行為室に入り、白意を脱ぐ鏡。自分の顔は自分でも嫌になるほど疲れていた。ロッカーの扉を閉めると隣の扉が静かに開いた。神崎レーナだった。
「佐々木先生、今日は早く帰られるんですね。」
「ああ、今日は結婚記念日でね、妻と食事に行く約束をしてるんだ。久しぶりに早く出られそうだ。」
「それはお珍しい。お気をつけて。」
短いやり取りだったが、彼女との会話はいつもこうだ。余計なことを言わず必要なことだけを口にする。神崎レーナ38歳。若くして主任失を任され霊を次々と成功させてきた意思だ。医療雑誌の表紙を飾ったこともある。世間が天才外界と呼ぶ女だった。
俺の名前は佐々木孝太。都内の大学病院に務める心臓外界だ。神崎と同じ家に所属している。俺の名が新聞や雑誌に乗ることはない。学会で表彰されることもなければテレビの取材を受けることもない。それでも不満はなかった。自分の役割は自分が一番よく分かっているつもりだ。
病院の正面玄関を出ると夕方の風が頬を撫でた。俺は駐車場へ向かって歩き出した。
「菊の屋」は表通りから一本入った石畳の路地の奥にあった。古い木造の文が前に控えめな看板. 俺の妻、まゆみがずっと行ってみたいと言っていた死偽両亭だ。正直俺の給料で気軽に来られる店ではない。それでも今日くらいわと思って予約を入れた。
の連をくぐると若い中井が深ぶかと頭を下げた。畳の廊下を案内され、奥の個室に通される。
あゆみは俺の少し後ろをついてきながら小さく息をついた。
「素敵なお店ね. あなた無理させちゃったかしら。」
「いいんだ. 今年こそはきちんと祝おうと思ってたんだ.

去年も昨年も結局仕事で流れてしまったからな。」
まゆみは43になる。俺と出会った頃はまだ大学病院で看護師をしていた。結婚してからは家庭に入り、口数は少ないがいつも俺を静かに支えてくれた. 今日くらいはそのロに報いたかった. 席についてしばらくするとふの向こうから低い声が聞こえてきた。
「失礼いたします. 本日はようこそお越しくださいました天手の濱田でございます。」
入ってきたのは60前後の男だった.
背筋を伸ばし和服をきっちりと着込んでいる. 髪は綺麗に撫でつけられ、眼鏡の奥の目は鋭かった. 天手の濱田総一. この店を三代続けて守ってきた男だと予約の際に聞いていた.
「お二人ともお発の方とお見受けします. 失礼ですが何かのお祝いでもかしら。」
「結婚記念日でしてね. 妻が前々からこちらの店を気にしていたものですから。」
「それはそれはありがとうございます. ちなみにお仕事は何をされておいで?
」
世間話のような口ぶりだったが目はこちらを観察していた。まゆみが少し迷ってから答えた。
「主人はお医者様なんです. 大学病院で。」
「ほう. お医者様. 失礼ですがどちらの病院に?
」
俺が病院名を口にすると濱田の眉がピクリと動いた。
「あちらの病院でしたら神崎レナ先生がいらっしゃるところではええ、同じ家で働いています. 神崎先生はうちの主人嫉妬いですよ。」
その瞬間濱田の表情がはっきりと変わった. それまでの形式的な丁寧さに急に熱がこもったのだ. 「神崎先生、あの方は本当に素晴らしいお方ですな.
私も雑誌で何度も拝見しております. 日本の医療を背負って立つ医者だと もっぱらの評判で。」
「ええ、優秀な意思です。」
「それで佐々木先生はキムイというお立場ですか? 」
「ええ、キムいです。」
濱田は一瞬だけ魔をいた. ほんのわずかな間だったが俺にはっきりと分かった.
その間に男の中で何かが整理されたのだ. 神崎レナの名を聞いた時の熱はもうない. 言葉は丁寧なままだったが、声の温度がはっきりと一段下がった. 「作用でございますが、それではごゆっくりお過ごしくださいませ。」
そう言って濱田は静かにふを閉めた.
料理は確かに見事だった. ワン物の出汁の取り方、向こう付けの包丁の入り方. どれも長年磨かれてきた職人の仕事だった. 途中で再び濱田が顔を出した.
今度はとっくりを手にしている. 「お口に会いましたでしょうか? 本日は特別な人のことですので、こちらは私からのお祝いです。」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます。」
濱田は俺の逆月きにも酒を継ぎながらふと思い出したように口を開いた. 「いや、しかし神崎先生のような方が同じ職場にいらっしゃるというのはさぞ刺激になりましょうな.
ああいう世間に名の通ったお方というのはやはり違うものでしょうな。」
「神崎先生は努力の人ですよ. 表に出ているところだけがあの人の全てではありません。」
「いやいや、ご幻想. 私のような商売をしておりますとね、世の中というものがよく見えるんですよ. 同じ職業でもやはり核というものがございます.
医者にもね、ございましょう. 世間に流しられている方こそ本物ということなのでしょう。」
濱田はとっくりを置きながらにやかに続けた. 「失礼ながら佐々木先生のようにこう影でお支えになる先生方ももちろん大切ではあるのですが、やはり前に立つお方というのは別でしてな. そう見えるのも1つの味方でしょうね。」
俺はそれだけ言って肺を傾けた.
こうした扱いにはもう慣れている. 腹を立てるほどのことでもない. ただ隣の真みの指先が膝の上でわずかに硬くなっているのが分かった. 濱田はその後も神崎レナの名前を何度も口にした.
雑誌で読んだ記事のこと. テレビで見た特集のこと. その度に俺には軽い愛槌を求め、すぐにまた神崎の話に戻していく. 俺と話しているようでいて、俺を見てはいなかった.
その時だった. 店の奥の方からかな物音が聞こえた. 何かが床に落ちたような小さな音だ. 濱田の表情が一瞬だけ硬くなった.
笑顔のまま視線だけが奥のふへと走る. 「失礼. 少し席を外します. すぐに戻りますので。」
そう言って濱田は足早に部屋を出ていった.
まゆみが小さく息を履いた. 「あなたごめんなさいね. せっかくの記念日に嫌な思いをさせて。」
「気にするな. 料理はうまい.
それで十分じゃないか. お前が来たがっていた店に来られた. それだけで今日は良かったよ。」
は何か言いかけて結局口を閉じた. 濱田が戻ってきたのは5分ほどしてからだった.
額体にうっすらと汗が滲んでいる. 和服の襟り元を整える手がわずかに乱れていた. 「失礼いたしました. 少々店のものに確認することがございまして。」
「いえ、お忙しいところお気遣いなく。」
「いえいえ、お客様の前で席を外すなど本来あってはならぬことでございまして。」
濱田は再び俺たちの前に座り直した.
何かを取り作ろうようにまた酒を進めてくる. 俺は逆月きを受けながら男の顔を静かに見ていた. さっきの物音とこの汗何かがあったのかもしれない. だがそれを問いただすつもりはなかった.
余計な作は客の両文を超える. 濱田は気を取り直したようにまた話を始めた. 「私はね、佐々木先生、長年こういう商売をしておりますと、お客様の味方というものが自然と身についてまいります. 同じ料理人でもテレビに出るものとただ厨房で包丁握っているだけのものではやはり違うのですよ.
腕は同じでも世間が認めているかどうか. そこが本物と偽物を分ける線でしてな。」
「世間が認めているかどうかですか。」
「作用私はね、人間の寝打ちというのは結局のところどれだけの人に名を知られているかで決まると思っております. 影で支えるものがいるのは存じておりますよ. けれども表に立てぬのはそれなりの理由があるからではないかと。」
俺は黙って酒を口に運んだ.
反論する気は起きなかった. 反論したところでこの男の中の物差しは変わらない. それは長年かけて作り上げられたものだ. 60年かけて固まったものを一晩の食事で動かせるはずもなかった.
まゆみは俯いたまま湾の蓋にそっと指をかけている. 夫の代わりに何か言いたいのを必死にこらえているのが分かった. 俺は膝の下で軽く真みの手に触れた. 言うなという合図だった.
奥の方から再び物音がした. 今度はさっきよりはっきりとした音だった. 何かを引きずるような小さな車輪の音. それに混じって誰かの押し殺した声が聞こえた.
濱田の眉がまた動いた. 今度の動きはさっきよりも大きかった. 笑顔は崩さない. だが酒をごうとしていた手が一瞬だけ止まった.
「どうも騒がしくて申し訳ございません. 今夜は店のものが少々慌たらしくしておりまして。」
「ご家族の方でもいらっしゃるのですか? 」
「いえ、何大したことではございません. お気になさらず。」
何かを隠そうとしている.
そう感じた. だがそれが何なのかは分からなかった. 俺は逆月きを置いた. 胸の奥が妙にざついていた.
医者の勘というほど体操なものではない. ただ長年手術台に立っていると相手の顔色や呼吸の乱れから見えないものを読み取る癖がついてしまう. まゆみも気づいたらしい. 俺の顔を心配そうに覗き込んでくる.
「あなたどうかしたの? 」
「いや、なんでもない. 少し酒が回ったかもしれないな。」
そう言って俺は笑って見せた. 真みを不安にさせたくなかった.
今日は彼女を喜ばせるための夜のはずだった. 濱田は何事もなかったように神崎レナの話に戻ろうとした. 雑誌に載っていた写真の話、特集で紹介されていた手術の話だが、その声には先ほどまでの熱がなかった. 意識の半分が明らかに奥の物音の方へ向いていた.
部屋にしけさが落ちた. まゆみが向こう付けの小バに橋を伸ばしながらポつりと言った. 「濱田さん、お母様はお元気でいらっしゃるんですか? 」
俺は驚いて、まゆみを見た.
何の脈落もない問に見えた. だが、まゆみは元看護師だ. 彼女もまた何かを感じ取っていたのかもしれない. 濱田の顔がはっきりと怖わった.
「をご存知で。」
「いえ、存じあげないんです。」
「ただこの店を三代続けていらっしゃると伺ったものですから、お母様もご一緒なのかと思っただけで。」
「あえ、もう年でして奥の離れで静かに暮らしております. 今夜は少し具合が悪いようで。」
それだけ言って濱田は口を継ぐんだ. 酒を継ぐ手がまた止まっていた. 俺は黙ってその手元を見ていた.
その時だった. 廊下の方から低い声が聞こえた. 若い中の押し殺したような声だ. 「狼行けません.
今夜はお客様が」
その声を遮げるように別の声がした. それは年を重ねた女性の声だった. 細いが真のある声だった. 「どきなさい.
私はね、お客様の顔を見ておきたいんですよ。」
濱田の顔から一気に血の毛が引いた. 立ち上がろうとしたその瞬間、ふが静かに開いた. そこには車椅子に乗った老夫人がいた. 発をちんとゆい上げ、着物をよく着こなし.
背筋は真っすぐに伸びていた. 車椅子を押しているのは先ほどの若い中だった. 中井は困惑した顔で濱田の方を見ている. 「母さん、今夜は休んでいるはずでは」
「客人がいると聞いたものでね、挨拶ぐらいさせておくれ。」
千と呼ばれた老婦人はゆっくりと部屋の中に視線を巡らせた.
真みを見て軽く微笑む. それから視線が俺のところで止まった. 止まったまま動かなかった. 千オの目がわずかに見開かれていく.
俺を見つめる視線がだんだんと深くなっていく. 何かを思い出そうとしている目だった. そしてその奥に確かな光が灯っていく. 俺もまたその顔に覚えがあった.
だが何も言わなかった. 言えなかったという方が近いかもしれない. 部屋の空気が明らかに変わった. まゆみは息を飲んだまま俺と地を交互に見ている.
濱田は立ち上がったまま固まっていた. 千オは車椅子の上でゆっくりと姿勢をただした. それから震える唇を開いた. 「ラッターわ。」
そこまで言って千は言葉を止めた.
確かめるようにもう一度俺の顔を見つめる. 俺は何も言わずにただその視線を受け止めた. 千はゆっくりと深く頷いた. 濱田がようやく絞り出した.
「母さん、こちらのお客様をご存知なのか? 」
千オは息子の問いには答えなかった. ただ俺の目を見つめたままもう一度頷いた. 千の指先がわずかに震えている.
「先生、佐々木先生でいらっしゃいますね. お久しぶりです. お元気そうで何よりです。」
俺はそういうのが精一杯だった. 余計な説明はしなかった.
この場でそれを語るのは俺の役目ではない気がした. 濱田は母と俺の顔を交互に見比べていた. 「母さんどういうことだ? 佐々木先生をご存知なのか?
」
「そう、お前はいないのかい. 3年前のことを。」
「3年前? 」
「私が倒れてあの大学病院に運ばれたあの夜のことだよ。」
濱田の表情がゆっくりと変わっていった. 結色の良かった顔から色が抜けていく.
メガネの奥の目が何度かまた滝きを繰り返した. 「私はね、手術の後目を覚ました時にベッドの脇に座っていた先生の顔をはっきり覚えているんだよ. 何日も寝ずに私の様子を見てくださっていた先生のお顔をね、あの時の先生のお顔私は忘れたことがない。」
俺は黙って頭を下げた. 霊を言われるようなことではなかった.
あれは医者として当たり前のことをしただけだ. 濱田はまだ事態を飲み込めていない様子だった. 「待ってくれ母さん. 嫉妬は神崎先生だったはずだ.
新聞にも雑誌にも神崎先生のお名前が出ていた. 私は何度も神崎先生に折れようと。」
「お前はあの時病院にほとんど来ていなかったろ. 店が忙しいと言ってね. は私のそばにいてくれたのは佐々木先生だったよ。」
濱田の唇が何かを言いかけて止まった.
部屋の中の空気がすっかり変わっていた. その時廊下の方からもう1つの足音が聞こえた. 落ち着いた迷いのない足音だった. 薄の前で足音が止まり、若い中が困惑した声で告げた.
「あの、こちらのお客様が」
薄が静かに開いた. そこに立っていたのは神崎レーナだった. 「野分に失礼いたします. 佐々木先生がこちらにいらっしゃると伺ったものですから。」
「神崎先生、どうしてここに?
」
「明日の少礼のことでどうしても婚夜中にお伝えしたいことがありまして、奥様ごブレイをお許しください。」
まゆみは驚いた顔をしながらも丁寧に頭を下げた. 神崎は部屋の中をぐるりと見渡した. 車椅子の地を見てわずかに目を細める. それから立ち尽くし濱田に視線を移した.
「天さんでしたね. 3年前お母様の件で何度かお会いしました。」
「ああ、はい. あの時は本当にお世話になりまして。」
「お礼でしたら私ではなく佐々木先生に申し上げてください。」
濱田の顔がまた固くなった. 神崎は淡々と告げた.
「お母様の手術は確かに記録上私が主任しでした. 新聞や雑誌に名前が出たのも私です. ですが、あの夜手術中に容態が急変した時、最も難しい判断を下したのは佐々木先生でした. 私はあの時迷ったんです.
判断を謝ればお母様の命はなかった. その時佐々木先生が私の肩に手を置いてこうおっしゃっていました。」
「変わろう. 責任は私が取ると」
濱田の口がわずかに開いた. 神崎はまっすぐに濱田を見ていた.
「あの判断がなければ今お母様はそこにいらっしゃいません. 記録には残らないことですが、あの夜の現場にいたものは皆知っています. 佐々木先生は表に出ることを望まれない方です. ですが私はずっとあの夜のことをお伝えしたかった。」
濱田の体がゆっくりと崩れた.
畳に膝をつき、両手をつく. 頭を深く下げた. 額体が畳に触れるほどに下がっていた. 「佐々木先生、私はなんと愚かなこと.
今夜あなた様に何という失礼を。」
「顔をお上げください. 浜さん. 私は仕事をしただけです. 霊を言われるようなことではない。」
「いえいえ.
私は母の命を救ってくださった方に序列だの核だのと」
濱田の肩が震えていた. 60の男が畳の上で泣いていた. 千オが車椅子の上から静かに息子を見下ろしていた. どれくらいの時間が経っただろうか.
濱田はようやく体を起こし、それで目元を拭った. 「そう、お前は長年この店を守れなことだよ. だがね、人を見る目だけはまだ三代目には足りないようだね. あいの見ている顔だけがその人の顔じゃないんだよ.
見えないところで誰が何をしてくれているか. それを見抜けないとこの店は四代目に渡せないよ。」
「母傘申し訳ない。」
千は俺の方に向き直った. 「佐々木先生、あの夜のお礼を改めて生きていられるのは先生のおかげです. どうかお顔をお上げください。」
「あなたが今もこうしてご家族とお過ごしになっている.
それが何よりの例です。」
俺たちはそれからしばらくして店を出た. 濱田は門の外まで見送りに出てきた. 何度も頭を下げ、何度も詫びの言葉を口にした. 俺はその度にもう十分ですとだけ答えた.
石畳の路地を歩き出すと夜風が触れた. 昼間の暑さが嘘のように涼しい夜だった. まゆみが俺の腕にそっと手を添えてきた. 「あなた何も言わなかったのね.
あの場でご自分のことを」
「言う必要がなかったんだ. 神崎先生がちゃんと話してくれたからな。」
「え、でも私嬉しかった. あなたのことをちゃんと見ている人がいて、」
俺は何も答えず、ただ妻の手の上に自分の手を重ねた. 少し先を神崎が歩いていた.
振り返って軽く頭を下げる. 「佐々木先生、奥様お邪魔いたしました。」
「神崎先生今夜はありがとう。」
「いえ、私がずっと言いたかったことをようやく言えただけです. おやすみなさい。」
神崎の姿が路地の角を曲がって消えた. 表通りに出ると街灯の明りが石畳に長く伸びていた.
まゆみが俺の腕をもう少し強く握り直した. 俺は何も言わずに夜道を歩いた. 夜風がまた静かに頬を撫でていった.


