「お母さん、あんな人に好き放題言われて、どうして黙ってるの?」
娘のさやが、悔しさで声を震わせながら私を見上げた。
その日、私は一人娘のさやと久しぶりに高級寿司屋へ来ていた。12歳のさやは、私と二人きりの食事がよほど嬉しいのか、天使のように輝く笑顔を見せてくれていた。
「お母さんとご飯食べられるの、久しぶりだね。私、すっごく嬉しい」
そんな幸せな時間を、あの女は壊しにきた。
「あら、ひょっとして奈崎さんとさやちゃんじゃない? まさか、こんな高級店にいるなんて思わなかったわ。無理してるんじゃないの? この店、高いわよ」
ママ友の遠藤マリ江だった。学生時代からの知り合いで、かつてはお互い暴走族のリーダーだった。そしてマリ江は、今も昔も私を見下すことに喜びを感じている女だった。
「こんな高い店で食事なんかしたら、今月はもうまともな食事が食べられなくなるんじゃないの? 奈崎さんの旦那さん、普通のサラリーマンでしょ?」
私は笑顔でやり過ごした。学生時代からマリ江は、誰よりも自分が上でいなければ気が済まないタイプだった。私は関わらないようにしていたのだ。
だがマリ江は、私が涼しい顔をしているのが気に入らなかった。
「強がらなくてもいいじゃない。奈崎さんは昔、私に袋叩きにされて散々な目にあった弱虫なんだから。そんな人が、こんないい店に来られる身分なわけないでしょ」
「よしてよ。昔の話じゃない。学生時代の勝ち負けなんて、今は関係ないと思うわ」
「関係あるわよ。学生時代に弱かった人は、社会の弱者として生きるしかないって決まってるもの。あの時、私はあなたのことをボコボコにしたのよ。その惨めだった姿を思い出すと、今でも笑っちゃうわ」
さやが不思議そうに私を見た。
「お母さん、この人すっごく偉そうにしてるけど、お母さんの友達なの?」
「いやあね、私は偉そうじゃなくて、偉いのよ。だって奈崎さんは、暴走族時代の私に立ち打ちできなかったんだもの。私の方が強いんだから、当然偉いに決まってるじゃない」
「本当なの? お母さん、本当にこの人に負けたことがあるの?」
私はさやに説明した。私は暴走族のリーダーだったが、一人でいるところを、マリ江のチームに50人くらいで襲撃された。一人では立ち打ちできず、負けたのだ。
「何それ? お母さんが一人なのに、相手が50人もいたの? そんなの卑怯じゃない。この人は卑怯な方法で勝ったことを自慢してるってこと?」
「現代でも勝ちは勝ちよ。事前にしっかり準備しておいた方が、喧嘩だって強いんだから。それに、私は今だって偉いのよ。何せ大阪組の幹部なんだから。奈崎さんなんて、どうせ地味な専業主婦として暮らしてるんでしょう。大勢の部下を従えている私とは、格が違うってものよ」
「うちのお母さんだって、奈良崎組の組長をしているのよ。ヤクザの幹部が偉いのなら、組長をしているお母さんの方がもっと偉いんじゃないの?」
マリ江は、さやの言葉を聞いて、馬鹿にしたように笑った。
「奈良崎組ですって? 何を言ってるのやら。奈良崎組といえば、日本でもトップ3に入る大きな組よ。そんな大きな組の組長が、奈崎さんに勤まるわけないじゃない?」
「嘘じゃないわ。お母さんは本当に奈良崎組の組長よ」
「お嬢ちゃん、奈崎さんは暴走族時代に私にズタボロにされた程度の実力しかないのよ。そんな弱くて見苦しい人が、私より大きな組をまとめられるはずがないでしょう。テレビで聞いた有名なヤクザの名前を、適当に出してみただけでしょう? そんな嘘を真に受けたら、帰って馬鹿にされるわよ」
さやは悔しそうに唇を噛んだ。
「お母さん、何で黙ってるの? お母さんだったら、大阪組なんて簡単に潰せるでしょ。大阪組なんていらないよ。潰しちゃって」
「大阪組を潰すですって? バカも休み休み言いなさい。一般人の地味な主婦でしかない奈崎さんが、どうやって大阪組を潰すっていうのよ。全く、この子ったら奈崎さんに似て、地味でさえない娘だと思っていたけど、頭まで悪いのかしら」
「そっちこそ、卑怯な手でお母さんに勝ったくせに、偉そうにしないで」
「勝ちは勝ちでしょ。世の中、勝った方が正義なの。いい? もう二度と、お母さんは奈良崎組の組長だなんて嘘をついちゃだめよ。世間知らずのバカ丸出しだから。それと、ヤクザの幹部である私に対して、そんな口のきき方をするのもだめ。私だから許してあげるけど、他のヤクザだったら今頃命はないわよ。奈崎さん、ちゃんと娘をしつけておきなさい。同じ町に住んでるママとして恥ずかしいから」
そう言い残して、マリ江はようやく立ち去った。
やっと静かになったと思って、私はさやと一緒に寿司を食べ始めたが、さやはほとんど箸をつけなかった。
「どうしたの、さや。全然食べてないじゃない」
「お母さんは悔しくないの? あんな人に好き放題言われて、黙ってるなんておかしいよ。お母さんは大きなヤクザの組長でしょ? あの人のいる組なんて、その気になったら簡単に潰せるんだよね。それなのに、どうしてずっと黙っていたの?」
「さやの学校で、私がヤクザだと知っている人は誰もいないもの。もしあの場でやり返したら、他のママさんにヤクザだってバレてしまうかもしれないでしょ。もしそうなったら、さやのお友達も離れていっちゃうかもしれないわ。私はさやに、普通の学校生活を送ってほしいと思っているの。だから、わざわざヤクザであるマリ江さんとは関わらないようにしているのよ」
「でも、私、悔しいよ。あの人、あんなに偉そうにしてるんだよ。大阪組なんて、この町の弱いヤクザじゃない。なくなっちゃってもいいよ」
「そう言うけど、マリ江さん一人のせいで大阪組を追い詰めるのは良くないわ。確かにマリ江さんは卑怯だし、嫌な言い方をする人だと思うけど、大阪組の組長や他の組員に対して恨みはないもの。もし私が大阪組を潰したら、多くの組員が路頭に迷うでしょ。そうしたら、大阪組やその家族が困っちゃうじゃない。関係のない人たちまで巻き込みたくないもの」
「そうだね。けど、あの人、お母さんが言い返さないのをいいことに、あんなに馬鹿にするなんてひどい」
悔しそうに声を震わせるさやを見て、私は少し考えた。ヤクザだとバレるくらいなら、マリ江に好き放題言われることなんて何ともない。だが、目の前で母親を馬鹿にされたさやの悔しさも分かる。私だって、さやと同じくらいの頃、親が他人に馬鹿にされていたら、同じように怒っていただろう。
「……でも、さやの気持ちも分かるわ。マリ江さんがさやのことまで悪く言ったのは、腹が立ったもの。けど、あそこでマリ江さんを殴って黙らせても、変な噂が立つだけでしょ」
「それはそうだけど……」
「暴力で黙らせるより、効果的な方法もあるのよ。さや、面白いものを見せてあげるから、ついてきなさい」
私はそう告げて立ち上がった。さやはワクワクしながら、私の後をついてきた。
大阪組の事務所に到着すると、組長が出迎えた。
「これはこれは、奈良崎組の組長じゃないですか。うちのような小さな組に、一体何のようですか?」
「実は、あなたの組の幹部をしている遠藤マリ江って人が、私と娘を人前で散々罵倒してくれたのよね」
「遠藤がですか? あの女は、つい最近幹部になったばかりなんです。元々別の組にいた人間なので、あまり私の教育が行き届いておらず、本当に申し訳ありませんでした」
私の言葉を聞いて、組長はすっかり小さくなる。さやは私の隣で首をかしげていた。
「あの人、元々は大阪組じゃなくて、別の組の人だったの?」
「ええ、マリ江さんは元々他の組の組長の娘だったの。後継ぎとして自分の組で若頭をしていたんだけど、この大阪組に無茶な抗争を仕掛けて組が潰された後、大阪組に吸収されたってわけ」
「それなら、あの人、自分の組を自分で潰したようなものじゃない。それで、お情けで大阪組に置いてもらっているのに、あんなに偉そうにしてたの? 信じられない」
呆れるさやに、組長は恐る恐る聞いた。
「それで、遠藤のやつは一体何と言ったのでしょうか?」
「あの人、私が暴走族にいた頃、数十人で私を袋叩きにしたことを自慢げに話して、散々私のことを馬鹿にしたの。私が負けたのは事実だから、それは別にいいんだけど」
「そんな……その件は私も聞いております。あの女が闇討ちなんて卑怯な真似をして勝った話ですよね。そんな恥ずかしい話を今でもしているなんて。相変わらず、なんて情けないやつだ」
「その上、私の娘のことを、世間知らずのバカだと言ったのよ。私のことは構わないけど、娘にまで暴言を吐くなんて、大人げないわよね」
「その通りです。すぐに遠藤に話をつけますので、しばらくお待ちください」
組長は真っ青になり、マリ江へ連絡した。マリ江は組長の切羽詰まった様子に気づいたのか、大慌てで事務所に駆けつけた。
「どうしたんですか、組長? 緊急とのことですが……って、なんでこんなところに奈崎さんがいるのよ。ここはヤクザの事務所で、一般人がふらふら遊びに来ていい場所じゃないのよ。ほら、さっさと出ていきなさい」
マリ江は、事務所に私と娘がいることに気づくと、すぐに大声をあげた。その様子を見た組長は真っ青になり、マリ江の頭を抑えつけた。
「お、お前、この方が誰だか知らないのか?」
「知ってますよ、組長。私のママ友で、暴走族時代に散々ボコボコにしてやったやつですもの」
「バカたれ! この方は奈良崎組の現組長、奈崎その子さんだぞ!」
「なんですって? それなら、あの時、奈崎さんの娘が言ってたことは本当だったっていうの?」
マリ江は驚き、震えながら私を見た。
「でも、私、奈良崎組の組長を見たことあるけど、奈崎さんじゃなかったわよ。もっと迫力のあるおば様だったと思うけど」
「それは私の母ね。今は組長の座から、会長の座についているわ。私、実は奈良崎組の一人娘なの。だから学校を卒業したら、すぐにヤクザになっていたのよね。当然、娘だからって特別扱いなんてされなかったわ。下っ端から始めて、コツコツと仕事をし、数年前にやっと組長になれたのよ」
「そんな……暴走族時代に、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」
「マリ江さんは、親の威光を借りて偉そうにしてたけど、私は自分の実力でちゃんと認められたかったの。だから、周囲にヤクザだなんて言わなかったのよ」
マリ江は、信じられないといった様子で私の言葉を聞いていた。ヤクザであることが自慢だったマリ江にとって、周囲にヤクザだと言わずに過ごしていた私のことが信じられないのだろう。マリ江は自分の首を潰してしまったのに、格下だと思っていた私が自分よりはるかに大きな組を率いていたことにも驚いているに違いない。
「そんな……そんな奈崎さんが、奈良崎組の組長ですって……」
「分かっただろう。遠藤、さっさと自分のしたことを謝るんだ」
組長は、声を震わせるマリ江の首根っこを掴むと、謝罪するよう迫った。マリ江は最初こそ嫌がっていたが、大阪組の力では奈良崎組に立ち向かうのは無謀だと思ったのだろう。唇を噛みしめ、嫌そうな顔をして、私に土下座をした。
「この度は、奈崎さんとそのお嬢さんに失礼なことを言ってしまい、大変申し訳ありませんでした」
その様子は、いかにも組長に言われたから仕方なく謝っているといった態度だった。そんなマリ江の姿を見て、さやはますます怒った様子を見せた。
「さあ、謝ったわよ。これでいいんでしょ?」
「全然ダメです。心の底から謝ってないですよね。ただ謝れと迫られたから、仕方なく謝ったって態度が見え見えですよ。そんな適当な謝罪じゃ、とても許せません」
さやの言葉に、組長も頷いた。
「確かにお嬢さんの言う通りだ。今の謝罪はなっちゃいねえ。こうなったら、俺たちが遠藤の性根を叩き直すので、どうか勘弁してください」
「ちょ、ちょっと待ってよ、組長。性根を叩き直すって、どういうこと?」
「文字通り、ちょっと痛い目に遭ってもらうのさ。おい、お前ら、すぐに来い」
組長が声をあげると、事務所にいたヤクザたちが一斉に集まり、マリ江を取り囲んだ。手に棒を持った組員を見て、マリ江は縮み上がった。
「ちょっと待って、組長! こんな奴らに殴られたら、命がいくつあっても足りないわよ! あなたたちも、こんなことしていいと思ってるの? 私はこの組の幹部なのよ!」
「始まる前から泣き言とは、情けないやつだな。てめえら、やっちまえ」
組長の合図で、周囲の男たちはマリ江に殴りかかった。マリ江はボコボコにされ、床に倒れて小さく丸まった。
「痛い! 痛いわ! もうやめて! 勘弁して! 何でもするから、ちゃんと謝るから! 二度と奈崎さんのことを馬鹿にしたりしないわ! だから、もう助けて!」
殴られながら、マリ江は必死に助けを求めた。涙を流し、震えながら痛みに耐える。情けないマリ江の姿を見て、さやは呆れたようにため息をついた。
「もういいよ、母さん。この人が殴られているところを見ても、嫌なことを言われた気持ちが晴れるわけじゃないって分かったから。組長さんたちも、もうやめてあげてください。この人は許せないけど、殴っても仕方ないと分かったので」
「お嬢さん、ありがとうございます。おい、お前たち、もうやめろ」
組長の命令で、男たちは殴る手を止めた。マリ江はボロボロになりながら、私の方を見た。
「これでもう、いいわよね? もう、許してくれるわよね?」
「あら、まだ許すとは言ってないわよ。私の娘は、殴られているところを見ても仕方がないと思ったから止めただけ。まだ許せないみたいだもの。ちゃんとマリ江さんには、けじめをつけてもらうわね」
「けじめって、一体何をすればいいの? 指を詰めるとか?」
「そんなものをもらっても困るわよ。さやだって、指なんていらないから」
「そうね。ヤクザのけじめといえば、命で償うか、金で償うかって相場が決まっているけど」
「い、命は嫌よ! 私には夫と子供がいるんだもの! 私がいなくなったら、子供がかわいそうじゃない!」
「だったら、お金で償ってもらおうかしら。そうね。奈良崎組を馬鹿にした上、私の娘にまで悪態をついたんだから、半端な金額じゃ許されないわよ。3億でどうかしら。あなたもヤクザの幹部だったら、3億ぐらい準備できるでしょう」
「せ、3億!? そんな、急に準備するのは無理よ! 分割で支払うことってできない!?」
「マリ江さんもヤクザだったら、無理だから払えないなんて、言い分が通らないことくらい分かってるわよね。今すぐ、耳を揃えてきっちり支払いなさい」
「だから、急には準備できないって言ってるでしょ!」
「じゃあ、それはできないの? だったら、命で償ってもらおうかしら。海に沈む方がいい? それとも、山奥に埋められたい?」
「ま、待って! 分かったわよ! お金を借りて、それで支払えばいいんでしょ!」
「やっとヤクザの流儀を思い出したようね。分かったわ。すぐに闇金を呼ぶから、待ってなさい」
私は知り合いの闇金業者を呼び出した。どんな工面でも貸し出すが、利息が高く、借金を支払うまで絶対に相手を逃さないという連中だ。闇金の男は、マリ江に借金の借用書と契約書を渡した。
「ちょっと待って。借用書は分かるけど、この契約書は一体何なの?」
「それは闇金の人たちが準備した契約書よ。マリ江さんがちゃんと借金を返せるよう、これから稼げる場所でお仕事をする契約について書かれているの」
「何よこれ。海外の変な施設のことが書いてあるじゃない。嫌よ。この書類を書いたら、海外に飛ばされるってことでしょ」
「嫌ならいいのよ。こっちには、体を臓器バイヤーに引き渡す契約書もあるけど、そっちの方がいいかしら?」
「分かったわよ! 書けばいいんでしょ! 書けば!」
マリ江はしぶしぶ書類を書いた。闇金の面々は書類を受け取ると、マリ江の腕を掴んだ。
「ちょっと、掴まないで! 痛いでしょ! 何するの?」
「借金を返済するため、早速働いてほしいみたいよ。マリ江さん、パスポートを持ってたわよね。良かったじゃない。すぐに働く場所も決まって。あの場所だったら、3億を返すのに50年も働けば十分だと思うわ」
「今から50年も働いたら、おばあちゃんになっちゃうじゃない!」
「一生出られないことが決まっているより、やる気が出るでしょ。それじゃ、言ってらっしゃい」
マリ江は散々「嫌だ」「助けて」と泣き叫んだが、闇金の人間は容赦なくマリ江を引きずり連れ去っていった。
「ありがとう、お母さん。ちょっとすっきりした。もういいわね。満足した?」
「うん。もう二度と、あの人の顔を見なくていいと思うと嬉しい」
私はさやが笑顔になるのを見て、大阪組を後にした。
その後、家に帰った私は、夫に今日の出来事を話すと、夫は怒ったように声をあげた。
「何をやってるんだ、その子。さやのことを、将来ヤクザにしたいのか。今日のその子を見たさやが、ヤクザに興味を持って、お前の後継ぎになるとか言い出したら、どうするつもりなんだ?」
「え……そうね。さやには、さやのしたいことを自由にしてもらいたいとは思っているけど、ヤクザになりたいと言われたら、ちょっと困るわね」
「そう思うなら、あんまりヤクザの世界を教えないでくれ。さやが憧れて、ヤクザになりたいなんて言い出したら困るからな」
夫に言われ、私はその通りだと思った。私だって、さやにヤクザになってほしいわけではないのだ。だが幸いにも、さやはヤクザになりたいということもなく、その後も普通に学校生活を楽しんでいた。
「そうだ、お母さん。あの人の子供と話す機会があったんだけど、あの人がいなくなってから、お父さんと仲良く過ごしているって。以前はお母さんが面倒ごとを色々起こしていたから大変だったけど、今は静かに過ごせているからラッキーって言ってたよ」
さやは笑顔で、学校での出来事を報告した。私は、さやがヤクザに興味を持たなかったことに、胸を撫で下ろすのだった。



