昨夜のうちに彼氏が逃げた。金もない、家もない、社長はキモいおじさんだった。私は目の前の光景が信じられなかった。真っ昼間のバルでビールをあおってから出社した、その勢いで会社に退職届を叩きつけた日のことを、今でも昨日のことのように思い出せる。「あの人、本当に私の父親ですよ」と、にこやかに笑いながら言ってのけたあの女も、もうここにはいない。でも、彼女が残していったのは、ただの紙切れなんかじゃなかっ…

昨夜のうちに彼氏が逃げた。金もない、家もない、社長はキモいおじさんだった。私は目の前の光景が信じられなかった。真っ昼間のバルでビールをあおってから出社した、その勢いで会社に退職届を叩きつけた日のことを、今でも昨日のことのように思い出せる。「あの人、本当に私の父親ですよ」と、にこやかに笑いながら言ってのけたあの女も、もうここにはいない。でも、彼女が残していったのは、ただの紙切れなんかじゃなかっ...

「神田課長、今日まだ来てませんよ」

そう言ったのは、入社四年目の大崎ミキだった。時計はもうすぐ十四時を指そうとしている。十二時近い遅刻にもほどがある。話を聞けば、昨日もルナは少し注意しただけで泣き出し、トイレに行ったきり戻ってこなかったという。「明日から心を入れ替えて頑張ります」という謝罪が、どうやら嘘だったらしい。

田端ルナ。二十六歳。つい十日ほど前、社長のゴリ押しでうちの総務課に入ってきた新人だ。社長は「よろしく頼むよ」と軽いノリで彼女を置いていった。キャバクラ経歴を華やかに装飾した職務経歴書を見たときは、思わず目を疑った。ラメ入りのペンでハートや星を散りばめたあの履歴書は、もはや職務経歴書というより、ただの自己紹介ノートだった。しかも、体験入店まで堂々と経歴に書いてある。バックオフィスの常識をまるで理解していないその姿勢に、俺は娘をどう育てればこんな大人にならないで済むのか、真剣に考えてしまったよ。

それよりも気になっていたのは、彼女が田端部長の娘だということだ。田端部は本社の営業の要で、人望も人当たりも良い、本当に誠実な人物だ。娘が本社にいることを知っているのか。それとも、こんなに困らせていることを知らないのか。ミキも心配そうな顔をしていた。

話題のルナが、突然にこやかな笑顔で現れたのは、その直後のことだった。

「あの人、本当に私の父親ですよ。おはようございます」

軽い挨拶と共に、彼女は堂々と経霊ポーズを決めている。午後二時に。俺とミキは思わず絶句した。

「今何時だと思ってるんだ」

「へえ。だってキャバクラは、行きたい時に行けば良かったんだもん」

「ここは会社だ。酒を提供する店とは違う」

「何よ、課長さん、私に察しずするの? 私はタバ田の娘だし、社長にも気に入られてるんだから」

自分の身分を切り札にしてきたルナに対して、俺は一歩も引かなかった。田端部長を呼べばいいと言うと、彼女は「そんなことしなくていいわよ」と、ようやく大人しくなった。

「じゃあ、最後のチャンスを与えるよ。早く起きて、お酒を飲むことなく時出社できるね。差しずする気? 」

「それって差し図ってこと? 教育的指導ってやつ?

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全く話を聞いていない。仕事とは何かを一から教える気など、もう失せていた。

「ああ、君がそれでいいなら、やめるといい」

そう言うと、ルナは自分の手帳から一枚の小さな紙切れを取り出し、ペンでひらがなを書き始めた。

「退職届。今日でやめます。6月18日 田端ルナ」

「ああ、ここに会社名を書くとかっこいいな」

花を膨らませて会社名を記入したかと思うと、彼女は何やら銀行印を取り出した。

「彼に公引届けに反抗を押してほしいって言われたから買ったんだ。他の書類にも反抗したから、これ、練習にもなるしね」

もう、仕事を辞めるかどうかという次元の話ではない。彼女が印鑑の立派さを解説し始めたところで、俺はその紙を奪い取った。

「それは人事部に提出するよ。じゃあ、おしまいね。バイバイ」

ルナはあっさりと会社を去っていった。

やれやれ。だが、これは由々しき事態だ。俺はすぐに田端部長に電話を入れた。夕方、本社から大急ぎで車を飛ばしてやってきた田端部部は、そのふざけた退職届を見て愕然としていた。

「申し訳ない。娘が開光1番深と」

深々と頭を下げた彼は、ルナがこの会社に入社したこと自体、全く知らなかったという。

「ルナは兄貴の娘でね、私が引き取ったんだ。彼女が原因で兄は離婚し、行き場を失ったルナを、うちで育てることにしたんだよ」

その時、ルナは中学生で、すでに不良の娘に仕上がっていたらしい。彼は、その退職届を有効にしてもらいたいと言った。

「彼女には、少し痛い思いをさせないとダメかもしれない」

そう言いながらも、その顔にはどこか複雑なものがあった。それにしても、なぜ社長がルナを入社させたのか。田端部長はその神切れを一枚持って、人事部へ向かっていった。

それから一週間が経った朝のことだった。定時のちょうど始業時刻に、突然ルナが現れたのだ。

「おはようございます」

俺を含め、社員全員の視線が冷ややかに彼女へ向く。「何よ、タバ田ルナが出勤してやったのよ」

「出勤? ここは夜の店じゃないぞ。会社だぞ」

「そんなこと分かってるわよ。だから心を入れ替えて来てやったんじゃないの」

「随分と長い反省期間だったな。ただ、遅かったよ。もう君の退職届は受理されたし」

「え? あんな紙切れが通用するの? おかしくない?

「あれは書籍として成立していたからな。人事部が自己都合による退職として受理したよ」

途端、ルナは顔色を変えて噛みついてきた。

「それは向こうよ向こうでしょ。私は誰だと思ってるの? 田端田の娘よ。ふざけないで」

「いいや、俺自身が君を首にしようと動き出したんだが、田端部長が『退職届があるんだから』と、自己都合による退職でまとめてくれたんだ。感謝しろよ」

「なんで父親が関わってくるのよ」

「秋の異動で、田端部長は事部長として本社に戻ってくる内々定があるからだよ。その前に、ネガティブな要素は断ち切っておきたかったってわけさ」

「私がネガティブな要素ってこと? 」

「それは俺の言うことではないよ。……で、君はどうして今になって出社してきたんだ? 」

「働かないと生活ができないって分かったからよ」

「キャバクラに戻れば良かったじゃないか。日がいいんだろう」

ルナは黙り込み、やがてシクシクと泣き出した。ほんの数週間前も、彼女は同じように泣きながら心を入れ替えて働くと言っていたじゃないか。知ってるぞ。何もかも。俺は、彼女が去ってからの一週間で分かったことを、包み隠さず話すことにした。

売り掛け金を抱えたまま、複数の店を飛んだんだってな。

客のツケが不良債権化すれば、担当キャストが肩代わりすることになる。ルナはその肩代わり分を清算しないまま、姿をくらましていたというのだ。それも何件もの店で同じことを繰り返せば、どんなに源氏名を変えようとも、要注意人物として店同士で情報が回る夜の世界には、もう戻れないってことだ。

「訴えられるべきは、支払わない客でしょう」

「そうだな、本当はな。だが、君が店を飛んでしまえば、責任を追うのは君になっちゃうんじゃないか」

痛いところを突かれたルナは、黙り込む。

「それと、君は連帯保証人として、ホストの借金の肩代わりをしたんじゃないか」

「え?

何よそれ」

「この前、婚姻届に印鑑を押す練習だとか言って、彼が出してきた書類に署名捺印をしただろう」

「署名捺印? 何それ」

「反抗をしたよね。彼が出してきた書類に」

ルナが軽く頷く。

「それな、君が闇金から二百万借りたことになってるらしいね。うちの会社に、柄の悪いおじさんたちが押しかけてきたよいる君の彼氏は、その金を持って逃げたって話だ」

「嘘? 嘘よ」

ルナは慌ててスマホでホストの彼に連絡を取ろうとしたが、電話も何も通じなかった。

「公引届けも嘘だったってこと? なんちゃら証明を取りに反抗を持って区役所まで行ったのに……」

多分、ルナの言う「なんちゃら証明」とは、証明書のことだろう。個人の証明書を取らせて、借金を仕組んだのだ。ホストは最初からルナを騙し、金を騙し取るつもりだったのだ。ようやく自分の置かれた立場を理解したのか、ルナの顔から血の気が引いていく。

「じゃあ、パパを呼んでよ」

「田端部長なら、もうすぐ来ると思うよ」

「違うわ。そのパパじゃない。めぐっちょ」

ルナはバッグから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を俺に差し出した。

「このじよ」

そこに書かれていたのは、目黒社長の名前。うちの会社のものだ。

「目黒社長?

……めぐっちょ? お金をくれるパパだったの? 」

俺は頭を抱えた。

パパ活の相手が、よりによって弊社の社長だなんて。

「最近、金払いが悪くなってキャバクラの台も飛ばしやがったんだよ。めぐっちょの家に乗り込んでやったら、『月三十万の給料をやるから、うちの会社で働け』って言うから来てやったのに、これってありえない」

米かを指で押さえながら、俺はルナの衝撃発言を頭の中で整理しようとした。

「前の店に通ってた客の一人が、会社社長だって言うから名刺を狙ったのよ。したら、それが父親の勤務先だし、このおっさん使えると思ってパパにしてやったのにさ、これじゃただのキモいおっさんじゃない。三回ぐらい我慢して相手してやったのに、損したわよ」

もはや、俺だけで処理できる話ではない。これは、組織ぐるみの不祥事だ。俺はクラクラする頭をなんとかリカバリーして立ち上がると、そこへタイミングよく田端部長がやってきた。この十分ほどの出来事を全て話すと、田端部長は顔を赤くしたり青くしたりしながら、唸るようにして言った。

「会社に闇金の取り立て屋が来たって社長と、パパ活客の売り掛け金を清算せずに店から姿をくらましたって……」

田端部長自身も、怒りに満ちた口調だ。ルナの顔色が、途端に変わる。彼にとって、父は怖い存在なのだろう。

「神田課長、社長を呼びました」

振り返ると、ミキが立っていた。

「ルナさんのお名前を出すと来ないと思ったので、嘘の内容で呼び寄せています」

ミキはこの状況を判断し、すでに社長室へ電話を入れていたのだ。まもなく社長が急いで事務室へ飛び込んできたが、そこにルナ、田端部長、俺、そして役所が揃っているのを見て、何かを察したようだった。

「社長、田端ルナさんは田端部長の娘さんです。パパ活の事実とは、いかがなものでしょうか?

社長とルナが夜の関係を持っていたという内容は、俺でも頭がクラクラする話だったのに、ミキは淡々と社長に事実を告げている。

「恐れ入りますが、これまでの皆さんの会話を録音させていただいております。こちらは人事部に提出いたします。先日、反社的勢力の方が二名、この総務課を訪れてから、ずっと記録を取っておりました」

ミキの、さすがの対応は、社長の逃げ道をがっちりと封じた。

その後のことだが、ルナの退職は、使用期間十四日以内だったため、正当なものとして扱われた。社長は、パパ活の事実を役員会で追及され、解任に至った。飲み会のツケを払わずにいたことが発端だと指摘された。月三十万のパパ活資金を、会社の給与として供与すると考えることもできた。これらを覆すことはできず、社長はこの組織から追放された。

田端部長は、父親としての責任を取り、退職届を出したが、直接の関係がないということで、広格処分に留まった。

ルナは、ホストの彼に騙されて借金を背負わされた事実と、闇金に追われていることを警察に届け出た。売り掛け金の滞納については、田端部が立てた弁護士と店との間で話し合いを行うらしい。

ルナは、結婚の約束をしたホストの彼氏が、また自分の元に帰ってくると強く信じている。今回の出来事のショックが大きすぎたためか、心が夢の中へ逃げ道を作ったと見られる。挙動がおかしくなった彼女は、田端部長によって、山の上にある病院へ入院させられたそうだ。

怒涛のような数週間が過ぎ、やっと以前と同じリズムで仕事を進めることができそうだ。新しい社長が就任したが、今度の社長は、気締まりだけは日本一と呼ばれる人だ。突然社員を連れてくることもなさそうだ。俺は、平穏無事に過ごせることが一番であると、改めて噛みしめている。

神田勇気、四十を超えた中間管理職である俺の、ひと夏の出来事だった。