父の形見の財布を整理していたら、500円分のポイントが残ったスーパーのカードが出てきた。有効期限は今月末まで——借金返済で食費すら削っている私にとって、500円は一食を左右する大金だった。焼肉弁当を手に入れた日の夜、私はまだ知らなかった——このカードが、私を実の父でも母でもない「親戚」に繋ぎ、2億円の借金が実は嘘だったと判明し、母に執着する男に誘拐される——その全ての始まりになるなんて、思い…

父の形見の財布を整理していたら、500円分のポイントが残ったスーパーのカードが出てきた。有効期限は今月末まで——借金返済で食費すら削っている私にとって、500円は一食を左右する大金だった。焼肉弁当を手に入れた日の夜、私はまだ知らなかった——このカードが、私を実の父でも母でもない「親戚」に繋ぎ、2億円の借金が実は嘘だったと判明し、母に執着する男に誘拐される——その全ての始まりになるなんて、思い...

焼肉弁当を手にした瞬間、私は借金返済の日々に、ほんの少しの彩りが加わった気がした。父の財布から出てきたポイントカード。有効期限は今月末まで。500円分のポイントは、一食を左右する私にとっては大金だ。翌日、半額シールの貼られた焼肉弁当を見つけ、私は迷わずレジへ向かった。「このカード使えますか? 」「はい、ご利用いただけますよ」——ピッという音とともに、私の手元に焼肉弁当がやってきた。「今日の夕飯、豪華だな」——その日は、まさか私の人生が大きく動き出す前触れだとは思ってもみなかった。

私の名前は相沢楓出。今年で30歳になる。ちなみに独身だ。私は昔から細かいことを気にしない性格で、嫌なことがあっても一晩寝れば忘れる。失敗しても、きっと次があると思うし、困ったら切り替えて考えればいい。どうにもならないなら、とりあえずご飯を食べる——そんな調子なので、脳天気とも言われた。体力には自信があり、重たい荷物を運ぶのも苦にならない。どうやら世間一般の女性と比べると、力が強いらしい。働いて、帰って、食べて、寝る。豪華ではないけれど、案外こういう生活を気に入っていた。そうやって毎日を過ごしていた——2ヶ月前までは。両親が突然、交通事故で亡くなったのだ。仕事中、両親の車に大型トラックが突っ込んだらしい。警察から連絡を受けた時には、すでに手遅れだった。あまりにも突然の出来事で、涙を流す余裕すら生まれなかった。

親類は皆、動ける人間は私以外ゼロだった。葬儀の準備で毎日が慌ただしく過ぎていく。父も母も関係が広く、参列者は予想以上に多かった。受付を担当した人から「本当に慕われていたんですね」と言われたほどだ。父は人を疑うことを知らないような人で、母は困っている人を見ると放っておけない性格だった。娘の私から見ても、お人よし夫婦だったと思う。だからこそ、たくさんの人が集まってくれたのだろう。

葬儀が終盤に差し掛かった頃だった。見慣れない男性が私に近づいてくる。60代前半くらいで、高価そうなスーツを着ている。普通の参列者には見えなかった。「君が相沢楓出さんか? 」「はい、そうですけど」「私は黒田光一という。お父さんとは長い付き合いでね」——父の知人だろうか。私は軽く頭を下げた。ところが、続いた言葉は予想外だった。「今日は弔問に来たわけではない。実は、あなたの父親には借金がある」「え、借金ですか? 」「ああ、ざっと1億円だ。私は金融業をやっていてね、そこから彼は借金をしていたんだよ」「まさか1円足りとも返すことなく、亡くなるとはね」——さすがに耳を疑った。1億円——金額の桁がおかしい。「1億円ですか?

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」「そうだ」「へえ」——黒田さんの方が困惑している。父は自営業で、母はそこで働いていた。詳しい話は聞いていなかったが、事業資金として借入れを行うこともあるのかもしれない。「状況は理解しているのか? 」「父の借金ですよね」「そうだ」「実際1億円とは大変な額だ」——そう思ったから素直に言っただけなのだが、黒田さんはピクピクと眉を引き攣らせる。「父親が亡くなった。今、君が払うんだぞ」「え、私がですか? 」「当然だろう」——彼は胸を張る。「親の借金は子が返す。そういうものだ」私は腕を組んだ。つまりこれは負の遺産というわけだ。頭の中に「相続放棄」の単語が浮かぶが、法律については不勉強だし、今ここで言い争っても仕方がない。「わかりました。返せばいいんですよね」「簡単に言うが1億円だぞ」——黒田さんはこちらを睨んでくる。彼らだって商売だ。私が相続放棄をすれば借金を手放すのは簡単だが、それだと1億円が未回収になる——黒田さんがかわいそうに思えた。父のお人よしな性質は、私にもしっかり引き継がれているらしい「はい、頑張ります」力強く答える私に、彼は面食らっていた。「2年以内だ」「わかりました」「本当に理解しているのか? 」「はい。2年で返せばいいんですよね」黒田さんが沈黙した。なぜそんな反応をされるのか分からない。金額には驚いたが、借金は借金だ。返済は当然必要なもので、他にやる人がいないのなら私がやるしかない。幸い私は健康で体も丈夫だ。「とりあえず両親の他の遺産を書き集めたら1000万円くらいにはなると思います。まずまとまった額ができたら振り込みますね」「君は変わっているな」「よく言われます」黒田さんは珍獣を見るような目をこちらに向けていた。「まあいい。約束だからな。必ず返済してもらう」鼻を鳴らし、彼は立ち去っていく。私はその後ろ姿を見送りながら、「忙しくなりそうだな」くらいにしか考えていなかった。

葬儀が終わるとすぐに行動を開始した。まず、それまでいた会社をやめて、副業可能な会社へ転職する。副業選びには困らなかった——私は昔から妙に資格収集が好きだったからだ。運転免許はもちろん、フォークリフト、玉掛け、小型移動式クレーン、危険物取り扱い者、食品衛生責任者など、気になったものは片っ端から取得していたのだ。まさか将来、こうして役に立つとは当時の私は想像していなかったほう。空いている時間を見つけては仕事を詰め込むだけ。周囲からは心配されたが、私は元気だった。そんな毎日を続け、ほぼ毎週決まった額を黒田さんに送金していた。

転職してから、私は割と順調に新しい職場へ馴染んでいたほう。仕事内容は事務関係で、以前の会社と大きな違いはないほう。副業を認めてくれる会社という条件で選んだ職場だったが、働いている人たちも親切で助かっていた。「そんな中で一際、私によく話しかけてくる女性がいる」——美姫という名前で、私より一歳年下の同僚であるほう。見た目は可愛らしいほう。小柄で愛想も良く、初対面の印象も悪くなかったほう。「楓出さん、おはようございます」「おはようございます。ひめかさん」「もう敬語じゃなくていいって言ってるのに」「でも会社の中では私の方が後輩なので」ふくっと頬を膨らませる姫花は、まるで小動物のようだほう。彼女は仕事中もよく話しかけてくるほう。「楓出さん、そのペン可愛いですね。どこで買ったんですか?

」「あ、駅前の雑貨屋さんですよ」——そんな会話が日常茶飯事だほう。ある日出勤すると、姫花のデスクの上に見覚えのあるペンが置かれていたほう。私が使っているのと同じだったほう。偶然だろうと思い、何も気にしなかったほう。さらに数日後、姫花が使っている手帳が、私と同じ柄とサイズのものになるほう。期間限定品のはずなのに、どうやって見つけてきたのだろうほう。1週間後には、私が愛用していたマグカップと同じものが会社の給湯室に置かれたほう。その時も私は深く考えずにいたほう。世の中には同じものを使う人など、いくらでもいるほう。偶然が重なった程度に受け取っていたほう——ところが、周囲の反応は違ったほう。

ある日の昼休み、同僚の女性がそそくさと私の隣へやってくるほう。「あの、楓出さん大丈夫ですか? 」「え、何がですか? 」私は拠点として、見切り品の菓子パンをかじるのをやめたほう。「三好さんです」「もしかして気づいてませんか? 」「何をですか?

」女性社員は何とも言えない表情になったほう。「本当に気づいてないんですね」「三好さん、服装も髪型も持ち物、どんどん楓出さんに寄せてますよ」「そうなんですか」「そうなんですかって」呆れたように彼女はため息をつくほう。「言われてみれば、確かに最近格好も似てきている気もするほう「趣味が近いんですかね」「楓出さん、危機感持ってください」——女性社員はちらりと周囲を確認した後、さらに声を潜めたほう。「三好さん、前からああなんです」「ターゲットを見つけると、その人の真似ばかりするんですよ」——そこで私は初めて、姫花について詳しい話を聞かされたほう。彼女は気に入った人間の真似をすることで、入社した頃から有名だったらしいほう。最初は服装、次に髪型、持ち物ほう。話し方はもちろん、趣味や好きな店、こういう関係さえも、徐々に相手へ近づいていくほう。「そして最後には、その人が大切にしているものまで欲しがる」「以前、教育だった女性社員も標的にされたそうだほう。姫花は徹底的に彼女を真似したほう」「最終的に恋人まで奪われたんですよ」「その教育の先輩、恋人ですか? 」「はい」「美さんは『彼と先輩が付き合ってるなんて知らなかった』って言い張ってましたけど」「教育だった女性は精神的に追い込まれ、退職してしまったようだほう」「退職した途端、姫花は急に彼女の真似に興味を失い、元通りになったほう」——なるほどほう。「だからみんな距離を置いてたんです」「次のターゲットにされたら厄介だから」「楓出さん、本当に気をつけてくださいね」——私は考え込むほう——現状、全く困っていないからだほう。服も髪も持ち物も、規則に違反しない限りは好きにすればいいほう。私には恋人もいないので、奪われる心配も不要だほう。「まあ多分大丈夫ですよ」気楽に答えると、女性社員は複雑そうな様子になったほう。私としては本心だほう——おそらく姫花は悪意がないので、開心させるのも難しいほう。ただ放っておけば、そのうち飽きるはずだほう——ところが、事態は私の想像を超える方向へ進んだほう。

数日後、朝の新聞配達を終えた私は、自宅アパートへ戻っていたほう——築年数の古い木造アパートだほう。家賃の安さだけで選んだ物件であるほう。ちなみに転職直後は会社の社宅に住んでいたほう——しかし黒田さんが何度も押しかけてきて、借金返済をうるさく叫び続けるのだほう——借金は私の問題なので、そのことで会社へ迷惑をかけたくないほう——結果、自分から退去し、このアパートへ移ったのであるほう——回送しながら階段を上がっている途中だったほう——見覚えのある人物が目に入るほう。「え? 」思わず立ち止まるほう——そこには姫花がいたほう。なぜか引っ越し業者と一緒だったほう。大量の荷物が運び込まれているほう。「姫花さん」「あ、楓出さんおはようございます」姫花は嬉しそうに手を振るほう。「どうしたんですか? 」なんだか嫌な予感がするほう。「今日から私、カエルさんのお隣です」「引っ越してきたんですよ」「え?

隣? 社宅はどうしたんですか? 」「ああ、引き払ってきました」「私もっとカエルさんと仲良くなりたくて」——ニコリと笑うほう。私は数回瞬きを繰り返すほう。「仲良くですか? 」「はい」「これから毎日会えますね」「会社で会ってますけど」「仕事以外でも会えます」——ぎゅっと握り拳を作り、彼女は瞳を潤ませるほう。「でも大丈夫ですか?

ここ出るって噂なんですよ」「だから家賃が格安なんですけど」「へ」——姫花の顔が思いきり引きつったほう——実は私も、不動産屋と大家さんから再三聞かされているほう。「部屋が自己物件というわけではない」「アパートが立っている土地自体が、元々墓地で、江戸時代の処刑場だったらしいです」「す、そうなんですね」「あ、私部屋の片付けしないと」——また会社でほう。彼女は慌てた様子で部屋の中に引っ込んでいったほう。怖がらせてしまっただろうかほう——しかし、住むことを了承したのなら把握済みなのと同じ意味であるほう。私は深く考えず、自分の部屋へ向かったほう。

姫花が隣へ引っ越してきてから数日後の昼休みのことほう。私は賞味期限ギリギリのコンビニのおにぎりを食べながら、スマートフォンを眺めていたほう——すると向い側に座っていた姫花が身を乗り出してくるほう。「楓出さん、もしかして今日の夜もバイトですか? 」「何の仕事です? 」「えっと今日は工事現場ですね」何気なく答えたほう——途端に彼女の目が輝いたほう。「私も行きたいです」「楓出さんがやってる仕事やってみたい」——思いもよらぬ発言だほう。私はスマートフォンの画面を閉じるほう。「やらなくていいと思いますよ」「汚れますし、暑いですし、重たいものも運びます」「大丈夫です」「私だってできます」——やる気だけは十分らしいほう。「大きな現場だから、資格とか必要な仕事もありますけど」「持ってます」「え、そうなんですか? 」「実は私、資格なら色々持ってますから大丈夫なんです」——ドンと胸を張る姫花だったほう。「私が何を言っても彼女は引きそうにない」「じゃあ好きにすればいいと思いますよ」「やった」——その日の夜、現場へ到着した私は、思わず足を止めたほう——姫花がいるほう。ヘルメット姿だほう。「本当に来たんですね」「もちろんです」——どうやら時短バイトの求人サイトからこの現場を見つけて応募したらしいほう。「行動力だけは見習うべきかもしれない」——最も、その後すぐ私は別行動になったほう——その日の仕事は重機作業だほう。私は大型クレーンの担当であるほう。「相澤さん今日も頼むよ」「了解です」——素早く運転席へ乗り込んだほう。大型クレーンの操作は慣れているほう。資材を釣り上げ、移動させろすほう。作業員たちと連携しながら次々と作業を進めていくほう——私は昔から、こういった工事現場などの仕事との相性が良かったほう。「体力があり、資格があり、遅刻もしないし文句も言わない」「結果として、どこの現場でも歓迎される」——一方、その頃、姫花は別の意味で注目を集めていたほう。「君、資格あるって履歴書に書いてたよね」「何の資格?

フォークリフトは? 」「え、えっと、持ってません」——彼女は徐々に体を縮じ込まらせていくほう。「クレーンと玉掛けは? 」「他の重機系とか」「ん? 持ってません」「ごめんなさい」「はあ」「なんなら持ってるんだ」「嘘をついて応募したってことか」——周囲の作業員たちも微妙な空気になるほう——結局、姫花は資格不要の土木作業へ回されたほう——砂利運び、資材整理、清掃など、誰でもできる仕事だほう——最も楽な仕事ではないほう。「暑い」「腕も痛い」——おいおい、始まったばかりだぞほう。私は遠くから何度か姿を見かけたが、姫花は始終文句ばかり言っていたほう。作業員たちの輪からも浮いているほう——現場は危険と常に隣合わせだほう——資格や経験を軽く考える人間は歓迎されないほう。当然だろうほう——深夜作業が終了したほう。私は汗を拭き、水分補給をして、帰宅の支度をするほう——すると親方が苦しつつゆっくりと近づいてくるほう。「相澤ちゃん、あの子は友達?

」親方は姫花を見ていたほう——姫花はぐったりとパイプ椅子にもたれかかっているほう。「会社の同僚です」「私がここのバイトをしてるって知って、気になったみたいで」「ああ、なるほど」——何かを察したらしいほう——親方は遠い目になったほう。「世の中いろんな人がいるな」私も頷いたほう——そして翌日、姫花は会社を休んだほう。理由は精神的ショックらしいほう——総務からそう説明されたほう——全身筋肉痛になっているはずの姫花とは対象的に、私はいつも通り仕事を始めたほう。

数日後、アパートの部屋で家計簿をつけていた時、不意にスマートフォンが鳴るほう——画面を見ると黒田さんからだったほう。「もしもし」「ああ、楓出さんか。私だほう」「報告があるほう——借金が増えたほう」「へ」——私は手を止めたほう——彼は得意げに続けるほう。「調べ直した結果、新たな借用書が見つかったほう」「君のお父さんのサインもあるほう」「借用書」「えっと、いくらです? 」「1億円だほう」——一瞬拝頓としたほう——以前の額をそのまま繰り返されたと思ったからだほう。「相澤蓮さんは、さらに1億円借りていた」「つまり総額2億円だほう」——しかし黒田さんは、私の聞き間違いではないとしっかりと教えてくれるほう——私は天井を見上げたほう——そして再びスマートフォンにに向き合ったほう。「黒田さん、それ後出しじゃんけすぎるでしょう」「最初に言ってくださいよ」「見つかったのが最近なんだ」——彼はふんと鼻息で返事をするほう——そんなの、何とでも言えるのではないかほう。「私に追加で衝撃を与えるために隠していた可能性だってある」「そんなことあります? 」「あるんだよ、実は」——電話越しに黒田さんが苛立っている様子が伝わってくるほう——さすがの私も驚いたほう——1億円が2億円になるほう——明らかに数字のインパクトが違ったほう。「2億円か」「絶望したか? 」「びっくりしました」「うんうん」——と黒田さんは頷を打つほう。「返済表を作り直さないと」「そこか」——彼が思わず叫んだほう——私は家計簿を見下ろすほう——毎月の返済額、生活費、副業収入も、全部計算し直すのは地味に面倒だほう。「期間は伸ばしてやるほう——ありがたく思え」「助かります」素直にお礼を言ったほう。「せいぜい頑張ることだな」——黒田さんは高笑いするほう——一方、私は別のことが気になっていたほう——果たして父は、本当に借金などしていたのだろうかほう——最初は深く考えなかったけれど、突然2倍の額に膨れ上がるとなると、話は別だったほう——父は確かにお人よしで、商売も上手とは言えないほう——しかし、金額の額は異常だし、本当に借金をしていたとして、一体何に使ったのだろうほう。「黒田さん、借用書って見せてもらえます?

」電話の向こうで沈黙が生まれたほう。「どうしてだ? 」「父のことを確認したいので」「私を疑うのか? 」「まあ、ちょっと多少はごまかした方が良かったのかもしれません」——黒田さんはあからさまに不機嫌になったほう。「だって急に1億円増えたんですよ」「おかしいでしょう」「私からお金を余計に巻き上げたいなら、うまいやり方とは言えません」「こういうのはちょっとずつ小出しにしていくのがいいと思います」「借金は借金だほう——ごちゃごちゃ口ご応えするな」——彼は低い声で脅すようなセリフを吐いてくるほう——私は首をかしげたほう——どうにも腑に落ちないが、最も今すぐ答えが出る話でもないほう。「まずは返済を続けよう」——黒田さんは扱いやすい人という印象なので、いざとなったらいくらでも返済期限を伸ばしてもらえそうな気がしたほう。「楓出さん、どうしても返せなくなったら、方法はある」「え、方法ですか? 」「ああ、私の愛人になるといい」「面倒を見てやろう」——彼は妙に余裕たるい調子になるほう——予想外の提案だったほう——借金、返済、愛人——単語を頭の中で並べてみるけれど、どうしても繋がらないほう。「えっと、なんでですか?

」「何? 」「どうして借金を返済できないことと、黒田さんの愛人になることがイコールなのか、よくわからなくて」「私の借金を代わりに背負ってくれるってことですか? 」「だから面倒を見ると言っている」——ちっ、と短い舌打ちが聞こえてきたほう——全く答えになっていないほう——愛人になれなどと口で言うのは簡単だほう——本気なら、それ相応のプレゼンを用意してほしいほう——今の段階では選択肢の1つにも上がらないほう——私はさらに考えるほう——そしてある結論へたどり着いたほう。「ああ、分かりました」「つまり私には2億円の価値があるんですね」——元気よく声をあげるほう——しかし黒田さんは、なぜか悪けに取られてたほう。「は? 」「だって2億円と引き換えでしょ」「人生で初めてそんな高評価を受けました」「いやいや、そういう意味ではない」——黒田さんが怒鳴ったので、スマートフォンを耳から話すほう——細膜に悪いほう。「もういい」「失礼する」——唐突に通話は切れたほう——彼の振る舞いは未だに意味不明な部分が多いとはいえ、借金が倍になった事実は変わらないほう——翌日から私はさらに仕事を増やしたほう——深夜の荷下ろし、建設現場、解体作業の補助など、体力勝負の仕事を優先的に入れるほう——単価が高かったからだほう——そして、事故は突然起きるほう——夜の解体現場で、作業自体は順調だったほう——ところが、足場の一部が崩れたほう——近くにいた作業員が危険な位置にいて、私は反射的に飛び出したほう。「危ない」——作業員を押し飛ばした直後、落下してきた資材が右腕へ直撃するほう——ゴンという鈍い衝撃の次の瞬間には、劇痛が走るほう——途端に周囲が慌たしくなったほう——病院へ運ばれた結果、診断は右腕骨折だったほう。「全治2ヶ月です」「仕事は制限してください」——医師の説明も右から左へ通り抜けていくほう——私は然としていたほう——風邪すらほとんど引かない私が、こんなにもあっさりと骨折するなど、驚きだほう——包帯でぐるぐる巻きに固定された右腕を撫で、がっくりと肩を落としたほう。

数日後、右腕を骨折してからの私の落ち込み具合は、言葉で簡単に言い表せないほどだったほう——人生って厳しいほう——普段なら、眠って食べれば回復するほう——大抵のことは気合いと体力で乗り越えられるほう——大して骨折は違ったほう——気合いを入れても骨はすぐに繋がらないほう——体力があっても右腕を酷使すれば治りが遅くなるほう——私は初めて、自分の体にも限界があるのだと突きつけられたほう——その事実が地味に応えるほう——スマートフォンが鳴ったのは、そんな時だったほう——画面には学生時代からの友人の名前が表示されているほう。「楓出、今度の日曜開いてる?

一緒に競馬を見に行こう」「競馬? 」——思わず聞き返したほう——名前は知っているものの、ギャンブルという印象が強く、私の生活とは遠い世界だと感じるほう。「私お金ないよ」「見るだけでも楽しいよ」「ご飯を食べる場所もあるし、のんびり散歩だけしててもいいし、気晴らしにちょうどいいと思う」——そして日曜日、駅で友人と待ち合わせ、電車に乗り競馬場へ向かったほう——到着して最初に驚いたのは、人の多さだほう——さらにパドックへ連れて行かれた瞬間、私は言葉を失ったほう——生で見る競走馬の姿は、一等一が芸術品のようだったほう——「でめちゃくちゃ食いついてる」「才能あるわ」——馬は大きいが、恐ろしさよりも美しさが先に来るほう——堂々と歩く姿を見ているうちに、骨折で沈んでいた気分がほぐれていったほう——連れて行かれたフードコートも衝撃だったほう——新しくなったばかりらしく、テンポがずらりと並んでいるほう。「馬券を買わなくても楽しめるよ」——食べ終わる頃にはだいぶ元気が戻っていたほう——その後、友人に連れられてレースを観戦するほう——スタートの瞬間、馬たちが一斉に飛び出すほう——地面を蹴る音が響き、観客席から歓声が上がるほう——最後の直線に入った瞬間、空気が熱を帯びたほう——早いほう——走る馬の姿はまっすぐだったほう——全力で前へ進み、迷いなく駆け抜けるほう——その光景を見ているうちに、私の中にも徐々に力がみなぎってきたほう——骨が折れた程度で落ち込んでいる場合ではないほう——「馬券買ってみる」「え、難しくない? 」「簡単に遊ぶなら大丈夫」「金額を決めて、外れても笑える範囲で買えばいい」——友人は買い方を教えてくれたほう——いくつか種類がある中で、私が選んだのは、指定された5レース全ての1着を当てる馬券だったほう——“当たれば大きいし、なかなか夢のある仕組みだほう”「いきなりこれ選ぶ——当たる確率は低いよ」「なんなら宝くじよりも宝探しみたいでいいでしょ」——私は出走表を見たほう——馬の強さも機種も過去成績もよくわからないので、馬名の好みで五頭を選ぶことにするほう——友人は笑っていたほう。

——数日後、私はアパートの前で黒田さんと向かい合っていたほう——彼の方から連絡してきたのだほう——骨折の話をどこかで聞きつけたらしいほう「楓出さん腕の具合はどうだ? 」「見ての通り折れてますけど」——私としては聞かれたから答えただけだほう——だが彼には、私が相当落ち込んでいるように見えたのだろうほう——黒田さんは妙に機嫌が良さそうだほう——私が困っている姿を確認したかったのだろうかほう——わざわざ直接お金を回収に来る辺り、なかなか暇な人であるほう。「でもちょうど良かったです」「今週の返済分を用意しました」——私は部屋から大きな鞄を持ってきたほう——左手で持つには重いので、床を滑らせるように移動させるほう——黒田さんは軽く眉を寄せたほう。「どうぞ」「お金が入ってます」「現金で申し訳ないですけど」「なんだこれは?

」「いくらだ? 」「5000万飛んで280万円です」「何? 」——私はがばっと鞄を開いたほう——中には札束が詰まっているほう——黒田さんの動きが、びくっ、と跳ねて止まったほう。「このお金はどこで入れた? 」「まさか怪しい仕事に手を出したんだろうな」「えっと、競馬です」「は、競馬?

」「はい」「大当たりしました」——実は私が買った馬券が的中したのだほう——人気薄の馬が1着になり、的中者は私を含めて10人ほどほう——結果として高額配当を受け取ったほう——“競馬って最高ですね”——ついCMのセリフのようなことを言ってしまうほう——黒田さんは若干引いていたが、鞄から目を離さないほう——やがてわざとらしい咳払いをするほう「確かに受け取った」「はい」「残りも頑張ります」「うん」——黒田さんはそそくさと鞄を抱えたほう——あんなに偉そうにしていたのに、5000万円以上を前にすると動きが世話しないほう——周囲を確認し、鞄を抱きしめ、足早に駐車場の方へ向かっていくほう——人生には予想外の追い風が吹く日もあるほう——競馬場で見た馬たちのように前へ進めば、景色は変わるほう——そう考えるとまた力が湧いてきたほう

——競馬の配当で5000万円以上を返済してから、黒田さんの態度が変わったほう——妙に慣れ慣れしいほう「楓出さん、今日は何を食べたんだ? 」「納豆ご飯ですけど」——賞味期限ギリギリの食品は、集められたワゴンから取ったものだほう「納豆か」「君はやはり庶民的なんだな」「彼女によく似てる」「え、何ですか? 」「ああ、いや、なんでもない」——次の日には、仕事帰りの時間を狙ったように電話が鳴ったほう「今日は疲れただろう」「まあ、働きましたから」「君は本当に丈夫だな」——会話の目的が分からず、私は首をかしげたほう「ま子さんもそうだった」「え、母ですか? 」「いや、忘れろ」——そこで通話は切れたほう——黒田さんは時々、母の名前を出すほう——父に金を貸していたのなら面識があっても不思議ではないが、黒田さんが母の名前を口にする時だけ、やけに湿った空気がまとわりつく気がするほう——しかし、私は深く考えずにいたほう——右腕の骨折はだいぶ良くなってきたが、まだ完全に治ったわけではないほう——肉体労働系の仕事は制限されているほう。「かん君は母親に似ているな」「そうですか」「にこにこ笑った時が似ている」「へえ」——こちらが一切温度のない相槌をしても、彼は喋り続けるほう。「もっと自分を大事にした方がいい」「私なら君を守ってやれる」——私は徐々に、黒田さんは寂しい人なのかと思い始めていたほう——彼は確か独身だほう——人との慣れ合いに飢えているから、私などに頻繁に電話をかけてくるのだろうほう。「私は本気で言っているんだが」「聞いているのか?

」「聞いてますよ」——実際には左手で洗濯物を畳みながら対応していたほう——黒田さんは満足したのか、しばらくして通話を切ったほう——生活は相変わらず忙しいが、もう1つ気になることもあったほう——姫花だほう——あの工事現場の一件以来、彼女は会社を休みがちになっていたほう——最初は1日、次は2日ほう——その次は週の半分となり、出勤してきても、以前のように私のそばへ寄ってくる頻度が減ったほう——会社の同僚たちは姫花の言動が落ち着いたことに安心していたが、私は若干違和感を覚えていたほう——ある日の夜のことほう——私は押入れの収納箱を開けたほう——中には両親の遺品が入っているほう——今手元に残っているのは2つだけほう——父の財布と、母のペンダントであるほう——父の財布は、100円均一で買った安物だほう——黒い合皮はすり切れ、角の部分は白くなっているほう——母のペンダントは、おもちゃのような作りだほう——安っぽい金色のチェーンに、プラスチックの石が付いているほう——どちらも私にとって大事なものだったほう——財布にもペンダントにも、事故の時の血液がこびりついているほう——触れる度に息が詰まるほう——それでも私は、収納箱から取り出して膝の上に置いたほう「お父さん、お母さん、私結構頑張ってるよ」——当たり前だが返事はないほう——私はなんとなく父の財布を開くほう——現金も身分証もカード類も、葬儀後に整理した時に抜き取ったので、中身はからのはずだったほう——けれど、財布の内側のポケットがわずかに浮いているのに気づくほう——“あれ? ”左手で奥を探るほう——1枚のカードが出てきたほう——薄いポイントカードだったほう——『エーレン』という全国展開している大型スーパーのロゴが印刷されているほう——使いっぱいにスタンプのようなポイント表示があったほう——合計500ポイントほう——1ポイント1円として使えるタイプらしいほう——つまり500円分であるほう——裏面を見ると有効期限が書かれているほう——今月末までほう——“危ない、期限切れ寸前じゃん”——今の私にとって500円は、一食を左右する重要な金額だほう——だが、問題があるほう——家の近くにエーレンの店舗はないほう——歩くかほう——私はすぐに決めたほう——片道2時間で往復4時間かかるが、問題ないほう——翌日、会社が終わった後一度家に帰り、私はエーレンへ向かったほう——「買うなら何だろう? 」「肉かな? 」「お肉食べたい」——なんとなく呪文のように唱えながら歩いたほう——2時間後、私は目的地へ到着したほう——目の前に広がっていたのは、想像していたスーパーとは違う建物だったほう——“大きえ”——単純なスーパーというより、ショッピングモールに近いほう——店内へ入ると、私はまず食品売り場へ向かったほう——相材売り場の橋に弁当コーナーがあったほう——閉店が近い時間だったため、半額の値引きシールが貼られているほう——私は吸い寄せられるように近づいたほう——そこで念願の焼肉弁当を見つけたほう——ご飯の上に肉がしっかり乗っていて、付け合わせのナムルまで入っているほう——通常価格は税込み1000円で、半額で500円だほう——“勝った”——内心でガッツポーズを決めたほう——500ポイントで買えるほう——私は焼肉弁当を左手で大事に持ち、レジへ向かったほう「いらっしゃいませ」「お願いします」——私は父の財布からポイントカードを取り出したほう「あの、これ使えますか?

」——店員女性はカードを受け取るほう——一瞬動きが止まったように見えたけれど、すぐに頷いたほう「はい、ご利用いただけます」「よかったです」「じゃあこれでお願いします」——店員女性はカードを置いてレジを操作したほう——ピッという音が鳴り、会計が完了するほう「ポイント利用でお支払い完了です」「カードは回収となります」「はい」——私はカードと引き換えに焼肉弁当を手に入れたほう——その時、彼女が何か言いたげに私を見ていた気がするけれど、私はすでに焼肉弁当で頭がいっぱいだったほう——帰りも2時間歩くほう——普通なら疲れる距離かもしれないほう——でも、左手に焼肉弁当を下げているほう——今の私の足取りは軽かったほう「今日の夕飯豪華だな」——父の財布から出てきたポイントカードで、半額の焼肉弁当を買ったほう——たったそれだけの出来事なのに、妙に嬉しかったほう——父が最後に残してくれた500円分のご褒美のように感じたからだほう——で、焼肉弁当を買った翌日ほう——会社へ出勤した私は、朝から不思議な空気を感じていたほう——いつもなら誰かしらまだ雑談を口にする時間帯なのに、みんなが妙にそわそわしているほう——すると近くの女性社員が駆け寄ってくるほう「楓出さんおはようございます」「おはようございます」「あの、姫のこと聞きました? 」「え、何です? 」——彼女は目を丸くしたほう「え、知らないんですか? 」「だから何をです?

」「三好さんです」「あの人退職するつもりらしくて」——声を潜めて教えてくれるほう——思いもよらぬ一言だったほう——退職届けは郵送で一方的に送り付けられ、会社が確認のため電話をかけても出ないほう——当然仕事の引き継ぎもなく、かなり強引なやめ方だほう——その日の夕方、仕事を終えて帰宅し、私はアパートの階段を上がっていたほう——そこで気づくほう——“あれ? ”——隣の部屋の表札が外れ、玄関前に置かれていた小物も撤去されているほう——私はしばらく扉を見つめるほう——“引っ越したんだ”——いつの間にか、姫花は消えていたほう——退職と同時に部屋も引き払ったらしいほう——あれほど私に執着していた相手が、何も言わずに消えるとは、全く予想外だほう——“元気だといいけど”ほう——ぽつりとついて、私は自分の部屋へ入ったほう——それから2日後の休日ほう——右腕の骨折もだいぶ良くなってきているほう——医師からも軽い運動なら問題ないと言われたので、私は散歩へ行くことにしたほう——アパートの玄関を出るほう——すると、見慣れない車が止まっていたほう——“ほお”——思わず感心するほう——黒塗りの高級車だったほう——すると不意に、車の後部座席の扉が開くほう——中から男性が降りてきたほう——50代くらいだろうかほう——高級そうなスーツを着ていて、姿勢がいいほう——男性は私を視界に捉えると、目を見開いたほう——そして、足早に近づいてくるほう「あなたが楓出さんですね」「はい」「あざみさんで間違いありませんか? 」「う、そうですけど」——男性は安堵したように息を吐いたほう——すっと名刺を差し出してくるほう——坂崎さんほう——受け取った名刺を見て驚いたほう——『株式会社エーレン 副社長』と書かれているほう——エーレンといえば、先日焼肉弁当を買った大型スーパーマーケットで、全国展開している有名企業だほう——その副社長が、なぜ私のアパートの前にいるのだろうほう——“驚きますよね”“ええ、驚きました”“まずは落ち着いて聞いてください”“私はあなたのお母様、ま子さんの弟です”——私は固まったほう——“母の弟、つまり私の叔父に当たる人が存在したことが驚きだった”“と言っても、血は繋がっていません”“え? どういうことですか?

”“それについて、あなたと詳しい話をしたいんです”“お時間大丈夫でしょうか? ”——そう言って彼は高級車へ視線を向けたほう——私は車を促されるまま乗り込んだほう——車内は広くて静かだが、なんだか落ち着かないほう——しばらく沈黙が続いたものの、やがて彼が口を開いたほう「それにしても、まさか蓮さんとま子姉さんが繋がっていたなんて」——なんと父の名前まで出てきたほう——坂崎さんは一度窓の外を見たほう——懐かしむような眼差しになるほう「私が10歳の頃でした」「ま子姉さんのお父さんと、私の母が再婚したんです」「その時に私たちは兄弟になりました」「ま子姉さんはとても優しい人で、私は姉さんによくなついていました」「勉強も教えてくれましたし、遊びにも付き合ってくれました」「いつでも私を弟として認め、守ってもくれたんです」——その声は懐かしさに満ちていたほう——けれど、次の瞬間、空気が変わるほう「母は、そんな姉さんを嫌っていました」「理由は単純で——彼女がとても優秀だったからです」——坂崎さんはぎゅっと拳を握ったほう「ご存知かもしれませんが、エーレンは創業者一族が代々社長をついてきました」「つまり姉さんは、父さんの唯一の直系の子供で、正当な後継者です」「母が——」「そうです」——坂崎さんは力強く頷いたほう「ところが、私の母は、自分の息子である私を後継ぎに据えたかった」「だから姉さんに嫌がらせを始めたんです」「父の前ではいい母親を演じて、見えない場所で姉さんを追い詰める」「姉さんは最初から会社を継ぐつもりなどなかったのに、その声も聞こえないほど母は必死になっていた」——私は黙って聞いていたほう——“母は、とにかく明るい人で、いつも笑っている記憶が強いほう——辛い過去があったとしても、娘である私に打ち明けることは決してなかっただろう”ほう「姉さんは高校卒業と同時に家を出ました」「そしてそのまま2度と帰ってこなかった」「私とも連絡が取れなくなって」「父は、そうなってようやく気づいたんです」「母が姉さんに何をしていたのかを」——車は静かに走り続けるほう——坂崎さんは再び窓の外に視線を投げながら、つぶやいたほう「私が今いるこのポジションは、本来ならま子姉さんのものだった」「たとえ本人にそのつもりがなくとも」——その言葉には、長年抱え続けた後悔が滲んでいるほう——私もしばらく黙り込んでいたほう——だが、まだまだ気になることはあるほう「母との関わりについては分かりました」「では、父のことは? 」——私が問いかけると、遠い目をして過去を思っていた坂崎さんが、はっとするほう「父もエーレンに関係していたんですか? 」「いえ」「じゃあどうして」——蓮さんは、まだ心細かった頃の私を励ましてくれたんです——気を取り直すように、彼は新たな説明を始めたほう——私の頭の中に父の姿が浮かぶほう——人の相談を勝手に引き受けては母に怒られていたほう——知らない人ともすぐ仲良くなれるし、困っている人を見ると放っておけないほう——“通りに励ましたというのも、確かにありそうな話だった”ほう「20年以上前のことです」「当時、私はエーレン本社へ入社したばかりでした」「創業者一族の1人で、時期継承候補という肩書きを背負って、周囲はみんな距離を取っていました」「私本人ではなく、肩書きを見ていたんです」「ある日の帰り道でした」「私は近所の公園のベンチで座り込んでいたんです」「疲れてしまって——そこへ声をかけてきたのが、蓮さんでした」「大丈夫?

具合でも悪いんですか? ——そんな感じで話しかけてきました」「私も最初は警戒しました」「でも蓮さんは、水を1本買って渡してくれた後は、本当に雑談しかしなかった」「仕事の話もせず、身分も聞いてこないし、愚痴も言わない」「ただの世間話を、坂崎さんの気分が落ち着くまで——父は続けたのだ”“今日は暑いですねとか、近所のラーメン屋が美味しいですよとか、最近釣りに行ったんですとか——本当に些細な話題ばかりで、私はなんとなく相槌を打つだけでした”“けれど、その時間が彼にとって救いだった”“その時、私は坂崎家の人間になって以降、初めて肩書き抜きで接してもらえました”“ただの1人の人間として扱ってもらえたんです”——あまりにも父らしいエピソードに、なんだか嬉しくなるほう——それから何度か偶然公園で会いましたほう——父は、人付き合いのコツを教えてくれたんですほう——ある日、父が話を終えて帰ろうとした時、坂崎さんは勇気を出したほう——たまたま持っていたエーレンの未使用のポイントカードの裏に、電話番号を書いて渡したというほう——その時、私の中で話が繋がったほう——“当時、蓮さんは携帯電話を持っていなかったんです”“あり得る”——父は割と機械が苦手で、スマートフォンを持つもの人より遅かったほう「だから電話番号を書いたカードを渡しました」「ポイントも貯められて一石二鳥かなんて思ったり」「また会いたかったから」「でも、それからもう2度と蓮さんとは会えなくなってしまったんです」「多分父は忘れていたのだろう」「あるいは、電話番号が書かれていたことに気づかなかった」「父ならどちらもあり得る」——車は高速道路へ入るほう——窓の外の景色がさらに早く流れていくほう「でも、最近になってもう一度彼に会いたくなったんです」——坂崎さんはまっすぐ前を見たほう「感謝を伝えていないことを思い出したんです」「私が今の立場になったのは、周囲の人の支えのおかげでもあるけれど、あの時のあの人には何も返していないと」——その視線が私の方に向くほう「だから探すことにしました」「私の電話番号が書かれたポイントカードを持つ人物が現れたら、すぐに私へ報告するよう、全店に通達していたんです」——かなり大規模な捜査だほう——私は目を丸くするほう——“あの時の女性が妙な反応をしていた理由が分かった”——ポイントカードを見た瞬間気づいたのだろうけれど、私が全く無関心な様子だったから、声をかけるべきか惑っていたのかもしれないほう“そして先日、報告が来ました”“私ですね”“はい”“あなたが現れたんです”——思わず苦笑したほう——“半額の焼肉弁当を買いに行っただけなのに、まさかこんな話につながるとは”ほう——坂崎さんは話を続けるほう“今までは——さすがに倫理的にまずいだろうと思ってやらなかったのですが、こうしちゃいられないと、人を使ってすぐ調べさせました”“すると、蓮さんはすでに亡くなっていった”“そして——ま子姉さんと結婚していた”“はい”“姉さんも、蓮さんと一緒に亡くなっていたことが分かったんです”——車内に沈黙が落ちるほう“それで私にたどり着いたんですね”“そうです”——私は坂崎さんを見るほう——彼は父への恩返しと、母への後悔のために、わざわざ私を探してくれたほう——父も母ももうこの世に存在せず、その事実は変わらないほう——“私はずっと自分は天涯孤独だと思っていた”——頼れる人もいないから、ひたすら1人で働き続けるほう——“そっか”“私、孤独じゃなかったんだ”——気づけば私は笑っていたほう——坂崎さんは何も言わずにいたが、その目は優しかったほう「楓出さん、実はあなたの周辺についても少し調べました」——不意にそう切り出されるほう——そして、彼は続けたほう「借金を背負っているそうですね」——直すぎる発言に、少し吹き出してしまうほう——“事実だし、避けて通れないことではあるのだが”ほう「正直、決していい状況とは言えません」「あなたも働きすぎだという自覚があるでしょう」「そうですね」——なんとなく目をそらすほう——“骨折してからは、働きすぎどころか、働き足りない”ほう「だからこそ、お伝えしておきたいんです」「私はいつでも楓出さんを助ける準備ができています」——坂崎さんは紳摯な眼差しでそう告げたほう——“単なる同情ではなく、親戚としての責任感でもあるのだろう”“彼の気持ちは素直に嬉しかった”ほう「ありがとうございます」——私はペコリと頭を下げるほう「でも借金は自分でどうにかしますよ」——坂崎さんは口を閉じたほう——畳みかけるように私はさらに続けるほう「もちろん大変です」「正直、父が本当にそんな借金をしたのかも分からなくなってきました」「それでも、自分で納得するところまでは自分で動いてみたいんです」——答えると、坂崎さんはしばらく黙っていたが、やがてふっと小さく笑ったほう「ま子姉さんに似ていますね」「そうですか」「え、なんだか嬉しそうだ」「わかりました」「無理に手を出すことはしません」「助かります」——ですが、と彼は続けるほう「蓮さんに金を貸したという、黒田という男——その人物については、もう少し調べてみます」——彼の言葉に、思わず首をかしげるほう——“借金が突然1億円増えたり、借用書を見せたがらなかったり、最近では妙な雑談ばかりしてきたり——だがそこまで深く考えていなかった”ほう「調べた結果、何もなければそれで結構です」「ですが、もし何かあるなら、見過ごせません」——私はしばらく坂崎さんを見つめたほう——“ありがとうございます”——一応例を言っておくほう——“彼は私のことを思って、色々としてくれている”——全てを拒絶するのも、失礼に当たる気がしたほう——そんな話をしているうちに、彼はアパートの前まで戻ってきていたほう——車を降りるほう——見慣れた古いアパートが目の前にあったほう——坂崎さんは窓を開けるほう「楓出さん」「はい」「もう1人じゃありませんからね」「そのことを忘れないでください」——私は目を丸くしたほう——返事を考えている間に窓は閉まり、車はゆっくり走り出すほう——黒塗りの車は道路の向こうへ消えていったほう——私はその後ろ姿を見送り、自分の部屋に戻ったほう——坂崎さんと出会ってから数日後のことほう——私はいつも通り会社で仕事をしていたほう——資材室へ向かう途中の廊下で、ふと前方から男性社員が近づいてくるほう——やけに機嫌が良さそうに、似つきながら私に声をかけてきたほう「相澤さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」「何ですか? 」「相澤さんってさ、風俗店でも働いてるって本当? 」——はいほう——何を言っているのだろうほう——“働いてませんけど”“確かに日々がむしゃらに様々な仕事をしているが、そういう仕事に足を踏み入れたことは無い”ほう「へえ」——男性社員はスマートフォンを取り出したほう——何やら画面を操作すると、私へ見せてきたほう「これ、見て」——私は画面を覗き込んだほう——とある店のホームページで、女性スタッフの紹介らしきが開かれているほう——そこに掲載されていた写真を見た瞬間、私は目を丸くしたほう——“ああ、すごいですね”“認めるんだ”“認めませんけど”——似てますねほう——そこには確かに、私そっくりの女性が映っていたほう——名前は『ひめか』で、楓出だほう——髪型も服装の雰囲気も似ているほう——知らない人が見れば、私本人だと勘違いするかもしれない——けれど、私はすぐに気づいたほう——“ああ——この人、姫花さんだ”——私は画面を指さすほう「ほら、首のここ」「よく見てください」「写真の首元には小さなほがあった」「以前、姫花さんの首元の同じ位置にほがあるのを見た」「3つ並んだ珍しい形なので、よく覚えていた」——なるほどほう——私はしばらく画面を見つめたほう——“最近休みがちで、最終的には退職した理由にも全部繋がる”——姫花は本気で私になろうとしていたのだほう——服装、髪型、持ち物——そして最後には、顔を変えてまでほう——背筋に冷たいものが走るほう——正直怖かったほう——男性社員は画面と私を見比べ、やがて肩を救えるほう「まあ、そうだろうとは思ってたけど」「思ってたんですか?

」「そりゃね」——彼は白けた表情になるほう——どうやら最初から本気で信じていたわけではなかったようだほう——私はからかかわれたのだろうほう——なんとなく彼の左手を見たほう——薬指に指輪が光っているほう——私は首をかしげ、率直な感想を口にしたほう「そんなホームページ見てる暇があったら、奥さんのところに1秒でも早く帰ってあげた方がいいと思います」——男性社員の動きが止まったほう「その方が喜ぶんじゃないですか? 」「いや、その——いつも食堂で大声で奥さんの愚痴を言ってるの聞こえてますからね」「今妊娠中らしいじゃないですか」「もしかして、まだ父親になる自覚がないんですか? 」——彼は急に気まずそうな様子になるほう——耳まで赤くなっていたほう——どうやら図星だったらしいほう——さっさと目をそらし、そそくさと立ち去っていったほう——私はその背中を見送るほう——そして本来の目的を果たすため、再び歩き出したほう——数日後、私は坂崎さんに食事へ誘われたほう——待ち合わせ場所は、駅前から少し歩いた場所にあるレストランだったほう——外観からして高級店、私は入り口の前で1度立ち止まったほう——“普段の私は、半額弁当と見切り品のパンに支えられている”——こんな店に入る機会は滅多にないほう——“いや、めったどころか人生初だ”ほう——“高い”——思わずついた時、店のそばの駐車場の方から坂崎さんが出てきたほう「楓出さん、こんばんは」「今日は私のおごりですから、心配しなくても大丈夫ですよ」——私の独り言が聞こえていたらしいほう——一緒に店に入ると、私たちは奥の予約席へと案内されたほう——席へ着いた瞬間、椅子の座り心地に驚くほう——全才が運ばれてくるほう——私は左手でフォークを持ち、慎重に口へ運んだほう「おいしい」——坂崎さんは楽しそうに笑うほう——スープも魚料理も肉料理も、全部美味しかったほう——“借金返済に入ってから、食事は栄養と金額の勝負だった”——「外食ってすごいですね」「いや、このレストランがすごいのか」——しばらく食事を楽しんだ後、私はふと会社での出来事を思い出したほう——姫花のことだほう——“話すつもりはなかったが、なんとなく口から出てしまう”ほう「そういえば、最近ちょっと変なことがありました」——私は淡々と説明したほう——男性社員に風俗店で働いているのかと声をかけられたきっかけから始まり、姫花という私の真似ばかりしてきた人物の存在についてほう——坂崎さんは話が進むたびに、徐々に顔をしかめていくほう——私は最後まで黙って聞いていた坂崎さんを見るほう——彼は手元のカトラリーを置くほう「それは悪質です」「そうですか」「はい」——彼の口調は穏やかだったが、明らかに怒っていたほう——眉がピクピクと引き攣っているほう「警察に告訴することができるかもしれません」「う、告訴」「まさかそんな選択肢があるとは想像もしなかった」「そこまで大事ですか? 」「楓出さんのふりをして働いているのでしょう」「第三者が楓出さん本人だと誤解する可能性があります」「まあ、実際男性社員にはからかわれましたしね」「すでに実害が出ているじゃないですか」「不正確な評判を広められることと同じ意味ですよ」——坂崎さんはきっぱり言い切ったほう——私は冷たい水を飲みながら考えるほう——“確かに男性社員には変な絡まれ方をした”——「私はそこまでしなくてもいいです」「どうしてですか?

」「放っておけば飽きると思うので」「今だけ盛り上がってて、覚めた時に後悔するのは、姫花さん自身ですから」——坂崎さんは一瞬黙ったほう——だがすぐにこちらをじっと見つめ直すほう「でも、向こうは楓出さんのその優しさや無関心を許されたと勘違いして、もっと調子に乗るかもしれませんよ」「それは——」——私は言葉に詰まったほう——坂崎さんは責めるような言い方をしなかったほう——だからこそ、胸に刺さるほう——彼はそこで少し口調を柔らげるほう「とはいえ、最終的に動くかどうかは、楓出さんが決めることです」「はい、ありがとうございます」「必要になれば弁護士の手配もできます」「報酬はいりません」——私は小さく頭を下げたほう——“今すぐ動くつもりはないけれど、選択肢があると分かるだけで、心の持ち方が変わる”——ふと、坂崎さんは厳しい空気を醸し出したほう「実は今日は、もう1つ大事な話があります」「はい」「蓮さんに金を貸したという黒田について調査しました」「結論からお伝えしますと——蓮さんの借金は、1億円きっかりでした」——驚きはなかったほう——“むしろ、やっぱりという感覚がある”ほう「じゃあ、後から増えた1億円は黒田の嘘です」——坂崎さんは断言したほう——“ですよね”“さすがに反応が薄いですね”“なんとなくそうじゃないかと感じていましたから”ほう「それでも、ひどい話です」「到底許される行為ではありません」——真面目に返され、私は口を閉じるほう——“確かに、笑い話にしていい話ではない”——そして、彼は続けたほう「そして、実は残りの借金についてなのですが——こちらで返済しておきました」——私は固まったほう——一瞬言葉の意味が分からなかったほう——心を落ち着かせるためだほう——再び坂崎さんの方を見るほう——彼は申し訳なさそうな顔をしていたほう——“私は以前、借金は自分でどうにかすると確かに言った”——坂崎さんは深く息を吐いたほう「私の父が暴走し掛けたので」「え、お父さん? 」「はい」「つまり——楓出さんから見ると、祖父に当たる人です」——会ったことのない祖父の存在を出され、私は瞬きしたほう——坂崎さんは黒田さんに関する調査報告書を事務所に置いていたのだが、それを祖父が勝手に見てしまったというほう「父は、母のことをずっと悔んでいた」「連絡を断たれてから、ずっと探していたが見つけられなかった」「でも、孫である楓出さんが見つかって、しかも借金を背負わされ、黒田という男から脅されている——その報告を読んだ父は、激怒しました」——坂崎さんは、色々と落ち着いた転居合いを見計って私の存在を祖父に告げるつもりだったようだほう——だが、調査報告書を見られたことで、全てのタイミングが狂ったほう「『孫が困っているなら、祖父が助けるのは当然だ』『金などいくらでも出す』『黒田という男を今すぐ呼べ。いや、私が乗り込む』——と言い張って、止めるのが本当に大変だったんです」「だから、私が先に動きました」——なるほどほう——坂崎さんは一度水を飲んで喉を潤してから、さらに説明を続けるほう「正式な書類を確認し、弁護士も同席させました」「今更身内が出てくるとは思っていなかったようで、黒田も驚いていましたよ」「借金の総額が1億円であることを黒田さんに認めさせ、残額を一括返済した」「同時に警告もしたようだ」「今後、楓出さんへ接触しないこと」「電話も訪問も禁止」「違反した場合は、詐欺として法的措置に移ること」「根拠のない追加請求についても、こちらは記録を取っていると言っておきました」——いつの間にか、そんな大事になっていたのかほう——“黒田さんは電話でつまらない雑談をしてきたり、愛人になれなどと言ってきたりしていた”“私にとっては変な人という認識だが、坂崎さんたちから見れば、明確な危険人物だったのだろう”ほう「黒田さんは何て言ってました? 」「最初は強気でしたが、こちらの弁護士が書類を並べた途端、黙りました」「分かりやすい」「追加の1億円についても追求すると、曖昧な説明しかできませんでした」「やはり、後出しじゃんけんだったのだ」——私はじわじわと実感し始めたほう——借金が終わったほう——もう毎月の返済額の計算もしなくていいし、副業を限界まで詰め込まなくていいほう——“終わったんだ”ほう——口から自然に言葉が出たほう「はい」「本当に? 」——坂崎さんをじっと見つめ、繰り返してしまうほう「本当です」「私、もう黒田さんに返さなくていいんですか?

」「働き詰めにしなくてもいい」「むしろ、休んでください」——その言葉で急に力が抜けて、背中が椅子へ沈むほう——この数ヶ月、必死に働いてきたほう——両親の葬儀を終えた直後から、私は走り続けたほう——“借金を背負い、会社を変え、副業を増やす”——それが突然終わったほう——“ありがたいけれど、戸惑いも大きい”ほう「でも、返した分は坂崎さんに返します」「不要です」「父からの申し出ですから」「おじいさんから」「はい」——坂崎さんは穏やかに頷いたほう「父は言っていました——『ま子に何もしてやれなかった。なら、せめて孫に残せるものを残したい』『金で取り返せるものではないが、金で防げる苦労なら引き受ける』」——会ったこともない祖父が、私のために怒って、お金を出そうとしてくれたほう——それが不思議で、くすぐったくて、少し泣きそうになるほう「おじいさんって、どんな人なんですか? 」「頑固です」「とにかく頑固」——即答だったほう「でも、時代の荒波に揉まれてきた経営者らしい、柔軟な思考も持っていて、不思議な人ではあります」「今度、父にも会ってください」「向こうも会いたがっていたので」——返事がすぐに飛び出すほう——祖父に会ってみたいと強く感じたほう——“それにしても、この年になって親族がぽこぽこ生えてくるなんて——人生何があるか分かりませんね”“私たち、自然発生したわけではないんですが——でも確かに、私も存在ができるとは思っていませんでした”——私たちは笑い合ったほう——重い話をしていたはずなのに、気づけば空気は軽く柔らかくなっているほう——やがて最後のデザートがテーブルに運ばれてくるほう——“世の中には、こんな美味しいプリンがあるんですね”“気に入りましたか? ”“はい、プリン界の王様です”——坂崎さんは笑ったほう——その日の食事は、私にとって忘れられないものになったほう——借金がなくなってから数日後、私は人生で初めてと言っていいほど暇を持て余しましたほう——“どうしよう”ほう——テーブルの前で腕を組むほう——目の前には、ノートパソコン、その横には手帳と副業用のスケジュール表があったほう——“今までは、深く考える必要がなかった”——空いている時間には仕事を入れて、とにかく働き、借金を返すほう——やることは単純だったほう——ところが今は違うほう——借金返済もないほう——スマートフォンを見ると、着信履歴は平和そのものだったほう——以前なら週に何度も表示されていた黒田さんの名前が、ぴたりと消えているほう——“本当に来なくなったなあ”——坂崎さんの言った通りだったほう——“暇だ”ほう——予定表にぽっかり空白があることが、妙に落ち着かないほう——“できる範囲で働こうかな”——そうつぶやいてから、首を振るほう——借金は終わったのだと、再び自分に言い聞かせるほう——“今までのペースで働く理由はない”——むしろ、体を休めるべきだほう——医師にも似たようなことを言われたほう——私はスケジュール帳を見つめるほう——迫りくる空白欄に、なんだか負けた気分になるほう——“忙しさになれすぎてしまったらしい”ほう——ふと視線を向けた先には、別の書類が積まれていたほう——坂崎さんから渡されたものだほう——マンションかほう——情報が載った書類であるほう——“新築マンション、オートロック付きで防犯カメラ完備、管理人行き届いてて宅配ボックスあり、駅近——など、どれも立派な物件ばかりだ”——家賃を見て私は何度も目を疑ったほう——“高い”——今のアパートなら、何部屋借りられるだろう? ——そんな金額ばかりだったほう——坂崎さん曰く、今のアパートへ住み続けるのは危険とのことだほう——“確かに築年数も古いし、防犯性も低い”——私は資料を整理しながら、窓の外を眺めたほう——“ここは古いアパートだ”——狭く壁も薄い——だが、同時に、借金返済を支えてくれた場所でもあるほう——“いきなり引っ越す決心もつかなかった”ほう——“もうちょっと考えるか”——今までずっと走ってきたほう——少しくらい立ち止まって考えてもいいだろうほう——ふと視線が右腕へ落ちるほう——“次の病院で外れるかな?

”——のんびりつぶやき、私はゆっくりと椅子へ体を預けたほう——数日後、病院からの帰り道を、私は久しぶりに身軽な気分で歩いていたほう——右腕のギプスが外れたのだほう——“2ヶ月で治るなんて、回復が早すぎます”——医師は驚いたように何度もレントゲ写真を見返されたほう——“昔から丈夫なので”——「丈夫で片付けていい範囲を超えていると思いますけど」——そんなやり取りの末、右腕は無事完治と診断されるほう——帰ったら掃除しようほう——“右腕が使えるだけで、家事の難易度が大幅に下がる”——そんな当たり前の事実が嬉しかったほう——その時、背後から車の走行音が近づいてきたほう——“狭い道だったので、私は歩道の橋へよる”——だが、車は私の横で止まったほう——“え? ”——不審に思った瞬間、ドアが開くほう——“相沢は楓出だな”——返事をするより早く、両腕を掴まれたほう“え、何ですか? ”——抵抗しようとしたが、相手は複数人ほう——車の中へ押し込まれ、目隠しをされたほう——“誘拐ですか? ”——“黙っていろ”——車はしばらく走り続けたほう——やがて車が止まるほう——目隠しを外されるほう——“ほお”——目の前には古めかしい洋館があったほう——手入れはされている様子だが、全体的に薄暗いほう——私は玄関前に1人残されるほう——すると、重そうな扉が開いたほう——中から出てきたのは、黒田さんだったほう——最後に会った時より数段やつれているほう——“ようこそ、楓出さん”“黒田さん、これは誘拐ですよ”“人聞きが悪いな”“君を迎えに来させただけだ”“いや、方法が悪いのは事実ですし、犯罪じゃないですか、これ”——黒田さんは聞いていなかったほう——彼はふらりと私へ近づいたほう“君は、ま子さんに似ている”——まるで彼女が戻ってきたみたいだほう——“違います”“私は母ではありませんよ”ほう——ぞっと背筋に悪寒が走るほう——“黒田さんが電話で私に構ってきた理由がようやくわかった”——彼は私を通して母を見ているほう——“母の代用品を求めているのだ”——不意に、黒田さんは懐から手錠を取り出したほう——“動くな”——とっさに避けようとしたが、彼は思ったより素早かったほう——手首を掴まれ、カチリと金属がはまる音が響くほう——私は手錠を見下ろすほう「黒田さん、これ完全に犯罪ですよ」「借金がなくなろうが、関係ない」「初めからこうすればよかったんだ」——黒田さんはにんまりと笑みを深めたほう——“あの、全然聞いてませんね”——彼はちらりと自身の腕時計に視線を向けたほう「私はこの後少し仕事がある」「とっとと片付けてくるから、ここで私の帰りを待っていなさい」——何と答えるべきか迷っているうちに、黒田さんは出ていったほう——足音が遠ざかり、やがて外で車のエンジン音がするほう——私は椅子に固定されたまま、壁一面の母の写真を見渡したほう——“お母さん——変なのに好かれてたんだね”——くいくいっと手錠を軽く引いたほう——金属が鈍く鳴るほう——“借金は終わり、黒田さんとも関わらなくて済むはずだった”——だが、彼は借金ではなく、母への執着で私に絡みついていたほう——“困ったなあ”——けれど——黒田さんは1つ見誤っているほう——“この私が、大人しくしているわけがない”——何気なく、椅子の肘掛けに固定された手首を動かしたほう——手錠は一見すると頑丈そうだほう——留め具の部分を確認し、ぐっと力を込めるほう——バキンと、あっさり外れたほう——“え、おもちゃじゃん”——本物の手錠ではなかったらしいほう——“犯罪をする度胸はあるのに、道具は中途半端だ”——私は手首を回し、椅子から立ち上がったほう——“右腕は完治したばかりだが、問題なく動く”——窓から出るのがいいかなほう——“おそらく玄関には鍵がかかっているだろう”——私は椅子を持ち上げたほう——“せーの”——窓ガラスへ椅子を叩きつけると、派手な音を立てて割れたほう——私はカーテンを引きちぎり、窓枠に残った鋭い部分を覆うほう——そして、なんなく外へ出たほう——1階なので、着地すると足元は土だったほう——“どうやらここは山の中らしい”——“とりあえず下ればいいよね”——暗闇の中、木の枝が服に引っかかるほう——足元のぬかるみや大きな石に何度もつまづきかけたほう——“熊とか出たら嫌だな”——私は周囲の音へ気を配りながら歩いたほう——1時間ほど歩き回っただろうかほう——ようやく舗装された道路に出たほう——道路沿いに歩き始め、しばらく進むと遠くに明かりが見えるほう——民家だったほう——玄関前まで歩き、チャイムを押すほう——しばらくして年配の女性が出てきたほう「はい」「どちら様でしょう?

」「夜分にすみません」「誘拐されて、山の中の洋館から逃げてきました」「電話を貸していただけませんか? ]」——端的に説明したつもりだが、少々正直すぎただろうかほう——奥から男性も出てくるほう——住人夫婦は最初こそ驚いていたが、私の服が土で汚れていることや、手に手錠の跡があるのを見て、すぐ家へ入れてくれたほう「大変だったでしょう」「座って」——私はまず坂崎さんへ電話をかけたほう——番号は覚えているほう——すぐに繋がったほう「はい、坂崎です」「あ、楓出です」「こんばんは」「楓出さん」——坂崎さんの声が一気に鋭くなったほう「今どこですか? 」「連絡が取れず、こちらで探していました」「山です」「はい」「山——黒田さんに誘拐されました」——電話の向こうで息を飲む気配がするほう——私は住人男性にここの住所を確認し、坂崎さんへ伝えたほう「すぐ向かいます」「警察にも連絡を」「今からします」「絶対にそこから動かないでください」「はい」——電話を切り、すぐ警察にも通報したほう——電話を終えたタイミングで、住人女性がお茶を出してくれたほう——塩の効いたおにぎりと、夕食の残りだという煮物と白菜の漬け物をいただくほう——“美味しかった”ほう——そうしているうちに、外からサイレンの音が近づいてきたほう——パトカーが到着していたほう——さらにその後ろから、見慣れた黒塗りの車も入ってくるほう——坂崎さんだほう——車から降りた彼は、私を見るなり駆け寄ってきたほう「楓出さん、怪我はありませんか? 」「はい、全然大丈夫です」「見ての通り」——その場でくるりと1回転して全身を見せると、坂崎さんは深く息を吐いたほう——警察官も集まり事情を聞かれるほう——その時、遠くから車の音が近づいてくるほう——黒田さんが飛び出したほう「楓出さん、あなた——いや、お前、一体何をしているんだ?

」——黒田さんは怒りで全身をぶるぶると震わせていたほう——坂崎さんが私を庇うように前へ出たほう——それを見た黒田さんは、わっと目を釣り上げるほう「貴様か」「また余計なことをしやがって」「お前は一体、楓出さんの何なんだ? 」「黒田さん、警察の前ですよ」「うるさい」「黙れ」——確める声は彼には一切届いていなかったほう——黒田さんは一直線に坂崎さんへ突進し、拳を振り上げるほう——その瞬間、私は咄嗟に坂崎さんの腕を引いて、素早くポジションを入れ替えるほう——前へ出たのと同時に、黒田さんの拳が私の顔面へ当たったほう——鈍い音がしたような気がするが、痛みはほとんどなかったほう——“へえ”“まさか今ので全力ですか? 弱”ほう——悲鳴を上げたのは黒田さんだったほう——自分の手を抑えて、その場にうずくまっているほう——警察官たちも即座に動いたほう「暴行の現行犯で逮捕します」「違う」「私は——痛い」「動かないでください」——黒田さんは抵抗しようとしたが、すぐ取り押えられるほう——手首にかけられる手錠は、先ほどとは違い本物だほう——警察官に連れて行かれながら、彼は母の名前を叫び続けたほう——その姿は哀れでもあったが、同情する気にはなれなかったほう——坂崎さんが私の肩を支えるほう「楓出さん、なぜ私と彼の間に入ったんですか? 」「現行犯にした方が早いと思って」「危ないでしょう」「彼は暴れていた」「もっと乱暴な手を使ってくる可能性だってあったんですよ」「大丈夫です」「私はあの人に傷つけられるほど柔じゃないですし」——事実を告げたつもりだが、彼は悲しげに眉を下げたほう——“そういう問題ではありません”——その眼差しはどこまでも真剣だったほう——“他者からこういう形で構われる事態に、いい加減慣れなければと思いながら、私は素直に頭を下げる”“すみません”——坂崎さんは長い息を吐いたほう——その後、私は念のため病院へ運ばれるほう——診察の結果、怪我は本当に1つもなかったほう——病院での診察の後、改めて警察から事情聴取を受けたほう——同じ頃、誘拐の実行犯である男たちも捕まったらしいほう——彼らの車の中にあったという私の鞄も戻ってきたほう——長い1日が終わりほう——坂崎さんの進めで今日はホテルに泊まることにほう——シャワーを浴びてベッドに入った瞬間、3秒で眠りに落ちてしまったほう——翌朝、私はすっきりとした気分で目を覚ましたほう——ホテルの朝食はバイキング形式だったほう——和食も洋食も並んでいて、見てるだけで楽しいほう——“いただきます”——ちみじみと味わいながら口に運んだほう——気づけば何度もお代わりしていたほう——部屋へ戻り、ベッドの枕元で充電していたスマートフォンを手に取るほう——画面を開き、私は固まったほう——“ふわ”——着信履歴が大変なことになっていたほう——坂崎さんの他に、同じ番号が何十件も並んでいるほう——発信者は姫花だったほう——不審に思っていると、再び着信音が鳴ったほう——また姫花だほう——私は数秒迷い、通話ボタンを押すほう「もしもし」「楓出さん!

」——耳をつんざくような声が飛び込んできたほう「おはようございます」「おはようございますじゃありません! 」「何を呑気に返事してるんですか? 」——姫花は息を荒くしながら続けるほう「どうして黙ってたんですか? 」「何のことですか?

」「全部です! 」——全部と言われても分からないほう——私はベッドに腰かけたほう——姫花は怒涛の勢いでまくし立てるほう「あの時、私見たんです」「楓出さんが男の人へ大金を渡してるところ」——一瞬何のことかと思ったが、すぐにひらめいたほう——競馬の配当金を、借金の返済として黒田さんに渡していた時のことかほう「私てっきり、あの大金って風俗で稼いだものだと思って——だから私も働き始めたんです」「楓出さんが働いてるから」——はいほう——の間に論理が飛躍していたほう——だがすぐに、姫花の勘違いの根深さに気づくほう——黒田さんへ渡した大金を風俗店で稼いだ金だと思い込み、自分も同じ仕事を始めたほう——私そっくりになるために整形までしたほう——“なるほど”ほう——私の名前を名乗って働いていたのは、私のせいではないほう——だが、彼女はそうは思っていないらしいほう——しばらくして、姫花が間抜けた返事を漏らしたほう「え、風俗店で——私の名前を使って、私本人のように振る舞ってたって聞いてますよ」「す、それを」——彼女は明らかに動揺していたほう——姫花は何をしても私が許すと考えていたのかもしれないほう「楓出さんは、今まで私のこと受け入れてくれてたでしょう? 」「そんなことありませんよ」「今までは、単にあなたのやることに興味がなかっただけです」「でも、そうも言っていられないようなので、はっきりと言い放ちます——私の名前を使って働くのはやめてください」——しばらくして、口から嗚咽がこぼれ始めたほう——姫花は泣いていたが、私は慰めないほう「姫花さん、他人の真似ばかりしても、その人にはなれません」「髪型や服、仕事を真似しても——人生までは手に入りません」「姫花さんに足りないのは、自分の人生を生きる覚悟だと思います」——“うるさい”“私の気持ちなんて、何も知らないくせに”——姫花の返事は恨み言だったほう——“処置なし”——と心の中で断ずるほう——私はすぐに通話終了ボタンを押したほう——静かになるほう——スマートフォンを置き、窓の外を見たほう——“さて”——黒田さんの問題も、姫花の問題も、多分これで終わりだほう——私は大きく伸びをして、一息ついたほう——数日後、私は坂崎さんの運転する車に乗っていたほう——今日は是非見せたいものがあると言われて、連れてこられたのだほう——車は緩やかな坂道を進み続け、やがてとある別荘地へ入ったほう——車がゆっくり停車したほう——目の前にあるのは個人経営のペンションだほう——“素敵ですね”——私は建物を見上げたほう——その時、坂崎さんが静かに口を開くほう「楓出さん、実はこの土地と建物なんですけど、蓮さんが購入したものなんです」——思いもよらぬ一言に、目を白黒させたほう——黒田さんから借りた1億円の大半は、この場所の購入資金だったというほう——“なるほど”——らしいほう——勢いで人生を決めることがよくあった——ふと、昔の記憶が蘇るほう——まだ私が高校生だった頃、夕食の席で両親が楽しそうに話していたほう——“老後は宿をやってみたいな”“絶対楽しいと思う”“いいわね”“朝ご飯にこだわりましょう”“あと大きな犬も買いたいわ”——当時は冗談だと思って聞き流していたが、まさか本気だったとはほう——私はゆっくりと建物へ近づいたほう——玄関に触れると、木の感触が伝わるほう——両親が叶えたかった夢は、私が引き継ぐほう——“最近は、宿泊業について勉強も始めた”——いつの日か、このペンションを私自身の手で経営するのが、今の夢だほう——休日の夕方、手入れを終えた私は、ペンションの前に立つほう——見上げた空は青く、どこまでも広がったほう——“よし”——まだまだやることは多い——でも、人生は続いていくのだから、それでいいほう——私は笑いながら、両親が残してくれた未来へ向かって歩き出したほう。