眠ってしまった娘の隣で、わたしたちはふたりきりになった。急に静かになった部屋で、彼女が言った。「あの……言いたいことがあるんですけど、いいですか?」緊張で喉が鳴った。
佐々賢介。都会の総合病院で働くエリート医師だった。父は病院長、母は看護師長という医家の一人息子として、何不自由なく育てられた。医者になることは、いつの間にか決められた道だった。勉強はそれなりに頑張った。医者になればモテるだろう、そんな不純な動機もあった。
医者になってからの俺は、天才と持て囃された。オペの腕は確かだった。しかし、その技術を増長させた。看護師たちを呼び捨てにし、高圧的な態度で接する日々。仕事はデキるが、院内で寄ってくる女はいない。それでも、いつも優しかった両親なら俺を叱らないだろうと高を括っていた。
ある日、俺は呼び出された。父の顔は強張り、母は悲しげだった。「お前は自分の立場に甘えすぎている。来月から知り合いの病院に派遣する」「初心に戻ってやり直しなさい」
俺が飛ばされたのは、過疎化が進む田舎の古い病院だった。最新の設備もない。人手も足りない。看護師に頼っていた仕事まで、ほとんど自分でやらなければならない。初日からてんてこ舞いだった。ひたすら働いた。今まで自分がどれだけ傲慢だったか、思い知らされた。
そんなある日、新しい医師がふたりやってきた。ひとりは冷たい印象の相澤先生。もうひとりは、こんな田舎に居るのが不思議なほどの美人、豊田美穂先生だった。離婚して娘がひとりいるシングルマザーで、病気の娘をこの病院に入院させるために戻ってきたという。
「新人のサポートをお願いします」。そう言われて、俺は豊田先生の世話をすることになった。彼女はいつも丁寧で、笑顔が素敵だった。それに比べて相澤先生は、病院の人間を見下し、ふてくされた態度で仕事をしていた。「なんで俺がこんなところに」とぶつぶつ言いながら。
ある日、トヨタ先生の娘・ゆみちゃんが急変した。相澤先生はまた電話に出ない。豊田先生が自ら手術をすることになった。しかし、自分の娘の手術というプレッシャーに、彼女は崩れてしまった。「誰か……誰か助けて」。
俺は彼女に代わってメスを執った。田舎の病院に来てからも、練習と勉強は欠かしていなかった。ゆみちゃんの手術は成功した。
「佐々先生、本当は何年目ですか?あんな手術見たことないですよ」
俺はすべてを打ち明けた。総合病院で傲慢だったこと、修行に出されたこと、ここで自分の愚かさに気づいたこと。豊田先生は微笑んで言った。「でも、今の佐々先生がいるのは、いろんな経験をしたからですよ」
相澤先生の治療ミスが明るみに出た。彼は元の職場にも報告され、居場所を失った。代わりに、俺がゆみちゃんの担当となった。ゆみちゃんはすっかり回復し、退院の日が決まった。「先生、退院したら夕のお家に来て」そう言うゆみちゃんのことが、俺は可愛くて仕方なかった。
約束通り、俺はふたりの家に招かれた。豊田先生の手料理はどれも美味しかった。「ママの料理好きだけど、たまにはオムライスも食べたいな」。学生時代にレストランでバイトしていた俺は、オムライスの卵の作り方だけはシェフに教えてもらったことがあった。「退院祝いに作ってあげるよ」。
それから、俺たちの距離は縮まった。家ではニコニコの優しいお母さん。オペは完璧なのに、オムライスはうまく丸められない。そんな彼女に、俺はどんどん惹かれていった。
退院してしばらくして、約束通り俺の家でオムライスを振る舞った。ふたりに作り方も教えた。豊田先生が初めて綺麗なオムライスを作れて、子供みたいに喜ぶ。俺はその姿に、うっとりしていた。「3人で笑い合う未来」を、勝手に想像していた。
食べ終わったあと、ゆみちゃんは遊び疲れて眠ってしまった。ふたりきりになったリビングで、豊田先生が切り出した。「あの……今言っていいか迷ったんですけど」。「私、先生が好きです。ゆみの命も助けてくれて、私たちにとって、佐々先生は大事な人です」。「俺も同じことを考えてました」
俺たちはお互いの気持ちを確かめ合った。そして、俺は彼女に伝えなければならないことがあると切り出した。実家の病院に戻ることになるかもしれない、と。すると彼女は言った。「あなたがどこの誰でも、好きな気持ちは変わりません」
しばらくして、俺は正式に総合病院へ戻ることになった。戻る前に、俺は美穂を高台のレストランに連れて行き、指輪を差し出した。「結婚して、ついてきてくれませんか?」。美穂は左手を差し出して言った。「私も、ゆみも、あなたについて行きます」
都会に戻った俺は、以前とはまるで違っていた。仕事ぶりを見て、周りの目も変わっていった。「随分と変わられたね」と両親も驚いていた。
2ヶ月後、美穂とゆみが俺の地元に引っ越してきた。病院で働く彼女を、両親は温かく迎えてくれた。結婚式には、もちろんあの田舎の病院の仲間たちも呼んだ。「豊田先生まで連行っちゃうなんて」と委員長に言われて、俺はすみませんと頭を下げた。
ゆみは新しい学校にも慣れ、すっかり元気になった。俺は来年引退する父の後を継いで、院長に就任することになった。あの田舎の病院に飛ばされたことが、俺の人生を大きく変えた。人としての生き方を教わり、仕事への姿勢を正され、そして人生のパートナーに出会えた。神様に感謝したい。


