「お姉ちゃんって本当にずるいよね。彼氏ができたら友達を即座に捨てるタイプでしょ」…

「お姉ちゃんって本当にずるいよね。彼氏ができたら友達を即座に捨てるタイプでしょ」...

「お姉ちゃんって本当にずるいよね。彼氏ができたら友達を即座に捨てるタイプでしょ」

妹の秋奈がソファーでスマホをいじりながら、そんな言葉を投げてきた。私は母に「一人暮らしをしたい」と伝えたばかりだった。すると母は鼻で笑い、「無理でしょ」と一言。給料が少ない、家賃が払えない、電気代が高い。次々と浴びせられる言葉に、私は何も言い返せなかった。

私は松山ひろみ、24歳。中堅の会社で事務職として働いている。ついこの間まで新人気分でいたけれど、今年からは初めて後輩指導を任されることになった。

「松山さん、ここの処理ってこれで合ってますか?」
「うん。ばっちり。よく気づいてくれたね」

後輩の男の子が嬉しそうに席へ戻っていくのを見送りながら、私は小さく息を吐いた。今の会社ではまだまだ新人の部類だけれど、「器用だ」と言ってもらえるのは過去の経験が役に立っているのかもしれない。

高校生になってからアルバイトを始めて、とにかくたくさん働いた。放課後や休日の早朝はコンビニ。夏休みは市民プールの監視員。冬休みには宅配業者の仕分け作業。大学生の時はレストランでホールのアルバイトを丸4年間。他にも食品工場、ビルの清掃、ゴルフ場のキャディまで、私はあらゆる現場を渡り歩いてきた。

働くこと自体は嫌いじゃない。けれど、働き詰めで友達と遊ぶ時間はほぼゼロ。睡眠時間も削られる。ではなぜそこまでして働き詰めだったのか。それは私の家庭環境のせいに他ならない。

自宅に帰ると待っているのは、いつも冷え切った空気と母の鋭い一言だった。

「ねえ、今月これだけ?いつもより随分少なくない?」

リビングのテーブルに置いた封筒を、母は人差し指の先でトントンと叩いた。その爪にはピンク色のネイルが塗られてピカピカと光っている。私は鞄を抱きしめたまま小さくなって答えた。

「ごめん。先月はテスト期間だったから、あんまりシフト入れなくて」

アルバイトを始めた高校生の頃から、私はこの家に生活費を入れている。額は決まって5万円。けれど母に叱られたその月は、どうしても3万円しか渡せなかったのだ。

「3万なんて、あんたの食費にも足りないよ。テスト期間だからってシフトを減らしたのはあんたの都合でしょ。だったら、いつも通りうちに5万入れてくれないとおかしいじゃない」

母は大きなため息をつき、ソファーの背もたれに深く寄りかかった。「ごめん」としか言えない私を、冷たい目で睨んでくる。私を産んだはずの母親。それなのに、母親らしい愛情など感じたことがない。冷酷な借金の取り立て屋のようだ。

「貯金くらいしてないの?」
「いや、あんまりなくて」
「まあ、切れた。いっつも働いておいて貯金もしてないの?本当にだらしがない子ね。何にお金を使ったらそんなことになるわけ?」

叱られるほどの贅沢なんて一つもしていない。毎月のスマホ代は自分で払っている。スマホ本体もお金を貯めて購入した。日々の食費だって馬鹿にならない。学校で使うノートや参考書すら、母はお金を出してはくれない。残ったわずかなお金は、次の検定費用や友達とごくたまに行くお茶代に消えていく。私の手元には自由なお金なんてほぼ残らないのだ。

この金銭事情は以前にも母に説明したことがある。それなのに彼女は不機嫌そうに鼻で笑った。

「まあいいわ。今月の不足分2万ね。来月合わせて7万入れなさいよ。うちの家計だって楽じゃないんだから」

当時高校生の私は、社会の厳しさをひしひしと感じた。

「お母さん、友達とご飯行くからお小遣いちょうだい」

そこへリビングのドアを開けてひょっこりと顔を出したのは妹の秋奈。私より3歳年下の秋奈は、ふんわりと巻いた明るい髪を揺らし、お気に入りのバッグを肩にかけている。

「お友達とご飯、5000円で足りるかな。その後カラオケも行くから1万円かな」

今まで私に向けていた氷のような表情はどこへやら。母の顔は一瞬でとろけた。

「そう。変な男の人についてっちゃだめよ」

母はそう言って、ごく自然な手つきでテーブルの上の封筒に手を伸ばした。私が今し方頭を下げながら手渡したばかりの3万円が入った封筒だ。そこから迷いなく1万円札を引き抜いて、秋奈の手のひらに渡す。

「分かってるって。ナンパしてくるような軽い男には興味ないし。お母さんありがとう」

嬉しそうに財布にお札をしまう秋奈。その姿を私はただ呆然と見つめることしかできなかった。当たり前のようにお小遣いをもらっているけれど、秋奈も私と同じ高校生だ。アルバイトができる年齢になったにも関わらず、楽しく高校に通って、他の時間は自由に遊び歩いている。彼女にとって親の財布は自分の財布と同じらしい。しかも今手にしたそのお金は、私が睡眠時間と勉強時間を削って必死に稼いだお金なのに。

母は秋奈の頭を撫でるように触れながら、ちらりと私に冷たい視線を向けた。

「1万円しか上げられなくてごめんね。だって、聞いてよ。ひろみが今月の生活費を出しぶったの」
「え、お姉ちゃんずるい。ケチだね」

秋奈は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。何がずるくてケチなのだろう。意味が分からず目の奥がカッと熱くなる。むしろずるいのは秋奈の方ではないか。高校生になった今でも働かず、家にお金を1円も入れていない。以前少しだけアルバイトをしていたけれど、その稼ぎは全て自分の服や化粧品に消えていた。そもそもアルバイトを始めた理由も「カフェにかっこいい店員さんがいたから」という信じられないものだ。そして、その店員さんに彼女がいると分かった瞬間、「行く意味なくなった」と次の日にはあっさりアルバイトを辞めている。

そんな秋奈に対して、母は「生活費を入れなさい」なんて一度も言ったことはない。秋奈がどれだけ無駄遣いをしても、だらしない生活をしていても、いつも「秋奈は可愛い」で済まされてしまうのだ。

「じゃあ行ってきます。帰る時連絡するから迎えに来てね」

明るい声を残して彼女は出かけていった。母はエプロンを外してテーブルに置く。

「さてと。秋奈がいないんじゃ、晩御飯は作んなくてもいいね。私外で食べてくるから。あんたも好きなの食べな」

スマホを取り出した母は、操作しながら自室へと向かう。残された静寂の中で、中身が2万円に減ってしまったテーブルの上の封筒をただ見つめた。

高校・大学時代の私は、どんなに理不尽な扱いを受けても耐えることができた。いくら生活費を入れ、細々とした学用品をアルバイト代から出しているとはいえ、大きな金額となる学費は全額を親に出してもらっている身だったからだ。家に帰れば、冬は温かく夏は涼しい十分な広さの一人部屋がある。学校に通いながら一人暮らしをするなんて、当時の私には到底不可能なことだった。どうしたって、私はまだ親に守られている立場なのだ。毎月5万円の生活費なんて、むしろ安いくらいかもしれない。「5万じゃ足りない」という母の言葉も一理ある。もし一人暮らしなら、5万円ではアパートすら借りられないだろう。アルバイトと学業の両立は確かに苦しかったけれど、頭のどこかで親への感謝の気持ちは確かに持ち続けていた。

そして私はとうとう大学を卒業し、社会人になった。就職した会社は家から電車で10分ほど。社会人になって少しお金が溜まったら一人暮らしを始めよう。それが私の掲げた目標だ。

初任給は手取りで20万弱。無駄遣いをせずきっちり節約していけば、引っ越し費用はすぐに溜まるはずだ。

ところが社会人になった最初の月から、母に冷ややかに告げられた。

「今月から生活費は10万円に増額してよ。学生の時より収入が増えたんだから当然よね」

「当然」。その言葉に私は何も言い返せない。収入が倍ほど増えるのに、生活費を増やすという考えはなかった。言われた通り毎月10万円を母に渡した。手元に残るのはわずか8~9万円。そこから毎日の昼食、スマホ代、会社で進められて入った生命保険の掛け金が引かれていく。結局自由に使えるお金なんて学生時代とほとんど変わらなかったけれど、それでも私は諦めなかった。必死に食費を削り、新しい服も我慢して、半年間でなんとか30万円の貯金をする。

通帳の数字を確認したその夜、私は意を決してリビングにいる母の前に立った。

「お母さん、あのね、私一人暮らしをしようと思うの」

自分が母に特別愛されているなんて思っていない。親子だって人間同士、相性というものがある。私より明るくて愛嬌のある秋奈の方が可愛がられるのは仕方のないことだ。学生時代、テスト前なのに人員不足でアルバイトを休めなかったことがある。テストの結果がボロボロだった時も、ショックを受けたのは私だけだった。親は私の成績なんて最初から興味がないのだ。でも、興味を持たれないということは干渉されないということでもある。その点ではむしろ気楽だ。一人暮らしの話をしても、きっと「好きにすれば」の一言で終わると思っていた。しかし母の反応は私の予想とはまるで違った。

「無理でしょ」

はっと鼻で笑われたのだ。

「あんた給料少ないって言ってたじゃない。手取りで20万も行かないんだっけ?情けなね。この辺りでアパートを借りようと思ったら、いくらかかると思ってるの?」

母はテレビばかり見ていて、こちらに目を向けようともしない。

「ほら、駅の西側に小さいマンションあるでしょ?販売価格知ってる?築30年なのに5500万だってよ。ああ、恐ろしい。あんたにそんなお金あるわけないよね」

何を言っているのだろう?私はマンションを買うなんて言っていない。賃貸のアパートを借りたいだけなのに。母の話は恐ろしい勢いで飛躍していく。

「それに電気代だってね。うちは毎月2万も払ってるんだから。夏なんか4万超えるのよ。あんたのスズメの涙みたいな給料じゃ、家賃と光熱費だけで破産するに決まってるね」

容赦なく浴びせられる言葉に、私の胸にじわじわと不安が広がった。でも今回ばかりは引き下がるわけにはいかない。拳をぎゅっと握りしめ、この半年の間に練り上げた計画を精一杯伝えた。

「ちゃんと計算したの。一人暮らしのシミュレーションもしてあるよ。家賃が安いアパートの目星もすでにつけてある。一人暮らしは初めてだから光熱費は正直やってみないと分からない部分もあるけど、でも節約は人一倍頑張るつもりだから」

母は母なりに、娘の世間知らずな計画を心配してくれているのだ。だから私は「大丈夫だよ」と真剣にアピールする。しかし母は私の話を半分も聞かないうちに手を左右に振った。

「だから無理だって言ってるの」

小馬鹿にでも払うような仕草をして、母は再び笑う。

「じゃあ聞くけど、家賃・光熱費・食費とか、それを全部払って残りはいくらになるわけ?あんたの手元に10万残るの?」
「さすがにそこまでは…でも2、3万くらいならなんとか残せると思う」
「ほら、やっぱり無理じゃない」

歯を見せて母は笑う。その歪んだ顔が少し怖くて、唇を噛んだ。

「うちに入れるお金どうするつもり?10万円。まさか出て行くからって1円も払わずに逃げるつもりだったの?」

言葉が出なかった。頭の中が真っ白になる。実家を出ても毎月10万円を払い続けなければならないというのか。

「でも家を出るんだよ」

掠れた声で説得したが、母はとぼけた顔を背けた。その時、リビングのソファーで寝転がってスマホをいじっていた秋奈が会話に割り込んでくる。

「お姉ちゃんって本当にずるいよね。彼氏ができたら友達を即座に捨てるタイプでしょ」

意味が分からないけれど、秋奈が言いたいことのニュアンスだけは嫌というほど伝わってきた。一人暮らしをするからって実家を切り捨てる気なんだと、彼女は私を責めている。

「本当、ひろみってこんなに白々しい子だったんだね。お母さんのこと簡単に捨てるんだ」

母が大げさにため息をついて被害者を気取った。

「うわあ、最低。お母さんかわいそう」
「あなも面白がって煽てる。せっかくここまで育ててあげたのに。大学を卒業した途端にこれだよ。お金をたくさん稼げるようになって人格がおかしくなっちゃったんだね」
「だね。おかしくなっちゃったんだよ」

視界がぐるぐると回り、私は自分の足元が泥沼になったような感覚に陥った。おかしいのは私の方なのだろうか。一人暮らしの生活費に加え、実家に毎月10万円を払い続けるなんて、どう考えても不可能だ。私のささやかな夢は音を立てて崩れ去った。

「ごめん。無謀な計画だったかも」

そうつぶやくのが精一杯。2人に背を向け、自分の部屋へと逃げ帰る。階段を駆け上がりながら、私は必死に自分への言い訳を探していた。実家暮らしの方が部屋は広い。お風呂だって、トイレとシャワーが一緒になった狭いユニットバスで我慢しなくて済む。私が借りようとしていた格安のアパートは、会社から電車で50分もかかるのだ。でも実家なら10分で通える。それはやっぱり大きな魅力だ。一人暮らしを始めるより、お金の面でも助かっている。10万円ではとてもこの生活環境を変えない。大きく頷いた。私は間違っていない。親に生活を守ってもらっているのだ。柔らかいベッドに突っ伏して、そう自分に言い聞かせた。広くて清潔な部屋で小さく丸めた体を抱きしめる。ぎゅっと目を閉じていなければ、涙が溢れ出してしまいそうだった。

そもそも我が家は決してお金に困っているわけではなかった。むしろ世間一般から見れば少し裕福な部類に入ると思う。父は小さな会社を経営している。それほど大きな企業ではないけれど、母が思いつきでふらりと単身の海外旅行に出かけられるくらいには経済的な余裕があるようだ。ただ、やはり社長というのは忙しいものらしく、父はほとんど家にいなかった。子供の頃の運動会や入学式、卒業式といった学校行事に父が来てくれた記憶は一度もない。社会人になってからも家で顔を合わせる機会はかなり稀だった。だからこそ、たまに父が家にいると、それだけで家中の空気がピリピリと張り詰める。

就職してまだ間もない頃のこと。その日は仕事が本当に忙しくて疲れ果てていた私は、自分へのご褒美にとコンビニで甘いシュークリームを買って帰った。自分の分だけだと母に見つかった時に「またあんただけ贅沢して」と叱られる。だから母と秋奈の分も合わせて3つ奮発して買ったのだ。

「ただいま」

リビングに家族の姿はない。静かなキッチンにシュークリームの入った袋を置き、洗面所で手を洗って戻ってきた。するとダイニングテーブルの前に、見慣れない大きな背中があった。父だ。珍しく帰宅していた父が、私の買ったシュークリームの袋を勝手に開けている。すでに丸ごと1つ口に放り込んでいるところだった。2つ目の袋まで開けようとしている。

「あ、それ私の」

疲れていたせいか、うっかりそんな言葉が口をついて出てしまった。その瞬間、父の背中がピクっと跳ね上がる。凄まじい勢いでこちらを振り返った。その目は血走り、顔は怒りで真っ赤に変色している。

「ああ?何が私のだ。この野郎」

地鳴りのような怒声が部屋に響き渡り、私は恐怖で肩を竦めた。父はシュークリームをテーブルに叩きつけると、私を指差す。

「勘違いするなよ。この家は俺のものだろ。お前が今踏んでる床も、このテーブルも、水道の水も、全部俺が稼いだ金で買ったんだ。俺に家にあるものが、なんでお前のものになる?」

「くっ…ごめんなさい。すみません」

何度も頭を下げて謝り続けるしかない。少しでも反論すれば、さらに大きな嵐になることを知っていたからだ。父は怒りやすいけれど、相手が完全に屈服すればすぐに治まるタイプでもある。私が涙目で怯えているのを見ると、父はふんと鼻を鳴らし、ダイニングチェアにドカッと座り直した。そして2つ目のシュークリームを口に放り込んで、ケラケラと笑う。

「なんだ、コンビニのシュークリームってのも結構うまいんだな。安物なのに。おい、今度からこれもっと買ってこいよ」

引きつった笑顔で頷くのが精一杯だ。父に対して温かい思い出なんて一つもない。養ってもらっている身でこんなことを言うのはバチ当たりかもしれないけれど、父がいつも不在がちなことが最大の救いだ。結局私はそそくさと自室に戻り、楽しみにしていたシュークリームが口に入ることはなかった。

そんな嵐のような日々がしばらく経ったある日のこと。夕食の後、母から突然分厚いファイルを目の前に突きつけられた。

「はい。これ、お父さんの会社の手伝いをしてよ」
「手伝いって、何を?」

不信に思ってファイルを開くと、そこにはぎっしりと数字が書かれた領収書や会社の出入金記録のメモが挟まれていた。

「何って、会計処理に決まってるじゃない。今月からあんたがやって」

驚いて母の顔を見る。私も社会人3年目になり、日々の仕事や後輩の指導で毎日クタクタだ。家に帰ってさらに別の会社の事務処理なんてできるはずがない。私がすぐに「分かった」と言わず困惑して黙り込んだことに、母はイラっとした表情を浮かべた。

「何その顔?そんな簡単なこともできないわけ?昼間は会社で事務やってるんでしょ。だったら、こんな内職みたいなもんパパッとやっちゃいなさいよ」

「内職」?母はまた私の労力をそんな軽い言葉で片付けようとする。押し付けられた会社の会計処理は本当に面倒なものだったけれど、生真面目な性格の私は夜遅くに自分の部屋でパソコンに向かい、コツコツと数字を入力し続ける。そんな私の疲れなんて、母も秋奈もこれっぽっちも気にしていない。むしろ2人の要求は日に日にエスカレートしていった。

ある日の会社帰り、私は同じ会社の同僚女性と一緒に駅へ向かって歩いていた。

「ああ、疲れた。今日のご飯どうするの?」
「うーん、スーパーで何か買って帰ろうかな」

そんな会話をしていたその時、背後から華やかな声に呼び止められた。

「あら、ひろみじゃない」

振り返ると、デパートの紙袋をいくつも抱えた母と秋奈が立っている。2人は明るい表情で駆け寄ってきた。

「あ、お母さん。あ、買い物?」

私には興味がなさそうだ。母は私の隣にいる同僚に向けて、これ以上ないほど上品で優しい笑顔を浮かべる。

「初めまして。ひろみの母です。いつも娘が本当にお世話になって。家でもいつも会社の皆さんのことを楽しそうに話してて、本当にいい職場に恵まれたって感謝してるんですよ」

家で私のことを虫けらのように扱い、「貯金もないだらしない子」だと知っているのに、外ではこんなにも娘を愛する立派な母親の顔ができるのだ。さらに秋奈が私の腕に自分の腕をぎゅっと絡ませて、甘えるように小娘を使ってみせた。

「お姉ちゃんの会社の人ですか?初めまして。これからもお姉ちゃんと仲良くしてあげてくださいね」

彼女もすでに社会人なのに、可愛い小学生にしか見えない。わざとらしく唇を突き出して首をかしげていた。

「あ、はい。こちらこそ。すごく仲良しなご家族なんですね。羨ましいです」

2人のあまりの輝きと仲良し家族の雰囲気に、同僚はすっかり騙されて感動しているようだ。私は引きつった笑顔を浮かべることしかできない。

「私たちご飯食べて帰るけど、ひろみはどうする?せっかくだから一緒にどう?」

お誘いを断るのも申し訳ないほど優しくて理想的な母親を演じている。

「あれ?ごめん。会社にスマホ忘れたみたい」

バレバレの嘘をついてその場を離れた。それから2時間ほど時間を潰して家に戻った。リビングでは母と秋奈が買ってきたばかりのブランド物の服を広げて盛り上がっている。私が「ただいま」と入っていくと、秋奈がゲラゲラと下品な声をあげて笑い出した。

「ねえ、お姉ちゃんの顔見たら思い出しちゃった。さっき一緒に歩いてた子、何あれ超ブスじゃん。あんな芋臭いのと並んで歩いてて恥ずかしくないの?」

先ほどの可愛らしい妹の面影なんて微塵もない。ソファーでのけぞって笑う秋奈に同調して、母も意地悪な笑みを浮かべる。

「本当ね。お洋服のセンスも悪そうだし、あんな子と一緒にいたらひろみの運気まで下がっちゃうわよ。あの子に比べたら、うちの秋奈は本当にお人形さんみたいに可愛いわよね」
「そうだよね。私、秋奈で生まれてきてよかった」

2人は他人を嘲笑いながら、素敵なワンピースを体に当ててゆらゆらと揺らした。外では「自慢の娘たち」「お姉ちゃん大好き」と完璧な笑顔を振りまく。それなのに家に一歩入れば、他人の容姿を平気でけなし、私を底辺へと引きずり下ろすのだ。以前、「そんなひどいことを言わないで」と軽い抗議をしたことがある。けれど「この家はこんなもんよ」と2人は聞く耳を持たなかった。本当にみんな、家に帰れば優しい人の皮を脱ぎ捨てて毒を吐いているのだろうか。そんな風に考えてしまい、他人と付き合うのも怖くなった。

それから数日後、歪んだ我が家に父が珍しくお土産を持って帰ってきた。

「おい、いいもんがあるぞ」

リビングに入ってきた父が、テーブルの上に書類らしきものを置いた。真っ先に母が手に取り確認すると、釣書や写真が出てくる。取引先の社長が持ち込んだお見合い話らしい。

「うちの美人姉妹と是非にってさ。まだ若い社長だってよ」

「社長」と聞いた瞬間、ソファーで退屈に爪をいじっていた秋奈の目がキラーンと輝いた。

「え、社長やった。いいじゃん。お父さん、社長の写真見せて」

秋奈は私を突き飛ばす勢いでテーブルに飛びつき、釣書に添えられた写真を引ったくる。けれど写真を見るや否や、肉食動物のようなギラギラした笑顔が一気に消えうせた。

「うわ、微妙」

あからさまに嫌そうな顔をして、写真をテーブルに投げ捨てる。私も横から恐る恐る写真を覗き込んでみた。年齢は30歳と書かれているものの、地味なスーツを着た疲れた顔の男性だ。髪型も無頓着で、失礼ながら実年齢より随分老けて見える。

「社長って言っても、こんな会社聞いたこともないよ」
「本当だ。こんな会社知らない。絶対お父さんの会社より小さいし。耐えられないおじさんと結婚なんてやだ。ありえない」

秋奈は激しく首を横に振ると、「お姉ちゃんにあげる」と釣書を私に押し付けてきた。

「そうね。秋奈は可愛いんだから、もっと若くて誰もが知っている大企業の御曹司がお似合いだよ。まあ、秋奈に」

母も同意して、あからさまに鼻で笑う。父は不機嫌そうに顔を歪めた。仲介を持ってきた取引先の顔を潰すわけにはいかないらしい。

「じゃあひろみが行け」

短く命令してきた。

「あの方が相手方も喜ぶと思っていたけど、確かにどうでもいいやつに媚び売ってやる必要はないよな。うちの娘が誰も行かないんじゃ、俺のメンツが丸つぶれだし。あ、ひろみが適当に合ってこい」

結局、私の意見なんて最初から誰も聞いていない。秋奈がいらないと言った残り物が、当然のように回ってくる。釣書と写真を手に取り、複雑な気持ちで眺めていると、秋奈が私の顔を覗き込んできて、クスっと笑った。

「お葬式みたいな顔してるよ。そりゃ、こんな冴えないおじさんとお見合いなんて嫌だよね。どんまい」

私の肩をポンポンと叩きながら、秋奈は声を弾ませた。

「でもさ、お姉ちゃんも男を選ぶ側じゃないよ。どうせ相手からも『地味な女だな』って振られるに決まってるんだから。普通にしとけば断られるから大丈夫」
「さあさ、いつも通りでいいのよ。変に張り切っても見苦しいからね」

母と秋奈は顔を見合わせて楽しそうに笑い声をあげた。

「まあ、こいつじゃ振られるか。俺の顔に泥を塗らない程度には頼むよ」

3人の言葉が鋭い針になって胸に突き刺さる。けれど「痛い」とか「嫌だ」とか、何も口にできない。上唇と下唇はピタリとくっついてしまう。自分の気持ちを隠してしまうこの無様な姿が、私の「いつも通り」だ。確かに、こんな私が誰かに好かれるはずがない。断られると分かりきっているお見合いに、私はとぼとぼと向かうのだ。

お見合いの当日。一応手持ちの中で一番綺麗めなネイビーのスカートを履こうと準備していたけれど、それを見つけた母と秋奈は指を指してゲラゲラと腹を抱えて笑い転げる。

「ちょっとひろみ、何それ?似合ってないにも程があるわよ。いつも通りのダサい服でいいって言ったじゃん。まさかあの遺産社長を本気で狙ってんの?うわ、趣味悪い」

結局、「お姉ちゃんと言えばこれがお似合いだよ」と秋奈がクローゼットから引っ張り出してきた服を着るはめになった。首元が少しよれて伸びたグレーのTシャツに、お尻の辺りにザラリと毛玉ができた黒いパンツ。綺麗に編み込みしていた髪の毛も無理やり解かれ、飾りのない黒いゴムで後ろに一本縛りにされた。こんな格好で会社には行けない。近所のコンビニが精々だ。けれど、お見合いの場所がかしこまった高級料亭ではなかったことだけが唯一の救いである。場所を決める際、最初は母たちが高級料亭にして男に高い金を払わせようと盛り上がっていたのだが、自分たちが食べるわけでもないのに無意味だと気づき、「ファミレスでいいじゃん」と投げやりになった。そこで私が提案したのが、大学時代に4年間アルバイトをしていた馴染みのある個人経営のレストラン。母たちはもちろん鼻で笑う。

「でもま、あんたと地味社長にはお似合いだね」

クタクタの服を着て、消えてしまいたいほど浮かない気持ちのまま、私はレストランの扉を開けた。

「松山ひろみさんですか?」

席にはすでに相手の男性が座って待っていた。菊池さん、30歳。写真の通り地味なスーツを着て、老けて見える男性だ。挨拶をして席についたものの、彼には一切の笑顔がなかった。ピリピリとした冷たい空気が彼の周りに張り詰めている。私が地味な女である上に服装もくたびれていて貧乏臭いから不機嫌なのだろうか。貴重な時間を無駄にさせてしまって申し訳ない。どうせ振られるのだ。一刻も早くこの時間が終わればいいのにと、私は小さく身を竦めた。

妙に緊迫した空気の中、相手が私の顔を下から覗き込み、静かに問いかけてくる。

「お父様は会社経営されていますよね。ひろみさんは、仕事は何してるの?」
「ああ、父の手伝いを。まあ、内職です」

振られたな。私は俯いたまま、半分投げやりにそう答えた。家を出る前、母からは「絶対に気に入られるなよ」と釘を刺されている。秋奈も「あんな地味な人をお兄ちゃんって呼べない」と勝手に最悪の未来を想像して震えていた。下手に仕事をしていると言えば「金づるにされるかもしれない」と2人は警戒までする。自営社長なんて、うさん臭くて金に困っているものらしい。これに父としては、自分が会社経営をしているのに娘がよそで働いているのは恥ずかしいそうだ。ということで、私の仕事は「父の手伝い」となる。確かに手伝いはしているため嘘はついていない。なんとなく罪悪感があり、もごもごとした喋り方になってしまった。完全に悪印象を抱かれただろう。これで振られる。両親や秋奈には「うまくやったね」と褒められるかもしれない。無事任務をこなせたけれど、達成感も安堵も感じなかった。

「いらっしゃいませ。お、どうぞ」

そこへ若い外国人の男性が注文を取りに来た。一生懸命片言の日本語で誠実に応対してくれているのだが、まだアルバイトを始めたばかりなのか不安そうだ。

「あ、ではコーヒーを…いや、コーヒー。あの、カフィー…お、カ…なんとかコーヒー」

コーヒーは伝わったものの、このお店のメニュー名は長く少し複雑な表記になっている。

「えっと、このオーナーおすすめの…苦情ネギと豚カルビのホロ煮込み…」

相手が注文を続けると、店員は頭がパンクしてしまったらしい。真っ青な顔でおろおろと震え出してしまった。そういえば、オーナーはいい人だけれど口数が少ない。私も何の指導もなくいきなりお客の前に出されて困惑したことを思い出した。昔の感覚が体に染みついていたせいもあり、反射的に手を伸ばす。

「あ、ごめんなさい。ちょっとそれ貸してくれますか?」

手書きの複写伝票とボールペンを店員から優しく受け取ると、さらさらとペンを走らせた。

「私、ここで以前働いていたんです。このメニューはね、こんな風に略称で書くと厨房のオーナーに一発で伝わりやすいですよ。ほら、これで大丈夫です」

久しぶりの懐かしい感覚に浸っていたが、私はつい余計なお節介をしてしまったと我に返る。自分のボロ服の袖に視線を落とし、「すみません。お節介でした」と相手の顔を恐る恐る見上げた。すると相手の目が驚愕に大きく見開かれている。私が伝票に書いた文字を、彼は穴が開くほどじっと見つめていた。

「あ、ありがとうございます」

店員は救われたような顔をして何度も頭を下げ、伝票を胸に抱えて厨房に戻った。それと同時に、ガタッと相手が椅子を鳴らして身を乗り出した。彼の瞳がギラリと光る。

「ひろみさん、僕と付き合ってください」

え?振られるのを待っていた私は、あまりにも想定外の言葉にただパチパチと目をまたたかせることしかできなかった。自分の体を改めて見下ろす。私の格好は首元の伸びたTシャツに毛玉だらけのパンツなのだ。お世辞にもお見合いに臨む態度とは思えない、貧乏臭い女である。

「え、でも、私こんなですし…」

困惑して俯く私に、相手はすっと声を潜め、テーブル越しに顔を近づけてきた。

「これはビジネスとしての話です」
「ビジネス?」
「ええ、実は僕の家は色々とゴタゴタしていましてね。それで…」

どうやら親族関係のしがらみがあるようだ。不意に目をそらした彼に、自分の姿が重なる。家族の中で窮屈な思いをしているのだろうか。彼の横顔には、私と同じ孤独が見えた。

「わかりました。私でよければ、お力になります」

ほぼ無意識に頷いていた。実家での扱いに耐え、自分の人生を諦めかけていた私は、その不思議な真剣さに背中を押されたのだ。少し投げやりな気持ちだったかもしれない。そこから私たちの会話は、一見するとお見合いで意気投合した男女の深い話し合いのようになっていった。お互いの家族構成や仕事の状況を探るような、密度の濃い会話が続く。最後にデザートが運ばれてきた頃、相手はじっと私の目を見据え、ついに本心を口にした。

「ひろみさん、実は僕があなたとお見合いをした本当の理由は…」

彼の口から語られた衝撃の事実に、私は息を飲んだ。けれど、それと同時に今まで感じたことのない熱く黒い感情がふつふつと湧き上がるのを感じる。彼についていったら地獄を見るかもしれない。でも、今の生活だって地獄のようなものではないか。だったら、私は彼を信じて進みたい。1時間前に初めて顔を合わせたばかりの彼に、なぜか心惹かれて仕方がなかった。

その日の夜、自宅に帰るとリビングではいつも通り母と秋奈がソファーに寝転んでテレビを見ていた。私が入ってきたことに気づいた秋奈が、リモコンをいじりながらあからさまに鼻で笑う。

「お帰り。随分遅かったじゃん。地味な人同士、意外と話盛り上がっちゃったわけ?」
「うん。付き合うことになったよ、その人と」

告げた途端、母と秋奈ははっと声を揃えて飛び起きた。文字通り鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

「ちょっとマジ?あんな地味でパッとしないおじさんが私の義理のお兄ちゃんになるなんて絶対に嫌なんだけど。恥ずかしくて友達に紹介できないじゃん」
「後がないと思って焦ったんじゃないの?男なら誰でもいいわけないでしょ。全く、男を見る目がないんだから」

散々な罵倒だ。自分が世界で一番正しいと信じて疑わない2人は、相手を貶しめ、これ見よがしに調子に乗っている。いつもなら胸が痛むはずの言葉だが、今の私は何も感じない。一つも言い返さず、しょんぼりとした表情を作って黙り込んだ。そして罵声が過ぎ去った頃を見計らって、小さな声を絞り出す。

「ごめんなさい。でも、お父さんが持ってきてくれた縁談だし、お父さんの顔も立つと思って。だから私、これからはもっとお父さんの会社の手伝いを頑張るよ。お母さんの負担も私が全部引き受けるから」

私のその猫なで声の態度を見て、秋奈がゲラゲラと下品に笑い出した。

「お姉ちゃん受ける。お父さんのおかげで結婚できそうだからって、媚び売るのね。平成すぎてやばい」
「ああ、あんたが全部やってくれるなら、私は旅行する時間が増えて助かるわ。じゃあ、しっかりやんなさいよ」

母は私の労働力がさらに増えると分かり、喜びを隠さない。早速翌日から任される仕事の量は今までの数倍に跳ね上がった。領収書の束、出勤記録、経費の山。社外に持ち出していいのだろうかと思うものが大量に私の目の前に積まれた。夜中に自分の部屋でコツコツと作業するだけではとても足りない量だ。画面を見つめる私の目は充血し、乾き切っている。しかし、不思議と嫌な疲れは感じなかった。

「お母さん、ちょっと家だけじゃ処理しきれないかも。これからは会社に直接行って、そこのパソコンで作業させてもらうね」
「はいはい。真面目だけが取り柄のひろみちゃん。せいぜい頑張ってね」
「うん。周りに迷惑かけないように頑張る」

母に見送られ、私は毎日のように父の会社へ出向いた。会社の従業員たちは「社長の娘さんが真面目に手伝いに来てくれている」と、とても真面目で従順な長女として映っていただろう。

「すみません。少し作業させてください。お世話になります」
「そんな遠慮することないですよ。はい、コーヒー飲んでくださいね」
「ありがとうございます」

腰を低くして、職場に溶け込んでいった。

「ひろみさんは、社長のお父様たちと少し印象が違うんですね」
「え、そうですか」

外面がいい両親のことだから、職場でも善人ぶっていそうだ。現場へ敬意を払う私の姿勢は、パートのみんなとの間に少しずつだけれど信頼の絆を結んでいった。自分の仕事を定時に終わらせてから父の会社へ。正直体が2つ欲しいところである。そんな忙しい中でも、相手とも都合を合わせて夜中でも会いに行った。

「ひろみさん、色々ありがとう」

相手の車の中で密かに手を握り合う。恋人同士の甘い繋がりよりも、もっと親密な絆が生まれている気がした。

そして、ついに運命の日を迎える。家族に挨拶をするため、相手が我が家にやってくるのだ。相手が来る直前まで、リビングはいつも通り見苦しい言葉と笑いで満たされていた。

「菊池の会社さ、従業員たった15人の弱小企業だよ。名ばかり社長だな。うちとも取引があるけど、あの程度の仕事を与えてやってるんだ」

父は足を広げてソファーにふんぞり返り、自分がいかに優れた経営者であるかを大声で演説する。母は母で、私の頭から足先までを眺めて意地悪な笑みを浮かべた。

「あら、そうなの?せっかく結婚しても、ちゃんとした服を買ってもらえないわね。むしろ向こうがうちの財産目当てで来たってことでしょ。ああ、やだ、怖い」
「私はお姉ちゃんみたいに妥協したくないな。イケメンのお金持ちとしか結婚してあげない」

鏡の前で自分の顔をうっとりと眺めながら、秋奈は夢見がちな声をあげる。お客さんが来るということで、一応念入りにメイク中だ。母のメイクもやたらと気合が入っている。部屋も普段より片付いている。でも、彼女たちの顔や部屋をどんなに綺麗に整えても、ヘドロのような汚れが染みついている気がしてならない。私はただ壁の時計を見つめ、静かに拳を握りしめていた。

約束の時間が近くなり、私は「駅まで迎えに行ってくる」と告げて家を出た。駅のロータリーで待っていた相手と合流する。いつもと変わらず、彼は少し地味な姿だ。高級感や華やかさはないけれど、Yシャツの襟はピシッと整っており、誠実さが伝わってくる。

「行きましょう」
「はい」

私たちは並んで、地獄の実家へと足を進めた。一度深呼吸をしてから家のドアを開ける。すると、私たちの足音でも聞こえていたのか、母と秋奈はすでに玄関にいた。母は丁寧に微笑む。

「ようこそいらっしゃいました。菊池さん、遠いところわざわざありがとうございます」

出迎えてくれた2人は、つい先ほどまで私を嘲笑っていたとは微塵も感じさせない。優しくて上品な家族の演技は完璧だ。客間に通され、母がお茶を出しながらため息をついた。

「本当に、うちのひろみみたいな地味でパッとしない娘を気に入ってくださるなんて、お人好しが過ぎる方なんですね。こんな娘で本当にいいんですか?」

謙遜している風を装いつつも、言葉の端々に私への見下しが透けて見える。すると隣に座っていた秋奈が、上目遣いになり甘えた声をあげた。

「菊池さんって社長さんなんですよね。すごい。社長さんならもっと可愛い女の子を選び放題じゃないですか?ぶっちゃけ、お姉ちゃんより素敵な女の子なんていくらでもいるとは思うんですけど」

褒めているようで、その実「うちの姉なんかと結婚するのはおかしい、騙しているのではないか」と落としめているのだ。さらに神座にどっかりと座った父が、満足そうに顎を撫でる。ゲフッと品のない笑い声をあげた。

「まあまあ秋奈。菊池君も、うちのひろみと結婚すればメリットがあると考えたんだろうよ。我が松山家と縁続きになれば強力な後ろ盾になるからね。最初からうちのバックアップを見越しての結婚だろ」

彼らは外面を整えて歓迎している風を装いながらも、相手を「格下の弱小社長」だと完全になめ切っていた。だからこそ、その傲慢な本質が隠しきれずににじみ出ている。家族全員が自分たちが優位であると確信して、ニヤニヤと品定めするような視線を相手に向けた。その張り詰めた沈黙を破ったのは、相手の冷静な一言だ。

「あなたのバックアップなんて、微塵も望んでいませんよ。松山社長」

父の歪んだ笑顔がピキリと凍りつく。客間の空気が一瞬にして氷点下になった。相手は冴えない地味な男の仮面をゆっくりと脱ぎ捨てる。背筋をピシッと伸ばし、父を真っ向から見据えるその眼光は、獣のようだ。

「聞こえませんでしたか?あなたのバックアップは不要と申しました」
「な、て、てめえ、何様だこら。結婚の挨拶がしたいって言うから、わざわざ時間を作ってやったのに」

椅子を蹴立てて立ち上がろうとする父を、相手は片手をすっとあげて制した。一見柔和な男なのに妙な威圧感を放っており、父は言葉をつまらせる。

「お父さん、お母さんも誤解してるよね。私、菊池さんと結婚するなんて言ってないよ」
「は?」
「今日の目的は、結婚の挨拶ではない」

相手は脇に置いていたバッグを開くと、中から分厚い書類の束をテーブルの上に取り出す。わざとらしくドンと叩きつけた。それは私と相手が命がけで集めた証拠の一部だ。相手は冷静な笑みを浮かべ、書類の1ページ目をトントンと指さした。

「松山社長、あなたの会社、随分と使途不明金が多いようですね。例えばこれ、2年前のフランス・パリの海外出張費、200万円」

ページをスライドさせると、ずらりと海外の地名と数字が並ぶ。

「一番最近だと、イタリアへの市場調査費に250万円だ。近場の韓国やグアムは年に2、3回。もちろん、国内の温泉宿やテーマパークの近くと思われるホテルの名前もある。これらは本当に必要な出張だったのでしょうか、奥様」

やたら喉が乾くのか、お茶をガブ飲みしていた母が急に話を振られて硬直する。

「な、何言ってるのよ。失礼ね。主人の会社を支えるために私も働いてるのよ」
「そうですか。失礼しました」

往復の航空券も現地での5つ星ホテルの領収書も、全て母の名義で会社経費から落とされている。まだまだ突っ込みたい点はあるけれど、相手は畳みかけずにそっと頭を下げた。それから、秋奈さん。相手の氷のような視線が、今度は秋奈に突き刺さる。我関せずでそっぽを向いていた秋奈は、ビクッと肩を竦めた。

「若者向けのブランドショップで、毎月のように数十万円単位の買い物をしていますね。それに高級レストランでのお食事代。これらも全て会社の交際費や消耗品費でお間違いありませんか?」
「は?知らないし。ちょっとお姉ちゃん、なんとかしてよ。このおじさん頭おかしいんじゃないの?」

強がりつつも泣きそうな顔で私に助けを求めてくる。

「そっか。知らなかったんだ。じゃあ、何も考えないでお金を使っていたのかな?」

けれど私は、感情の消えた目で彼女を見つめ返すだけだ。

「でもね、私は会社の事務方を任されていたから、ちゃんと知ってるよ。簡単な内職みたいなもので、適当にやればいいとお母さんは言っていたけれど、私、適当って苦手で。思考を停止させ決められた動作をしているだけなら気づかなかったかもしれない。でも、私は残念ながら生真面目な性格なのだ。丸投げされた怪しい領収書のデータは、しっかり保存してある」
「ひろみ、あんた余計なことをして、どういうつもり?家族を裏切って楽しいの?」

母が般若のような顔で私を睨みつけてきた。だが、2人が怒りを顕わにするよりも早く、我が家に最大の雷が落ちる。

「おい、お前ら」

地のような声だ。父が怒りで髪の毛を逆立て、血走った目で母と秋奈を凝視していた。

「俺の金を、俺に黙って勝手に使い込んでやがったのか」
「え…」

客間の空気が震えるほどの怒気。悪態をついていた母と秋奈は瞬時に縮み上がった。他人の尊厳を何とも思わない傲慢な男にとって、自分の金が他人に奪われることは何よりも許せないタブーらしい。それが家族であってもだ。

「あ、あなた、違うのよ。そんなつもりじゃなかったのよ。ちょっと借りただけというか、会社のお金だからいいと思って」
「そうだよ、お父さん。私だってお父さんの会社で働いてるし。ちょっと買い物くらいしても良くない?」

不意に秋奈が私を指差す。

「そう、悪いのは全部お姉ちゃんだよ。そんな細かいこといちいち調べて、うざすぎない?」

苦しい言い訳を並べ立て、必死に責任を逃れようとする2人。しかし、父の無限に湧き上がる怒りがそれで収まるはずがなかった。

「黙れ。ふざけるなよ。この家の金はな、俺が稼いだ俺の金だ。お前らみたいな寄生虫が、1円だって勝手に使っていいわけがないだろう」

父はテーブルを思いきり叩き、2人に向かって唾を飛ばしながら人格否定の罵声を浴びせた。

「お前らはただの泥棒だ。旅行三昧のクソババアに、買い物中毒のクソガキが」

どんなに怯えていても、自尊心を侮辱されると母たちの歪んだ自尊心を激しく逆撫でする。恐怖で震えていた母と秋奈だが、小さく口答えをした。

「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ。お前らの服も命も、全部俺の金で買ってやってるんだよ」

あまりの暴言に縮こまっていた母の眉間にしわが刻まれる。元々短気な人たちだ。簡単に着火して大声を張り上げる。

「ああ?もう私が支えてあげたから、あんたは好き勝手働けたんでしょ」

ヒステリックに絶叫した母。秋奈もまた怒りの勢いで身を乗り出す。

「家にも帰ってこないで、父親らしいことしないくせに」
「そうよ。お父さんだってキャバクラとか行ってんでしょ。知ってるんだから。あんたばっかりずるい」

痛いところを突いたつもりが、当の本人の父はケロッとしている。胸を張って答えた。

「あ、それがどうした?俺は社長だぞ。俺の金をどう使おうが、俺の勝手だろう」

つい先ほどまで外面を整え上品ぶっていた家族が、今や見る影もなく罵り合いを繰り広げている。

「だって、生活費をわざわざもらうより、会社の経費にした方が楽だし得だと思ったのよ」
「でも私はお父さんとお母さんみたいにたくさんお金使ってないし、2人とは違うもん」

「でも」「だって」と言い訳ばかりで一切を認めない母と秋奈。「俺の金」と狂ったように繰り返す父。その醜く歪んだ泥試合を、私と相手は冷ややかな目で見下ろしていた。家族は皆、裕福で何不自由ない幸せな家庭だと思い込んでいるだろう。泥で作られた立派な松山家は、もうすぐ完全に崩壊する。隣に座る相手と視線を合わせ、小さく頷いた。彼らが本当に絶望するのは、これからだ。

「いい加減にしてください」

私の低く平坦な声は、罵声が飛びかうリビングに響いた。母と秋奈を怒鳴りつけていた父が、信じられないものを見るような目で私を睨みつける。

「お前、生意気だな。誰に向かって口を聞いてんだ?」
「『俺の金』ってさっきから言ってるけど、会社のお金はお父さん個人のものじゃないよ。たとえ社長であっても、私的に混同して好き勝手に使っていいわけじゃない」
「は?」

独裁者には、そんな当然の正論すら通じない。父は鼻で笑い、私を指差した。

「俺が立ち上げた会社だぞ。稼いだ金をどう使おうが、俺の勝手だろう」

そこで今度は相手が冷静に書類をめくった。

「では、あなたが混同した悪質の証拠を見せましょう」

彼が示したのは、取引先をダミー会社にした架空外注費の計上、及び個人的な遊興費の経費改ざん。

「松山社長、これは単なる指摘流用ではありません。立派な脱税、刑事罰の対象ですよね」

突きつけられた具体的な数字に、父は一瞬「ぐぬっ」と言葉をつまらせたけれど、すぐにまた傲慢な笑みを浮かべてふんぞり返る。

「ふん。細かいことをガタガタと。こんなもん、バレなきゃいいんだよ。万が一突っ込まれたって、追徴課税やらを払ってやれば済む話だろう。金ならあるんだ。金なら」

父にはどこまでも反省の色がない。

「やはり、あなたはそういう人間だ。金さえ払えば、他人の人生をいくら踏みにじってもいいと思っている」

相手の瞳がすっと凍りついた。

「松山社長、あなたがこれまでやってきたこと、全て調べさせてもらいましたよ」

彼の口から語られたのは、父がこれまで裏で行ってきたあまりにも卑劣な暴挙の数々だ。経営の苦しい小さな下請け会社へ。最初は救いの手を差し伸べるかのように、破格の好条件で大量の仕事を依頼する。相手がこちらの注文に依存し逃げられなくなったところで、父は自ら理不尽な難癖をつけて納品を拒否し、極限まで追い詰めるそうだ。そして最終的に、一切の慈悲もなく取引を切る。小さな会社に残るのは、莫大な損害と絶望だけだ。

「なんだ、そんなことか。お前が余計に怖い顔をするから、身構えしちゃったよ」

相手の話を聞くと、父は恐れおののくどころか楽しそうにゲラゲラと爆笑し始めた。

「いやあ、あれは本当に楽しいんだよ。ちっこい仕事しかできないやつって、やっぱりバカだから働き蟻みたいなもんだよな」

父は指と指を擦り合わせて、砂糖と蟻を例え話にし始めた。

「蟻の巣の近くに甘い砂糖を置いてあるだろ。蟻が喜んで群がってきたところを、上から一気に踏みつぶすんだ。最後は蟻の巣に熱湯を流し込んでやる。慌てふためく蟻の姿を見てると、最高にゾクゾクするぞ」

見苦しい笑みを浮かべ、悦に入っている。予想外の反応に、相手は不快感を顕わにする。

「あなたの行動が、どれだけの人の人生を狂わせ、潰してきたか分かっているのか?」

相手は低く押し殺した声で激怒した。しかし、父の笑いは止まらない。

「15年前の、その悪趣味な蟻潰しの標的になり、追い出されて倒産した小さな部品工場を覚えていますか?」
「さあ?そんなのいちいち覚えてないね」

悪魔のような笑顔の父を見据えながら、相手は静かに胸の奥に秘めていた真実を明かした。

「その工場の経営者だったのは、私の両親です」

胸がドクンと跳ね上がる。あのお見合いの席での唐突なプロポーズの真意。「付き合って」と言われたけれど、恋愛的な意味ではない。復讐に付き合って、という意味だった。人生をめちゃくちゃに壊した父への激しい恨みを原動力に、当時まだ学生だった相手は血の滲むような努力をして、両親と同じく会社を立ち上げたそうだ。どれだけ仕事で成功しても、幸せな瞬間があっても、頭から恨みや復讐心が離れることはなかったらしい。だからわざと父の会社に近づいて取引を持ちかけ、経歴や家族の状況を徹底的に調べ上げていた。そこへ、独身の相手を見かねたお節介な取引先が、まさかのお見合い話を運んできたのだ。相手は敵であるクズ社長の娘。最初は激しい嫌悪感を抱いたけれど、彼は気づいたのだ。「これは神様が与えてくれた最大の復讐のチャンスかもしれない」と。父に娘が2人いることはリサーチ済みだ。しかし、どうやら極端な性格らしいと聞いている。お見合いの席にやってきたのはどちらなのか。相手は警戒しながら私の様子を探る。そんな中、レストランでさりげなく店員を助けた私の文字を見て確信したらしい。「この整った文字を書く人が悪人なわけがない」と。何の確証もない、ただの勘だ。でも、あの時私たちが繋がれたことで人生が変わる奇跡だった。

相手の過去とその告白を聞いて、父はさらに大声をあげてゲラゲラと笑い転げた。

「親がどうしたって、なんだそりゃ。結局はただの逆恨みかよ」

腹を抱えて笑う父の姿に、母や秋奈もほっとしたような表情を浮かべる。

「勝手に潰れるような弱小企業が悪いんだよ。力のない無能が淘汰されるのは当然だろ。お前の親が間抜けだったんだよ」

ひとしきりからかった後、急に真面目な顔をした。

「お前んとこも、うちが情けで取引してやってたんだけどな。舐めた口を聞いた罰だ。今すぐ全ての取引を切ってやる。親子揃って負け犬だな」

大仰に、首元に当てた親指を横に動かし、首を切るジェスチャーをした。舌をだらんと出して白目を向く父の方が、よっぽど間抜けな人間に見えてならない。下手な挑発に乗らず、相手は静かに笑みを浮かべる。

「お前の泣きっ面を拝んでやるのが楽しみだ。後になって土下座しても許してやらないからな」

勝ち誇ったように怒鳴り散らす姿は、滑稽を通り越して哀れですらあった。畳の上で小さくなっていた母と秋奈が、クスクスと下品な笑い声をあげている。自分が犯した横領という罪をすっかり忘れたようだ。弱小企業の社長である相手が転落していくエンターテイメントに、2人は引き込まれている。

周囲の騒ぎの中で、相手は顔色を変えずに頷いた。

「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、今この瞬間を持ちまして、我が社と御社との全ての取引を完全に停止させていただきます」

あまりにもすんなりと引き下がった相手の態度。父は都合よく勘違いしたらしい。勝ったと思い込んだ独裁者は、顎を突き出し子供のような悪口を並べ立てた。

「工場ごと倒産するぞ。恨みだかなんだか知らんけど、身の程を弁えないからそうなるんだよ。いやあ、バカな相手は面白いなあ」

父の高笑いが客間に響き渡る。しかし、私と相手の中にあったのは焦りでも恐怖でもなく、ただ冷徹なまでの理性だけだ。どんなに煽られても、相手のペースには乗らない。

「お父さん、そうやって強がってるけれど、自分の会社のことは考えてる?」

私は息を深く吸い込み、冷ややかな視線を父と向けた。

「菊池さんのところから、市場の相場を下回る低価格で部品を買い叩いていたみたいだけど」

平然とした質問に、父の笑い声がぴたりと止まる。確かに、父の会社が相手の会社に支払っていた代価は、相場から見ればスズメの涙のようなものだ。以前相手から聞かされた話が私の脳裏に蘇る。彼はあえて敵である父の会社に近づき、その懐へと潜り込みたいという下心があった。だからこそ、どれほど不当に安く買い叩かれようとも、屈辱をぐっと飲み込んで耐えてきたのだ。そして何より、父のような傲慢な男に「初めから格下の安物」だと馬鹿にされたくないという強い対抗心がある。品質に一切の文句をつけられないよう必死に努力を重ね技術を磨き、最初よりもはるかに完成度の高い、唯一無二の品質へと引き上げてきたという。だが、車内の実情を何一つ見ていない父は、鼻で笑ってふんぞり返った。

「買い叩いたか?まあ、下請けなんてのは世の中にいくらでもいるんだよ。こんな粘着質な男が社長をやっているような会社なんて、こっちから願い下げだね。お、怖い。関わりたくもない」

わざとらしく肩を抱いて恐怖で震える真似をした父。表情にすぐ軽蔑が戻ってくる。

「だったら、多少金が無駄にかかることになったとしても、他のまともなところに頼むわ」
「そうですか。ですが、我が社と同等の品質の部品を他社へ新たに発注し直すとなると、おそらくこれまでの倍以上の額を請求されることになると思いますよ」

相手が淡々と告げたその言葉に、父の顔が一瞬だけ歪んだ。計算高い父のことだから、さすがに金額が頭をよぎったのだろう。額の辺りに嫌な汗がにじみ出ているのが分かった。だが、一度口を叩いてしまった以上、妻や娘たちの前で今さら引くに引けない。父は引きつった顔をごまかすように、より一層声を荒らげる。

「はあ?品質にこだわってた?笑わせるなよ。最初っから低価格は低価格なりに、粗悪なゴミなんだよ。倍の金を払ってでも、お前とこのゴミとは違う、もっといいもんを仕入れてもらうわ」

どんどん品を失っていく父。とことん相手を貶めるための言葉を吐き始めた。

「大体、俺を恨んでる奴が作ったものなんか信用できないね。これまでも嫌がらせで不良品を混ぜたんじゃないのか。粗悪品を売り付けて金を騙し取ってたんだろう。会社潰す間抜けの子供は詐欺師ってか」

家族から自分自身がどれほどけなされようと、私は耐えることができた。けれど、相手が理不尽に罵倒されるのを見ていられない。愛する両親の人生を破壊され、それでも必死に自らの足で立ち上がった人だ。彼の努力と苦しみを聞いていたからこそ、我が身を引き裂かれるよりも苦しい。

「お父さん!」

大きく息を吸い込み、父の胸倉を掴まんばかりの勢いで物申そうとした。しかし、私の前に相手が大きな手をすっと差し出してくる。

「大丈夫です。ひろみさん」

私を制する彼の声は、驚くほど落ち着いていた。興奮している父には聞こえないよう、囁く。

「好きなように言わせておけばいいんです。哀れな裸の王様の戯れ言なんて、気にもなりませんよ」

取り乱して激昂する父を、彼は一瞥した。まるで鉄の檻の向こうにいる珍しい生物でも眺めるかのような目だ。

「よそを当たったところで、どこも門前払いになるという現実を、じっくりと思い知るといいですよ」

意味深な微笑みに、父は顔を引きつらせながらも鼻で笑った。

「門前払いだと落としてるつもりか。悪いけど、俺には金があるんだ。お前のような詐欺師が作った粗悪品じゃなく、もっとまともなところからいくらでも仕入れてやる」
「同じ品質、同じ精度を求めるのであれば、他社ではこれまでの倍はくだらないと言いましたよね」

強がっているけれど、父の瞳には隠しきれない動揺がじわりと滲み始めている。

「はいはい、倍ね。そのくらい、うちにとっては屁でもない金だ」

意地とプライドだけで大声を出す。そんな痛々しい父を見つめながら、相手は哀れみの混じった笑みを浮かべた。

「そうですか。倍のお金を積んだとして、そもそも御社からの依頼を引き受けてくれる奇特な会社が、この世に一社でも残っていればいいですね」
「なんだと?」

父の眉がピクリと跳ね上がる。外面が良く、私が幼い頃から「ゴルフだの」「接待だの」と頻繁に出かけていた。こういう人脈が広いのだろう。でも、自分の得にならない相手に対しては、愛想よく振り向かない。

「松山社長、あなたはこれまで自分より立場の弱い下請け会社を潰しては切り捨ててきました。彼らがその後どうなったか、興味すら持たなかったでしょう」

相手は淡々と、かつ容赦なく、父が外の世界で作っている悪評を突きつけた。

「あなたが踏み潰してきた弱者たちは、決して黙って消えたわけではない。あなたから受けた卑劣な仕打ち、不当な契約の事実は、業界の水面下で共有され、じわじわと広まっているんですよ」

客間の空気が重くなっていく。酸素濃度が薄くなったのか、父の呼吸が乱れ苦しそうだ。

「表向きは優良企業を取り繕っていても、業界内では『松山と組むと潰される』と警戒されています。そんな悪名高い泥船に、誰が好んで乗り込むと思いますか?」

「ゴミだと笑った」相手の部品は、父を救う最後の命綱だった。

「うるさい。黙れ」

父は顔を真っ赤にし、癇癪を起こした子供のように怒鳴り散らす。その体からはダラダラと冷や汗が流れ落ち、テーブルにポタリと落ちた。

「結局は金だ。金を多く積んでやりゃ、誰だって尻尾振って飛びついてくるんだよ。例え今の3倍の額になったとしても、お前なんかより信頼できるところと契約してやれば」
「なるほど。お金にものを言わせるんですね。3倍や4倍も払うとなれば、可能性はあるかもしれません」

相手はうんうん頷いて、ニコッと微笑んだ。ここで私は姿勢を正して切り出す。

「でもお父さん、3倍のコストを払う余裕があるの?」

激昂する父を冷ややかな目で見つめた。

「仮に奇跡的に3倍のお金を払って部品を確保できたとして、そもそもお父さんの会社は、これから先も存続していけるのかな」
「は?何が言いたい?くそガキが、俺の会社に口を出すな。部外者ね」

「私が手伝いをしてること、お父さんも知ってるよね。無能な内職女だと見下してくれたおかげで、私は会社の内部に深く入り込めた」

ふっと笑い、もう一つの現実を突きつける。

「自分の会社がどうやって回っているか、お父さんは知ってるの?現場を支えているのはパートさんたちだ。子供のいる主婦の方々が多く、お互いにシフトを調節して助け合いながら現場を回していた。父がキャバクラで遊興し、母や秋奈が泥棒同然の使い込みをしている裏で、誠実に働いていたのは最低賃金で雇われたパート従業員だったのだ」
「それがどうした?文句があるなら首だな。パートなんか、代わりはいくらでもいる」
「代わりなんていないよ」

パート従業員たちは、ずっと不満を溜め込んでいたらしい。賃金は低いが人間関係が良く、ぬるま湯のような雰囲気でなんとなく務め続けていた。けれど母が時々会社にやってきては、嫌味とマウントを連発する。

「お安いパート代でご苦労様。主婦もさせてもらえないなんて、かわいそうね。何のために結婚したのかしら」

ひどく鬱陶しくて、辟易していたそうだ。

「え、私が悪いって言うの?本当のこと言っただけじゃない。世間話よ」

父に睨まれて、母の顔から血の気が引いていく。今回私が事務の仕事をする中で、パート従業員一人一人からゆっくり話を聞かせてもらった。ほとんどの人たちが母に対する不満を抱えていた。そして、経費を遡ってみると、経営者である両親が会社の金を私的に流用して遊興していたという決定的な証拠まで明らかになる。身内の恥をさらすようでためらったが、普段から両親の身近で働いているパート従業員たちに相談した。すると、「そういえば怪しかった」という話がどんどん出てくる。基本的に外面がいい父は、パート従業員にも本心を見せていない。でも、時々夜に上機嫌な時があって、そういう時はお酒と香水の匂いがする。

「ああ、みんなよくやってくれてるね。サンキュー、サンキュー」

並んでいる女性たちの肩を撫でるように軽くタッチしていくらしい。綺麗なお姉さんのいるお店で遊興し、楽しい時間を過ごしていたのだろう。お店と会社を混同していた。また、母も外面はいいけれど、せこせこ働かなくてはいけないパート従業員は見下しの対象だ。これ見よがしにブランドバッグを見せつけてきたり、海外旅行に出かけては安いお土産をばらまいていた。

「はい、イタリアのお菓子。よかったら召し上がってね。30個入りだから遠慮しないで。一人1つずつどうぞ。皆さん、イタリアのお菓子なんて珍しいもの食べたことないでしょう」

お土産自体は嬉しいが、素直に喜びにくい言い方だ。ちなみに秋奈は、誰からも顔すら認識されていない。「うちの娘は可愛い」と母が職場で話していたため、私がその「可愛がられている娘」だと最初は勘違いされた。父の会社と私は関係ない。ずっとそう思って関わらずにいたけれど、内側から見てみたら崩れかけの城だった。それらを全て理解した上で、私はパート従業員の皆に頭を下げた。

「この会社は、もうすぐ存続が難しくなるかもしれません。皆さんに伝えたよ」

「お前、何を勝手なことを吹き込んでやがる」

父がテーブルを殴りつける。

「勝手なことじゃない。お父さんの脱税、取引先からの悪評は事実だよね」

経営者が会社を私物化していると知ったパート従業員たち。当然、崩壊間近の泥船に命を捧げる義理なんてない。全員が一斉に次の転職先を探し始めた。

「今月末には、みんな退職届を出すことになってる」
「は?全員だと?」

父の声は情けなく震えた。金回りとなっている現場の人間が、急に一人もいなくなるのだ。いくら外の取引先に何倍もの金を積もうが、税務署に追徴金を払おうが、車内の人間がいなければ意味がない。会社というシステムそのものが完全に終わりを迎えるのだ。

「そんなの認めない。パートのくせに生意気なことしやがって」
「パートだからこそ、身軽に動けるんだよ。そんなに大事な労働力なら、正社員として雇ってやればよかったのに」

最低賃金でパートを雇っていたのが仇となった。激怒を通り越して、父の顔は真っ白に変色していく。舐めても舐めても乾いてしまう唇を小さく震わせ、嘘だと言ってほしそうに私と相手を交互に見つめる。

「あ、ありえない。俺の会社。俺の…」

多くの下請け会社を潰してきた独裁者の威厳など、微塵も残っていなかった。意外と小心者なのかもしれない。社長が社員たちを信じて守り、自分が何も手を動かさなくても現場が回っている会社というのは、確かに素晴らしい経営の形です。相手の口から決定的な宣告が下される。

「ですが、松山社長の場合は、ただの無関心・丸投げ・さらに無能となっては、全く意味が違いますね」
「な、なんだと?」
「あなたはご自分の会社の中身を、本当に何一つ分かっていないようで、私を驚いています」

余裕の笑みを浮かべた相手。彼の会社が作った小さな部品が、父の会社においてどれほど重要で代えの効かない心臓部であったか。いくら立派な製品だって、ネジが一本欠けるだけで使い物にならなくなる。父は切り捨ててはいけない会社も分からず、自ら不利な状況に飛び込んでいった。パート従業員も使い捨ての駒ではない。お山のてっぺんで威張っているだけの社長。みんなが自分を尊敬し、ひれ伏していると思っていたら大間違いだ。相手のちゃんと伸びた背中が頼もしい。少しの緩みもない彼の隣で、私はもう怯えていなかった。拳を握りしめ、しっかりと前を見据える。父の目をまっすぐに見つめたのは、初めてかもしれない。味方がいる。それだけで勇気が湧いてきて、家族に対する恐怖が溶けていった。

「てめえ、偉そうに抜かしやがって」

最後の力を振り絟って、父はテーブルを蹴飛ばした。お茶が倒れて畳に広がる。

「うわ」

いかにもドン引きといった様子で、秋奈は顔を引きつらせた。でも、なぜかその目はこちらに向けられている。物に当たる父親ではなく、怒らせた私が悪いと言わんばかりだ。これまで大人しく沈黙を伺っていた母と秋奈だが、私に対する激しい敵意を浮かび上がらせた。無様な父親が形勢不利と見るや、すぐさまターゲットを私へと切り替える。2人と父の間に、絆があったのかと驚いた。まず口を開いたのは、私を常に見下してきた秋奈だ。

「お姉ちゃん最低。お父さんがかわいそうじゃん」

わざとらしく顔を歪め、まるでゴミクズを見るような目で睨みつける。被害者の味方をする正義のヒロイン気取りだ。秋奈に便乗するように、母もヒステリックに叫ぶ。

「そうよ。あんた、昔はそんな陰湿な性格じゃなかったじゃない。付き合う人によってコロコロ性格が変わるバカな女っているよね。そこの菊池とかいう妙な男に捕まって、頭がおかしくなっちゃったのよ。騙されてるのにも気づかないなんて、哀れね」

信じられないほど見苦しい言葉を投げつけてくる。母はふんと鼻で笑い、髪をかき上げた。自分たちが犯した会社の金の横領という罪を棚に上げ、問題を私の男運の悪さにすり替えようと必死なのだ。

「大体さ、お父さんのせいで足しが潰れたって、何それ?」

さらに秋奈は、相手の過去すらも小馬鹿にして笑い飛ばした。

「どうせ元々お粗末みたいな会社だったのよ。いつ潰れてもおかしくない弱小企業って、かわいそうよね。自分が悪いくせに逆恨みして嫌がらせに来るなんて、本当に嫌なやつ。結局お姉ちゃんは、そいつに都合よく利用されただけじゃん。いくら今まで男に持てなかったからって、こんな男に引っかかるなんてね。なんてバカな子なの?」

母と秋奈のけたたましい笑い声が、クスクスとリビングに響く。私は「利用されているだけのかわいそうな女」に仕立て上げられた。こうして私を貶しめることで、彼女たちの崩壊仕掛けたプライドを必死につぎ止めようとしている。普段は2人の言葉をまともに受け止めて落ち込んだり悲しんだりしてきた。でも、隣にいる相手は何も気にしていない。顔の周りを飛び回るうざったい蝿よりも、もっとどうでもいいものとして聞き流していた。その崩れない理性の壁が、母と秋奈の言葉を跳ね返してくれる。彼に合わせて、私も自然と背筋が伸びた。どんなに切りつけても無傷な私たちに、母は苛立ちを募らせる。急に目を吊り上げ、人差し指を私に突きつけてきた。

「お父さんをここまで落とし入れるなんて、本当にひどい。あんたはもう、うちの家族じゃない。ただの他人よ。恩を仇で返すような裏切り者は、今すぐこの家から出ていきなさい」

「他人」「裏切り者」。強い拒絶の言葉を静かに繰り返した。ヒステリックな母親の前で、私は幼い子供のように小さく首をかしげる。そして感情を見せない冷静な目で、母の顔をじっと見つめた。

「それって、お母さんのことですよ」

父にも負けないほどの凄まじい怒気だ。顔は怒りで見る間に沸騰し、普段よりも厚く塗ったファンデーションがひび割れている。

「あんた、お母さんまで馬鹿にするの?」
「だって、お父さんと私は、嫌になるくらい顔の似た血の繋がった親子だよ」

母の金切り声を、私は淡々とした正論で遮った。唾が飛んできて不快だったけれど、顔を背けることなく続ける。

「でも、お母さんとお父さんは結婚したけど、元々はただの他人同士でしょ。それに、この家で一番お父さんを裏切っているのは、お母さんだよね」
「な、何言ってるのよ」

その瞬間、母の体から怒りのオーラが蒸発するように消えた。代わりに、心臓の音が聞こえてきそうだ。一瞬で汗が吹き出し、塗られたファンデーションをドロリと溶かす。母の白塗りされた顔が、見る間に青白くなっていった。今の今まで般若のように釣り上がっていた眉は情けなく下がり、唇は言い訳を探して小さく震えている。私は手元にある帳簿のデータを改めて示した。先ほども見た通り、グアムやイタリアなどの海外出張の記録だ。

「お母さんは、昔からふらりと一人旅に出ることが多かったよね」

母の趣味は、テレビで旅行番組を見ること。素敵な場所を見つければ、「明日から福岡に行ってくるね」と唐突に一人で旅行する。私と秋奈が幼い頃は「学校があるから」と留守番で、現在もその習慣は変わらない。子供がいない方が気軽に動けて、存分に旅行を楽しめるのだろうと思っていた。でも、不思議なんだよ。

「飛行機とかホテルのスイートルームとか、全部2名分で決済されているの。実際のところ、思いつきの一人旅なんかではない。お母さんはいつも誰かと密かに予定を合わせて、会社の金で遊興していたのだ」
「あ、それは、ほら、出張だし、会社の子も同行してたりとか…」

声が完全に上ずっていた。額からの汗が止まらない。口を金魚のようにパクパクさせる姿を、私はじっと見つめていた。絶望に暮れていた父が、あまりにも怪しい母の様子にピクリと反応する。

「男か。お前、浮気してたのか?」

父は血走った目を限界まで見開き、しゃがれた声で攻めた。

「違うわよ。私は悪くないから」

逃げ場を失った母は、恐怖のあまり思わず逆切れして叫ぶ。

「だって、あなたはいつも仕事仕事って私をほったらかしにして、家を開けてばかりだったじゃない。仕方ないでしょ。寂しかったのよ」

ここでやめておけばいいのに。母は自分を正当化するために墓穴を掘る。

「それに、あなただって女の子のいる店に会社の金で行ってるじゃない。私がちょっとくらい男と旅行に行ったって、お互い様でしょ。同じでしょ」

自ら不倫を認めたことに気づいているのかいないのか。さらに私を指差して、狂ったように喚いた。

「それもその菊池とかいう詐欺師の入れ知恵ね。うちの会社を乗っ取る気でしょう。お父さんだけじゃなくて、私まで追い詰めてこの家から追い出す気なのね」

すでに会社の崩壊を知って力尽きていた父には、もう戦う気力が残っていないように見えた。ショックのあまり、激しく動揺している。でも、死に体には倒れてもらうわけにはいかない。我が家の最大の秘密が残っている。父の怒りに再び火をつけるため、またしても爆弾を用意した。

「お父さん、私はお父さんと血の繋がった親子だよね。調べるまでもなく、私とお父さんの顔はコピーしたみたいによく似てるもん。でも、一つだけずっと不思議に思っていたことがあるの」

私は視線を秋奈へと移した。

「秋奈は、本当にお父さんの子供なのかな?」

まるで熱湯を浴びせられたかのように、母がぴょんと飛び上がる。一方の秋奈は鼻で笑った。「何をバカなことを言っているんだ」と言わんばかりに呆れている。

「はあ?お姉ちゃん頭おかしくなったの?知ったかぶりしてやめてよ。まあ確かに、私お父さんにもお姉ちゃんにも全然似てないもんね。なんか私だけ圧倒的に可愛く生まれてきちゃって、ごめんね」

家族が崩壊仕掛けているこの極限状態でも、秋奈は自分の容姿に絶対の自信を持ち、マウントを取ることを忘れない。救いようのない愚かさに、私は心底からの哀れみを込めて微笑みかけた。

「そうだね。あなたのそのクリッとした大きな目、本当に可愛いと思う。顎のラインもシャープだし、何より手足が長くてモデルみたいに身長が高いところ、本当に羨ましい」

一度言葉を切り、父と母、そして秋奈の全身を舐めるように見て比較した。

「だって、お母さんも私も身長は155cm程度でしょ。それにお父さんも…」

あえて口にはしなかったが、父はシークレットブーツを愛用している。外ではさほど気にならないけれど、家の中だと驚くほど背が低くなるのだ。いつだったか自分の身長は162cmだと言っていた。でも実際は母と同じくらい、間違いなく160cmに届かない身長だ。

「こんな低身長の家族の中で、どうして秋奈だけがそんなにすらりとしたモデル体型に育ったの?遺伝子的におかしいと思わない?」

母の旅先に重なる2名分の浮気旅行。私と秋奈へのあまりにも露骨な待遇の差。お金のために父と結婚したが、本命は他にいたとしか思えない。金づるの父にそっくりな子は可愛くないけれど、大好きな浮気相手との間にできたスタイルの可愛い子は、目に入れても痛くないというわけだ。「うちの末娘はモデルみたいなんだ」と呑気に自慢していた父を、今更ながら哀れに思う。父の呼吸が乱れている。いよいよ恐ろしい形相だ。完全に殺意が籠もった目の前の妻と末娘を呪う勢いで凝視している。

「あの子は、あなたの子よ。当たり前でしょ。ひろみが適当な嘘をついて、私たちを中傷させようとしてるだけ」

母は顔を真っ赤にし、引きつった声をあげて必死に弁解した。しかし、大量の冷や汗は滝のように流れて止まらない。激しく泳ぐ視線が真実を物語っていた。空気中にパチパチと火花が散る中、甲高い母の声が狂ったように響き渡る。

「旅行のことは謝るから。でも、浮気じゃないの。これだけは信じて」

社長夫人という輝かしい肩書きと、贅沢三昧の優雅な暮らしが目前に奪われようとしているのだ。しかも、どうでもいい存在だった地味な娘の手によって。母はガタガタと震える手で再び私を指差し、脂でギラついた顔で父に迫った。そこ知れない恐怖から逃れたいのか、必死の見苦しい言い訳をつぐ。

「あなた、騙されないで。ひろみはあの変な男に捕まって頭がおかしくなっちゃったの。私たちの仲を引き裂いて、家と会社を乗っ取るつもりよ。ありもしない出たらめを並べて、私を落とし入れようとしてるの」

しかし、父からは何の言葉も帰ってこなかった。いつもなら地鳴りのような怒声をあげる独裁者が、小さな座布団の上に収まって微動だにしない。顔中の血管を浮き上がらせ、拳を握りしめながら床の一点を見つめている。その沈黙が不気味だ。

「私はあなたと結婚できて、本当に世界一幸せよ。ひろみはね、そんな幸せな私を妬んでいるの」

母は恐怖に駆られて、さらに見苦しい演説をする。

「こんな貧乏臭い男と結婚したところで、私みたいに優雅な一生なんてできるわけないでしょ。自分が不幸だからって、母親の幸せを壊そうとするなんて、本当に意地が悪いね。あなたもそう思うでしょ」

自分自身の暮らしがいかに恵まれているかをアピールし、父の機嫌を取ろうと必死だ。私を底辺と貶しめることは忘れない。

「私たちは愛し合って結婚したのよ。私を信じて」

薄っぺらい言葉を発しながら、母は父にすり寄る。父のガタガタと震える手の甲に、そっと自分の手を重ねた。それから、恥ずかしげもなく愛を囁く。

「あなた、私、あなたのこと心の底から愛してる。これからもずっと…」

その瞬間、奥底で煮えた切っていたマグマが、凄まじい大爆発を起こした。

「汚い手で、俺に触るな!」

父の絶叫に、母の体は突き飛ばされた。床に仰向けに倒れ、髪を振り乱して呆然とする母を、父は立ち上がって見下ろす。男としてのプライドをズタズタにされた屈辱で、顔は紫色に変色していた。

「ふざけるな。薄汚い泥棒女が、俺の金でどこの馬の骨とも知れん男と不倫しに来上がって」

死の目には涙が浮かぶ。右足を振り上げたので母を蹴り上げるのかと思いきや、子供のように地面を踏んだ。

「俺の金だぞ。俺の家だ。俺の床だ。俺のテーブルだ。全部俺のものだ。俺が稼いだ金を、お前は男なんかに使ったのか?」
「あなた、違うの?ごめんなさい」
「黙れ。他人のくせに」

父の鋭い怒号が、母の言い訳を完全に叩き潰す。

「俺に寄生して、俺の金を盗んだ上に、他人の子供を俺の金で育てたのか?恩を仇で返すような裏切り者は、今すぐこの家から出ていけ。他人は出ていけ」

ほんの数分前、勝ち誇った顔で私に浴びせた言葉そのものだ。私を「他人」だ「裏切り者」だと貶めていた母の元へ、一寸の狂いもなくブーメランとなって戻ってきた。

「お前が着ているその服だけはくれてやる。後のものは全部置いていけよ。俺の金で買ったんだからな。今すぐ消え失せろ。秋奈、お前もだ」
「そ、そんな…」

母は床に崩れ落ち、あまりの衝撃と恐怖にわんわんと泣き崩れる。誰の助けも得られない。そして、巻き添えを食らった秋奈。母の裏切りを理解したのか、余裕に満ちた家らしい笑みが顔から完全に消えている。真っ青になって小刻みに震えていた。

「ちょっとお母さん、冗談でしょ?私はお父さんの子供だよね。なんで私まで家から追い出なきゃいけないの?」

可愛らしい顔を生かして甘い上手な彼女は、なんとか笑顔を取り繕って父に手を伸ばす。ハートマークでもつきそうなブリッコをすれば父なんて一発だとでも思っていそうだ。しかし、乱暴に手を振り落とされる。

「出て行け。他人の子供を養ってやる趣味はない」
「はあ」

秋奈は涙を溢れさせ、母の肩を突き飛ばした。

「私は悪くないじゃん。全部お母さんのせいなのに。なんで私が巻き添えになんなきゃいけないの?」

自分の出生の秘密を知ったショックに、父から見放された現実が重なる。泣くのも当然だ。

「てか、今更父親ぶるなよ。どうせうちのことなんか興味なかったくせに、グダグダ小さいことで騒ぐな。クソジジイ」

どうやら悲しくて泣いているんではなかったらしい。

「お前なんかチビで、見た目も悪いし、モハだし、いいところ何もないじゃん。お金があったから、お母さんは結婚してくれたんでしょ。黙って金出して、私の生活を壊すな」

父を侮辱し、金づるを失うことへの不満を爆発させた。自分のことしか考えていない。浅ましくて見苦しい人間だ。

「こんな本音を暴露されて、誰が養ってやりたいと思うだろうか。母親が泥棒だと、子供も泥棒になるんだな。泥棒親子は出ていけ」
「ああ、もうやだ、やだ。いくら金持ちでも出しぶる男って、本当にダサい。結婚失敗したわ。私、ダサい男の子供じゃなくてよかった。お母さん、浮気してくれてありがとう」

罵声に罵声が重なる。髪を振り乱して狂ったように叫ぶ3人。

「性格はそっくりなんですね。遺伝子は繋がっていないのに」

ぽつりと相手が漏らした。私は同意して微笑んだ。壮絶な地獄絵図を、私と相手は他人事のように見つめていた。

「はいはい。出ていけばいいんでしょ。出ていってやるわよ。こんな鬼畜男の家から、願い下げだわ」

父から散々罵倒された母は、吹っ切れたように叫んだ。

「うん。そうしよ。こんな不細工が父親とか、めちゃくちゃ恥ずかしいし」

秋奈も涙とマウントの混ざり合った金切り声をあげる。しかし、これほど威勢よく啖呵を切ったというのに、2人の足はなぜか玄関とは真逆の2階へと向かった。わずか数分後、ドタバタと激しい足音を立てて階段を降りてきた。これでもかというほどパンパンに膨らんだ高級ブランドのボストンバッグが、2人の肩に食い込んでいる。絵に書いたような泥棒の姿だ。彼女たちは、最後の瞬間まで強欲を捨てることができなかったらしい。私は黙ってそれを見つめる。そして、息を荒げる父のいる客間の前を、2人はしれっと通り過ぎ、足早に玄関へ向かおうとした。だが、正しく泥棒のような動きを父は見逃さない。

「待て、この泥棒が!」

怒号と共に、父は廊下へと飛び出した。逃げる母と秋奈の背後に襲いかかる。2人が命がけで抱えていたボストンバッグを、後ろから力任せに引ったくったのだ。

「離してよ。これは私のバッグよ。私のものよ」
「お父さん、落ち着いて話して。これは私の服」
「うるさい。お前たちが身につけているもの、持っているもの、全部俺の金で買ったものだろう。一円たりともこの家から持ち出すことは絶対に許さない」

廊下で繰り広げられる、あまりにも醜い争い。経営者の家族として外面だけ美しかったのに、見る影もない。床や壁に爪を立て、顔中の血管を張り裂けそうなほどに浮き上がらせた大人3人が引っ張っている。意地の張り合い。どちらも譲らない中、不吉な音が鳴る。ブランドの頑丈な革の紐が限界を迎えて、プツリと千切れた。

「うわっ!」

重心を失った3人の体は、前後へと無様に吹っ飛ぶ。母と秋奈は背中から壁に激突し、父は後頭部を床に強打した。揃ってカエルのようにひっくり返る。彼らの真ん中には、バッグから飛び出したキラビヤカな高級時計、ゴールドのアクセサリー、そしてブランド物の服が下品にぶちまけられていた。

「ああ、私のバッグが。何百万もしたのに」
「私の時計、お父さんのせいで壊れたかも。最低。弁償しろよ、このクソ親父」

床に散らばった宝物を這いつくばって拾い集めようとする母子。しかし、それよりも早く、父が驚くべき瞬発力で動いた。ぶちまけられた服やアクセサリーの上に、自らの全体重を覆いかぶせたのだ。

「渡さないぞ。渡さないぞ。全部俺のものだ。俺の金で買ったんだ。俺の財産なんだ」

父は四つん這いになりながら、女性用のワンピースやネックレスを両腕で必死にかき集め、狂ったように抱え込む。見苦しく醜い怪物、そのものだ。

「いや、返して。私の服。私の時計。汚い。私の服に触らないでよ。本当に大嫌い」

母と秋奈は絶叫し、父の背中を何度も殴りつけた。それでも父は亀のように丸くなって動かない。仕方がないので、脇からこぼれ落ちたアクセサリーを一つずつ、2人はなんとか引ったくった。

「もうあんたに用はない。バイバイ」

捨て台詞を残し、2人は家を出て行った。バタンと乱暴に閉められた玄関ドアの音が虚しく響き渡る。廊下には大量の物と、ちぎれたバッグの残骸。その中央で、父は女性用のワンピースやサリーを満足そうに抱きしめている。はあはあと息を繰り返し、とても満足そうだ。「俺の金で買ったもの、全部守り切った」という達成感で、わずかに微笑んでいる。その様子を、私と相手はただ冷ややかな視線で見つめ続けていた。怒りも悲しみも同情もない。ただ、人間の底の底にある醜さを見せつけられたことに、あ然としていた。

「終わりですね」
「そうですね。勝手に終わりました」

相手が疲れ果て切った顔でぽつりと呟いた。その隣で、私は静かに頷く。家族に愛されたいと密かに願っていた。私の何がいけないのだろう。どうしたら認めてもらえるのだろう。子供の頃から悩み、両親の顔色を伺い、妹を大切にし、とにかく真面目に生きてきた。今、私はようやく解放された気がする。私に原因があって愛されなかったのではない。あの3人が愛していたのは、自分自身だけ。他人を思いやれるほど、心に余裕はなかったのだ。ドミノの牌にちょんと触れた程度の刺激で、彼らは勝手に自滅していった。私と相手は、床に這いつくばっている哀れな生き物を踏まないように最新の注意を払いながら、すっと廊下を通り抜ける。最後まで父が呼び止めてくることはなかった。抱え込んだ「俺のもの」を守ることに、全神経を注いでいたからだろう。私は大きな荷物など何も持っていなかったけれど、二度とこの地獄の我が家に戻る気はない。押し開けた玄関のドアが、いつもより軽く感じる。外の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。私は解放されたが、両親と秋奈の本当の地獄は、ここから始まる。

翌日、相手の会社から父の会社へ、正式に契約打ち切りの通知が送られた。前日に大見得を切って「取引を切ってやる」と言い放ったのは父本人である。今更引くに引けない。父は強がりを張ったまま、当然のようにそれを受け入れた。しかし、現実は思った通り残酷だ。父はすぐさま代わりの下請け会社を探し始めたが、どことも契約を結ぶことができなかったらしい。「松山と組むと不当に買い叩かれた挙句、使い捨てられる」。水面下で広まっていたその悪評は本物で、どの企業からも冷たく門前払いされた。その時になって初めて、相手が嘘をついていなかったと父は思い知る。また、相手の会社がどれほど異常な低予算で高い技術の部品を提供してくれていたのかということも。数日後、父はようやく取引してくれる会社を見つけ出したらしい。提示された金額は、なんと相手の会社の4倍とのこと。完全に足元を見られていたが、追い詰められていた父はそれにすがるしかない。そして、契約が成立した途端に、傲慢な勘違い男が大復活する。

ある日の午後、相手の会社に父から電話がかかってきた。隣で聞いていた私にも、受話器から漏れる父の聞き慣れた声がはっきりと聞こえてくる。仕事もせずにわざわざ嫌がらせの電話をかけてくるあたり、よほど暇なのだろう。

「お前、うちと取引する気はないとか言ってたかな。何も問題なかったぞ。俺には金があるんだ。安かろう悪かろうのお前なんか、最初から必要なかったんだよ」

「そうですか」

相手は表情を変えず、大人の対応をした。しつこく父が「俺の価値の分からないところなんか潰れちまえ」と電話口で笑っている。その時だった。受話器の向こうで、ドタドタと大勢の足音が響く。オフィスのドアが乱暴に蹴開けられる音が聞こえた。

「あ、何?みんなして、どうしたんですか?」

一応、父は弱々しい態度になる。そこに重なったのは、現場を支えていたパート従業員たちの冷ややかな声だった。

「社長、これ、私たち全員の退職届です。今月末で、全員辞めさせていただきます」
「え…」

父は次の取引先を見つけることに必死になるあまり、パートさんたちがみんな辞めるという話を綺麗さっぱり忘れていたようだ。せっかく私が事前に忠告してあげたのに。突然突きつけられた大量の白い封筒の前に、父は慌てふためいた。だが、追い詰められると本音がつい顔を出してしまう。

「俺を裏切るのか。今まで給料払って雇ってやってんだぞ。辞めたいなら辞めろ。今すぐ荷物をまとめて出ていけ。強気で全員首だ」

本来、パートの皆さんは常識的な人たちばかりだ。なので、労働法に乗って退職を伝えてから1ヶ月後に辞めるつもりだったらしい。それなのに、社長自らが激昂して即日解雇を言い渡してくれた。

「あら、そう。じゃあ、お言葉に甘えて今すぐ帰らせていただきますね」

受話器の向こうから、ゾロゾロと楽しげに去っていくパートさんたちの足音が聞こえる。

「まだお昼前だし、駅前のファミレスでみんなでお疲れ様会しない?」
「いいわね。ドリンクバーつけちゃおう」

ワイワイと盛り上がる現場のリアルな声が、電話越しに丸聞こえだった。

「ああ…」

誰もいなくなった。静まり返る。今更もう遅い。4倍の価格を支払って重要な部品が届いたところで、それを組み立てる人間はもう誰もいない。会社の根幹となるパート従業員を全員失った父。相手はその様子を伺いながら、口元にすっと冷ややかな笑みを浮かべる。

「新しい取引先が見つかったようで、何よりです。御社の今後のご発展を、心よりお祈り申し上げます。では」

パート全員を失ったことにはあえて触れず、後は事務的に通話を切った。

「自業自得ですね」
「ええ」

父がどんな顔で受話器を握りしめているか、想像するだけで愉快だ。一方、家を追い出された母と秋奈の2人についても、風の噂でその後の悲惨な顛末が聞こえてきた。お金も仕事も住む家も失ったが、さすがは強欲な2人。こっそりと父の財布から現金を盗み出して逃げていたらしい。数日間はホテルに滞在して、優雅なホームレス生活を満喫していたようだ。ある日の昼下がり、母は鏡の前で真っ赤な口紅をいつも以上にべったりと塗り直して、出かけようとしていた。その様子をベッドで見ていた秋奈は、ピンと来る。

「ちょっとお母さん、どこ行くの?男のところでしょ?もしかしてだけど、私の本当のお父さんのところ?」

母は一瞬ギクッとしたものの、すぐに少女のように頬を染めた。照れ臭そうに。

「もう、あの父親とは離婚よ。これからは、本当の愛と生きるの」

そう言って母は、秋奈の実の父である長年の浮気相手の男のマンションへと向かった。初めて対面したその男の顔は、驚くほど秋奈にそっくりだったという。母が私を徹底的に貶め、秋奈だけを「目に入れても痛くない」ほど可愛がっていた理由がよく分かる。愛する不倫相手との間にできた娘だからこそ、母は愛しくてたまらなかったのだ。しかし、その男は顔こそ整っているものの経済力は底辺。マンションも母が借り上げていたらしい。大好きな彼を支えるために、金目的で好みでも何でもない父と結婚したのだ。だが今の母は、父から解放され、まるで籠から放たれた小鳥のような全能感に満ち溢れている。男の胸に飛び込み、うっとりと告げた。

「たっちゃん、お待たせ。私、あの男と離婚したよ。これからは、たっちゃんだけのものになるからね」

余裕のたっちゃんと呼ばれた男は、ポリポリと頭を掻く。そして帰ってきたのは、あまりにも冷酷な一言だった。

「え、無理。無理だって」

母の顔面が衝撃で凍りついた。たっちゃんは困惑したようにため息をついて、冷めた目で母と秋奈を見つめている。

「え、急にそんなでかい娘連れてこられても困るし。なんか俺に似てて怖いし。そもそも、離婚したってことは、もう金ないんでしょ」

遠慮なく本音をさらす。彼は母のことが好きだったわけではない。「社長夫人として優雅に暮らし、お金を出し惜しみしない母」が好きだったのだ。財布としての価値を失い、おまけに子連れで転がり込んできた中年女性。そんなものに、愛を注いでやる価値はない。

「何よそれ。急に秋奈を連れてきたからびっくりしちゃったのよね。じゃあ、私一人ならいいでしょ。誰も知らない遠い街へ引っ越して、2人で静かに暮らしましょうよ」

陳腐なドラマの台詞を吐きながら、必死に男にすがりつく母。しかし、今度は秋奈がブチ切れた。

「ちょっとお母さん、私を捨てる気?最低だって。私一人なら、たっちゃんに愛してもらえるんだもん。仕方ないじゃない」

つい数日前、私を「他人」と呼び、一緒になって嘲笑っていた母と秋奈が決裂した。お互いを激しく罵り、髪を引っ張り合う泥沼の喧嘩を始めたのだ。

「え、なんか怖いんだけど。悪いけど、2人とも帰ってくれない?警察呼ぶよ」

血の繋がった親子でも、あっさり縁は切れる。不倫相手が暮らすマンションのドアは、母と秋奈の前で完全に閉ざされた。

「たっちゃん…」

未練がましくドアに手を当てる母。最後の希望まで失ってしまった。そんな母親の無様な姿を見て、秋奈は嬉しそうに吐き捨てる。

「うわ、ダサ。男に騙されてたんだ。これで縁が切れたね。かわいそう。まあ、お母さんはおばさんなんだから仕方ないよ。鏡よく見てみれば」

彼女は他人を嘲ることでのみ、自分のプライドを保てない。愛を失った母親と、贅沢を失った秋奈。2人はこれから先、お互いを呪い、足を引っ張り合いながら、底辺の生活の中で永遠に噛み合い続けるのだろう。

その後、3人が辿った末路は、まさに自業自得だった。まず、従業員がいなくなった父の会社は当然のごとく立ち行かなくなり、間もなく倒産へと追い込まれた。手元に残ったのは、首が回らないほどの巨額の借金だけ。とりあえず家の中に残された母や秋奈のブランド品や宝石類を全て叩き売れば、まとまった現金が手に入った。久しぶりに大金に触れたことで、父の脳みそは最悪の勘違いを引き起こす。「俺は社長だ。金はある。俺はすごい男なんだ」。過去の栄光に浸りたかったのか、その現金を持ってキャバクラへと繰り出した。なんと、一晩で全ての金を使い切ってしまったらしい。翌朝残ったのは、猛烈な後悔と、返せる見込みのない借金のみ。今では生きるために深夜の警備員や清掃のアルバイトを掛け持ちしているが、人の下で使われる苦痛は耐え難い。一方、家を飛び出した母と秋奈は、安いアパートを借りたそうだ。その日暮らしのアルバイト生活を送っていた。ある日、朝になっても布団をかぶったままの秋奈を、母はヒステリックに叩き起こす。

「ねえ、遅刻するけど、起きなくていいの?ちょっと秋奈、まさかまたバイトを首になったの?」

秋奈は職場で働く気など毛頭ない。自分を再びお姫様にしてくれる金持ちの男を物色しているのだ。普通にしていればそれなりに可愛い容姿をしているのに、玉の輿を狙う下心が透けている。あまりにもギラついた目で迫るから、まともな男は警戒して逃げた。おまけに一発逆転を狙って、役職のある男性ばかりに色目を使う。しかし、役職持ちのいい年をした男性は、基本的に家庭持ちでもあるのだ。

「ああ、いい感じの専務だったのにさ、嫁にバレて慰謝料請求されてさ。ふざけてる」
「ふざけてるのはあんたよ」

実の娘の救いようのない加減に、母は猛烈な怒りを起こしてその場に崩れ落ちる。母自身もまた、若さもお金も失ったおばさんに対する世間の冷たさに、日々絶望していた。そして、バラバラになった3人に、社会の制裁が下る。すでに会社は倒産してこの世にないが、母と秋奈による長年の横領・使途不明金、父の杜撰な経営による脱税の罪が消えるわけではなかった。

「もう会社なんてないのに、なんで今更金を払わなきゃいけないんだ」

そんな身勝手な言い訳が通じるはずもない。莫大な追徴課税と横領金の返済義務は、3人の首を容赦なく締め上げる。かつて自分たちが踏みつぶしてきた弱者となった彼らは、身を粉にして働いても抜け出せない貧困の中で、一生もがき苦しむのだろう。

嵐のような日々が去り、私は今、相手の会社で働いている。一度は引退した彼の両親も、経験者として手を貸してくれて頼もしい。ある日の仕事終わり、誰もいなくなったオフィスで書類をまとめていると、相手が私の前にすっと現れた。

「ひろみさん、僕と付き合ってください」

少し緊張した面持ちの彼に、私は思わず苦笑してしまった。気難しいことで有名な取引先への訪問を明日予定している。また同行して欲しいのだろう。

「いいですよ。喜んで」

いつもの調子で気軽に返事をすると、相手はふっと真剣な目つきになる。

「本当にいいんですか?結婚を前提にですよ」
「え…」

驚いてフリーズする。相手は緊張を解き、全てを包み込むような優しい微笑みを浮かべた。どうしてか、じわりと涙が込み上げてくる。傷だらけだった私の人生。彼は愛そうとしてくれているのだ。これ以上ない幸せを噛みしめる。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

戸惑いながらも、深く頷いた。

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