姉が見合いの書類を畳に放り、写真が滑って私の膝の手前で裏返った。職業欄には「ビル清掃業」とだけ書いてあった。母が「みさきにはもっといい人がいるわよ」と言い、父が私の名前を呼んだ。お前が代わりに行け、と。姉は笑った。清掃員の貧乏人なんて無理、同じ地味同士お似合いじゃない、と。
私は9年間、父の会社の金を回してきた。支払いの記述も給料の計算も契約更新の事務手続きも、全部私の机を通ってきた。それでもこの家で私の名前が呼ばれるのは、誰かの代わりが必要な時だけだった。私はこの家から出られるなら、何でもいいと思った。
片瀬千尋、31歳。父が経営する片瀬スチール工業で経理総務の事務員をしている。金属加工の町工場だ。従業員は26人。私の机は事務所の一番奥、窓のない壁を背にした席にある。背後の壁には、取引先と支払い期日をまとめた手書きの表が張ってある。9年前に自分で作り、それから毎日書き出してきた。祖父が教えてくれたことだ。人の記憶は都合で動く。だが記録は動かん、と。その教えに従い、私は決めたことを必ず紙に残すようになった。
その日、私は姉の作った見積書の単価欄に間違いを見つけた。値上げ前の金額のままだ。96万円の差がある。姉に伝えると「合ってるでしょ? 前と同じのを見て打ったんだから」と言われた。私は黙って自分の机に戻り、修正した。訂正した見積書をファイルに挟んで日付を入れた。誰にも言わなかった。
翌週、その取引先から追加注文が来た。父は朝礼で姉の名前を読み上げ、社員が拍手をした。私はその横で、注文分の材料の手配をしていた。製造課長の後田さんが言った。「あんたが作ってる納期表を見て、うちの若い連中は動いているんだよ」と。
その日は電話が3本続き、私はボルトが足りないという苦情を処理するため、自分の車で部品を届けに行った。帰りに工場へ寄ると、姉が「え、まだいたの? 真面目だね」と笑った。父は取引先の会合には必ず姉を連れて行く。私が同席したことは一度もない。父は私の机の前を通る時、時々足を止めて言った。「その紙、そんなもの頭に入れておけば済むだろう。事務くらい誰にでもできる」。その言葉は3年目までに41回聞き、数えるのをやめた。
冬の終わり、父の会社に一通の封筒が届いた。持ってきたのは草商事の会長だった。祖父の時代からの取引先で、今も材料を分けてもらっている相手だ。草さんは「お宅のお嬢さんにどうかと思ってね」と封筒を置いていった。中には見合い写真と書類が入っていた。父が読み上げる。「職業はビル清掃業とだけだ」。姉が笑った。「何それ? 掃除の人?

清掃員なんて論外でしょ」。母も同調した。「みさきにはもっといい人がいるわよ。銀行の方とか」。
その後、父が封筒を私の机の隅に置いた。「保管しておけ。草さんの手前があるから、少し寝かせる」。私は何も言わずに伝票を打ち続けた。
数日後、草さんが自宅に来て父に返事を求めた。父は「断るとは言えない」。草商事はうちの材料の8割を入れてくれている。支払いが厳しかった月には、私が草商事へ相談して半分を翌月に回してもらったこともある。父はそのことを知らない。その夜、姉の声が座敷に響いた。「清掃員の貧乏人なんて無理。同じ地味同士お似合いじゃない」。書類が畳を滑り、私の膝の手前で裏返った。父が言った。「お前が代わりに行け。みさきには釣り合わん。でもお前ならちょうどいい」。母も続けた。「良かったじゃない。あんたにお見合いなんて早々来ないんだから」。
私はただ「はい」と答えた。自分の部屋に戻り、祖父からもらったのと同じ種類の大学ノートを開いた。27冊目になる。その日の日付と、父より姉の代わりに縁談を受けるよう指示されたこと、断りの連絡も私が入れること、とだけ書いた。
翌週、草さんに断りの電話を入れると、草さんは言った。「千尋さんが行くのかい? お父さんから聞いてるよ」。父は自分で先に電話をしていた。草さんは続けた。「君には伝えておく。あの人の話は最後まで聞いてやってくれ」。
見合いの日は3月下旬の日曜日だった。駅前のホテルの喫茶室。東条さんというその人は、写真の通り背が高く、紺のジャケットを着ていた。私が「大変なお仕事ですよね」と言うと、彼は黙ってから言った。「そう言っていただいたのは久しぶりです」。私は「それは失礼な話ですね」と笑い、彼も笑った。
帰り際、駐車場で彼が聞いた。「僕の仕事を聞いて、何とも思わなかったんですか? 」私は答えを探す必要がなかった。「仕事に上下はないと思うので。うちは町工場で、鉄を切る人も、溶接する人も、最後に床を掃く人もいる。誰か一人が抜けたら棚は出せません。誰の仕事が偉いとか、そういうのはないところで育ったので」。東条さんは何も言わず、長い間私を見ていた。最後にもう一つだけ聞かれた。「経理と総務は何人でやっているんですか? 」「一人です」。彼はそれ以上何も聞かなかった。深く頷いただけだった。
電車の中で、私は草さんの言葉を思い出していた。「あの人の話は最後まで聞いてやってくれ」。最後まで聞いた。なぜあの人は職業のことを、あんなに気にするのだろう。その理由は、まだ聞けていなかった。
私たちは2ヶ月の間に4度会った。動物園、蕎麦屋、川沿いのドライブ。動物園では、モップの入った台車を押す年配の女性に彼が深く頭を下げていた。「ああいう台車は重いんです。すれ違う時に止まると、押している人が楽なので」。蕎麦屋では、食べ終わった後、彼が湯呑みを重ね、箸置きを揃え、箸を手前に寄せた。「片付けやすいでしょ」。彼は自分の話をあまりしなかった。私の仕事の話をすると、聞く側に回る。「手で書いたものは入りますね」と、彼は言った。
4度目の帰り、駐車場で彼は前を向いたまま言った。「片瀬さん、結婚していただけませんか?
」私は驚いた。だが、断る理由が一つも浮かばなかった。この人は私の話を最後まで聞く。私の仕事を軽く扱わない。私がいる場所を邪魔だと言わない。私には、誰かが私の言葉を待っているということが、なかった。ただそれだけのことだ。「はい」。彼は長い息を吐いた。「断られると思っていました」。「どうしてですか? 」「僕の仕事のことでご家族が…」そこで言葉が切れた。私は言った。「家族のことは私が話します」。
その週の日曜、私は実家の座敷に家族を集めた。「結婚することにしました。東条さんと」。最初に笑ったのは姉だった。「え、嘘? 本当に清掃員と結婚するの? お姉ちゃんは畳に手をついて笑った。やめときなよ。掃除の人だよ。うちの会社の便所を掃除してる人と同じ仕事だよ」。母が茶を注ぎながら言った。「みさきだったら絶対に許さなかったけどね」。父は新聞から目を上げた。「まあ、お前ならそのくらいで十分だ」。母は「親戚には、会社員とだけ言っておくわね。細かいことは言わなくていいでしょ」と言った。「おめでとう」という言葉は、その日誰の口からも出なかった。
私は「会社は6月いっぱいで辞めさせてもらいます」と伝えた。父は「引き継ぎに有給を使うなよ。有給を使う分は働いてないんだからな。残った分の買い取りは、そういう規定だ」と言った。私は頷いた。
翌月曜、会社へ行くと私の机は空になっていた。壁の表は剥がされ、糊の跡だけが残っている。姉が言った。「その机、倉庫にするから。どうせやめるんでしょ。その紙も剥がしといたから。お客さんが来た時見えるでしょ」と。そして、9年分のファイルが順番も向きもバラバラにダンボール箱に詰め込まれていた。私は床に座って、一冊ずつ積み直した。その中に、7年前の薄いファイルがあった。指が止まった。
7年前、うちは一つの取引を失いかけた。納めた棚の溶接に不備が見つかり、先方は納入を止めた。11台を交換し、かかった費用は1200万円。その年の利益がほとんど消える額だった。父は「そんな紙一枚で何が変わる?
」と吐き捨てた。私は泣きそうになりながら報告書を書いた。何が起きたか、なぜ起きたか、どう直したか。そのおかげで取引は続いた。そのファイルを、私は棚の一番上に戻した。
後田さんが事務所に入ってきて、床のダンボールを見て、黙ってファイルを一冊拾い上げ、埃を払って私に渡した。「ちひろさん、辞めるんだってな。そうか」。それだけ言って工場へ戻っていった。
退職届を出した後、父が3度、私に用を言いつけた。一度目は決算、二度目は取引先への挨拶状、三度目は姉を引き継ぎの立ち会いに入れること。最後のは断らなかった。むしろ、そうして欲しかった。引き継ぎの相手は若宮さん、24歳の入社2年目だ。
私は81の項目を書き出した。支払いの記述、入金の確認。給与の締め、社会保険の届け。契約の更新の月、取引先ごとの担当者とその人の好み。工場から不良が上がった時の手順。一つ一つの項目に、いつまでに何を見てやるか、詰まったら誰に聞くかを書いた。そして「引き継ぎ書」と表紙をつけ、自身の控えをもう一冊作った。若宮さんに渡すと、彼女は74番のページを見て言った。「登場グループ関連。寺内ビルサービス。7年前の件。別紙参照」。私は説明した。「この下に付けてあります。寺内ビルサービスは5年前に登場グループに買われて名前が消えたんです」。その時、姉が横から手を伸ばして引き継ぎ書を閉じた。「そんな昔の話、いいでしょ。こんなの誰が読むの? 」と。
引き継ぎの最後の日、私は若宮さんに頼んだ。「分からないことがあったら、部長ではなく後田さんに聞いてください」。会社を辞める日、社員の何人かが花をくれた。後田さんが工場から出てきて、軍手を外して手を差し出した。「元気でな。何かあったら電話しろ。俺はまだいるから」。
入籍は7月の初めだった。式は身内だけでホテルの小さな部屋で食事をした。父と母は来た。姉は来なかった。東条さんの側の出席は3人だけ。両親はどちらも亡くなっていると聞いた。その日から私は東条千尋になった。
新しい住まいは、駅から歩いて10分ほどのマンションだった。畳の部屋の壁には日焼けの跡がある。「狭くてすみません」と夫が言った。「いえ、日当たりがいいですね」。「そこだけは自信があります。洗濯物がよく乾くので」。台所には鍋が2つとフライパンだけ。洗剤は食器用と油汚れ用の2種類だけだった。「汚れの種類はそんなに多くないので。上から拭くのが先で、拭くのが後。それだけ守れば2種類で足ります」と彼は言った。
最初の朝、私は5時に目を覚ました。隣の布団はもう空だった。台所に行くと、夫が灰色の作業着を着て立っていた。「5時20分に出ます。現場が6時からなので」。彼は自分の弁当箱に、前の晩の残りを詰めていた。私が手を出すと、「2人分の飯を食べる家で、片方が全部やるのは感情が合いません」と笑った。
実家はその後、バタバタしていた。父の会社に、登場グループから取引先の募集案内が届いたのだ。年に6000万円の仕事。父は「これが取れたら、うちも大手の仲間入りだ」と社員を集めて宣言した。姉がプレゼンを担当し、申請書を作った。私は母から電話でその話を聞いた。「登場グループって知ってる? うちに直接案内が来たのよ」。「あの会社は…」「あんたには関係ない話だって言ったでしょ。そういうところよ。千尋は人の話に自分の話を挟むの」。
私は頼んだ。若宮さんに。「申請書の『過去の是正の履歴』の欄には、必ず『あり』と書いてください。引き継ぎ書の74番に理由が書いてあります。そのページを部長に開いて見せてから、書いてもらってください」。若宮さんは言われた通りにした。しかし姉は言った。「そんなの書いたら不利じゃない。うちは不良出しましたって自分から言うの? 」そしてその欄には「該当なし」と書かれた。父はその書類に、中身も見ずに判を押した。
父は「取れる前提で動く」と言い、溶接ロボットを一台、リースで入れた。1400万円の契約。人も2人雇った。後田さんが反対したが、父は「取れる」とだけ答えた。止める人間がいなかった。
説明会の日。私の家には、父と母と姉が突然やって来た。父は「お前の旦那の会社だぞ。車内の様子を聞け」と言った。私は「そういうことはしません」と断った。父が怒り、姉が「もういいよ、お父さん。どうせ私が取ってくるから」と笑った。帰り際、父は玄関で言った。「清掃員の嫁に頭を下げると思うな。お前が来ないなら来なくていい」。その時、夫が買い物から帰ってきた。彼は丁寧に頭を下げたが、父は無視した。姉は作業着を指で払って除け、母は「この家のお茶っ葉、安いのしかないでしょ」と言った。
その日の午後、母から電話があった。「ちひろ、あんた知ってたの?
あの人よ。あんたの旦那さんよ。社長なんですって。登場グループの社長だったのよ」。私は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。知らなかった。登場グループだとは知っていた。父には電話で伝えたが、「清掃員だろうが」と笑われた。私はそれを、母に伝えた。
夫が帰ってきて、深く頭を下げた。「黙っていてすみませんでした」。本当ですか、と私。「本当です。登場グループの代表をしています」。「毎朝5時20分に出ていくのは、本当です。あれも嘘ではありません」。私は怒っていなかった。私が驚いたのは肩書きではない。その肩書きを持ったまま、この人が毎晩あの台所で皿を洗っていたことの方だった。「どうして言わなかったんですか? 」「聞かれなかったからです」。「それはずるいです」。「はい。ずるいと思います」。彼は続けた。「言ってしまえば、あなたの目が変わるかもしれません。変わらないかもしれません。どちらでも確かめたくなかったんです」。「私は変わりませんよ」。「今そう言っていただけたので、もう大丈夫です」。
実家の説明会は、その日だった。「誰が行き、誰が行かなかったか」を、私は後で母と姉の口から聞いた。母は言った。「もう、あの床ったら、顔が映るのよ。うちの工場の床とは違うわ」。その床を毎朝誰が拭いているのか、母は考えなかった。父と姉は、申請書の単価の計算が合わないことや、生産能力の根拠が示されていないことを質問され、答えられなかった。品質の人が検査記録の保管期間を尋ねると、父は「それは事務の方で…」と言いかけて、品質の人が重ねて聞いた。「事務の方というのは、担当の方がいらっしゃるということですか? 」「もちろんです。ちゃんとしたものがおります」と姉が答えた。
最後に経理の人が質問した。「過去に納入先から不良の指摘を受けて、是正の処置を報告されたことはございますか? 」姉はすぐに答えた。「ございません」。父は何も言わなかった。訂正もしなかった。7年前、あの報告書を書いたのは私で、持っていったのも私だ。だが判を押したのは社長である父だった。
そこで、三雲さんが言った。「本日はありがとうございました。あと一つだけご案内があります。3年以上の継続となる案件では、ご説明にお越しいただいた皆様に代表が一度ご挨拶に出るのが弊社の決まりでございます」。扉が開き、スーツを着た人物が入ってきた。「こちらが代表取締役社長の東条でございます」。3人が顔を上げた。そこに立っていたのは、その日の朝、私の家の玄関で「行ってきます」と言った人だった。
姉の口が開いたまま止まった。「え?
なんで清掃員がそこに立ってるの? 」誰も何も言わなかった。夫は一歩前に出て、名刺を差し出した。「登場グループ株式会社、代表取締役社長、東条優」。父は名刺を受け取った。指が震えていた。母が口に手を当て、「すみません」と言った。父は絞り出すような声で言った。「あんた、騙したのか? 」「一度も嘘はついていません」。「清掃員だと言ったじゃないか」「はい。今でも毎月現場に出て清掃しています」。姉が「最初のお見合いって、本当は私だったんですよ」と言うと、夫は言った。「存じています。草さんからお話を頂きました。断られたことも聞いています。私の方から、肩書きは書かないでくださいとお願いしました。私がしている仕事だけを書いてくださいと」。「なんでそんなこと? 」「肩書きを先に出すと、人は仕事の中身を見なくなるからです。先に社長と書いてあれば、多分断られなかったでしょう。でも、それで見ているのは私ではありません」。
父は別の方向から口を開いた。「まあ、しかし。こうなると、うちの会社は親戚ということになる。じゃあ契約の方も一つ、よろしく頼むよ」。夫は答えた。「私はこの件の判断から降りております」。「は?
」「応募いただいた会社の一覧を確認した日に、身内の会社が入っていることに気づきました。その日のうちに書面を出して、外れています」。「じゃあ、なんで今日ここに? 」「本当は、私はこの部屋に入るべきではありません。判断から降りた人間が応募された会社の方とお会いするのは、後で疑われるもとになりますから」。「分かっていて、それでも来たのか? 」「恩社だけ私が出なければ、『身内の会社は特別に扱った』と必ず言われます。その時には、私が降りたことも誰も信じません。ですから、代表は挨拶だけで退席し、審議には入らなかったということを、記録に残していただきます」。三雲さんが頷いた。「代表からその申し出を頂いて以降、この案件の資料は代表の手元へは回っておりません」。
父が顔を上げた。血の気が引いていた。「そこを何とかするのが家族というものだろう」。夫は父の目を正面から見て言った。「会社は、家族ごっこをする場所ではありません」。父は口を開いたまま、何も言えなかった。「もし私が口を聞けば、恩社は一生『社長の身内だから入れた会社』と呼ばれます。それはうちで働く者も、この会社は実力でないところで取引先を決めると思うでしょう」。3人が部屋を出ようとした時、三雲さんが書類を見ながら言った。「そういえば、恩社とは以前にもお取引がございましたね」。父は振り返った。「いや、うちは今回が初めてですが」。「そうでしたか。失礼しました」と三雲さんは言い、手元の紙に何か短く書き出した。
その日の夜、父から電話があった。「お前のせいだ」と。私は引き継ぎ書の控えを開き、74番を読み上げた。「どこかの取引先から審査の書類が来て、過去の是正の履歴を聞かれたら、必ず『あり』と書き、書類の写しをつけること。先方には記録が残っている。隠せば内容ではなく手続きで落ちる」。私は続けた。「その紙は、うちの会社を一度救っています。それをなかったことにしたのは、登場グループではありません」。父が言った。「戻って来い」。私は断った。「じゃあ、旦那さんに頼んでくれ。今回は仕方ないが、次がある。次の時に一言言ってもらえれば」。「あの人はこの件の判断から降りています」。「ここを何とか…」「何とかしたら、うちの会社はどう呼ばれると思いますか? 『登場グループの社長の身内だから通った会社』です」。父が黙った。「育ててやった恩を…」その言葉に、私は思わず言い返していた。「その恩は、『代わりに行け』と仰った時に、もう使っていませんか?
」
電話を切って、私は思った。読まなかったことが罪なのではない。人はいつでも読まない。そうではなくて、読まれなくても残る形で書いておく人間が、あの会社に一人もいなくなった。それだけのことだ。
後日、父が家に来た。後田さんたちが辞めると言っている、戻ってきてくれ、と。9年間、父が私に頭を下げたことは一度もなかった。「取締役にしてやる」。私は首を振った。「取締役はお父さんが決めることではありません。株主総会で決めることです」。9年間、私が欲しかったのは、片瀬千尋という人間があの会社で働いていると、誰かに一度でも言ってもらうことだった。「お父さん、会合の会場へ届け物に行った日のこと、覚えていらっしゃいますか。あの日、お父さんは私をこう紹介しました。『ああ、うちの事務です』。お姉ちゃんのことは『企画部長のみさきです』と紹介していました。取引先の前でお父さんが私の名前を呼んだことは、9年で一度もありません」。父は何も言えなかった。最後に父は言った。「あの表は、今は俺が書いてる」と。「そうですか」。「お前の字より遅い」。そう言って、父は帰っていった。母は玄関で「あの、お茶っ葉のことだけど。あれは悪かったわ」と、それだけ言った。それが、母が私に向けて口にした唯一の謝りの言葉だった。
翌年、私は経営サポート会社の面接を受け、採用された。簿記の試験も受かった。新しい職場の最初の月に、私は帳簿にない支払いの記述を3件見つけた。壁に表を作った。社長さんがその前に立って言った。「これ、うちの家内が頭でやってたやつだね。これがあれば、家内が休めるな」。その一言が、9年分の答えのように聞こえた。
実家のその後。片瀬スチール工業は潰れなかった。ただ、規模は小さくなった。ロボットのリースの支払いだけが残り、取引を見送る会社も出た。父は今、自分で支払いの表を作っているそうだ。壁ではなく机の上に置いて、朝と夕方に見ている。祖父が背骨と呼んだものを、父はようやく探し始めた。姉は企画部長を外れて一般社員になり、最初の月は6時に帰っていたのが、今は7時を過ぎる。若宮さんから手紙が来た。引き継ぎ書は捨てずに持っていて、項目はもう90を超えたそうだ。
夫は今も月に4日、灰色の作業着で出ていく。事務所の日のネクタイが曲がっていたら、私が直す。4月の休日、スーパーで飲み物の棚の前で夫の足が止まった。通路の先で女の人が床を拭いていた。こぼれた汁が広がって、客が手前で足を止めていく。夫は私に買い物かごを渡した。「ちょっと手伝ってきます」。彼は歩いていき、店員と二言三言話すと、柱の脇から黄色い表示を2枚持ってきて、汁の手前と向こうに立てた。それから紙を重ねて汁を吸い取り、モップで拭いた。上から下へ拭くのが先で、拭くのが後。新婚の台所で聞いた順番だった。慣れた手つきだった。拭き終わっても、表示はそのままだった。女の人が何度も頭を下げた。
戻ってきた夫に私は言った。「社長なのに」。彼はかごを受け取って、敬語をやめてこう答えた。「社長だからだよ」。私は笑ってしまった。レジに並んでいる時、夫が言った。「あの見合いの日、僕の仕事の話をして嫌な顔をしなかったのは、千尋さんだけでした」。「どうして? 」「あの日までに会っていただいた方には、4人続けて断られています。どの方も、会って15分でした」。私は前を向いたまま答えた。「私には断る理由が分かりません。だって、仕事でしょ」。
姉が捨てたのは、清掃員の貧乏人ではなかった。3200人を食べさせている人で、床を拭くことを恥ずかしいと思わない人だった。私の夫は大きな会社の社長だけれど、今でも時々、清掃員だ。私は明日もどこかの会社の支払いの表を作りに行く。誰にでもできると言われる仕事だ。それを、これからも私がやっていく。


