りに、彼が今いる部署の噂を調べ始めた。すると、驚愕の事実を告げる証言にたどり着いた。

それは、工場の裏物流を担当していた古株のベテラン社員からのものだった。「あの若社長、大したことないんだな。俺たちが何十年もコツコツと防犯カメラの映像をチェックして、不正を出荷前に全部潰してきたから、表向きは優良企業ってことになっているんだが。それが、最近は機械に任せ始めて、これで品質が落ちたら責任は俺らが取らされるのかって話になるぜ。まあ、あの若造が何を考えてるのか知らねえけどな。」

私は一つの推理に辿り着いた。彼が言う「人の価値はお金」という言葉。それは、彼自身が「お金を稼ぐこと」に必死だったからこそ生まれた言葉ではないか。何かの大きな借金か、あるいは将来の事業のために。

そして、私は彼が社長令嬢と結婚した理由が、ただの打算ではなく、もしかしたら私を守るための行動だった可能性に気づき始めた。彼の「別れよう」という言葉は、私を巻き込まないためだったのか?

そんな彼を、私は恨み続けてきた。復讐するためにここまで生きてきた。しかし、真実は全く違うものだった。彼は私を傷つけることで、私を守ろうとしていた。それが分かった時、私の心は激しく揺れた。

そうこうしているうちに、私は偶然、町の法律相談所で、ある弁護士と出会った。その弁護士は、私のことを覚えていた。「あなたは、8年前に工場で派遣として働いていた西村美咲さんですね。直接お会いするのは初めてですが、あなたの名前と、あなたの境遇はよく知っています。」

そう言うと、弁護士は一枚の書類を差し出した。それは、私が派遣として働いていた期間の、賃金未払いの証明書だった。本来支払われるべきだった残業代と、深夜手当が、きっちりと計算された数字で開示されていた。額は、正社員で働いた場合と同じくらいの大きな金額だった。

「これは…?」

「あなたが派遣社員としてコツコツ働いていた期間のものです。本来ならば、派遣法に基づき、あなたにも正社員と同じ賃金が支払われるべきでした。それを、会社が意図的に低い賃金で契約していた形跡があります。あなたが外国人技能実習生のために通訳を買って出たり、新人を指導したり、仕事外でも工場のために働いていた記録も残っています。これは、もう立派な労働行為です。私は、あなたのその地道な働きをずっと追っていたんです。」

その書類を見た瞬間、私の目から涙が溢れ出た。私が派遣として頑張ってきた時間は、お金としては認められていなかったけど、確かに存在していた。それが、証明された気がした。

「これを持って、会社と交渉しましょう。あなたの権利を主張する時です。」

弁護士の言葉に、私は力強く頷いた。私は、もう負けない。

弁護士は、工場側と直接交渉を始めた。私が長年貢献してきたこと、そして、彼から受けた言葉の暴力は、もう許せるものではないことも伝えた。すると、工場側は態度を一変させた。10年分の未払い賃金と慰謝料として、数百万円の和解金を支払うことを提示してきた。

しかし、私はそれを拒否した。「お金が欲しいわけじゃない。あなたたちが、派遣社員を人間として見ていないことが、私は許せないんです。」

私のその言葉に、工場側は言葉を失った。そして、自ら社長が頭を下げた。「我々の経営姿勢が間違っていました。あなたのその働きは、正社員と同じ、いやそれ以上でした。弊社の品質を支えてきたのは、あなた方のような派遣スタッフの方々だったんです。本当に申し訳ありませんでした。」

私は、この工場で働いてきて良かった。そう思えた瞬間だった。派遣という理由で軽く見られていた私が、初めて会社から「人」として認められた。それは、お金よりも大きな意味を持つ勝利だった。

和解が成立した後、私は、工場を訪れた結衣を連れて、少しだけ工場の中を見学させてもらった。かつて私が働いていたラインは、今は自動化されていた。しかし、そこには、私が若い頃に教えた若手の派遣スタッフたちが、今も働いていた。

「美咲さん!元気にしてましたか?」

彼らは私を見るなり、笑顔で駆け寄ってきてくれた。その姿を見て、私はようやく、自分が「あの場所」から解放されたことを実感した。私は、もう、あそこに縛られる必要はない。

私は、弁護士ともう一度相談し、和解金の一部を、外国人技能実習生のための日本語学習支援基金に寄付することにした。私の体験を無駄にせず、同じように、仕事が評価されない人たちの力になりたかった。

それから数年後、私は小さな福祉用品の会社を立ち上げた。そこでは、派遣社員は誰一人おらず、全員が正社員だった。給料は、どの会社よりも少し高いくらいに設定した。「人は、お金に替えられない」と、私はあの経験から学んだからだ。

ある日、工場から一通の手紙が届いた。差出人は、かつて私のことを「底辺の派遣」と呼んだ彼だった。手紙には、こう書かれていた。

「美咲さん。あなたが会社と闘い、勝利したと聞きました。あなたは、あの時、私が言った言葉の通りではありませんでした。あなたが正しかったのです。私は、あなたに言い続けてきた『人の価値はお金』という言葉に、今でも苦しんでいます。あれから、私は、あなたのことを思い出すたびに、自分が何かを大きく間違えたような気がしていました。

決して許してほしいとは言いません。ただ、あなたが今、幸せでいることを願っています。いつか必ず、あなたに追いつけるように。」

彼の手紙を読み終えた時、私の心の中の、長年積もっていた氷が、ようやく溶けたような気がした。彼を憎んでいたのは間違いじゃなかったと思う。けれど、憎しみに生きるのは、もうやめよう。私は、この手紙を結衣に見せた。結衣はまだ小さかったが、手紙の内容を真剣に聞いていた。

「お母さん、この人、悪い人なの?」

結衣が尋ねた。私は、静かに首を振った。「ううん。ただ、間違えた人だったの。そして、それを謝ったのよ。」

私は彼を許すことにした。もう、誰かを切り捨てたり、見下したりしながら生きるのは終わりにしよう。私は、私の大事な娘に、この教訓を伝えていきたい。

そして、私は、自分の会社で働く若い社員に言う。「給料は、その人を測る物差しじゃない。大切なのは、人としてどう働くか、どう生きるかよ。私の経験が、あなたたちの未来に活かされたら嬉しい。」

春の日差しが、オフィスに差し込む。私は、結衣と一緒に、会社の窓の外を見つめた。あの工場の煙突が、遠くに小さく見えた。

「さあ、今日も一日、頑張ろうか。」結衣は元気に返事をした。
「うん!」

私は微笑んだ。私は、もう、負けない。いや、過去の自分に負けない。自分の人生を、懸けて。

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