彼女の肩が小さく震えていた。いつも自信に満ちた態度を崩さない住田凛さんが、病院の中庭のベンチで泣いていたのだ。尊敬していたはずの上司の言葉が、彼女の心を容赦なく打ち砕いていた。
「私のやり方に従えないというのなら、この会社にあなたの居場所はなくなるかもしれないわ」
大企業の医療機器メーカーで働く彼女は、営業担当としてこの病院に最新のAIシステムを売り込んでいた。私はホスピタルアーティストとして、患者さんの心のケアをする仕事をしている。彼女は私の活動に対して、いつも「費用対効果が低い」とデータを突きつけてくる、いわば敵のような存在だった。
しかし、その日彼女は違った。会社の上層部の不正を知ってしまったのだ。医療事故を隠蔽し、データを操作してでも契約を取り付けようとする上司のやり方に、彼女の正義感が耐えられなくなっていた。
私は彼女に絵を描くことを勧めた。子供たちと一緒に、ただ無心にクレヨンで絵を描く時間。最初は戸惑っていた彼女も、子供たちの自由な発想に導かれるように、次第に笑顔を取り戻していった。
「ありがとうございます。すごく心が落ち着きました」
それが彼女の素顔の笑顔だった。それから私たちは距離を縮め、共に食事に行く間柄になった。彼女の誠実さに、私は惹かれていった。
ある日、レストランで偶然彼女の上司である黒木取締役に遭遇した。挨拶に行った彼女が、聞いてはいけない会話を聞いてしまったのだ。この病院の医者を「古臭い連中」と見下し、過去の医療事故を「処理済み」と話している声を。
「嘘です……あの人が、そんなことを」
彼女は恐怖と絶望で震えていた。
しかし、彼女は立ち向かった。黒木取締役の前に進み出て、真実を問い質したのだ。
「お尋ねします。データの改ざんや、過去の医療過誤の隠蔽。それは本当のことなのでしょうか?」
「あら、聞いてしまったのなら話が早いわね。それが何か問題?」
黒木取締役は開き直った。そして、「あなたの居場所はなくなるかもしれない」と脅迫したのだ。
彼女の勇気が、私たちを大きな闇の渦に巻き込んでいく。私は拾った報告書に、ある病院の名前を見つけた。それは、かつて私が勤めていた病院だった。そして、その報告書の片隅には、弟の名前が書かれていた。
私はかつて外科医だった。弟の右腕の手術を担当した。術中ナビゲーションシステムの不具合で手術は失敗し、バイオリニストだった弟の未来を、この手で壊してしまった。それ以来、メスを握ることができなくなり、医者を辞めた。このアトリエに逃げ込んできたのだ。
その報告書は、あの手術の失敗が、私の技術不足ではなく、機械の欠陥によるものだったことを示していた。私は悪くなかった。だが、その事実を知った時、弟が危篤状態で倒れた。
感染症による緊急手術が必要だった。しかし、対応できる医師が誰もいない。私は迷わず手術室へ向かった。何年も握っていなかったメスを、弟を救うために再び握る決意をした。
「私が執刀します」
手術は困難を極めたが、私は長年培った経験と、弟を救いたいという一心で、見事成功させた。弟の命は助かり、長年凍りついていた兄弟の心も、ゆっくりと溶け始めた。
同時に、凛さんの告発によって黒木取締役の不正は暴かれた。会社は混乱したが、彼女の誠実さと勇気が認められ、凛さんは新たな代表取締役に就任した。
私は再び医者としての道を歩み始めた。ホスピタルアーティストとしての経験は、患者さんの人生そのものに寄り添う医療を教えてくれた。そして、アトリエでの活動も続けている。凛さんがボランティアとして運営を手伝ってくれるおかげで、どちらも諦めずに打ち込めている。
「綾さん、これからもずっとそばにいてくれませんか?」
ある夕暮れ時、中庭のベンチで私は彼女にそう言った。
「はい。喜んで。綾さんのそばが私の居場所ですから」
夕やけの空が、私たち二人を優しく包み込んでいた。



