診断書を差し出した私の手は震えていた。夫はそれを一瞥もせず、鼻で笑った。「発血病?お前が?誰が信じるかよ」と。命の瀬戸際を彷徨う私の病を、彼は家事をサボるための仮病だと決めつけた。高額な治療費の請求書は、夫の姪が買ったブランドバッグの領収書の下敷きにされて、ゴミ箱へ捨てられた。そんな中、釣りでかすり傷を負っただけの姪には、夫は大騒ぎで病院へ直行だ。私は誰もいなくなったリビングで、ただ立ち尽く…

診断書を差し出した私の手は震えていた。夫はそれを一瞥もせず、鼻で笑った。「発血病?お前が?誰が信じるかよ」と。命の瀬戸際を彷徨う私の病を、彼は家事をサボるための仮病だと決めつけた。高額な治療費の請求書は、夫の姪が買ったブランドバッグの領収書の下敷きにされて、ゴミ箱へ捨てられた。そんな中、釣りでかすり傷を負っただけの姪には、夫は大騒ぎで病院へ直行だ。私は誰もいなくなったリビングで、ただ立ち尽く...

診断書を差し出した私の手は震えていた。夫はそれを一瞥もせず、鼻で笑った。
「発血病?お前が?誰が信じるかよ。」
命の瀬戸際を彷徨う私の病を、彼は家事をサボるための口実だと決めつけた。高額な治療費の請求書は、夫の姪が買ったブランドバッグの領収書の下敷きにされて、そのままゴミ箱へ捨てられた。
そんな中、釣りでかすり傷を負っただけの姪には、夫は大騒ぎだ。
「大変だ!恵が怪我をした!」
彼は大慌てで恵を車に乗せ、猛スピードで病院へと向かっていった。命の危険と隣り合わせだった私のことなど、一笑に付して。彼の実の姪の、たかが擦り傷にはこの騒ぎよう。
私は誰もいなくなったリビングで、ただ立ち尽くすしかなかった。心の中が氷のように冷えていく。この人たちは、もう人間ではないのかもしれない。

私の名前は森崎やい、38歳。都内で子供向けのプログラミング教室を運営している。夫の生吾は大手銀行に勤めるエリートで、私たちは郊外の少し広い一軒家で暮らしていた。傍から見れば何不自由ない、円満な生活だったと思う。
異変に気がついたのは数ヶ月前のことだ。どうにも体がだるく微熱が続き、覚えのない痣が体のあちこちにできていた。
「ねえ、生吾さん。なんだか最近ずっと体調が悪くて…」
「そんなもん、寝てりゃ治るだろ。大げさだな。」
夫はスマホから顔もあげずにそう言い放った。7歳年上の彼は、昔から私をどこか見下しているところがあった。
それでもまさかと思いながら病院へ行くと、告げられたのは信じられない病名だった。
「急性骨性発血病です。すぐに入院して治療を始める必要があります。」
頭が真っ白になった。
その夜、震える声で夫に診断結果を告げた。私の人生を揺るがす一大事なのだから、さすがに彼も動揺するだろうと思った。しかし夫の反応は、私の想像をはるかに超えるものだった。
「発血病?お前が?誰が信じるかよ。」
彼はソファに寝そべったまま、テレビから視線も動かさずに鼻で笑う。
「本当なの?病院の診断書だって。」
「はい、はい。どうせ家事をサボりたいだけの仮病だろ。そんな嘘に付き合ってるほど俺は暇じゃないんだよ。」
彼は面倒くさそうにそう言うと、私に背を向けて寝返りを打った。私の言葉は一切、彼の心に届かなかった。

教室の運営があるためすぐには入院できない。私は抗がん剤治療のため、自力で電車を乗り継ぎ、郊外の自宅から都心の病院へ通うことになった。
「ごめんなさい。もし可能なら、駅まで車で送ってもらえないかな。」
「はあ?めんどくさいな。俺は朝早いんだよ。タクシーでも呼べばいいだろう。」
彼の冷たい言葉に、すがる気力も失せてしまった。

そんな我が家には、夫の姪である恵が居候している。職も探さず毎日ブランド品を買い漁っては、その支払いを夫にねだるような娘だ。
先日、病院から届いた高額な医療費の明細書を、リビングの机に置いておいた。少しは夫も、ことの重大さに気づいてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
しかし数日後、私がその明細書を見つけたのは、ゴミ箱の中だった。ご丁寧に、恵が買ったブランドバッグの派手な領収書の下敷きにされて。
その瞬間、私の中で何かがぶつりと切れたのを感じた。夫への失望と、静かだが確かな怒りが、心の奥底から分け上がってきたのである。

夫の姪である恵が我が家に転がり込んできたのは、半年前のことだった。彼女の父親、つまり生吾の兄は真面目な人で、娘の放蕩な生活を許さなかったらしい。
「おじさん!パパがうるさくて家にいられないの。助けて。」
そう泣きつかれ、生吾は二つ返事で居候を許可した。私には何の相談もなく、勝手に。
恵は私が来客用に用意していた部屋を見るなり、不満をあらわにした。
「へえ?何この部屋?地味すぎない?ベッドも小さいし。もっと可愛いのに買い換えてよ、おじさん。」
「はあ、そうだな。恵にはもっといい部屋が必要だな。よし、週末にでも家具を見に行くか。」
私が買い揃えたカーテンやシングは、あっという間に彼女好みの派手なものへと変えられていった。それどころか、私が大切にしていたアンティークの小物入れが、ゴミ袋に入っているのを見つけた。
「恵さん、これは…」
「ああ、それ?なんか古臭かったから捨てといた。それより見て、おじさん!このフリルのベッドカバー、超可愛くない?」
私の言葉を遮り、彼女は新しいカタログを生吾に見せる。夫は私の悲しそうな顔を一瞥もせず、恵の頭を撫でた。
恵の部屋はすぐにブランド物のバッグや服、化粧品で埋め尽くされる。その資金は、もちろん全て生吾だ。
ある日、私は夫の書斎でクレジットカードの明細を見つけてしまった。そこには「銀座 高級ブティック 35万円」「有名ブランド時計 50万円」という文字が並ぶ。そのすぐ隣には、私が先日提出した抗がん剤治療に関する5万円の請求書が、未開封のまま放置されていた。
震える手でそれを手に取り、リビングで夫に突きつけた。
「生吾さん、これはどういうこと?私の治療費は後回しで、恵さんにはこんな大金を…」
生吾は心底面倒くさそうに顔をあげ、鼻で笑った。
「お前の治療費なんて、高が知れてるだろ。それより恵の喜ぶ顔の方が、よっぽど価値がある。そもそもお前が病気になったせいで、余計な金がかかるんだ。少しは感謝しろよ。」
私には治療費すらまともに渡そうとしないくせに、恵には湯水のようにお金を使う。その矛盾に、もう何も言えなくなった。
私の病気のことなど、彼らの頭にはない。副作用が辛くソファでぐったりしている私の横で、二人は楽しそうにテレビを見ていた。
「おじさん!今度出る限定のバッグ欲しいな。」
「よし分かった。今度のボーナスで買ってやるからな。」
「やった!おじさん大好き!」
私を透明人間のように扱い、二人の世界が出来上がっていた。夫の関心は、もう完全に私から姪へと移っている。それを確信するのに、時間はかからなかった。

その後、幸いにもドナーが見つかり、私は骨髄移植という大手術に臨んだ。
無菌室での孤独な闘病生活は、想像を絶するほど辛いものだった。見舞いに来る者は誰もいない。夫から来たメッセージは、入院から1週間後にたった一度だけ。
「いつ退院だ?家事が滞って迷惑してる。」
その無神経な文面に、涙も出なかった。
私が命がけで病と戦っている間にも、大切に育ててきたプログラミング教室の運営は少しずつ停滞し、その影響が出始めているとスタッフから連絡が入る。早く復帰しなければ。生徒たちが私の帰りを待っている。
私はただ、教室の生徒たちが作ってくれたお守りを握りしめ、歯を食い縛って治療に耐える。何度も心が折れそうになりながら、それでも「帰りたい」という一心で耐え抜いた。
そして数ヶ月後、私はようやく退院の許可を得て、我が家へと戻る。しかし私を待っていたのは、温かい出迎えではなかった。
「なんだ、もう退院か。意外と元気そうじゃないか。」
リビングで寝転がりテレビを見ていた夫は、私を一瞥してそう言う。家の中は荒れ放題で、シンクには汚れた食器が山積みになり、私が大切に育てていた観葉植物は枯れ果てていた。
「おかげ様で。でも、まだ免疫力も低いから無理はできないの。」
「ふーん。結局、家事をサボるための口だろ、それ。」
耳を疑った。命がけの手術を終えて帰ってきた妻にかける言葉が、それなのか。
血の気が引いていくのが分かった。
私がやつれた姿でキッチンに立とうとすると、二階から恵が降りてきた。
「ふわ、何この人?髪の毛ないじゃん。キモい。幽霊みたい。」
抗がん剤の副作用で抜け落ちた髪を隠すため、私はニット帽をかぶっていた。恵はそれを指さして、大声で笑う。
「恵さん、それ…」
「は?ごめんなさい。でも本当のことじゃんね、おじさん。」
「まあまあ、やよい。お前もそんな姿でうろちょろするなよ。見苦しい。」
その言葉は、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
二人は私を完全に無視して、楽しそうに夕食の相談を始める。
「ねえ、おじさん。今日のご飯、お寿司が食べたい!おばさんの作った病人食なんて、見てるだけでまずそうだもんね。」
「はあ、そうだな。よし、出前でも頼むか。やよい、お前はそこの残り物でも食ってろよ。」
彼は、昨日私が作ったお粥の残りを顎でしゃくった。私の心は、もう何も感じなくなっていた。ただ、この地獄から抜け出すことだけを考えていた。

そんなある週末のこと。午後、恵と生吾の二人は釣りに出かけていった。
そして夕方、玄関のドアが勢いよく開き、生吾が恵を抱えるようにして飛び込んできた。
「大変だ!恵が怪我をした!」
「痛いよ、おじさん…」
見れば、恵の膝からほんの少し血が滲んでいる。釣り場で転んで軽く擦り向いただけのようだった。
しかし生吾の慌てようは尋常ではない。
「おい、やよい!突っ立って見てないで救急箱持ってこい!…だめだ、病院だ!俺が連れて行く!」
彼は大騒ぎで恵を車に乗せ、猛スピードで病院へと向かっていった。
命の縁を彷徨った私のことは、家事をサボる仮病と笑い飛ばし、姪のたかが擦り傷にはこの大騒ぎ。私は誰もいなくなったリビングで、ただ立ち尽くすしかなかった。心の中が氷のように冷えていく。この人たちは、もう人間ではないのかもしれない。
一時間ほどして、二人はケラケラ笑いながら帰宅した。恵の膝には大げさな包帯が巻かれている。その手には、高級寿司の折り詰めがあった。
「やだ、おばさんまだいたの?病人はさっさと寝れば?見てるだけで気分悪いわ。」
「全くだ。病気のくせにうろちょろされると、こっちが迷惑なんだよ。口うるさいババアだな。」
その言葉に、私は顔をあげた。
「今、何て言ったの?」
「ああ?聞こえなかったのか?お前がいると目障りなんだよ。この家は、これからは俺と恵が快適に暮らすんだ。」
彼はソファにふんぞり返り、私を見下していった。そしてテーブルの上に一枚の書類を叩きつける。
「ここにサインしろ。この家の名義を、俺に変える。」
それは、不動産の権利譲渡に関する書類だった。
「お前みたいな病人は、もういらない。それに、その見にくい頭じゃ、もう女としても終わりだろう。さっさとサインして、とっとと出ていけ。」
「そうよ。おじさんと私のアイナスなんだから。おばさんは邪魔。早く消えてよ。」
二人の醜悪な笑い声が、リビングに響き渡る。
ようやく全てを理解した。彼らは、私が病気で弱るのを待ち、全てを奪い取って追い出すつもりだったのだ。私を、都合のいい家政婦とATMくらいにしか思っていなかった。
怒りを通り越し、底知れぬ絶望と虚しさが押し寄せる。だが、その闇の底で、小さな光が灯った。
「冗談じゃない。」
私の人生を、私の家を、私の尊厳を、こんな奴らに好き放題させてたまるか。
私は静かに顔をあげ、二人をまっすぐに見据えた。
私の人生を取り戻すための戦いが、今、静かに幕を開けたのだった。

あの日を境に、私は抜け殻のふりをしながら、水面下で着々と準備を進めた。まず向かったのは、書斎の奥にある小さな金庫。そこには、亡き父が残してくれた大切な書類が保管されている。この家の権利書が。
震える手で権利書を開くと、そこにはっきりと「所有者 森崎やい」と記されていた。結婚前に父から相続した、私だけの資産。父が残してくれた、最後の砦。これを、あの悪魔たちから守り抜かなくては。
私はすぐに、父の代から付き合いのある不動産会社に連絡を取った。数日後、夫と恵が連れ立ってショッピングに出かけた隙を狙い、査定員を家に招いた。
「いやあ、素晴らしい物件ですね。確かに築年数は経っていますが、駅からの距離、周辺環境、そして何より…最近この地域の再開発計画が決定しましてね。」
私の知らないところで、この郊外の土地の価値は驚くほど高騰していたらしい。
「これなら、五千万円はくだらないでしょう。すぐに買い手が見つかりますよ。」
予想をはるかに超える金額に、思わず息を飲んだ。これだけあれば、新しい人生を始めるのに十分すぎる。私はその場で媒介売買契約を結んだ。「できるだけ早く、そして高く」という私の要望に、査定員は力強く頷いてくれた。
それと並行して、私は弁護士を探し始めた。離婚と財産分与に強い女性の弁護士を。
インターネットで見つけたその人は、私の話を真摯に聞いてくれた。
「酷い話ですね。病気の奥様に対して、あまりにも酷すぎる。慰謝料もしっかり請求しましょう。」
弁護士は、私のやつれた顔と、それでも失わない強い意思を宿した目を見て、全面的に協力してくれると約束してくれた。彼女が用意してくれた離婚届に、私は迷いなく署名し捺印した。心が、少しだけ軽くなるのを感じた。
私の反撃計画は、誰にも気づかれず、静かに、しかし確実に進行していく。家では、これまで通り、やれ弱々よよわしい妻を演じた。
「おい、いつまで寝てるんだ?飯はまだか?」
「ねえ、おばさん、この服クリーニング出しといて。後で取りに行くの面倒だから。」
彼らは私が黙って従うのをいいことに、日に日に態度を大きくしていく。その全てを、私は冷静に受け流した。
「あなたたちがこの家で好き放題していられるのも、あとわずかなのだから。」
そして計画開始から二ヶ月後、ついにその日はやってきた。不動産会社から「イギリスから移住されるご夫婦が、大変この家を気に入っておられます」と連絡が入ったのだ。
提示された金額は、査定額を上回る五千五百万円。私は二つ返事で売買契約に同意した。
新しい住まいも既に決めてある。プログラミング教室にも通いやすい区のタワーマンション。セキュリティは万全で、コンシェルジュも常駐している。二度と、誰にも私のテリトリーを犯させはしない。
契約完了から一週間後の夜、私は全ての準備を終えた。
その日も、リビングで生吾と恵が高級なデリバリーを囲み、下品な笑い声をあげていた。
「いやあ、部長のやつ、本当に見る目がなくてさ。俺の手柄を横取りしやがって。」
「最低!でも大丈夫だよ、おじさんはエリートなんだから、すぐ見返せるって!」
私は静かにリビングに入り、テーブルの上に一通の封筒を置いた。
「二人とも、少しいいかしら。」
私の、いつもとは違う凛とした声に、二人はいぶかしげな顔を向ける。
「なんだよ、気持ち悪いなあ。また体調が悪い自慢?もう聞き飽きたんだけど。」
私は何も言わず、封筒から書類を取り出しテーブルの上に広げた。それは、不動産売買契約書だった。私の署名と、買主であるイギリス人夫婦のサイン、そして不動産会社の確認が、はっきりと押されている。
「この家、売りました。」
一瞬の静寂。そして次の瞬間、二人の爆笑がリビングに響き渡った。
「ぶはははは!おい、恵、聞いたか?こいつ、家を売っただってよ!頭の病気も、いよいよ末期だな!」
「受ける、おばさん!そんな偽物の書類、どこで印刷したの?寂しいからって、かまってちゃんも大概にしてよね!」
二人は腹を抱えて笑い転げている。その姿を、私は冷たい目で見下ろした。
「偽物だと思うなら、よく見るといいわ。そこに記載されている不動産会社に電話で確認してみたら?」
私の落ち着き払った態度に、ようやく生吾の顔から笑みが消えた。彼は契約書をひったくるように手に取り、その隅々まで目を通し始める。そしてその顔が、見る見るうちに青ざめていく。
「ば、バカな…。な、なんだこれは!本当なのか?」
「え、嘘でしょ?おじさん?」
「ええ、本当よ。来月の末には、新しい住人の方が引っ越してくるわ。だからあなたたちは、それまでに出ていってもらわないと。」
「ふ、ふざけるな!俺の許可なく、勝手な真似を!」
「そうよ!ここは私たちのお城なのよ!あんたなんかに、そんな権利あるはずないでしょ!」
反響欄で叫ぶ二人を前に、私はもう一枚の切り札を取り出した。病院の診断書と、骨髄移植手術の同意書、そして高額な治療費の領収書の束。
「私が家事をサボる口だと言った、私の病気。その証拠が、これよ。」
テーブルに叩きつけられた書類の山を見て、二人は言葉を失った。そこには、彼らが嘘だと決めつけていた私の記録が、紛れもない事実として記されていた。
「発血病…本当に…」
「そ、そんな…」
「ええ。あなたたちが私の治療費の請求書をゴミ箱に捨てて、ブランド品を買い漁っている間、私は一人で死の淵を彷徨っていたの。」
私の静かな言葉が、二人の心臓に突き刺さる。彼らの顔から血の気が、完全に引いていた。
「でも、もういいの。おかげで、目が覚めたから。この家の売却代金五千五百万円と、私のプログラミング教室の収入があれば、今後の生活に困ることはないわ。」
私はハンドバッグから、署名と捺印を済ませた離婚届を取り出した。
「そして、これも近いうちに役所に提出するから。」
「離婚…待ってくれ!が、良い!俺が悪かった!謝るから!」
「ごめんなさい、おばさん!私、どうかしてたの!」
さっきまでの威勢はどこへやら、二人は慌てて床に膝をつき、私に土下座した。見苦しく擦り寄り、許しを請うている。
「考え直してくれ!俺にはお前が必要なんだ!」
「私も、真面目に働くから!だから、追い出さないで!」
私はそんな二人を、冷ややかに見下ろした。
「必要?私が病気で役に立たないと分かった途端、家から追い出そうとしたあなたが?」
「真面目に働く?私の大切なアンティークの小物入れをゴミ箱に捨てたあなたが?」
私の言葉に、二人は唸る他ない。
「もう遅いのよ。全て、あなたたちが自分で招いたことだわ。」
私は踵を返し、玄関へと向かった。背後で、二人の必死な叫び声が聞こえる。しかし私の心は、もう微動だにしなかった。
ドアを開け、外の冷たい空気を吸い込む。振り返ることなく、私はその家を後にした。私の人生を取り戻すための、大きな一歩を踏み出したのだった。

あの家を出てから二週間。タワーマンションでの新しい生活は、驚くほど穏やかだった。眼下に広がる都会の夜景を眺めながら、私はようやく手に入れた平穏を噛みしめていた。
プログラミング教室の運営も、少しずつ元の軌道に戻りつつあった。生徒たちの笑顔と、講師たちの支えが、何よりの薬だった。
しかし、その平穏は一本の電話によって、もろくも崩れ去る。教室の保護者の一人からだった。
「先生、大変申し訳ないのですが、今月一杯でうちの子はやめさせていただきます。」
突然の申し出に、私は戸惑った。その子は、誰よりもプログラミングが好きで、熱心に通ってくれていたはずだ。
「何か、至らない点でもありましたでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは…。ただ、その…先生のことで、良くない噂を耳にしまして…。」
電話口の向こうで、彼女はひどく口ごもっている。悪い予感が、胸をよぎった。
その予感は、すぐに現実のものとなる。
翌日、教室に出勤すると、講師や保護者たちの視線が、どこか冷たく、探るようだった。「何か、聞いた?」「かわいそうに…。」私に向けられる、哀れみと軽蔑の入り混じった眼差し。何が起きているのか分からず混乱する私の耳に、衝撃的な言葉が飛び込んできた。
「聞いた?森崎先生、やっぱり精神的に参ってるみたいよ。ご主人が言ってたわ。病気を盾に妄想を撒き散らして、家も勝手に売り払って、ご主人を路頭に迷わせたんだって。」
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。生吾と恵だ。あの二人が、私の大切な場所にまで毒を撒き散らし始めたのだ。
噂は想像以上の速さで広がっていた。「夫の財産を食い潰す悪妻」「精神病で正常な判断ができない」。SNSには、そういった根拠もない憶測が、面白おかしく書き立てられていった。
新規の受講希望者はぱったりと途絶えた。既存の生徒も、一人また一人とやめていく。私が人生をかけて築き上げてきた城が、外側から、そして内側から、静かに崩壊していく。夜、一人きりの部屋で、私は震えが止まらなかった。
彼らの狙いは、ただの嫌がらせではない。私を社会的に孤立させ、「精神的に病んだ、正常な判断ができない人間」というレッテルを貼ることで、私の財産——家の売却代金と、教室の権利——を強奪い取るつもりなのだ。このままで、本当に全てを失ってしまう。恐怖と怒りで、気が狂いそうだった。
その時、スマートフォンの着信音が鳴った。表示されたのは、学生時代からの親友の名前。震える手で電話に出ると、彼女の切羽詰まった声が聞こえてきた。
「やよい!大丈夫?今、SNS見たんだけど…。何、あれ?あなたの教室のことで、とんでもないことが書かれてるじゃない?」
彼女は、私が話す前に一気に捲し立てた。
「夫を追い出した悪女だとか、精神的に病んでるとか…。出鱈目にも程があるわ!あんなの、明らかに誰かが悪意を持ってあなたを陥れようとしてる。大丈夫?何かあったの?私にできることがあったら、何でも言って。」
私が何も言わないうちから、全てを出鱈目だと断じ、心から心配してくれる親友の言葉。その温かさに、こらえていた涙が溢れ出した。
「ありがとう…。実は…。」
私はこれまでの経緯を、途切れ途切れに話した。彼女は黙って、私の言葉を全て受け止めてくれた。
「そうだったのね…。酷すぎる。でも、やいは一人じゃないから!絶対に負けちゃだめよ。」
「そうだよ。こんなの、立派な名誉毀損よ!奴らが嘘を広めているっていう証拠を集めるのよ。そのSNSの書き込みとか、全部保存して!」
その言葉に、私ははっと我に返った。そうだ。まだ終わっていない。私は、まだ戦える。
私は覚悟を決めた。小型のボイスレコーダーを購入し、常に携帯するようにした。SNSの誹謗中傷は全てスクリーンショットで保存。講師や保護者との会話も、細心の注意を払いながら録音した。
そんな中、一人の高校生の生徒が、レッスン後に私の元へやってきた。教室の立ち上げ当初から通ってくれている、聡明な男の子だ。
「先生、これ…。」
彼が差し出したスマートフォンには、動画が映し出されていた。それは数日前の、教室の前で生吾と恵が、他の保護者たちに何かを熱心に語りかけている映像だった。
「妻は、病気のせいで少しおかしくなってしまって…。私がどれだけ尽くしても、妄想が酷くなるばかりで…。」
「そうなの?おじさんが可哀想に。おばさん、私たちを家から追い出して、お金も全部持っていっちゃったのよ。」
音声もクリアに録音されている。これ以上ない決定的な証拠だった。
「俺、先生のこと信じてますから。先生が作ったこの場所が、大好きですから。だから、負けないでください。」
涙で滲む視界の中で、私は何度も頷いた。私は、一人じゃなかった。

数週間後、私の手元には膨大な量の証拠が集まっていた。録音データ、SNSのログ、そして複数の生徒や保護者からの証言。私はそれら全てを携え、弁護士の事務所を訪れた。
分厚い証拠ファイルの束を見た弁護士は、驚きの表情を浮かべた後、力強く言った。
「これだけあれば、まず間違いなく勝てます。名誉毀損による損害賠償請求、そして慰謝料。奴らが最も嫌がる形で、社会的制裁を与えましょう。」
その言葉に、私は静かに頷いた。弁護士はすぐに、生吾と恵宛に内容証明郵便を作成してくれた。内容は、名誉毀損行為の即時中止、公式な謝罪、そして損害賠償を要求するものだ。
内容証明が送付されてから三日後のこと。弁護士を通して、生吾から「直接会って話をしたい」と連絡があった。
話し合いの場として指定されたのは、弁護士事務所の会議室。
現れた生吾と恵は、以前の土下座が嘘のように、ふてぶてしい態度だった。
「なんだ、弁護士まで立てて。大げさな女だな。少しは反省したかと思って、話し合いの機会を設けてやったんだぞ。」
「そうよ!おじさんの温情に感謝しなさいよね!」
私は何も言わずに、分厚いファイルの束をテーブルに滑らせた。それは、SNSへの誹謗中傷の投稿記録を、全て印刷したものだ。
「この“悲劇のメイ”というアカウント、あなたのよね、恵さん。」
恵は鼻で笑った。
「はあ?何それ?知らないわ。勝手に決めつけないでくれる?」
「そう。じゃあ、これはどう説明するのかしら?」
私は一枚のページを指さした。そこには、恵が自慢げに持っていた限定品のバッグの写真と共に、「銀行員のおじさんに買ってもらったの!超お気に入り」という文章が投稿されている。
「このバッグ、あなたが生吾さんに買ってもらったものと同じデザインね。そしてこの投稿時間、あなたがこのバッグを持って帰宅して、私に見せびらかした直後だわ。」
さらに、私は別のページをめくる。
「この投稿も面白いわね。“口うるさいおばさんのせいで、マジ最悪。”あなたがよく使う、この特殊な顔文字の組み合わせ。あなたの過去の投稿と、全て一致している。」
恵の顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「でも、決定的なのは、これよ。」
私が最後に突きつけたのは、ある投稿のスクリーンショット。「おばは病気で頭がおかしい」と書き込んだ、この投稿。アイコン画像が、一瞬だけあなたの自撮り写真になっていたのを、私は見逃さなかった。すぐに削除したようだけど、もう手遅れ。しっかり保存させてもらったわ。
恵の顔が、さっと青くなる。
次に、私はボイスレコーダーを再生した。教室の前で、生吾が涙ながらに「可哀想な夫」を演じている、あの音声だ。
「な…、これは…!」
「あなたの目的は、分かっているわ。私を精神異常者に仕立て上げ、成年後見制度を利用して、私の財産を管理する権利を得る。そうでしょう?」
私の指摘に、生吾は言葉を失い、額に脂汗を浮かべている。エリート銀行員としてのプライドと、破滅への恐怖が、その顔の上で攻め合っていた。
「選択肢は二つ。一つは、このまま法廷で争うこと。あなたの銀行にも、この音声データと証拠資料を送らせてもらうわ。“エリート行員が、病気の妻を騙して財産を奪おうとした”…面白いニュースになるでしょうね。」
生吾の方が、大きく震えた。彼が何よりも恐れるのは、社会的信用の失墜だ。
「もう一つは、私の要求を全て飲むこと。教室の全生徒、保護者、講師宛に、あなたたちが嘘を広めたことを認める謝罪文を配布する。そしてSNS上でも、公式に虚偽を認めて謝罪する。もちろん、慰謝料と損害賠償も、一円足りとも負けません。」
私は冷たく言い放った。
「さあ、どちらがいいか、選びなさい。」
会議室に、重い沈黙が流れる。やがて生吾は、絞り出すような声で呟いた。
「分かった…。謝罪する…。だから、銀行だけは…。」
その情けない姿を、私は静かに見下ろした。私の第二次反撃は、こうして完璧な形で幕を閉じたのだった。

約束通り、生吾と恵は連盟で作成した謝罪文を、教室の関係者全員に配布した。SNSにも、全ての嘘を認める謝罪投稿が掲載される。しかし、その謝罪は逆に、世間の怒りの火に油を注ぐ結果となった。
SNSでは、私を誹謗中傷していたアカウントが恵のもので、一緒にいた生吾も特定され、二人の自己中心的な過去の投稿も、次々とさらされていく。「エリート銀行員の陰湿ないじめ」というハッシュタグまで作られ、騒動は教室という狭いコミュニティを飛び越え、瞬く間にネット全体を巻き込む大炎上へと発展したのだ。
当然、この大炎上は生吾が務める銀行の上層部の耳にも届いていた。コンプライアンスを重視する大手銀行が、自社の行員が引き起こした社会的なスキャンダルを看過するはずもなかった。
生吾は、病気の妻に対する経済的DV、そして姪への不明朗な資金提供、さらには悪質な風評被害を主導したことが問題視された。数週間後、彼は東南アジアの僻地にある関連事業所への出向を命じられた。事実上の左遷である。プライドだけが異常に高かった彼にとって、それは死刑宣告にも等しい罰だっただろう。
金銭を失った恵は、泣く泣く実家に戻ったと、風の噂で聞いた。厳しい兄夫婦の元で、今頃は自堕落な生活を強制されているに違いない。
慰謝料と損害賠償金は、滞りなく私の口座に振り込まれた。教室には、一度は離れてしまった生徒たちも戻り始め、新規の受講希望者も徐々に回復を遂げる。離婚届も無事に受理され、私は晴れて彼らとの関係を断ち切ることができた。
タワーマンションの窓から見える景色は、今日も美しい。術後の経過も良好で、定期検診の結果も問題ない。私の髪も、少しずつだが、また生え始めてきた。あの地獄のような日々は、もう遠い過去のことだ。私は、奪われかけた人生を、この手で取り戻した。
今はただ、この自由と平穏を、そして支えてくれた多くの人たちへの感謝を胸に。これからも、前を向いて力強く生きていくだろう。

。ま

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