救急外来の処置を終えた俺は、壁に手をついて息を整えた。冷たい感触が妙に心地よい。ここ数日、まともに眠れていない。この町の総合病院で内科医として働く俺、前田浩司45歳は、医師不足の中で救急も外来も往診もすべて一人で背負っていた。若い医者は都会へ流れ、連携先の医師は引退していく。残った俺たちでどうにか地域の医療を回しているのが現状だった。
ナースステーションに戻ると、坂本看護師長がコーヒーを差し出した。
「先生、少しは休んでください。顔色がひどいですよ」
「大丈夫だ。慣れてる」
「その慣れが怖いんです」
坂本さんは55歳。この病院で30年以上働くベテランだ。彼女には嘘がつけない。
朝7時過ぎに家へ帰ると、玄関から味噌汁の匂いがした。妻のまゆみが台所で動き回っている。かつて看護師だった彼女は、俺の仕事の厳しさを誰よりも理解している。だからこそ、心配も人一倍だった。
リビングに入ると、ひな7歳がパジャマのままテーブルについていた。俺の顔を見るなり目を輝かせて駆け寄ってくる。
「パパお帰り。今日はお家にいる?」
「今日も病院だよ。ごめんな」
「えー、また」
「夕方には帰れるようにする。約束だ」
小さな手が俺の指を握る。去年の誕生日、俺は緊急の手術が入って約束を破った。ケーキの前で泣いていた娘の顔は、今でも夢に出てくる。
朝食の途中、まゆみが言った。
「あなた、来週のひなの発表会覚えてる?」
「ああ、土曜日だろ。手帳に書いてある」
「本当に来られる? 前みたいにまた休刊で」
「行くよ。坂本さんに頼んでシフトを調整してもらう」
ひなが目を輝かせた。
「パパ、絶対だよ。指切り原満」
俺は箸を置いて、娘の小指を自分の小指に絡めた。
「あなた、最近本当に痩せたわ。健康診断ちゃんと受けてる?」
「忙しくてな。来月には受けるよ」
「いつもそう言って半年も伸びてるじゃない」
「すまん」
「あなたの命も大事にして。患者さんも大事だけど、私たちもあなたが大事なのよ」
その言葉に、俺は返事ができなかった。
午前9時、外来が始まった。待合室はいつものように患者で埋まっている。最初の患者は山崎達郎さん。5年以上通い続けている顔なじみだ。
「先生、おはようございます。今日も忙しそうですな」
「山崎さん、血糖値が前回より少し上がってますね」
「いやあ、先月孫が来ましてな。ついつい甘いものを食べてしまって」
「気持ちは分かりますが、薬を飲んでても食事が崩れると意味がないですからね」
「分かっております」
診察の終わりに、山崎さんはいつも同じことを言う。
「先生に見てもらえると安心しますわ。先生がいてくれて本当にありがたい」
「ありがとうございます。お互い長く付き合いましょう」
「先生も無理なさらないでください。先生が倒れたら、わしらが困るんですから」
その言葉に俺は苦笑いを返す。無理をするなと皆が言う。けれど、無理をしなければこの地域の医療は回らない。午前中だけで40人を診て、昼食の時間もなく午後の往診に出た。家を3件回って病院に戻ったのは夕方5時だった。
医局には同僚の黒川が待っていた。38歳で、俺より年下だが頼れる男だ。
「前田先生、今日も走り回ってましたね」
「お互い様だろ。お前も昨日夜中まで手術だったじゃないか」
「まあね。でも先生のペースは異常ですよ。一度ちゃんと休んだ方がいい」
「休めるなら休んでるよ」
「奥さんと娘さん、心配してるんじゃないですか?」
黒川の言葉に、俺は曖昧に頷くしかなかった。変わりはいない。医師としても、夫としても、父親としても。
月曜の朝、外来は普段以上に混み合っていた。インフルエンザが流行り始め、待合室は咳の音で満ちている。診察を終えてカルテを書き、次の患者を呼ぶ。その繰り返しで時間の感覚が薄れていく。昼を過ぎても待合室には30人以上が残っていた。水も飲まずに診察を続けると、頭の奥がじわりと重くなった。
坂本さんが診察室にそっと入ってきた。
「先生、お昼少しでも食べてください」
「あと10人見たら休む」
「その10人がいつも20人になるんです」
「すまない。今中に見ないと、また明日に回ってしまう」
「先生、顔色が真っ白ですよ」
俺は無理に笑って、次のカルテに手を伸ばした。
午後2時、ようやく外来の終わりが見えてきた頃、診察室の外で叫び声が上がった。
「先生! 山崎さんが待合室で倒れました!」
俺はカルテを放り出して走り出した。床に横たわる山崎さんの脈を取ると、頼りない鼓動が指先に伝わる。心臓マッサージを始めると、自分の腕がいつもより重く感じた。汗が目に入る。それでも手を止めなかった。
「心拍戻りました。血圧も上がってきています」
「よし、このままICUへ。循環器の当直に連絡を頼む」
処置が終わり、ストレッチャーが運ばれていく。俺は壁に手をついて息を吐いた。黒川が廊下の向こうから走ってくる。
「先生、山崎さんは間に合いましたか?」
「ああ、なんとか」
「先生、顔色がひどい。座った方がいい」
「大丈夫だ。少し休めば戻る」
そう言いかけた瞬間、視界が真っ白になった。膝から力が抜け、体が斜めに傾く。誰かの叫び声が遠くで聞こえた。
「前田先生! 誰か! 前田先生が!」
冷たい床の感触が頬に当たる。息を吸おうとしても、胸が重くて空気が入ってこない。意識が沈んでいく中、頭の中をまゆみとひなの顔がよぎる。発表会は土曜日。指切り原満、あの約束をまだ守れていない。
目を開けると、見慣れない天井があった。ここが自分の病院の病室だと気づくまでに時間がかかった。横を向くと、まゆみがベッドの脇に座っていた。目が赤く腫れている。
「あなた、気がついたの? 良かった。本当に良かった」
「俺、どれくらい寝てた?」
「丸1日よ。倒れてからずっと眠ったまま」
「すまない。心配かけて」
「謝らないで。生きていてくれただけで十分」
まゆみの声は震えていた。握られた手が温かい。そのぬくもりを、随分久しぶりに感じた気がした。
ドアが静かに開き、ひなが入ってきた。小さな手に折り紙の花を握っている。俺の顔を見ると目を見開いて駆け寄ってきた。
「パパ、起きた!」
「ああ、起きたよ。来てくれたのか」
「これ、パパに作ったの。ママと一緒に作ったの。早く元気になってね」
ひなは折り紙の花を枕元にそっと置いた。
「パパ、もうお仕事行かないで。ずっとお家にいて」
「ひな、パパはな、仕事をやめるわけにはいかないんだ。でも、もう少しお前たちと過ごせるように考えるよ」
「本当? 指切り原満」
「ああ、指切り原満。今度こそ約束を守る」
まゆみが目元を拭いながら笑った。
「あなた、検査の結果が出たの。過労と栄養失調と不整脈だって。先生が、しばらくは絶対安静だって」
「そうか。みんなに迷惑をかけたな」
「あなた、前に言ったでしょ。あなたの命も大事にしてって。今度こそ聞いてくれる?」
俺は天井を見つめた。あの言葉が今になって胸に刺さる。ずっと聞こえないふりをしてきた。
ドアがノックされ、黒川と坂本さんが入ってきた。
「前田先生、目が覚めて本当に良かった」
「山崎さんも、おかげで一命を取り止めましたよ」
「そうか。それは良かった。みんなありがとう。迷惑をかけてしまって申し訳ない」
「謝ることじゃないですよ。ただ、これからは少し働き方を考えてもらえますか」
黒川の言葉は静かだっが、柔かくなかった。坂本さんも深く頷いている。俺は何も言えず、枕の上で小さく頷いた。
入院して3日が経った。窓の外では雪がちらついている。まゆみが温かい茶を注いでくれた。
「あなたがこうして座ってる姿、久しぶりに見たわ。家でもいつも立ったまま食べてたから」
言われてみれば、この何年も椅子に腰を落ち着けて茶を飲んだ記憶がない。こんなに普通のことが、こんなにありがたいのか。
廊下から足音が近づき、黒川と坂本さんが書類の束を抱えて入ってきた。
「前田先生、少しだけ話があるんですが」
「ああ、ちょうど2人に話したかったこともあった」
俺は湯のみを置き、2人の顔を順に見た。
「俺はもう一度ここで働きたい。だが、今までの働き方はもうできない。続けたら、今度こそ家族に取り返しのつかないことになる」
「先生、ようやくその言葉が聞けましたね。私たちずっとそれを待ってたんですよ」
「すまない。気づくの遅すぎた」
黒川は書類をベッドの上に広げた。当直の振り分け表と外来の予約表だっ。俺の名前のところに赤い線が何本も引かれている。
「委員長と話してきました。当直は月に4回まで。往診は若手と分担。外来は午前のみ。これで動いてみませんか?」
「それではお前たちの負担が増える」
「先生、みんなで少しずつ持てばいいんです。先生1人で抱え込んてた今までがおかしかったんてすよ。それに近くから応援の派遣も決まりそうです」
俺は書類を見つめた。赤い線の意味がじわじわと胸に染みてくる。ずっと1人で背負てきたつもりだっ。だが本当は、ずっと周りが手を差し伸べてくれていたのだ。それを俺が勝手に振り払ってきただけだった。
「黒川、坂本さん、本当にありがとう。これからは甘えさせてもらう」
「甘えるんじゃありません。皆で守るんです。この病院を。先生も含めて」
坂本さんの目がわずかに潤んでいた。30年以上この病院を見守ってきた人だからこその言葉だ。俺は深く頭を下げた。
退院して2週間が経った土曜の朝。俺は久しぶりに白衣ではなくスーツに袖を通していた。ネクタイの結び方を少し迷った。こんなに丁寧に身支度をするのは何年ぶりだろう。
まゆみが玄関で襟元を直してくれる。
「ちゃんと結べてないわよ。じっとしてて」
「すまん。久しぶりで手が忘れてる」
「いいのよ。これから何度でも結べばいいんだから」
ひなが髪にリボンをつけて駆け降りてきた。水色のワンピースに白いタイツ。7歳の娘が急に少し大きくなったように見えた。
「パパ、今日本当に来てくれるの?」
「ああ、行くよ。ちゃんと最後まで見るからな」
「本当に? 本当に?」
「本当だ。パパが一番前で見てるから、安心して歌っておいで」
ひなは俺の腰に飛びついて、しばらく離れなかった。
小学校の体育館は保護者で埋まっていた。俺とまゆみは2列目の席に並んで座った。幕が開き、子供たちが整列して出てくる。ひなは前から2番目で、はにかんだ笑顔で立っていた。ピアノの音が鳴り、歌声が体育館に広がる。俺は前のめりになって舞台を見つめた。ひなが大きく口を開けて歌っている。隣でまゆみがそっと目元を拭いている。
「あなたがこうして座ってるのがまだ信じられない」
「悪かった。今までずっとお前ばかり背負わせて」
「いいのよ。今日ここにいてくれるだけで」
歌が終わり、子供たちが頭を下げた。拍手が鳴り響く中、ひなが客席の俺を見つけて満面の笑顔で手を振った。俺は立ち上がって両手を高く上げ、拍手を返した。何年も忘れていた感覚が胸の奥で温かく揺れていた。
月曜の朝、俺は再び白衣に袖を通した。鏡の中の自分は、少しだけ顔色が良くなっていた。まゆみが作った弁当を鞄に入れ、玄関を出る。冬の空気が冷たく、息が白く流れていく。
病院に着くと、ナースステーションの前に山崎さんが立っていた。退院して定期検査に来たのだという。俺の顔を見ると深々と頭を下げた。
「前田先生、先生のおかげでわしはまだ生きております。本当にありがとうございました」
「山崎さん、頭を上げてください。お互い生き延びたんですから」
「先生も倒れたと聞いて、肝が冷えましたよ。これからはご自分も大事にしてくださいね」
「はい。今度こそちゃんと約束します」
山崎さんはシワだらけの手で俺の手を握った。温かくて骨ばった手。この手が俺をこの土地につなぎ止めてきたのだと、ふと思った。
診察室に入ると、机の上に小さな花瓶が置かれていた。坂本さんが白い水仙を一輪だけ生けていた。
「お帰りなさい、先生」
「ただいま、坂本さん。今日からまたよろしく頼む」
「ええ、無理だけはしないでくださいよ」
黒川が廊下から顔を出した。
「前田先生、第一診察室に何人か入ってますよ。ゆっくりでいいですからね」
「ああ、分かった。今日はゆっくりやらせてもらう」
カルテを開く前に、俺は窓の外を見た。雪の後の空は抜けるように青い。病院の前の桜の木は、葉を落とした枝の先に小さな芽をつけ始めている。春はまだ遠いようで、確かに近づいていた。
俺は最初の患者の名前を呼んだ。扉が開き、よく知った顔のお年寄りがゆっくり入ってくる。俺は静かに微笑んだ。ここに自分の居場所がある。家にも病院にも、どちらも走り抜けるための場所ではなく、戻ってくるための場所だった。そのことに気づくのに、随分長くかかった。机の上の水仙が朝の光を浴びて、かすかに揺れていた。



