カルテを見た瞬間、俺は手を止めた。水野舞。5年前、雑誌の表紙でその名前を見ない月はなかった。パリ、ミラノ、ニューヨーク。世界のランウェイを歩いていた女が、なぜこの病院にいるんだ。
ドアがノックされた。車椅子を押す中年の男と、その上に座る一人の女が入ってきた。細い肩、膝の上で硬く握られた手、顔を隠すように深くかぶった帽子。
俺は田所浩司、40歳の整形外科医だ。高校までサッカーをやっていた。プロを目指していたが、18の冬に膝の靭帯を断裂した。夢は終わった。それでも俺は体を直す側に回ろうと、医学部に入り直した。人の全盛期を取り戻すこと。それが俺の医者としての執念になっていた。
「先生、娘の件、ご無理言って申し訳ありません」
父親らしい男が深く頭を下げた。仕立てのいいスーツ、品のいい時計。富裕層の人間だと分かった。
「有名な病院を回りましたが、もう打つ手はないと。それでも、何かできることがあればと思いまして」
「カルテは拝見しました。脊髄損傷ですね。事故から2年半」
「ええ。歩けないというより、もう立つこともままならない状態でして」
その間、舞は一言も口を開かなかった。唇が固く結ばれている。俺は父親に断ってから、ゆっくりと本人に話しかけた。
「水野さん、少しだけ足の感覚を確認させてください。痛かったら言ってくれて構いません」
舞は答えなかった。代わりに薄く笑った。笑ったというより、口の端だけを歪めた方が近い。
「先生、期待されても困ります。私はもう歩く気はないので」
低く枯れた声だった。
「父が勝手に連れてきただけです。あなたも適当に見て。適当に返してくださって構いません」
俺は黙ってその言葉を受け止めた。新次郎が慌てて娘の肩に手を置いたが、舞はそれを払いのけた。俺は新次郎に視線を送り、少し席を外してもらえないかと頼んだ。父親は迷う素振りを見せたが、頷いて廊下に出ていった。
「水野さん、私はね、適当に見ることだけはしないんですよ」
舞は答えない。
「あなたが歩きたくないなら、それはそれでいい。でも、もしほんの少しでも体を動かしたいと思う日が来たら、その時のために体を残しておきませんか?」
「残してどうするんですか?」
「分かりません。ただ、選べる体にしておく。それだけです」
舞は初めて帽子のつばを少し上げた。その目に、俺は息を飲んだ。かつて雑誌で見た強い光のある目とは違う。何もかもを諦めた目だった。
廊下に出ると、新次郎が窓の外を見て立っていた。
「先生、娘は何と?」
「正直に言いますね。本人にやる気がない以上、リハビリは進みません」
「そうですか」
「ただ、体そのものはまだ残っています。完全な麻痺ではない。神経の一部は生きている可能性がある」
新次郎は目を見開いた。
「先生、お恥ずかしい話ですが、私は事故の後、娘を表に出さないようにしてきたんです」
「表に、というと?」
「マスコミです。あの子はトップモデルでした。落ちぶれた姿を晒したくなかった。本人のためにもと思って」
俺は何も言わず続きを待った。
「でも、そのせいであの子は誰とも会わなくなった。私はずっと間違っていたのかもしれません」
「お父さん、諦めるのはまだ早いです」
「先生、失礼ですが、まさか奇跡を信じておられるんですか?」
「奇跡という言葉は使いません。やれることをやる。それだけです」
その時、廊下の角から早足で歩いてくる女性がいた。ヒールの音がリズミカルに響く。
「舞、舞、どこ?」
息を切らせて彼女は俺たちの前で立ち止まった。
「すみません、私、舞の友人で鈴木真帆と申します。連絡をもらって、すぐに飛んできました」
新次郎が一瞬だけ嫌そうな顔をした。真帆はそれに気づかないふりをして、俺に向き直った。
「先生、舞をお願いします。あの子は絶対、もう一度立ち上がれる人ですから」
その言い切り方に俺は少し驚いた。舞自身があれだけ拒絶しているのに、この女は信じている。
「事故の前の日、舞は私に言ったんです。『来年のコレクションでまた一緒のステージに立とう』って」
真帆の目が少し潤んだ。
「だから、私、待ってるんです。ずっと待ってるんです」
新次郎は黙ったまま視線をそらした。俺は2人を交互に見て、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。少し時間をください。本人の気持ちを動かすのが、まず先です」
その日の夜、医局に戻ると、三島がコーヒーを片手に新聞を広げていた。俺より5つ年上の同僚で、整形外科の中では一番の腕利きだ。
「話を聞いたぞ。水野舞、引き受けたって」
「ああ、今日、初診だった」
「やめとけ。あれはもう戻らない案件だ」
三島は新聞を畳んだ。眼鏡の奥の目がまっすぐ俺を見た。
「カルテは俺も見せてもらった。L1からL2の脊髄損傷。2年半経過か。神経の再生時期はとっくに過ぎてる」
「いや、神経の一部は生きてるぞ。MRIを見れば分かるだろう」
「生きてても、繋がってないなら同じだ。お前、何度同じことを繰り返すんだ?」
「同じこととは、どういうことだ?」
「無理な患者に入れ込んで、自分が消耗する。3年前の小林さんもそうだった。お前は奇跡を起こしたいんじゃない。自分の挫折を患者で取り返したいだけだ」
その言葉に、俺は一瞬声が出なかった。三島は俺の18の冬を知っている。医局の飲み会で、酔った勢いで話したことがあった。
「お前のやり方は否定しない。でもな、田所、患者はお前のリハビリの道具じゃないぞ」
俺はコーヒーカップを握りしめた。
「分かってる。だが、本人がほんの少しでも望むなら、俺は最後までやる」
「望んでないだろう、あの女は」
三島は短く息を吐いて、ロッカーから白衣を取り出した。
「理学療法士には話したか?」
「リハビリ担当。明日、話す」
「あいつなら、まあいいだろう。冷静だ。お前みたいに暑くならない」
三島が出ていった後、俺は一人で窓辺に立った。俺は白衣のポケットから古い写真を一枚取り出した。高校3年の冬、松葉杖をついて病院の前で撮った写真だ。あの時の俺の目を、今日、診察室で見た。水野舞のあの目だ。
俺は写真をポケットの奥に戻した。明日から、長い戦いが始まる。そんな予感がした。
翌朝、リハビリ室に光が差し込んでいた。床に敷かれた青いマットの上で、真辺が黙々と器具の点検をしている。
「田所先生、本当に来ますかね? 水野さん」
「来る。親父さんが連れてくる約束だ」
「親父さんですか。本人の意思じゃないんですね」
「最初はそれでいい。ここに来るだけで、半分は進んでる」
真辺は28歳。理学療法士になって5年だが、腕は確かだ。俺はこの男の冷静さを買っていた。
廊下の奥から車椅子の音がした。押しているのは新次郎ではなく、鈴木真帆だった。
「先生、おはようございます。今日は私が連れてきました」
舞は今日もつばの広い帽子をかぶっていた。
「水野さん、こちら担当の理学療法士の真辺です」
舞はうつむいたままだった。真辺は気にする様子もなく、車椅子の前にしゃがんだ。
「水野さん、今日は足首を少し動かすところから始めます。痛みがあればすぐに言ってください」
「動きません。動かないものを動かそうとしても、無駄です」
「動くかどうかは、触ってから判断します」
真辺の手がそっと舞の足首にかかった。その瞬間、舞の肩がびくっと跳ねた。
「やめて」
鋭い声だった。
「触らないでください。お願いですから」
真辺は手を引いた。ただ視線だけは舞の足首から離さなかった。
「分かりました。今日は触らずに、お話だけしましょう」
俺は壁に寄りかかって、その様子を見ていた。舞は震えていた。30分後、舞は一言も発さずに車椅子で出ていった。
「先生、今の見ましたか?」
「ああ、足首、反応してたな。ほんの少しですが、こっちが触る前に、けいれんが動きました」
「触られると分かって、構えたということか。感覚が残っています。確実に」
俺は天井を見上げた。神経は生きている。問題は、あの女の心の方だった。
3日目のリハビリ、舞は相変わらず口を開かなかった。真辺は焦らず、毎回同じ手順を繰り返した。その日、真辺が舞の右足の親指に軽く触れた時だった。
「水野さん、今、少しだけでいいので、親指を動かそうとしてみてください」
「動きません」
「動かなくていいんです。動かそうと思うだけでいい」
数秒、何も起きないように見えた。真辺が小さく息を吐いた、その時だった。舞の右足の親指が、ほんの数ミリ動いた。誰の目にもはっきりとは分からないほど、わずかに。
真辺の手が止まった。
「今、動きましたよ」
「え?」
初めて舞が顔を上げた。
「気のせいです。私、動かしてなんてない」
「いえ、確かに動きました。先生も見てましたよね?」
「ああ、見てた。間違いない」
舞は自分の足を見下ろした。何度も何度も、その指を見つめた。声が枯れていた。
「どうして……どうして今更動くんですか? 私が壊したのに」
聞き取れないほど小さな声だった。
「自分で壊しておいて、今更動いても意味なんてないんです」
「水野さん」
「私が運転してたんです。雨の夜に高速を。だから全部、私が悪い」
俺は黙ってその言葉を受け止めた。それがこの女の闇の底にあるものだった。指が動いても喜べない理由が、そこにあった。
真辺は何も言わず、舞の足にそっとタオルをかけた。
その日の夕方、俺は新次郎を呼んだ。病院の一階にある談話室。
「お父さん、一つ伺ってもいいですか?」
「何でしょう?」
「今日、舞さんが言ったんです。自分が運転していた、全部自分のせいだと」
新次郎の指が膝の上で固まった。
「カルテには単独事故とあります。ですが、私には少し引っかかってるんです。あの夜、本当に舞さんが運転していたんですか?」
長い沈黙があった。
「お父さん」
「先生、これは、舞も知らない話なんですが」
「はい」
「あの日、運転していたのは、舞の婚約者でした。2人でドライブに出かけていて、舞は助手席で眠っていたんです」
俺は息を止めた。
「私が決めた縁談でした。相手は取引先の建築士。舞は乗り気じゃなかった。でも、私が押し切ったんです」
新次郎の声がわずかに揺れた。
「事故の後、相手は無傷でした。警察の事情聴取で相手が言ったんです。彼女が運転していたと。舞は意識がなかった。反論できる状態じゃなかった」
「それをあなたは知っていた?」
「知っていました。相手の家との関係もあって、私は黙っていた。そして、すぐに婚約を解消してきました。『落ちぶれた娘はいらない』と」
「舞さんには伝えたんですか?」
「伝えていません。あの子は事故の前後の記憶がないんです。目が覚めた時、何も覚えていなかった。警察には相手の証言が残っていて、私は否定しなかった。あの子はそのまま、自分が運転していたと信じて生きてきたんです」
新次郎はソファに体を預けた。
「先生、私は最低の父親です」
「お父さん、そのことを、舞さんに話すつもりはありますか?」
「怖いんです。話したら、あの子は私を許さない」
「黙っていれば、もっと許されない日が来ます」
新次郎は目を閉じた。
談話室を出ると、廊下の自販機の前に真帆が立っていた。
「先生、少しお時間いいですか?」
「いいですよ」
「中の話、聞こえてしまいました。申し訳ありません」
真帆の目が強い光を帯びていた。
「やっぱり、そうだったんですね。あの婚約者、事故の後、すぐに別の女と歩いているのを、私、見たんです」
「鈴木さん」
「舞は雨の夜に高速なんて、自分では運転しない子なんです。怖がりだから。ずっとおかしいと思ってた」
真帆は缶コーヒーを強く握り直した。
「先生、お願いです。あの子に本当のことを話させてください。父親の口から」
「それは、私が決めることじゃない」
「分かってます。でも、あの子は今、自分を責めて生きてるんです。それは違うって、知らせてあげたいんです」
真帆の目から涙が落ちた。
「ごめんなさい。先生に言うことじゃないですね」
「いや、あなたが信じてるから、舞さんは今日もここに来た。それは大きい」
真帆は小さく笑った。
その夜、医局で三島が声をかけてきた。
「田所、水野の件、どうなってる?」
「心が問題だ。神経は生きてる。でも、本人が自分のせいで全部壊したと思い込んでる」
三島は腕を組んだ。
「それは医者の仕事じゃないだろう」
「そうかもしれない。でも、心が動かない限り、体も動かない」
三島は短く息を吐いた。
「真辺に明日も付き合わせるのか?」
「ああ、もちろん」
「お前のやり方は、相変わらず強引だな」
2週間が経った。舞は毎朝決まった時間にリハビリに来るようになっていた。多くは語らない。足の指は少しずつ動くようになっていた。ただ、舞の顔から笑顔が消えたままだった。指が動くたびに、どこか苦しそうな顔をした。
俺は新次郎を再び談話室に呼んだ。
「先生、お話とは?」
「お父さん、そろそろ舞さんに話す時が来ています」
「あの、ことですか?」
「ええ。体は少しずつ動き始めてる。でも、本人の顔を見てください。自分を責めたまま動こうとしている。それは、長くは続かない」
「話して、あの子に立ち上がる力が残ってますかね?」
「分かりません。でも、隠したまま立たせるよりは、マシだと俺は思います」
新次郎は長い間、膝の上の手を見ていた。それから、小さく頷いた。
その日の午後、リハビリの後で、新次郎は舞と2人きりになった。俺と真辺は隣の控室で扉を閉めた。真帆だけが、舞のそばに残ることを許された。
控室のソファに腰を下ろした真辺が、ぽつりと言った。
「先生、これ、酷じゃないですか?」
「酷だな」
「それでも、話させるんですか?」
「ああ、そうだ」
30分後、扉が開いた。出てきた新次郎の顔は蒼白だった。
「先生、話しました。全部」
「舞さんは?」
「黙ったままでした。一言も、私の顔も見ませんでした」
新次郎は廊下の壁に手をついた。
「先生、私はどうしたらいいんでしょう?」
「お父さん、今日話したことは、無駄じゃないですよ」
「無駄じゃない、ですか?」
「黙っていた父親より、話した父親の方が、いつか許される日が来ます」
新次郎は声を殺して泣いた。廊下にその嗚咽だけが小さく響いた。
リハビリ室の中で、舞は車椅子に座ったまま窓の外を見ていた。真帆がそっとその肩に手を置いていた。
舞の声はいつもより小さかった。
「私、ずっと自分のせいだと思ってた。自分が運転して、自分の人生を自分で壊したんだって」
「うん」
「違ったんだね」
舞の頬を涙が静かに流れていた。
それから数日、舞は口を利かなかった。リハビリには来た。真辺の指示には黙って従った。ただ、顔が違った。以前の諦めた顔ではない。何かを内側で整理しているような顔だった。
ある朝、リハビリ室に入ってきた舞が、俺の名を呼んだ。舞の方から名前を呼んだのは初めてだった。
「先生、お願いがあります」
俺は近くの椅子を引き寄せて、舞の前に座った。
「私、立ちたいんです。歩けるかどうか分かりません。でも、立ってみたいんです。一度だけでいいから」
「一度だけですか?」
「できれば、もっと」
舞は俺の目をまっすぐ見ていた。
「父のために立ちたいわけじゃないんです」
「じゃあ、誰のために?」
「自分のためにです。一度、自分の足で立った私を、私が見たいんです」
俺は真辺を呼んだ。三島にも声をかけた。三島は腕を組んで、リハビリ室の壁に寄りかかった。
「田所、聞いたぞ。立ちたいって言い出したそうだな」
「ああ、そうだ」
「まだ早いだろう」
「本人が望んでるんだ」
三島は短く息を吐いた。
「俺は奇跡は信じない。でも、本人の意思は信じる。データを出せ。それで俺が判断してやる」
その日から、本格的なリハビリが始まった。真辺は朝から晩まで舞の体を支えた。俺は神経の反応を細かく記録した。三島は時々顔を出して、データに目を通した。
平行棒の間に舞が初めて立った日、両側の棒に舞の白い手がしがみついていた。真辺が後ろから腰を支えていた。舞の足は震えていた。太ももの筋肉が、2年半の眠りからゆっくりと目を覚ましかけていた。
「真辺先生、手を離してみてください」
「まだ早いです」
「お願いします。一秒でいいんです」
真辺は俺を見た。俺は頷いた。真辺の手がそっと離れた。
一秒。舞は自分の足で立っていた。平行棒に手を添えたまま、確かに自分の体を支えていた。二秒目で、舞の膝が崩れた。真辺がすぐに支えた。
それでも、舞の顔には笑顔が浮かんでいた。事故から2年半、初めて見る本当の笑顔だった。
それから半年が経った。舞は杖を使って、短い距離なら歩けるようになっていた。完全な回復ではない。医学的には、ここまでが限界かもしれなかった。それでも、舞は歩いていた。
ある日、俺は真帆から一通の封筒を受け取った。中には招待状が一枚。小さなブランドの主催団体のファッションショー。出演者の欄に、水野舞の名前があった。
会場は都内の小さなホールだった。派手な照明はない。カメラもほとんどない。客席の前から3列目に、俺と真辺と三島が座っていた。
「田所、俺も参加しないとまずいのか」
「真帆さんからの招待だ。3人で、と指定があった」
「そうか」
新次郎は客席の一番後ろに、ひっそりと座っていた。
照明が落ちた。音楽が流れ始めた。最初のモデルが歩き出す。二人、三人とランウェイを進んでいく。そして、舞の番が来た。
舞台袖から出てきた舞は、銀色のドレスを着ていた。右手に、細い杖を一本だけ持っていた。歩幅は小さかった。一歩、また一歩。普通のモデルなら5秒で歩く距離を、舞は1分以上かけて進んだ。
会場は静まり返っていた。誰も咳一つしなかった。俺は隣の真辺を見た。真辺は唇を固く結んでいた。目が潤んでいた。
ランウェイの中央で、舞は一度立ち止まった。ゆっくりと客席を見渡した。その目が、後ろの席の新次郎にふと止まった。
新次郎は両手で顔を覆っていた。肩が震えていた。
舞は客席に向かって、深く頭を下げた。それから、もう一度ゆっくりと歩き出した。ランウェイの端まで歩き切った舞が、最後にもう一度振り返った。
その顔には、5年前の雑誌の表紙にあった、あの強い光が戻っていた。
俺の隣で真辺が小さく呟いた。
「先生、歩きましたね。舞さん」
「ああ、歩いたな」
ショーが終わって外に出ると、空が暗くなり始めていた。長い戦いが終わったわけではない。舞のリハビリはこれからも続く。それでも今日、この日、一人の女が自分の足で歩いた。この事実だけは、誰にも消せない。
夜風が頬に冷たかった。



