朝の回診を終え、院長室に戻る。窓の外には見慣れた地方都市の風景が広がっている。低い家並みと田畑。東京の大学病院にいた頃とはまるで別の世界だ。机の上には決済待ちの書類が積まれている。院長になって3年、毎日この椅子に座っている。それなのに、この椅子がどうにも体に馴染まない。
吉田亮平、42歳。地方の大学病院で外科医として12年働いた。今は妻・綾乃の実家である朝倉総合病院を継ぎ、2代目の院長を務めている。姓は変えなかった。亡き父の、たった一つの願いだった。「吉田の名前だけは残してくれ」。入院先のベッドで父はそう言った。俺はその約束を守った。守ったつもりだった。
書類に判を押していると、ノックの音がする。看護師長の柏木が湯呑みを乗せた盆を持って入ってきた。
「院長、お茶をどうぞ。それから302号室の松井さん、午後の処置をご家族が見学したいそうです」
「ああ、構わない。ちゃんと説明するから14時頃に呼んでくれ」
「かしこまりました」
柏木はそう言って湯呑みを置く。立ち去る際、ちらりと俺の顔を見た気がした。何か言いたげな視線だった。俺は気づかないふりをして書類に目を落とす。院長と呼ばれることに、まだ慣れない。それでも廊下を歩けば、ベテランたちは口を揃えて言う。「手が若い頃の仙太郎先生そっくりです」と。
仙太郎、つまり義父・朝倉総治郎のことだ。総治郎は67歳になった今も週に2日は外来に出ている。患者は皆、義父の名前を呼ぶ。「朝倉先生に見てもらいたい」と。俺はその声を毎日聞いている。聞きながら思う。この病院で俺は何者なのだろう。婿として迎えられ、院長の椅子に座らせてもらった男。
昼前、廊下を歩いていると見覚えのある後ろ姿が見えた。妻の綾乃だ。事務として毎日この病院の経営を支えている。綾乃は受付に立ち、年配の女性患者と話していた。
「事務さん、いつもありがとうね。あんたの顔を見ると元気が出るのよ」
「嬉しいことを言ってくださって。今日もお薬、忘れずに飲んでくださいね」
俺は柱の影で足を止めた。妻の声は静かで澄んでいる。誰もが振り返る美しさでありながら、それを誇る素振りは一度もない。綾乃の周りだけ空気が違う。患者の車椅子を押す職員が綾乃に深く頭を下げる。通りすがりの看護師たちが綾乃に挨拶をする。誰もが綾乃を「朝倉さん」と呼ぶ。俺の妻でありながら、彼女はこの土地で朝倉家の娘としてずっと愛されてきた人だった。
綾乃が顔を上げ、俺に気づいて微笑んだ。
「お疲れ様。お昼まだでしょ?下の食堂で一緒にどうですか?」
「ああ、そうだな。あと10分だけ片付けたら行く。先に行っててくれ」
「待ってますね」
軽く頷き、綾乃は事務室へ歩いていった。すれ違う職員が自然と道を開ける。誇らしい。本当に誇らしい妻だと心から思う。ただ、もう一つの感情が胸を掻む。俺は妻の隣に立つにふさわしい男なのか。朝倉の名を背負わず吉田のままで院長の椅子に座る男。苗字を変えなかったというだけのことが、時々ひどく情けないことのように思える。考えても仕方のないことだ。俺は息を吐き、院長室へ戻った。
その週の土曜の夜、俺は東京にいた。医学部の同窓会だ。ホテルの宴会場には見覚えのある顔が並んでいた。大学教授になった者、製薬会社の役員に転じた者、開業して都心にビルを構えた者。皆それぞれの場所で旗を立てている。俺の席にグラスを片手に近づいてきたのは三島高晴だった。学生時代から派手な男で、今は六本木の近くで美容外科を経営している。胸元を開けたシャツに、腕時計の文字盤が照明を反射していた。
「おお、吉田、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「ああ、なんとか。三島こそ相変わらず繁盛してそうじゃないか」
「まあな。お前は今どこにいるんだっけ?」
俺は地方の病院の名前を答えた。朝倉総合病院。三島は一瞬目を上げ、それからにやりと笑った。
「ああ、聞いたよ。お前、嫁さんの実家の病院なんだってな」
「ああ、3年前にな」
「結局、嫁の家に入ったんだな」
軽い口調だった。悪気もなかったのだろう。ただ、その一言は俺の胸にまっすぐ刺さった。
「いいよな、お前は。企んでさ。大学に残るには論文が足りない、開業するには金がないって時に、ちゃんと収まる場所を見つける。さすが吉田だよ」
「俺は俺なりに毎日精一杯やってるだけだ」
「分かってる、分かってる。怒るなって。羨ましいって話だよ」
三島はそう言ってグラスを軽く合わせ、別のテーブルへ歩いていった。俺は手元のビールを見つめた。その夜の新幹線で俺はほとんど眠れなかった。窓に映る自分の顔が、夜景に疲れて見えた。「結局、嫁の家に入ったんだな」。三島の声が頭の中で何度も繰り返された。
病院に着いたのは日付が変わる頃だった。明日の朝の回診のために、書類を一つだけ確認しておきたかった。長い廊下を歩いていると、壁に掛かった古い集合写真が目に入った。何度も通った廊下だ。それなのに、その夜はなぜか足が止まった。額に入ったセピア色の写真。病院創立30周年の記念写真だと、下のプレートに書いてある。中央に若い総治郎が立ち、その周りを白衣の医師たちが囲んでいる。俺は何の気なしに写真の隅に目をやった。そして息を止めた。総治郎の少し後ろ、2列目の右の方。白い服ではなく、紺のジャージを着た青年が一人映っていた。年は20歳前後だろうか。他の医師たちと並んで、少し恥ずかしそうに笑っている。その顔を俺は知っていた。亡き父・吉田武尊に驚くほど似ていたのだ。顔の輪郭、眉の引き方、口元の癖。若い頃の父の写真を何枚も見たことがある。それと目の前の青年は瓜二つだった。ただ、父であるはずがない。父はこの土地の人間ではない。朝倉総合病院とは、生前何の関わりもなかったはずだ。
俺は廊下に立ち尽くしたまま、しばらくその写真を見つめていた。窓の外で遅い春の風が桜の枝を揺らす音がした。
翌朝、俺はいつもより早く病院に出た。昨夜の写真のことが頭から離れなかった。再び創立30周年の集合写真の前に立つ。昼の光の中で見ても、青年の顔は父によく似ていた。似ているどころではない。若い頃の父がそこに立っているとしか思えなかった。
ナースステーションで申し送りを終えた柏木が、廊下の奥から歩いてきた。俺の姿に気づき、足を止める。
「院長、こんなところでどうされました?」
「柏木さん、少し聞きたいことがあるんだ。この写真、創立30周年とあるが、ここに映っている若い男性が誰か分かるか?」
柏木は眼鏡を掛け直し、写真に顔を寄せた。
「ああ、この人ですか?」
「ご存知か?」
「ええ、覚えております。私が看護師になってまだ3年目の頃でしたから」
柏木はそっと写真に手を伸ばし、額の縁に指を触れた。
「この方は職員ではないんですよ。当時、入院していらした患者さんです。リハビリのジャージで記念写真に混ざってしまって。本当は行けなかったんですが、先生方が『いいから一緒に映ろう』と」
「患者さん?」
「ええ。事故で大怪我をなさって、一度はもうダメだろうと言われていた方でした。それを治郎先生が執刀されて命を取り止めて、一時はリハビリで歩けるまでに回復されたんです」
柏木はそこで言葉を切った。
「一時は、ということは」
「ええ、この写真の3ヶ月ほど後に容態が急変しました。残念ながら、お亡くなりになりました」
廊下の窓から朝の光が差し込んでいた。
「もう25年も前のことになりますね。治郎先生は、随分長くこの患者さんのことを引きずっていらっしゃいました」
「お名前は覚えていますか?」
「お名前は……すみません、私もはっきりとは。確か若い男性で、ご家族の方が何度もいらしていました。記録を調べれば、すぐに分かると思いますが」
「いや、いい。自分で調べてみる」
俺は写真の前に残り、青年の顔をもう一度じっと見つめた。父に似た青年が25年前にここで死んだ。偶然だと思おうとした。だが、胸の奥のざわめきは収まらなかった。
その日の午後、外来を終えた俺は地下の記録庫へ降りた。古いカルテは20年を区切りにダンボール箱に詰め直され、奥の棚に並んでいる。「25年前」と書かれたラベルの箱を、片っ端から開けていく。若い男性、事故、手術。その三つを手がかりに。2時間ほど経った頃、一枚のカルテに手が止まった。
患者名・吉田。年齢・21。死亡日・平成10年9月20日。死因・外傷性出血及び心不全。執刀医・朝倉次郎。患者名・吉田颯斗。
カルテの家族欄には、緊急連絡先としてある名前が記されていた。吉田武尊。続柄、兄。住所は、俺が育った町のものだった。息が止まった。父に弟がいたなど、聞いたことがなかった。祖父母も早くに亡くなっていて、父は自分は一人っ子だったと確かに言っていたはずだ。俺は震える手でカルテのページをめくった。
「入院の経緯。6月12日午後3時頃、トラックと自家用車の衝突事故。助手席に同乗していた患者は、運転していた兄を庇う形でフロントガラスに身を投げ出したと推定される」
俺はカルテを閉じた。閉じてから、もう一度開いた。何度読んでも書いてある内容は変わらなかった。父は弟と一緒にいた。弟は父を庇って死んだ。だから父は25年間、その名前を口にできなかった。
俺は地下の冷たい床に片膝をついた。父が晩年、急に医者になれと俺に勧め始めたこと。病床で「吉田の名前だけは残してくれ」と頼んだこと。朝倉総合病院に婿として入ると俺が話した時、父が珍しく言葉を失っていたこと。一つ一つの記憶が、まるで違う色を持ち始めていた。父は知っていたのだ。朝倉治郎という医師の名前を。俺がその病院に入ると言った時、父の中で何かが繋がったに違いない。
俺はしばらくその場から動けなかった。古い蛍光灯が、また小さく瞬いた。
カルテの束を抱え、俺はさらに奥の倉庫へ入った。ダンボールの上に積もった埃を払い、ガムテープを剥がす。数箱目を開けた時、一冊のノートが目に入った。表紙には「外傷症例検討 平成10年」と、治郎の几帳面な字で書かれている。ページをめくる手が止まった。「症例・吉田颯斗 21歳男性」。そう書かれた項目に、ぎっしりと文字が並んでいた。「搬入時、即死に近い状態。右半身の損傷、出血量は推定4000ml以上」。治郎はその下に小さな字でこう書いていた。「現場からの搬送時点で、すでに救命の限界を超えていた可能性が高い。ただし、家族の希望もあり、可能な限りの処置を行う」。その後の経過は数ページにわたって細かく記されていた。手術、再手術。一度は意識を取り戻したこと。リハビリ室で車椅子から立ち上がる練習をしたこと。柏木の言った通り、記念写真に並んだこと。そして9月の終わり、急に再び意識が混濁したこと。家族への説明を治郎自身が3度行ったこと。最後のページに、治郎の字でこう書かれていた。
「9月20日午前4時12分、永眠。兄・吉田武尊、同席す。私もまた力及ばず。救えなかった命の重さを忘れぬよう、ここに記す」
俺はノートを閉じた。胸の奥が熱くなって、目の前が滲んだ。義父は尽くしていた。それでも救えなかった命だった。搬入された時点で、すでに助かる可能性はほとんどなかった。それでも治郎は3ヶ月間、戦い続けた。父もその3ヶ月を治郎と共に過ごしたに違いない。俺はノートを胸に抱え、地下の倉庫を出た。父がなぜ俺に医者の道を勧めたのか。朝倉総合病院に俺が入ったことを、父はどんな思いで聞いていたのか。答えはまだ全ては見えなかった。ただ、義父・治郎に聞かなければならないと思った。父と治郎の間にあったもの。俺がここにいる本当の理由を。
夕方の廊下に出ると、窓の向こうで桜がほとんど散り終えていた。最後の花びらが風に乗って舞っている。俺は1階の院長室の前で足を止めた。ドアの向こうから義父の低い声がした。
「入りなさい」
俺はドアを開けた。手にしていたノートを机の上にそっと置いた。表紙の文字を見て、治郎の動きが止まった。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと俺に向けられた。
「どこでこれを」
「地下の倉庫です。お父さん、隠していたわけではないと思いますが、私は知っておくべきだったと思います」
治郎は何も言わず、自分の椅子に腰を下ろした。
「武尊さんから、聞いてなかったのか」
「父は何も。弟がいたことも、事故のことも、一度も口にしませんでした」
治郎は深く息を吐いた。机の引き出しを開け、古い封筒を取り出した。封筒の表書きは、父の筆跡だった。
「颯斗君は、亡くなる前の日、一度だけ意識がはっきりしてな。私の手を握ってこう言ったんだ。『先生、兄を責めないで欲しい。あれは事故だったんです』と」
俺は黙って聞いていた。ノートに記されていなかった、もう一つの記録だった。
「武尊さんは、自分が運転していたから弟が死んだと、ずっと自分を責めていた。3ヶ月間、病院に通い続けた。颯斗君が亡くなった朝、武尊さんは私の前で子供のように泣いた」
治郎の声は淡々としていた。
「葬儀が終わった後、武尊さんは私のところに来てこう言ったんだ。『先生、もし私に息子ができて、その子が医者になりたいと言ったら、その時は先生の元で学ばせてほしい。人を救える人間に育ててほしい』と」
俺は息を飲んだ。父がそんな言葉を残していたとは。
「私は何も答えられなかった。救えなかった医者に、そんなことを頼む人がどこにいる?だが武尊さんは本気だった。頭を下げて、頭を下げて、帰って行った」
壁の時計の音だけが、規則正しく時を刻んでいた。
「私はその約束を、ずっと胸の奥にしまっていた。武尊さんから息子の話を聞くこともなかったし、こちらから連絡することもできなかった」
治郎は封筒から一枚の便箋を取り出した。父の字で短い手紙が書かれていた。日付は10年ほど前。父がまだ元気だった頃のものだ。
「ある日突然、これが届いた。『息子が医学部に入りました。外科を志すそうです』と。それだけだ。私は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった」
俺はその便箋を手に取った。無口な父がこんな手紙を書いていたことを、俺は知らなかった。
「君が大学病院で外科医として働いているという話も、風の便りに聞いた。『立派になられたな』と思った。それ以上のことは、私には望めなかった」
治郎は俺の目をまっすぐに見た。
「綾乃が君を連れてきた時、私は驚いた。世の中にこんな偶然があるのかと。武尊さんの息子だ。颯斗君によく似ている」
俺は便箋を握りしめた。指先が震えていた。
「君が婿として入ると言った時、私は反対しようかと思った。だが、綾乃が君のことを心から思っているのが分かった。君も綾乃を大切にしてくれていた。だから私は黙って受け入れた」
俺はようやく分かった。俺がここにいる理由を。父は俺をここに送り出していた。俺は便箋を治郎に返した。
「お父さん、教えてくれてありがとうございます。私は何も知らずに、随分長く拗ねていたようです」
「拗ねていたか?」
「ええ。院長と呼ばれることに、勝手に引け目を感じていました。父がどんな気持ちで私をここに送り出したのか、考えもしませんでした」
治郎はふっと表情を緩めた。
「武尊さんは君を誇りに思っていたよ。何度、手紙に書いてあったか」
数日が過ぎた。日常は変わらず流れていった。回診、外来、手術、書類。それでも俺の中で何かが静かに変わっていた。廊下を歩く足の運びが、少しだけ軽くなった気がした。
その夜、当直室で仮眠を取っていた俺は、緊急のコールで叩き起こされた。
「院長、緊急搬送です。男性40代、出血性ショック。あと10分で到着します」
「分かった。手術室第2を準備してくれ。救急の先生に連絡を」
俺は白衣を羽織り、廊下を走った。搬入口に着いた時、ストレッチャーが運び込まれてきた。顔を見て、俺は一瞬足を止めた。三島高晴だった。顔は土色で、唇から血の気が失せていた。出張先で何者かに刺され、ここまで搬送されてきたという。朝倉総合病院が最寄りの救急受け入れ施設だった。
「吉田……」
「三島、喋るな。今から手術する。俺がきっちりやるから、安心して眠れ」
三島の口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。手術室の照明が白く光った。俺はメスを握った。柏木が向かい側に立っていた。ガーゼを差し出す手が、迷いなく動いている。
「院長、治郎先生によく似てこられましたね」
「そうですか」
「ええ。手の動きが、若い頃の治郎先生とそっくりです」
俺は何も答えず、止血を続けた。ただ、胸の奥が温かかった。
3時間後、手術は終わった。三島のバイタルは安定し、ICUへ運ばれていった。俺は手術室を出て、長い廊下を歩いた。窓の外が白み始めていた。ナースステーションの前で、綾乃が立っていた。一晩中起きていたらしい。
「お疲れ様でした。お茶です」
「ありがとう。綾乃、起きてたのか?」
「ええ。あなたが手術に入ったと聞いて、なんとなく」
綾乃は湯呑みを渡しながら、俺の顔をじっと見た。そして、ふわりと微笑んだ。
「あなた、いいお顔になりましたね」
「そうか」
「ええ、前よりずっと」
俺は湯呑みを受け取り、一口飲んだ。温かい茶が喉の奥に落ちていった。廊下の突き当たりに、あの集合写真が掛かっている。セピア色の中で、ジャージ姿の青年が少し恥ずかしそうに笑っている。若き日の治郎が、その後ろに立っている。父は写真の外で、その光景を見ていたのかもしれない。
俺はもう「婿」ではなかった。朝倉の名を背負っていないことを恥じる必要もなかった。父から託され、治郎から受け継ぎ、綾乃と共に立つ。この病院で命を守る、一人の医者だ。



