私の夫が、黙って夜の工事現場へ働きに行き始めたのは、電気代を止められた翌朝のことでした。そして職員の前で私は、二十年前から積み立ててきた保険の解約書類に、笑顔でサインしたのです。あの保険は、私が死んだ時に迷惑をかけないための、ただそれだけのお金でした。「骨壺を買うお金まで取り上げるんですか?」と私が震える声で言うと、夫は壁に拳を叩きつけて家を出て行きました。走って追いかけた私が階段で転び、薬…

私の夫が、黙って夜の工事現場へ働きに行き始めたのは、電気代を止められた翌朝のことでした。そして職員の前で私は、二十年前から積み立ててきた保険の解約書類に、笑顔でサインしたのです。あの保険は、私が死んだ時に迷惑をかけないための、ただそれだけのお金でした。「骨壺を買うお金まで取り上げるんですか?」と私が震える声で言うと、夫は壁に拳を叩きつけて家を出て行きました。走って追いかけた私が階段で転び、薬...

夜の玄関のチャイムの音を、人は恐ろしいと思うかもしれない。しかし宮村千枝にとって、もっと恐ろしいものは他にあった。それは毎月集金に来る町内会の役員の声と、その背後に見える近所の目だった。

財布の中に三百円しかない夜、その音がどれほど人間の尊厳を押し潰すか、外から見ている者には永遠にわからない。

千葉県鴨川市の海辺に立つ古い団地で、老夫婦は冬の底を這うように生きていた。夫の宮村公平は七十二歳、妻の千枝は六十八歳。二人の暮らしは、ここ数年で少しずつ、しかし確実に追い詰められていた。

十一月の終わり、海からの風が鴨川の町を刺すように吹き抜けていた。千枝は自転車置き場の蛍光灯の下に立ち、両手で重い自転車を押しながら、錆びたスタンドに押し込んでいた。時刻は午後七時を過ぎたばかり。駅から歩いて三分ほどの場所にある自転車置き場で、千枝は夕方の利用者が引き始める時間に、一台一台の自転車を整列させる仕事をしていた。左耳が少し遠くなっていた。正確にいつからそうなったのかは分からない。気づいたらそうなっていた。今夜も風が左側から吹いてきて、その耳の奥が何かに塞がれるような感覚になった。千枝は手を止め、手のひらで左の耳の辺りを軽く抑えた。すぐに手を離して、また自転車の整理に戻った。誰も見ていない時間帯だったが、千枝は手を抜かなかった。

午後七時半を少し過ぎた頃、パートの時間が終わった。千枝はエプロンを畳んでロッカーに入れ、使い込んだビニールのバッグを肩にかけた。中には小銭入れと、折り畳んだスーパーのチラシが入っていた。

スーパーに着いたのは午後七時四十分頃だった。生鮮コーナーを素通りし、千枝は総菜のコーナーに向かった。狙いは半額シールだ。午後七時半を過ぎると、店員が総菜の棚に半額のシールを貼って回る。千枝はそれをよく知っていた。知っているから、仕事が終わるとすぐにここへ来る。棚の前にはすでに三人の客がいた。千枝は少し急ぎ足になり、残っているパックを確かめた。サバの塩焼き弁当が一つ残っていた。シールが貼られていた。百九十円。千枝はそれを手に取り、それから隣の棚に目を向けて金平牛蒡のパックを取った。こちらは元値の半額になっていた。レジに並んで千枝は小銭入れを開けた。百円玉が二枚、五十円玉が一枚、十円玉が数枚。頭の中で合計を計算しながら、ちょうど出せるかどうか確かめた。足りた。レジの若い店員が手慣れた動作でバーコードを読み取っていくのを、千枝は黙って見ていた。会計を済ませ、ありがとうございましたという店員の声は、千枝の耳には少し遠く聞こえた。

団地に戻ったのは午後八時を回っていた。宮村家は三階の各部屋で、外廊下の突き当たりにある。階段を登りながら千枝は、バッグの中の総菜パックが冷えてきたことを感じた。鉄の扉を開けると、玄関の電気がついていなかった。千枝はスイッチを入れた。蛍光灯がジジジと音を立ててから点いた。六畳のリビングに公平が座っていた。テーブルの前に座して、何かの紙を手に持っていた。妻が帰ってきても、公平はこちらを見なかった。千枝は台所に入り、連れ添いのいつもの黙った空気の中、弁当と金平牛蒡を袋から出した。電子レンジにかけながら、何気なく声をかけた。

「お帰りなさい。温めますね」

公平からは返事がなかった。食卓に並べたサバの弁当を公平の前に置き、金平牛蒡を真ん中に置いた。公平が手に持っていた紙をテーブルの隅に伏せておいた。千枝はちらりとそちらを見たが、何も言わなかった。二人は向かい合って座り、箸を取った。食事の間、ほとんど言葉はなかった。公平がゆっくりと箸を動かし、千枝もそれに習うように食べた。金平牛蒡を口に入れると少し甘すぎた。千枝は文句を言わず、一口ずつ食べ続けた。公平が半分ほどで箸を置いた。千枝が顔を上げると、公平はすでに視線をテーブルの木目に落としていた。何か言いたそうな、何も言いたくないような、その区別のつかない沈黙が、六畳の部屋を満たしていた。

公平がその紙を受け取ったのは、今日の午前中のことだった。ハローワークの相談窓口で、担当の職員が申し訳なさそうな声で言った。

「宮村さん、申し訳ありません。今回のご応募に関しましては、残念ながら採用の見送りとなったとのことです」

公平は何も言わなかった。ただ書類を受け取り、黙って席を立った。警備員の日勤募集だった。週三日、午前八時から午後五時、給与は日給九千五百円。公平が去年から月に何度かハローワークを訪れていた中で、これが四回目の応募だった。不採用の通知が来るたびに担当職員の顔が少し困ったようになる。公平は毎回その顔を見て、自分がここに来ること自体が迷惑なのではないかと思い始めていた。

かつて公平は、国内物流の会社でコーディネーターをしていた。二十代から六十代まで四十年近く、荷物の動きを把握し、ドライバーのスケジュールを組み、取引先との調整をこなしてきた。どの倉庫に何があるか、どの経路が詰まるか、そういうことを体で覚えていた。六十五歳で定年退職し、嘱託として二年ほど続けた。だが会社がシステムを入れ替えてから、仕事の中身が変わっていった。公平にはその変化についていけなかったわけではない。ただ、若い担当者がタブレットを使って処理できることを、わざわざ公平に頼む理由がなくなった。自然な流れで、彼は必要とされなくなった。六十七歳で嘱託も終わり、それから五年が経った。七十二歳の今、ハローワークで仕事を探しているのは、年金だけでは足りないからだった。足りないというより、毎月の残高がじわじわと減っていく感覚が、もう三年以上続いていた。

駅前の公園で、公平は不採用通知の紙を二つに折り、ジャンパーのポケットに入れた。現地に腰を下ろし、海の方向に向かっていく電車を眺めた。乗客の顔は見えないが、動いているものがあると少しだけ気持ちが落ち着いた。毎朝六時、公平は起きるとベランダに出て、小さな箒でコンクリートの床を掃いた。埃も落ち葉もほとんどないが、それでも毎朝掃いた。誰かにそうするよう言われたわけでもなく、ただ体が動いた。目が乾く。それも昔からだった。緊張した時、あるいは考えすぎている時、まぶたがヒクヒクと動く。今日も窓口での職員の言葉を思い返すたびに、また瞬きが増えた。

公平は自分を感情的な人間だと思ったことがない。物流の仕事をしていた時代も、トラブルが起きると感情を切り離して状況を整理することを体で覚えてきた。だがそれは若い頃の話だ。最近は、感情を切り離す前に、何かを感じる余裕すらなくなっていた。

夕食の片付けを千枝が済ませ、公平はテーブルに伏せていた紙を引き出しの中にしまった。何も言わずに、ただしまった。千枝はそれを見ていたが、やはり何も言わなかった。

風呂を沸かすのは週に三度だった。ガス代を考えると毎日は沸かせない。今夜は沸かす日ではなかった。千枝は台所で顔を洗い、公平は洗面所で歯を磨いた。二人の動線は長い時間をかけて磨かれ、互いにぶつからないよう自然に分けられていた。

午後十時を過ぎた頃、千枝はパジャマ代わりにしている古いジャージを着て、今日の二人の着替えを洗濯機に入れた。洗濯機は十五年以上前に買ったもので、メーカーのロゴが色あせていた。千枝は洗濯槽に粉末洗剤をスプーンいっぱい入れた。メーカーが指定する量の半分以下だった。蓋を閉め、スタートボタンを押した。機械特有の低い振動音が始まった。

リビングに戻ると、公平はすでに布団に入っていた。千枝も横になった。六畳の部屋に二人分の布団を敷くと、歩けるスペースはほとんどなかった。二人の間には、押し入れから出した古い毛布が一枚余分に挟まれていた。洗濯機の音が壁越しに聞こえていた。

公平の目が暗闇の中で開いていた。天井を見ていた。まぶたがわずかに痙攣するように動いた。眠れない夜は何年も続いていた。今日の不採用通知、ポケットに折り畳んだ紙、窓口の職員の申し訳なさそうな顔。それを一つ一つ取り出して眺め、また暗闇にしまう作業を、公平はひたすら繰り返していた。

千枝は目を閉じながら、来月の家賃のことを考えていた。自転車置き場のパートは月に六万円弱になる。年金と合わせれば、なんとか払えるはずだった。ただし、余計なことが起きなければ。その時、洗濯機の音が変わった。最初は小さな変化だった。ゴトゴトという音に、何かが混ざり込んだ。キュッという短い引っかき音。千枝は目を開けた。聞き間違いかもしれない。もう一度目を閉じようとした時、またキュッとなった。今度は少し長く、キューッという感じだった。千枝は起き上がった。暗い廊下を抜けて、洗濯機のある洗面所に向かった。ドアを開けた瞬間、湿気と何か焦げたような匂いが鼻をついた。洗濯機が震えていた。普段とは違う不規則な震え方だった。そして洗濯機の背面から、白い煙が細く上がっていた。

千枝は一瞬体が固まった。それから手を伸ばし、壁のコンセントを引き抜いた。洗濯機がぴたりと止まった。部屋が静かになった。あまりに急に静かになったので、その静寂自体が一つの音のように感じられた。

廊下で足音がした。ふすまが開き、公平が出てきた。眠っているようで、しかし目は覚めていた。公平は洗濯機を見た。コンセントが抜かれているのを見た。空気の中にまだわずかに残る焦げた匂いを嗅いだ。千枝は何も言わなかった。説明しなくても、それだけで分かった。公平は洗濯機の蓋を開けた。中には水が半分ほど入ったまま、二人の着替えが沈んでいた。公平は蓋を閉めた。しばらく二人とも、そこに立っていた。

公平がゆっくりと顔を上げ、千枝の方を向いた。しかし視線は千枝に合わなかった。公平の目が、まぶたを早く閉じたり開いたりを繰り返した。それはよく知っている仕草だった。追い詰められている時、あるいは言葉が出てこない時、公平の目はいつもそうなった。公平は何も言わなかった。ただ右手を脇腹の辺りでゆっくりと握り、そして開いた。もう一度握った。それから体を返し、寝室のふすまを引き閉めた。その音は、怒りとも違う、悲しみとも違う、ただ何かが終わったような乾いた音だった。

千枝は一人洗面所に残った。蛍光灯の白い光の下で、洗濯機はただそこに立っていた。動かない機械は、事実としてこれからのことを告げていた。千枝はゆっくりとタイル張りの床に腰を下ろした。壁に背中を持たせかけた。冷たさが薄いジャージの生地を通して伝わってきた。来週は月が変わる。電気代の引き落としがある。自転車置き場の給料は、月末にならないと入らない。コインランドリーは一回六百円ほどかかる。週二回使えば月に四千八百円以上になる。その分を食費から削るしかない。千枝は顔を手のひらで覆った。声は出なかった。隣の部屋に公平がいる。耳を済ませれば聞こえてしまう。だから千枝は手を口に当て、体の奥から来る何かを、そのままそこに押し込めた。冷たいタイルの上で、千枝はしばらくそうしていた。

翌朝、千枝は洗濯機の蓋を開けた。水に使ったままの衣類は、重く冷えて絡み合っていた。千枝はそれを一枚ずつ取り出し、洗面台の淵で絞った。水が落ちるたびに、床のタイルに丸い染みができた。絞りきれなかった衣類を、千枝は買い物袋に詰め込んだ。ずっしりと重かった。袋のビニールが指に食い込んだが、持ち替えながら廊下に出た。コインランドリーは団地から歩いて三分のところにあった。千枝が着いた時、中には誰もいなかった。洗濯機に衣類を入れ、百円玉を三枚投入した。三百円。乾燥まで合わせると六百円になる。千枝は乾燥機の料金表を確認してから、財布の中の残金を数えた。今日はここまでにして、残りは家に持ち帰って干すことにした。洗濯機が回り始めた。ドラムの中で衣類がぐるぐると回る音を、プラスチックの椅子に座って聞いていた。三十分後、洗濯が終わった。千枝は濡れた衣類を再び袋に詰め、来た道を戻った。団地の外廊下に干したが、十一月の終わりの風では、なかなか乾かなかった。

それが週二回の暮らしになった。雨が降れば日程がずれる。公平の自分の仕事に下着タオル、それだけのものを千枝は毎回同じように袋に詰めて、同じ道を歩いた。

十二月が近づくにつれ、食卓の内容が変わっていった。サバの弁当を買う回数が減り、代わりに豆腐と卵の日が増えた。公平は何も言わなかった。千枝も説明しなかった。公平が朝食を食べなくなったのは、その頃からだった。起き上がってベランダを掃き、顔を洗い、ジャンパーを着て出かけた。千枝が台所に出てくる頃には、もういなかった。どこへ行くのか、公平は言わなかった。千枝も聞かなかった。後になって千枝が知ったのは、公平が駅前の公園のベンチに座っていたということだった。駅員が一度千枝に声をかけてきた。ご主人が公園にいることが多いようだと。親切心から言っているのか、それとも迷惑に感じているのか、千枝には判断がつかなかった。ただ、そうですか、としか言えなかった。

十二月の第一週の水曜日、千枝は市役所へ行くことにした。冬期防寒費の補助制度があると、団地の掲示板で見ていた。一世帯あたり二万円を上限に支給されるという内容だった。千枝は開始時間の三十分前に家を出た。バスを使わず歩いた。片道四十分かかった。市役所の前に着くと、すでに十人ほどが扉の前に並んでいた。高齢者が多かった。番号札を取り、待合の椅子に座った。二時間ほど経って、番号が呼ばれた。窓口には若い男性の職員がいた。千枝は記入した書類を差し出した。職員がそれを受け取り、パソコンの画面に向かって何かを確認し始めた。一分ほどして、職員が言った。

「宮村様、申し訳ありませんが、今回のご申請に関しましては、審査の結果、不支給対象となりました」

千枝は聞き返した。職員は書類をめくりながら続けた。

「昨年度の税務データを照合しましたところ、ご主人様名義で三万円の雑所得が計上されております。この所得が合計額の基準を超えてしまうため、世帯の収入が審査ラインを上回る形となりまして」

千枝の頭の中で、三万円という数字が引っかかった。しばらく考えて、思い当たった。去年の春、公平が古い腕時計をリサイクルショップに売った。結婚三十周年に妻からもらったものだと言っていたが、今の暮らしには必要ないと言って売りに行った。三万円になったと言って帰ってきた。千枝は職員に説明した。

「それは主人が記念品の時計を売ったお金で、収入ではないんです」

職員は静かに聞いていたが、こう言った。

「おっしゃる事情は伺いましたが、制度の審査はシステムが自動で判定します。私どもの窓口では、その判定を変えることができないんです」

千枝はもう一度説明しようとした。でも職員の顔が、そういう顔になっていた。申し訳ないとは思っているが、変えることができないという種類の顔だった。千枝はその顔を知っていた。これ以上言っても、この人には何もできない。「お次の方がいらっしゃいますので」と職員が静かに言った。千枝は書類をバッグに戻し、椅子から立ち上がった。「すみません」と言ってから、何を謝っているのかよくわからなくなった。

市役所を出ると外の空気が冷たかった。千枝は歩いて帰った。帰り道にスーパーに寄った。今日も半額シールを探した。残り物の中に、サツマイモの天ぷらが二つ入ったパックがあった。それと賞味期限当日の豆腐を買った。合計百四十八円だった。

団地に近づくと外廊下の照明がついていた。三階の廊下に出た瞬間、千枝は立ち止まった。廊下の奥に人影があった。自分の部屋の玄関の前に、人が立っている。近づくにつれ顔が分かった。白鳥さんだった。このフロアの隅の部屋に住む女性で、町内会の役員をしていた。六十代前半くらいで、いつも身なりがきちんとしていた。その少し後ろに、向かいの部屋の夫婦が立っていた。さらにその奥に、郵便受けを確認しに来たらしい老人がいた。三人とも千枝に気づいた。千枝が歩み寄ると、白鳥が声をかけてきた。丁寧な言葉だった。しかし丁寧さというものは、使う人によって刃物にもなる。

「宮村さん、少しよろしいでしょうか。実は長らく言い出せずにおりましたのよ。町内会費のことですが、二ヶ月分が未納になっておりまして。二千円です。他の皆さんはきちんと収めてくださっているんですけれど、宮村さんのところだけが残ってしまっていて。私もなかなか申し上げにくかったんですが、このまま年を越してしまうのもどうかと思いまして」

白鳥の声は廊下に響いた。静かな声だったが、よく通った。向かいの夫婦が、千枝のバッグをちらりと見た。天ぷらと豆腐が入っている袋が、少しだけ透けて見えた。千枝は首を縮めた。

「すみません。つい忘れてしまって」

忘れていたのではなかったが、他に言葉が出なかった。「来週には必ずお持ちします」と言いながら、頭の中で計算をした。二千円。今日買い物に使ったお金が一百四十八円。財布の中には、今いくら残っているだろう。白鳥が言った。

「よろしくお願いしますね。本当に皆さんがきちんとされているので、私も片身が狭くて。また来週伺いますね」

丁寧な笑顔だった。千枝はまた頭を下げた。何度目の「すみません」かわからなかった。向かいの夫婦がその場を離れた。老人も階段の方へ歩いていった。廊下に千枝だけが残った。その時、一階の駐輪場の辺りに人影があった。公平だった。公平は外出先から帰ってきたところだったらしく、ジャンパーのポケットに両手を入れたまま、団地の入り口の手前で足を止めていた。廊下の方を見上げていた。三階の廊下の光が下から見えたはずだった。白鳥の声も届いていたのかもしれなかった。千枝は公平に気づいた。公平も千枝に気づいたようだった。しかし、その場から動かなかった。公平は自分が財布に一円も持っていないことを知っていた。妻が廊下で頭を下げているのを下から見ながら、そこへ上がっていく理由がなかった。公平は自転車の列の奥に引っ込んだ。見えなくなった。

千枝は玄関の鍵を出し、部屋に入った。室内に入ると公平はまだいなかった。千枝は電気をつけた。台所に入り、買ってきた豆腐の袋を開けた。指先が冷えていて、ビニールがうまく開かなかった。鍋に水を張り、豆腐を切り入れた。味噌汁にするつもりだった。天ぷらを温め直した。電子レンジに入れてボタンを押した。ブーンという音がして、庫内が回り始めた。公平が帰ってきたのは、千枝が味噌汁を火にかけてしばらくしてからだった。玄関が開く音がして、廊下を歩く足音が聞こえた。台所の入り口で足が止まった。千枝は鍋をかき混ぜながら、「お帰りなさい」と言った。「うん」とだけ返ってきた。それだけだった。食卓に座った公平は、今日どこへ行っていたのか、白鳥さんにあったか、何か仕事は見つかりそうか、何も言わなかった。千枝も聞かなかった。サツマイモの天ぷらを二人で分けた。公平が一つ、千枝が一つ。豆腐の味噌汁をそれぞれの茶碗に注いだ。湯が立った。温かいものがあるだけで、少しだけ部屋が増しに感じられた。公平が天ぷらを一口かじった。次に味噌汁を飲んだ。そして箸を置き、テーブルの上を見た。テーブルの上には何もなかった。公平はただそこを見ていた。

その夜も眠れなかった。千枝は、二千円のことを考えていた。来週までに用意しなければならない。給料日は月末だった。そこまでの間、今の残高でどうやりくりするか。コインランドリー代、食費、公平の目薬。公平の目薬は今週で切れる。市販の安いものを買えばいい。でもそれも四百円はする。千枝は夫の寝息を確かめた。隣で公平は横になっていたが、寝息は聞こえなかった。眠っていないのかもしれなかった。公平は暗闇の中で目を開けたままだった。自分も眠れなかった。眠ろうとするたびに、一階から見上げた廊下の光が浮かんだ。白鳥の声が届いていた。千枝が首を縮めて「すみません」というのを、暗い駐輪場の中で聞いていた。公平は天井を見た。目がヒリヒリした。瞬きをしても乾いた感覚が続いた。目薬を持ってきていなかった。起きて取りに行くこともできたが、そうすると千枝を起こしてしまうかもしれない。公平は起き上がらなかった。二人は同じ部屋で、それぞれ別の暗闇の中にいた。外では風が吹いていた。

公平が工事現場の夜間誘導員の求人を見つけたのは、ハローワークの帰り道に立ち寄ったコンビニの掲示板だった。手書きに近いチラシで、角が少し破れていた。日給九千円、経験不問、即日採用、夜間のみ。公平はしばらくそのチラシの前に立っていた。日給九千円。週三回入れれば、月二十万円を超える。それだけあれば電気代も、ランドリーも、町内会費も何とかなる。公平はチラシの番号を、ジャンパーのポケットから出したボールペンで手の甲に書いた。メモ用紙を持っていなかった。帰宅してから、公平は千枝には何も言わずに電話をかけた。台所で千枝が夕飯の準備をしている間、公平は玄関口でスマートフォンを耳に当てた。呼び出し音が三回なった後、くぐもった声が出た。

「はい、東亜建設です」

公平は要件を述べた。チラシを見た夜間誘導の仕事に応募したい。七十二歳だが体は動く。経験はないが真面目にやる。電話口の相手は少し間を置いてから言った。

「ああ、いいですよ。明後日の夜から来られますか。制服は貸し出しますが、軍手と安全靴は自前でお願いします」

安全靴は持っていなかった。翌日、公平は駅前のホームセンターに行き、一番安い安全靴を買った。三千四百八十円だった。財布の中の残金が、それだけ減った。

十二月三日の夜、気温は二度だった。公平は午後十時に団地を出た。千枝には「遅くなる」と一言だけ言った。理由は言わなかった。千枝は何も聞かなかった。工事現場は鴨川から路線バスで二十分ほど行った国道沿いにあった。高速道路の工事で、夜間に道路の一部を封鎖して舗装作業をするのだという。現場に着くと、すでに四人の作業員がいた。いずれも公平よりは若く、三十代から五十代くらいに見えた。現場監督らしき男が公平に反射ベストを渡した。それから誘導灯を手渡し、立ち位置を示した。説明は短かった。公平は指定された場所に立った。国道のガードレールのすぐ脇だった。車が通るたびに風圧がかかった。二度の気温は体の表面から熱を奪っていった。軍手をしていたが、指先の感覚がなくなっていくのが分かった。公平はじっと立ち続けた。午前一時を過ぎると車の通行量が減った。公平は誘導灯を下げ、辺りを見回した。空が黒く、星もなかった。海がそう遠くない場所にあるはずだったが、暗くて何も見えなかった。ただ風の中に、かすかに塩の匂いがした。夜が長かった。こんなに夜が長いと感じたのは、いつ以来だろうか。若い頃、締め切り前で会社に泊まったことがあった。あの頃の夜は短かった。今は反対だった。現場が終わったのは午前五時だった。公平は反射ベストを返し、現場を出た。バスはまだ動いていなかった。公平は国道を歩いて帰ることにした。八キロほどある。歩きながら足の裏が熱くなってきた。新しい安全靴が馴染んでいなかった。かかとの部分が擦れて、靴下の中に何か湿ったものを感じた。公平は足を止めず、歩き続けた。団地に着いたのは午前七時過ぎだった。千枝はもう起きていて台所に立っていた。公平が玄関を開けると、千枝が振り向いた。顔に何かを言いかけたような表情があったが、公平が先に靴を脱いで奥に入ったので、言葉は出なかった。公平はそのまま洗面台に行き、顔を洗った。鏡の中の顔は目が赤く、まぶたが重そうだった。

その頃から、千枝はゴミ捨てに行くことを恐れるようになっていた。団地のゴミ置き場は一階の外にあった。ある朝、千枝がゴミを出しに行くと、置き場に自分の袋がなかった。探すと、階段の下に置かれていた。袋の上に黄色い付箋が貼られていた。「分別ミスのため戻しました」と書いてあった。筆跡は几帳面で、定規で引いたように水平だった。千枝は袋を開けて確かめた。燃えるゴミの袋に、プラスチックのトレーが一枚入っていた。千枝の記憶では、そのトレーは洗って資源ゴミに入れたはずだった。記憶が間違っていたのか、それとも誰かが入れたのか、確かめようがなかった。分別をやり直して翌朝、また出した。今度は袋が開けられていた。中身が少し散らかっていた。袋の表面に付箋はなかった。ただ袋が開いていた。千枝はそのことを公平に言わなかった。公平は昼間は寝ていて、夜に出かける生活になっていた。昼間に台所でご飯を炊く音が公平を起こさないよう、千枝は極力物音を立てないようにした。ゴミ袋は一度、部屋に戻った。台所の隅に置いておいた。翌日もう一度出そうと思っていたが、また同じことが起きるかもしれないと思うと、体が動かなかった。袋の匂いが台所にこもり始めた。千枝は袋の口をきつく縛り、台所の一番奥の棚の下に押し込んだ。換気扇を回した。それでも匂いは、なかなか消えなかった。

十二月六日の夜、公平は四回目の現場に入った。前夜もよく眠れなかった。四時間横になったが、眠りに落ちたのかどうか分からないまま、体を起こした。目の奥が砂をすり込まれたように痛かった。現場に着くと、監督の男が少しだけ公平を見た。「顔色が悪いですね」と言ったのかもしれなかったが、公平は聞こえなかったふりをした。誘導灯を持ち、指定の場所に立った。今夜は風がさらに強かった。海側から吹いてくる風が、公平の体に当たった。体の芯から冷えていく感覚があった。四日間の蓄積が、公平の体の奥底に溜まっていた。午前二時を過ぎた頃だった。公平は立ったまま、いつの間にか意識が遠くなっていた。はっきりと眠ったわけではない。目は開いていた。しかし体の中で何かが切れたような感覚があり、気づいた時には体が傾いていた。足が横にずれた。膝が折れそうになった。その時、低いエンジン音が迫ってきた。トラックだった。ヘッドライトが公平の体を照らした。ドライバーがブレーキを踏んだ。タイヤが鳴いた。トラックは公平の数メートル手前で止まった。現場監督が走ってきた。作業員の一人が公平の腕を掴んで引いた。公平は自分が引っ張られているのを感じながら、まだ状況がよくわかっていなかった。現場監督が公平の前に立った。その顔が、怒りと焦りと何か別のものを同時に浮かべていた。

「何やってるんですか! 危ないでしょう。こっちまで仕事止まったじゃないですか。あなたね、こういうことがあると現場の安全記録に傷がつくんですよ。分かってますか? 」

公平は返事をしようとした。口が動いたが、声が出なかった。監督は続けた。

「今夜はもう上がってください。それから、こちらとしても今後のシフトはお断りします。今夜の分も、この四日間の分も、安全規則違反ということになりますので、賃金のお支払いはできません。作業規則に書いてありますので」

公平はその言葉を聞きながら、頭の中で数字を計算しようとした。四日間、九千円×四、三万六千円。それが払われない。払われないということは、この四日間が消える。安全靴の三千四百八十円も消える。公平は反射ベストを返した。誘導灯を返した。公平は現場の明かりから離れ、国道の暗い部分に出た。バスはない時間だった。また歩いて帰るしかなかった。歩き始めて三十分ほどで、靴の中が完全に湿った感覚になった。かかとの傷が悪化していた。それでも公平は歩いた。立ち止まっても、次の一歩を出さないと家に帰れない。夜の国道は静かだった。風が強かった。公平はジャンパーのチャックを首まで上げ、顎を引いて歩いた。目がヒリヒリした。八キロ、公平は歩き続けた。午前三時を過ぎた頃、公平は団地の前に着いた。階段を登り、自分の部屋の前まで来た。鍵を出した。指先が冷え切っていて、鍵穴に差し込むのに時間がかかった。ドアを開けると、台所から光が漏れていた。千枝が台所にいた。椅子に座って、テーブルの上を見ていた。テーブルの上には、開封した封筒と赤い紙が置いてあった。公平が近づくと、千枝がゆっくりと顔を上げた。赤い紙は電力会社からの通知だった。料金未払いのため、来週中に支払いがない場合は送電を停止するという内容だった。千枝の手元には、小銭入れが開いて置かれていた。百円玉が何枚か、五十円玉が数枚、十円玉が何枚か。千枝はそれを並べ直していた。何度数えても、結果は変わらなかった。公平は千枝を見た。千枝は公平を見た。公平のズボンの裾に泥がついていた。靴は汚れていた。体から汗の匂いが漂っていた。千枝はそれを見て何かを理解したが、何も言わなかった。公平も何も言わなかった。言えることが、何もなかった。四日間の仕事が、三万六千円が、安全靴が、今夜の八キロが、全部消えた。消えて残ったのは、疲れた体と赤い紙と、妻が数え続けている小銭だけだった。公平は椅子を引いて腰を下ろした。テーブルの上の赤い紙を自分の方に引き寄せ、内容を読んだ。読み終えてから、元の場所に戻した。千枝がまた小銭を数え始めた。指先で硬貨を一枚ずつ動かしていた。百円玉が四枚、五十円玉が三枚、十円玉が七枚。合計六百二十円。二人はしばらくそうしていた。蛍光灯の下で、向かい合って座ったまま、どちらも口を開かなかった。やがて公平が立ち上がった。洗面台に行き、手を洗った。水が冷たかった。石鹸をつけ、泥の染みを落とした。爪の間に泥が入り込んでいた。それを丁寧に擦り落とした。鏡を見た。目が赤かった。四十年間、自分は仕事をしてきたと公平は思った。荷物の動きを覚えた。ドライバーの都合を覚えた。取引先の癖を覚えた。それが今は何の役にも立っていない。立てようとしたら、今夜のようなことになった。台所に戻ると、千枝は小銭を小銭入れに戻していた。封筒と赤い紙を重ねて、引き出しの端に入れた。引き出しを閉めた。それから立ち上がり、電気を消そうとした。公平が言った。

「明日、また考えよう」

自分でも、何がどうなれば考えられるのかわからなかった。ただ何かを言わなければならない気がして、出てきた言葉がそれだった。千枝はしばらくスイッチの前に立っていた。それから「そうですね」と言った。声が平らだった。怒っているのか、諦めているのか、疲れているのか。千枝の声からは、公平には読み取れなかった。電気が消えた。台所が暗くなった。二人は廊下を通って、部屋に戻った。布団に入っても、公平はすぐには横にならなかった。布団の隅に腰をかけ、足の安全靴を脱いだ。靴下を脱ぐと、かかとに血が滲んでいた。暗い中ではよく見えなかったが、指先で触れると、ぬるりとした感触があった。公平は靴下を裏返して、かかとの部分を抑えた。公平は横になった。体が重かった。今夜こそ眠れるかもしれないと思った。それほど疲れていた。しかし頭の中で、三万六千円という数字が浮かんでは消えを繰り返した。千枝は暗闇の中で目を開けていた。台所の引き出しの中の赤い紙のことを考えていた。来週中に支払いがなければ、送電が止まる。電気が消える。冬の団地で、電気のない夜が来る。外で風が鳴った。

十二月の中旬に入ったある朝、公平が目を覚ますと、部屋が暗かった。天井の蛍光灯のスイッチを押した。何も起きなかった。もう一度した。やはり何も起きなかった。電気が止まっていた。赤い紙が来てから一週間が経っていた。支払い期限は過ぎていた。千枝も公平も、期限までに電気代を払う方法を見つけられなかった。見つけようとしたが、見つからなかった。それだけのことだった。公平はしばらく布団の上に座っていた。窓から差し込む十二月の弱い光の中、部屋の隅に影が溜まっていた。公平は立ち上がり、クローゼットを開けた。中のものを全部引っ張り出した。下着のフリース、綿入りのベスト、使い古した手袋、毛糸の帽子。それを順番に着込んだ。最後にジャンパーを羽織った。室内にいるのに、外出する時と変わらない格好になった。台所では、千枝がガスコンロに火をつけていた。電気は止まったが、ガスはまだ使えた。やかんに水を入れ、沸かし始めた。千枝も厚着をしていた。二人は言葉を交わさずに、それぞれのやるべきことをした。食堂の引き出しに、ろうそくが三本あった。千枝がそれを取り出し、小皿の上に立てた。火をつけると、小さな炎が揺れた。六畳の部屋に、二人で向かい合って座った。ろうそくの明かりは、思いのほか温かい色をしていた。しかし温かいのは色だけで、部屋の温度は変わらなかった。窓から隙間風が入り、炎が横に倒れそうになった。千枝が手で風を遮った。お湯を入れた湯たんぽ代わりのペットボトルを、千枝は二本作った。タオルで巻いて、それぞれの膝の上に置いた。少しだけ温かさが伝わってきた。公平はろうそくの炎を見ていた。揺れるたびに影が壁を動いた。子供の頃、停電の夜にろうそくを使ったことがあった。あの頃は停電自体が珍しくて、家族で囲んで面白がったものだった。今は違った。今のこれは、珍しいことでも面白いことでも、何でもなかった。千枝が言った。

「市役所に行ってみましょうか」

公平は千枝の方を向いた。「生活保護のことです」と千枝は続けた。声が小さかった。言いにくいことを言っているのが、声の低さで分かった。公平はしばらく黙っていた。生活保護。その言葉は公平の中のどこかを刺した。刺さったまま、すぐには動かせなかった。公平は答えなかった。千枝も答えをせかさなかった。二人はしばらく、揺れるろうそくの炎を見ていた。

翌日、公平は一人で市役所へ行くことにした。千枝には「ちょっと出てくる」とだけ言った。市役所の福祉課は二階にあった。公平はエレベーターを使わず、階段で上がった。待合の椅子に座った。三十分ほどして、公平の番号が呼ばれた。窓口に座ったのは、四十代くらいの女性の職員だった。顔の表情は穏やかで、声も柔らかかった。公平は少し意外に思った。

「生活保護の申請をしたい」

公平は言った。声が予想より小さく出た。もう一度言った。今度は少し大きく出た。職員は書類を取り出しながら、「はい、伺います」と言った。職員がいくつかの質問をした。世帯の構成、収入の状況、資産の有無。公平は一つ一つ答えた。年金が月に二人合わせて約十一万円、妻のパートが月に六万円弱、合計で十七万円前後。しかしここ数ヶ月は、支出が上回っていた。職員が書類を確認しながら言った。

「宮村さん、一点確認させていただきたいのですが。奥様のお名前で、生命保険の契約があるようです。システムに記録がございまして、解約返戻金の現在価値が、およそ三十万円程度になるかと思います」

公平は聞き返した。「保険ですか? 」。職員が続けた。

「生活保護の申請にあたっては、活用できる資産は先に活用していただくことが原則になっております。保険の解約返戻金も資産と見なされますので、まずそちらを解約していただき、その資金を生活費に当てていただいた上で、改めてご申請いただく形になります」

公平の頭に、その保険のことが浮かんだ。二十年以上前、千枝が少しずつ掛け金を積み立てていた保険だった。死んだ時のために、葬儀代の足しになるようにと、千枝が言っていた。自分たちが死んだ時に誰かに迷惑をかけたくない。それだけのために、食費を削りながら掛け金を払い続けていた保険だった。解約すると三十万円になる。しかし、その三十万円を使い切ってしまえば、死んだ時に何も残らない。骨壺を買う金さえ、なくなるかもしれない。職員はそれ以上何も言わなかった。書類を揃え、返戻金の目安金額を紙に書いて渡した。公平は紙を受け取り、礼を言って立ち上がった。

団地に戻った公平は、千枝に市役所でもらった紙を渡した。千枝は鍋から手を離し、エプロンで手を拭いてから紙を受け取った。眼鏡をかけ直し、文字を読んだ。千枝の左耳は少し遠かった。公平の話し声が聞こえにくいことがあった。公平が何かを言った。「保険を」という言葉は聞こえた。「解約」という言葉も聞こえた。しかし、その後の言葉が、鍋の音に混じって聞き取れなかった。千枝は紙を手に持ったまま、公平の顔を見た。公平が何かを説明していた。千枝は頷いていた。しかし頭の中では、別のことが起きていた。保険を解約しなければならない。公平がそうしろと言っている。千枝の耳には、「解約しなければならない」という部分だけが届いていた。千枝の手が紙の端を少し強く握った。二十年以上かけて積み立てた。食費を削って、服を買わずに、それでも毎月金を払い続けた。自分たちが死んだ時に、誰にも迷惑をかけないために。それだけのために積み立てた保険だった。その保険を、公平が解約しろと言っていると、千枝は思った。台所が静かになった。千枝がゆっくりと言った。

「それは、私が死んだ時のために、積み立てたお金です」

公平は千枝の顔を見た。千枝が怒っているように見えた。公平は言った。

「分かってる。ただ、それしか方法がないんだ」

千枝が言った。

「骨壺を買うお金まで、取り上げるんですか?

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声が少し震えていた。二十年以上で初めて聞くような、声の震え方だった。公平には、千枝が何を言っているのか分からなかった。「骨壺」という言葉が出てきたことに驚いた。説明が足りなかったのか、それとも、千枝に聞こえていなかったのか。公平には分からなかった。ただ、千枝が怒っている。それだけが伝わってきた。公平は言った。

「そういうことを言ってるんじゃない」

千枝が言った。

「じゃあ、何を言ってるんですか? 」

声が上がった。千枝がこういう声を出すのは、公平には記憶がなかった。公平も声が出た。

「申請するためだと言ってるんだ。解約してから申請する。そういう順番だと言ってる」

千枝には「申請」という言葉が正確に届かなかった。何の申請なのか、公平の声が重なって聞こえた。千枝はもう一度言った。

「あのお金は、死ぬためのお金です」

公平はそこで言葉が止まった。「死ぬためのお金」という言い方が、喉のどこかに引っかかった。反論しようとして、言葉が出なかった。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からないものが胸の奥で固まった。公平は立ち上がった。椅子が床を引いた。壁に向かって、手のひらを叩きつけた。壁はびくともしなかった。手のひらが少し赤くなった。公平は玄関へ向かった。靴をつっかけ、ドアを開けた。廊下の冷気が一気に流れ込んできた。公平はドアを閉めた。その音が、静かな団地の廊下に響いた。

千枝は台所に一人残された。鍋が煮えていた。千枝はとっさにガスを止めた。しばらくそこに立っていた。公平がどこへ行ったのかを考えた。この時間、この寒さの中で、公平が行く場所は多くなかった。千枝はエプロンを外した。ダウンジャケットを着た。財布を持たずに、玄関を出た。廊下に出ると、階段の方から足音が遠ざかっていくのが聞こえた。千枝は急いだ。階段に差しかかった時、段差のコンクリートが濡れているのが見えたが、足を緩めなかった。三段目のところで、右足が滑った。体が前に傾いた。とっさに手すりに手を伸ばしたが、届かなかった。膝がコンクリートの角にぶつかった。体が右側に崩れた。手のひらが階段の断面を打った。ダウンジャケットのポケットが引っかかり、縫い目の辺りから避ける音がした。千枝は二段分ほど滑り、三階から二階半くらいのところで止まった。膝が熱く痛んだ。手のひらに、じりじりとした感覚があった。ポケットが避けたところから、何かが飛び出した。血圧の薬の小瓶だった。ポケットにいつも入れていた、一日一回の薬が入った小さな茶色いプラスチックの容器だった。容器が階段を転がり、二階の踊り場で壁に当たり、蓋が開いた。白い小さな錠剤が階段に散らばった。錠剤が一つ、二つ、段を転がって落ちていった。雨水が溜まっていた踊り場のくぼみに、錠剤が落ちた。千枝は這うようにして手を伸ばし、錠剤を拾おうとした。手が届いた一つは指でつまめた。水の中に沈んだものは、もう使えなかった。

一階の出口まで下りた公平は、団地の外に出ようとしたところで、上から音が聞こえた。何かが転がる音。そして、何かが床に当たる鈍い音。公平は立ち止まった。もう一度聞こえた。今度は小さく、何かが跳ねるような音だった。公平は引き返した。階段に入り、上を見上げた。二階の踊り場に、千枝がいた。膝をついて、何かを拾おうとしていた。公平は駆け上がった。千枝のそばにしゃがんだ。千枝が顔を上げた。目が赤かった。踊り場のくぼみに、薬が沈んでいた。水は透明ではなかった。公平は指を伸ばし、一粒拾おうとした。水が冷たかった。錠剤を指先でつまんだが、ぬるりとして落とした。もう一度拾い、今度はそのまま持ち上げた。公平は千枝の手のひらに錠剤を置いた。千枝が受け取った。公平は千枝の腕を取り、立ち上がらせた。千枝の膝が少し震えていた。公平は千枝の腕を自分の腕に絡めるようにして、支えた。しばらく二人は、その場に立っていた。公平はゆっくりと、階段を一段ずつ登り始めた。千枝は公平の腕にすがりながら、一緒に上がった。三階の廊下に出て、自分たちの部屋の前まで来た。公平が鍵を出した。ドアを開けた。部屋は暗かった。電気が止まっているから、スイッチを押しても何も起きない。公平は千枝を一番近い椅子に座らせた。公平は台所に行き、マッチを探した。引き出しの奥にあった。ろうそくに火をつけた。部屋が、また揺れる炎の色に照らされた。千枝が膝を抑えていた。公平は洗面台に行き、タオルを濡らして持ってきた。千枝のズボンをまくると、膝の皮膚が少し擦りむけていた。血は出ていなかったが、赤くなっていた。公平は濡れタオルを当てた。千枝が小さく息をのんだ。

「ごめんなさい」

公平は顔を上げなかった。「謝ることじゃない」と言った。声が先ほどより低くなっていた。しばらくして、千枝が言った。

「さっき、ちゃんと聞こえていなかったんだと思います。もう一度、教えてもらえますか? 」

公平はタオルを持ったまま、千枝の顔を見た。千枝の表情に、さっきの怒りはなかった。ただ疲れた顔があった。公平はゆっくりと、もう一度説明した。

「生活保護を申請するためには、保険を解約して、その金を使い切ってから出ないといけない。そういう順番なんだ。俺が決めたことじゃない。そういう制度なんだ」

千枝は聞いていた。今度は聞こえていた。公平の声が、静かな部屋の中でゆっくりと届いた。千枝は膝の上の濡れタオルに目を落とした。

「そうですか」

それだけだった。それ以上の言葉は出なかった。その夜、二人はろうそくを二本使った。一本は台所のテーブルの上に、もう一本は部屋の棚に置いた。夕食は、冷えた残り物と、かけて作っていた味噌汁を温め直したものだった。ガスはまだ使えた。温めた汁は熱くなった。それだけが、今夜の唯一の熱だった。食事の間、公平は何も言わなかった。千枝も言わなかった。箸を動かす音と、汁をすする音だけがあった。ろうそくの炎が、二人の顔を交互に照らした。布団に入ってから、千枝はろうそくを消した。暗くなった。窓の外から、かすかに街灯の光が入ってきた。それだけが光だった。公平は天井を見た。暗い天井だった。保険のことを考えた。千枝が二十年かけて積み立てた保険。解約すれば三十万円になる。それを使い切れば、生活保護の申請ができるかもしれない。できるかもしれないというだけで、できるという保証はどこにもなかった。千枝は暗闇の中で目を開けていた。膝が少し痛んだ。踊り場のくぼみに沈んでいた薬のことを考えた。何粒か、使えなくなった。次の処方箋をもらうまでの間、何日か薬が足りなくなる。血圧の薬を飲まない日が続くとどうなるかは、千枝には分からなかった。千枝はそのことも、公平には言わなかった。言っても解決しないことは、言わなかった。それが、長い夫婦の間に自然にできた習慣だった。

翌朝、千枝が目を覚ました時、喉の奥が痛かった。体の芯が重かった。昨夜の階段の冷気と、電気のない部屋の寒さが、一晩かけて体の中に入り込んでいた。公平も、起き上がった時、「喉が少し変だ」と言った。千枝は「私も」と言った。それだけだった。どちらも病院には行けなかった。保険はあっても、窓口で払う自己負担分の現金がなかった。風薬も、家にはなかった。千枝はインスタントの味噌汁を二杯作った。賞味期限が過ぎていたが、まだ使えるだろうと思って使った。二人でそれを飲んだ。温かいものを飲むと、喉が少しだけ楽になった気がした。

その日の午前中、千枝は一人で保険会社へ行くことにした。公平が一緒に行くと言ったが、千枝は首を振った。「あなたは少し休んでいてください」と言った。公平の顔色が悪かった。千枝はダウンジャケットを着て、マフラーを巻いた。財布の中には、小銭だけがあった。千枝は歩いていくことにした。保険会社の支店は、市内のビルの二階にあった。片道四十分ほどかかった。千枝は歩きながら、喉が痛いのを感じていた。それでも足を止めなかった。支店に入ると、受付の女性が立ち上がって迎えた。席に案内され、担当者が来るまで少し待った。パンフレットが並んだ棚の前に座って、千枝は二十年前のことを思い出した。この保険に入った時、担当者が自宅に来た。若い男性で、丁寧に説明してくれた。その人の名前は、もう覚えていなかった。担当者が来た。書類を確認し、解約の手続きについて説明した。千枝はそれを聞きながら、頷き続けた。担当者が言った。

「本当によろしいのですか? 一度解約すると、同じ条件では再加入が難しくなります」

千枝は言った。

「はい」

声が平らだった。書類にサインをした。判を押した。解約返戻金は指定の口座に振り込まれるという。

「現在の返戻金は、二十八万四千円になります」

と担当者が言った。思っていたより、少し少なかった。千枝は「分かりました」と言った。手続きが終わり、支店を出た。外の空気は冷たかった。千枝はビルの前の歩道に立ち、しばらく動かなかった。何かが終わった感覚があった。長い時間かけて積み上げてきたものが、三十分の手続きで消えた。悔しいという感情とも違い、悲しいという感情とも違った。ただ、軽くなった気がした。それが良いことなのか悪いことなのか、千枝には分からなかった。千枝は歩き出した。帰り道も四十分だった。

翌日、振り込みが確認できた。公平がコンビニのATMで通帳を確認した。二十八万四千円という数字が印字されていた。二人でその数字を見た。多いとも少ないとも言わなかった。ただ見た。その日のうちに、公平が電力会社の窓口へ行き、と今月分をまとめて払った。夕方、送電が再開された。台所の蛍光灯のスイッチを入れると、ジジジという音と共に点いた。千枝はそれを見て、電気があることがこれほど当たり前でないと思ったことはなかった、と感じた。翌日、千枝はコインランドリーで洗濯をし、食料品をまとめて買った。節約しながらも、公平の体調を考えて、卵と豆腐だけでなく、鶏肉を少し買った。帰り道に薬局により、市販の風薬と公平の目薬も買った。その翌日、千枝は白鳥のところへ行った。二ヶ月分の町内会費二千円を封筒に入れて、手渡した。白鳥は玄関を開け、封筒を受け取り、中を確認した。「ありがとうございます」と言った。それから少し間を置いて、こう言った。

「宮村さん、これからはちゃんとしてくださいね。皆さんも気にされていますから」

にこりと笑いながら言った。笑顔だった。しかしその笑顔の中に、何かが混じっていた。千枝にはそれが何かは分かったが、もう反論しなかった。

「はい。すみませんでした」

千枝は頭を下げた。白鳥の玄関が閉まった。千枝は廊下に一人残った。二千円を払った。これで終わった。そう思ったが、終わった気がしなかった。それからというもの、団地の廊下で誰かとすれ違うと、相手は目をそらすようになった。挨拶しても、相手の視線が千枝の少し後ろを向いていた。ゴミ置き場でばったり会った向かいの夫婦は、千枝を一瞥してから、何も言わず自分たちの袋を置いて立ち去った。怒鳴られるわけでも、陰口が聞こえてくるわけでもなかった。ただ、いないことにされた。それが無視よりも重かった。無視なら言い返すことができる。しかし存在を無視されると、言い返す対象がなかった。公平も感じていた。一階の郵便受けに手紙を取りに行った時、同じフロアの老人とばったり会った。その老人とは、去年までごくたまに天気の話くらいはしていた。しかし老人は公平を見て、そのまま視線を郵便受けに戻した。公平に一言も発しなかった。二人はそのことについて、互いに話さなかった。話してどうなるものでもなかった。話せば言葉になり、言葉になれば現実として固まる。固まったものをもう一度見る余裕が、二人にはなかった。

生活保護の申請は、千枝が保険を解約してから三週間後に、改めて提出した。審査には時間がかかると言われた。その間も、二十八万四千円から少しずつ引き出して生活した。電気代、薬、コインランドリー。引き出すたびに、数字が減った。年金の振り込み日が来た。二人分で十一万円余り。そこから家賃を払い、残りで年末年始を乗り越えなければならなかった。生活保護の審査結果が届いたのは、年末のことだった。不支給が認められたという通知ではなかった。審査が継続中であり、追加書類が必要だという通知だった。必要書類のリストが同封されていた。公平はそのリストを読んだ。知らない書類の名称がいくつかあった。何をどこで取ればいいのか、分からなかった。年明けに、また市役所に行くしかなかった。公平はリストを引き出しにしまった。今日はもう考えないと思った。考えても、何も変わらない。それだけのことだった。

十二月三十日の午後だった。千枝が「少し歩かないか」と言った。公平が「どこへ」と言った。千枝は「どこでもいい」と言った。二人でジャンパーを着た。公平はマフラーを巻いた。千枝は手袋をした。玄関を出て、廊下を歩き、階段を下りた。一階の自動ドアを抜けると、冷たい空気が体を包んだ。二人は無言で歩き始めた。団地を出て、国道沿いを歩いた。海沿いの道に出た。この季節の鴨川の海は灰色だった。波が白く砕けていた。海沿いに、古いバスの待合所があった。コンクリートの屋根がついた、ベンチが二つ並んでいるだけの簡素な建物だった。ベンチは錆が浮いていたが、座れないほどではなかった。二人はそこに腰を下ろした。風が横から吹きつけてきた。波の音がしていた。一定のリズムではなく、大きくなったり小さくなったりしながら、それでも途切れなく続いていた。しばらくして、公平がポケットから手を出した。指先で何かを確かめるようにして、小銭を取り出した。五十円玉が三枚だった。合わせて百五十円。公平は立ち上がり、待合所の隅に置かれた自動販売機に近づいた。公平はボタンを一つ確かめた。ホットのコーヒー、百三十円。ポケットに五十円玉三枚を入れ、ボタンを押した。ガタンという音がして、缶が落ちてきた。公平は取り出し、蓋を取った。暑かった。指先に熱が伝わってきた。公平は缶を持って、千枝のところに戻った。ベンチに座り、缶のプルタブを開けた。それから、ジャンパーの袖で缶の飲み口の辺りを一回拭いた。ゆっくりと、手酌に千枝に缶を差し出した。千枝は両手で受け取った。缶の熱が、手袋越しにも伝わってきた。手袋を片方だけ外し、直接缶を持った。ひんやりしていた指先に、じんわりと熱が移っていった。千枝は一口飲んだ。温かかった。甘みの中に少し苦みがある、缶コーヒーの味だった。特別な味ではなかった。でも、今の千枝には、それが十分だった。千枝は缶を公平に返した。公平は受け取り、飲んだ。飲み終えてから、缶を膝の上に乗せた。両手で缶を包むようにして、熱を手のひらに移した。波が打ち寄せる音が続いていた。千枝は海を見ていた。灰色の水面が光を反射してキラキラしているわけでも、美しいわけでもなかった。ただ、そこにあった。年末の海は、観光客もおらず、漁師の姿もなく、波と風だけがあった。千枝は保険のことを思った。解約した。亡くなった。それは事実だった。死ぬ時のために積み立てたお金がなくなった。自分が死んだ時、誰かに迷惑をかけるかもしれない。でも、今は生きている。今生きていくために、それを使った。それが正しかったのかどうか、千枝には分からなかった。多分、ずっと分からないまま死んでいくのだろうと思った。公平は缶を持ったまま、海の一点を見ていた。公平は四日間の現場仕事のことを思った。あの現場監督の顔を思った。「賃金は払えない」といった言葉を思った。三万六千円が消えた夜を思った。しかし、それと同時に、別のことも思った。あの四日間の夜、公平は働いていた。うまくいかなかったが、働いていた。働こうとしていた。それだけは確かだった。今の自分に、それを否定することはできなかった。千枝が言った。

「来年は、どうなりますかね?

声に特別な感情はなかった。ただ言葉が出たという感じだった。公平はすぐには答えなかった。波の音を聞きながら、どう答えるべきかを考えた。いい答えはなかった。正直な答えしかなかった。公平が言った。

「わからん」

千枝が、少しだけ笑った。笑いとも言えないほどの、ほんのわずかな表情の変化だった。それでも公平には見えた。

「そうですね」

と千枝が言った。風がまた来た。今度は強い風だった。バスの待合所の屋根が、少し鳴った。千枝はマフラーを口元まで引き上げた。千枝はゆっくりと体を公平の方へ傾けた。肩が公平の肩に触れた。そのまま、少しだけ体重をかけた。公平は動かなかった。避けることもせず、寄り添うこともせず、ただそこにいた。千枝の頭が、公平の肩に触れた。公平は海を見たままだった。視線を千枝に向けなかった。しかし、肩の感触を感じていた。長い間、触れてこなかった感触だった。何年ぶりかもわからなかった。目がヒリヒリしていた。しかし公平は、今夜は目薬を取り出さなかった。缶を持ったまま、海を見ていた。缶の熱が、少しずつ薄れていった。

やがて二人は帰ることにした。バスを待たずに、来た道を戻ることにした。公平が立ち上がり、空になった缶を、待合所の隅のゴミ箱に入れた。千枝も立ち上がった。また並んで、歩き始めた。背に海を感じながら、国道の方へ向かった。車のヘッドライトがつき始めていた。日が短い。この時期は午後四時を過ぎると、急に暗くなる。公平は歩きながら、来年の市役所のことを考えていた。追加書類を揃えて、また窓口に行く。審査がどうなるかは分からない。通るかもしれないし、通らないかもしれない。通ったとして、すぐに支給が始まるわけではない。その間をどうするか、まだ答えが出ていなかった。それでも、歩いていた。団地が見えてきた。古いコンクリートの建物が、夕暮れの空を背景に立っていた。三階の窓に、電気のついている部屋があった。自分たちの部屋ではなかった。別の誰かの部屋だった。その光は、何事もなく点き、何事もなく明日も点くのだろうと、公平は思った。自動ドアをくぐった。一階の廊下を歩いた。郵便受けの前を通ったが、今日は確認しなかった。階段を登った。三階の廊下に出た。廊下の奥の、白鳥の部屋の前を通ったが、何も音はしなかった。向かいの部屋の前を通った。テレビの音が低く聞こえてきた。賑やかな笑い声が、ドア越しに漏れてきた。自分たちの部屋の前に着いた公平が、鍵を出した。鍵穴に差し込んだ。今日は、指先が動いた。ドアを開けた。二人で中に入った。公平が電気をつけた。蛍光灯がジジジとなってから、点いた。ついた。電気がついた。それだけのことが、この部屋では当たり前ではなかった。千枝が台所に行き、ガスコンロに火をつけた。今夜は鍋にしようと思っていた。昨日買っておいた白菜と豆腐と鶏肉を切って、出汁で煮るだけの鍋だった。豪華ではなかったが、温かいものが作れる。それだけで、今夜は十分だった。公平は部屋に入り、ジャンパーを脱いだ。ハンガーにかけた。マフラーを外した。それから布団の隅に腰を下ろし、壁を見た。引き出しの中に、市役所からの書類があった。追加書類のリスト。来年、また行かなければならない。来年という言葉が、頭の中で鳴った。来年、二人でまたここにいる。それが確かなことかどうかも、分からなかった。ただ、今日の夜はここにいる。それだけが確かだった。台所から、包丁の音が聞こえてきた。白菜を切る音だった。規則正しく、トントントンと響いた。公平はその音を聞きながら、目を閉じた。今夜は眠れるかもしれないと思った。眠れないかもしれなかった。どちらでも良かった。眠れなくても、横になっていれば体は休まる。それで十分だと、最近思うようになっていた。千枝は白菜を切りながら、今日のことを思った。海辺の待合所、錆びたベンチ、百五十円のコーヒー。公平が袖で缶を拭いて、差し出してきた。その仕草を思い出した。特別なことではなかった。でも、覚えている。多分、しばらく覚えているだろうと思った。鍋に水を張り、昆布を入れた。火をつけた。湧くまでの間、千枝は台所の椅子に腰を下ろした。ガスの炎の青い色を見ていた。何も解決していなかった。電気代は払えたが、来月の電気代はまた来る。生活保護の審査はまだ続いている。追加書類を揃えなければならない。保険はなくなった。薬が足りない日があった。体調はまだ万全ではなかった。白鳥の目は、これからも廊下で会うたびに同じ目をするだろう。向かいの夫婦は、今後も目をそらすだろう。それが現実だった。来年も、同じ現実の中にいるだろう。でも、コンロの上で鍋が煮えている。公平が部屋にいる。電気がついている。千枝はそれだけのことを確かめてから、立ち上がって白菜を鍋に入れた。波の音は、ここから聞こえなかった。でも海はそこにあって、年が変わっても、変わらず波を打ち返しているのだろうと、千枝は思った。台所の蛍光灯が、ジジと小さな音を立てた。それから、また静かになった。