「お前、中卒のくせに副社長の靴でも磨いてろよ」
海外赴任から4年ぶりに本社へ戻ってきた俺。かつてのライバルは出世して部長になり、かつての恋人も今はその男のものになっていた。
「出世コースから転落したあなたは、彼の足元にも及ばない落ちこぼれよ」
2人に囲まれ、馬鹿にされる。俺が帰ってきたかった場所はこんなところじゃなかったはずだ。そう思ったその時だった。
「あら、平社員の真似ですか?」
凛とした声とともに、目もくらむような絶世の美女が現れた。社長秘書の鈴木さんだった。
「ご存知ないのですか?この方の正体を」
俺の正体が明かされると、俺を馬鹿にしていた同僚たちは真っ青な顔で震え上がるのだった。
俺の名前は西尾高。32歳のシステムエンジニア。4年間のベトナム赴任を終え、今日から本社勤務に復帰したところだ。
エレベーターを降りた瞬間から、周囲のざわめきが俺を包んだ。
「おい、あいつが帰ってきたぞ」
「本当だ。西尾だ」
「4年ぶりだろう。随分変わったな」
廊下を歩くたびに視線を感じる。みんな俺を見ているんだ。
俺が務めているのはグローバルテックソリューション株式会社、通称GTS。IT業界では知らない人はいない大手企業だ。この4年間、夢に見るほど帰りたかった場所。今日からまたここで頑張ろうと決意を新たにしたその時だった。
「西尾君」
背後から聞こえた声に、思わず体が強張る。振り返ると、そこには華やかな雰囲気の美人が立っていた。
「まみ……」
かつて俺の恋人だった女性、伊藤まみだった。
「やっぱり私と会うのは気まずいってこと?」
「いや、そんなことは……」
「顔色が悪いわよ。向こうの環境が合わなくて体調を崩したのかしら?」
皮肉を込めて、まみはにっこりと笑った。その笑顔に、俺は嫌でも4年前を思い出す。長期出張が決まった途端に彼女から別れを告げられた瞬間を。
「私がベトナムなんてありえない。何をどう考えたら、そんなところに左遷された男と一緒に行くと思うのよ。もう私たち別れましょう、高君」
それから日本を立つまで、彼女は徹底的に無視し続けた。
「いや、むしろ充実していたよ。たくさんのことを学んで成長できた4年間だった」
「へえ、成長ね」
まみは意味深にニヤニヤと笑う。すると、彼女の後ろから別の同僚が近づいてきた。
「おいおい、西尾、久しぶりじゃないか。今日から復帰だったんだな」
それは辻健太郎。俺と同期で入社した、かつてのライバルだった。
「辻、本当に久しぶりだな」
4年前の俺と彼は、同じシステムエンジニアとして常に競い合っていた。だが――
「ちょっと口の聞き方がないわよ、西尾君」
まみは突然、とげのある口調になって、親しげに辻の肩に手を置いた。
「今彼は開発部の部長なの。つまりあなたの上司なのよ」
ああ、そうだったな。その話は遠いベトナムまで伝わっていた。画期的なシステムを次々に開発した実力を認められ、辻がトントン拍子に昇進し、史上最年少で部長に就任した件は。
「それに対してあなたはベトナムなんかに左遷されて、ポジションも失って、その年で未だに平社員。恥ずかしくないの?私は恥ずかしいわ。あなたと付き合っていた過去があるなんて」
「えっと、ごめん」
「出世頭だって聞いたからあなたなんかと付き合ってあげたのに。やっぱり別れて正解だったわ」
「まあまあ、まみ。そうカリカリしたら美人が台無しだぞ」
辻はまみの肩に手を回した。まみも嫌がることなく彼のそばに寄り添う。傍から見れば、絵になる2人だ。
「見ての通りよ。私今は辻部長とお付き合いしているの。あなたと違って本物の出世頭で、次の社長候補とも噂されている彼とね」
「へえ」
「鈍い反応ね。ショックで言葉も出ない?まだボーッとしてるんだろう。体を動かせばそのぼんやりした頭も冴えるんじゃないか?」
すると辻は俺の前にすっと右足を差し出してきた。
「早速仕事を頼むよ、西尾君。僕の靴を磨いてくれないかな?」
「え?」
「何をボーッとしているの?普通は言われる前に自分から進んで申し出るものよ。気が効かない部下を持つと大変ね。健太郎さん、教育のし甲斐があるってもんだ」
「なんせ4年も左遷されていたんだからな」
辻はニヤニヤと笑いながらさらに右足を差し出す。その横でまみも意地悪そうに笑っていた。
その時だった。
「ここで何をされているんですか?」
凛と廊下に響いた声が、その場の空気を一変させた。振り返ると、そこには思わず言葉を失うほどの絶世の美女が立っていた。艶やかな黒髪が柔らかい曲線を描いて肩に流れ落ちている。完璧に整った顔立ち、艶やかな唇、透き通るような白い肌。まるで絵画から抜け出してきたかのようだった。
社長秘書の鈴木さんだった。
「社長がお探しですよ。役員会議の前にお話がしたいと」
「そうだった。すみません。つい昔の同僚に会ったもので」
「そうでしたか。では社長には私からうまく説明しておきますね」
俺に向かって女神のように微笑む鈴木さん。それを見て辻が慌てた。
「お前、なんで鈴木さんとそんなに慣れ慣れしいんだ?」
「健太郎さん。鈴木さんを褒めた辻を、まみがじろっと睨んだ」
すると鈴木さんもいきなり真顔になって、凍りつくように冷ややかな目で辻を睨んだ。
「開発部の辻部長ですね。お前とは、一体どなたに向けての言葉ですか?」
「え?」
「まさかとは思いますが、ここにいらっしゃる副社長を『お前』と呼ばれたのですか?」
「え?」
辻とまみは2人揃って言葉を失った。
「副社長?」
数秒後、ようやく言葉を発したまみに、鈴木さんは「ええ」と当然のように頷いた。
「ご存知ないのですか?西尾高也さんがベトナム支社で脅威的な功績を残された件を。それを受けて先日の取締役会で、新たな副社長に任命されたのです」
「え?」
「そして同時に、西尾副社長は次期社長でもあります。噂ではなく、正式に」
鈴木さんが付け加えると、辻は真っ青になり、わなわなと震え始めた。
「い、いつから聞いて……というか、本当なのか?」
「ああ、全て彼女の言う通りだ」
俺が答えると、辻はどすんとその場に尻餅をついた。
「あ、ありえない。信じられるか?中卒が副社長で次期社長なんて」
そう。この度副社長に就任し、GTSの次期社長に指名された俺は中卒だ。正しく言えば高校中退。1年生の途中で大黒柱の父が病に倒れ、学費どころか生活費の工面すらままならなくなってしまった。
「母さん、俺も働くよ。勉強なら後からでもできるから」
専業主婦だった母と一緒に働いて家を支える道を選んだ。夜の工事現場や飲食店のバイトを掛け持ちして、あの頃は休む暇もなかった。同年代が楽しそうに遊んでいるのを見て、羨ましく思ったことも一度や二度じゃない。
この会社に右往曲折を経て就職できた後も、中卒だと知られた途端、辻を中心としたエリートの同僚たちには見下しの対象にされた。それでも他のみんなが遊んでいる間に、俺は時間を見つけては誰よりも勉強した。おかげで通信教育で高卒と大卒の資格を取ることができた。
スタートラインでは劣っていたかもしれないけれど、後から巻き返すことはできた。努力をすれば、どんな境遇だって跳ね返すことができる。そのことを、これから自分の経験を通して伝えていくつもりだ。
「そろそろ参りましょう、副社長」
鈴木さんに促され、俺は呆然としている辻に背中を向けた。歩き始めると、まみの小さな呟きが耳に入ってきたが、俺はもう彼女に捨てられたショックを完全に振り切っていた。過去は振り返らず、未来だけを見ていた。
ところが、そう思っていたのはどうやら俺だけだったらしい。
「しお君。いえ、西尾副社長」
数日後、昼食を終えて社員食堂を出ると、俺は突然背後から呼び止められた。振り返ると、そこにはまみが俯きがちに目を伏せて立っていた。以前の傲慢な態度は影を潜め、まるで見た目だけが同じ別人のようだった。
「あの、今少しよろしいですか?……ごめんなさい」
俺は驚きのあまり言葉を失った。まみが俺に向かって謝ったからだ。4年前だって、たとえ自分が悪くても決して謝ったりしなかったのに。
「反省しています。先日のこと。それから4年前のことも」
まみの声は震えていた。
「どうしてまた、いきなり?」
「あれから色々と社内で話を聞いて。あなたが左遷どころか、社長から直々に頼まれてベトナム支社の立て直しに行ったことを知って……そんな人に向かって、私なんてひどいことを言ったんだろうって」
まみの目には、見る見るうちに涙まで浮かび始めた。俺が出世を知って、心にもない嘘の謝罪をしに来たんじゃないかと疑っていた心が、彼女の涙を見て微かに揺らぐ。
「俺もちゃんと説明しなかったから。まあ、説明する暇もなく振られたわけだけど」
「本当にごめんなさい」
「とにかく、俺にも落ち度があったよ。それについてはごめん」
まみは顔を上げると、じっと俺の顔を見つめた。そして涙を指で拭きながら、小さく微笑みを浮かべた。
「やっぱり優しい。君のそういうところが、私は大好きだったわ」
一時期は結婚まで考えた元恋人の笑顔。俺は大きくため息をついた。もしかしたらまみは本当に心から反省しているのかもしれない。そう思った次の瞬間だった。
「だから私たち、やり直さない?」
「え?」
俺が耳を疑うのと同時に、まみは突然ぐっと距離を詰めてきた。
「やっぱり高君が好き。もう一度私にチャンスをちょうだい」
「ちょ、ちょっと待った。君は今、辻と付き合っているんだろ?」
「もう別れるわ。あんな部長程度の男」
やっぱり反省なんかしていなかったじゃないか。わずかでもまみを見直した自分が情けない。ここを一刻も早く離れたくて、迫ってくるまみの横をすり抜けようとしたけれど、まみの方が素早かった。
「待って。話してください。伊藤さんね。知ってる?1年前、ここの近くに新しいカフェができたの。ゆっくりお茶でもしながら、この4年間の話を聞かせて欲しいわ」
俺の腕を掴みながら、にっこりと笑うまみ。昔は好きだった笑顔も、今は嫌悪感しか感じない。
「いい加減にしてくれ。俺はもう……」
乱暴に腕を振り払おうとしたその時だった。
「何をしているんですか?」
凛として鋭い声が、俺の背後から響いた。まみはくっと顔を引き攣らせ、腕を掴む手から力が抜ける。その隙に俺は彼女と大きく距離を取った。
「今、副社長の腕を掴んでいたように見えましたが」
「違うわよ。あなたの見間違いでしょ」
捨てゼリフを吐いて、まみは廊下の向こうに走り去っていった。その姿が角の向こうに消えると、俺は背後を振り返った。
「助かりました。ありがとうございます、鈴木さん」
「どういたしまして」
にっこりと笑顔を浮かべる鈴木さん。彼女の手にはスマートフォンが握られていた。
「ちょうどSNS用に社内の撮影をしていて、たまたま通りかかったから」
そういえば、確か鈴木さんは以前会社の取材に来たテレビ番組に写ったのがきっかけで、有名IT企業の超美人秘書として話題になったと聞いた。あまりの人気ぶりに、せっかくなら生かしてしまおうと、非公式で公式SNSアカウントの運営も任されるようになったとか。
「大変じゃないですか?社長秘書の仕事に加えてSNSまで」
「え、実は時々、少し。それでも私にできることがあるのは嬉しいので」
まっすぐに前を向いて、凛とした表情で俺に答える。その姿があまりにも眩しくて、しばらくの間俺は彼女から目を離せなかった。
「それよりも」
ほんのわずかに鈴木さんの表情が曇る。
「先ほど聞こえてしまって。あの方と西尾さんは……」
「ああ、特にやましいこともないので」
俺は正直に答えた。俺とまみが4年前に恋人同士だったこと。実はまみも高卒で、大学を出ていないことにコンプレックスを抱いていたようだった。似たような境遇から自然と距離が縮まり、やがてまみの方から告白されたこと。幸せにするつもりだったんですが、彼女が見ていたのは俺自身じゃなくて俺の肩書きだけだったんだって、今更になって気づきました。
「今も……今も同じ気持ちですか?」
なぜか突然、とても真剣な目で見つめられて、俺は即座に思いきり否定した。
「まだ彼女を好きかってことですか?まさか。とくに吹っ切れましたよ。今になって復縁を迫られるなんて、むしろ迷惑なくらいです」
「そうですか」
今度はなぜかほっとしたような表情を浮かべる鈴木さん。その理由が俺にはよくわからない。すると彼女は突然にっこりと笑顔を浮かべて言った。
「良かったです。え、私にもチャンスがある。そう思ってもいいですか?」
下から覗き込むように上目遣いで俺の顔を見つめて、俺にだけ聞こえるように囁く。鈴木さんの初めて見る姿に、俺は心臓がドキッと大きな音を立てた。
「では、失礼しますね」
微笑みながら、見とれるほど優雅な動きで一礼すると、鈴木さんはヒールの音を鳴らして廊下の向こうへ去っていった。ドキドキと鳴り止まない心臓の音に戸惑いながら、俺はしばらくその場から動けずにいたのだった。
それから1ヶ月ほど経ったある日のこと。外出先から戻った俺は、エレベーターでオフィスフロアに到着すると、普段とは違う妙な雰囲気が漂っていることに気づいた。
「大変なことになったな」
「信用問題だぞ」
普段なら和やかな雰囲気の社内が、今日は緊張感に包まれている。行き交う社員たちの顔もどこか強張っている。会社の奥に進むほど空気はどんどん重くなっていく。俺は足取りを早めて、フロアの一番奥にある役員会議室へと向かった。
「お待たせしました」
ドアを開けると、すでに社長をはじめとした役員たちが集まっていた。誰もが深刻な表情を浮かべて、部屋全体が重苦しい空気に包まれている。
「来たか。話は聞いているか?」
「詳しくはですが、ここへ来るまでに電話で概要は」
「大変なことになりましたね」
「ああ、まさか我が社で情報漏洩が発生するとは」
社長の言葉で、他の役員たちは一斉にため息をつき、頭を抱えた。つい先ほど、この会社では外部に機密情報が漏洩したことが発覚したのだ。
「もう一度、現在分かっている情報を整理する」
社長は咳払いをして、さらに詳細な説明を始めた。
「先ほど、我が社の新製品開発に関する機密情報がインターネット上に流出しているのが発見された。製品の設計図やマーケティング戦略まで含まれているようだ」
俺は息を飲んだ。それはまさに会社の生命線とも言える情報だ。ライバル企業に悪用されるリスクのみならず、会社の信用問題にも関わってくる。何しろ会社ではAIを活用した情報漏洩対策に特化したセキュリティソフトの開発販売を行っているのだから。最悪の場合、数年分の研究開発が無駄になる可能性もある。
「報道されれば、株価下落は避けられないぞ」
誰もが今回の事件で予想される懸念を口にする。空気がさらに重くなる中、俺は社長に尋ねた。
「現時点で分かっていることは?」
「現在セキュリティ管理部が調査中だが、社内PCから情報が外部に送信された形跡があるそうだ」
「あ、つまり社員の誰かが漏洩させた可能性が高いということですか?」
俺が言葉を継ぐと、その場にいた全員が無言で頷いた。誰も信じたくない事実だが、避けて通れない現実だった。
「嘆いていても仕方がない。一刻も早く対応すべきだ。社内にある全てのPCを徹底的に調査する。ここにいる人間を含めて、必ず社員全員に協力してもらおう」
その言葉に、俺を含めた全員が頷いた。この時はまだ知らなかった。まさかあんな事態が起きていたなんて。
それから数日後、緊張感に包まれた会議室に再び役員が勢揃いした。セキュリティ管理部の調査結果が出たためだ。
「それでは調査結果をご報告いたします」
セキュリティ管理部長が資料を手に、ゆっくりと前に進み出た。その表情は固く、声には緊張が滲んでいる。
「徹底的な調査の結果、情報漏洩の原因と見られるメールの送信履歴が、ある社内PCから発見されました」
「なんだって?」
「まさか本当に」
会議室内に小さなざわめきが起こる。そして次の瞬間、それは大きなどよめきに変わった。
「そ、そのPCの所有者とは……西尾副社長です」
驚愕のあまり、俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「どういうことだ?」
「まあまあ、落ち着きましょう、副社長」
社長は本日出張のため不在。この場を仕切っている最も古株の専務が、俺をなだめて椅子に座らせた。
「これは何かの間違いです」
室内を見渡して、俺は専務たちに訴えた。俺が情報漏洩の犯人だったなんて。そんなもの、身に覚えがあるはずもない。しかし専務は冷ややかな目で俺を見つめ、苦い口調で言った。
「しかし副社長、はっきりとした証拠があるようですが。そうだろう?」
「あ、はい」
話を振られた部長は真っ青な顔でコクコクと頷いた。
「西尾副社長が使用しているPCより、問題の機密情報を添付したメールが外部アドレスに送信されていた履歴が確認されました。送信日時、添付ファイル名、宛先メールアドレスなど、全てが記録されています」
それは言い逃れなどできないほど確かな証拠だった。俺は呆然とするあまり、声をあげて無実を訴えることもできない。すると、どこからかこの場には似つかわしくない小さな笑い声が上がった。
「やっぱりな。あんな若造を副社長などに指名するから、こんな事態になるんだ」
「これで社長も考え直してくださるだろう」
気づけば、その場にいた全員の視線が俺に集中していた。俺は元々、社長が周囲の反対を押し切る形で急遽副社長に抜擢された。その時の不満が、今回の事態を受けて再び燃え上がったのだ。
「どうだろう?最終的な判断は社長がお帰りになってからとして、西尾副社長にはそれまで一時的に職務から外れていただくというのは」
「え?」
「心配はご無用ですよ。我々がいれば、この事態も収拾できます」
専務の言葉に役員たちが同意するように頷く。そして全員が一斉に椅子を立ち上がった。
「これにて役員会議は終了です。お疲れ様でした、副社長」
立ち上がれない俺を残して、専務たちがぞろぞろと会議室を出ていく。
「やれやれ。ボケを掘ってくれて助かったよ」
「これで20も下の若造に敬語を使う日々も終わりだ」
笑い声に乗って、そんな囁きも耳に届く。やがて静まり返った会議室で、俺は拳を強く握りしめた。どうしてこんなことに?
それから3日も経つ頃には、どこからか噂は社内中に広まっていた。廊下を歩けば、社員たちの視線が痛いほど感じられる。こちらを睨み、指さして小声で囁き合う。俺はすっかり情報漏洩の犯人で、社内中から白い目を向けられていた。
そんな中、暇になった俺は社内中の窓を黙々と拭いて回っていた。
「ふう。よし。ここも綺麗になったな」
ピカピカの仕上がりに満足しながら、額に浮いた汗を拭う。その時だった。
「何をされているんですか?」
振り返ると、そこには鈴木さんが立っていた。いつもの微笑みを浮かべて、不思議そうに首をかしげている。
「ああ、鈴木さん。見ての通り、窓を拭いています。実は今やることがないもので」
「西尾さん……」
俺の言葉に、鈴木さんの表情が曇る。おそらく噂で聞いているのだろう。専務たちの差し金で、副社長の仕事を全て取り上げられた俺のこと。
「実は懐かしい気持ちで」
俺は彼女に語った。
「ベトナム支社でも最初はこうだったんです。誰も日本から来た俺を信用してくれなくて、仕事も回ってこなくて。だから毎日オフィスの掃除をしていました」
「毎日ですか?」
「はい。毎日毎日。そうしているうちに、少しずつスタッフたちが『今日も頑張っているな』と声をかけてくれるようになって、少しずつ信頼を得ることができたんです」
だから今回もきっと同じように、みんな少しずつ俺を信じてくれるはず。そう言おうとしたのに、言葉が勝手に途切れた。今回はベトナム支社の時とは状況が全く違う。俺自身が一番よく分かっていた。それでも何かせずにいられない自分がいて、窓を拭いて回ることにしたのだった。
鈴木さんは俯いて、唇をきゅっと硬く結んでいた。その表情は今にも泣きそうなのをこらえているようにも見えて、声をかけようとしたその時、彼女は勢いよく顔を上げて、にっこりと笑顔を浮かべた。
「休憩しませんか?」
「え?」
「冷たいコーヒーでも飲みながら。私、買ってきます」
鈴木さんは近くの自販機へ走っていって、缶コーヒーを1本買うと、それを手に俺のところまで戻ってきた。
「どうぞ、西尾さん。……私は信じますから。西尾さんのことを」
思わず目頭に熱いものが込み上げてきた。誰もが態度を変える中で、彼女だけだった。こうして変わることなく俺を信じると言ってくれたのは。
「ありがとうございます。でも鈴木さん、どうして?」
「当たり前です。だって私は……」
そこで鈴木さんの言葉は途切れた。廊下の向こうから聞こえてきた足音と、不快な響きを持つ声に気づいたせいだ。
「おや、そこにいるのは副社長様じゃないですか?窓拭きをしているんですって。少し見ない間に随分落ちぶれたものね」
俺たちが同時に振り返ると、そこには辻とまみが立っていた。2人の顔には意地の悪いニヤニヤ笑いが浮かんでいる。
「とうとう副社長、首になるらしいな、西尾」
「もう社長が決めたって、もっぱらの噂だぞ」
辻の言葉に、俺は一瞬冷静さを失いそうになったけれど、自分に落ち着けと言い聞かせて、まっすぐに顔を上げた。
「まだ決まっていない。真実はきっと明らかになるから」
「やだ。まだそんなことを言ってるの?」
声をあげて笑うまみ。そして辻は嘲るように言い放った。
「ベトナムで成果を上げられたのも、同じような不正をしていたからじゃないか?」
俺の中で瞬時に怒りが沸騰するような言葉だった。言葉も通じないような土地で、俺がどんな思いで4年間を過ごしていたか、何も知らないくせにと叫びそうになったその時、俺よりも先に鈴木さんが声をあげた。
「退いてください。西尾さんはそんな人ではありません」
廊下に鋭く響き渡ったのは、今まで聞いたことのない大声だった。両方の拳を強く握りしめて、俺を背中に隠すように辻の前に立ち塞がる。その背中からは、怒りの感情が強く伝わってくる。
「退いてください、辻部長」
「怖いな。どうして鈴木さんが怒るんですか?そんな奴のために」
「そんな奴?」
鈴木さんの声がどんどん低く冷たくなる。背中からでも伝わる迫力に、辻は「うっ」と小さく唸ってたじろいだ。
その時、突然まみが動いた。
「あなたなんか!」
止める間もない。一瞬の出来事だった。まみは俺の手から飲みかけの缶コーヒーを奪い取ると、それを鈴木さんの頭の上に振りかぶった。
「きゃっ!」
悲鳴をあげた時には、すでに鈴木さんは頭からコーヒーをぶちまけられていた。
「鈴木さん!」
「この女も高君と来るよ。どうせ少し美人だからってチヤホヤされて調子に乗って、影でどんなことをしているか分かったものじゃないわ」
鈴木さんは髪からコーヒーを滴らせている。そんな彼女の姿を見て、俺は静かな、それでいて激しい怒りが湧き上がった。俺だけならまだしも、彼女まで巻き込むなんて許せない。
「な、何よ。あなたもその女を庇うの?」
「君が鈴木さんの何を知っているんだ?」
俺は一歩前に出て、まっすぐにまみを見据えた。
「鈴木さんがどれだけ優秀で、どれだけ努力しているか、君には想像もつかないはずだ」
ポカンとするまみに、俺は語る。俺が知っている鈴木さんのこと。
「鈴木さんは毎日誰よりも早く出社して、遅くまで働いている。社長の厳しいスケジュール管理も、常に細やかな配慮を必要とされる複雑な業務も、きちんとこなしている。それだけじゃない。会社の公式SNSの運営まで任されて、その発信で会社の知名度を大きく上げた。人気に嫉妬したせいか、時には彼女に向けた心ないメッセージも送られてくるのに。それでも心が折れることなく、自分も誰かを傷つけようとは考えもせず、自分の仕事を全うする。これが彼女のしていることだ。分かったか、まみ」
言葉を失ったように口をパクパクさせるまみ。その時、廊下に社内アナウンスが鳴り響いた。
「西尾副社長、至急社長室までお越しください」
「これで首が確定だな、西尾。所詮、お前は全うに大学を出た俺には勝てなかったんだよ」
勝ち誇ったような辻の言葉には振り返ることなく、俺は鈴木さんに缶コーヒーを渡すと、社長の元へ向かったのだった。
社長室のドアを開けると、張り詰めた空気が俺を包んだ。社長は回転椅子に座り、鋭い眼光で俺を見つめている。
「話は専務たちから全て聞いている」
「はい」
俺は思わず背筋を伸ばし、息を飲んだ。社長は椅子に深く掛け直したまま腕を組んで、俺をじっと見つめ続ける。お前がやったのかとも、何か弁明はあるかとも言わない。だから深呼吸をして、俺は社長の目をまっすぐに見返した。
「社長は、会社の情報を漏洩させるような人間を次期社長に選んだりはしません。そうですね」
俺の声は自分で驚くほど落ち着いていた。すると社長の口元がわずかに緩む。
「その通りだ、西尾。そして、ピンチが大きければ大きいほど、それを乗り越えられる者に会社を託したい」
その言葉で、俺の胸に熱いものが込み上げてきた。俺は今、次期社長としてふさわしいか試されている。そして、お前なら乗り越えられると社長に信頼されているんだ。
「このピンチをお前は乗り越えられるかな?」
にやりと不敵な笑みを浮かべて、社長が俺に問いかける。俺に迷いは微塵もなかった。拳を固く握りしめて、全身の力を込めて答えた。
「任せてください。必ず乗り越えて見せます」
「よし。期待しているぞ、西尾」
今度は満足げな笑みを浮かべた社長に深く一礼して、俺は決意を胸に社長室を後にした。ドアを開けると、そこには鈴木さんの姿があった。
「西尾さん、大丈夫でしたか?」
両手を胸の前で握りしめ、不安な顔で俺に近づいてくる鈴木さん。すでに着替えを済ませて綺麗に髪も洗っているようだが、彼女が動くとほのかにコーヒーの香りが漂った。その途端、俺は胸にずきっと痛みが走った。
「すみません。鈴木さんを巻き込んでしまって。俺を庇ってくれたばかりに、あんな目に合わせてしまった」
申し訳なさで、視線を合わせることができない。すると鈴木さんは力強く横に首を振った。
「西尾さんは何も悪くありません」
彼女は一歩前に出て、俺の腕にそっと手を置いた。
「それに、何も間違ったことをしていないでしょう。もっと胸を張ってください」
その手の温かさに思わずドキッとして、その拍子にまっすぐ視線がぶつかり合うと、鈴木さんはふいにふわっと微笑んだ。
「5年前のことを、西尾さんは覚えていますか?」
「5年前?」
俺が記憶を辿り始めると、鈴木さんは懐かしむように目を細めた。
「5年前、私はこの会社も秘書のお仕事もやめようと思っていたんです」
入社当時から社内一の美人だと騒がれ、そのせいで妬みもあったのだろう。誰よりも努力して真摯に仕事に取り組んでも、結局いつも「美人は仕事も楽で羨ましい」といった言葉で片付けられて、見た目以外を評価してもらえないことに鈴木さんは悩み続けていた。そしてとうとう、ある時に限界を迎えて、ずっと憧れだった秘書の仕事まで投げ出してしまいたいと思ってしまった。
「そんな時だったんです。私をもう一度立ち上がらせてくれたのが、西尾さんでした」
「俺が?」
「社長室にいらしたことがあったでしょう。あの時です」
ようやく俺にもはっきりと記憶が蘇ってきた。当時開発中だったシステムの件で社長に呼ばれ、社長室に向かっていた時。ちょうど曲がってきた人物に気づかず、思いきり正面からぶつかってしまった。その人物が抱えていた書類が床にバサバサと散らばってしまった。
「こちらこそ。お気になさらず」
硬い声と冷たい無表情で書類を拾おうとする俺を止めたのは、社内一の美人と噂の社長秘書だった。手早く無駄のない、かつ品のいい動きで書類を集める姿に感心しながら、俺は足元に落ちていた手帳に気づき、それを拾い上げた。
「どうぞ。あなたのものですよね」
「え、ありがとうございます」
「ところで、それ」
「この後、西尾さんが私に何と言ってくださったか覚えていますか?」
「はい。私がいつも使っていたボロボロの手帳を見て、西尾さんは『いい手帳ですね』と言ってくださったんです。『頑張りが伝わってくるようないい手帳ですね』って」
そんな何気ない、ありのままの気持ちを伝えた俺の一言。それが鈴木さんを再び立ち上がらせた。
「もう少し頑張ってみたい。彼が褒めてくれたこの手帳に恥ずかしくないように。そう思うことができたんです。西尾さんのおかげで」
そう言いながら、鈴木さんがスーツのポケットから取り出したのは、あの時よりさらに使い込まれて、もっとボロボロになった手帳。諦めずに仕事を続けた彼女の人一倍の努力の証、そのものだった。
「そして私は、また西尾さんに助けられました。あの時と同じくらい嬉しかったです。私が自分の仕事を全うしているのだと言ってくださったことが」
「そんな。それを言うなら、俺の方こそありがとうございました」
「いえ」
鈴木さんは微笑みながら首を横に振った。
「私は社長秘書ですから。未来の社長も私が支えるべき方ですから」
凛とした雰囲気でまっすぐに俺を見据えて、きっぱりと言い切る彼女に、俺は思わず見とれた。
「それに」
鈴木さんは言うのをためらうように、一旦言葉を切った。一瞬だけ目を伏せて、それからほんのり頬を赤くしながら、俺を見つめた。
「守りたかったんです。好きな人」
「え?」
「以前伝えましたよ。私にもチャンスがあると思っていいですかって」
あれはそういう意味だったのか。俺が驚きで言葉を失っていると、鈴木さんの方はどんどん赤く染まっていく。
「西尾さん、私はあなたが好きです。手帳を拾っていただいた時から。あなたの隣に立てる存在になりたくて、この4年間は努力を続けてきました。もちろん仕事も、それから自分磨きも」
そう言われてみれば、4年前よりもますます綺麗になった気がする。あまりに眩しいほど綺麗で、視線が引き寄せられて外せない。俺たちは随分長い間、見つめ合っていた気がする。
「考えておいてくださいね。焦ったりはしません。たとえ叶わなくても、西尾さんを支えたい気持ちに変わりはありませんから」
鈴木さんが微笑んで、俺ははっと我に帰った。その時すでに彼女は俺に背中を向けて、社長室のドアをノックしようとしていた。
「鈴木さん」
俺の呼びかけで、こちらを振り返る鈴木さん。どうしました、と答える彼女が浮かべた柔らかい表情で、勝手に胸が高鳴る。
「お願いがあります。力を貸してもらえませんか?」
翌日、緊急の役員会議が招集された。
「失礼します」
会議室に入ると、すでに専務たちは全員が席についていた。全員の視線が俺に集中して、あちこちから小さな笑い声も上がる。この緊急会議を招集した社長は、とうとう俺の処分を決めたのだろう。皆が思っていることは同じだった。
「お待たせしました」
それにひるむことなく、俺は毅然とした態度で席についた。
「それでは会議を始める」
社長の第一声に続いて、専務が片手を上げた。
「社長、ですが西尾副社長の処分については」
「いえ、違います、専務」
専務の言葉を遮るように、俺は静かに椅子を立ち上がった。
「何?」
「本日お集まりいただいたのは、私の処分が決定したためではありません」
誰もが「えっ」と息を飲む。俺は息を大きく吸って、一息に言い放った。
「情報漏洩事件の真相が分かりました。本当の犯人が誰なのか、皆さんにお伝えするためです」
一瞬の静寂。その後、室内はどっと笑い声に包まれた。
「何を言っているんだ?証拠は全て君を指しているじゃないか、西尾君」
「そうだ。もう観念したらどうだ?」
「まだ若いんだから、いくらでも再スタートできるだろう」
専務を筆頭に、全員が俺を笑い者にしようとしている。しかし俺が揺らぐことはなかった。それぞれの顔を見回しながら、笑声が収まるのを待ち続ける。
「そして、その犯人は今からここにやってきます」
俺の一言で、室内はしんと静まり返った。その時だった。
「し、失礼します」
ひどく緊張しているように、誰かが遠慮がちに出入り口のドアを開けた。それに反応して、専務たちは一斉にそちらを振り向く。異様な空気を察して、その人物はぎょっとした表情で動きを止めた。
「お呼びでしょうか、社長」
恐る恐る会議室に足を踏み入れる彼。辻を、俺はまっすぐに指差した。
「彼が情報漏洩事件の真犯人です」
驚愕の表情で固まり、絶句する辻。会議室は一気に騒然となった。
「何を言っているんだ?この後に及んで」
「彼は開発部の部長だぞ。冗談では済まされないぞ、西尾君」
専務たちの声が飛び交い、俺に非難が集中する。はっと我に帰った辻は、鬼の形相で俺に詰め寄ってきた。
「ふざけるな!無関係な人間に罪を着せるつもりか!俺は社長の指図を受けてここに来ただけなのに!」
彼の目は俺に対する怒りに燃えていたが、その奥にはどこか焦りの色も見えた。
「証拠ならある。君が俺を落とし入れた証拠を見つけたんだ」
「ありえない!」
辻が唾を飛ばして叫ぶ。
「どこにそんな証拠が!完璧に消したはず……」
自分の発言に気づき、慌てて口元を抑える辻。しかしその言葉を、俺は聞き逃さなかった。
「そうか。証拠を完璧に消したのか。それは自白と見てもいいのか?」
「あ……」
辻の顔からさっと血の気が引いていく。その体を押しのけると、俺は改めて専務たちの前に立った。
「確かに犯人の手口は巧妙でした。一見して私にかけられた疑いを晴らすことはできないほどに」
室内が水を打ったように静まり、全員の視線を浴びながら俺は続けた。
「犯人は社内ネットワークの脆弱性をついて、私の社内PCにバックドアを仕掛けたのです」
バックドアとは、簡単に言えばコンピューターやネットワークへ不正にアクセスできるようにする隠された入り口のことだ。これを使えば、ユーザーに気づかれることなく遠隔でシステムを操作したり、機密情報を盗み出したりすることができてしまう。
「具体的に言うと、犯人は社内の業務用ソフトウェアのアップデートサーバーに侵入し、そこから配信される更新プログラムに悪意のあるコードを仕込みました。私のPCがその更新プログラムを適用した瞬間、バックドアが仕掛けられるように細工して」
「なんと」
専務が驚愕したようにつぶやき、他の役員たちも互いに顔を見合わせる。誰もがきっと同じことを考えていた。そのような細工を仕掛けられる人物とは。
「そう、このような手口は高度なプログラミング技術と、我が社のネットワークインフラに関する深い知識がなければ実行不可能です。まさに君のような優秀なシステムエンジニアであり、開発部の部長として社内システムに精通した人間にしか不可能な計画だ」
「知らない!それがどうして俺が犯人だという話につがるんだ?」
すでに自白したようなものなのに、辻は激しく首を振って何も知らないと主張した。
「それならば」
俺はさらなる説明を続けた。
「犯人は君は、俺のPCから機密情報を盗み出し、外部に送信したように見せかけた。その手口も非常に巧妙だった。まずバックドアを使って盗み出した機密情報を、俺のPCのメーラーの一時保存フォルダーに保存。そして俺のメールアカウントの認証情報を使って、バックドアを通じてメールサーバーに接続。俺になりすまして機密情報のファイルを添付したメールを作成し、外部のアドレスに送信したのだ。さらに悪質なのは、このメールの送信記録を巧妙に操作したことだ。君はPC内の時計までも一時的に操作し、あたかも俺が社内にいた時間帯にメールを送信したかのように見せかけた。そして送信済みフォルダに、そのメールのコピーを残した」
辻の顔はもはや真っ青を通り越して、今にも倒れそうなほど白い。それでも追撃の手を緩めることなく、俺は畳みかけた。
「通常のセキュリティログを見れば、まるで俺が意図的に機密情報を漏洩させたかのように見えるはずだ。送信済みフォルダに残されたメール、サーバーのログ、時刻の記録。全てが完璧に示している。普通に調査しただけでは、俺が犯人だと結論付けられても不思議じゃない」
「何?」
俺が言葉に含ませた意味を察して、俯いていた辻が顔を上げる。
「そうだ。俺がセキュリティ管理部の調査員でも、俺が犯人だと結論付けたはずだ。もしも俺がベトナムに行っていなかったら……だが、俺は行っていた。そして、このために開発していたんだ。不正検知システムを」
俺の言葉に、辻は目を丸くした。
「通常のセキュリティログとは別に、PC上の動き全てを記録する。そして不自然な操作パターンを検知すると、AIが自動で別のサーバーに情報をバックアップする」
「おい、ちょっと待て、西尾。君が俺のPCに侵入した痕跡。外部へのメール送信を偽装した記録など、全てをAIがバックアップしてくれていた」
俺が持参したノートPCを開くと、正面のスクリーンに画面が投影された。そこには辻の犯行だと示す、誰の目にも明らかな証拠が表示されていた。
「君が使用したバックドアを逆に辿り、AIが発見してくれたIPアドレス。これは君が使っている社内PCのアドレスだと、セキュリティ管理部にも確認済みだ。どうして君のPCから俺のPCに不正侵入した形跡があるのか、説明できるか、辻?」
「あ、ありえない……」
どさっと崩れ落ちるように、辻はその場に膝をついた。誰もが声を出せず成り行きを見守る中、すっと手を上げたのは専務だった。
「待つんだ、西尾君。そのように高度な不正検知システムは、AIを得意とする我が社にも存在していない。本当に実在するのなら、とんでもない発明ではないか。一体どこが開発した製品なんだ?」
専務の言葉に、他の役員たちも慌てたように頷く。俺は首を横に振って、専務たちの疑問に答えた。
「このシステムは、私が開発したものです」
「お、お前が……」
俺を見上げて、辻が驚愕の表情を浮かべる。専務たちの顔も彼と似たようなものだ。俺は頷いて、辻に答えた。
「そうだ。このシステムはベトナム支社で開発を進めてきたものだ。何、君も知っているだろう、辻。ベトナムは今IT産業が急速に発展している。特にAI分野での成長が著しく、優秀な人材も豊富だ。しかし同時に、現地ではサイバーセキュリティの脆弱性も大きな課題になっている。そこで俺はベトナムの優秀なエンジニアたちと協力して、セキュリティシステムの開発に着手した。彼らの優れた技術と想像性に、日本ならではの緻密さを融合させる。その結果、従来のシステムでは検知できないような高度な不正アクセスも検知できるようになった。これまでに存在していなかった画期的なAIによる不正検知システムが完成したのだ」
「4年前、我が社のベトナム支社は多くの深刻な課題を抱えていた。スタッフ同士の連携不足、現地の競合他社と比べた技術の不足、そして市場ニーズの把握不足。お前たちも知っての通りだ」
ここまで無言を貫いていた社長が、静かに口を開いた。なぜ俺をベトナムに送る決断をしたのか、その理由を専務たちに明かす。
「我々はその状況を打開できる人材を求めていた。そこで白羽の矢を立てたのが、当社随一の優秀なエンジニアである彼、副社長だった」
社長の視線が俺に向けられる。俺は社長に向かって頷きながら、この4年間を脳裏に思い浮かべた。まず言語の壁を乗り越えるために、移動の辞令を受け入れた直後からベトナム語の猛勉強を始めた。また現地のIT事情を徹底的にリサーチして、万全の準備を整えた。そしてベトナム支社に赴任すると、自ら進んでオフィスの掃除を行うなど、まずはエンジニアたちとの信頼関係を築くことに全力を注いだ。もちろんそれは決して楽な道のりではなかったが、話す言葉や文化が違う俺たちには、プログラミング言語という共通言語があった。一緒に作業をしながら互いの技術を認め合い、補い合うことで、俺は徐々にベトナム支社のメンバーとして受け入れられていった。
「彼はベトナムの優秀なエンジニアたちの潜在能力をさらに引き出すことに成功した。そして彼らと共にAIを活用した不正検知システムを開発。また、完成したシステムをベースに新たな事業を立ち上げた」
社長の言葉で、会議室にどよめきが起きる。すると専務がおずおずと声を上げた。
「社長、それはもしや例のセキュリティコンサルティング事業ですか?」
「その通りだ」
社長が頷くと、専務は顔を青くして「なんと」と呟いた。そのニュースは当時日本の本社でも話題になったという。それはサイバーセキュリティの課題を抱えていたベトナムのみならず、アジア地域全体から注目されるような画期的な事業だった。結果、ベトナム支社の売上は3年で5倍に成長し、アジア地域における当社の地位を大きく高めた。
「ベトナム支社は今や我が社の技術の中心地であり、グローバル展開の要だ。その立役者が、そこにいる西尾副社長だ」
専務たちの顔を見回し、社長は満足げに大きく頷いた。そして、異論のある者はいるかと声を張り上げた。
「西尾の努力と成果は、我が社の未来を大きく変えた。だからこそ私は彼を副社長へ、そして次期社長へと指名した。この決定に、まだ異論のあるものはいるか?」
誰一人、言葉を発する人間はいなかった。専務たちは揃って押し黙り、辻は床から立ち上がれないまま、言葉が出ない様子で口をパクパクさせるだけだった。
「それでは、これで本日は」
社長が会議を締めくくろうとしたその時だった。突然ドアが勢いよく開けられ、1人の人物が室内に飛び込んできた。
「待ってください!」
俺たちに向かって叫んだのは、まみだった。
「そこにいる西尾副社長の悪業を告発します」
「悪業?それは一体」
「はい、社長。彼は私に無理やり復縁を迫ってきたんです」
会議室が一瞬にして騒然となる。専務たちの間から驚きの声が上がり、辻は困惑した表情で彼女を見つめた。どうやら辻も予想していなかった行動らしい。
「西尾君。いや、西尾副社長、それは事実ですか?とても信じられないが」
「いや、虚偽であればあそこまで堂々とは……」
驚きと困惑の声が飛び交う中、まみは顔を両手で覆うと声を張り上げた。
「怖かった。復縁しないと副社長の権力で海外に飛ばしてやるって。私、怖くて言いなりになるしかなくて」
厳しい目が一斉に俺に向かって集中する。社長だけが腕を組みながら、視線で俺に問いかけていた。このピンチをどう切り抜けるつもりかと。
その時だった。
「それは嘘です」
鋭い声が、騒然とした会議室に響き渡った。ぎょっと目を見開いて、まみが勢いよく出入り口を振り返る。彼女が開けっぱなしにしたドアから、ヒールの音を立てながら入ってきたのは。
「お待たせしました、西尾さん。ばっちりのタイミングです。お疲れ様でした」
「鈴木さん」
鈴木さんとアイコンタクトを交わすと、俺は全員の顔を見回した。
「実は、こうなるのではないかと予想していました」
ポカンと口を開けるまみ。俺はノートPCを操作して、音声のボリュームを最大にした。
「皆さん、これを聞いてください」
そう言いながら、あるファイルを再生する。ざっと大音量で流れるノイズ。するとそれが徐々に収まって、女性の声が室内に響き渡る。
「だから私たち、やり直さない?」
「え?」
「やっぱり高君が好き。もう一度私にチャンスをちょうだい」
「もう別れるわ。あんな部長程度の男」
見る見るうちに、まみの顔が真っ青になる。
「これはさすがの社長も驚いた様子で、ぽつりとつぶやいた。もちろん他の全員も呆然として、しばらくの静寂の後に、わかに会議室は騒然となった」
「お分かりいただけましたか、社長。復縁を迫られたのは一体どちらなのか」
「ああ、しかし」
「その通りです」
俺は社長に頷くと、種明かしを始めた。どうしてまみが俺に復縁を迫った証拠をピンポイントで確保することができたのか。それはそこにいる鈴木さんのおかげです。彼女が公式SNSにアップするため社内で動画を撮影していたこと。それを思い出したので、もしかしてと思いました。彼女のスマートフォンが俺たちの会話を拾っているのではないかと。その予想は大当たりとは言えなかった。確かに会話を拾ってくれてはいたものの、それはいくら音量を上げても俺たちの声として聞き取ることができないほど微かなものだった。そこで俺は、ベトナム支社にいた頃、仕事の合間に趣味で開発したソフトを使いました。たとえ非常に微かな音声でも、AIが波形を読み取って、人の耳で聞き取れるレベルまで引き上げてくれます。これは社内の不正防止にも活用できるかと思いますが、いかがでしょう。
「なるほど。面白い。検討しよう」
社長が笑顔を浮かべると、専務たちの間から感嘆の声が上がり、まみは大きく後ろによろめいた。
「そんなのあり?」
それを横目に、俺は「そして」と続ける。
「社長、鈴木さんをお貸しくださってありがとうございました。念のため、彼女に伊藤さんの動向を見張ってもらっていたことで、冷静に対応することができました。実はまみが乗り込んでくる直前、俺は鈴木さんからチャットで連絡を受けていたんです。『今そちらに伊藤さんが向かっています』と。だから俺は慌てることなく、こんなこともあろうかと用意していた証拠で、まみを撃ち返しにすることができたのだった」
そんなまみもまた、辻と同じく膝から床に崩れ落ちた。そして、社長が放った言葉で、2人は同時にがっくりと項垂れるのだった。
「そこの2人、みんなが解散した後、ここに残るように。お前たちの処分を伝えよう」
専務たちが会議室を出て行った後、社長は笑顔を浮かべて俺の肩に手を置いた。
「西尾、ピンチを切り抜けたな」
「ありがとうございます。ですが、これも鈴木さんの力を借りたおかげです。1人だけでは、とても」
「借りるべき時には力を借りるのも、社長に必要な資質だ。また1つ学んだな」
とても満足げに頷くと、社長は次に辻の方を向いた。
「辻?」
名前を呼ぶ厳しい声には、同時に悲しみも混ざっていた。
「残念だ」
「え?」
「お前と西尾の才能には、入社当時から目をつけていた。いずれは会社の未来を任せるつもりでな」
驚愕に息を飲んで、言葉を失う辻。社長は深いため息をついて続けた。
「西尾には逆境の中で鍛え上げたエンジニアの腕と、どんなピンチも切り抜ける力が。辻、お前には人を引きつけるカリスマ性があった。どちらかを社長に、もう片方を副社長に指名すれば、競い合う心がさらに会社を発展させると。ほんの少し前まで、そう信じていたが。残念だ」
社長が繰り返すと、辻はそんな顔をぐしゃぐしゃに歪ませた。そして突然、社長の足元に膝をついて叫んだ。
「ですが社長、私は今まで会社のためにずっと身を粉にして頑張ってきたんです。そんな私より、中卒が次期社長に指名されたなんて、やはり納得できません」
「西尾の学歴が問題か」
「はい。通信教育で卒業資格を得ようと、所詮高校も大学も出ていない人間です。この会社の誰も、そんな人間についていこうとは思いませんよ」
「それでは、私はどうなる?」
「え?」
社長は辻に問いかけた。
「誰も中卒についていかないというなら、私に今ついてきている部下たちは何だと?私も最終学歴は中卒なのだが」
「え?」
「数十年前であれば、そう珍しいことではなかった。この現代でも、私は人の資質が学歴によるとは考えない。辻、お前が名門大学の出身だからと目をつけたわけではないように」
辻の肩から、一気に力が抜けたのが伝わってきた。後を託すように、社長が俺に視線を向ける。
「辻、俺が高校や大学を出ていない事実は、この先も変わらない。それを君のように嘲る人は、この先も現れるはずだ。成功しても失敗しても、所詮中卒だからと」
「あ……」
「けれど、それがどうした?」
弾かれたように、辻が顔を上げる。彼とまっすぐに視線を合わせて、俺は宣言した。
「それを覆返せるくらい努力して、認めさせればいいだけだ。そのうちきっと、学歴がどうこう言う人はいなくなる。学歴なんてどうでもいいと思うくらい、俺という人間そのものを伝えていくつもりだよ」
「どうして……お前はいつも……」
「学歴は時に人の可能性を縛るけれど、学歴に一番縛られているのは君自身じゃないか、辻」
その目が大きく見開かれて、辻は言葉を失ったまま口元を震わせた。俺よりも高い学歴を持つ自分が、俺なんかに負けるはずがない。そう考えたせいで、せっかくの才能を間違った方向に使ってしまったんだ。
「俺は辻と競い合って開発をしている間、少しも考えたことはなかったのに。学歴で劣る分、見返してやろうとも。君より開発がうまくいかないのは学歴のせいだとも。あの頃は、ただ楽しかったんだ」
そう告げた瞬間、辻の目から一筋の涙が流れ落ちた。
「そ、そんなの……お前だけだ。お前だけ……」
床に拳を叩きつけながら、辻は声を上げて泣いた。
「お前だけがいつも、学歴なんて関係ないという顔で……」
その叫びが、学歴に縛られてきた彼の人生を象徴していた。そんな彼に、社長は静かに解雇処分を告げたのだった。
「すると、私も解雇してください」
ずっと床に座り込んだままだったまみが、立ち上がって俺たちの元に近づいてきた。
「お願いします、社長」
「まみ……」
翻訳する俺を見て、まみは苦笑いを浮かべた。
「私、高卒の私よりも学歴が低くて、みんなから馬鹿にされる高君を、ずっと可哀想だと思っていたわ。私よりも可哀想で。そんなあなたと一緒にいることで、まだ自分はマシなんだって安心していたの。だけど……」
まみは首を振った。
「可哀想なのは、やっぱり私だった。そんな考え方しかできない、私自身だった」
俺と離れて初めて気づいたのだと。
「付き合う男の人みんなに、お前は見た目だけだって言われてきたの。学歴も得意なこともなくて、見た目しか取り柄がない女だって。言わなかったのは、あなただけ。それがすごく嬉しかったのに」
俺がベトナムに左遷されるという噂が流れ、もう出世の見込みはないと囁かれて、まみは急に俺と一緒にいるのが怖くなったのだ。それは彼女が貧乏な家庭で苦労しながら育ったから。俺と一緒にいたら、また貧乏になってしまうかもしれない。ただ1つ褒められてきた容姿さえ、貧乏のせいで失ってしまうかもしれない。その恐怖が、彼女に別れを決めさせたのだ。
「それなのに、4年間ずっと心が寂しかった。失ってから気づいたの。私にとってあなたのそばが、どれだけ心地いい場所だったか」
「それは自分の方がマシに思えるから?」
「違うわ。今更きっと信じてもらえないけど。あなたのことが、本当に好きになっていたから」
そう告げるまみの瞳は、俺には嘘のないものに見えた。もしかしたら、あの復縁を求める言葉も、まみなりの本心だったのかもしれない。俺は思わずまみと見つめ合った。すると、俺たちの間に突然、鈴木さんが割って入った。
「西尾さんは渡しません」
「え?」
まみは目を丸くして、それから「分かってるわ」と力なく笑った。
「あなたには叶わない。見た目も、それから中身だって。高君、西尾さんの隣には、私もふさわしくない。さっき改めて思い知ったわ」
「そうです。私は彼に何が起きても、決して離れたりはしません。彼を好きなのに、わざと傷つけて窮地に追いやることもしません。たとえ恋人になれなくても、いつまでも彼を支え続けます」
凛然と宣言した鈴木さんに、まみは笑いながら小さく頷いた。そして、まっすぐに顔を上げる。
「いつかあなたよりもいい女になりたい。見た目も中身も。そのために、これから努力する。だからあなたも、油断しない方がいいわよ」
「もちろんです」
鈴木さんも微笑みを浮かべて頷いた。そして、覚悟を決めたように自分をまっすぐに見据えたまみに、社長は処分の内容を告げたのだった。
その後、辻には正式に解雇処分が下り、彼は開発部長にまで出世しながら、誰にも見送られることなくひっそりと会社を去っていった。彼が抱える複雑な思いは、これからも彼自身を縛って苦しめるかもしれないけれど、今後は自身が持つ才能や今までの努力にもわずかでも目を向けてくれたら。それを誰よりも近くで見てきた俺は、そう願わずにいられなかった。
一方のまみには解雇ではなく、減給と停職処分が下されたが、処分が明けると彼女は自ら会社を去ることを決めた。
「噂が広まっていづらいのもあるけど、一番は新しい場所で自分を見つめ直すために。いい女になるためにもっと自分を鍛えられそうな環境に行くの」
最後の出勤日を終えた彼女を、俺と鈴木さんは見送りに行った。そんな俺たちに、まみは深々と頭を下げて謝罪したのだった。
「2人にはたくさん迷惑をかけてしまって。それなのに、こうして見送りに来てくれてありがとう」
顔を上げたまみの目には、涙が光っていた。もうすでに、彼女は変わり始めている。新しい場所ではきっと苦労も多いけれど、それ以上の幸せが彼女を待っている。そんな予感がした。
「元気で。いつかまた」
だから俺は、去っていくまみの背を笑顔で見送ったのだった。
それから。
「お疲れ様です」
鈴木さんが社長室に入ってくると、俺は照れ臭くなって書類を眺めた。
「まだ慣れないな、それ」
「もう社長になって1年も経つのに」
本社に戻って1年後、俺は新社長に就任した。今度は専務たちも一致で賛成してくれて、経営に不慣れな俺を支えるために全面的に協力してくれるようになった。そして、あっという間に1年が経って。
「少しは社長らしくなれたかな?」
「もちろんです。この1年で社長がもたらした功績を考えれば」
「ありがとう。君がいつも支えてくれたおかげだよ」
この1年で会社は大きく変わった。ベトナムをはじめとする海外支社との連携が強化され、各地で日々進化する技術を本社にも取り入れるようになった。また、AIによる不正検知システムが業界で高く評価された結果、業績は倍近くにアップした。しかし、それ以上に俺が誇りに思うのは、社内の雰囲気が大きく変わったことだ。俺は学歴や経歴に関係なく、個人の能力と努力を正当に評価する仕組みを整えた。その結果、多様な背景を持つ優秀な人材が集まり始め、会社に新たな活力をもたらしてくれるように。かつては学歴コンプレックスを抱いていたという中途入社の社員が、今は「毎日が楽しいです」と笑顔で話してくれた時は、本当に嬉しかった。
「もうすぐ18時か。今日は定時上がりだ。俺たちも帰ろうか」
俺が背伸びをしながら振り返ると、鈴木さんは少し不満げな顔をしていた。
「呼んでくれないんですか?りこって」
「ああ、ほら、まだ時になっていないから」
それは言い訳で、本当は照れからだ。俺は頬を掻きながら、いつまでも慣れない自分に苦笑した。俺が鈴木さんに告白の返事をしてから、もう1年と半年になるのに。
「本当にいいんですか?私はいつまででも待つつもりだったのに」
俺の返事を聞いた理子は、そう言って笑顔を浮かべたけれど、俺の方が先に我慢できなくなったのだ。社長就任より早く俺の秘書になり、常に全身全霊で支えてくれる彼女へ、日に日に募っていく思いが。
「はい、18時になりました。今日もお疲れ様です、高さん」
自分でも照れたように、はにかんで俺の名前を呼ぶ。そんな理子に、俺はかつてないほどの愛おしさが込み上げてきて、これ以上は我慢できなかった。
「理子と結婚してくれないか?」
「え?」
本当はこの後、予約しているレストランで渡すつもりだったのに。ポケットに隠していた指輪を差し出すと、理子は言葉を失って口元を抑えた。
「いつも支えてくれる理子に、これからも支えて欲しいからじゃない。俺が理子を支えられる人間になりたいから」
「そんなの、今だってたくさん……」
溢れ出した涙で、理子の言葉が途切れる。俺も熱いものが込み上げてきて、泣きそうな顔を見られないように抱きしめた。
「高さんのそばにいられるだけで十分だと思ったのに」
「いいんですか?もっと幸せになっても」
「もちろん」
そう言って、俺は理子の足元に膝をついた。
「笑顔の時も、そうじゃない時も、理子を支える資格を。君と一緒にいる資格を、俺にくれないか」
指輪を差し出すと、少し間が開いて、やがて静かに震える左手が差し出された。
「はい」
頬を伝う涙と一緒に、理子は満面の笑顔を浮かべた。その薬指にそっと指輪をはめると、ふいに右手も俺に向かって伸びてきた。
「ありがとう、高さん」
こちらに向かって両手を伸ばす理子を、俺はもう一度、今度はより強く抱きしめた。
「俺の方こそありがとう。これからもずっと一緒にいよう」
胸がいっぱいで言葉にならない思いは、これから彼女に伝えていこう。もう決して離れることはないのだから。
人生はピンチの連続だ。それを1つ1つ乗り越えなければ、次の道は見えてこない。ピンチを乗り越えるのに必要なのは、例えば高い学歴などではなくて、困難に負けない強い意志と、きっと乗り越えられると自分を信じる心だ。そして、ピンチを乗り越えた先に得られる自信も、次のピンチを迎えた自分を勇気づけてくれる。まずは一歩を踏み出して、目の前にそびえる壁に立ち向かおう。その向こうで待っている、1つ成長した自分を信じて。


