「結婚式には来ないで。母親としてよしの結婚を祝福したい。そう伝えるも、彼は淡々とした口調で私を拒絶した。
『とにかくこれで要件は終わり。切るね。』
『待って、よし!』
引き止める私を無視して、よしは通話を終了した。このまま親不幸な息子だと割り切って絶縁するのは簡単だ。しかし、確証はないものの、さおりとの結婚はやめた方がいい気がする。私は自分の直感を信じ、二人の結婚式の会場に乗り込むと決めた。
それから一ヶ月後、迎えたよしの結婚式当日。私は一人でこっそり会場へと向かった。早めに着いたので、ひとまず入り口から距離を置き、参列者を観察する。その時、突然背後から声をかけられた。
『あの、すみません。』
振り返った先にいたのは、私と同年代くらいの女性。
『えっと、どちら様でしょうか?』
『私は、よしの実の母です。』
状況が飲み込めず、あ然とする。よしは私の息子だ。一体彼女は何を言っているのか。
私は菊直、54歳。とあるクリニックで医療事務として働いている。二十年前に夫を事故で亡くし、それ以来女手一つで息子を育ててきた。今でもあの頃のことは忘れられない。幼い息子を残して夫が突然この世を去るとは思っていなかった。私は悲しみに暮れ、目の前が真っ暗になった。
ただ、葬儀後、よしが私の手をぎゅっと握った。
『僕、お母さんのために頑張るね。』
彼は目を潤ませながらまっすぐこちらを見つめていった。落ち込んでいる私を励ましたかったのだろう。その表情は子供とは思えないほど真剣だった。
『よし、ありがとう。私もよしのために頑張るから。』
何があってもこの子を立派に育てあげなければならない。私はそっと彼を抱きしめ、自分を奮い立たせた。それ以来、親子二人で生きてきた私たち。しかし、家事と育児をこなしながら仕事を両立するのは想像以上に過酷だった。今までは夫と私の収入で生活していたが、今後は自分一人の給料と遺族年金で家計を回す必要がある。その上、よしの将来のために学費も貯めておかないといけない。生活費以外のお金はできる限り使わないよう心がけた。正直、自分のことは後回し。とにかくよしに苦労をかけたくない一心で、私は毎日必死で過ごしていった。
それから五年ほど経ったある日。
『俺、大きくなったらお医者さんになるから。』
小学校の卒業を控えて、よしがそう言った。意外な言葉に耳を疑う。よしが医師を目指しているなんて初めて知った。
『よしの将来の夢ってお医者さんなの?』
そう問いかけると、彼は歯を見せて笑う。
『この前、卒業文集を書いたんだ。俺はいつかお医者さんになってお母さんを楽にしてあげるって。だから安心してね。俺、お母さんに必ず恩返しするから。』
『ありがとう。でもよし、お母さんのことは気にしないで。恩返しなんてしなくていいの。よしにはただ自分のことだけ考えて欲しいの。』
よしの気持ちはもちろん嬉しい。母親思いの優しい子だからこそ、彼は私を支えたいと思ってくれている。だが、よしに負担をかけたくはない。私はただよしが健やかに成長してくれたら十分。それが一番の恩返しだから。私は彼の頭を撫でながら伝えた。しかし、よしはぶんぶんと首を横に振る。
『お母さんは俺のためにすごく頑張ってくれている。俺だってお母さんのために頑張りたいんだ。今はまだ何もできないけど、大人になったら絶対に恩返しする。』
『よし、ありがとうね。でもお医者さんになるならいっぱい勉強しないといけないわよ。』
『もちろん。これからは学校でもいっぱい勉強するし、宿題だってちゃんと頑張るよ。だから見てて。俺、絶対にお医者さんになるから。』
そう宣言した彼の意思は固く、よしは言葉通り一生懸命勉強に励むようになった。成長するにつれて自然と勉強時間も長くなり、毎日夜遅くまで机に向かっていった。彼が高校に入学した頃、私は塾や家庭教師を提案した。だが、よしは私に負担をかけたくないのだろう。
『大丈夫。家で勉強するから気にしないで。』
彼は塾には通わず家庭学習を続けた。その努力が身を結び、よしはとうとう名門大学に見事現役で合格する。
『母さん、俺の番号あった。合格したよ。』
『よし、おめでとう。よく頑張ったわね。』
満面の笑みで報告する彼を見て、自然と目頭が熱くなった。その後、奨学金を借りて入学したよしは無事に大学を卒業。現在彼は二十七歳になり、地元で一番大きい総合病院で医師として働いている。
『母さん、ちゃんとご飯食べてるの? 仕事無理しないでね。』
就職を機に実家を出て一人暮らしを始めたものの、今も定期的に顔を出してくれるよし。
『母さんは昔から頑張り屋だから心配だ。困った時は頼ってくれよ。家を出たとはいえ、近くに住んでいるんだし。』
『よしこそ体には気をつけてね。毎日忙しいでしょ。それなのに気にかけてくれてありがとう。』
『当然だろ。俺にとって母さんは唯一の家族なんだから。育ててもらった分、これから恩返ししていくよ。』
そう言って微笑む彼に、私まで頬が緩む。よしの顔を見るだけで疲れなど瞬時に吹き飛んだ。きっと天国の夫も、医師となったよしを誇らしく思っていることだろう。私はこの平穏な日々がずっと続くものだと信じていた。
ただ、ある時を境に徐々によしの態度が変化していく。彼から連絡が来ることが突然減ったのだ。今までは特に用事がなくとも月に二、三回は電話をくれていた。『母さん、最近どう? 変わりない?』お互いの近況を伝え、世間話をするだけの他愛ないやり取りだ。それでも私にとっては、よしの元気な声を聞くことができる大切な時間だった。しかしここ最近は電話もなく、メッセージを送っても毎回既読無視。以前は実家に顔を出してくれていたというのに、それも目に見えて減った。最後によしと話したのは三ヶ月前。私は彼に何かあったのではないかと心配になり、度々電話をかけていった。するとある日、ようやくよしと繋がる。
『もしもし。どうしたの?』
電話の向こうの彼は、やけに落ち着いていた。私の心配はどうやら杞憂だったようだ。そう思うものの、不安のあまり口が動く。
『どうしたのって。こっちは連絡がないから心配していたのよ。何度電話しても出ないし、メッセージの返信もないから。』
『ごめん。仕事が激務で、母さんと電話する暇がなかったんだ。』
『本当にお仕事が忙しくなっただけなの? 体調が悪いとかではないわよね。』
よしは母親思いがゆえに迷惑をかけないよう、私の前では強がる癖がある。そんな彼のことを誰よりも知っているからこそ気がかりだった。ただ、よしは呆れたようにため息をつく。
『大丈夫だよ。俺は元気だから。』
『そう。それなら安心したわ。』
『もういい。俺、忙しいから。これ以上電話してる時間なんてないんだけど。』
冷たい態度に驚くも、実際よしは激務だ。私と世間話などしている暇はないだろう。
『ごめん。また何かあったら連絡して。あと心配だから、時々でもメッセージを返してくれたら嬉しいわ。』
『分かった。』
そう言うとすぐさま電話を切ったよし。私はスマホの画面を見つめたまま立ち尽くすことしかできなかった。よしは医師だ。きっと毎日手術や夜間の当直で激務だろう。それなのに今までは私のことを気にかけ、忙しい合間を縫って連絡をくれていたのだ。私は優しいよしに甘えていたのかもしれない。メッセージや電話をすればするほど、彼の貴重な休息時間を奪うことになる。私は申し訳なさを覚え、しばらくは余計な連絡を控えると決めた。
だが、そんな日々が続いて三ヶ月ほど経った頃、あまりにも音沙汰のないよしのことが心配になり、私は一通だけ短いメッセージを送った。
『ご飯はちゃんと食べている? 無理だけはしないでね。』
正直既読無視されると思っていたが、意外にもよしは返信をくれた。ただ、通知が来てほっとしたのも束の間。画面を見て目を疑う。そこには予想にしない一文が綴られていたのだ。
『食べているから気にしないで。彼女も支えてくれているし。』
なんと私が知らない間によしには恋人ができていた。彼も二十七歳だし、彼女ができてもなんらおかしいことではない。むしろ母親として喜ばしい知らせだった。
『彼女ができたのね。おめでとう。どんな人なの?』
よしが私とやり取りする暇などないくらいに忙しいことは分かっているが、どんな女性と付き合っているのかはやはり気になる。私は迷いながらも彼女について尋ねた。すると、あっさりした文章が送られてくる。
『普通の人だよ。母さんに伝えるほどの特徴はないと思う。』
よしが選んだ女性ならきっと素敵な人なんでしょうね。
『二人はどこで出会ったの?』
『職場かな?』
自分の彼女について問われているにもかかわらず、よしはまるで他人事かのように説明する。そのメッセージの文面に違和感を覚えた。かつて学生時代に恋人ができた時、よしは満面の笑みで報告してくれた。それなのに、なぜ今回はこんなにも淡々としているのか。壁を感じるものの、大人になった今、親に恋人のことを話すのは照れ臭いのかもしれない。私は複雑な思いを抱えながらもよしを心から祝福した。
『彼女さんと仲良くね。いつか私もお会いできたら嬉しいわ。』
そう送信したが、彼からの返信はまたしても途絶える。結局既読無視で、スタンプが送られてくることすらなかった。
それから三ヶ月後、迎えたよしの誕生日。私は一言だけでもお祝いがしたくて彼に電話をかけた。すると、電話口から女性の声が聞こえてくる。
『もしもし。よしに何の用ですか?』
『私はよしの母でして、あなたはどちら様でしょうか?』
彼女はよしの名を口にしたため、間違い電話ではないだろう。恐る恐る尋ねると、女性は声を明るくした。
『初めまして。私はよしの彼女のさおりと言います。』
『あなたがよしの彼女の…。』
さおりは今よしの自宅にいるらしい。きっと彼の誕生日をお祝いするために来ているのだろう。
『いつもよしがお世話になっております。よしは今近くにいますか?』
さおりが代わりに出たということは、よしは手が離せない状況なのかもしれない。念のため確認して、後ほど時間を置いて電話をかけようと思っていた。ただ、さおりの口調はどこか冷たい。
『よしは忙しいから、お母様の電話には出られないんです。だから私が要件をお伝えしておきますよ。』
『ありがとう。でも私の口から言いたいの。ほら、今日はよしの誕生日でしょ。だからおめでとうって。』
『そんなことのために電話をかけてきたんですか? メッセージで済ませばいいのに。』
突き放すような物言いに戸惑ってしまう。なぜかさおりに電話を代わってもらいたくなかった。
『よしはそんな電話をする時間はないんですよ。ですから、お祝いの言葉はまた後で送っておいてください。』
そう言って通話を終了しようとする。しかし、このまま切られるわけにはいかない。
『ちょっと待って。最近よしと連絡が取れなくて心配なの。だから一言だけでもいいから会話がしたくって。』
慌てて食い下がると、さおりが語気を強める。
『ですから、よしは忙しいと言っているのが分かりませんか? お母様ってわがままな方なんですね。』
『ごめんなさい。けど、よしがこんなにも連絡をくれないことなんて今までなかったの。ここ半年、メッセージも既読無視ばかりで。だからよしが体を壊していないか不安なの。』
よしは頑張り屋だからこそ、どれだけ忙しくとも仕事に励むだろう。そんな彼の性格を知っているがゆえに気がかりだった。元気な声が聞けたらそれで十分。
『お願い、さおりさん。よしに変わってくれないかしら。』
ただ、心配が先走り、私の口調が少し強くなってしまったのかもしれない。さおりがより一層冷たい態度を取る。
『お母様って失礼ですね。医師であるよしが自分の体調管理をできていないと思っているんですか? いや、そういうわけでは…。そもそもうちの病院は医師や看護師スタッフを大切にしているんです。だからよしが体調を壊すことはありません。』
声を荒げた彼女の言葉に引っかかる。以前、よしがさおりとは職場で出会ったと言っていた。それ故、同僚だと思っていたものの、今の言い方はまるで病院の責任者のような口ぶりだった。
『ごめんなさい。“うちの病院”ってどういうことかしら?』
『あれ、よしから聞いてないんですか? 私、よしが務める病院の院長の娘なんです。』
『そうだったの?』
さおりの答えに息を飲む。まさかよしの彼女が大病院の院長令嬢だなんて考えもしなかったのだ。現在さおりは病院の人事部で働いており、仕事で関わるうちによしと距離を縮め、交際に発展したという。
『うちの病院は医師に無理をさせたりはしませんから、よしも元気です。そう説明すれば、お母様も安心しますか?』
苛立ちをあらわにするさおりに申し訳なさを感じる。動揺しながらも、私はすぐさま謝罪の言葉を口にした。
『ごめんなさい。病院を信頼していないわけではないの。まさかさおりさんが院長さんの娘だとは思わなくて。よしが失礼なことしていないかしら。』
分不相応な相手ではないかと不安になるが、そんな私に対してさらに声を荒げるさおり。
『お母さんを盾によしを貶すのはやめてください。彼はお母様と違って立派なんですから。』
『違うの。そういう意味じゃなくて。』
『いくら親子とはいえ、お母様とよしはもう住んでいる世界が違うんです。よしは大病院の医師ですが、お母様は小さなクリニックの事務ですよね。』
彼女のトゲトゲしい態度に驚き、絶句する。どうやらさおりは私を見下しているようだった。
『もしかして、よしを利用すればうちの病院に入り込めると思っているんですか? そりゃ今のクリニックよりうちの病院で働いた方が収入も増えますもんね。』
『何を言っているの? 私はさおりさんたちの病院で働きたいわけじゃないわ。あくまでもよしのことが気になっただけで。さおりさんがそばにいるなら安心よね。』
『当たり前でしょ。だからもうしつこく電話してこないでください。よしも困っていましたよ。母親が過保護で困っているって。』
『え、よしが…。』
ショックで言葉が出てこない。よしが私の言動に不満を覚えているなんて予想外だった。戸惑う私のことなど気にも止めず、さおりは話し続ける。
『よしは優しいから直接言わないだけで、お母様からの連絡にうんざりしているんです。だからもう彼に付きまとわないでくれますか?』
『本当によしがそんなことを思っているの? 一人暮らしを始めてからも定期的に顔を出してくれていたのに。』
『お母様が連絡するから、仕方なく会いに行っていただけですよ。息子が玉の輿に乗ったと知って喜んでるんでしょうが。よしと結婚しても、私はお母様のこと家族だとは思いませんから。』
彼女はそうきっぱりと告げた。誤解を解くべく、すぐに否定する。
『よしが幸せなら、相手がどんな人かは関係ない。私はさおりさんが院長の娘だからと言って玉の輿狙いだなんて考えていないわ。だからこれからは仲良くしてくれると嬉しいのだけど。』
『そうやって私たち家族に近寄るのはやめてください。私はよしが好きなだけで、お母様には一切興味ありませんから。こんな自分勝手な女性が母親だなんて、よしがかわいそう。』
どれだけ反論しても、さおりは聞く耳を持たない。よしの彼女がこんなにも冷たい女性だったなんて。あまりのショックに頭を抱える。今すぐにでもよしにさおりの本性を伝えたかった。彼ならきっと考え直してくれるに違いない。そう思うものの、とっくに成人しているよしのこういう関係に、母親である私が首を突っ込むのはいかがなものか。彼だって色々と考えた上でさおりと交際したに決まっている。今まで彼女のことを知らなかった私が余計な口を挟むわけにはいかない。そもそも私が今感情的になってしまえば、それこそさおりの思う壺だ。彼女だけでなく、よしとの関係まで悪化する可能性がある。私は乱れた呼吸を整え、冷静さを取り戻した。
『さおりさんの気持ちは理解したわ。私のせいで不安にさせてごめんなさい。でも私はあなたやよしのことを利用する気はないの。それだけは分かってくれる?』
『信じられません。お母様のことはよしからよく聞いているので。とにかく二度と連絡してこないでください。』
『そう言われても、私はよしの母親で…。』
『母親だからこそ、よしの気持ちを大切にすべきでしょう。お母様はよしのキャリアを邪魔したいんですか? もうそろそろ切りますね。それじゃあ。』
まだ伝えたいことはあったのだが、さおりは一方的に電話を切ってしまう。私はスマホを握りしめたまま、近くにあったソファーに座り込んだ。ひとまずよしは体調を崩したわけではない。その事実を確認できたのだから、今回は良しとしようと思い込んだ。とはいえ、このままよしと疎遠になるのだけは避けたい。後日、私は気持ちを整理した上で改めてよしに電話をかけた。またさおりが出るのではないかと怯えたが、幸い聞こえてきたのはよしの声。
『もしもし。』
『ごめんね。何度も電話して。』
私は先日さおりと会話したことを彼に伝え、その上で一度彼女と直接会いたいと願った。
『さおりさんは私のこと誤解していると思うの。それによしについて気になることを話していたから、事実かどうか確認したくって。』
『何のことか分からないけれど、会う必要はないよ。俺もさおりも忙しいから、まず時間が作れないし。』
覇気のない声でそっけなく答えるよし。さおりに嫌味を言われたことは伏せたのだが、そのせいで彼は事態を軽く見ているのかもしれない。私はよしを説得するべく、先日のさおりの言動について触れた。
『さおりさんね、私がよしを利用すると思っているみたいなの。あなたを出しにしてさおりさんたち家族にすり寄るんじゃないかって。』
『さおりがそんなことを言ってたんだ。』
『過去に似たような経験をしているのかもしれない。だけど私はそんなつもりではないってこと、証明したくて。』
ただ、どれだけ説明しても彼は適当にうなずくだけ。
『さおりはそういう人なんだ。だからもう彼女のことは気にしないでくれ。』
『気にしないでって。よしは私がさおりさんに誤解されたままでもいいってこと?』
『仕方ないよ。少なくとも直接会ったところで、さおりが態度を変えるとは思えない。もういい。これ以上何を言われても、俺にできることはないから。』
『ちょっと、よし!』
私の言葉を遮って、よしが電話を切る。通話終了後、しばらくの間放心状態だった。よしまでが私に冷たい態度を取るなんて、思っても見なかったのだ。院長令嬢であるさおりと交際を始めて、彼は変わってしまったのか。私は目の前が真っ暗になった。しかし、よしがかつて母親思いの優しい子だったのは事実だ。きっと話し合えば昔の彼に戻るはず。私はその後も何度かメッセージを送り、さおりに会いたいとよしに伝えていた。ただ、音沙汰がないまま三ヶ月という月日が流れる。
そんなある日、私のスマホに懐かしい人物から電話がかかってきた。
『もしもし。なおこさん、元気にしている?』
『ひろえさん、お久しぶりね。』
彼女は豊原ひろえ。私が以前働いていた病院の元同僚だ。五年前に転職した彼女は、現在偶然にもよしが務める総合病院に勤務している。ひろえと会話をするのはおよそ三年ぶりだった。
『それで今日は一体どうしたの? ひろえさんがわざわざ連絡をくれるなんて。』
『だってお祝いしたかったんだもん。よし君、さおりさんと結婚するんでしょ。おめでとう。』
『え?』
彼女の衝撃的な発言に、私は言葉を失った。頭の中が一瞬で真っ白になる。確かによしはさおりと交際しているが、結婚の話は何も聞いていない。
『ひろえさん、勘違いしているんじゃないかしら。よしたちはまだ結婚しないわよ。』
『え、そんなはずないでしょ。院長が話していたのよ。よし君が婿養子になるって。結婚式の会場もすでに決めたとか。』
『嘘でしょ…。』
ひろえの話によると、義両親である院長夫妻は二人の結婚を望んでいるのだそう。すでに院内はよしの結婚の話題で持ち切りとなり、知らない人はいないらしい。
『院長令嬢のさおりさんとよし君が結婚するって聞いてびっくりしたの。なおこさんもてっきり知っているものだと思っていたわ。』
私の反応を受け、ひろえが戸惑い始める。彼女が嘘をついているとは思えない。すなわち、よしは母親である私に相談も報告もしないまま、結婚の話を勝手に進めていたということだ。
『ひろえさん、教えてくれてありがとう。私はよしが結婚すること、今まで知らなかったの。』
『そんな…。よし君はなおこさんに何も言っていないの?』
『結婚の報告どころか、よしとはこの三ヶ月まともに連絡も取れなくて。』
驚くひろえに、私はここ半年の状況を説明した。次第に彼女の声が曇っていく。
『なおこさんとよし君って、とても仲が良かったわよね。それなのにどうして…。』
『分からないけど、心当たりはあるわ。私、さおりさんに嫌われているから、結婚を反対されると思ったのかもしれない。以前さおりに散々嫌味を言われたの。彼女が私に会いたくないからと、結婚を報告するのを渋った可能性があるわ。』
そう伝えた途端、ひろえがため息をつく。
『あまり言いたくないけれど、実はさおりさんって院内での評判が良くないの。少々面倒な人で。』
『そうだったの。』
彼女の話によれば、さおりは家柄や学歴、役職で人を判断するタイプらしい。傲慢な態度でスタッフを見下すことも多く、周囲から煙たがられているのだそう。
『私も強く当たられたことがあって。だけどよし君と付き合ったと聞いて、さおりさんも改心したと思ったの。だってよし君は優しくって素敵な子でしょ。』
かつて同僚だった頃、私はよしを連れてひろえと食事に行ったことがある。彼女にも子供がいるため、当時私たちは家族ぐるみで仲が良かった。それゆえ、親戚のようによしを可愛がってくれていたひろえ。
『よし君は医師になってからもすごく優秀で、同僚や患者さんからとても慕われているわ。だから彼とさおりさんが結婚するって聞いて、正直ちょっと意外だった。さおりさんはよしにはいい顔をするのかもしれないわね。』
二人の交際に反対する気はなかった。だけど、私に黙って結婚するのは違う。
『改めてよし君とちゃんと話した方がいいわ。私、病院で声をかけてみようか?』
メッセージを送っても既読無視されると聞いて心配したのか、ひろえは私のために力になろうとしてくれた。その優しさは嬉しいが、彼女に甘えるわけにはいかない。今回のことは私とよしで解決すべき問題だ。
『ありがとう。でも大丈夫。よしと直接会って、一度聞いてみるから。』
『分かった。でもいつでも声をかけてね。私に力になれることがあれば、何だってするわ。』
ひろえとの電話を終えた後、私はしばらくの間ぼんやりしていた。まだ事実を受け入れられない自分がいたのだ。息子の結婚だというのに、母親である私が蚊帳の外に置かれるなんて。よしがそんなことをするとは思えず、正直半信半疑だった。
その後、私は何度かよしに電話をかけ、メッセージも送信した。
『聞きたいことがあるの。少し会えないかしら。電話でもいいから返事ください。』
しかし、よしは一向に電話に出ず返事もない。今までは忙しい彼に気を使っていたが、今回はさすがに我慢の限界だ。痺れを切らした私は、よしが一人暮らしをしているマンションを直接訪問した。意を決してインターホンを押すと、気乗りしないような声が聞こえてくる。
『母さん、何の用? いきなり来られても困るんだけど。』
『突然来てごめん。よしが一切連絡をくれなかったから。さおりさんと結婚するって本当なの?』
そう問いかけた瞬間、よしが黙り込む。
『大事な話だから、ドアを開けてちゃんと顔を見せてちょうだい。』
『分かったよ。』
彼はしぶしぶながらも玄関のドアを開けてくれた。ただ、顔を出した途端、よしはあさに目をそらす。
『よし。さおりさんとの結婚のこと、なんで私に言ってくれなかったの? 病院内で噂になってるみたいね。』
語気を強めるも、彼は未だに視線を合わせない。
『俺はもう大人だ。母さんの許可をもらわずとも結婚ができる。わざわざ伝える必要がないと思っただけだよ。』
『だけど、さおりさんのご両親には結婚のこと伝えているんでしょ?』
『さおりの父親はうちの院長だから、黙っておくわけにはいかなかっただけだ。勘違いしないでほしい。』
一向に態度を変えないよしに不満が募る。義両親には挨拶しておいて、私だけ無視するなんてありえない。息子に存在を無視されたら、誰だって怒るはずだ。
『よしは私のこと、どうでもいいと思っているの? それともさおりさんから“母親には黙ってて”とでも言われた?』
厳しい口調で尋ねると、よしが顔を歪める。
『そうじゃない。俺が報告したくなかっただけだ。』
『どうして報告したくなかったのよ。ちゃんと理由を説明してほしい。私だって二人の結婚、ちゃんと祝福したいから。』
『祝福しなくていいよ。母さんがどんな考えであれ、俺はさおりと結婚する。もういい。今日はせっかくの休みだからゆっくりしたいんだけど。』
彼は話を切り上げ、ドアを閉めようとした。慌ててドアの端を握りしめる。
『もしかして、私に結婚を反対されるとでも思ったの? だから伝えたくなかったのよね。でも私はよしが幸せなら、誰が相手であろうと賛成するのに。』
『賛成してるならもういいじゃん。俺がわざわざ報告しなくとも、結局母さんだって結婚のこと知ったわけだし。』
『私はよしから聞きたかったの。あなたは私とお父さんの大切な一人息子だから。』
本心を打ち明けると同時に、目頭が熱くなった。今までよしが私に対してこんなにも冷たい態度を取ったことはない。私は知らない間に彼を傷つけ、怒らせてしまったのだろうか。それならば理由を話して欲しかった。
『もしかして、お母さんが恥ずかしかった? さおりさんのご家庭と比べたら、うちは普通の家庭だものね。』
『それは…。』
先日さおりに言われた嫌味を思い出す。彼女に影響されて、よしも私を見下しているのかもしれない。
『家計が苦しいせいで、よしにも散々苦労をかけたわ。ごめんなさい。さおりさんが私を軽蔑するのも理解できる。』
思わずそう言うと、立ちまちよしが声を荒げた。
『そんなこと言わないでくれ!』
『よし、いきなりどうしたの?』
先ほどまで覚めた目でこちらを見ていた彼は、気づけば今にも泣きそうな顔をしていた。驚く私に向かって、ゆっくりと口を開く。
『違うんだ。俺は母さんを恥ずかしいだなんて思ったことはなくて。』
『よし…。』
『さおりの家と比べたこともない。母さんは一生懸命俺を育ててくれた。』
苦しげな表情を浮かべるよしに違和感を覚える。彼はどうしてこんなにも追い詰められているのだろうか。そんなことを考えていると、よしが私をまっすぐ見つめる。
『俺、本当は…。』
彼が何かを言いかけたその時。
『よし、この女性は誰?』
背後から足音が聞こえ、突然声をかけられる。振り返ると、そこにいたのは華やかな女性だった。彼女はブランドものの服を身にまとい、美しい黒髪をなびかせている。思わず見惚れるほど美人な女性だった。ただ、彼女は私に冷ややかな視線を送る。
『ひょっとして、よしのお母様ですか?』
『あなたがさおりさんね。よしと結婚するって本当?』
私は聞き覚えのある声と、よしに対する態度を見て、彼女こそさおりだと気づいた。直接会いたいと願っていたが、まさかこのタイミングで鉢合わせするなんて。
『よしだけでなく、さおりさんとも話したいと思っていたの。よければ少しだけ時間をもらえないかしら。』
そう問いかけたものの、さおりは耳を貸さない。私の横をすり抜け、そのままよしの自宅に入っていく。
『ちょっと、さおりさん!』
『よし、お母様とはもう関わらないでって言ったよね。』
呼び止める私に見向きもせず、さおりは険しい顔でよしを睨みつけた。
『なんでよしの自宅にお母様が来ているの? もしかしてよしが呼んだんじゃないわよね。』
『俺は何も言っていない。ただ母さんが急に家に来たんだ。マンション前で騒がれて近所迷惑にでもなったら困る。だからひとまず対応していたんだ。』
『だとしても無視しなさいよ。こうやって対応するから、お母様も調子に乗るんだからね。』
立腹したように彼に詰め寄るさおり。よしは肩を落とし、私に視線を向けた。
『さおりの言う通りだ。母さん、もう家に来るのはやめてくれ。あと俺たちとは今後一切関わらないで欲しい。連絡が来ても無視するから。』
『何を言っているの? 関わらないって。』
『言葉通りの意味だよ。俺はさおりと家族になるんだ。だからもう母さんと家族である必要がない。俺の幸せを願うなら、余計なことはしないでくれ。』
『お母様、よしのためなんです。分かってくれますよね。』
不敵な笑みを浮かべ、さおりはそのまま自宅に入っていった。よしは再度ドアに手をかける。
『よし、本当にそれがあなたの本心なの? 私は今でもよしのことが大切で…。』
『近隣住民の迷惑になるから帰ってくれ。』
必死に思いを伝えるも、彼には届かない。よしは玄関のドアを閉めてしまった。静まり返ったマンションの廊下に一人立ち尽くす。今すぐドアを叩いてよしの名前を呼びたいが、そんなことをすれば通報されるだろう。絶望のあまり、私は全身から力が抜けた。ただ、気になるのはよしの表情。ドアが閉まる直前、ほんの一瞬彼は顔を歪ませていた。そして瞳を潤ませながら、何かを訴えようとしていた気がしたのだ。よしは自分の意思でなく、何らかの理由で私を突き離しているのかもしれない。胸騒ぎを覚え、彼の本心を改めて確かめると決めた。
それからの半年間、私は定期的にひろえと連絡を取り、よしの状況を教えてもらった。
『会場も決まって、同僚の方々はみんな招待をもらっているみたいよ。なおこさんは?』
『私は何も言われていないわ。あの日から音信不通よ。よしに何度電話をかけても出てくれなくて。』
彼女の話によれば、同僚らは二人の結婚を祝福しているという。有名なホテルの会場で披露宴が行われるらしい。具体的な日程もひろえが教えてくれた。
『このままよし君はなおこさんに何も言わない気なのかしら。一体彼は何を考えているの?』
語気を強め、私以上に怒る彼女の存在に救われる。ひろえがいなければ、この悩みを吐き出す相手すらいなかった。彼女に感謝しつつ、よしに対して一層不安になる。
『よしなりに何か理由があるんだと思う。以前会った時の様子が今でも気になって。』
『もう一度よし君とゆっくり話せる機会があるといいんだけどね。』
『ずっと無視をされているから、もう難しいのかもしれない。』
電話を切った後、一人ソファーで項垂れた。かつてよしから恋人ができたと聞かされた時は本当に嬉しかった。彼が幸せになれるなら、どんな相手でもいい。そう思っていたが、まさかさおりとの交際後、ここまで距離を置かれることになるなんて。もう二度とよしには会えないのだろうか。せめて叶うのならば、直接お祝いだけでも手渡したい。よしが結婚した時、式の費用の足しになればと貯めてきたお金がある。縁を切ることになったとしても、私の気持ちだけでも彼に伝えたい。母親として最後によしの力になりたいと思った。
そこで私は一縷の望みを託して彼に電話をかけた。ただ、案の定繋がる気配はない。それでも諦めず、何日も粘り強くかけ続ける。すると、その一週間後。
『母さん、しつこいよ。何の用?』
よしととうとう電話が繋がる。彼は私を警戒しているのか、声に棘があった。
『俺はもう関わらないでって言ったよね。それなのに何度も電話をかけるなんて。』
『よしは私の番号、着信拒否にしていなかったのね。ありがとう。』
『設定し忘れてただけだよ。それで何?』
『さおりさんと結婚式をあげるんでしょ? おめでとう。私、あなたに渡したいものがあるの。一度会えないかしら。』
私はできれば結婚式にも参列したいと伝えた。
『あなたの家族として、よしの日に立ち合いたい。』
震える声で思いを伝える。よしならきっと分かってくれると思っていた。しかし、彼は電話の向こうでため息をつく。
『悪いけど、だめだ。結婚式には来ないで。』
『どうして? 私はよしの母親よ。あなたのこと心から祝福して…。』
『だから無理だってば。すでに参列者は決まっている。今から母さんの席を用意するのは難しい。諦めてくれないか?』
淡々とした口調で私を拒絶するよし。彼は私を義両親である院長夫妻にも合わせたくないという。
『お相手はあの大病院の院長だ。母さんとは住んでいる世界が違うんだよ。』
『やめて。なんでよしまでさおりさんみたいなことを言うの? 私はよしの母親として、一度挨拶をしたいだけ。両家顔合わせもしないまま結婚式をするなんておかしいわ。一般常識として、私は会いたいと伝えたまでよ。』
それでもよしは考えを変えない。
『向こうの家族に母さんを知られたくない。だからもう電話してこないで。今後は出ないから。』
『よし、何か理由があるんでしょ? さおりさんに何か言われた? それともさおりさんのご両親が?』
『違う。彼女のご両親は関係ない。』
さおりの両親について触れた途端、彼は声を張り上げる。驚きのあまり、私は言葉が出てこなかった。
『とにかくこれで要件は終わり。切るね。』
『待って、よし!』
慌てて引き止めるも、よしは即座に通話を終了する。先ほど彼は確かに動揺していた。その様子からしてもしかしたらさおりの両親がよしに何かを吹き込んだのかもしれない。ただ、証拠はないし、彼が本心から私を拒んでいる可能性もある。このまま親不幸な息子だと割り切って絶縁するのは簡単だろう。ひろえだって今の会話を知れば、もうよし君との関係の修復は諦めた方がいいと言うはずだ。しかし、私は未だにマンションの玄関先で見たよしの顔が忘れられなかった。確証はないものの、さおりとの結婚はやめた方がいい気がする。私は母親としての直感を信じ、二人の結婚式の会場に乗り込むと決めた。
それから一ヶ月後、迎えたよしの結婚式当日。私は一人でこっそり会場へと向かった。今回のことを知っているのは、事前に相談したひろえだけ。
『よしはさおりさんの両親に何か言われたに違いない。それを確認するために結婚式に行こうと思う。』
そう伝えた途端、彼女は心配して私を止めた。
『なおこさんの気持ちも分かるけど、式に乗り込んで大丈夫? 相手は院長よ。あの手でなおこさんを追い出しかねないわ。』
『確かに会場に入れるかどうかも怪しいわね。けど、このままさおりさんと結婚させるわけにはいかないの。』
『私も行こうか? 招待されていないけど、私だってよし君の同僚みたいなものだし。』
ひろえは自分なりに協力したいと考えたのだろう。その気持ちは嬉しいものの、院長は彼女にとって上司だ。
『ひろえさんを巻き込むわけにはいかないわ。そんなことをしたら、あなたが院長や職員から白い目を向けられるかもしれない。私一人で大丈夫よ。ただ、会場に乗り込むこと、病院の人には言わないでね。』
『もちろん。でも何かあったら連絡ちょうだい。私もすぐ会場に行くから。』
『ひろえさん、本当にありがとう。あなたには心から感謝しているわ。』
ひろえの心強い言葉に背中を押され、私は覚悟を決めた。そして当日、到着したのは高級ホテル。大病院の院長令嬢の結婚式とだけあって、披露宴の会場は格式高く、中に入るのをためらうほどの場所だった。早めに着いたので、私はひとまず入り口から距離を置き、やってくる参列者を観察することにした。ひろえから聞いた開始時間まではあと二時間半ほどある。おそらくそろそろさおりの両親らが来る頃だろう。そんなことを思っていると、突然背後から声をかけられた。
『あの、すみません。』
振り返った先にいたのは、私と同年代くらいの女性。彼女はまっすぐこちらを見つめていた。
『えっと、どちら様でしょうか?』
戸惑いながらも返答した私に、女性は丁寧にお辞儀をする。
『初めまして。私は中島美紀と申します。』
『はあ…。』
名前を聞いても心当たりはない。ただ、困惑する私に構わず、美紀という女性は自己紹介を続ける。彼女は今からこのホテルで行われる結婚式に参列するらしい。黒留袖を着用しているため、おそらく新郎の親族だろう。正直言って、今は彼女の相手をしている場合ではない。
『すみませんが、私に何の用でしょうか? 今から予定があるため急いでいるのですが。』
そう問いかけた途端、彼女は真剣な顔をする。
『あなたがなおこさんでお間違いないですよね。お話ししたいことがあるんです。』
『ごめんなさい。以前お会いしたことがありましたか? あ、もしかして…。』
会った覚えはないが、私を知っているのならば美紀はうちのクリニックの患者の可能性がある。そこで勤務先の名前を口にするも、美紀は大きく首を横に振った。
『いえ、私がなおこさんとお会いするのは今日が初めてです。ただ、よしから聞いておりまして。』
『よしのお知り合いなんですね。』
彼女はよしの同僚なのだろうか。一瞬、美紀も彼の結婚式に参列するのかと思ったが、だとすると格好がおかしい。ただの参列者が黒留袖を着るはずがないのだ。それに、美紀がよしを呼び捨てにしたことも引っかかる。
『美紀さんはよしとはどういったご関係ですか?』
恐る恐る訪ねると、彼女は小さくお辞儀をして答えた。
『私は…よしの実の母です。』
『え?』
状況が飲み込めず、声が震える。よしは私の息子だ。当然、美紀の子供ではない。彼女は一体何を言っているのか。
『冗談はやめてください。よしは私の息子ですよ。どうして赤の他人があの子の実の母親を名乗るんですか?』
『驚かれる気持ちも分かります。ですが、私は冗談を言ったわけではありません。あくまでも事実を伝えたまでです。』
『美紀さんが何を考えているのか分かりません。ひょっとして、さおりさんと関係が何かあるんですか?』
もしかしたら美紀はさおりの協力者かもしれない。私がここに来ることを見越して、彼女らは追い出そうと画策している可能性がある。動揺のあまり、自然と声が大きくなった。そんな私に向かって、美紀は静かにするよう告げる。
『落ち着いてください。私はさおりさんの仲間ではありませんから。』
『本当ですか?』
『一旦信じてください。私たちのやり取りをさおりさんのご両親、特に高俊さんに聞かれると厄介です。場所を移しましょう。まだ式まで時間はありますから。』
どう考えても怪しい美紀について行ってもいいのか。『待ってください。私は今からよしの…。』私が伝えるよりも先に、彼女が口を開く。
『結婚式に乗り込むおつもりですね。』
美紀はこちらの計画を全て知っているらしい。何もかも見通されていると気づき、絶句する。逃げ道はないようだった。
『よしの結婚式のことを知っているんですか? 本当に実の親でもそんな…。』
自問自答する私に、美紀が微笑む。
『安心してください。私はなおこさんを止めません。実の親かどうかは、話を聞いてから考えてください。ただ、私はあなたに協力したいんです。今までの罪滅ぼしのために。』
『罪滅ぼしって…。一体美紀さんは何を?』
『とにかく行きましょう。詳しいことは向こうで話しますから。』
彼女の言葉の意味が分からないまま、私は手を引かれてホテルの近くにある喫茶店へと入店した。案内された席からはホテルの入り口がよく見える。席に着いた途端、美紀は静かに目を細めた。
『ここからなら、高俊さんたちが来るところ確認できますね。』
『すみません。先ほどもおっしゃっていましたが、高俊さんって…。』
『よしが務める病院の院長さんですよ。さおりさんのお父様です。』
話を聞くに、彼女はよしの義父である高俊とも関わりがあるようだ。一方、私は結婚についてもさおりの両親に関しても何も聞かされていない。その現状を把握した途端、自分がよしの母親であるという自信がなくなっていく。美紀の方がはるかに彼のことに詳しい気がしたのだ。しかし、美紀は落ち込む私の手をそっと握った。
『なおこさん、今までご挨拶ができなくてごめんなさい。あなたのいるべき場所を奪ってしまって、本当に申し訳ございません。』
『私のいるべき場所って…。あなたこそ、よしの母親なのに。』
言葉を零す彼女の目には涙が浮かんでいた。状況は理解できないものの、美紀とよしの間に何かあったことだけは分かる。そして、その問題に高俊やさおりが絡んでいることも明白だった。
『美紀さん、私にも分かるように説明してくれませんか? 今日の結婚式、あなたがよしの母親として参列するんですよね。』
黒留袖に視線を送ると、美紀が頭を下げる。
『やっぱり分かりますよね。本当にごめんなさい。実は…。』
彼女は涙ながらにこれまでのことを打ち明け始めた。その様子からして、美紀が嘘をついているようには見えない。美紀の話はあまりにも衝撃的で、すぐさま信じるのも難しかった。
『なおこさん、大丈夫ですか?』
『ごめんなさい。ちょっと混乱していて。私が知らない間に、そんなことが起きていたんですか?』
話を聞き終えても、なかなか受け入れることができない。美紀はそんな私に何度も頭を下げる。
『もっと早くなおこさんにお伝えすべきでした。そうすれば、そうすればよしも苦しまずに済んだのに。』
『いいんです。よしが黙っていてほしいと美紀さんに頼んだんでしょ。彼は私を悲しませたくなくって、言いづらかったんでしょうね。』
『よしとの約束を破ってしまいましたが、私は後悔していません。こうしてなおこさんに打ち明けることができてよかった。』
安堵したのか、彼女の表情が柔らかくなる。話を聞いて分かったが、やはりよしは母親思いの優しい子だ。私はほっと胸を撫で下ろすとともに、改めて彼に事実を確認すると決めた。このままよしとさおりを結婚させるわけにはいかない。
『私は今からよしに会いに行きます。そこで美紀さんに聞いた話が本当か確かめますね。』
私は話を聞いた上で、予定通り会場に乗り込むことにした。すると、美紀は私の力になりたいと手を挙げる。
『なおこさん、私も一緒に確認します。先ほどお伝えしたこと、参列者の方々にも話しますし。ですから共に向かいましょう。』
彼女の気持ちは嬉しい。ただ、美紀を巻き込むことに気が引けた。
『美紀さんは決められた時刻に会場に向かい、式に参列してください。式には美紀さんの職場の方もいるんでしょ? 今回のこと、皆さんに話す必要はありません。』
『ですが、私のせいでなおこさんとよしが…。』
責任を感じているのか、美紀は私の力になりたいと話す。私は改めて彼女の提案を断った。
『私が突入するのは披露宴が始まった後。それまでの間、美紀さんには怪しまれないよう、母親として振る舞ってもらいたいんです。』
『怪しまれないようにですか?』
『美紀さんの挙動がおかしいと、院長やさおりさんが違和感を覚えるかもしれません。それだけは避けたいんです。彼らが揃った場でよしに問いかけたいので。』
最初は戸惑っていた美紀だったが、次第に表情を変える。
『分かりました。なおこさんとよしが話せる場になるよう、私がサポートします。』
彼女はまっすぐ私を見つめ、深く頷いた。その上で、合図を出すまでは黙って見守っていて欲しいと美紀に伝える。
『よしの本心を知るためにも、美紀さんが味方だということは隠したいんです。彼はさおりさんのことをどう思っているのか、本気で結婚したいのか確かめたくて。』
『私もよしの気持ちをちゃんと知りたいですから、なおこさんに協力します。今まで辛い思いをさせてしまいましたから。』
『ありがとうございます。ただ、会社の人には私の口から事実を伝えさせていただけませんか? 彼らを巻き込んだので、ちゃんと謝罪したいんです。』
言わなくてもいいと伝えたが、彼女は筋を通したいようだ。
『分かりました。では美紀さんご自身で説明してください。今日、きっちりこれまでのことを清算します。』
彼女は複雑な心境ながらも、私の力になると約束してくれた。どんな経緯であれ、美紀も私と同様によしを大切に思っているのは事実だ。私たちは母親として彼を助けると決めた。
その後、美紀は先に参列者として会場に入り、私は喫茶店でしばらく時間を潰した。そして披露宴が始まって十分ほど経った頃、一人でホテルへと向かう。美紀が話をしてくれていたため、会場に入るまでスタッフに止められることはなかった。呼吸を整え、大広間の扉を開く。
『え、なんで母さんが?』
突然会場に現れた私を見て、よしは目を丸くした。ウエディングドレスで身を包んださおりも、驚きのあまり立ち上がる。参列者は一斉にざわついた。すると、一人の男性が怒声を上げてこちらに駆け寄ってくる。
『おい、何者だ、お前は! 今俺の娘の結婚式をやっているんだぞ。部外者は出ていけ!』
彼が大病院の院長であり、さおりの父親、高俊だった。鋭い目つきで私を睨みつけ、周囲のスタッフに声をかける。
『この女は今すぐ追い出せ。なんで部外者が侵入できるようになっているんだよ。』
『私は部外者ではありません。よしの母親です。息子の結婚式に参列するのは何ら問題ではないと思いますが。』
私は淡々と事実を告げた。その瞬間、高俊はケタケタと笑い出す。
『何を言っているんだ? あんたがよし君の母親だと? すでに彼の母親はここにいる。美紀さんこそがよし君のお母様だ。』
『そうよ。そもそもあなた、式に招待されていないでしょ。息子に呼ばれていない時点で、母親じゃないってことだと思うけど。』
彼の言葉に同調し、さおりもプッと吹き出した。
『よしの家に押しかけるだけでなく、式まで乗り込んでくるなんて。なんて怖い人なの? よしがかわいそうだわ。』
『何だ? よし君の家にまで来ていたのか。怪しいな。今すぐ出てくれ。披露宴の邪魔だ。』
『よしもなんとか言いなさいよ。このまま彼女が式にいてもいいの? 本物のお母様に失礼だと思わない?』
軽蔑したようによしを見つめるさおり。彼は黙り込み、目を泳がせていた。まさかここに来るとは思っていなかったのだろう。それでも、よしは口を開く。
『結婚式には来ないでって言ったよね。俺の母親は彼女なんだから。』
よしは美紀に視線を送り、私に帰るよう促した。しかし、さおりらに同調するも、複雑な表情を浮かべる。
『よしは本気でそう思っているの? 意地でも私は母親じゃないというのね。』
『そうだ。少なくとも俺はあなたを呼んでいない。さおりだけでなく参列者にも迷惑がかかるから、お引き取りください。』
『ほら、よしだってこう言っているんだし、今すぐ帰って。』
彼女は声高に私を攻め立て、追い払おうとする。その様子を見て、高俊が語気を上げた。
『あなたがよし君の母親だと言い張ったところで、彼は否定している。それでも居座るつもりか。』
参列者はひそひそ話しながら、私に白い目を向ける。彼らは私のことを、新郎の母親だと偽って乱入してきた部外者だと思っているのだろう。そんな周囲を無視して、よしを見つめた。
『よし、私のために黙っていてくれたんでしょ。ごめんね。』
『え?』
彼は目を大きく見開き、顔を強張らせる。そして私の言葉を理解したのか、恐る恐る声を上げた。
『もしかして母さんは…知っていたの?』
『知っていたんじゃない。さっき知ったの。よし、私のせいで苦しい思いをさせてごめんね。』
『なんで…。』
よしはすぐさま美紀に視線を移した。だが、私がまだ合図を出していないため、彼女は口を閉ざしたまま。
『私が今日ここに来たのは、よしの気持ちを確認したかったから。よし、あなたは本当にさおりさんが好きで結婚したいと思ったの?』
『それは…。』
『よしは私に結婚のこと何も教えてくれなかったし、さおりさんにも合わせたがらなかった。それって、合わせたくなかった理由があるんでしょ。』
そう問いかけるにつれ、よしの顔が青ざめていく。私が事実を知ったことにショックを受けているようだった。それだけ彼は隠し通したかったのだろう。よしは私を追い出すのをやめ、呆然と立ち尽くす。そんな彼に対して、さおりが苛立ちをあらわにした。
『よし、何ぼーっと突っ立ってるのよ。あの人は母親じゃないでしょ。よしだってそう言ったわよね。せっかくの披露宴でこんな騒ぎが起きるなんて。おい、スタッフ! 今すぐこの女を追い出せ。時間の無駄だ。』
『待ってください。彼女は…。』
『いい加減にしてくれ。よし君の母親は美紀さんだ。あの女は無関係。そうだろ?』
慌てて静止するよしを、高俊が覚めた目で見る。高俊にとって、私は邪魔者のようだ。今すぐにでも視界から消し去りたいのだろう。先ほどよりも語気を強め、スタッフに声をかける。
『早く外に連れて行け。さおりの結婚式を台無しにする気か。』
ただ、私を会場に入れるよう美紀から言われているため、スタッフはうろたえていた。会場内が騒然とする中、よしが頭を抱える。おそらく彼は、私が事実を知った以上、もう全てを打ち明けてもいいのではないかと悩んでいるに違いない。
『よし君、何を考え込む必要があるんだ?』
そう言って、よしに耳打ちする高俊。次の瞬間、よしが固まる。高俊が何かを吹き込んだのだろう。すると、さおりがよしに笑顔を向けた。
『よしも賛成していたでしょう。本物のお母様に結婚式に参列してもらおうって。』
私が実の母親でないことを前提にして、高俊とさおりは話を進める。やはり美紀から聞いた話は事実のようだ。一瞬胸が締めつけられるも、悲しんでいる場合ではない。今、追い詰められて苦しんでいるのはよしなのだから。
『よし君は美紀さんが実の母親ではないと否定するつもりか。美紀さんのためにも、あの女には今すぐ出ていってもらうべきだろう。』
高俊はニヤニヤと笑いながらよしに迫り寄るかと思えば、参列者に向けて声を張り上げた。
『皆様、驚かせてしまい申し訳ございません。よし君のお母様は美紀さんであり、この女ではございませんので。』
参列者は新郎の父である彼の言葉を信じ、またもや私に冷ややかな視線を送る。いつまで場を荒らすのかと呆れているようだ。美紀は私を見つめ、今にも助け舟を出したがっている。しかし、よしの本心を確認できていない。彼が今、私のことをどう思っているのか、ちゃんと聞きたい。私は美紀に向かって首を振り、まだ黙っておくよう目配せをした。それに気づいた高俊が顔を歪める。
『お前、美紀さんと何か話したのか? もしかして美紀さんが余計なことを言ったのでは?』
『余計なこととは何でしょうか?』
『あれだけ黙ってろと言ったのに。』
私の反応を見て確信したのか、彼は恐ろしい形相で美紀を睨みつけた。きっと高俊こそ、よしと美紀を苦しめた張本人に違いない。私は改めてよしに問いかけた。
『院長やさおりさんに言われたこともう気にしなくていいわ。私は全部知っているの。よしはもう自分を犠牲にしなくていいのよ。』
『静かにしろ!』
激しく私に詰め寄る高俊。すると、さおりが今にも泣きそうな顔でこちらに視線を向けた。
『なおこさんはよしにすり寄って、私たち家族に近づくのが狙いですよね。』
『何を言っているの? それは以前否定したでしょ。私はよしを利用したりしないって。』
『嘘をつかないでください。結婚式にわざわざ乗り込んできて、よしの母親を語るなんて。お金を渡したら帰ってくれるんですか?』
『そんなものいらないわ。』
彼女は私を金目当てだと決めつけ、侮辱した。その言葉に乗っかり、高俊も攻め立ててくる。
『よし君から話は聞いている。あなたのせいで彼はずっと苦労をしていたんだろう。まだよし君を苦しめる気か。』
『確かに苦労をかけたことは事実です。けれど、私はよしを苦しめたりなんかしていません。よしは学生時代、うちの家計状況を察してか、物を欲しがることがほとんどなかった。友人らがゲームで遊んでいても、新品の自転車に乗っていても、ただじっと見ていただけ。内心羨ましかったに違いない。』
『よし、欲しいものがあれば言っていいのよ。わがままだなんて思わないから。』
そう伝えたこともあるが、よしは笑顔で断り続けた。
『俺はお母さんがいればそれでいいよ。』
自然と我慢する彼を見て、私は申し訳なさを感じていた。私がもっと稼いでいれば、よしに苦労をかけずに済んだのだ。その負い目があるからこそ、高俊の言葉を完全に否定することはできない。
『私が頼りないせいで、よしはずっと自分の気持ちを我慢していました。それは事実です。けれど、苦しい思いはさせていません。母親として彼に寄り添い続けましたから。今までよしの母として、精一杯彼を支えてきたつもりだ。高俊さんがどう言おうと、その過去は変わらない。』
言葉は発さないが、美紀が私を見つめて静かに頷く。それに気づいて、高俊が目を吊り上げた。
『まだ母親面するつもりか。あなたは今、一人ですよね。夫もいない。だからよし君を手放したくないだけでしょう。』
『違います。私は…。』
『よしに苦労をかけてきたってことは、実際貧乏なんでしょ。そりゃお金目的で会場にも乗り込むよね。よし、本当にこの女を追い出さないつもり?』
『皆様、実は彼女はよし君の育ての親です。だから母親だと名乗っているのでしょう。しかし、彼女は稼ぎが少なく、よし君は貧しい生活を強いられました。』
高俊は参列者を味方につけるべく、私を悪者のように説明する。その言葉を周囲は真剣に聞いていた。
『私たちはよし君の苦労を知っているからこそ、彼女が許せない。そして今、よし君は本当の母親である美紀さんと再会し、良好な関係を築いています。だからこそ、彼はこの女を式に招待しませんでした。』
『よし、自分の口で説明しなさいよ。全部ばらしてもいいの?』
高俊が声を張り上げる中、さおりが小声でよしを脅す。彼女は周りに気づかれていないと思っているのだろう。だが、私は二人のやり取りをしっかり見ていた。
『さおりさん、今よしに何を言ったの?』
すかさず問い詰めようとするが、その時、参列者が声をあげた。彼らは冷ややかな視線を送りながら、私を攻め立てる。
『息子を使って金を得ようとするなんて。』
『新郎だけでなく、美紀さんもかわいそうだわ。』
口々に言う参列者。高俊は勝ち誇ったような表情でよしに話しかけた。
『よし君は、あんなにも寄り添ってくれた美紀さんを捨てるのか。彼女の状況を君はよく知っているだろう。それでもあの女を取るのか。』
立ちまちよしが色を悪くする。先ほど高俊に耳打ちされた時と同じ表情をしていた。あの時も彼はよしを同じような言葉で脅したに違いない。
『俺は美紀さんも母さんも大事だ。』
真っ青な顔でゆっくりと本心を打ち明けようとするよし。彼なりに私を守らねばならないと思ったのだろう。しかし、高俊の怒声がよしの言葉を遮った。
『お前、俺とさおりに恥をかせる気か。わざわざよし君と美紀さんを守るために事情を説明してやったんだぞ。そもそも、この女になぜ会場を伝えたんだ。』
『院長、落ち着いてください。よしが教えてくれたわけじゃありませんから。』
『じゃあ誰が?』
高俊が恐ろしい形相でこちらを見つめる。すると、よしも私に視線を向けた。彼と目があった瞬間、そっと微笑む。
『よし、もう耐える必要ないわ。お母さんがいるから大丈夫よ。どんな事実であれ、私はあなたを息子だと思っているんだから。』
『母さん…。俺…。』
次第によしの瞳が潤んでいく。
『本当はさおりとなんて結婚したくない。母さんを呼べない結婚式なんて、俺は望んでいなかった。』
とうとう彼は自分の思いを正直に吐露した。その瞬間、さおりが声を荒げる。
『よし、なんてこと言うの? 今、私との結婚式の真っ最中なのよ。』
『俺は嫌だった。それをさおりも分かっていたはずだよね。』
『だけど、最終的に納得したのはそっちでしょ。今更望んでいないとか、よく言えたわね。』
彼女は半狂乱になりながらよしに詰め寄った。今にも掴みかかりそうな勢いだったが、辛うじて美紀が止める。私は彼女に目配せをした。
『よし、美紀さんから全部聞いたわ。あなたのことも、院長やさおりさんたちについても。』
『美紀さんからってことは、もしかして…。』
『よし、ごめんね。私が全部話したの。黙っていて欲しかったのかもしれない。だけど、なおこさんにも伝えるべきことだと思って。』
先ほどまで静かに見守っていた美紀が声を上げ、よしに謝罪する。彼女の名前を口に出すことが、美紀と私で決めた合図だった。
『そうか。美紀さんが決めたことなら、いいよ。俺がわがままを言っていたわけだし。』
よしは呆然と彼女を見つめる。そんな彼に、美紀は頭を下げた。
『私はよしの優しさに甘えていた。そのせいであなたとなおこさんを傷つけてしまったわね。ごめんなさい。』
『いや、俺が悪かったんだ。母さんに事実を伝えるべきだって分かってはいたんだよ。でも勇気がなくて、美紀さんにその役目を押し付けてしまった。』
『よし君、待ちなさい! これ以上喋るな。今は結婚式なんだぞ。』
慌てた様子で高俊がよしを止める。隣でさおりは不服そうな顔をしていた。
『私との結婚式で母親のことばかり構うなんて、ひどい。よしは少し気が動転しただけだよね。今ならまだ許してあげる。』
『さおりもこう言っていることだし。よし君、参列者に謝罪しなさい。その上で式を続けよ。』
『どうして何も言わないの? よしってば。』
彼女がいくら問いかけても、よしは見向きもしない。難しい顔で何かを考え込むような素振りを見せるだけ。その様子に苛立ち始める高俊。
『俺やさおりを無視するな。よし君、一体どうしたんだ? 参列者の皆さんが困ってるだろう。』
『だから…。』
彼はよしの腕をつかみ、強引に参列者の方へと向き直らせる。
『わざわざ彼らに聞かせる話ではない。母親との話は式の後にでもすればいいだろう。分かったな。』
参列者の前で事実を明かされるのが嫌なようだ。高俊はまたもや耳打ちして脅しにかかった。しかし、よしは彼を無視して私に目を向ける。
『母さん、本当にごめん。俺、院長に脅されて今回の結婚を決めたんだ。』
その瞬間、高俊が固まった。
『おい、何を言い出すんだ? 俺が脅した? バカ言うな。』
『母さんを結婚式に招待しなかったのも、院長からの指示だ。彼に逆らえなくて。』
『やっぱりそうだったのね。』
『お前は一体何を考えているんだ?』
彼はだらだらと謝罪するよしに激怒する。参列者は状況を飲み込めないのか、一気に騒然とした。
『よし、頭を冷やしたらどう? わざわざこんな場でする話じゃないでしょ。お父さんの言う通り、せめて式が終わってから話そうよ。』
上擦った声でさおりがよしに視線を送る。おそらく高俊を庇うためだろう。しかし、よしは首を横に振った。
『だめだ。今回のこと、母さんだけでなく参列者の皆さんにもきちんと伝えなくちゃいけない。式の後じゃないんだよ。』
『いい加減にして。私は新郎の父よ。この結婚式はよしだけのものじゃない。』
『俺はこんな結婚式やりたくなかった。今更どうなっても関係ないよ。』
『何よそれ。ねえ、お父さん、早くよしを止めて。このままじゃ私たちの結婚式、台無しになっちゃう。』
さおりは涙目で高俊に助けを求める。一方、彼は顔を真っ赤にして怒り狂っていた。
『よし君は今、自分が何を言ったか分かっているのか? あろうことか俺を悪者にするなんて。しかも俺を傷つけた。いくら信頼しているとはいえ、黙っていられない。』
『信頼なんてしていないですよね。俺のことを疑っているからこそ、脅しているんでしょう。』
『そんなわけないだろう。俺はよし君のこと、さおりの夫にふさわしい男だと思って…。』
『嘘をつくのはやめてください。院長は不正を揉み消すために俺を脅した。それを参列者の方々にも知ってもらいたいんです。』
『ふざけるな! 皆さん、よし君の話は信じないでください。彼は母親だと名乗る人物が乱入してきて、混乱しているだけです。』
『混乱していませんよ。俺は至って正常です。院長こそ動揺していますよね。そりゃ罪を暴ち上げられたら、誰だって驚くだろう。言っておくが、俺は脅してなどいない。当然、不正も嘘だ。』
大声を出して自分の言動を否定する高俊。参列者は目を見開いて彼に視線を送る。そんな中、よしはすでに覚悟を決めていた。
『院長の不正は事実です。彼は特定の製薬会社や医療機器メーカーの製品を優先的に使い、その見返りに多額の現金を受け取っていました。』
高俊に何を言われようと、よしは淡々と事実を告げる。彼の言葉に参列者は一斉に静まり返った。まさかの事実に、みんな驚いているようだ。
『現金など受け取っていない。あくまでも製薬会社や医療機器メーカーとは公平に付き合っている。』
『よしはどうしてその事実に気づいたの? 不正を見つけたきっかけがあるのよね。』
『俺が担当している患者さんの処方薬や、院内で使用している医療機器の会社が妙に偏っていて。』
よしは働く中で違和感を覚え、過去のデータを独自に調べたという。その結果、不正を確信し、犯人が院長である事実にたどり着いた。
『証拠だってあった。もう後は告発するだけ。そう思っていたのに、急に院長に呼び出されて。』
よしが悔しそうに顔を歪める。どうやら告発直前、不正の調査をしていることを高俊に気づかれたらしい。彼はよしを院長室に呼び出し、脅しにかかった。
『よし君のお母さんは、医療事務としてクリニックで働いているんだっけ?』
そう笑みを浮かべながら告げた高俊。
『院長は弱みを握るために、俺のことを調査していた。まさか母さんのことを人質に取るなんて思わなくて。』
『私の仕事がなくなると聞けば、よしが告発をやめると思ったのね。』
きっとよしは、自分の仕事がなくなると言われてもさほど動じなかっただろう。他の病院で働けばいいと考えるはずだ。しかし、私のこととなると話が変わってくる。話を聞くに、高俊は私の勤務先であるクリニックを運営する医療法人の理事長と友人だという。
『彼は俺を信頼していてね。不正を働く職員がクリニックにいると噂で聞いた。なんて言えば、理事長はすぐさま対処するだろう。』
『ふざけないでください。俺の母親は不正なんてしていません。証拠もないのに、そんな出任せを。』
『不正の証拠は後ででっち上げればいい。どうとでもなる。とにかく俺の手にかかれば、君の母親を首にすることができるんだ。』
彼は平然とそう言ってのけた。ただ、よしは昔から曲がったことが大嫌いな子だ。このまま院長の不正を黙ったままなんていられない。
『俺の母親は、今のクリニックを無職になったとしても別の職場を見つけられます。だからそんな脅しは通用しません。』
彼は毅然とした態度で高俊に反論した。それでも、高俊は余裕の笑みを浮かべていたという。
『別のクリニックで首になった人間を、他の病院が雇うと思うか? って言われて。否定できなかった。しかも、私のことまで触れられて、よしはしぶしぶ不正を告発しないと決めたのよね。』
よしがゆっくりと頷く。
『先ほど美紀さんから聞いた話が本当か、私は彼に確認した。よしは美紀さんと定期的に会っていたのね。彼女が実の母親だと分かったから。』
その問いかけによしは何も答えない。ただ、静かに涙を流す。項垂れる彼を見て、私まで目頭が熱くなった。実は喫茶店で美紀から告白を受けたのだが、私と彼女の息子が取り違えられた可能性が高いという。
『息子を育てる中で違和感がありました。あまり私にも夫にも似ていない顔立ちで、血液型も…。』
すでに亡くなっている美紀の息子。彼女に写真を見せてもらった瞬間、絶句した。顔立ちが私によく似ていたのだ。だが、不思議に思いながらも、美紀は自分の子だと信じて息子を育ててきた。
『あの子が亡くなって五年。夫も昨年この世を去って、家族を失った分、仕事に励んできました。そのせいか体調を崩してしまい、彼女は以前から大病院に通院していたそうだ。そんな中、医師として働くよしを見つけた。』
『一瞬目を疑いました。あまりにも私の父にそっくりで。』
彼もまた、美紀と目があった瞬間固まったという。二人は軽く挨拶をして、後日、院内で会った。
『よしの誕生日を聞いて、息を飲みました。私の息子と同じで、年齢も同じ。生まれた時間もすごく近くて。』
『出産した場所はどちらですか?』
美紀が答えた病院は、私が出産した場所だった。つまり、取り違いが起きる条件は満たしている。よしは最初半信半疑だったものの、偶然とは思えず、時折私に黙って美紀と会っていたらしい。
『私の息子が亡くなったと聞いて、心配してくれたんでしょう。そのよしの優しさに甘えてしまった。彼女の息子は交通事故に遭い、若くして亡くなった。それゆえ、美紀はよしと会える時間が幸せだったという。』
『息子が今も生きていたら、こんな時間を過ごせたのかなって。よしはなおこさんの子だって分かっていました。それでも彼と会いたくて。』
よしは彼女に“俺の母親にはこのこと言わないでくれ”と口止めしていた。そのため、私は美紀から告白されるまで何も知らなかった。だが、彼女は両親の過失に耐えられなくなったのだそう。
『私が母親のふりをするのは違う。だって、よしを育てたのはなおこさんですから。そう思うと、DNA鑑定をして事実を確かめるのも怖くて。』
よしもまた、本当の母親がどちらか確認するのは怖かった。私が実の母ではないという事実を突きつけられた時、どうすればいいか分からなかったのだろう。
『よし、あなたはこのことを私に知られたくなかったんだよね。だから院長の指示に従った。そうでしょ。』
『ごめんなさい。』
涙を流しながら私に頭を下げるよし。しかし、彼が謝罪をする必要はない。よしは私を傷つけたくなかったのよね。
『もしもよしが美紀さんの実の息子なら…。俺が本当の子供じゃない上に、母さんの実の息子はもうこの世にいない。そんなこと、言えなかった。』
よしは初めて美紀から話を聞いた時、私と血が繋がっていない可能性があると知り、ショックを受けたそうだ。
『俺は今でも母さんが本当の母親だと思っている。だけど、美紀さんに会った時、不思議な感情を抱いたのは事実だ。なんだか、無視できなくて。』
『よしなりに美紀さんが心配だったのよね。旦那さんと息子さんを亡くしたと聞いて、俺なりにできることがあるなら力になりたかった。』
その後、定期的に二人で他愛のない話をしていたという。高俊は彼について調査している際、美紀の存在に気づいた。
『私は院長のお話を信じてしまった。彼になら、よしのこと伝えてもいいと思って。』
どうやら高俊は病院に来た彼女に声をかけ、よしは娘の彼氏だと偽って二人の関係性について尋ねたという。美紀は自分が実の母の可能性があること、ただ育ての母である私はその事実を知らないと伝えた。高俊は話を聞いて利用できると考えたらしい。
『母さんに美紀さんのことをばらされたくなければ、告発はするなと言われたんだ。でも俺、母さんに話す気にはなれなくて。』
よしは私を悲しませたくない一心で告発を諦めた。それが申し訳なくて仕方がない。
『よし、私を気遣ってくれてありがとうね。本当は嫌だったんでしょ。不正を見逃すこと。私が人質でなければ、きっとよしは院長を告発していたはずだ。』
彼は力なく肩を落とした。
『ごめん。母さんを言い訳にして。俺がちゃんと母さんに事実を話しておくべきだった。そうしておけば、院長に脅されることもなかったのに。』
『むしろこっちこそ謝らないといけないわ。私のせいでよしに負担をかけてごめんなさい。不安にさせたのも私のせいなんだし。』
『いい加減にしろ! までしょうもない嘘をつき続けるつもりだ。』
激しく激昂し、怒鳴り声をあげる高俊。そんな彼を参列者は疑いの目で見ていた。今はまだよしと高俊、どちらを信じるべきか悩んでいるようだ。
『皆さん、俺が不正をやったと思っているんですか? 証拠なんてありません。よし君は母親を味方につけて、俺を貶めようとしているんだ。』
『証拠ならあります。院長に揉み消される前、保管しておいたので。さすがに今は手元にないですけど。』
『黙れ! お前は恩を仇で返すんだな。さおりとの結婚を認めてやったというのに。』
怒りのあまり、高俊が声を震わせる。そんな彼をよしは冷静に見ていた。
『認めた? 何をおっしゃっているんですか? 婿養子になると言ったのはそっちですよね。俺は結婚なんてできないと断ったのに。』
よしが声を潜める。彼の弱みを握ってからも、高俊は安心できなかったらしい。そこでさらによしを縛りつけるべく、さおりと結婚するよう求めた。
『婿養子になれば、自分の管理下に置ける。そう思って院長は指示したんですよね。』
『冗談はよしてくれ。さおり!』
『よし、私のこと愛してくれていたでしょ。だから付き合ったんだよね。素直になりなよ。』
彼女はよしの腕に自分の腕を絡め、微笑む。さおりは本気で彼のことを好きなのだろう。もしくは体裁を保つためか、仲がいいことを参列者にアピールした。ただ、よしは無表情でその腕を振り払う。
『俺はさおりに好きだとも愛しているとも言ってない。断れば母さんに全部伝える。そう院長に脅されて、しぶしぶ結婚することにしただけだ。』
その言葉に、さおりは悔しそうに唇を噛みしめた。
『ひどい。私はよしのこと愛していたのよ。お父さんからの指示だったけど、それでもあなたとなら結婚してもいいと思えたのに。』
『さおりは俺が医師だったから結婚するって決めたんだよね。』
『医師だったら誰でもいいわけじゃないわ。お父さんによしは評判のいい医師だって聞いたから。』
以前ひろえも言っていたが、よしは同僚や患者から慕われている。彼は医師として優秀らしく、その技術に高俊は目をつけたようだ。そしてさおりも、彼と同様によしの才能に惚れていた。
『前にお父さんがよしを辞めさせたくないって言っていたの。だからどうすればうちの病院にずっといてもらえるかを考えていって。』
『俺はよし君を本当の息子のように思っている。だからさおりと結婚して、婿養子になって欲しかったんだ。監視下に置くなんて狙いはないよ。』
高俊が薄気味悪い笑みを浮かべ、よしに歩み寄る。
『君は何か誤解している。俺の言い方が悪かったかな? 少なくとも脅したりしていないこと、分かってほしい。』
そんな彼の前に、美紀が立ちふさがった。
『これ以上、よしを脅すのはやめてください。彼を苦しめないで。』
彼女は目を潤ませ、声を上げる。
『美紀さん、邪だ。俺は今よしと話している。あなたには用はない。』
『よしはなおこさんだけでなく、私にまで優しい子です。そんな子をもう悲しませたくはない。私がもっと早く彼を解放してあげるべきだった。』
『美紀さん…。』
すると、美紀はよしに向かって深く頭を下げた。
『よし、私が式に出席してごめんなさい。自分のことしか考えていなかったわ。どんな形であれ、息子の結婚式に出れることが嬉しくて。』
『謝らないでください。美紀さんは院長に指示されただけですから。』
実は今回の結婚式で美紀がよしの母親として参列したのは、高俊からの命令だった。脅されて仕方なくさおりとの結婚を受け入れたよし。だが、高俊は彼の家柄を気にしていた。さおりもまた、よしの才能に惚れていたものの、平凡な家庭で生まれ育った男性との結婚は躊躇していたという。そんな中、美紀がとある会社の社長令嬢であることが発覚した。
『よしの結婚式に私が出てもいいのか不安だったけど。叶わなかった息子の結婚式、どうしても出たくて。』
美紀は高俊から話を持ちかけられ、悩みながらも受け入れた。さおりは彼女の家柄を知り、喜んでいたという。
『みんな賛成しているなら、出ようと思った。よしだけが浮かない顔していること、本当は気づいていたのに。』
今回、参列者には美紀の会社の関係者も多く出席している。彼女は社員らに向けて謝罪した。
『みんなを巻き込んでしまい、申し訳ございません。よしはなおこさんの息子です。私はよしとなおこさん、二人を利用してしまいました。』
美紀は今日という日を心から待ち望んでいたらしい。ただ、本当に自分が母親として参列していいのか迷った。そんな中、会場付近で私のことを見つけたのだそう。
『あの時、なおこさんに告白できてよかった。』
『私の方こそ、美紀さんに感謝しています。よしを支えてくれていたんですから。』
『なおこさん、ありがとう。私に事実を伝えられない中、よしはきっと悩んでいたに違いない。そんな彼に寄り添ってくれたのが美紀だ。彼女がいたから、今こうして私は結婚式に駆けつけることができた。』
『自分の気持ちより、よしの気持ちを優先したい。私ではなく、なおこさんこそ彼のそばにいるべき人だから。』
『美紀さん、ありがとうございます。』
『参列者の皆様、申し訳ございません。結婚式は中止にします。』
よしは参列者に向けて声を上げた。その瞬間、さおりが彼に迫る。
『中止になんてするわけないでしょ。母親がどっちでもいいから、結婚式は続けて。私が恥をかいてもいいの?』
『俺はもう院長とさおりの言いなりにはならない。不正は告発するし、さおりとは別れるよ。』
『だめよ。そんなことはさせない。私は絶対によしと結婚するんだから。お父さん、早くよしを止めて!』
彼女に名を呼ばれ、高俊が我に帰る。全ての事実が明かされ、呆然としていたようだ。
『よし君、さおりのために結婚してやってくれ。彼女がかわいそうだろ。』
『無理です。そもそもさおりは院長の不正を知って、黙っていたんだよね。それって共犯じゃないの?』
『え?』
さおりが気まずそうに目をそらす。その反応からして、実際知っていたのだろう。慌てて高俊が言い訳を唱えた。
『さ、さおり。娘まで貶めようとしているのか。彼女を責めるのはやめろ。』
『では、院長が一人で不正を行っていたんですね。誰もその事実を知らないということですか?』
『不正はしていない。先から何度も言っているだろう。』
しどろもどろになり、彼は未だに罪を認めない。
『こうなることが嫌だったから、母親には関わるなと忠告したのに。』
苛立ちをあらわにして、地団駄を踏む。高俊は自分の計画通りに行かないことに焦っていた。そんな彼を冷めた目で見る親族。
『お父さん、どう責任取ってくれるの? せっかくの結婚式なのに。』
『俺たちを裏切るんだな。ずっと協力していたくせに。』
高俊が鋭い目つきで美紀を睨みつける。その隣で、さおりは泣きじゃくっていたかと思えば、彼女が笑みを浮かべる。
『どうせよしと血が繋がらないと聞いてショックなんでしょ。強がって母親のふりをするとか、見苦しいね。』
さおりの怒りの矛先は私に向いていた。プライドをズタズタにされ、全てを打ち明けた今、私が憎くて仕方ないのだろう。
『美紀さんのこと、恨んでいるんじゃないの? 息子が取られると思って焦ってる感じだし。そうやって“いい人”演じるんだよね。』
ニタニタと嘲笑するさおりを見ても、私は何も感じなかった。そもそも強がっていないのだ。
『確かにショックだけど、平気です。だって私も、よしが実の子ではないってこと、薄々気づいていたから。』
『え? どういうこと?』
驚きからか、さおりが動きを止める。
『そのままの意味よ。ただ、取り違いだとは思っていなかった。』
『本当? 母さん、そんな素振り見せなかったのに。』
よしが目を丸くする。私が事実に気づいていることが意外だったようだ。
『あなたを悲しませたくないから、ずっと黙っていたのよ。美紀さんだって違和感を覚えるんだから。それは私もね。』
『そうだったのか。なおさら早く言えばよかったな。』
『大丈夫よ。よしが言いづらかった理由だって、もちろん理解しているし。でもちょっと安心した。私の勘違いじゃなかったんだなって。』
『だけど、なんで気づいたの?』
不思議そうに首をかしげるよし。
『最初に疑問を抱いたのは、よしが十歳くらいの頃よ。ほら、あなたが交通事故で大怪我をしたことがあったでしょ?』
『あったね。結構大掛かりな手術だった。』
当時、彼は学校からの帰り道、信号を無視した車に跳ねられた。私は仕事中だったが、すぐさま病院に向かったのを今でも覚えている。幸い命に別状はなかったものの、即手術を行うことになった。そしてその時、私は初めてよしの血液型を知ったのだ。
『え、よしがA型ですか? そんなはずは…。』
医師から告げられた言葉に絶句した。なんせ、私と亡き夫はO型だったのだ。息子であるよしがA型なわけがない。医師の間違いではないかと一瞬疑った。
『ただ、こういった事例はごく稀にあります。珍しいけど、何もおかしなことではない。だから私は深くは考えなかったの。血液型だけで血の繋がりが判断できるわけじゃないし。』
『それもそうだね。でも、だから父さんの血液型教えてくれなかったの?』
実は子供の頃、夫の血液型を知りたがったよし。幼いながらに気になった素朴な疑問だっただろう。しかし、よしが将来大人になった時に違和感を覚えかねない。その心配から、私は夫の血液型を“忘れた”と伝えていた。
『ごめん。ずっと嘘をついていて。』
『いや、いいよ。俺も今の会話で思い出すまですっかり忘れてたことだから。でも、血液型だけで俺が実の子ではないと思ったの?』
『それだけじゃないわ。よしが成長するにつれて、少しずつ違和感を覚えてね。私と夫はさほど身長が大きくない。平均身長より少し低いくらい。それなのに、よしはかなりの高身長。成長期を迎えた頃、どんどん背が伸びるよしに驚いたわ。中学を卒業する頃には、お父さんの身長を超えていたと思う。』
『確かに自分が大きい方だとは自覚している。でも、お父さんってそんなに背が高くなかったの?』
『少なくともよしよりは低いわ。だから不思議だったの。でも、先祖をたどればよしくらい大きい人もいるはず。そう思って、気にしないようにしていた。』
薄々おかしいと思いながらも、私はよしを息子として可愛がってきた。それは事実だ。しかし、美紀に告白された瞬間、腑に落ちた。彼女を一目見て、直感的によしの母親だと思ったのだ。
『美紀さんはよしにとても似ている。私やお父さんよりも、よしは美紀さんにそっくりよ。だから取り違いだと告げられても、疑問は持たなかった。』
『俺もそう思うよ。』
否定できず、よしが小さく頷く。彼自身、美紀の顔を見て自分に似ていると思ったらしい。
『正直、取り違いがあったとすれば、今までのことも全部辻褄が合う。さっき美紀さんに血液型を聞いたら、彼女はAB型で、亡くなった息子さんはO型だそうだし。』
『そうか。』
取り違いがあったと考えられる証拠ばかりが出てきて、次第によしの表情が曇っていく。彼はまだ私と血の繋がりがないという事実を受け入れられていないようだった。
『もしかしたら美紀さんの勘違いかもしれない。そう思っていたんだけどな。』
『よしの気持ちも分かる。だけど、事実がどうであれ、私はよしが息子だと思っている。』
『え?』
そう答えた瞬間、よしが顔を上げた。
『これまで二十八年間、私はよしを大切に育ててきた。血の繋がりがなくても、私たちの関係は変わらない。何も不安に感じることなんてないわ。』
彼を励ますために言っているわけではない。これが私の本心だ。ただ、苦労をかけたことは今でも申し訳なく思っている。取り違いがなければ、彼は裕福な家庭で育っただろう。きっと美紀も私と同様によしを可愛がっていたはず。家庭環境はかなり変わっていたかもしれない。
『よし、ごめんね。私のせいで苦労をかけてしまった。』
罪悪感があると吐露すると、よしは声を大きくした。
『謝らないでよ。俺は母さんに育ててもらって感謝しているんだから。』
『そう…。でも私はよしに我慢ばかりさせたのよ。』
『我慢なんてしてない。母さんがいてくれただけで、俺は十分だったんだ。』
そう言うと、彼は手で目をこする。涙が溢れて止まらないようだ。
『俺、父さんがいなくなって悲しかった時、母さんがそばにいてくれて嬉しかったんだ。母さんの子供で良かったって、これまで何度も思った。だから、苦労をかけたなんて言わないでくれ。』
『ありがとう。そうよね。私もよしが息子で良かったと思っている。』
『取り違いだったとしても、俺の母親はやっぱり母さんだよ。』
『私だって同じ気持ちよ。だからもう、院長やさおりさんの言いなりにならなくていい。私は今後、どんなことがあってもよしを守るから。』
すると、よしが泣き崩れた。彼は私に事実を知られた瞬間、親子の縁が切れるのではないかと不安だったのだろう。だからこそ安心したようだ。
『母さん、本当にごめん。ずっと隠してて。』
『いいのよ。でもこれからは、私を盾に犠牲になる必要はないわ。よしが思うように行動していいからね。』
もっと早く彼の本心を確認すべきだった。私は泣きじゃくるよしの背中をさすろうとした。だが、先にさおりが手を伸ばす。
『よし、大丈夫? 怖かったわよね。』
彼女は献身的に夫を支える妻を演じ、共に涙する。だが、よしはさおりを突っぱねた。
『触らないでくれ。よく俺のこと心配できたね。こうなったのは院長とさおりのせいなのに。』
『なんで私が悪いの? 私はお父さんに言われてよしと結婚しただけ。よしがそこまで結婚を嫌がっているとは思わなかったのよ。』
『俺は何度も“院長を説得してくれないか”と頼んだはずだ。でもさおりは断ったよね。』
『だってお父さんは私の意見は聞いてくれないって。事実だもの。私が何を言おうと、お父さんはよしを婿養子にする。それならもう反論したって無駄じゃない。』
彼女は自分は悪くないと言い、声を大きくする。周囲の目など一切気にしていないようだった。
『色々あったけど、結婚を決めた仲なのよ。仲良くしましょう。私はよしと一生添い遂げるつもりで。』
『無理だ。俺はさおりと結婚しない。』
『入籍前で、お互い良かったじゃないか。』
幸い二人はまだ籍を入れていないのだそう。よしは婚約破棄を告げ、改めて披露宴を中止にすると参列者に伝えた。
『せっかく出席してくださったのに、申し訳ありません。』
『やめて。式は続けるの。私はよしと結婚するんだから!』
『さおりも考え直した方がいい。院長に命じられた相手と結婚するなんて。』
『違う。私はあなたのことが好きなの。だから結婚するって決めたのに、どうして分かってくれないのよ!』
じたばたと暴れ、彼の声を遮るさおり。彼女は本気でよしに惚れていたらしい。だからこそ、別れたくないと叫び続ける。
『家柄問題もクリアして、ようやく結婚にこぎつけたの。どうしてこのタイミングで結婚が白紙になるのよ。』
『さおり、冷静になれ。よし君、もう頭を冷やしなさい。何も式を中止にする必要はないだろう。このまま進行して、終わった後二人で話し合えばいいじゃないか。』
脅しが通用しなくなった。高俊は慌てた様子でよしにすり寄る。不正が告発されるかもしれない恐怖に怯え、声を震わせていた。
『俺は何も脅したかったわけじゃないんだ。少し強引だったことは認める。だけど、本当によし君を息子にしたかっただけなんだ。』
『俺は母さんと美紀さんを巻き込んだ院長を許しません。不正を告発した結果、病院を首になってもいいです。とにかく俺は、院長に罪を償ってもらいたいので。』
『何を言っているんだ? よし君を首にするはずがないだろう。君には期待しているんだ。だから一旦、話し合いたい。』
高俊は目を泳がせながらよしの機嫌を伺う。医師として評判のいい彼を手放したくないに違いない。どうにかしてよしを引き止めようとする。
『給与を上げてもいい。待遇を見直そう。だからよし君、告発なんてバカな真似はやめろ。不正の証拠なんて、どうせないんだろ?』
『そんなこと、この場で言っていいんですか? 参列者みんな見ていますよ。』
『それは…。』
はっとして周囲を見渡す高俊。彼は今、病院関係者がこの場に多くいることをすっかり忘れていたようだ。真っ青な顔で作り笑いを浮かべる。
『今のはただのお冗談だ。今日の主役であるよし君に喜んでもらいたくて言っただけ。もちろん本気じゃない。お前らも分かっているよな。』
そう取り繕うも、参列者からの視線は冷たい。彼らは高俊だけでなく、さおりにも白い目を向けていた。
『俺たちのこと馬鹿にしていたバチが当たったんだ。』
とささやく声が聞こえる。
『今、誰が言ったの? 私がバチに当たるわけがないでしょ。何も悪いことをしてないんだから。』
『さおり、落ち着きなさい。興奮するな。』
『なんでお父さんは助けてくれないの? 娘が馬鹿にされたのよ。さっきの人、今すぐ出てきて。私に直接言いなさいよ!』
さおりが怒鳴り声をあげ、自分を嘲笑した犯人を探す。ただ、参列者の言ったことはなんら間違いではない。ひろえの話によれば、さおりは散々周りに冷たく当たっていたのだ。今更彼女に同調する人などいないだろう。
『一旦この場を離れて話し合わないか。参列者を巻き込むのは失礼だし。』
『いや、それで結婚式が中止になったらどうしてくれるの?』
『俺は中止にしたいって言っているよね。さおり、一人で式をあげる気?』
『そんなわけないでしょ。新郎は式なんだから、式が終わるまではここにいて!』
騒ぐさおりをなだめる高俊と、青ざめた顔のよし。参列者はため息をつく人もおり、最早披露宴を続けられる雰囲気ではなかった。すると、その時、会場に一人の女性が現れる。
『なおこさん、遅くなってごめんなさい。』
『来てくれてありがとう。ひろえさん。』
ひろえが私の連絡を受け、慌てて駆けつけてくれた。彼女を見るなり、よしが目を丸くする。
『なんでひろえさんがここに?』
『これ以上部外者を増やさないでくれ。今すぐ出ていって。』
『彼女は私が呼んだんです。ひろえさんもよしの同僚ですし、少しだけ時間をもらえませんか?』
声を荒げる高俊の声を遮り、よしに視線を送る。高俊はひろえが自分の病院の職員だと知り、固まった。今から何が起きるか予想がついたのかもしれない。
『どうしてひろえさんを呼んだの?』
戸惑うよしに、ひろえがとある書類を手渡す。
『これ、保管していた証拠よ。』
『母さん、ひろえさんに伝えたの?』
『不正の証拠。病院関係者みんなに見てもらった方が早いと思って。ひろえさんに場所を伝えたら、すぐに分かったみたい。』
彼女から書類を受け取ったよし。私たちのやり取りを聞き、またたく間に高俊の顔から表情が消える。
『証拠って何だ? その書類は?』
このままでは大変なことになると気がついたようだ。
『余計なことをするな。俺は不正なんてやっていないと言っただろう。』
高俊は叫び声をあげて、よしの持っていた書類に手を伸ばした。ただ、よしはうまくかわし、証拠の書類を参列者に見せる。
『ここの製薬会社から、院長は寄付金を受け取っていました。医療機器メーカーからの現金は…。』
彼は証拠を手に不正の事実を公表する。途端に病院関係者の顔が強張っていった。
『本当だ。院長がこんなことを。』
と口々に言う彼ら。
『この証拠を持っていたからこそ、俺は院長に脅されました。』
『違う。俺は何も…。』
未だに不正を否定する高俊だったが、証拠がある以上、病院関係者は誰も信じない。そんな彼を見て、涙目になるさおり。
『お父さん、本当に不正していたの? ありえない。院長だからって、こんなこと許されると思っているの?』
『さおり、お前は大病院を経営しているお父さんのこと、尊敬していたのに。厳しいな。』
彼女はあくまでも自分は知らなかったというふりをした。高俊を見下し、大きなため息をつく。しかし、よしはそんなさおりをまっすぐ見つめた。
『とぼけるのはやめなよ。さおりも院長の不正、知っていたくせに。』
『だから、私は知らなかったって言ったじゃん。いくら何でも疑うなんてひどい。親子とはいえ、お父さんは私に隠していたの。』
彼女は被害者ぶって泣き真似を始める。参列者は引いた目をしているが、そのことにすらさおりは気づかない。すると、よしが証拠を彼女に見せつける。
『この製薬会社、さおりの彼氏が務めている会社だよね。』
『え、さおりさんの彼氏って、よしじゃ…。』
私が疑問を口にする中、さおりは体中から冷や汗を流す。目を泳がせ、体は小刻みに震えていた。
『よし、何の話をしているの? それ、ただの男友達だよ。もしかして嫉妬してるの? 嬉しい。』
どうやらさおりと仲のいい男性が、多額の寄付金を渡していた製薬会社にいるという。彼女は友達だと言いはるが、よしの表情は変わらない。
『俺が嫉妬するわけないでしょ。さおりとの結婚もしぶしぶだったわけだし。だけど、結婚するとなれば、さおりに男の影があると気になるんだ。』
『男の影って…。』
『さおり、スマホを見ている時、俺の視界に入らないよう注意しているよね。その行動に違和感があったんだ。いくら何でも警戒しすぎな気がして。』
話を聞くに、彼は以前からさおりの浮気を疑っていたようだ。高俊の命令によって結婚することになった二人。交際中、さおりが他の男性と付き合っても、よしは見逃していた。とはいえ、結婚するとなればさすがに看過できない。
『さおりに彼氏がいるなら、その男性と結婚した方がいい。そう思って調べさせてもらったんだよ。』
よしがさおりにだけスマホの画面を見せる。たちまち、彼女は顔を青白くした。
『何よ、その写真。』
私もよしに見せてもらったが、そこに映っていたのはサラリーマンらしき男性と腕を組んで歩くさおりの姿。
『この男性の勤め先が製薬会社だったことが分かって、ピンと来たよ。彼と院長をつなげたのはさおりだよね。』
浮気の調査をした結果、彼はさおりが高俊の不正に関わっているであろう証拠を手にしたようだ。参列者がまた騒然とする。さおりは気まずそうに顔をそらした。
『だってしょうがないじゃない。お父さんに頼まれたんだから。』
『さおり、お前はそろそろ静かにしろ。俺は何も知らない。』
『嘘つかないで。お父さんが言ったんでしょ。“私の彼氏と一回会いたい”って。その後、彼はやけにお父さんと親密になって、怪しいと思っていたの。』
開き直り、彼女は自分の知っている事実を平然と語り出す。どうやらさおりは高俊に不正の手伝いをさせられていたらしい。
『お父さんの病院にお金を渡しているって、彼から話を聞いてびっくりした。でも、そのおかげで彼が幸せなら、まあいいかなって。』
『それなのに、なんで俺と結婚したの? 彼氏のことが好きなんだよな。』
『だって彼よりよしの方が収入がいいんだもん。あと、私の夫にはうちの病院を継いでもらわなくちゃいけなくて。製薬会社の社員よりは、医師の方がいいかなって思ったんだ。』
よしの気持ちなど無視して、院長の言いなりになっていたさおり。事実を知った途端、私は怒りが込み上げてきた。
『さおりさんはよしのこと、何も考えていないのね。院長と自分が幸せだったら、それでいいの?』
『もちろんよしのことも好きよ。でもよしは私に冷たいだけ。彼は優しくしてくれるの。そりゃ彼の方が好きに決まってるわよね。』
『なら、よしのことを解放してあげるべきだった。少なくとも、院長の考えを止める必要があったでしょう。』
声を荒げそうになるのを必死に抑える。私は冷静さを取り戻し、言葉を続けた。
『不正だって。父親のことを本当に思うなら、告発すべきだった。間違ったことをしている家族を、どうして放置したの?』
しかし、さおりはふて腐れた顔をする。
『だって、お父さんは私が何を言っても聞かないもの。注意したところで無駄だし、よしのことだって手放さない。それが分かっていたから。』
『やっぱりさおりさんはよしのこと、好きでも何でもないのね。彼が苦しい思いをしていても、助けなかったんだから。』
『うるさいわね。あんたがここに来なければ、よしだって素直に私と結婚していたのに。』
彼女は怒りのままに私に向かって突進してきた。披露宴中の花嫁としてあるまじき行為だろう。慌てて避けようとするも、先によしがさおりを止めた。
『母さんは何も悪くない。さおりに反論せず、ただ黙って指示に従っていた俺の責任だ。』
『よし、ごめん。私、ついカッとなっちゃって。お母様、申し訳ありません。』
彼女は我に返ったのか、慌てて頭を下げる。まだよしとの結婚を諦められないらしい。
『よし、彼とは別れるわ。どうせお父さんの不正、告発するんでしょ。それならもう彼氏との交際を続ける必要もない。私、よしのことだけ愛するわ。もう浮気はしない。お父さんの不正の告発、手伝うよ。だから…。』
『離れてくれ。』
冷たい口調でよしがさおりを突き離す。彼女は目を丸くした。
『どうしたのよ。私、心を入れ替えたって言ったでしょ。よしのこともう裏切らないから。』
『そういう問題ではないよ。俺はさおりのことが好きじゃないんだ。』
『じゃあ…告発はやめてくれる? 彼と交際を続けるなら、不正は黙っていてほしいの。』
『呆れた。あなたは将来安泰な人と結婚したいだけよね。よしのことだけじゃなく、彼氏のことすら愛していないんでしょ。』
ひろえから話を聞いた通り、さおりは家柄や役職、仕事でしか人を見ない。それゆえ内面には興味がないのだろう。ただ収入が安定している人と結ばれたがっている。そんな彼女が幸せになれるとは思えなかった。
『よし、ちゃんと告発しなさい。製薬会社や医療機器メーカーも第三者の調査を受けるだろうけど、気にしちゃだめ。あなたは正義感のある強い子なんだから。』
私はよしを見つめて微笑んだ。その瞬間、彼もまた目を細める。
『もちろん告発はするよ。関係者もみんな見ているんだ。間違いなく院長は罪を償うことになるはず。』
『やめて。彼が仕事を失ったらどうするの? 逮捕とか、そんなのありえない。私は…。』
『さおりは、院長の不正がバレるって考えなかったの?』
『お父さんと彼なら、うまくやると思って。私はどうせ関与していないし。』
ぶつぶつと言うさおりに、よしが頭を抱えた。
『さおりだって病院の職員だ。知った以上、声を上げる必要があったと思う。もちろん、俺も脅しになんて負けちゃだめだった。』
『何を言っているの? よし君は不正を暴くために、ここまで証拠を揃えたんでしょ。』
ひろえがたまらず声を上げる。
『脅しの証拠、あるのよね。』
彼女には確信めいたものがあるようだ。すると、期待に答えるかのごとく、よしがスマホを取り出す。
『実は、院長との会話、録音しているんだ。母さんに事実を打ち明けられたら、その後使えると思って。』
彼は思いの外用意周到だったらしい。高俊だけでなく、さおりとの会話も記録しているという。次の瞬間、高俊が目を見開いた。
『待ってくれ。録音なんて話は聞いていない。そこまでして俺を追い詰めたいのか。』
顔面蒼白になりながら、よしに詰め寄る。高俊は今にも倒れそうなほどフラフラだった。
『その音声は消してくれ。俺だって、つい言いすぎたと思っているんだ。反省している。だから許してほしい。』
『反省しているなら、やっぱり罪を償ってもらいます。このようなことが今後繰り返されるわけにはいきませんから。』
『この野郎…。』
いくら懇願しても無駄だと悟ったのか、突然拳を振る高俊。だが、参列者が抑えつけたことで、幸いよしは無事だった。
『よし、大丈夫?』
『心配かけてごめん。平気だよ。』
『今回のこと、今日参列していない人にも伝えておくわ。不正はどうせ暴かれるでしょうけど、よし君を脅していたこと、許せない。』
私とひろえが彼を心配する中、美紀は一人佇んでいた。彼女はきっと、よしの気持ちを知り、自分は深く関わらない方がいいと思ったに違いない。そんな美紀によしが目を向ける。
『美紀さん、改めて謝罪させてください。俺のせいで会社にまで迷惑かけてすみませんでした。』
『謝らないで。社員には私から事情を伝えるわ。あなたが私の息子じゃないって、ちゃんと否定する。』
彼女の目には涙が浮かんでいた。よしは息子ではないと自分に言い聞かせているのだろう。
『私、亡くなった子にも失礼なことしていた。どんなことがあろうと、彼が私の息子なのに。』
『よしも亡くなった息子さんも、二人とも私たちの息子ですよ。どちらか一方の子供だと思わなくてもいいのかもしれません。』
『なおこさん…。』
『会えなかったものの、美紀さんが育てた息子のことを私も知りたい。そして、よしと美紀さんには、これからも二人の関係を築いて欲しいと思っている。だから、よしと疎遠になる必要はありません。』
『ありがとうございます。』
大泣きする美紀の背中を、ひろえがさすった。そんな中、さおりは暴れる高俊に怒鳴っていた。
『お父さんのせいで私の結婚、めちゃくちゃ。最悪。今日のこと、一生許さないから。』
彼女はまたよしに向き直るも、彼は視線を合わせない。
『これ以上付きまとわないでくれ。式が続行できないこと、さおりだって分かっているだろう。』
『うるさい。よしとは別れるから。』
親族に連れられ、さおりは会場を後にした。私もよしと共に控え室へと向かう。ひとまず彼と高俊を引き離すことが先決だった。美紀は社員である参列者に事情を説明し、高俊は病院関係者にひたすら詰め寄られたらしい。結婚式は当然中止。こうしてよしの結婚は阻止することができたのだった。
その後、高俊は贈収賄罪で逮捕となり、製薬会社や医療機器メーカーの該当社員も共犯として捕まった。高俊は院長を解任され、さおりの彼氏も会社を解雇処分になったという。ちなみに、調査の結果、さおりも契約書の偽装などを手伝っていたことが判明。彼女もまた共犯として逮捕され、病院を去ったそうだ。現在、高俊は病院から損害賠償を請求され、苦しんでいると聞いた。妻には離婚を切り出され、親族は彼を見放したらしい。さおりも“高俊と関わりたくないから”と絶縁したのだそう。噂によると、さおりはよしだけでなく、製薬会社の社員とも別れ、母にも縁を切られてしまい、夜の街で働いているようだ。一方、高俊は賠償金を借金して支払ったため、バイトを掛け持ちして返済しているという。二人とも苦しい生活を余儀なくされているそうだ。
対して、私は変わらずクリニックに勤務している。高俊がうちの医療法人の理事長の友人というのはハッタリだったらしい。後々知ったのだが、あくまでも顔見知りなだけなのだとか。その話をすると、よしは頭を抱えていた。彼は今も大病院で医師として務めている。度々ひろえから話を聞くが、患者からいつも感謝されているそうだ。
『本当になおこさんはいい息子を持ったわね。うちの娘を紹介したいくらいだわ。』
そう冗談めかして言われるものの、今はまだよしの古傷が癒えていない。母親として寄り添い、彼のことを支えていけたらと思う。ちなみに、美紀とは今でも定期的に会っている。よしと彼女と三人で食事をする時間は、とても楽しいものだ。
『また家族ができたみたいで嬉しいわ。』
不思議な形ではあるが、美紀は他人とは思えない。これも何かの縁だ。今後もいい関係を築いていきたい。



