西村孝太郎は61歳、19年間物流センターに通い続けたその朝、妻からの離婚通知と財産の半分が消えた知らせを同時に受け取った。通知は弁護士を通じて事務的に届き、妻の最後の言葉は「あなたと一緒にいても老後が見えなかった」だった。西村は職場で再編による処遇変更も通告されていた。新しい担当者の黒田は、北海道への移動か、50%の給与削減かを迫り、無表情で数字だけを並べた。退職金は振り込まれたが、生活費を逆算すると毎月赤字が確定し、貯金は2ヶ月で尽きる計算だった。年金の繰り下げ待ちや繰り上げ受給を考えたが、先にそれらを選んだ人間たちの話を聞くと、どの数字も自分の人生を圧迫する落とし穴だと見えてきた。75歳まで繰り下げた宮本老人は、妻を失いインスタントラーメンだけで暮らしており、増額された年金は使う相手がいない口座に積もるだけだった。そんな中、元妻から電話がかかってきた。泣き声の後、彼女は引き出した金を仮想通貨投資で失い、カードローンの借金を背負ったと言った。「あなたに助けて欲しい」と彼女は求めたが、西村は法的に他人である自分に義務はないと判断した。さらに黒田から、元妻の問題を処理する資金を個人的に用意する代わりに、不当解雇の申し立て放棄と3年間の無報酬労働を要求する提案が届いた。西村は公園のベンチで、自分が差し出せるものと、差し出した後の残りを計算した。誰かのために権利も時間も未来も差し出すたびに、自分の中の何かが永久に消えると気づいた。彼は電話で黒田の提案を断り、元妻の番号をブロックした。翌朝、西村は年金事務所で繰り上げ受給の申請書類を受け取り、ハローワークで夜間警備の仕事に応募した。そして夜行の普通列車の切符を買い、鍵をポストに入れ、ボストンバックひとつで東京を離れた。走る列車の中で、彼は窓に映る自分の顔を見た。奪うものが何もなくなった男の顔は、諦めにも似ていたが、目だけはまだ何かを測るように光っていた。心拍数は62、身体は静かに動いていた。西村は冷えたおにぎりを食べながら、畳の上で一度だけ静かに笑った。



