「中卒のお前に広告なんて作れるわけがないだろう」
黒岩部長の声がオフィス中に響き渡った。就任初日、彼は開口一番に私を名指しした。私は驚かなかった。彼は知らない。この半年、私が影で支えてきた3億円の契約のことを。胸のポケットには亡き母の万年筆がそっと入っていた。彼は解雇通知を私のデスクに叩きつけた。
「悔しくないのか?」
勝ち誇ったその顔に、私は静かに微笑んだ。
「明日、後悔しますよ」
そう告げて、私は署名したペンを置いた。明日の朝、彼は全てを思い知ることになる。これは23歳の私が、正体を隠したまま会社を守り抜いた記録だ。
千田アドバイジングでの半年間。私は目立たない社員を演じてきた。出社は始業ギリギリ。退社は誰よりも早い。評価シートには「向上心に欠ける」と書かれ続けた。隣の席の田村は、そんな私を見る度に鼻で笑った。
「中卒はいいよな。責任がなくて」
同期の飲み会に呼ばれたこともない。会議中、数字は一度聞けば全て頭に入った。資料も一度読めば忘れない。ただ、それを人前で使わないよう自分に言い聞かせてきた。昼休みはいつも同じベンチで、同じ12分だけ目を閉じる。祖父に教わった、心を沈める習慣だった。半年前、祖父はこう言った。
「地位ではなく、現場から会社を見てきなさい」
その言葉を守るため、私は平凡なふりを続けている。デスクの引き出しには亡き母の万年筆をしまってある。母もかつてこの会社で、言葉を武器にしていた人だった。
給湯室ではいつも私だけが最後にコーヒーを入れる。先に入れると「出しゃばっている」と陰口を叩かれるからだ。新入社員の歓迎会でも、私の椅子だけが橋側に用意されていた。誰も悪気はない。ただ、私という存在をその程度にしか見ていない。唯一、隣のチームの勇気さんだけは違った。
「冬野さん、無理しないでね」
通りすがりにそう声をかけてくれる人だった。私は「ありがとうございます」とだけ返した。本当の名前も、本当の年齢も、誰にも言えない。夜、誰もいなくなったオフィスで、私は窓に映る自分を見る。そこに映るのはただの平社員の顔だった。それでいいと自分に言い聞かせた。その裏で、私はある大口案件の資料を密かに整え続けていた。誰に頼まれたわけでもない。私だけの仕事だった。
ダンボール箱を抱え、私はマーケティング部を出た。背後で田村の小さな声が聞こえた。
「ざまあみろ。いい気味だ」
ゆきさんだけは席を立ち、こちらを見ていた。何か言おうとして、結局何も言わずに座り直した。エレベーターホールへ向かう途中、黒岩の声がフロアに響く。
「これで部の厄介者は出た。明日から仕事に集中できるぞ」
拍手が起きた。誰も逆らう者はいなかった。私は振り返らなかった。ただ、彼の声にわずかな焦りが混じっていたことだけは聞き取れた。実力に自信のある人間は、あそこまで急いで人を切らない。半年前の着任初日、なぜ彼はこれほど焦っていたのか。答えはまだ出ていない。エレベーターの扉が閉じる。鏡に映る自分はただの解雇された社員だった。私はコートのポケットに手を入れ、母の万年筆の感触を確かめた。オフィスを出る前、私は自分のデスクを最後に振り返った。アニメキャラクターのマグカップと、枯れかけた観葉植物。半年間、ここが私の居場所のふりをしてきた場所だった。ゆきさんが小さな声で言った。
「冬野さん、体に気をつけてね」
その一言だけで涙が出そうになった。だが、今は泣いている場合ではない。ビルを出ると8月の日差しが目に染みた。スーツケース一つで放り出された身には、少し眩しすぎる光だった。神楽坂生のキャンペーン資料は、まだ私のパソコンの奥に眠ったままだ。黒岩がそれに気づくまで、そう長くはかからないだろう。私は携帯を取り出し、一言だけメッセージを送った。
「今から伺います」
返信はすぐに届いた。
「待っている」
差出人の名前は、祖父ではなく「会長」とだけ登録してあった。エレベーターは静かに本社ビルの最上階へと登っていった。鏡に映る自分は、ダンボール箱を抱えたただの元社員だった。扉が開くと、秘書がすぐに立ち上がり頭を下げた。
「お待ちしておりました。お嬢様」
会長室のドアを開けると、祖父はいつもの様子で茶を入れていた。
「思ったより早かったな」
「着任早々、切られました」
私は肩をすくめ、対面のソファーに腰を下ろした。祖父は笑いもせず、静かに茶碗を差し出した。
「黒岩という男。経歴は立派だが、何かに追われている顔をしていた」
私はそう告げた。祖父の目つきがわずかに変わる。
「追われている、だと」
「まだ分かりません。ただ、あの焦り方は普通ではありません」
祖父はしばらく黙り、やがて口を開いた。
「お前の目に狂いはないだろう。だが、動くのはまだ早い」
「分かっています。もう少し泳がせてみます」
祖父は茶を一口すすると、窓の外を見据えた。
「ここはお前の母が愛した会社でもある」
その言葉に、私は黙って頷いた。
「そもそも、なぜ黒岩をここまで急いで引き抜いたのですか?」
私は尋ねた。祖父は湯のみを置き、目を細めた。
「業績が欲しかった。うちのマーケティング部はここ数年で明らかに勢いを失っていた。スターライトADにいい人材を根こそぎ持っていかれましたからな」
祖父の眉がわずかに動いた。
「その名前をお前が出すとはな」
「黒岩の前職はスターライトADの子会社です。調べればすぐに分かります」
祖父はしばらく黙り、静かに湯のみを口に運んだ。
「気をつけろ。あそこはただの競合ではない」
会長室を出ると、外はもう夕暮れだった。私はビルを見上げ、明日からの日々を思った。
翌朝、黒岩が出社すると、フロアの空気がいつもと違っていた。神楽坂生の担当者から朝一番で電話が入っていたという。
「先週お預けした市場調査データの続きを、冬野さんから受け取る約束でした」
電話を取った新人が戸惑いながら黒岩に取り次いだ。
「冬野なんて社員はもういない」
黒岩は居直ったように言い切った。だが電話の相手は食い下がった。
「半年かけて彼女とデータを詰めてきたんです。引き継ぎはどうなっていますか?」
彼のパソコンにも、共有フォルダーにもそれらしいファイルは見当たらなかった。その日の午前中だけで、同様の問い合わせが3件も入った。いずれの電話でも、「実績のないはずの冬野」という名前だけが上がる。黒岩は初めて、自分が何を切り捨てたのか気づき始めていた。「明日後悔しますよ」と告げたあの一言は、もう予告ではなかった。たった1日で、彼は自分の解雇がどれほどの重みを持っていたか思い知った。だが、それはまだ序章に過ぎない。
数日後、ゆきさんから届いたメールには部内の状況がびっしりと書かれていた。黒岩はフレックスタイムを廃止し、夜9時までの残業を事実上義務化した。
「結果を出せない人間に、休む資格はない」
彼の口癖は、またたく間に部内の合言葉になった。ある朝礼で、黒岩は空いた席を指差してこう言った。
「ここに座っていた社員は、中卒のくせに何の実績も残さなかった。親からして、まともな教育を受けていなかったんだろうなあ」
ゆきさんだけが拳を握りしめていたという。神楽坂生の本提案まで、残り3週間だった。私はメールを読み終え、静かに携帯を伏せた。
ゆきさんから会えないかと連絡が来たのは、解雇から10日後のことだった。指定されたのは会社から少し離れた小さな喫茶店だった。彼女は開口一番、深く頭を下げた。
「ごめんね。あの日、何もできなくて」
「ゆきさんのせいじゃありません」
私は静かに首を振った。彼女はコーヒーに口をつけないまま言葉を続けた。
「黒岩部長のやり方、正直限界だと思う。毎晩みんな倒れそうな顔で帰ってる。神楽坂さんへの提案も雑になってきてる。雑というか、冬野さんが作ってた過去の資料、あの人ちゃんと見てないと思う。数字だけ拾って、話の筋が繋がってない」
私は膝の上で手を軽く握った。
「ゆきさん、1つだけお願いしていいですか?」
「何?」
「提案の進み方だけ、これからも教えてください」
彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「うん。任せて」
店を出ると、夕方の風が少し涼しくなっていた。私は歩きながら、心の中で計画を1つずつ組み立て直していた。
「そういえば」と、ゆきさんが声を落とした。「黒岩部長、最近よく会議中に席を外すの。電話みたいだけど。誰と話してるのか誰も知らない。頻度は週に3回くらい。しかもいつも同じ時間帯」
私は小さく頷き、その情報を頭の中にしまった。この喫茶店は、かつて母が好んで通っていた店だと祖父から聞いたことがある。母はここで企画書のアイデアをよく練っていたという。私はコーヒーカップを見つめながら、静かにそのことを思い出していた。
「冬野さん、大丈夫?」
ゆきさんの声に、私は我に返った。
「大丈夫です。ちょっと昔のことを思い出しただけで」
彼女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
自宅に戻ると、私はテーブルに1枚の白い紙を広げた。黒岩の経歴、着任の経緯、そしてゆきさんが教えてくれた不審な電話。断片を1つずつ並べていくと、ある仮説が浮かび上がった。黒岩は誰かに弱みを握られているのではないか。そう考えると、彼の焦りにも説明がつく。成果を焦る人間は、大抵何か追われている。私はペンを取り、紙の端に「スターライトAD」と書いた。祖父が名前を出した瞬間、目つきが変わったあの反応。偶然とは思えなかった。テーブルの端には母の万年筆が置いてある。母が最後に使っていた企画書用の一本だった。
「言葉はいつだって人を動かす武器になる」
母がよく口にしていた言葉を、私は今もはっきり覚えている。黒岩を切り捨てるだけなら簡単だ。だが祖父はそれを望んでいない。祖父が命をかけて守ってきたこの会社を、また同じ過ちで壊すわけにはいかない。私は紙を折りたたみ、静かに立ち上がった。明日からは、ただ観察するだけでは足りない。私は携帯を手に取り、祖父にメッセージを送った。
「黒岩の身辺を徹底的に調べてもらえますか? 特に資金面を」
返事は数分で届いた。
「八巻に頼んでおく。お前は表に出るな」
八巻は、祖父が最も信頼する秘書役だった。子供の頃から私のことを知る数少ない大人の1人でもある。続けて、私はゆきさんにも短いメッセージを送った。
「引き続き部内の様子を教えてください。無理はしないで」
「了解。冬野さんも無理しないでね」
その返信を見て、私は少しだけ肩の力が抜けた。1人で戦っているわけではないと、初めて思えた。窓の外はすでに真っ暗で、街の灯りだけが遠くに揺れていた。
3日後、八巻さんから分厚い封筒が届いた。中には黒岩高典に関する調査報告書が入っていた。彼は前職のスターライトADである投資案件に手を出し、大きな借金を抱えていた。その額は、優に2000万円を超えていた。借入先は消費者金融ではなく、個人名義の貸し付けだった。貸主の名前を見て、私は思わず息を止めた。そこには「スターライトAD代表 水沢誠一」の名が記されていた。水沢はかつて千田グループの取締役だった人物だ。15年前、不正会計が発覚し、祖父の手で追放されている。それ以来、水沢は独立してスターライトADを立ち上げ、業界内で牙を研ぎ続けてきたという。黒岩はその水沢に、借金の盾として使われているだけだった。つまり、黒岩自身も被害者の1人と言える。だが、それで許される話ではない。神楽坂生の本提案まで、あと10日。もし提案が失敗すれば、部の年間目標は崩れ、責任は真っ先に黒岩に向かう。水沢にとって、それこそが望む展開なのかもしれない。封筒の底には、もう1枚別の資料が入っていた。水沢が15年前に通報された際の、当時の議事録の写しだった。
「今度こそ、千田を私の手で終わらせてやる」
議事録の余白に、当時の水沢の走り書きが残されていた。祖父を追い落とすことこそが、水沢にとっての本当の狙いなのだろう。黒岩はその道具に過ぎなかった。神楽坂生の窓口担当は、母の代からの付き合いの人物だと聞いている。私はゆきさんにもう1つだけ頼み事を送った。
「本提案の資料、最終版ができたら見せてもらえますか? 念のためです」
私は静かに携帯を置き、明日からの動き方を頭の中で組み立て始めた。
その週、黒岩は神楽坂生の本提案に向け、オフィスに泊まり込んでいた。彼のデスクには栄養ドリンクの空き瓶が積み上がっていたという。ゆきさんの話では、黒岩は誰の意見も聞かず独断で資料を組み換えているらしい。
「昔のデータを使えばいい。市場は大きく変わっていないはずだ」
彼はそう言って、私が半年かけて集めた古い分析資料をそのまま流用しようとしていた。だが、あの資料には意図的な誤りが1つだけ紛れ込ませてある。それは私自身が半年前に仕込んでおいた小さな罠だった。本気で確認すれば5分で分かる程度の矛盾だ。だが今の黒岩に、そんな余裕はない。水沢から届く督促の連絡は、日を追うごとに増えているという。黒岩は誰かを落とし入れたいわけではなかった。ただ、目の前の借金と成果から逃げる方法を、他に知らなかっただけだ。それでも、部下を追い詰めていい理由にはならない。提案本番まで残り6日。私はそろそろ動くべき時が来たと感じていた。
ゆきさんからの連絡は、日に日に切迫した内容になっていった。
「部長、今日も資料の数字を怒鳴りながら確認してた」
本来なら今すぐ資料の誤りを教えてやりたい。だが、それでは水沢の存在が見えないまま終わってしまう。黒岩を助けるだけでは、根は断てない。私は自室の机に向かい、正しい分析データを1から作り直し始めた。神楽坂が本当に求めているのは、派手な数字ではなく、長期的な信頼関係だった。
「数字の裏には必ず人がいる」
母の言葉を思い出しながら、私は資料に1行ずつ言葉を積み上げていった。本番で黒岩がどう転ぶのか。その結果次第で、次の一手を決めるつもりだった。
本提案の当日、神楽坂生の会議室に、黒岩は自信満々の顔で立った。プロジェクターに映し出された資料には、私が仕込んだ矛盾がそのまま残っていた。
「弊社の年齢層別購買データですが」
神楽坂の担当者が静かに資料を指差した。
「このグラフ、3年前の数値のままですよね。今年の傾向とは真逆です」
会議室の空気が一瞬で凍り付いた。黒岩の額に汗が浮かぶ。
「失礼しました。担当に確認させます」
彼はとっさに、隣に座っていた若手社員を睨みつけた。
「お前が最終チェックをしたはずだろう」
若手社員は青ざめ、何も言い返せなかった。
「今回は一度持ち帰らせていただきます」
その一言が契約の危機を意味することは、その場の誰もが理解していた。オフィスに戻った黒岩は、若手社員を人前で怒鳴りつけたという。ゆきさんからのメッセージにはこう書かれていた。
「このままだと、契約自体がなくなるかもしれない」
私はそのメッセージを読み、すぐに八巻さんへ連絡を入れた。
「神楽坂生に、スターライトADから接触はありましたか?」
返事は物の数分で届いた。
「たった今、水沢自身が神楽坂の役員に接触を申し込んだそうです」
黒岩の失態と水沢の接触が、同時に起きるはずがなかった。神楽坂生の心が離れかけている。今この瞬間にこそ、水沢は付け入るつもりなのだ。契約解除まで、猶予はおそらく数日しかない。私は祖父に電話をかけた。
「動きます。もう待っていられません」
祖父はしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「好きにしろ。ただし、証拠だけは残せ」
私は電話を切り、深く息を吸った。私はその夜徹夜で資料を作り直した。正しい購買データと、長期的な信頼関係を軸にした新しい提案書。末尾には、差出人を伏せたまま一言を添えた。
「担当者変更を含め、誠実な再提案をお約束します」
翌朝、私はこの資料をゆきさんに託した。
「これを、神楽坂生の窓口に直接届けてもらえますか? 黒岩部長を通さずに」
ゆきさんは一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「分かった。冬野さんを信じる」
同時に、私は若手社員が怒鳴られていた時の録音データを、社内の内部通報窓口へ匿名で送った。数日後、神楽坂生から連絡が入った。
「あの資料を拝見しました。改めてお話を伺いたいと思います」
契約はギリギリのところで踏みとどまった。一方、社内では内部通報を受け、人事部が動き出していた。黒岩は緊急の調査を受け、資料改ざんと部下への叱責について厳重処分を受けた。オフィスには、ひとまず平穏が戻ったように見えた。だが、私はこれで終わったとは思っていなかった。水沢という本当の仇敵は、まだ何も手つかずのままだった。黒岩は処分を受けた翌日、珍しく静かにデスクに向かっていたという。ゆきさんの話では、彼は誰にも当たり散らさなくなったらしい。
「憑き物が落ちたみたい」
ゆきさんはそう表現した。だが、私は知っていた。処分程度で、水沢からの督促が止まるはずはない。黒岩の本当の危機は、まだこれからだった。数日後、祖父から短いメッセージが届いた。
「来週、役員会を開く。お前も出席しろ」
私は文面を何度も読み返した。これまで私は表舞台に立たずに動いてきた。だが、祖父がそう決めたのなら、もう潮時なのだろう。窓の外を見ながら、私は静かに覚悟を固めた。
役員会議室に、私は祖父と共に足を踏み入れた。長机にはすでに役員が顔を揃え、末席には顔面蒼白の黒岩が座っていた。黒岩は私を見た瞬間、表情を凍りつかせた。
「な、なぜお前がここに?」
祖父が静かに口を開いた。
「紹介しよう。彼女は私の孫、千田澪だ」
会議室の空気が、音を立てて止まった。
「半年前から平社員として現場に潜っていた」
黒岩の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「着任初日に首にした相手は、私の後継者だ」
私は静かに立ち上がり、資料を配った。
「黒岩部長の資料改ざんは、独断の判断ではありません。借金の貸主は、スターライトAD代表、水沢誠一氏です」
役員たちがざわめいた。
「黒岩さんは被害者でもあります。ですが、それだけではすみません」
その時、秘書が慌てて会議室に入ってきた。
「会長、緊急です。スターライトADが、うちの株を密かに買い集めていました」
祖父の表情が初めて固くなった。黒岩は椅子から崩れるように立ち上がり、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。私は何も知らず」
「あなたが背負った借金は、あなた自身の問題です。ですが、部下を怒鳴りつけたことは別の話です」
祖父が立ち上がり、場を締めくくった。
「黒岩の処分は追って決める。今は株の買い集めの全容を洗い出せ」
役員たちが次々と席を立ち、部屋を出ていく。残ったのは、祖父と私、そして黒岩だけだった。黒岩は震える声で私に尋ねた。
「なぜ、資料の誤りをすぐに教えてくれなかったんですか?」
「教えても、あなたは水沢から逃げられなかったからです」
私はそう答え、静かに彼を見つめた。本当の敵は、まだこの部屋の外にいる。その夜、私は祖父の書斎で水沢の全容を洗い出す作業に取りかかった。八巻さんが集めた証拠と、私自身が半年かけて拾い集めた情報を重ね合わせていく。株の買い集めルート、黒岩への貸し付け、そして15年前の追放劇の記録。全てが1本の線で繋がっていた。祖父は書斎の隅で静かにその様子を見守っていた。
「お前の母も、こうして夜通し資料を作っていたよ」
祖父がぽつりと言った。
「入社した頃、誰も彼女の企画を信じなかった。それでも、諦めなかった」
私は手を止め、祖父を見た。
「知りませんでした。そんな話」
「言う機会がなかっただけだ。お前が母親によく似てきたからな」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。私は引き出しから母の万年筆を取り出した。インクを補充し、報告書の最終ページに自分の名前を書き込む。千田澪、23歳。偽りの経歴書ではなく、初めて自分の本当の名前で書いた文書だった。
「明日、決着をつけます」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。祖父は小さく頷き、私の肩に手を置いた。
「もう、お前を試す必要はなさそうだ」
翌朝早く、ゆきさんから一本のメッセージが届いた。
「黒岩部長、内部調査に全面協力するって申し出たみたい。水沢に脅されていたこと、洗いざらい話したって」
そのメッセージを読み、私は少しだけ肩の力が抜けた。黒岩は最後まで、悪人にはなりきれなかったのだろう。だが、それでも部下たちを傷つけた事実は消えない。けじめは、けじめとしてつけさせる必要がある。私は資料を鞄にしまい、窓の外が白み始めるのを見つめた。中卒の平社員、冬野澪としての日々も、今日で幕を閉じる。私は静かに立ち上がり、コートを羽織った。
1週間後、水沢誠一とスターライトADに関するニュースが、経済メディアを駆け巡った。証券取引等監視委員会が、株の不正買い集めについて強制調査に入ったのだ。水沢が15年前に不正会計で追放された過去も、同時に掘り起こされた。
「あの人物が、また同じ手口で」
業界内では、驚きと蔑視の声が広がった。主要な取引先は次々とスターライトADとの契約を打ち切っていった。数週間のうちに、スターライトADは実質的な経営破綻に追い込まれた。水沢は、証券取引法違反の容疑で逮捕された。一方、黒岩は社長として部長職を解かれ、平社員として再出発することになった。
「もう一度、1からやり直します」
彼は最後にそう言い残し、静かに頭を下げた。神楽坂生との契約は正式に更新された。担当には、ゆきさんが新たに任命された。私は正式に千田澪として、役員会に迎えられた。かつて私を軽視した社員たちは、今では誰も私の前で口を開けなくなった。だが、私はその視線に興味はなかった。大切なのは、この会社が守られたという事実だけだった。かつて水沢に媚びていた取引先の担当者たちは、手のひらを返したように連絡を絶った。腰巾着だった一部の役員も、次々と関係を否定し始めたという。
黒岩は最後の出社日、誰もいないオフィスで静かに私物をまとめていた。
「冬野さん。いや、千田さん」
彼は初めて、私を正しい名前で呼んだ。
「あなたに救われました。それを忘れずに、やり直します」
私は小さく頷いた。
「期待しています」
オフィスの窓からは、朝の光が差し込んでいた。半年前、ダンボール箱を抱えて去ったあの日と同じ光だった。1ヶ月後、千田アドバイジングは業界で評判を取り戻した。神楽坂生との関係も、以前よりずっと強くなっている。ゆきさんはディレクターに昇格した。かつての若手社員たちも、生き生きと働くようになった。私は今もデスクの隅に、母の万年筆を置いている。時々、迷った時にそっと手に取る。
「数字の裏には必ず人がいる」
母の言葉は、今も私の判断の軸になっている。黒岩は今、地方支社で一からやり直しているという。時々、私に近況報告のメールが届く。
「今日も、部下の意見に耳を傾けています」
その一文を読むたび、私は少しだけ口元を緩めた。祖父は先日、こう言った。
「お前はもう、現場を知る後継者だ。誰も文句は言わせない」
私は静かに笑い、頷いた。中卒だからと切り捨てられたあの日から、まだ半年しか経っていない。それでも、あの日の屈辱を忘れたことは一度もない。だが、あの日の私はもういない。そして、この会社を守る戦いは、始まったばかりだ。



