ロビーの中央で、姉が一人で立っていた。黒い着物の裾には白い藤の花が描かれ、髪には角隠しが載っている。花嫁の装いだ。だが、その周りには誰もいない。付き添いも、新郎もいない。見物人の輪だけが、少し離れた場所から姉を取り囲んでいた。誰も近づかない。何人かは手で口を覆い、肩を震わせている。
「冗談に決まってるでしょう。」
その声が、高い天井に響いた。輪の中の年配の女性が、姉に言い放った言葉だ。俺は入口で立ち尽くした。持っていた袱紗の角が指に食い込むのも気づかないほどだった。
俺の名前は七尾港。37歳の時、姉の結婚式でこの光景を目の当たりにした。姉は10歳上のあや。両親を早くに亡くした俺を、7歳の時から一人で育ててくれた人だ。その人が、今、これ以上ない形で侮辱されている。
両親が死んだ後、親戚たちは俺を施設にやろうとした。17歳だった姉は、それを断固として拒んだ。
「この子にはもう私しかいないから。私が育てます。」
叔父が「感情で決める話じゃない」と言えば、姉は「感情で決めます。それ以外に何で決めるんですか」と言い返した。結局、叔父は書類上の後見人になることだけを渋々承諾し、「金は出せんぞ」と言い残して、それきりほとんど家に来なくなった。
それからの姉の生活は、想像を絶するものだった。朝の5時に起きて弁当を作り、学校へ行き、放課後は駅前の食堂で夜の9時まで働く。帰ってからは俺の宿題を見て、自分の宿題をやる。高校を卒業してからは、朝は弁当工場、夕方からは食堂と、掛け持ちで働き続けた。俺が大学に行きたいと言った時も、姉は反対しなかった。むしろ、俺が「進学をやめて就職する」と言い出した時、初めて本気で怒った。
「私はね、あんたに楽をさせたくて働いてきたんじゃないの。あんたが選べるようにしてきたの。行きたいところに行って、やりたいことをやって、嫌なことは嫌だって言える人間になって欲しくて、そのためにやってきたの。その10年は、あんたが今ここで捨てるの?」
俺は東京の大学に進学した。学費の免除と奨学金でどうにかするつもりだったが、入学金と初期費用だけはどうしても現金が必要だった。途方に暮れる俺に、姉は「3月までに用意する」と言い、本当に用意した。どこから工面したのか、俺は聞かなかった。聞けば姉が困ると思ったからだ。そして、その金の出所を知るのは、19年後の今日になる。
大学を卒業後、俺は物流の会社を興した。倉庫の中の動きを作り、配送の順番を組み立てる仕事だ。最初は小さな会社だったが、15年で社員1800人、売上950億円を超える企業に成長した。姉には何度も仕事を辞めて楽をさせたいと言ったが、その度に断られた。「そういうのを人はお情けって言うんだよ」と。
姉が結婚するという知らせが来たのは、1年ちょっと前のことだ。相手は40歳の篠之介さん。食品大手「篠ノ食品ホールディングス」の社長の息子で、営業と商品開発を担当しているという。俺はその時、ある事実を胸に秘めていた。うちの会社は、篠ノ食品と500億円規模の物流センター建て替え計画を進めていたのだ。だが、俺は姉の喜ぶ顔に水を差したくなくて、そのことを言わなかった。担当が交わらない。そう自分に言い聞かせて。
式は6月、東京のホテルで行われることになった。姉は、母が遺した黒い着物を着ると言った。母は亡くなる間際まで、その着物を姉の寸法に直していた。袖の縫い目には、母の最後の力が込められていた。俺は7歳の夏、その縫い目を見て「ここ下手になってる」と指摘したことがある。母の手が震えていたからだ。その意味を、俺は今でもずっと知らないままでいた。
式の前日、姉からメッセージが来た。「明日は朝8時に美容室へ入ります。着物着られるみたいで嬉しい。おやすみ。」最後に、絵文字が一つ付いていた。姉が絵文字を使うのを初めて見た。
式は11時からだった。俺は朝一番の会議をどうしても外せず、終わってすぐ車を飛ばした。ホテルに着いたのは11時10分。遅刻だった。袱紗を手にロビーへ入ると、そこで足が止まった。
姉が一人で立っていた。母の着物を着て。そして、周りの人々が笑っている。
「あやさん、あなたまだ分かってらっしゃらないの?今日は篠之介の婚約披露のお席なんですよ。あちらの大広間で11時から始まっております。」
そう言ったのは、篠之介の母親、清子さんだった。彼女は続けた。
「あやさんにはね、こちらのロビーでお待ちいただいてるの。あなたのお席はお広間にはございませんから。支度だけはこちらの美容室にお願いしてもらいましたのよ。せっかくの置き物ですもの。写真くらいは残りますでしょう。1度きちんと諦めていただかないと、篠之介がまたふらつきますから。」
その時、大広間から男が出てきた。篠之介だ。彼は姉の前に立ち、首をかしげて言った。
「あやさん、本気でうちの嫁になれると思ってたんですか?」
姉の体が、一度だけ大きく動いた。俺は前に出ようとした。だが、出る前に、姉の手が俺の袖を掴んだ。
「港、帰ろう。ごめんね。こんな姿見せて。」
俺は姉の正面に立った。背中を向けて、あの人たちを視界から外した。
「謝るのは姉ちゃんじゃない。一言も謝らなくていい。その人は俺をここまで育ててくれた人だ。笑っていい人間なんて1人もいない。」
姉さんの目から、ようやく涙が落ちた。俺はハンカチを取り出し、姉の襟元に残った涙の粒を、押さえずに布の方へ吸わせた。母が仕事の時に布を扱っていた手つきを真似て。
「姉ちゃん、その着物すごく似合ってる。母さんが見たら絶対に綺麗だって言うよ。」
その時、清子さんがまた口を開いた。
「弟さん、あなた東京でお勤めですって。そちらのお家も大した家柄ではないんでしょう。」
その言葉を遮るように、奥から人が走ってきた。黒い服を着た50代の男。胸に名札を付けている。支配人の島さんだった。彼は俺の3歩手前で止まり、深々と頭を下げた。
「七尾社長、お島でございます。ご到着に気づかず大変失礼をいたしました。」
ロビーが静まり返った。島さんは続けた。
「本日はどのようなご用向きで?奥にお部屋をご用意いたします。お姉様をどうぞこちらへ。」
その一言で、俺はこの人が姉を輪の外へ逃そうとしているのだと分かった。
「島さん、うちの姉です。」
「姉上様でいらっしゃいますか?」
島さんの顔から血の気が引いていくのが見えた。その時、大広間からまた男が出てきた。白髪を後ろに撫でつけた、品のいい男。篠ノ食品の社長、篠之雪だ。彼は俺を見て足を止めた。島さんの声が届いていたのだろう。
「まさか、青空の七尾さん。」
「篠社長、ご無沙汰しております。青空物流システム代表取締役の七尾港と申します。そこにいるのが私の姉です。」
篠社長は名刺を受け取り、手を震わせながらそれを見た。俺は静かに続けた。
「篠社長、1つだけはっきりさせてください。今日のこれは、冗談だったんですよね。では、御社と進めている500億の契約も、冗談だったということにいたします。」
ロビーが真となった。
「待ってください!あれは来週締結です!うちの取締役会も通っている!」
「あの契約にはうちの会社の命運がかかっているんです。存じております。だからこそ、うちも2年かけて設計しました。うちの去年の売上が950億です。この案件は5年でうちの背骨にあたります。それを手放すことが何を意味するかは、私が一番よく分かっています。そちらの取締役会が通っていても、判はまだ押されていません。判を押す前に降りるなら、違約金は1円も出ません。決めるのはうちの取締役会です。週明けに議案を出します。来週の締結までに降ります。」
俺は、自分でも驚くほど静かな声で言った。
「私は取引先を数字だけで選びません。うちの倉庫で夜中に台車を押しているのは機械ではありません。人です。人を笑い物にする会社とは、信頼関係を築けません。私の姉の人生を冗談にした方々とは、なおさらです。」
篠社長は何も言えなかった。その時、篠之介が動いた。姉の方へ2歩近づき、声の調子を変えて言った。
「あやさん、違うんだ。これは親が勝手に決めたことで、俺は本当は君と……」
「やめてください。」
俺は間に入った。
「あなたは今日ずっとそこにいた。一言も止めなかった。姉を守れない人に、姉を任せるつもりはありません。」
篠之介が何か言いかけようとした。それを止めたのは、俺ではなかった。
「もういいです。」
姉の声だった。さっきまで泣いていた人の声とは思えないくらい、はっきりとしていた。
「篠之介さん、私は冗談で花嫁になるためにここへ来たんじゃありません。今日この着物を着たのは、あなたの家に入るためじゃないんです。母に見てもらうためです。それだけは、あなたたちに笑われる筋合いがない。」
姉は深く頭を下げた。
「お世話になりました。」
そして、背筋を伸ばしてまっすぐに歩き出した。着物の裾が絨毯の上を滑る。誰も笑わなかった。ロビーを出たところで、姉は壁に手をついた。俺は姉の肘を支えた。
「ごめん。ちょっとだけ。」
「情けないね。着物が重いだけなのに。」
「重いよ。母さんが本気で縫ったんだから。」
姉は少し笑った。その時、俺は決めた。この人を、このまま帰らせてはいけない。母の着物を着た日の記憶が、あの笑い声で終わってしまう。それだけは、どうしても嫌だった。俺は島さんを呼び、小さな部屋を借りて、姉のための祝いの場を設けた。秘書に連絡を取り、来られる社員を集めさせた。沢谷先生も、黒田さんも、そして、母の師匠だった久瀬さんも、小坂はるさんも、車椅子で駆けつけてくれた。
姉は、その部屋で、皆に囲まれて、何度も何度も頭を下げた。その時、俺は姉の荷物の中に、古い紙が一枚落ちているのを見つけた。預かり証と書かれている。正絹呉服店のものだ。日付は19年前の3月。預けた人の欄には、丸くて大きな字で「七尾あや」とあった。品名の欄には「黒地、藤、裾模様、引き振り袖1枚」とある。金額の欄は、何かで濡れたのか、読めなかった。
姉は、俺がそれを見ていることに気づいた。
「見ちゃったね。」
「姉ちゃん、これ、俺の入学金だろ。」
姉は否定しなかった。
「あの時ね、あと1つだけ残ってたの。道具は売ったし、お母さんの着物も、普段着の方は先に売ってた。残ってたのが、それだった。」
「なんで言わなかったんだよ。」
「言ったら、あんた行かないでしょ。」
姉はそう言って、少し笑った。3ヶ月で質流れになったこと。呉服屋のご主人が、売りに出さずにしまっておいてくれたこと。それを買い戻すのに7年かかったこと。俺が東京で「お金の無心をしなかった」のは、その分が毎月あの店へ行っていたからだ。
俺はその場にしゃがみ込んだ。立っていられなかった。
「7年。」
「うん。」
「その7年、俺は何をしてた?会社作ってたじゃない。順調だよって電話で言ってた。」
姉は俺の肩に手を置いた。
「あのね、港。私はあれを不幸だと思ったことは1度もないの。取り戻すものがあるって、結構いいものなの。」
その時、後ろから久瀬さんの声がした。彼女は、姉の袖の付け根を裏返し、白いしつけ糸をそっと避けて、その下を見せていた。
「分かりますか?しつけの下にあるのが、それを本当に繋いでいる縫い目です。米粒より細かい目が並んでいて、その途中から幅が急にばらついているでしょう。ここまではさちさんの普段の手です。揃っているでしょう。ここから先が違う。針を押す指に力が入らなくなってからの目です。痛くて押せない。それでも押した。その人の手の跡です。この人は、最後の何日かをここに使ったんですよ。」
俺は、その乱れた縫い目を見た。7歳の夏に「ここ下手になってる」と指さした場所だった。母は、自分がもう起き上がれないと分かっていて、それでも娘の袖を縫っていた。いつか着る日のために。
「姉ちゃん、俺は立ち上がった。姉さんの前に立って、まっすぐに見た。俺にとって姉ちゃんは親で家族で、俺に人生をくれた人です。俺が会社をやれてるのは、俺がすごかったからじゃない。姉ちゃんが自分の人生を削って俺を育ててくれたからだ。進学も就職も結婚も全部後に回して、それでこの着物まで手放して、俺はその上に立ってた。」
姉は首を横に振った。
「違うよ。私はね、そんな立派なこと考えてなかった。あの日、おじさんたちが来た時、私は難しいことなんて何も考えられなかったの。ただ、あんたに生きて欲しかっただけ。それだけだったの。」
部屋の中は静かだった。俺の目から涙が落ちた。人前で泣いたのは、7歳のあの夜以来だった。
「うん。だから今度は俺が姉ちゃんを守る番だ。」
しばらくして、姉は目をこすって立ち上がり、部屋にいる人たちの方へ向き直った。
「あの、私、格式張ったご挨拶をしたことがなくて、うまく言えないんですけど。皆さん、ありがとうございました。私は今日、いらないと言われた人間なんですけど、こんなに人が来てくださって、私、ちゃんと生きてきたのかもしれないと、今初めて思いました。」
部屋のあちこちですすり泣く声がした。黒田さんが「よし」と言って手を叩き、それに釣られて部屋中が拍手になった。姉は何度も何度も頭を下げていた。俺は財布から、小さな銀色の指ぬきを取り出した。母のものだ。19年間、一度も出したことがなかった。俺はそれを姉の手のひらに乗せた。
「返す。俺はもうお守りがなくても立てるから。今度は姉ちゃんが持ってて。」
姉は指を握りしめて、そこでこれまでで一番大きな声で泣いた。
会が終わったのは、午後3時を回った頃だった。帰りの新幹線で、姉は座って5分で眠った。家に着くと、姉は荷物を置いて、箪笥の一番下の引き出しに着物をしまった。台所でお茶を飲みながら、姉は言った。
「港、あの契約、本当に捨てたの?」
「捨てた。」
「私、また借りを作っちゃったね。」
「違う。あれは俺が俺の会社のために決めたことだ。人を笑い者にする相手とは組めない。姉ちゃんの借りじゃない。」
姉は何か言いかけてやめた。それから、小さく「そう」と言った。そして、ぽつりと呟いた。
「1つだけ言っていい?顔合わせの時、1度だけ言われたの。『お育ちが知れますね』って。あの人のこと、まだ少しだけ好きなの。それが一番嫌。」
「うん。」
「でも、好きだから許すっていうのは、もうやめる。」
俺は何も言えなかった。
その後、姉は久瀬さんのところへ通い始めた。週4日、着物の仕立てを学ぶために。春食堂は週2日だけ開けることにした。姉は49歳になっていた。最初の1年は、ほとんど雑巾のような布を縫っていたそうだ。まっすぐ縫えるようになるまで半年かかったという。それでも、姉は初めて人の着物に手を入れた時、3週間かけて仕上げた。亡くなったお母さんの黒留袖を、娘さんが着られるように直す仕事だった。式の後、その娘さんが店に来て、姉に頭を下げていったという。式の日、花嫁になった娘さんが、その袖を何度も撫でていたそうだ。「おばあちゃんの着物だね」と言って。それを聞いて、お母さんは泣いてしまったのだと。
その話をする時の姉の顔を、俺は一生忘れないと思う。誰かの役に立ったという顔ではなかった。自分の手で何かを最後までやり切った人の目だった。
あれから2年が過ぎた。俺は仕事の仕方を変えた。会議の数を減らして、判断を人に渡した。月に1度は地元へ帰る。春食堂のカウンターの端が、俺の席だ。中学生の頃と同じ席に座って、姉の作る煮物を食べる。
去年の秋、俺は箪笥の前で姉が着物を畳んでいるのを見た。年に一度の虫干しの日だ。縁側に移行を出して、黒い着物を風に当てている。俺は縁側に座ってそれを見ていた。
「姉ちゃん、その着物さ、もう嫌な思い出になっちゃったかな?」
姉は手を止めて、少し考えた。それから笑った。
「うん。あんたが綺麗だって言ってくれたから。ちゃんと大切な着物のままだよ。」
俺は返事ができなかった。喉の奥が熱くなって、瞬きを何度もした。姉は着物を畳み始めた。母から教わった通りの順番で、しつけを伸ばしながら畳んでいく。袖の内側には、また白い糸が渡してある。あの日ほどかれた母のしつけはそのままに、姉が自分の手で新しいしつけを駆け出したのだ。目の感覚は、まだ少しだけ揃っていない。
姉は畳みながら言った。
「私ね、やっと分かったの。私は誰かのお嫁さんになる前に、ちゃんと自分の人生を幸せにしていいんだね。今までそれが自分に許されてない気がしてたの。弟がいるから、お金がないから、若くないから。理由なんていくらでもあったし。でも、全部私が自分に出してた宿題だった。」
姉は帯の紐を結んだ。あの夏の縁側と同じ手つきだった。
「当たり前だよ。姉ちゃんは誰よりも幸せになっていい人なんだから。」
姉は帯の紐を持ったまま、急に思い出したように言った。
「そういえば、あんたはどうなの?何があんたの幸せ?」
「俺は仕事が……」
「はい、それ禁止。」
姉は俺の言葉を途中で切った。
「あんた、私に散々言ったでしょ?自分のこと考えろって。今度は私が言う番。港、あんたも自分の人生を幸せにしていいの?」
俺は返す言葉がなかった。何年もかけて姉に言い続けた言葉が、そっくりそのまま帰ってきた。返されて初めて、その言葉がどれだけ重かったのかを知った。
「考えとく。」
「考えるだけじゃだめ。」
「分かったよ。」
姉は箪笥を胸に抱えたまま、こっちを見て笑った。長い荷物を下ろした人の顔だった。その顔を、母にも見せてやりたかったと思う。いや、多分、見ている。母は最後の何日かを、あの袖に使った人だ。今も、あの糸のところに、ちゃんといるのだと思う。
篠ノ家の一族にとって、姉の結婚式は冗談だったのかもしれない。でも、俺にとってあの日は、親代わりに俺を育ててくれた姉に、本当の恩返しができた日だった。



