「キャンセルってどういうことですか?母は今も店で待っているんですよ」
電話の向こうで菊さんが笑った。「ああ、あれね、結局中止になっちゃったのよ。店の方にはキャンセルってことにしてちょうだい」
私は手に持っていたスマホを握りしめた。菊さんはママ友の下田菊。私の両親が経営する小さな居酒屋を貸し切りにして新年会を開きたいと懇願してきたのは彼女の方なのに、当日になっても現れず、連絡さえしてこなかったのだ。
「食材だって無駄になるんですよ。キャンセル料はしっかり払っていただきますからね」
私がそう言った瞬間、菊さんの声のトーンが変わった。
「取り立てしようっていうの?上等よ。下田組を敵に回したら、あんたみたいな人間の一人くらい跡形もなく消してやれるんだから。もう電話してこないでちょうだい」
一方的に通話を切られた。私はしばらくその場に立ち尽くしていたが、すぐに母に電話をかけた。事情を話すと、母は電話の向こうですすり泣き始めた。
「ごめんね、お母さん。でも大丈夫。ちゃんと考えがあるから」
私は夫のミキトに電話をした。夫は高松組という組織の組長をやっている。表向きは普通のサラリーマンだが、その正体を知る者は限られている。菊さんの夫が下田組の若頭であることも、私たちは知っていた。だが、私たち夫婦は娘の教育に悪いと考え、そのことを周囲に隠して生活してきた。
「あの高松さんに実を与えるとは思っていたが、まさか俺の身内に迷惑をかけるとはな」
「そうね。でもミキトさん、考えがあるんでしょ?」
「ああ。1000万の請求書を作って、俺の名刺を同封して下田組の事務所へ送ってくれ」
私は夫に言われた通り、パソコンで請求書を作成した。キャンセル料と、両親に迷惑をかけた損害賠償。合計1000万円。夫の名刺——高松組組長の名刺——を同封して、即日発送した。
翌日、菊さんから電話がかかってきた。
「ちょっと、これはどういうことなの?うちの事務所にあなたの名前で請求書が届いたんだけど」
「先日話したじゃないですか。キャンセル料はしっかり払っていただきますって。無駄にした食材の分と、両親に迷惑をかけた損害賠償ですよ」
「ふざけないで!あの名刺、何なの?組長?そんなもので私を脅したつもり?」
「分からなければ、旦那さんに確認してもらってください。おそらく下田さんよりは理解があると思いますので」
そう言って電話を切った。
その夜、菊さんが一人で私の家にやってきた。
「あの後、旦那に名刺を見せたら、すごい剣幕で『謝ってこい』って言われて。黙ってくるまで家に入るなって閉め出されちゃったわ」
菊さんは不服そうな顔をしていた。彼女はまだ信じていないようだった。
「あの名刺、一体何なの?まさか偽造したんじゃないでしょうね」
「偽造なんかじゃないわ。あれは私の旦那の名刺よ。ミキトさんはね、高松組で組長をやっているの」
「そんなの作り話よ。今まで一度も聞いたことないもの」
その時、奥の部屋から夫が現れた。菊さんは驚きの表情を浮かべた。
「おいおい、ちゃんと説明しているのに、さやかを嘘つき扱いか。それなら当の本人である俺の言うことを信じる気になるんだな」
「え、あの、もしかして名刺の…」
「ああ、そうだ。さやかの夫で高松組の組長だ。信じられないなら今すぐ旦那に電話しろ」
その時、家の前に黒塗りの車が数台止まった。中から出てきたのは夫の部下たちだ。彼らは菊さんを取り囲み、鋭い視線を向けた。菊さんは顔面蒼白になり、その場で土下座した。
「高松さん、ミキトさん、この度は誠に申し訳ありませんでした。本当に組長だとは知らず、数々の無礼を働き…」
「謝る相手が違うんじゃないのか。俺に謝るより先に、謝るべき人がいるだろう」
「そうよ。本当に謝るべきは、時間と食材を無駄にされた私の両親にじゃないの」
それを聞いた菊さんは、土下座をやめて怒り狂って立ち上がった。
「何よ!私がこんなに必死になってるのに、まだ謝れっていうの?だったらいいわ。こっちにも考えがあるんだから」
彼女はスマホを取り出して電話をかけ始めた。
「もしもし、リュウイチさん?言われた通り高松さんのところに来たんだけど、要求がひどいのよ。今すぐ下田組の組員を送ってちょうだい。痛めつけてやるんだから」
私は夫に耳打ちした。「あんまり家の中で乱闘させないで。香りが起きちゃうわ」
「心配には及ばないよ。下田組のような弱小組織なんて、赤子の手をひねるようなものだからな。家の前に来たタイミングで終わるさ」
しかし、いくら待っても下田組の組員が現れる気配はなかった。菊さんは落ち着かずに家の外を凝視している。
「ちょっと、なんで誰も来ないのよ!私が来いって言ってるのよ!」
「下田さん、さっきの電話でリュウイチさんは何とおっしゃっていましたか?」
「『分かった』としか返事してくれなかったわ」
夫が笑った。「そりゃお前、見捨てられたんだよ。本当に妻を愛しているなら、妻の身を案じて一緒に謝りに来るだろう。最初からお前を見捨てる気で、一人で謝りに行くようにし向けたんだ」
「嘘よ!絶対嘘だわ!」
しかし、部下たちの視線に気づいた菊さんはすぐに大人しくなった。
「観念したなら、明日までにキャンセル料と損害賠償の1000万を用意するんだな。1分でも過ぎたらただじゃおかないぞ」
「そういえば下田さん、私に貸し切りのお願いをしてきた時、『お金ならいくらでもある』って言ってましたよね。それなら1000万円なんて造作もないわね」
「じゃあ2000万に変更してやる」
菊さんは卒倒しそうな顔で震えていた。
「とんでもない!そんな大金払えません!お願いします、金額を下げていただけないでしょうか!」
再び土下座する菊さんを見て、夫は腹を抱えて笑った。
「全くバカの一つ覚えだな。土下座すればいいと思ってるのか。金がないなら金貸しに借りればいいだけの話だろう。お前がやらないなら、俺の方から連絡してやるよ」
夫はスマホを取り出して電話をかけ、途中で菊さんにスマホを突き出した。
「ほら、あとはお前で話をつけろ。ちゃんと『今すぐ2000万が欲しい』って答えるんだぞ」
恐る恐るスマホを受け取った菊さんは、言葉を詰まらせながらも金貸しに伝えた。その後、家まで駆けつけた金貸しは、その場で2000万円を夫に支払った。
「さやか、これはお前の方から両親に渡しておいてくれ」
「分かったわ。ありがとう。あなたのおかげよ」
金貸しとのやり取りで憔悴しきった菊さんは、その場にへたり込んでいた。部下たちは彼女を取り囲み、返済方法の当てはあるのかと追い詰めている。
「お前ら、こいつを連れて行け。海外へ売り飛ばせばそれなりの金になるだろうさ」
夫の指示を受けた部下たちは、無抵抗の菊さんを担ぎ上げると、そのまま玄関を出ていった。
数日後、夫から菊さんとリュウイチさんが離婚したことを聞いた。息子のハル君はリュウイチさんが引き取って育てているらしい。
それから1週間後、私は晴れやかな気持ちで両親の居酒屋を訪れていた。受け取った2000万円を設備投資に当て、業務用の冷蔵庫などを新しくしたので、居酒屋は以前よりも立派になっていた。今日は私が幹事として開催する、ママ友たちの新年会の日だ。
「こう言っちゃなんだけど、下田さんがいなくなってほっとしたわ。あの人の集まりって、ヤクザの話ばかりで息が詰まってたのよ」
「そうね。高松さんが主催なら安心して参加できるわ」
「さあさあ、みんな、この居酒屋の門出を祝して、どんどん食べてちょうだい」
私が乾杯の音頭を取ると、店の中は一段と賑やかになった。



