朝の光が診察室の白い壁を柔らかく照らしていた。開け放った窓から潮の匂いが流れ込んでくる。俺は白衣の袖を整えながら、机の上の万年筆をそっと指で撫でた。黒い軸に金のペン先。十五年前、師匠から送られたものだ。
「先生、今日は朝から漁師さんたちが来ていますよ」
看護師の裕子が、いつもの落ち着いた声で診察室に顔を出した。
「ああ、分かった。今行く。山下さんの腰、また悪くなってるんじゃないか」
「ええ、多分先週からまた痛みが出てるみたいですから」
俺は苦笑して立ち上がった。何度言っても聞かない人ばかりだ。それでも、その頑固さに俺は救われてきた。
俺の名前は勇樹。五十歳になる。かつては大学病院で「神の手」と呼ばれた脳外科医だった。将来を嘱望され、教授の椅子も近いと囁かれていた。十五年前、俺はその全てを失った。今は人口僅かなこの離島で、ただ一人の医師として診療所に立っている。栄光も名声ももう遠い昔の話だ。ただ目の前の患者の命を守ること。それだけを支えに、ここまで生きてきた。
待合室では、日に焼けた漁師たちが祭りの話で盛り上がっていた。俺が顔を出すと、一斉に笑顔が向けられる。
「先生、また腰やっちまった。すまんねえ」
「すまんじゃないですよ。あれだけ無理しないでくれって言ったでしょう。横になってください。見ますから」
診察を終え、湿布を貼り直していると、診療所の引き戸が勢いよく開いた。渡だ。島の高校生で、制服の上から白いシャツを羽織っている。医師を目指していて、暇さえあれば診療所に顔を出す。
「先生、おはようございます。今日、見学いいですか?」
「ああ、構わない。ただし邪魔だけはするなよ。手を洗ってから来い」
「はい」
裕子が小さく笑った。
「渡君、本当に先生のこと尊敬してますよね」
俺は何も答えずカルテに目を落とした。渡は小さい頃に俺がこの島で救った子供だ。熱性痙攣を起こし、夜中に運び込まれてきた。あの夜のことを渡は今でも覚えているという。机の上の万年筆が、窓から差す光に鈍く輝いた。
「霧島先生、今日も俺はここにいます」
俺は心の中で、いつものように師匠の名を呼んだ。
その日の午後、診療所に見慣れない女性が立っていた。スーツ姿で旅行鞄を一つだけ下げている。島には不釣り合いな都会の匂いがした。
「先生、お客様です」
俺は診察室から顔を出し、その人の顔を見て息を飲んだ。目元の形が霧島先生にそっくりだった。
「山縣勇樹先生でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです」
「霧島涼子と申します。霧島政治の娘です」
声は静かだったが、こちらを射抜くような響きがあった。霧島先生の娘。最後に会ったのは、彼女がまだ医学部の五年生だった頃だ。二十歳そこそこの、まだあどけなさの残る顔をしていた。今は三十五歳になっているはずだ。医師になったとは風の噂に聞いていた。
「お父様の件は新聞で知りました。ご葬儀にも伺えず申し訳ない」
「お気遣いなく」
涼子は革紐で束ねられた古い封筒の束を取り出した。俺の名前が、霧島先生の懐かしい筆跡で書かれている。
「父の遺品を整理していて見つけました。全部あなた宛てです。一通も投函されていません」
俺は黙って話を聞いた。
「父は亡くなる直前まで、あなたの話をしていました。私には分からなかった。なぜ父が、自分を裏切った人間のことを最後まで信じていたのか」
俺は手紙の束を見つめたまま動けなかった。
「率直に申し上げます。私は長い間、あなたのことを許せませんでした。父が築き上げたものを、研究も患者も全部捨てて逃げた人だと思っていました。父が亡くなって、この手紙を見つけて、分からなくなったんです。私は本当の話を聞きに来ました。あなたの口から」
俺は深く息を吐いた。返す言葉がすぐには出てこない。
「立ち話で済む話じゃありません。今度、少し時間をいただけますか? 今は患者さんが待っているので」
「分かりました。島の旅館に泊まる手配はしてあります」
涼子は一礼して診療所を出ていった。その背中が、霧島先生の背中に重なった。
裕子が心配そうにこちらを見ていた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ、いつかはこういう日が来ると思ってました」
机の上の万年筆を、俺はそっと握りしめた。
涼子はその日から島にしばらく滞在することになった。俺は彼女に十五年前の話をすぐにはしなかった。何から話せばいいのか、自分でも整理がつかなかったからだ。涼子の方も急かしては来なかった。ただ毎日のように診療所の隅に座って、俺の働く姿を眺めていた。医者の目で観察するように。
朝七時に診療を始め、昼は弁当をかき込みながらカルテを書く。夕方には島の年寄りの家を回り、夜は夜で急患の電話が鳴れば飛び起きる。それが俺の十五年だった。
ある晩、診療所の片付けをしていた裕子がぽつりと言った。
「霧島先生、あの人ずっと先生のこと見ていらっしゃいますね」
「そうか」
「悪い目じゃないと思います。最初は怖い目をしてらしたけど、最近少し変わってきました」
俺は黙って洗ったメスを布で拭いた。
四日目の昼過ぎだった。診療所の電話が鋭く鳴った。裕子が受話器を取り、顔色を変えた。
「先生、渡君が事故です。港の防波堤にぶつかったって」
俺は白衣のまま外へ駆け出した。涼子も何も言わずについてきた。
港に着くと、渡が血を流して倒れていた。漁師たちが取り囲んで慌てている。俺は膝をついてすぐに意識を確認した。呼吸はある。瞳孔の反応もある。頭部からの出血はあるが致命傷ではなさそうだ。
「渡、聞こえるか?」
「は……はい」
「動くな。そのままでいい」
「先生、すみません」
「謝らんでいい。大丈夫だ。診療所に運ぶ。裕子さん、本土のドクターヘリに連絡を」
涼子が横でじっと俺の手元を見ていた。診療所に運び込み、止血と縫合を終えた頃には二時間が過ぎていた。ヘリで本土の病院へ送り出すと、俺はようやく椅子に腰を落とした。
涼子がコップに水を入れて差し出した。
「すごい腕でした。十五年、メスを置いていた人の手じゃないですね」
「置いていたつもりでも、覚えているものなんです。指の方が」
「あの子、何度も先生の名前を呼んでいましたね」
「昔、あの子の命を一度預かったことがあるんです」
涼子は何も言わず窓の外を見た。夕日が海をオレンジに染めていた。
「あの……先生、明日の夜、お話を聞かせていただけますか? 父のこと、十五年前のこと、全部」
俺は静かに頷いた。机の上で、霧島先生の万年筆が夕日を受けて鈍く光っていた。
翌日の夜、診療所の二階にある俺の住まいに涼子を招いた。畳敷きの六畳に、小さな茶卓が一つあるだけの部屋だ。裕子が入れてくれた茶が湯気を立てている。窓の外では波の音が低く響いていた。
涼子は鞄から例の手紙の束を取り出して卓の上に置いた。紐を解き、一通を抜き出してこちらへ滑らせる。
「読ませてください。全部」
俺は手紙を手に取った。「山縣君は何も悪くない。必ず迎えに行く」と書いてある。俺は黙って便箋に目を落とした。「島の暮らしはどうだろうか。冬は寒かろう。私の体が動くうちに、必ず会いに行く」。そんな一文が目に飛び込んできた。霧島先生は結局、この島へ来ることはできなかった。病がそれを許さなかったのだろう。
「先生、父と何があったんですか? 父はなぜあなたを信じ続けたんですか?」
俺は茶碗を置き、しばらく言葉を選んだ。話していいものか。十五年、迷い続けてきたことだ。
「霧島先生は、病院の不正会計を偶然見つけてしまったんです。研究費の流用、薬剤の架空発注。中心にいたのは、当時の副院長だった太田という人でした」
「太田……今、医療法人グループの理事長をしているあの太田ですか?」
「ええ、その太田です」
涼子の眉がぴくりと動いた。
「先生はすぐに告発するつもりでした。患者第一の人でしたから、許せなかったんでしょう。だが、あの頃はもう先生の体は限界に近かった。体を悪くされていて、ご自身でも分かっていらした」
「知っていました。父は私には最後まで隠していましたけど」
「告発しようとした矢先、太田たちは先生を脅したんです。『お嬢さんの将来をどうしてやろうか』と。あなたはまだ医学部の五年生でした」
涼子の顔から血の気が引いていくのが分かった。太田は医学会に広い顔がある人だ。本気でやれば、あなたを潰すこともできた。先生はそれを一番恐れていました。
俺は窓の方へ目をやった。夜の海が月明かりに鈍く光っている。
「俺は先生に頼まれたわけじゃない。自分で決めたんです。証拠の一部を持ち出し、自分が情報を漏らした犯人だということにして病院を去りました。先生を守るためでもあり、あなたを守るためでもあった」
「それで、おめえを全部一人で背負ったんですか?」
「他に思いつかなかったんです。先生にはもう時間がなかった。あなたには未来があった。俺はまだ若かったから」
涼子はしばらく何も言わなかった。膝の上で手紙を握りしめている。その手が小刻みに震えていた。
「父は、それを知っていたんですね」
「ええ、止められましたよ、何度も。だが最後は黙って、この万年筆を俺に持たせました」
涼子は俯いたまま、声を絞り出すように言った。
「私はあなたを恨んで生きてきたんです。十五年も」
「恨まれて当然だと思っていました。何も話さずに消えたのは俺ですから」
茶の湯気がゆっくりと消えていった。
それから数日、涼子は部屋に閉じこもって父の手紙を一通ずつ読み返していた。俺は普段通り診療を続けた。口を出すべき時ではないと思った。
五日目の朝、涼子が診察室に入ってきた。目の下に薄い隈があった。
「山縣先生、父の手紙に何度も出てくる名前があるんです」
「誰ですか?」
「小杉健三さん。元事務長と書いてあります」
俺はその名前を聞いて、しばらく動けなかった。小杉さんは、霧島先生が一番信頼していた方だ。先生のそばでずっと事務方を取り仕切っていた。
「父は手紙の中で、何かあれば杉に聞けと書き残しています。先生、一緒に会いに行っていただけませんか?」
俺は少し考えた。
「分かりました。明日、本土へ渡りましょう」
翌朝、俺たちは始発のフェリーに乗った。小杉さんは本土から電車で二時間ほどの古い町に一人で暮らしているという。涼子が事前に連絡を取ってくれていた。
木造の平屋の前で、白髪の男が立っていた。
「山縣先生、お久しぶりです。十五年ですね」
「ご無沙汰しております。小杉さん。霧島先生のお嬢様も、立派になられて」
中に通されると、仏壇に霧島先生の写真が飾られていた。線香の匂いがした。涼子が深く頭を下げ、来た理由を話し始めた。父の手紙のこと、俺から聞いた話のこと、十五年自分が抱えてきた誤解のこと。
小杉さんは黙って聞いていた。話が終わると、小杉さんは長いため息をついた。
「お嬢さん、私はね、霧島先生に口止めされていたんです。お嬢さんが医師として一人前になるまで、一切話すなと」
「父が、そう言ったんですか?」
「ええ。あの方は最後まであなたを守ろうとされていました」
小杉さんはしばらく目を閉じた。
「山縣先生のことも、随分気にかけておられました。あの男に全部を背負わせてしまったと、何度も悔やんでおられた」
俺は俯いた。膝の上の拳に力が入った。
「お嬢さん、あなたが本気で真実を求めて来られたなら、もう隠す理由はありません。霧島先生もそろそろ許してくださるでしょう」
小杉さんは立ち上がり、奥の部屋へ消えていった。涼子が隣で小さく息を吐いた。
「父は、ずっと私のことを……」
涼子の目から一筋、涙がこぼれた。
しばらくして小杉さんが、古いダンボール箱を抱えて戻ってきた。埃をかぶった、年期の入った箱だった。中には分厚いファイルが何冊も詰まっていた。
「これが霧島先生から預かったものです。十五年、私の家で眠っていました」
俺は一冊を手に取り、開いた。不正会計の記録、薬剤発注の偽装伝票、太田の指示が記された内部文書、関係者の証言を霧島先生自らが聞き取り、書き起こした記録もあった。
「先生は、ここまで……」
「告発する力はもう残っていらっしゃらなかった。だが、いつか誰かが真実を求めてきた時のために、と」
涼子がファイルをめくる手が止まらなかった。
「これだけ揃っていれば十分です。法的にも、医学会の中でも」
小杉さんはもう一つ、別の封筒を取り出した。白い封筒だった。
「最後にこれを。霧島先生が亡くなる三日前に私に託されたものです。宛名は、涼子さんへ」
涼子が震える指で封を切った。便箋を広げ、声に出さず読み始める。涼子の目から涙がこぼれた。
「父は、いつか私が真実を求めて、は先生のところへ行くと信じていたんです。その時には、全部伝えて欲しいと小杉さんに頼んでいました」
俺は何も言えなかった。霧島先生は、十五年前の今日を見通していたのだろうか。
「霧島先生は、お二人を信じておられました。山縣先生の医師としての腕と、お嬢さんの真っ直ぐな心を」
涼子が手紙を胸に抱き、深く頭を下げた。
「小杉さん、十五年間ありがとうございました」
「私はただ預かっていただけです。お返しするのが遅くなって、申し訳ない」
帰りの電車の中で、涼子はじっと窓の外を見ていた。夕暮れの田園が流れていく。
「山縣先生、私、太田を許せません」
「ええ、俺もです」
「父の名誉も、先生の十五年も、取り戻します。一緒に戦ってくださいますか?」
「ええ、戦いましょう。霧島先生のためにも、あなたのためにも」
窓の外で夕日が沈んでいく。
島へ戻った翌日から、俺と涼子はダンボールの中身を一つ一つ精査し始めた。
「先生、ここを見てください。太田が当時の経理課長に出した指示書です。日付も署名も残っています」
「間違いない。架空発注の手口がそのまま書かれている」
「研究費の流用先まで特定できます。これは太田が個人的に出資していた医療機器会社に流れていますね」
俺は資料を捲りながら、十五年前の景色を思い出していた。あの頃、俺が手にしていた証拠はほんの一部に過ぎなかった。霧島先生は、俺が島へ去った後も、たった一人で調べ続けていたのだ。病に蝕まれた体を引きずりながら。
「先生は、ここまで集めて、誰にも見せずに行ったのか」
「父は、先生に背負わせた荷物を、少しでも軽くしたかったんだと思います」
涼子の声は静かだった。
数日後、涼子は本土の信頼できる弁護士と医療ジャーナリストに連絡を取った。涼子が信頼している人物だという。
「表に立つのは私がやります。先生はここで、島の人たちを見ていてください」
「いいんですか? あなた一人に背負わせるのは」
「私は父の娘ですから」
涼子の目に迷いはなかった。俺は黙って頷いた。机の上の万年筆を、涼子が手に取った。
「これ、お借りしてもいいですか? お守り代わりに」
「ええ、先生も喜ばれると思います」
涼子はその日の夕方、フェリーで本土へ渡っていった。桟橋で、渡と一緒に見送った。
「先生、霧島先生、戻ってきますよね」
「ああ、戻ってくるさ。約束したからな」
夕日が涼子の背中をオレンジ色に染めていた。
それから二ヶ月。涼子は本土と島を往復しながら、調査と告発の準備を進めた。医学会の中にも協力者が現れた。霧島先生を慕っていた医師たちが、十五年の沈黙を破って声を上げ始めたのだ。
ある朝、裕子が新聞を抱えて診療所に駆け込んできた。
「先生、大変です。一面に出ています」
俺は手を止め、新聞を受け取った。「大手医療法人グループ理事長、不正会計で告発」「十五年前の不受会事件に新事実」。そう書かれていた。太田正斗の名前が、大きく印刷されていた。
俺は記事を読みながら、何度も同じ行を見返した。霧島政治教授の名誉、山縣勇樹医師の面目。その両方が、ようやく文字となって世に出ていた。
「先生、良かった。本当に良かった」
裕子の目に涙が滲んでいた。この人は、俺がこの島に来た日からずっと、何も聞かずにそばにいてくれた人だ。俺の過去をうすうす分かっていたのだと思う。それでも一度も尋ねなかった。
「裕子さん、十五年、ありがとうございました」
「やめてください。お礼を言うのはこっちですよ」
その日の午後、診療所には島民が次々と顔を出した。新聞を握りしめた漁師たちが口々に言った。
「先生、あんた、悪くなかったんだな」
「俺たちはずっと知ってたよ。あんたが悪い人間じゃないってことは」
「先生、これからもこの島にいてくれよ。頼むよ」
俺は何も言えず、ただ頭を下げた。
夕方、診療所の片付けをしていると、渡が駆け込んできた。学校帰りに、本土からのニュースを見たという。
「先生、僕、ニュース見ました。先生のこと、ちゃんと書いてありました」
「ああ、見たか」
渡はしばらく俯いていた。
「僕、先生に助けてもらった命です。先生みたいな医者になりたくて、ずっと勉強してきました。先生が悪い人なんかじゃないって、僕、最初から知ってました」
俺は渡の肩に手を置いた。裕子が隣で静かに涙を拭っていた。
「先生、僕、来年の大学、ちゃんと受かってみせます。それで、いつかここに戻ってきます」
「ああ、待ってる」
その夜、涼子から電話があった。太田は理事長を辞任し、警察の聴取が始まったという。医学会からも、霧島教授の名誉回復の声明が出される手筈になっていた。
電話の向こうで、涼子の声が少し震えていた。
「山縣先生、父が最後まで先生を信じていた理由が、ようやく分かりました」
「涼子さん、よく頑張ってくれました。先生も安心されているはずです」
「私、十五年を恨んで生きてきました。本当に申し訳ありませんでした」
「もういいんです。あなたが父上の思いを継いでくれた。それで十分です」
電話を切った後、俺は霧島先生の写真の前に座った。線香を一本立てた。
「先生、聞こえていますか? 涼子さんは、立派なお嬢さんに育ちましたよ」
煙がゆっくりと天井へ登っていった。
数ヶ月が過ぎた。島の春は本土より少しだけ遅れてやってくる。桜の蕾がようやく膨らみ始めた頃だった。俺はいつも通り朝から診療所に立っていた。俺の暮らしは大きくは変わらなかった。漁師の腰を見て、年寄りの血圧を測り、子供の風邪を見る。それが俺の仕事だった。
ただ一つ、変わったことがある。診察室のもう一つの机に、白衣を着た涼子が座っていることだ。涼子は大学病院での職を辞し、この離島診療所で働くことを選んだ。俺は何度か思い直すように言った。ここではできる医療に限りがある。あなたのような腕の医師が、こんな小さな診療所で埋もれていいのか、と。涼子は笑って首を振った。
「父がここに来たかった場所です。私が来てはいけない理由がありません」
それ以上、俺は何も言えなかった。
渡は無事、本土の大学の医学部に合格した。入学前の春休み、診療所に挨拶に来た時、すっかり大人びた顔をしていた。
「先生、霧島先生、行ってきます。六年後に必ず戻ります」
「ああ、待ってる。体だけは壊すなよ」
渡は目に涙を浮かべて、深く頭を下げた。その背中を、俺たち三人で見送った。桜がちらほらと咲き始めていた。
診察室に戻ると、霧島先生の写真がいつもの場所に飾られていた。その隣に、あの万年筆が立てかけてある。
午後、俺と涼子は鞄を下げて海沿いの道を歩いた。風が塩の香りを運んでくる。
「山縣先生、父は幸せだったと思いますか?」
「ええ、間違いなく」
海の向こうで、白い船が一隻、ゆっくりと進んでいた。



