あの夜、俺の指の下で十三歳の女の子が息をしていた。血まみれの左手で、破片を拾いながら、俺は約束した。「君の命は俺がつぐ」と。十五年后、その約束をした相手が、突然俺の目の前に現れた。お見合いの席で。ただの工場勤務だと嘘をついて、帰ろうとした俺の左手を、彼女がじっと見つめた。その指の腹に残る白い傷跡を。「見つけた」と言って、彼女は鞄から婚姻届けを取り出した。「サインしなさい」って。名前も顔も知ら…

あの夜、俺の指の下で十三歳の女の子が息をしていた。血まみれの左手で、破片を拾いながら、俺は約束した。「君の命は俺がつぐ」と。十五年后、その約束をした相手が、突然俺の目の前に現れた。お見合いの席で。ただの工場勤務だと嘘をついて、帰ろうとした俺の左手を、彼女がじっと見つめた。その指の腹に残る白い傷跡を。「見つけた」と言って、彼女は鞄から婚姻届けを取り出した。「サインしなさい」って。名前も顔も知ら...

お見合いの席で、俺は工場勤務ですと答えた。これで帰れると思った。それなのに、彼女の視線が俺の左手で止まった。人差し指の腹に残る古い傷跡。白く引き連れた線が一本。もう十五年も前のものだ。普通なら気づきもしない傷だった。彼女の顔から余裕が消えた。背中がわずかに揺れた。目の縁が赤くなっていくのが分かった。

見つけた。そう言うと彼女は膝の上の鞄から一枚の紙を取り出して、刺身の皿を横ずらして机の真ん中に置いた。折り目のついた役所の用紙だった。婚姻届けにサインしなさい。

俺は固まったまま彼女を見ていた。

俺の名前は宮が通る。四十二歳。東京の大田にある大森精密という町で働いている。社員は急に先盤とフライス盤と検査盤が並んだ決して広くない工場だ。作っているのは医療用の器具の部品で、組織を挟んで掴む鉗子の先や、針を持って糸をかける縫合機の首を削っている。ステンレスの棒材から削り出して磨いて寸法を測ってまた磨く。そういう仕事だ

朝は七時半に工場へ入る。まず機械の油を見て、それから前の日に磨いた品物を明るいところへ持っていって表面を確かめる。指の腹でなぞると目では分からない段差が分かる。うちの工場長はそれを「手で見る」という。俺がこの工場に来て六年目になる。それより前の俺が何をしていたかを知っている人間はこの工場には工場長一人しかいない

俺は元々医者だった。都内の大学病院にいて、肝臓と胆管と膵臓を扱う診療科にいた。腹の奥の方、血管と胆管が何本も入り組んでいるところを触る仕事だ。他の病院で切れないと言われた患者さんが回ってくることも珍しくなかった。若い頃の俺は多分少しだけ運が良かった。手が動いた。人より早く動いた。それだけの話なのに、いつの間にか周りが俺を天才と呼ぶようになった

そして六年前の秋、俺は成田ミノさんという五十四歳の患者さんを手術台の上でなくした。肝臓の入り口の辺りにできた病気で、切除には肝臓を半分以上取らなければならなかった。長い手術になることは分かっていた。準備はした。何度も画像を見た。それでも途中で深いところの血管が破れた。手を突っ込めば届く場所ではなかった。目では見えている。あと三ミリのところに出血点があるのが分かっている。だが持っている道具の首が太くてその角度に入らなかった。角度を変えようとすると視野が塞がる。視野を確保しようとすると先が届かない

俺はその日初めて、自分の手が何の役にも立たないという感覚を知った。血のたまる方が早かった。輸血が追いつかなくなって、途中から俺は何を切っているのかも分からなくなっていた手術は九時間を超えていた

家族への説明は俺がやった。廊下の突き当たりの小さな部屋で、成田さんの奥さんと娘さんに向かって俺は自分がしたことを順番に説明した。奥さんはずっと下を向いていた。娘さんは俺の目を見ていた。二十四歳だったと思う。説明が終わった後、娘さんが言った。「先生、父は痛くなかったですか? 」

俺は答えられなかった。「麻酔が聞いているので痛みは感じていません」と言えば良かったのだと思う。医学的にはそれが正しい。でも俺の口からその言葉は出てこなかった。その夜俺は病院の階段の踊り場に座って朝まで動けなかった

誰も俺を責めなかった。それが一番辛かった。上司も同僚も「あれは仕方がない」と言ったカンファレンスでも同じ結論が出た。「術者に過失はない」「判断にも問題はない」「誰のせいでもない」。でも俺には分かっていた。あと三ミリだった}}届かなかったのは俺の手だ

それから三ヶ月ほど俺は一応病院にいた。手術にも入った。だが自分でも分かるくらいに手が遅くなっていた。深いところに入るたびに成田さんの腹の中が頭をよぎるようになった。判断が一秒遅れる一秒の遅れはあの場所では致死的になりうる。俺はそういう医者になってしまった

辞表を出した日のことはよく覚えている。教授だった恩師の先生は判子を押さずに机の上に置いたまま俺の顔を長いこと見ていた。「休むのとやめるのは違うぞ」「分かっています」「戻ってくる場所は残しておく」「戻りません」「そういうやつに限って戻ってくる」先生は最後までそう言っていたが、俺は本当に戻らなかった

免許は返していない。「返せ」と言われたわけでもない。処分を受けたわけでもない俺は自分で降りただけだ。医師の名簿の上では俺はまだ医者ということになっている。それが余計に苦しかった

二ヶ月ほど何もせずに部屋にいた。貯金が減っていくのを眺めていた。そのうち大森精密の求人を見つけた。「医療器具の精密部品・未経験者可」と書いてあった。面接に行った日、工場長は俺の履歴書を見て、それから俺の手を見た。「前は何をしてた? 」「人の腹の中を触っていました」「そうか」。それだけだった。学歴も前職もそれ以上は何も聞かれなかった次の月曜から来いと言われて終わりだった

工場長が俺の前歴を知ったのはずっと後になってからだ得意先の人が工場に来た時、俺の顔を見て「みい穴先生ですよね」と言ったからだあの日工場長は何も言わなかったただその日の帰りに缶コーヒーを一本だけ俺の机に置いていった

俺はもう白衣を着る資格がないそう思って生きてきたけれど、医療から完全に離れることはできなかった俺が削っているのは人の腹の中へ入っていく道具だ俺が磨いた面が誰かの内側に触れるその人の顔を見ることはない名前も知らないそれでも遠いところで誰かの命につながっているそれが俺にできる精一杯の距離だった

年に一度だけ俺は工場を休む十月十七日成田さんの命日だ俺は朝の電車で郊外の霊園まで行って、線香を上げて何も言わずに帰ってくる話しかける資格がないと思っているからだ

三年目の秋、墓の前で娘さんに会った成田舞さんという、あの時二十四歳だった人が二十七歳になっていた「先生」「その呼び方はやめてください」「じゃあ何と呼べばいいんですか? 」「宮さんで結構です」彼女は少し困った顔をして、それから花の袋を石の脇に置いた「毎年来てくださってますよね」「気づいていましたか?

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」「線香の減り方が違うので」俺は返す言葉がなかった「母は去年亡くなりました」「そうですか」「最後まで先生を恨んではいませんでした」「俺は恨まれた方が楽です」「知っています。だから言いません」彼女はそう言って笑った母親によく似た笑い方だった

それから毎年俺たちは同じ日に同じ場所で顔を合わせるようになった長い話はしない天気の話をして線香を上げて別々の道を帰るそれだけの関係が三年続いていた

もう一つ誰にも言っていないことがある工場の作業が終わった後、俺は月に何度か自分の机で図面を広げる鉛筆で線を引く描いているのは縫合機の図面だ針を持って糸をかけて結ぶための道具腹の深いところあの日の俺の手が届かなかった場所へ届くための首の長さと角度材料は自分で買っている社内の材料には手をつけない医療機器を作る工場はどの材料をどこへ使ったかを全部記録に残さなければならないからだ俺は自分の金でステンレスの棒を買って、修業時間が終わってから機械を借りて削っている工場長には最初に断った「電気代だけ置いてけ」。そう言って工場長は許してくれた

何本作ったか正確には数えていない三十本を超えた辺りで数えるのをやめたどれも完成していない作っては直し、また作っては直している誰かに見せたことはない使う当てもないなぜ作るのかと聞かれたら俺は多分うまく答えられないただあの日の三ミリが今もまだ俺の指の先に残っているそれだけだ

その話が来たのは六月の初めだった工場の昼休みに携帯が鳴った恩師の先生からだった六年前に俺の辞表を受け取った人だ今はもう教授を退いて、都内の病院の顧問のようなことをしている年に一度か二度、思い出したように電話をかけてくる「宮さんか、生きとるか」「生きてます」「宮を大王か」「先生、何の話ですか? 」「見合いだ」「相手は霧島メディカルの社長の娘さんだ」

霧島メディカルうちの工場の一番古い得意先だ「なぜ俺なんですか? 」「知らん。先方から名前が来た。「うちの工場に宮さんという技術者がいると聞いた」。会ってみたいそうだ」俺は黙った「断ってください」「断る理由を言え」「釣り合いません」「相手が決めることだ」「先生…」「一度だけ行けそれで終わりなら終わりでいい」先生はそう言って電話を切った

見合いの日は土曜だったスーツは一着しか持っていない病院にいた頃に式で着たりのやつだネクタイは駅で買った革靴は磨いたが、つま先の革がもう硬くなっていて艶が戻らなかった場所は都心の料亭だった門から玄関まで石が敷いてあって、両側に竹が植っている俺には縁のない場所だった先に着いたのは俺の方だった早く終わらせよと思っていた「工場勤務です」と言えばいいこれで帰れる帰りに駅前で立ち食いそばでも食べて、月曜からまた機械の前に立つそれでいい

襖が開いた入ってきたのは若い女性だった黒に近い紺のスーツ髪は後ろで一つにまとめてある座るまでの動作に無駄がなかった「霧島立と申します」彼女はそう言って畳に手をついた顔をあげた時、目があった人の顔色を伺う習慣のない強い目だった「宮がトルです。二十八歳です」「霧島メディカルの開発本部におります」「はい」「宮さんは四十二歳と伺いました」「そうです」「趣味の話はいたしません天気の話も結構ですよろしいですか? 」俺は少し面食らった「ああ」「時間が惜しいので」

料理が運ばれてきた彼女は箸を取らないまま俺を見ていた「お仕事は何をなさっているんですか?

」来たと思った「工場勤務です」。心の中で「これで帰れる」ともう一度言った普通ならここで空気が変わる相手の目が伏せられて、当たり障りのない世間話に変わるところが彼女は表情を変えなかった「どちらの工場でしょう? 」「大森精密と言います」「社員が九人の小さいところです」「うちの取引先ですね」「はい」「何を担当されていますか? 」「削って磨いています」「鉗子の先とか縫合機の首とか」「縫合機」彼女の眉がわずかに動いた気がしたが、その時の俺は気に留めなかった「うちの波注何番の品でしょう」「先月から流れているのは千二百番台のシリーズです」「千二百四十ですか? 千二百六十ですか?

」「千二百六十です」「千二百六十は閉じ合わせが悪いはずです」「先端の噛み合わせが二段になっているので」

開発の人間が現場の噛み合わせの話をするのは珍しい一発で通るのが九割十本に一本は手直しに回します「原因はどこですか? 」「二段目の当たりです図面通りに削ると、閉じた時に先だけが浮きます」「では現場ではどうしていますか? 」「最後に人が手で当たりを取ってすり合わせています」「誰が? 」「俺です」彼女はそこで初めてほんのわずかに口の端を動かした笑ったのかどうかも分からない程度だった俺は続けたもう帰りたかったからだ「年収は四百万に届きません貯金もほとんどありません結婚を考えられるような立場ではないと思っています今日は先生の顔を建てるために来ました」「ですから」

「食べないんですか?

」「え? 」「料理が冷めます」俺は言葉を遮切られた彼女は自分の箸を取って椀の蓋を静かに外した仕方なく俺も取ったその時だった彼女の視線が止まった俺の左手の辺りだった俺は反射的に手を引きかけたが、もう遅かった人差し指の腹に傷跡がある一センチほど白く引き連れていて、周りの皮膚より少しだけ盛り上がっている冬になると突っ張るように痛むもう十五年も前の傷だ普通は気づかない気づいたとしても「包丁で切ったんですね」で終わる傷だ

でも彼女は箸を置いたそのまま俺の指を見ていた一秒、二秒息を吸う音が聞こえたさっきまで真っすぐだった背中がほんのわずかに前に傾いた「その傷」「昔のものです」「仕事とは関係ありません」「左の人差指ですね」「はい」「腹斜めに爪の方へ抜けている」俺は彼女の顔を見た強気だった目の縁が赤くなっていたまばたきの数が急に増えていた彼女は自分の顔に何が起きているのか分かっていて、それを止めようとして失敗しているそういう顔だった「見つけた」声がかれていた俺は何のことかわからなかった

彼女は膝の上に置いていた鞄を開けて、中から紙を一枚取り出した折り目が四つついている役所の窓口でもらうあの薄い緑がかった用紙だった彼女はそれを机の上に置いた刺身の皿を横ずらして、俺と自分のちょうど真ん中に「婚姻届けにサインしなさい」

俺は自分の耳を疑った「はい」「聞こえましたよね」俺は紙を見て彼女の顔を見て、それからまた紙を見た「夫になる人」と書かれた欄が開いている「妻になる人」の欄にはもう字が入っていた細くて角のある字だった霧島立の名前が全部埋まっているいつ書いたんだと思ったどちらにしてもまともではない「あの…霧島さん」「下の名前で立で結構です」「今日初めてお会いしましたよね」「私は初めてじゃありません」「え? 」「二度と逃がしません」彼女はまばたき一つせずにそう言った目の縁は赤いまだったそれでも声は震えていなかった「今度は私が捕まえる番ですから」

俺は何と答えたのか覚えていない覚えているのは、彼女が急に姿勢を戻して何事もなかったように箸を取ったことだ「おいしいですね」「そうですね」「宮さん冷めますよ」俺はその日、味の分からない料理を最後まで食べた料亭を出たのは一時間半後だった門の外まで彼女が見送りに出てきた「今日はありがとうございました」「こちらこそ」「あの紙のことはお忘れください」「お忘れられません」「そうでしょうね」彼女は少し笑ったそれが初めて見る笑顔だった困るくらい嬉しそうな笑い方だったそして俺が背を向けた時、後ろからもう一つだけ声が飛んできた「大森精密の出勤は七時半ですね」俺は答えずに駅へ向かった

その日俺は婚姻届けにサインしなかった当たり前だ初対面の人間に紙を出されて名前を書く人間はいない俺は紙を彼女の方へ押し返した彼女は何も言わずにそれを四つに折って鞄へ戻したそれで終わりだと思っていた

月曜の朝、彼女は工場の前に立っていた七時二十分だったまだシャッターが半分しか上がっていない時間だ彼女は紺のスーツで片手に鞄を下げて、工場の前の軽トラックが一台通れば人が橋に寄るような道の真ん中にまっすぐ立っていた俺は自転車を止めた「何をしてるんですか? 」「おはようございます」「帰ってください」「発注元の人間が下受けの工場を尋ねてはいけませんか?

」「あ…」「打ち合わせは十時に工場長さんと私は早く着きすぎただけです」嘘だと思っただが証明の仕様がない

その日彼女は本当に十時に工場長と会った事務所のガラス越しに資料を広げて説明しているのが見えた工場長が頷いた昼になって彼女は帰った帰り際は俺の作業台の横で足を止めた「今日何を磨いていましたか? 」「縫合機の首です」「見せてください」俺は品物の入ったトレーを彼女の方へ向けた彼女は手を伸ばしかけて、それから引っ込めた「触ってはいけませんね」「素だと油がつきます」「では見るだけにします」彼女はしゃがんで作業台と同じ高さから品物を見たスーツのままコンクリートの床に膝を折って「これ、握り角度がうちの図面と違いますね」

俺の手が止まった図面通りに削っているそれは間違いないただ最後のすり合わせの時に俺は自分の癖で少しだけ落とす許している寸法の幅交差の中には入っている検査は通るだが違うと言われたら確かに違う「こ内です」「知っています」「責めているのではありません」「では何ですか? 」「なぜそうするのかと聞いています」俺は言葉に詰まった理由はある図面通りの角度だと使う人が手を返した時に小指の付け根が当たるほんの少しだけ逃してやると当たらない俺は自分の手で確かめてそうしているだがそれを言えば、俺が使う側だったことを認めることになる「なんとなくです」「そうですか」彼女は立ち上がって膝の埃を払った「また来ます」「来なくていいです」「来ます」そして本当に来た

週に一度、多い時は二度正談で昼間からいる日もあったが、俺のそばに来るのは大抵出勤前か出勤後だった作業中は何も言わずに離れたところに立っている打ち合わせの中身も本当で、うちに新しい仕事を持ってきたりもしたそれでも俺は迷惑だった三度目に来た日、俺は工場の裏で彼女を捕まえた「霧島さん、いつまでこんなことをするんですか? 」「あなたにサインして欲しいからです」「え?

意味が分かりません」「分からないふりが上手ですね」「本当に分からないんです」彼女は俺の目から視線を外さなかった「宮さん、私、嘘のつけない人は好きなんですでも嘘が下手なくせにつく人は好きじゃありませんあなたは後者です」彼女は鞄の手帳を出して、開かずに手の中で持ったまま言った「先週あなたはカナさんに肝臓の入り口門部の器具の説明をしていましたね」「聞いてたんですか? 」「聞こえましたあの場所の胆管がどのくらいの太さかまで説明していました図面には書いてありません調べれば分かります」「調べる…」「下受けの職人が何人いますか? それにあなたは物を持つ時必ず親指と人差し指の先で持ちます手のひらは使わない持った瞬間に一度だけ角度を変えるあれは重心を見ているんじゃない先端がどこを向くかを見ている」

俺は自分の手を見た「開発の仕事で手術の見学に入ることがありますああいう持ち方をするのは術者だけです」言い返す言葉が出てこなかったその日から俺は彼女を追い返せなくなった

七月に入った工場は暑い彼女はそんな中でも同じ格好で来た上着だけは脱ぐようになったが、シャツの袖はきっちり留めたままだったある日、かなちゃんが彼女に麦茶を出した「霧島さん、これ飲んでくださいぬるいけど」「ありがとうございます」かなちゃんは自分のパイプ椅子を持ってきて霧島さんの後ろに置いた彼女は少し驚いた顔で座ったスーツのままパイプ椅子に「ありがとうございます」「霧島さんって笑った方がいいですよ」「そう言われたことがありません」「じゃあ私が最初ですね」彼女は本当に少しだけ笑ったぎこちない、笑い慣れていない人の笑い方だった俺は機械の影からそれを見ていた

その頃には俺は彼女のことを少しずつ知るようになっていた霧島メディカルは彼女の父方の祖父が始めた会社で、今は父親が社長をしている従業員は三百人ほど肝臓や胆道の手術に使う器具ではそれなりに名前が通っている彼女は大学を出てそのまま父の会社の開発本部に入った医者ではないそれから彼女は数字と絵をほとんど忘れないらしい一度工場長が十五年前の図面を探していたことがあった倉庫の奥の古いファイルで番号も分からなくなっていた彼女は少し考えてから「この形なら当時の型番はこの数字だと思います」と言ったその番号で探したら本当に出てきた

七月の終わり頃、工場に来ていた彼女の携帯が鳴ったことがある彼女は「失礼します」と言って外へ出た工場の裏は狭い路地で、隣の家の塀と河場の壁に挟まれて自販機が一台あるだけの場所だ俺は材料を取りに行く途中でそこを通った彼女は塀の方を向いて立っていた「はい、分かりました」「ビリルビンの値は…」俺の足が止まった「下がっていないということですね」「ドレナージュを入れてから何日目ですか? 」数字の話をしていた低い声だった「はい、分かりました私も夜に戻ります」電話が切れた彼女はしばらく塀を見たまま動かなかったそれから深く息を吸って背筋を伸ばして振り返った俺と目があった「聞きましたか?

」「すみません」「謝らないでください」「ご家族ですか? 」「父です」「そうですか」「今日はもう帰ります」彼女は工場長に頭を下げて帰っていった歩き方はいつもと同じだったただ鞄を持つ手の指が白くなっていた俺は自販機の前に立ったまましばらく動けなかったドレナージュという言葉を俺は六年ぶりに人の口から聞いた胆汁の流れが詰まっている時に管を入れて外へ逃す処置のことだビリルビン胆汁が滞ると血に溜まって肌を黄色くするあの数字が下がらないというのは体の中でまだ何かが塞がっているということだ「考えるな」と自分に言い聞かせた俺には関係のないことだそう思っているのに、その日の帰り道、俺の頭は勝手に動いていた

それきり彼女は父親の話をしなかった自分のことを進んで話す人ではなかったそれでも七月の最後に来た日、帰り際に一度だけこんなことを言った「宮さん、私十三歳の時に事故にあったんです」俺は手を止めた「今日はそれだけです」そう言って彼女は帰って行った

八月に入って最初の週だったその日彼女はいつもと違う時間に来た夕方の六時過ぎ俺が一人で機械の掃除をしている時だった工場長も豊島さんもかなちゃんももう帰っていた「宮さん、出勤後ですよ」「知っていますそれで来ました」彼女は事務所ではなく作業場の方へ入ってきた俺の机の前で立ち止まった俺の机の上には図面が広げてあった掃除の前に少しだけ線を引いていたしまうのを忘れていた彼女はそれを見た「これは…」俺は慌てて紙を裏返した「何でもありません」「縫合機ですね」

「見ないでください」「首が長い握りの角度が起きている先端の噛み合わせが二段になっている」「霧島さん、うちの製品にこの形はありません」俺は紙を畳んで引き出しに入れた手が少し震えていたこれまで誰にも見せたことがなかった工場長でさえ、俺が何を書いているかまでは知らないはずだった「あなた、これを何年書いていますか? 」「関係ないでしょう」「答えてください」「帰ってください」彼女は帰らなかった俺の目をまっすぐ見ていた「宮さん、あなたは医者ですね」

機械が止まった工場は外の車の音まで聞こえるくらい静かになる俺は雑巾を置いた「人違いです」「宮がトル四十二歳医師免許の登録は今も生きています」「調べたんですか? 」「調べました」「趣味が悪い」「そうかもしれません」

「俺はただの工場勤務です」「嘘が下手ですね」俺は黙った「指先の傷腹側を斜めに爪の方へ抜ける白い線深いところの胆管の深さを暗記していること図面の交差の意味を知っていること全部同じです」「同じって何とですか?

」「十五年前に私を助けてくれた人と」

俺は自分の手を見た左の人差し指白い線十五年前、俺は二十七歳で医者になって三年目だったまだ何も分かっていないくせに、何でもできると思っていた時期だ夏の終わりの夜だった国道で車が数台絡む事故があって、救急が立て続けに入ったその中に十三歳の女の子がいた腹の中で出血していた血圧が下がって意識が落ちかけていた電話で相談した上級の先生方は「開けても厳しい」という判断に傾いていた手を出せば助かる見込みより、途中で失う見込みの方が高いそういう判断は正しい医療では珍しくない

俺だけが違うことを言った「まだ助かります」そう言った今考えれば生意気にも程がある三年目の医者が言っていいセリフではないただその夜は人手が足りなかったその日の上級は別の患者の手術に入っていた別の手術を後から抜けて合流してくれる約束で、俺が先に腹を開けた誰かがやらなければ、その子はそのまま朝を迎えられなかった俺は開けた

出血点は思ったよりも深かった脾臓を支える膜の付け根に近くて視野が作れない抑えながら剥がしてまた抑えて送り返した途中で使っていた鉗子の先が折れた金属の器具は割れないと思っている人が多いが、折れることはあるあの夜は無理な角度で力をかけ続けていた先が折れた瞬間、俺は破片の方を探した体の中に金属を残して閉じることは絶対にできない全部揃うまで閉じないそれが決まりだ左手の人差し指で出血点を抑えたまま、右手の血の海をかき分けた破片は、抑えている指のすぐ際に沈んでいた右手でつまみ上げようとした拍子に、破片の断面が抑えていた左の指をかすめた手袋が避けた避けた手袋の内側で、俺の人差し指が切れたかすめただけのはずが深かった血が滲んで、自分の血なのか患者の血なのか分からなくなった

普通なら手袋を変える当たり前だだがその時、俺の指は出血点を抑えていた抑えていた指を外せば、その子は数十秒でダメになる俺は変えなかったそのまま抑え続けた手術は明け方まで続いた終わった時、俺の左手は指の先まで真っ赤で感覚がなくなっていたその子は助かった

明け方、俺は手術室の外の流しで自分の指を洗った切れた場所を見て「これは縫った方がいいな」と思ったが、縫ってくれる人を探すのが面倒で、そのまま消毒してテープを巻いたその日の昼過ぎ、次の手術に入る前に俺は一度だけ病室に寄ったその子が麻酔から醒めかけていた熱を見ようとして額に手を当てると、薄く目が開いた子供の目のすぐ上に俺の左手があった巻いたテープは血を吸ってめくれ、人差し指の腹から爪の方へ斜めに抜ける切り口がそのまま出ていた俺はその時までそれに気づいていなかったマスクもキャップも外していなかったから、俺の顔は見えていなかったはずだ明け方の処置がまずかったのだと思う傷は治るのに二ヶ月かかって痕が残った

今にして思えばあの傷は残ってくれてよかった俺は手術の前にストレッチャーの上の子に一度だけ声をかけていたもう目を開けていられなくなっていた怖かったんだろう俺は加減でこう言った「怖くても目を閉じるな」。そしてもう一言「君の命は俺がつぐ」。三年目の医者が言うセリフではない今なら恥ずかしくて口が避けても言えないでもあの夜の俺は本気だったその子の名前を俺は覚えていない正確に言えばカルテの名前は見ただが当時の俺は一晩に何人も見ていて、その子は落ち着いてから家の近くの病院へ移った俺は昼過ぎに一度顔を見に行ったきりで、そのまま次の手術に入ったそれだけだ

十五年経った俺は工場の作業台に手をついたまま彼女の顔を見ていた「あの夜の…はい」「君が霧島立です」彼女は鞄を床に置いたそれからシャツの左袖のボタンを外して、袖をまくり上げた前腕の内側に細い線が走っていた手術の後の傷だそれからもう一つ肘の下に皮膚を移植したらしい四角い跡があった「腕の骨が折れて皮膚がなくなっていたそうです腹の方は人前ではお見せできませんが」「これが私の十五年です」

俺は何も言えなかった「宮さん、私、あなたの顔を覚えていませんマスクをしていましたから声もはっきりとは…あの夜は音が全部遠くて」「そうでしょうね」「覚えているのは三つだけです」彼女は指を折った「一つ目、目が覚めた時、私の顔の上に手があったこと血の滲んだ左手その人差し指の腹に傷が走っていたこと」「二つ目「怖くても目を閉じるな」と言われたこと」「三つ目「君の命は俺がつぐ」と言われたこと」彼女の声がそこで初めて震えた「私、目を閉じなかったんです」俺は動けなかった手のひらの下の鉄が冷たかった「閉じたら終わりだと思ったからあの言葉があったから私は目を開けていました」「そんなにいい言葉じゃない」「あなたが決めることじゃありません」

彼女は袖を戻してボタンを留めた「あの時、私は言いましたよね今度は私が捕まえる番だと「覚えています」「あの紙は、担当にして欲しいと言い続けていた頃から鞄に入っていました見つけたら出すと決めていたので」「十五年探しました」「探した病院はその後に統合されて、古い記録の多くは残っていませんでした母が亡くなった後、母方の祖父が病院からもらった当時の書類にも、担当した先生の名前は書いてありませんでした」

俺は顔をあげた「お母さんは、あの事故で…」「なくなりました現場で即死だったと聞いています」工場の蛍光灯が一つだけちりちりとなっていたあの夜、俺は運ばれてきた子供一人しか見ていなかった同じ事故で母親が亡くなっていたことを、俺はこの日まで知らなかった「私だけが助かりましただから探したんです名前も顔も分からないもの呼び名に傷のある術者を」

彼女は俺の左手を見た「今年の春、「大森精密の宮さんという職人が昔は医者だったらしい」という話を聞きました工場の事務所で耳にしただけです確信はありませんでした」「それで見合いを」「はい会えば分かると思ったので」「分かるわけがない」「分かりました」そう言って彼女はまた鞄の紙を取り出した折り目のついた婚姻届けだった「サインしてください」「なぜそうなるんですか? 」「逃げられたくないからです」「逃げません」「逃げますあなたは六年前に一度逃げている」

俺の頭に血が上った自分でも驚くくらいに「あなたに何が分かるんですか? 」「分かりません」「だったら…」「だから聞きたいんです」彼女は一歩も引かなかった「あなたが何者かはもう分かりました今知りたいのは、なぜ医者をやめたのかです」俺は答えられなかった答えられないまま、その日は終わった彼女は紙を畳んで鞄に戻して、「また来ます」とだけ言って帰った俺はシャッターを閉めて真っ暗な工場の中に一人で立っていた

引き出しを開けた図面の束が入っている六年かけて積み上げてきた線だその夜、俺は眠れなかった

次に彼女が来たのは三日後だったその日は土曜日で工場は休みだった俺は一人で工場に出ていた土曜に出るのはいつものことだ誰もいない工場で機械を回して自分の材料を削るそれがこの工場に来てからの俺の土曜だったシャッターの隙間から声がした「開けてください」俺は少しだけシャッターをあげた彼女はしゃがんで隙間から中を覗いていたスーツではなく白いシャツにデニムで、髪も下ろしていたそういう格好の彼女を見るのは初めてだった「休みです」「知っていますあなたが出ているのを知っています」俺はシャッターを胸の高さまであげた彼女は身を屈めて入ってきた「この前の続きです」「何の続きですか? 」「なぜ医者をやめたのか?

」俺は機械を止めた切削油の匂いが立ち込めていた彼女は俺の作業台の横のパイプ椅子に座ったかなちゃんが持ってきた椅子だ「話してください」

「面白い話じゃありません」「面白い話を聞きに来たわけではありません」俺はしばらく黙っていたこの話を誰にもしたことがない工場にも豊島さんにも、成田さんの墓の前でさえ、俺は口に出していないそれなのにその日、俺は話し始めていたあの夜を覚えている人間が世界に一人だけいるのだと知ってしまったからかもしれない

俺は成田さんの話をした肝臓の入り口にできた病気だったこと深いところの血管が破れたこと目では見えているのに、手に持った道具が届かなかったことあと三ミリだったこと血の方が早かったことそして、廊下の突き当たりの部屋で娘さんに「父は痛くなかったですか」と聞かれて、何も答えられなかったこと

話を終わると彼女は何も言わなかったしばらくしてこう聞いた「あなたのミスだったんですか? 」「カンファレンスではそう言われませんでした」「私が聞いているのは記録の話ではありません」「分かりません」「わからない」「はい今でも分かりません」俺は自分の左手を見た「誰も俺を責めなかった「仕方がなかった」と言われたでも俺にはその言葉が受け取れなかった」「なぜ」「受け取ったら、あの患者さんが「仕方がなかった」ことになるからです」彼女の目が少しだけ動いた

「それから三ヶ月、手術に入りましたでも深いところに入るたびに、あの患者さんの腹の中が浮かぶようになった判断が一秒遅れるあの場所では一秒が命に関わりますそれで俺は、救える命と救えない命を選び分ける仕事に耐えられなくなったんです」工場の中は静かだった俺は続けた「毎日誰かが助かって、誰かが助からないどれが仕事なら、俺は仕事の側に立ち続けなければならないでも俺には無理でした一人の名前を背負ったまま、次の腹を開けることがどうしてもできなかった」

言い終わってから俺は自分が随分長く喋ったことに気づいた彼女は膝の上で手を組んでいた「その方のお名前を伺ってもいいですか? 」「言えません患者さんのことですから」彼女は少しの間黙ってから頭を下げた「失礼しました聞くべきではありませんでした私は父のことになると線が引けなくなります」彼女は自分の手を見ていた「開発の人間として現場に入る時は絶対に超えない線があります今それを超えかけました」この人は自分が超えた線を、自分で数えられる人なのだと思った

「逃げていたんですね」強気な言い方ではなかったむしろ静かな声だったそれまで彼女の口から出た言葉の中で一番柔らかい声だった俺は苦笑した「そうかもしれません」「そうかもしれないじゃなくて、逃げました」彼女は頷いた「分かりました」そして立ち上がった「じゃあ私が連れ戻します」「連れ戻すってどこへ? 」「あなたが逃げてきた場所へ」「それは無理です」「無理かどうか私が決めます」

彼女は鞄からファイルを出した分厚い紙の束だった「これを見て欲しいんです」「他人のカルテです俺が見ていいものじゃない」彼女はファイルの表紙をめくって一番上の紙を見せた父親の署名が入った同意書だった「セカンドオピニオンに出すと言って書いてもらいました父は疑いもしませんでした」「何ですか?

」「父の資料です」俺は手を出さなかった「霧島教一六十三歳半年前から肌や白目が黄色くなる症状が出て、地元の病院で見つかりました肝門部の胆管に腫瘍があります」俺の背中が硬くなった門部肝臓の入り口が合流するところ血管が何本も入り組んでいる場所成田さんと同じ場所だ

「大学病院を見つ回りました一つ目は切除が難しいと言われました二つ目はやるとしても残る肝が足りないと言われました三つ目は…」彼女はそこで一度言葉を切った「三つ目は「ご家族でよく話し合ってください」と言われました」俺は目を閉じたその言い方が何を意味するかを俺はよく知っている「父はまだそのことを私に隠しているつもりでいます私が全部の医師の説明に同席していたのに、家では「大したことはない」というんです六十三歳の男の見栄ですそれでも私が泣かないように言っているんだろうということくらい、わかります」俺は何も言えなかった

「宮さん」「霧島さん」「リツです」「リツさん」彼女はファイルを俺の作業台の上に置いた「あなたなら父を救えるなんて簡単なことは言いません」俺は顔をあげた「言えるわけがない私は医者じゃないし、あなたは六年間メスを持っていない三つの病院の先生方がそれぞれの経験で難しいと判断したものですそれを素人が覆がせると思うほど私は馬鹿じゃありません」「ではなぜ? 」「一度だけ見て欲しいんです」彼女は自分の膝を見ていた「見てほしいじゃありません見て欲しいんです読んでほしいそれだけです」

強気な人だと思っていた無駄がなくて遠慮がなくて人の顔色を伺わない人だとでもその時の彼女は、俺が最初に会った人とは別人のようだった「俺にはその資格がありません六年前に自分で辞めました今の俺に、人の命に関わる資格はありません」彼女は顔をあげた「資格って何ですか? 免許のことじゃありません」「では何ですか? 」「資格というのは免許のことでも経歴のことでもありません逃げずに向き合う覚悟のことです」俺は言葉に詰まった反論したかったそんな綺麗な言葉で片付けられるものではないとあの夜、俺の指の下で人が死んだ覚悟でどうにかなる話ではないでも口が動かなかった

彼女はまた鞄からあの紙を出した折り目のついた婚姻届けだったもう何度目かわからない俺は思わず声を荒げた「なんで毎回それを出すんですか?

」「脅しじゃありません」「脅しでしょう」「違います」彼女は紙を作業台の隅に置いた「あなたがまた逃げるなら、私が追いかけるという意思表示です」「意味が分かりません」「分からなくて結構です」彼女はファイルを俺の方へ二センチだけ押した「見るだけです読んで、それでも無理だと思ったら、そう言ってください私はもう来ません」俺はそのファイルを見ていた「約束します」「もう来ないというのは、この工場にも来ません取引は担当を替えます」「そこまでしなくても…」「します」彼女は立ち上がって、スーツではないデニムの膝を払った「私はあなたに迷惑をかけに来ているんじゃありませんあなたを追い詰めに来ているわけでもありません」「では何をしに来ているんですか? 」彼女は少し考えてからこう言った「多分お礼を言いに来ています十五年言えていないので」彼女は作業台の隅の婚姻届けを四つに折って鞄へ戻し、そう言って帰っていった

シャッターを閉めた後、俺はしばらくファイルの前に立っていたファイルは三日間、俺の机の上に置かれたままだった開かなかった開いたらもう戻れないと分かっていたからだ

木曜の夜、俺は残業で一人になった豊島さんが帰って、かなちゃんが帰って、工場長が最後にシャッターの鍵を俺に渡して帰った俺は自分の机の前に座った蛍光灯を一つだけつけてファイルを開いた最初のページは血液検査の一覧だった半年分あるビリルビンの値が上がって下がってまた少し上がっている肝機能の数字も並んでいる指が勝手に動いてページをめくっていた

次は画像だった地元の病院で撮った断層の画像それから二つ目の大学病院で取り直したもの三つ目の病院で管を入れた時の記録と画像医師の報告書管をどちら側から入れたかも書いてある左だった読んでいるうちに、俺の中で何かが切り替わった自分でも気持ちが悪いくらいはっきりと工場の作業台が消えて、蛍光灯の音が消えて、目の前に腹の中の絵だけが立ち上がった腫瘍は胆管の合流部にある左右に少しずつ入り込んでいて、右の方が深いだから右の肝臓を大きく取ることになる残るのは左だけだ残る肝臓の量が足りない一つ目の病院はそこで止まった二つ目は門脈を先に詰めて、残す側の肝臓を太らせてから切るという方法を検討していただが今度は門脈への浸潤が疑われた血管に食い込んでいるなら、切っても取りきれない三つ目はその両方を見て「これ以上は難しい」と判断したどの判断も正しい俺が同じ立場でも多分同じことを言う

それでも俺はページをめくる手を止められなかった正しい判断を並べても、人は助からないそれはあの秋に俺が学んだことだ正しさは人を救わない救うのは、正しさの外側に一つだけ残っている道を見つけることだ俺は最初のページに戻ってもう一度読み直した数字を追った日付を追った誰がいつ何をしたかを、時間の順に紙の上に書き出した工場で不良の原因を探す時と同じやり方だ工程を順番に並べて、どこで狂ったかを探す

そのうち一つだけ引っかかるものが出てきた俺は三枚目の画像に戻った三つ目の病院で取った胆道の造影だった管を入れて造影剤を流して胆管の形を映した写真だ七月の末に撮られているそこで手が止まった右の後ろ側の胆管が映っていない正確に言えば、細く途切れたところで消えている普通ならその先が映る映らないということは、詰まっているか造影剤が入っていないかのどちらかだレポートには「右の後ろ側の胆管はよく映っていない」と書いてある「腫瘍による閉塞の可能性」と続いていた

俺はその一文を何度も読んだそれから日付を見たこの造影を取ったのは管を入れてから四日目だった造影剤は入れた管から流している俺は椅子の背もたれに体を預けた管がどこに入っているかで映る枝が変わるこの人の管は左に入っている右の後ろ側の枝に造影剤が回っていないだけなら、映らないのは詰まっているからではないそしてもう一つ「管を入れる前の写真はどこへ行った? 」詰まったまま胆管が張っていたあの時期のものなら走り方が読めるはずだ管を入れて胆嚢を抜けば、肝管はしぼむしぼんでからではもう読めないもう一つあった

俺は左の肝管の形を見ていた合流の角度が普通と違う胆管の走り方には人によって違いがある教科書通りの形の人は三人に二人くらいしかいない右の後ろ側の枝が、右ではなく左の肝管に合流している人がいる配管で言えば、右の塔から出た枝が右の本管ではなく左の本管につながっている家があるそういう作りだもしこの人がその形なら、読み方が変わる教科書通りの形を前提に読むと、左の肝管の根元まで腫瘍が来ているように見える左が使えないなら、どこも切れないだが、そうではなくて犯されているのが、左に曲がり入っている右の枝のその付け根までだとしたら、左の本管は無事だ切る線が引ける

ただし残せると言っても、一本のまま残るわけではない腫瘍のある合流部で切れば、その先は左の肝臓の中で三本に分かれる脾臓につぐ口が三つになるということだ脈に見えている影も、腫瘍そのものではなくてその周りの炎症かもしれない俺は自分の手が震えているのに気づいたそこから先は自分でも止められなかった

俺は工場の裏の倉庫へ走った棚の一番上に、うちが過去に納めた製品の見本が並んでいるその中から霧島メディカルの千二百六十番の縫合機を引っ張り出した首の長さ、曲がり、先端の組み合わせその場所で繋ぐとなると胆管は二ミリ前後だそれを何本も腸につぐ手元の視野は深くて狭い規制の道具では首が太い角度が固定されている真上からしか入れない

俺は引き出しを開けた図面の束を机の上に全部出した一枚ずつめくった首を細くしたもの角度を変えたもの先端を細くしたもの関節を一段増やしたものどれも失敗している失敗した理由を俺は全部余白に書いている三十枚を数えた辺りで手が止まった去年の冬に引いた図面だった首を二十二ミリ伸ばして、握りの軸を十四度起こしてある先端は幅一・二ミリまで落としてある俺はこの図面の通り削った試作品を持っている作ったが、使い道がないから工具箱の底に入れっぱなしになっている

俺はそれを取り出した工具箱の底で長いこと油と埃をかぶっていた布で拭くと鈍い光が戻ってきた手に持った指の腹で先端をなぞり、目を閉じて腹の中の絵をもう一度立ち上げた肝門部、深さ、角度、糸をかける方向右の肝臓を落とす残るのは左断面に開く胆管はこの人の走り方なら三本一本目は浅い二本目は入る三本目一番奥真上からは入らない斜めに深く俺は手の中の道具をその角度に傾けてみた届く俺の口から声が漏れた自分でも情けないくらいかれた声だったその瞬間、ずっと硬かった何かが体の真ん中で音を立てて外れた

俺は携帯を握っていた夜の十一時を過ぎていたそれでも彼女は二度目のコールで出た「宮さん…」「取り直してください」「え? 」「右の後ろ側にもう一本、管を入れてもらえませんか?

ビリルビンが下がりきらないのは、左の一本だけでは足りていないからだと思います右にも入れば数字は下がるし、その管から造影剤を流せば、映っていない枝が映りますそれと、管を入れる前に撮った写真が残っていないか聞いてください胆管を抜く前なら、胆管が張っているので走り方が読めます難しければ、管から造影剤を入れた状態で断層写真を薄い切り方で撮って三次元に組んでもらってください」俺は自分が何を言っているのか分かっていなかった分かっていたが止まらなかった

「宮さん、右の後ろ側の枝の走り方が分かれば、切除線も変わるかもしれない」「門脈の影も腫瘍じゃない可能性がある」「ただし可能性ですとっても何も変わらないかもしれない」「それでも…」「宮さん」「はい」「泣いていますか? 」俺は自分の顔を触った濡れていた「すみません」「謝らないでください」電話の向こうで彼女が息を吸う音がした「泣いているのは私も同じです」俺はしばらく何も言えなかった工場の蛍光灯があの夜と同じ音でちりちりとなっていた

「宮さん、今の話、そのまま主治医の先生に伝えていいですか? 」「伝えてくださいただ…ただし俺の名前は出さないでください」「なぜ? 」「俺は…」「嫉妬しません」電話の向こうが静かになった「読んだだけですそれ以上のことは俺にはできません約束したはずです」「はいじゃあ…宮さん」「はい」「ありがとうございます」俺は電話を切った机の上には六年分の図面が広がったままだった俺はそれを片付けずに、椅子に座ったまま朝まで動かなかった

その週の金曜、取り直しが行われた土曜の朝、彼女から連絡が来た文面は短かった「右の後ろ側の胆管は左側の胆管に合流していました門脈のところも腫瘍ではなく炎症の可能性が高いと言われました」俺は工場の駐車場でその文字を読んだ読んでしばらく空を見ていた助かるかもしれないと思ったそう思った次の瞬間、もう一つの声が体の奥から上がってきた「じゃあ誰が切るんだ?

九月に入った取り直した画像を見た三つ目の病院は判断を変えた切除できる可能性があるという方向へ動いたただし自分のところで手術するという医者は現れなかった可能性を認めることと、引き受けることは別の話だ彼女からの連絡でそれを知った俺はほっとした心からほっとしたこれで俺の役目は終わりだ「読んで気づいて伝えた」、あとは専門の医師がやればいい俺はまた月曜から機械の前に立てばいいそう思っていた

九月の三週目の木曜、恩師の先生から電話がかかってきた「宮さんか」「先生」「霧島社長の娘さんが、うちに紹介状を持ってきた」「うちというのは、と医科大学付属病院のことだ俺がやめるまでいた病院で、恩師の先生が長い間教授をやっていたが、今は顧問という肩書きで週に二日だけ出ている」「そうですか」「お前が読んだんだってな」「先生、俺の名前は出さない約束のはずです」「主治医には出しとらん娘さんは最後までお前の名前を言わなんだ当てたのは俺だ「鞄がどっちに入っとるかまで見る人間が、そう何人もおらんのでな」「読んだだけです」「鞄の入っとる側を見たのはお前か」「はい」「六年鈍ってないな」「先生、俺は関係ありません」「そうか」

先生は少し黙ってから言った「うちで引き受けることになった切るのは朝倉だ」「朝倉? 朝倉一俺の四歳下の後輩だ俺がやめた時まだ三十二歳だった真面目で手が丁寧で、術後の管理が誰よりも細かかった夜中に何度も病棟を見に行くので、看護師から煙たがられていたような男だ」「朝倉なら大丈夫です」「そう思うか? 」「思いますあいつは俺より丁寧です」「そうだな」先生はそれで電話を切ったその週の土曜、俺は久しぶりによく眠れた

朝倉から連絡が来たのはその四日後だった会ったのは工場の近くの喫茶店だった窓際の席で待っていた朝倉は、六年年前より少し太っていて、髪に白いものが混じっていた三十八歳になっているはずだ「お久しぶりです」「痩せましたね」「動いてるからな」朝倉がコーヒーに手をつけずに鞄からファイルを出した図面のコピーだった俺が去年の冬に引いた図面だ首を二十二ミリ伸ばして、握りの軸を十四度起こしたやつ俺は自分の顔から血が引くのが分かった「どこで…」「霧島さんが持ってきました工場長さんに頼んでコピーを取らせてもらったそうです」俺はテーブルの下で拳を握った「怒らないでくださいあの人、僕の外来に三回来ました三回とも患者の家族としてではなく、開発の人間としてです」

「宮先生、この図面、僕が見てもよくわかりませんでも術野に入れた時の角度を計算した図が横についていましたあれを見て背中が寒くなりました」朝倉はコーヒーをようやく一口飲んだ「僕は今、肝臓と胆道の手術を月に三件か四件、年間で四十件ほどやっていますそのうち肝門部の胆道癌は年に五件か六件ですだから分かるんです」「何が? 」「この器具がないと、僕は霧島社長を切れません」

俺は黙った「胆管が三本残ります走り方が普通と違うので、脾臓につぐ場所が深い今うちにある縫合機では一番奥の一本に多分届きません届いても糸がかけられません無理をすれば入る無理をした先生を僕は六年前に見ています」言葉が刺さった「あの日…僕は第二助手でした」俺は顔をあげた「成田さんの手術です僕は先生の右斜め後ろにいました」「覚えていなかったあの日誰が入っていたかを俺は本当に覚えていない」「出血が始まってから、先生は三回器具を持ち替えました僕はそれを見ていました持ち替えるたびに、先生が何を探しているのか分かりましたあの角度に入る道具を探していたんですよねなかったんです」俺はカップの中を見ていた

「あの日、手術場には七種類の縫合機と鉗子が出ていました僕が数えましたどれも入らなかった」「先生の手が悪かったんじゃない?

」「そう思っていました思っていたというのは、今もそう思っていますでも先生に言ったことはありません」「なぜ」「言っても先生は信じなかったからです」俺は返せなかった多分その通りだ

彼は図面をファイルに戻した「霧島さんはこの器具を作りたいと言っています」「作れるのか? 」「作れます霧島さんの受け売りですが、手術で使う金属の器具は一般医療機といって国の審査がいらない区分だそうです要は作る資格のある会社が書類を出せば、世に出せるということですその資格を霧島メディカルは持っていますこの形は今ある縫合機の枠に収まるので、届け出で済む外れていたら数ヶ月かかったとも言っていました工場は大森精密さんも医療機器の製造業の登録があるそうですねただ部品を作るのと完成品を出すのは別だと聞きました最後の組み立てと検査は霧島の工房でやるそうです時間は、霧島さんは四週間でやると言っています」「無理だ」「僕もそう言いました設計の記録を残して検証して、届け出て、それから作るしかも新しい形だ四週間で取るわけがないあの人はこう言いました「無理かどうかは私が決めます」と」俺はカップの縁を手で握ったまま、その一言を頭の中で二度繰り返した

「それで、ここからが本題です」彼はまっすぐに俺を見た「先生、この器具を使って一番奥の一本を縫えるのは、多分先生だけです」「何を言ってるんだ? 」「六年間、その角度だけを考えて図面を引き続けた人が、その道具を一番分かっているに決まっています」「俺は六年腹を開けてない」「知っています腕は落ちる判断も遅れる知っています」「だったら…」「だから僕は反対です」

俺は言葉を止めた朝倉は俺の顔を見て、それからテーブルの上で両手を組んだ「先生、僕は本当は先生に戻ってきて欲しくはありませんあの夜の後、先生は三ヶ月病棟にいましたよね僕はその三ヶ月の先生を見ていますカルテの前で三十分動かない日がありました手洗いの前で水を出したまま立っている日がありました」「それは覚えていなかった」「僕はあれをもう一度見たくないんです」彼の声が少し震えていた「うん」「もし今度うまくいかなかったら、先生は今度こそ壊れます工場の仕事すらできなくなる僕はそう思っています」俺は伝票の方へ手を伸ばしかけてやめた

「朝倉だから、僕が切ります器具が間に合ったら、俺が最善を尽くします届かなかったら、届く範囲で最善のものを作りますそれでいいはずです」俺は何も答えなかった「先生、もう関わらないでください」彼は伝票を持って立ち上がった「これは僕の勝手なお願いです」そう言って喫茶店を出ていった

俺はしばらく席から動けなかった冷めたコーヒーを飲みながら、俺は自分に言い聞かせるように壁を数えた一つ、俺には所属がない医師免許はあっても病院に席がなければ手術室に入れない人の腹を開けるというのは、個人の力量の話ではなくて、病院という組織が責任を引き受ける話だ二つ、六年のブランクがある手が動くかどうかはやってみなければ分からない動かなかった時に困るのは俺ではない台の上の人だ三つ、道具がない図面はある試作品もあるだが人の体に入れていいものは、正規に届け出て作られたものだけだ俺が夜中に自分の金で削った棒は、どこまで行っても私物に過ぎない四つ目は数えたくなかった四つ目は、俺が怖いということだった

その俺は工場に戻ってシャッターを開けた誰もいない工場で電気もつけずに自分の机の前に座った引き出しの中の図面の束に手を置いた朝倉の言う通りだ俺はもう関わるべきではないそう思っているのに、頭の中では別のことが動いていた一番奥の一本、深さ、角度、糸をかける方向、先端の幅、関節の型俺は明かりをつけて図面を一枚引き出した鉛筆を持った手が勝手に線を引き始めていた

翌朝、工場長が俺の机を見た夜のうちに引いた図面が広げっぱなしになっていた俺は片付ける前に機械の点検に出ていた昼になって工場長が俺を呼んだ事務所の奥の机が二つ並んでいるだけの部屋だ「座れ」俺は座った「霧島社長の娘さんが先週来たお前が材料を取りに出てた日にな」「聞いています」「図面のコピーを取らせてくれと言われた俺が許した」「工場長…」「怒るか? 」「いえ怒っていいぞ」俺は膝の上で手を組んだ

「みい穴が、俺はな、お前が何を引いてるのか、最初の年から知ってた」俺は顔をあげた「最初の年の冬だお前が帰った机の上に紙が置きっぱなしになってた見えた?

縫合機だった首が長かった何のためかは分からんかった」工場長は湯呑みを持ったまま窓の方を見ていた「翌年また見た角度が変わってたその次の年も見た先端が細くなってた」「毎年見てたんですか? 」「見てた」「なぜ何も言わなかったんですか? 」「言うことがなかったからだ」工場長はその湯呑みを机に戻した「うちみたいな工場はな、図面をもらって削るのが仕事だ自分で図面を引く人間はいらんいらんが…いいお前が何を背負っているかは知らん聞く気もないただ六年も同じ場所の線を引き直す人間は、そうそういるもんじゃない」俺は下を向いた

「うちの親父もな、同じことをやってた」「先代ですか? 」「うん、夜になると一人で残って、誰にも頼まれてない部品を削ってた俺らの頃それをバカだと思ってた」工場長は正面の背子を指でなぞった「親父が死んだ後、机の引き出しから図面が出てきた何十枚もなうちじゃ作れんもんばっかりだった」彼は少し笑った「あれを見た時、俺は思ったんだ「ああ、この人はずっと何かに腹を立ててたんだなあ」と腹を立ててたものにだ」俺は顔をあげた「作る側の人間ってのはな、世の中にないものを見ると腹が立つんだ「なんでねえんだ」と誰も作らねえなら、俺が作るしかねえだろ」と彼は俺の方を見なかった「お前もそれだ」俺は返す言葉がなかった

工場長は湯呑みを持ち上げて、中が空なのに気づいてまた置いた「みい穴、話がある」「はい」「電気代置いてけって言ったろ」「はい」「あれ一度ももらってないぞ」「え?

」「お前が封筒を置いていくのは知ってた中身はカナの学費にとって別に積んどいた」俺は口を開けたまま工場長を見た「あいつ、来年から夜間の学校に行きたいと言い出してな金がないと言うから」「工場長…」「文句あるか? 」「ありません」「じゃあいい」工場長は立ち上がって、部屋を出る前に一度だけ振り返った「うちの工場はな、削るのが仕事だ誰が使うかは知らん使うやつの顔も知らんだがな」「はい」「使うやつの顔を知ってる職人が一人くらいおっても、当たらんだろ」俺は返事ができなかった

その日の午後、かなちゃんが俺のところへ来た「宮さん、あの、変なこと聞いていいですか? 」「何だ? 」「霧島さんのお父さんって病気なんですか?

」俺は手を止めた「その話、どこで聞いた? 」「霧島さんが前に裏で電話してるのを聞いちゃって」「そうか」かなは自分の指先を見ていた爪が短く切ってあるうちの工場で働く人間はみんな爪が短い「宮さん、私、前に言いましたよね自分が磨いたやつがどこへ行くのか分からないって言ってたな」「あれ嘘なんです」「嘘」「本当は考えたことがなかっただけです」彼女は俺の作業台の上のトレーを見た「考えない方が楽だから人の体に入るって思ったら、手が震えるじゃないですかでも最近考えるようになりました霧島さんがいつも私の磨いたやつをじっと見てるからあの人、絶対に触らないんですよ素だと油がつくって知ってるからだから見るだけごく真剣に」彼女は少し笑った「あんな風に見られたら、いい加減にできないっすよね」俺は頷くことしかできなかった

「宮さん」「何だ? 」「もし私の磨いたやつで誰かが助かったら、私、それ知れますか? 」俺は手を止めた「多分知れない」「そうですよねうちは箱に詰めて出荷するところまでだその先は分からない」「じゃあなんで宮さんはそんなに丁寧に磨くんですか?

」俺は答えを探した俺はこの問いに、自分で答えないようにして生きてきた答えたら、自分がまだ医療の側にいたいと思っていることを認めることになるからだでもその日、俺は答えた「知れないからだよ」「え? 」「誰の体に入るかわからないだから、後悔が入っても大丈夫なようにしておくしかない」彼女は少しの間黙ってから頷いた「私、それ覚えときます」

十月十七日が来た俺は工場を休んで郊外の霊園へ行った六回目の日だった石の前に成田舞さんが立っていた手に花の袋を下げている今年で三十歳になるはずだ「宮さん、お久しぶりです今年もお会いしましたね」俺たちは並んで線香をあげた天気の話をした「今年は十月なのに暑い」という話をした帰り道、駅までの並木道を並んで歩いたいつもは別々に帰るその日は彼女の方から「途中まで一緒に行きませんか」と言った

しばらく黙って歩いてから、彼女が言った「宮さん、私、去年から病院で働いているんです」「病院…」「医事という部署で医療費の請求書を作ったりしています」「そうですか」彼女は前を見たまま歩いていた「毎日病院にいると分かることがあって、医者さんってみんなすごく疲れてるんですね夜中に呼ばれて朝まで手術して、その後普通に外来をやってる先生がいます私、最初は信じられなかった」「昔からそうです」「宮さんもそうだったんですよね」「そうですね」彼女は立ち止まった「宮さん、ずっと聞きたかったことがあります」俺も足を止めた「あの日、先生は九時間、お腹の中にいたんですよね」「はい」「その九時間、先生はずっと父を助けようとしていたんですか? 」

俺は答えられなかった喉の奥が詰まった「答えなくていいです」彼女は袋の持ち手を握り直した「私、あの日、先生に聞きましたよね「父は痛くなかったですか」って覚えています」俺は頷いた「あれ、ずっと後悔してるんですなぜ先生を責めたかったんじゃないんですただあの時、私、二十四歳で、何を聞けばいいのかわからなくって」彼女の声が震えた「本当に聞きたかったのは、そんなことじゃなかった」「じゃあ何だったんですか? 」彼女は俺の顔を見た「「先生、大丈夫ですか?

」て」俺の視界が歪んだ「あの日の先生、白かったんです顔が、手が震えていました私、それを見てたのに、聞けなかったそんなことを…」俺は六年遅れて言った「あなたは、あの日…」

彼女は袋を持ち直してまっすぐに立った「宮さん、大丈夫ですか? 」俺はその場から動けなかった並木の葉が風で鳴っていた遠くで電車の音がした俺は六年ぶりに、人の前で声を出して泣いた彼女は何も言わずに待っていたしばらくして俺は言った「成田さん」「はい」「俺は六年間、道具の図面を引いていました」「道具? 」「あの日届かなかった場所に届く道具です」彼女は目を見開いた「三十本以上作りました全部失敗しています使う当てもありません馬鹿げてると思いますか? 」彼女はしばらく黙っていたそれからこう言った「父はそれを聞いたら、何て言うと思いますか?

」「分かりません」「うちの父、町工場の職人だったんです」「そうでしたか」「だから私、分かる気がします」彼女は笑った今度は泣きそうな笑い方だった「道具が悪いなら道具を直せっていう人でした」俺は空を見上げた十月の空が高かった「宮さん、その道具、誰かに使ってもらってくださいそのために六年かけたんでしょ」彼女は改札で頭を下げて人混みの中へ消えていった

俺はホームのベンチに座って電車を何本か見送った頭の中で朝倉の言葉が回っていた「この器具を使って一番奥の一本を縫えるのは多分先生だけです」「誰かに使ってもらってください」と成田さんは言っただがその道具を使える誰かを、俺は自分以外に知らなかったまた誰かを死なせるかもしれないその怖さは消えなかったそれでもこの六年で初めて、逃げる以外の道が体の中に立ち上がっていたそれから携帯を出して霧島立に電話をかけた何を言うつもりなのか自分でもまだ分かっていなかったただあの人の顔を見て話さなければならないということだけが分かっていた

彼女が指定したのは霧島メディカルの本社だった彼女に時間を取ってもらえたのはその週の金曜だった品川の裏手にある十階建てのビルで、正面に会社の名前が入っている俺は工場から直行したので作業着のままだった受付で名前を言うと、彼女が自分で降りてきて、六階の開発室へ通された壁一面の棚に試作品の入った箱がずらりと並んでいた金属の匂いがした工場と同じ匂いだ「ここが私の職場です」「思ったより工場に近いですね」「そう言われると嬉しいです」彼女は一番奥の机に俺を案内した机の上には白い紙が敷いてあって、その上に何も置かれていない何かを置くために開けてある机だった

「電話で話があると言いましたね」「はい」「その前に私から話してもいいですか? 」俺は頷いた彼女は引き出しから茶色い封筒を出した角がすり切れている何度も開け閉めした封筒だ「母が亡くなった後、祖父が病院から受け取ったものです」彼女は中身を机の上に並べた十五年前の日付の入った病院の書類と古い診断書それから細かい字がびっしり並んだコピーの束「事故の後、母方の祖父が病院に説明を求めました母が亡くなって、私が生き残った祖父はどうしても納得できなかったんだと思います病院は資料を出してくれましたこれがその写しです」彼女はコピーの束の中から一枚を抜いて俺の方へ滑らせた

俺はそれを見た手術の記録だった時刻が並んでいる処置の内容が並んでいる名前の欄は全て黒く塗りつされていたそして真ん中あたりに「術者」だけ「術中、鉗子の先端が破損破片は術者が手で回収し、器具の数の確認を完了術中の連続操作で金属が残っていないことを確認」俺は自分の左手を握った彼女は紙の上に指を置いた「名前も顔も知らなかったのは、先ほどお話しした通りです私が覚えているのは、目を覚ました時に見えた血の滲んだ左手と、人差し指の腹の傷だけでした」「それだけで探したんですか? 」「それだけでした」彼女は手帳を開いた「もう一つありますこれは祖父がもらった資料には入っていません私が開発の仕事に入ってから、当時の器具の記録を辿って病院の医療安全の部署に問い合わせて、やっと一つだけ教えてもらったものです」手帳のページに書き写した一文があった「術者、左の示指を圧迫止血手袋の破損あり、止血の操作を続けるため、術中の手袋交換は行わず」それだけです名前は教えてもらえませんでした

俺は自分の左手を握り直した「示指というのは…」「人差し指のことですね」「そうです」「人差し指をお医者さんが何と呼ぶのか、それだけは中学三年の時に調べてありました」彼女はさらにもう一枚を出した報告書のような書類の紙だった製造元と製造販売者の名前と製造番号が書いてある「破損した鉗子の記録です病院からもらったものではありません当時、病院からうちの会社に不具合の連絡が入っていて、その記録が会社に残っていたんです」俺はその紙を見た製造販売業者の欄に「霧島メディカル株式会社」と書いてあった俺の指が止まった「はいうちの製品です十五年前、私の体の中で折れたのは、父の会社が作った鉗子でした」

俺は言葉が出なかった「病院の方は高校生の時に一度行きました医師の名前が変わっていて、当時の科の先生は一人も残っていませんでしたそこまで祖父に説明したのは、事務の方と当時の部長だったという先生でした手術した先生はその場にいませんでした」彼女は一度言葉を切った「大学を出て開発本部に入った時、私が最初にやったのは、この事故で折れた器具の記録を探すことでした保存の年限は当に過ぎていたのに、うちは古い台帳を捨てない会社なんです当時の製造記録が残っていました先端の部分をどこが削っていたかも記録に残っていました」彼女は俺の顔を見た「大森です」「十五年前ですから、削ったのは工場長さんか、その前の台の方だと思います」工場の名前がこの部屋で響いた

「それから私は「大森の担当にして欲しい」と言い続けました仕事としてです取引としてです誰にも本当の理由は言っていません「本当の理由というのは、あの鉗子がどこで、どんな人の手で作られているのか、それを自分の目で見ないと、開発なんてやる資格がないと思ったんです」「何年ですか? 」「五年です初めの三年は前任者が担当で、私は報告書を読んでいただけでした自分の足で通い始めて二年です」俺は椅子の背に体を預けた五年俺があの工場で機械を回していた六年のうち五年そのうち二年は、彼女が自分の足で同じ工場に通っていたそれでも俺は彼女の顔を知らなかった打ち合わせは事務所でやる作業中の俺は機械の方しか見ていない彼女の方も同じだったはずだ防尘帽として俺の顔は半分隠れているし、手はいつも手袋の中だすでになるのは朝一番に品物を確かめる時と、最後のすり合わせの時だけどちらも客の来る時間ではなかった

「今年の…千二百六十の手直しの交数の話をしていた時、工場長さんが言いました「うちのすり合わせは素人仕事じゃない宮さんは昔、人の腹を触っていた男でな」と恩師の先生っていう偉い人が未だに気をかけて電話をよこすと」工場長が多分自慢だったんだと思います」俺は下を向いた「私はその場で何も言いませんでした帰りの車の中で手が震えて運転できなくなって、コインパーキングに三十分入っていましたそれから恩師の先生に連絡を取りましたあなたの恩師だと聞いていたので」俺は顔をあげた「恩師の先生には…名前だけは伝えました理由は、私が探している人がいると確かめたかったからです先生は何も聞かずに「分かった」とだけ」

恩師の先生らしいと思った「会えば分かると思っていましたでも実際にあなたが座っているのを見た時、私は自信をなくしました」「なぜ?

」「あまりに普通の人だったからです工場で声をかければよかったのに工場ではあなたはいつも機械の方を見ています正面から座って、あなたが箸を取るところを見られる場所が必要でした」俺は少し笑った「作業着じゃなくてスーツで、靴のつま先が硬くなっていて、緊張していて、早く帰りたそうにしていて…この人が本当にあの夜の医者なんだろうかと」「実際そうです俺はもう医者じゃない」「その手を見るまでは、私もそう思いました」

彼女は封筒をもう一度机の上に置いた「宮さん、ここからは別のお話です」彼女は棚の方へ歩いていって分厚いファイルを二冊持って戻ってきた表紙に手書きで年号が書いてある「これは何だと思いますか? 」「分かりません」「六年前に国内で売られていた手術用の縫合機のカタログです全機種分あります」俺は息を止めた彼女はファイルを開いた写真がびっしり張ってあるページの余白に数字が書き込まれている「三百六十三本ありました」「何を調べたんですか? 」「あなたが医者を辞めた年に、あの場所に届く道具があったかどうかです」「いつ調べたんですか? 」「数え始めたのは去年ですあなたのためではありませんうちの製品も他社の製品も、あの深さに届くものが一つもないと分かっていて、誰もそれを問題にしなかったそれが許せなかっただけです」「六年前のカタログを揃え直したのは、あなたの名前を聞いた今年の春からです」彼女はファイルの背に手を置いた「あなたの図面の数字と突き合わせたのは先月です」

俺は彼女の顔を見た「あなたが何を悔んでいるのか、詳しいことは知りません患者さんの記録は私には見られませんし、見るべきでもありませんだから私は、器具の側だけを調べました」彼女はファイルのページをめくった「肝門部の一番深いところあの角度、あの深さ、あの太さの胆管に糸をかける三百六十三本のうち、入るものは一本もありませんでした」部屋が静かになった「近いものは三本ありましたでも一番惜しい一本は、うちの千二百六十でしたそれでも首が二十二ミリ足りません握りの軸が十四度寝ていますあなたが去年の冬に引いた図面は、その一本に二十二ミリと十四度を足したものでした別々の場所で、同じ数字に辿り着いていたんです」

俺の目の奥が熱くなった「宮さん」「はい」「あなたの手が届かなかったんじゃありません」彼女はファイルを閉じた「届く道具は、あの日、この世になかったんです」俺は口を押えた六年だった誰も俺を責めなかった「仕方がなかった」と言われた「難しい症例だった」と言われたそのどれも俺には受け取れなかった慰めだと思っていたからだ優しさだと思っていたからだでもこの人が今言ったことは、慰めではなかった三百六十三本を一本ずつめくって寸法を一つずつ書き出して、俺の図面の数字と突き合わせた人間の言葉だった

俺は自分の顔を両手で覆った声をあげないようにしたが、うまくいかなかった彼女は随分長い間、何も言わずに待っていたやがて俺は顔をあげた「リツさん…あなたはこの六年、俺を許すために調べたんですか?

」彼女は首を振った「違います」「では…」「私はただ、道具が足りないせいで人が死ぬのが許せなかっただけです」彼女の言葉に初めて熱がこもった「父の会社は道具を作る会社です父はいつも言っていました「うちが一ミリサボれば、どこかで誰かの手が届かなくなる」と私はその言葉が嫌いでした子供の頃は、会社のことばかりで家に帰ってこない父の言い訳に聞こえたので」彼女は少し笑った「でも、私の体の中で折れたのが父の会社の鉗子だったと知ってから、意味が変わりました」俺は彼女の顔を見ていた「あの鉗子は折れました折れたけれど、あなたはその破片を全部拾って、指を切りながら私の血を止めた道具は人を裏切りますそれでもあなたは指を離しませんでしただから私は、その人が二度と足りない道具の前で立ち尽くさないように、道具の方を作りたいんです」彼女は白い机を見ていた何かを置くために開けてある机だ

そして俺は言った「俺に切らせてください」彼女の肩が動いた「あなたのお父さんの手術です俺が手術します」「理由を聞いてもいいですか? 」「一つは、その道具を一番分かっているのが俺だからですもう一つ…逃げずに向き合いたいからです」彼女は口を開きかけて閉じたそれからもう一度開いた「それは私が言った言葉ですね」「借りました返さなくて結構です」彼女は封筒を胸に抱えたまま深く息をついたまばたきが増えていたそして鞄の紙を出した折り目のついた婚姻届けだった「ではサインを」俺は首を振った「なぜですか? 」「今はできません」彼女の顔が硬くなった「逃げるんですか? 」「逃げません」俺は椅子に座り直して彼女の目を見た「家族の手術を手術することは禁止されているわけじゃありませんでも避けるべきだとされています判断が鈍るからです「切るか切らないか」「どこで止めるか」「あと一時間続けるか閉じるか」手術中はそういう判断の連続ですそこに情が入ると、人は間違えます」「あなたは間違えませんよ」「間違えます」俺ははっきりと言った「六年前は間違えないつもりでいました」彼女は黙った「俺はあなたのお父さんの手術に担当として入ります婚約者としてではありませんその紙は、手術が終わってからにさせてください」

彼女はしばらくその紙の折り目を指でなぞっていたそれから丁寧に四つに折って鞄に戻した「分かりました…ありがとうございます」「ただし」彼女は顔をあげた「終わったら、必ず出します」「はい」「逃げたら追いかけます」「知っています」彼女はそこで初めてはっきりと笑った

そこからの一ヶ月を、俺は一生忘れないと思うまず器具だった俺が決めるより前から、それはもう動き始めていた霧島メディカルの開発室に俺の図面が持ち込まれ、設計として書き直された彼女の部下が三人いた寸法の一つ一つに根拠を書き、材料の規格を決め、試験の方法を決めた器具が形になるまでの間、俺は毎晩工場が終わってから品川へ行った医療機器の製造には手順がある誰がどこまでやるかを、記録で残さなければならない彼女はそこを一ミリも省かなかった削ったものは一度外へ出して焼きを入れる焼いたままでは硬いだけで脆いから、その後戻しの熱を入れて粘りを持たせる硬さと粘りの折り合いをどこで取るか折れる道具にだけは絶対にしたくなかった焼きが入ると寸法が動くから、戻ってきてからもう一度研ぎ、最後にコーティングをつけて表面に薄い膜を作るこれをやらないと、何度も高圧の蒸気にかけているうちにいつか錆びる人の体に入る道具は、錆びてからでは遅い首の付け根には型番と製造の番号が小さく入るどの材料の、どの日の、誰の手を通ったものか、その数字だけで全部辿れる彼女はその工程の一つ一つに日付と担当者の名前を書かせた「間に合わせるために手順を飛ばしたら、それは私たちが一番嫌っているものになります」「その通りです」「なので寝ません」「寝てください」

工場でも同じことが起きていた先端の噛み合わせの目を入れたのは豊島さんだった彼はこの仕事の話を聞いた時、何も言わずに図面を受け取って、それから三日間ほとんど口を聞かなかった四日目の朝、俺の机に部品を置いてこう言った「宮さん、交差の下いっぱいまで寄せといた〇・〇二ミリだ」「なぜですか?

」「あんたの頭、閉じた時に酒浮くだろ千二百六十と同じ癖だ」俺は部品を明るいところへ持っていった閉じた浮かなかった「豊島さん…」「言うな恥ずかしい」その俺は図面のその一箇所を書き直した実は設計変更の紙を一枚起こして、日付と現場提案という理由を書かせた

事情は工場長が全員に話した誰の、何のために作るのかを隠したまま作らせるわけにはいかないと言った磨きはかなちゃんがやった彼女は仕上げの担当ではない本来なら俺か工場長がやる工程だだが彼女は自分から手を上げた「私にやらせてください」「お前、この仕事の意味は分かってんのか? 」「分かってます」「言ってみろ」「人の体に入るんですよね」「そうだ」「じゃあ絶対に手を抜きません」工場長は何も言わずに機械の前を開けたその代わりその日のうちに教育の記録を一枚作り、かなちゃんの名前の横に自分の判をした検査は俺と工場長の二重にした

手を上げるのは一秒でも、手を上げた人間を工程に入れるには紙がいる彼女は一本に三日かけた予備を入れて三本九日、全部彼女が磨いたうちの工程では考えられない時間のかけ方だった工場長はその時間を全部工場の経費で落としたと後でかなちゃんから聞いた出来上がったものを、俺は指の腹でなぞった傷がなかった俺はかなちゃんに言った「これ、誰が使うか知ってるか? 」「霧島さんのお父さんですよね」「そうだ」「知れないと言ったな」「今日は知れました」そう言ってから彼女は頷いた「なら大丈夫です絶対に」彼女は自分の手を見て笑った「私、この九日で人生で一番真剣に物を触りました」

器具の届け出が受理されたのは十月の終わりだった病院の購入を通して三本が納品された工場から出た品物が、伝票を一枚挟んで、俺の立つ手術室へと戻ってくる

それより少し前、十月の半ばに霧島教一さんの体の方も動いていた右側の脈を詰めて、残す左側の肝臓を太らせる処置をした血流を止められていた側は縮み、残る側が三週間ほどかけて大きくなる切っても足りるだけの肝臓をあらかじめ育てておくための処置だその三週間の間に、俺は病院へ戻った当と医科大学付属病院の非常勤医師として契約した席がなければ手術室には入れないその席を恩師の先生が作ってくれた専門医の資格は当に切れていた切れた資格で手術することを禁じる規則はないそれでも先生は条件をつけた指導の資格を持つ朝倉が必ず一緒に入ることもう一つ患者と俺の関係を紙に書いて出すことそれが俺を入れるための条件だった

朝倉は最後まで反対した会議の前の日、あいつは試作品を持って病院のシミュレーターの部屋に来た俺の図面を広げて、術野の模型に自分で入れてみていた「先生、あそこ、どこから入るんですか? 」「斜めに深く」「見えません」彼はそれきり黙って器具を台に戻した翌日の会議で朝倉は最後にこう言ったらしい「反対ですが…器具を設計した人間を手術室に入れないという選択も、僕は取れませんならば助手ではなく執刀にすべきです中途半端が一番危ない」その話を聞いた時、俺は自分の後輩が随分立派になったと思った

工場長は俺の勤務を昼までにしてくれた俺は手術の日まで午後から毎日病院に通ったまずその日の手術に助手として入った肝臓を切る手術に五件俺が手術する門部の手術だったそれで自分の状態が分かった手はまだ動くだが速さが落ちている何より視野を作る癖が鈍っていた夜はシミュレーターの部屋にこもった試作の一本を持ち込んで、豚の肝臓の奥に糸をかける練習を何百回もやった指の傷が痛んだ冬が近づくといつも痛む古い傷が、その年は特にひどかった

手術の前々日、俺は初めて霧島教一さんに会ったそれまで会うのを避けていた顔を知れば情が入るまだどこかでそう思っていた病室に入ると、痩せた男の人がベッドの上で本を読んでいた六十三歳黄疸はもう引いていたそれでも長い病気が肌に残っていて、色が沈んで見えた背筋だけはまっすぐだった娘さんによく似ていた「あんたが宮先生か」「宮です」「うちの部品を削ってるんだってな」「はい」「千二百六十のすり合わせは、あんたか?

」俺は驚いた「なぜご存知なんですか? 」「娘から聞いたんじゃないうちの工場の連中が前から言ってた「大森精密さんのすり合わせは手が違う」と」「うまい返事が見つからなかった」「俺は現場を離れて長いが、そういう話は覚えている」そして彼は本を閉じた「先生、俺は娘から全部聞いた十五年前、うちの鉗子が折れたことも、あんたが破片を拾ったことも」彼は本の背を指でなぞった「あの事故の時、俺は海外の展示会にいてな妻の死に目にも会えなかった帰りた時には娘の手術も終わっとって、説明は部長だという先生から受けた執刀した先生にはとうとう会わずじまいだ娘は生きて帰ってきただがその時、娘の腹の中で折れたのがうちの製品だと知ったのは、ついに今年の春先だ病気が見つかった時に、娘が話した」「先生、俺はあんたに礼を言う資格が一番ない男だ」「あれは道具のせいではありません俺の使い方が悪かった」そう言うと思った彼は笑って、それから咳をした「先生、一つだけ聞きたい」「はい」「あんた、俺を娘の父親だと思って切るのか? 」俺は少し考えてから答えた「ええ」「じゃあ何だ? 」「肝臓の入り口の胆管にできた癌その患者さんとして切ります」彼はしばらく俺の顔を見ていた「そうか」「はい」「そりゃいい」彼は頷いた「上でメスを持たれちゃ、こっちがたまらん」

俺はその日、教一さんに手術の説明をした何時間かかるか、どこを切るか、どこを残すか血が出る可能性繋いだ胆管から胆汁が漏れる可能性肝臓が動かなくなる可能性そして手術でなくなる可能性数字も全部言ったごまかさなかった説明が終わると、彼は同意書に自分の名前を書いた「先生、娘をよろしく」「その話は、終わってからにさせてください」「そうかあんたもそういう男か」彼は笑った今度は咳をしなかった

手術の日は十一月の第二週の木曜だった朝五時に目が覚めた天井を見たそれから右手を開いて閉じた指を一本ずつ曲げた六年间間機械の前で物を削っていた手だ指の腹には工場でついた小さな傷がいくつもある左の人差しには十五年前の白い線がある俺は手を握った震えていなかった病院に着いたのは六時半だった更衣室で手術着に袖を通した六年ぶりだった布が薄い作業着とはまるで違うこの服は、命に触れる時に着る服だ

手術室に入ると空気の温度が違った器具の台の上にあの縫合機が置いてあった中央材料室で滅菌されたばかりの包装を開けたところだったかなちゃんが磨いた面は、無影灯の光を跳ね返さなかった手術の道具は光ってはいけない術者の目を焼くからだその面は光を鈍く吸って静かに沈んでいた朝倉が立った「先生」「朝倉」「僕はまだ反対です」「知ってる」「でも今日は先生の助手です」「頼む」麻酔がかかった看護師が患者の名前と術式とバイタルを読み上げた全員で復唱した俺は手を出した「メス」その一言を、俺は六年ぶりに言った

腹を開けた癒着を剥がした肝臓の入り口へ向かって少しずつ進んだ肝門部は狭い血液と胆管が束になって走っている腫瘍は胆管の合流部にあって、周りの組織と硬くっついていた門脈の周りを剥がしにかかった時、朝倉が息を止めるのが分かった「先生、ここ、炎症だ」「確かですか?

」「腫瘍ならもっと硬いそれに腫瘍なら剥がれない」「剥がしてみて決める」俺は指の腹で触っていた工場では毎日そうしてきた目では分からない段差を、指の腹で見る工場長が「手で見る」といったあの見方だ剥がれた門脈は無傷だった

そこから右の肝臓を落とした切った胆管の断端を検査に回して、癌が残っていないという返事をもらってから繋ぎにかかった時間がかかった出血もあっただが想定の範囲だった問題はその後だった残った左の肝臓の断面に、胆管が三本開いているこの三本を腸につぐ一本目は浅い、規制の器具で入る二本目深い、角度を変えて入った三本目。俺は術野を覗き込んだ一番奥太さは二ミリあるかどうか周りの組織が邪魔をして真上からは入らない斜めに、しかも深く朝倉が言った通りだったここはうちにある道具では届かない俺は手を出した「あののを」看護師が縫合機を渡した首が二十二ミリ長い握りの軸が十四度起きている先端の幅は一・二ミリ豊島さんが〇・〇二に狭くして、かなちゃんが九日かけて磨いた道具だ

俺はそれを手に取った指の腹に金属の重さが乗ったその瞬間、六年前のあの夜が頭をよぎったあと三ミリ目では見えているのに届かない溜まっていく血夜の十時廊下の突き当たりの部屋あの日、娘さんに言われた一言「父は痛くなかったですか? 」俺の手が止まりかけたその時、頭の中で声がした十五年前に俺が言って、二日前に彼女から返された言葉だった病院の廊下だった手術の説明が終わって俺が帰ろうとした時、彼女は後ろから俺を呼び止めてこう言った「宮さん、十五年前、あなたは私に言いました「怖くても目を閉じるな」と今度は私が言います」彼女はまっすぐに俺を見た「怖くても、逃げないで」

頭の中の声が消えた俺は目を開けたまま手を進めた先端が入った斜めに深く角度があった糸がかかった朝倉が小さく声を漏らした俺は結んだ一本、二本、二本目深いところの結び目は指では締められない器具の先だけでも締める俺はその角度を何度も計算していた計算通りだった四本目で糸が少しだけ緩んだ朝倉が息を止めるのが分かった俺は慌てなかった慌てるのが一番危ない緩んだ糸は結び直せばいい結び直せないのは、破れた血管と失った時間だけだ俺は結び直した今度は締まった五本目、六本目朝倉が唾を飲むのが分かった指の腹に道具の重さがずっと乗っていたかなちゃんが九日かけて磨いた面が、俺の指の中でわずかも滑らなかった豊島さんが〇・〇二に狭くした先端は、閉じても浮かなかった三本目の胆管が脾臓につがった

俺は一度だけ目を閉じたそれから開けて言った「おお」胃の中を洗って出血がないことを確かめて、管を入れて閉じた手術は十一時間半かかった終わったのは夜の八時半を回っていた教一さんはそのまま集中治療室へ入った手術室を出た時、俺の手はまだ震えていなかった震え始めたのは、廊下のベンチに座ってからだった

家族への説明は俺がやった説明に入ると彼女が立ち上がった十一時間半ずっとそこにいたのだと思う髪が少し乱れていた俺は椅子に座って順番に説明した腫瘍は取り切れたこと門脈は無事だったこと胆管を三本繋いだこと出血量、手術時間これからの一週間が山であること説明が終わると彼女は深く頭を下げた「ありがとうございました」「まだ何も終わっていません」「分かっています」彼女は顔をあげた目が真っ赤だったそれでも「今日だけは言わせてください」俺は頷いたそれからしばらく二人とも黙っていた説明室の時計の音がやけに大きかった俺は自分の左手を見た指の傷がまだ痛んでいた「リツさん」「はい」「多分…救われたのは俺の方です」彼女は俺の顔を見た「十五年前も今日も、あなたが目を開けていてくれたから、俺はあの夜、自分の指のことを忘れていられたあなたが三百六十三本のカタログをめくってくれたから、俺は今日、手術室に入れた」「宮さん、俺は六年間、自分は誰も救えない人間だと思って生きてきましたそれを…あなたが…」

そこで声が続かなくなった彼女は少しだけ顔を歪めて、それからいつもの強い口調で言った「気づくのが遅い」俺は笑った笑いながら涙が出た「本当に遅いです」「すみません」「十五年待たされました」「返します」「どうやって? 」「これから考えます」彼女は泣きながら笑った

その一週間は俺にとっても長かった繋いだ胆管から胆汁が漏れないか、残した肝臓が働くか術後の一週間は、手術そのものと同じくらい大事な時間だ俺は毎朝、昼、夜に病室へ通った三日目の夜、朝倉が同じ時間に病室から出てきた「先生、もう帰ってください」「お前もな」「僕は当直です」「じゃあ俺も残る」「困ります」俺たちはナースステーションの脇の椅子に並んで座ったしばらくして朝倉が言った「三本目、見ていました」「あ…僕には無理でした」「そんなことはない」「ええ、角度が見えていませんでした先生が入れたのを見て初めて、あそこに道があると分かりました」彼はコーヒーの缶を両手で持っていた「先生、六年前、僕は先生に何も言えませんでした」「言えることじゃない」「言うべきでした」彼は缶を置いた「あの日、手術場に七種類出ていたと言いましたよねあれ、実は僕が数えたんじゃありません」「じゃあ誰が」「僕は数えられなかったんです手が震えて数えたのは、器具を渡す係りの看護師さんです後で記録を見て知りました見ていた自分を少しでも大きく見せたかったんだと思います先生が壊れていくのを、僕はただ見ていました三ヶ月の間、毎日見ていました」彼の声が震えた「僕は先生に「あれは道具のせいです」と言いたかったでも言えなかった」「言えなかったところで、先生が信じないと思ったからだと、さっきまでは思っていました」「違うのか? 」「違います」彼は顔をあげた「僕が怖かったんです」「何が?

」「道具のせいだと言ってしまったら、次に同じ立場に立つのは僕だからです」

俺は何も言えなかった「先生、僕はこの六年、あの角度のことを考えないように生きてきました先生は考え続けたそれが違いです」「朝倉」「はい」「今度から一緒に考えてくれ」彼は少し笑って、それから深く頭を下げた

教一さんは順調だった術後二日目には看護師に支えられてベッドの脇に立った一週間を超える頃には点滴の台を押して廊下を歩き、十日を超えて管が一本ずつ抜けていった三周目には朝と夕方に廊下を散歩するのが日課になっていた歩き方が娘さんに多く似ていた

十二月の初め、退院が決まった退院の日は晴れていた冬の朝の空気が乾いた日だった俺は非番だったが病院へ行った病室の前で中から声が聞こえた「まだ持ってるのか? 」「それ当然でしょう」「呆れた娘だ」俺は咳払いをして入った教一さんは私服で椅子に座っていた頬に肉が戻っていて、肌の色も普通になっていた彼女は窓際に立っていた手に紙を持っていた折り目のついたあの婚姻届けだった俺は思わず言った「本当に出すんですね」「当然でしょ私は一度決めたら逃しません」「知ってます」彼女は紙を広げてベッドの上のテーブルに置いた「約束です終わったら出すと言いました」俺はその紙を見た半年前、料亭の机の上に置かれたのと同じ紙だ折り目が四つ、角が少し柔らかくなっている長い間引き出しに眠って、この半年で何度も出し入れされた紙だ彼女は俺の顔を見ていたそれから少しだけ目を伏せた「でも…はいサインするか、あなたが決めてください」俺は顔をあげた「私は半年間、あなたにこの紙を突きつけてきました「逃がさない」と言いました「追いかける」とも言いましたでも私が本当に欲しかったのは、紙に書かれた名前じゃありません」彼女は自分の手を見ていた「逃げないあなたの返事です」部屋が静かになった教一さんは窓の外を見ているふりをしていた

俺は紙を手に取ったそして言った「一日待ってもらえますか? 」「分かりました」「逃げません」「知っています」翌朝、俺は工場へ行った土曜だった工場は休みのはずだったそれなのにシャッターが空いていて、中に三人いた工場長と豊島さんとかなちゃんだ「遅い」「なぜいるんですか? 」「霧島社長の娘さんから電話があった「宮さんは決める時は必ず工場の机に座るから、土曜の朝に見ててください」って」俺は天を仰いだ「あの人、本当に逃がさねえな」俺は自分の机に座った机の上を片付けて紙を広げた図面を広げてきた場所だ鉛筆を置いてきた場所だペンを持った工場のペンだ事務所の引き出しに入っている百円もしないボールペン工場長が伝票を書くのに使っているやつだペン先を紙に当てる前に、俺は自分の左手を見た白い線が一本走っている十五年前の夜、血の中で破片を探した時に避けた場所だあの夜、この指の下に十三歳の子がいたその子が今、この紙に自分の名前を書いて待っている

俺は自分の名前を書いた宮が通る六年ぶりに、自分の意思で何かを選んで、その責任を自分の名前で引き受けた手術の同意書でも辞表でもない誰かに求められて書いた名前でもない書き終わって顔をあげた「みい穴が」「はい」「商人のが開いとるぞ」「あ、」工場長は俺の手からペンを取って自分の名前を書いたそれから豊島さんに回した「俺も書くのか?

」「いる」「聞いてねえよ」文句を言いながら、豊島さんは綺麗な字で名前を書いた「なんで私じゃないんですか? 」「人は二人までだ」「どうな? 」「じゃあ私は…」「お前は磨いただろうが名前より先に、あの道具の方に入ってる」かなちゃんが泣いていた「なんで私が泣いてるんですかね? 」「知るか」工場長はそっぽを向いた豊島さんが横から言った「油が目に入ったんだろ」「もう機械回してないですよ」工場長は俺の手元を見て、それから一言だけ言った「まあ悪くない」

この人がそう言う時、それは最上級の褒め言葉なのだと、俺はこの工場で知っていた

あれから三年が過ぎた俺たちはあの年の十二月に籍を入れた実は仕事では今も霧島の名字を使っている「宮さんでは誰も私と分かりませんから」だそうだ俺は今、当と医科大学付属病院の肝臓と胆管と膵臓を見る科にいるただし常勤ではない週に三日だけ手術と外来に入る非常勤の医師だ残りの二日は大森精密にいる肩書きは技術顧問ということになっている実際は今も作業着を着て機械の前に立って削って磨いている工場長には未だに「宮さん」と呼び捨てにされるだが俺にはこれが一番しっくり来る

手術室で「ここに届く道具がない」と思うそれを、その週のうちに工場で話せる工場で「この形は削れない」と言われるそれを、その週のうちに手術室で確かめられる道具を使う人間と作る人間の間には、思っているよりずっと深い川が流れている俺は今、その川に橋をかけている

あの縫合機は製品になったあの千二百六十番の隣に、新しく千二百九十番という型番が並んだ肝門部の深いところ規制品では届かない角度に入る縫合機だ今は全国四十か所ほどの病院で使われていると聞いた数字の上では大した数ではないだが年に何十人かの体の中で、この道具がなければ縫えなかった場所が縫われているはずだ俺はその人たちの顔を知らない名前も知らないそれでいいと思っている

去年、学会の会場で知らない先生に声をかけられた地方の病院の術者だった「千二百九十番、使わせてもらっています」「あれ誰が考えたんですか?

」俺は少し迷ってから答えた「届かなくて悔しい思いをした人間だと思います」「なるほど通りで」その人はそれ以上聞かずに「じゃあまた」と言って人混みの中へ戻っていった俺は誰にも見せずに線を引いていた図面の線が、今、名前も知らない誰かの手に握られて、名前も知らない誰かの体の中に入っているそれだけで十分だと思った

先端のすり合わせは今も大森精密でやっているうちの工場は九人から十二人に増えた工場長は面倒が増えたと言いながら新しい検査盤を一台入れたかなちゃんはこの春、夜間の学校を卒業した今は削るだけでなく図面も見るようになったこの前、霧島メディカルの試作の会議に呼ばれて、開発の人たちの前で意見を言ったそうだ「宮さん、私、言っちゃいました」「何を」「こういう形だと磨く人が絶対に指切りますよって」「それで? 」「治りました」彼女はその日、工場で一番大きな声で笑っていた彼女の机の上には、あの千二百九十番が一本置いてある同じ図面で作られた製品の一番号だ霧島メディカルが記念にくれたらしい「これ、私の一生の自慢です」

豊島さんは今日も放電加工の前にいる交差の加減ぎりぎりを狙う癖は相変わらずだ今は必ず図面の方を直させる霧島教一さんは元気にしている手術から三年が経って、今のところ再発はない術後の薬も一年飲み切った年に一度、うちの工場へ来る作業着を着て機械の前に立って、若い連中に昔の話をして帰っていく実は去年から霧島メディカルの専務になった会社の方針を一つ変えた年に一度、開発の人間を現場の病院と下受けの工場に出す制度を作ったのだ図面を引く人間が、削る人間と使う人間の顔を見るそれだけの制度だが、社内では随分反対されたらしい「無理かどうかは私が決めます」その一言で押し切ったと聞いた

去年の秋、その制度の一回目でうちの工場に来たのは、入社二年目の若い男の子だった彼は三日間、かなちゃんの後ろに立って研磨を見ていた三日目の帰り、俺にこう言った「僕、これまで図面の数字だと思ってました」「違うのか? 」「人の手でした」俺はその一言を立に伝えた彼女は珍しく何も言わなかったそれから小さく頷いた「では続けます」制度は今も続いている

成田舞さんとは今も十月十七日に会う去年、俺は舞さんに千二百九十番の話をした彼女はしばらく黙ってからこう言った「父の名前は、その道具のどこにも入らないんですよね」「入りません」「それでいいです」「なぜですか? 」「名前が入ってたら、父が気にすると思うので」彼女は笑ったもう泣きそうな笑い方ではなかった

去年の秋、俺は舞さんとリツを引き合わせた三人で線香をあげた帰り道、舞さんはリツにこう言っていた「宮さんのこと、よろしくお願いします」「こちらこそ」「あの人、放っておくと自分のことは後回しにするので」「知っています逃しません」「誰のですか」俺は二メートルほど後ろを歩きながら、その会話を聞かないふりをしていた

先週の日曜、俺はリツと二人であの料亭の前を通ったあの日、見合いをした店だ門から玄関まで石が敷いてあって、両側に竹が植っている俺には今も縁のない場所だ「入りますか?

」「あ、高いのでやめておきます」「専務の給料で払います」「それは嫌です」彼女は笑ったよく笑うようになった俺たちは門の前で少し立ち止まったあの日は、俺の指を見ましたよね「見ました」「あんな傷、普通は気づかない」「十五年見ていましたから」「見ていたというのは…目を閉じたら、いつでも見えました」俺は自分の左手を見た白い線は今もある冬になると突っ張るように痛む十八年経っても消えない多分、一生消えない「リツさん」「はい」「一つだけ、ずっと言いたかったことがあります」「どうぞ」俺は石畳の上に立って彼女の方を向いた「十八年前、十三歳の君に言いました「君の命は俺がつぐ」とあの日から今日まで、俺はずっとそのつもりでいました」彼女は俺の顔を見ていた「でも本当は逆でした」「逆? 」「君が、俺の未来をつなげてくれたんです」竹の葉が風で鳴った彼女はしばらく黙っていた目の縁が赤くなっていたそれからのんびりとした声で言った「じゃあ責任を取りなさい」「一生かけて取ります」「一生では足りません」「足りませんか? 」「まった…十五年分の利子がついています」俺は笑った冬の風が石畳の上を通っていった彼女の髪が少しだけ乱れたそれを手で抑えながら、彼女は俺の左手を取った指の傷のところにそっと親指を当てた「行きましょう」「はい」俺たちは駅へ向かって歩き出した

来週の月曜、俺は手術室に入るその次の日は工場だ作業着を着て機械の前に立って、誰かの体の中に入っていく道具を削る名前も顔も知らない誰かのためにあの頃、俺はもう白衣を着る資格がないと思っていた今はそうは思っていない資格というのは、免許のことでも経歴のことでもない逃げずに向き合う覚悟のことだそう教えてくれた人が、今、俺の隣を歩いている