「もしこれを完璧に訳せたら、万年平社員のお前を課長にしてやるよ。まあ、どうせできないだろうがな」
6年ぶりに海外から本社に復帰した俺、茨城鶴彦に、課長が長文の英語を示しながらそう言い放った。専門用語と複雑な文法構造が盛り込まれた、明らかに意地悪な問題だ。
かつて「使えない社員」と呼ばれ、窓際に追いやられていた俺。海外赴任前は報告書の誤字脱字や単純なミスの連続で、同僚たちの笑いものだった。
課長は俺の様子をちらりと見て、優越感に満ちた笑みを浮かべた。
「どうした? 海外で真面目に働いていたというなら、こんなのは朝飯前だろう。でもお前には無理だろうな。英語が少しできても、頭は空っぽだもんな」
オフィス中が静まり返り、全員の視線が俺に集中する。あいつまたやるぞ。どうせ無理だよ。そんな忍び笑いが漏れる。
俺は深呼吸をして、丁寧に訳し始めた。
「訳けましたけど」
俺がそう言うと、課長の顔から笑みが消え、驚きの表情に変わった。
「は、お前、嘘だろ? こんな難問が解けるわけがない」
課長は震える手で英文が書かれた紙を掲げ、周囲の社員たちに見せた。
「みんな見てくれ。これは国際工業法の最新の改正案だ。うちの顧問弁護士でさえ苦戦するレベルの文章なんだぞ。お前、一体何者だ?」
オフィス中がどよめいた。
その時、社長の信頼厚い美人秘書が、軽やかな足取りで俺たちに近づいてきた。
「課長、何の冗談ですか? 彼は課長よりもっと上の立場の人間なんですよ」
そう。俺の本当の正体は、戦場鉱石開発株式会社の社長の次男。父の会社に就職したものの、社長の息子というレッテルで見られるのが嫌で、正体を隠して働いているのだ。この事実を知っているのは、信頼のおける秘書の玉置双葉だけ。6年間の海外赴任で実力を磨き、漢字の勉強も続けてきた。
しかし課長は、俺のことを今も昔のダメ社員のままだと思っている。双葉が俺の正体を言いかけたので、慌てて止めた。
「双葉、書類の確認があったんだろ。課長、少し失礼します」
俺は双葉を連れて、その場を離れた。
それから数日後、海外クライアントとの重要な交渉の場が設けられた。アメリカの大手工業会社の重役たちとの、複雑な契約書をめぐる交渉だ。難航する中、俺は立ち上がった。
「その点について、私から詳しくご説明させていただきます」
俺は海外での経験を活かし、複雑な法律用語を的確な英語で説明していく。2時間に及ぶ交渉の末、両者は合意に達した。アメリカ側の代表が満足そうに頷く。
「茨城さん、あなたの説明は非常に明確でした」
同僚たちが賞賛の声をかけてくれる中、課長が俺に近づいてきた。
「今回はよくやった。だが、調子に乗るなよ。一度うまくいったからって舞い上がるな。これはお前の実力じゃない」
課長はそう言い残して去っていった。確かに、まだまだ学ぶべきことは多い。そう思って努力を続けた。
数日後、課長が大型案件を持ってきた。海外の大手工業会社と提携して、新しい鉱山開発プロジェクトを立ち上げるという。俺は手を上げて参加を志願した。
「課長、俺も参加させてください。海外経験もありますし、先日の交渉でも貢献できたと思います」
しかし課長は冷たい目で俺を見つめ、言い放った。
「これは俺の信頼するチームでやる。お前のことは悪いが、まだ信頼してないんでね。少し英語ができるからって、すぐに一人前だと思うなよ。海外で遊んでいた6年間、日本でどれだけの経験を積んできたと思ってる?」
その言葉は、まるで冷たい刃のように俺の胸に突き刺さった。仕事が終わった後、双葉と飲みに行った。彼女は俺を励まし、一緒に愚痴をこぼしてくれた。
「鶴彦さんの実力は本物なんだから、隠さなくてもいいじゃない」
双葉の言葉に、俺は少しだけ救われた。
数週間後、大型プロジェクトの契約締結の日を迎えた。しかし、その日、事件は起こった。
契約書にサインをした直後、相手方の代表が不敵な笑みを浮かべた。
「ではこれで、弊社の採掘権と環境保護義務は全て我々に譲渡されたということですね」
法務部の山田が叫んだ。
「第7条の相互利益の促進という項目に採掘権の移転が隠されていました。さらに第12条の環境保護義務で、全ての環境問題の責任を我々が負うことになっています。つまり、主力鉱山を失い、莫大な環境対策費用を負担することになるんです」
会議室はパニックに陥った。課長は「私のせいだ」と膝から崩れ落ちた。
俺はスマートフォンを取り出し、とある番号にダイヤルした。
数日後、社長や役員たちを集めた会議室に、一人の外国人男性が現れた。
「こちらはクリストファーさんです。私が海外で働いていた頃、一緒に仕事をしたホライズンコーポレーションのCEOです」
クリストファーは国際工業法の専門家である顧問弁護士を連れてきていた。弁護士は契約書を確認し、明らかな違法性があると指摘した。
さらにクリストファーは、俺が海外で数々のプロジェクトを成功させ、業界で高く評価されていることを明かした。そして、かつて俺の革新的な解決策で自社の危機を救われた恩があるとも語った。
「鶴彦のためなら、どんな形でも恩返しをさせてもらいます」
その言葉に、会議室は驚きと感動に包まれた。俺たちは相手方との再交渉に臨み、公平で合法的な契約を結び直すことに成功した。
しかし、全てが解決した後、課長は俺を冷たい目で見つめた。
「黙れ。お前に同情されるほど落ちぶれたつもりはない」
双葉が怒り、課長に謝罪を求めた。俺は「もういいよ」と止めたが、双葉は悔しさのあまり泣き出してしまった。彼女は、自分も顔だけで評価され、実力を認めてもらえなかった過去を打ち明けてくれた。そして俺の実力を認めてくれたのは彼女にとって初めてだったと話してくれた。
「つ彦さん、私、つ彦さんのことが好き」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心は彼女への愛しさで溢れた。
「俺も双葉のことが好きだよ。誰にも渡したくない」
その夜、非常階段の踊り場で、俺たちはキスを交わした。
翌日、俺と課長は社長に呼び出された。課長は自ら辞職を申し出たが、俺は課長をフォローした。
「課長は自分の過ちを素直に認め、責任を取ろうとしています。今回の経験は、今後の仕事に必ず生きてくるはずです。私としては、課長にこのままプロジェクトリーダーを続けていただきたいと思います」
社長は俺の意見を聞き入れ、課長の辞職は見送られた。
廊下で、課長が俺に問いかけた。
「茨城、なんで俺をフォローしたんだ」
課長は学生時代のライバルの話を始めた。それは俺の兄、茨城空太郎のことで、課長は兄を親の七光りだと思い込み、優越感と劣等感を抱いていたのだという。そして、俺が社長の息子だと入社時から知っていたことを明かした。
俺は、兄が「大江さんとちゃんと勝負がしたかった」と言っていたこと、だからこそ父の会社に入らず、別の道を選んだことを伝えた。さらに、かつて課長が家で語っていた仕事への情熱の話を聞き、この人と一緒に働きたいと思い、この会社に入ったことを告白した。
課長の目に大粒の涙が溢れた。
「申し訳ない。俺はお前のことを完全に誤解していた」
「過去のことは気にしていません。これからが大切なんです」
課長は震える手を差し出し、俺はためらわずにその手を握り返した。
それから、俺と課長は最高のチームとして働くようになった。俺の国際的な視点と課長の緻密な国内戦略が融合し、プロジェクトは順調に進んだ。ある大きな壁にぶつかった時も、俺の提案で乗り越え、納期よりも早く成果を納めることができた。
ある夕暮れ時、社長室に呼ばれた俺。父は俺に言った。
「鶴彦、お前を次期社長として考えているんだが、どうだ?」
俺は迷ったが、正直な気持ちを伝えた。
「確かに俺はこの会社をもっとよくしたいと思ってる。でも正直、まだ社長になれる自信はない」
父は優しく微笑んだ。
「自信がないというのはいい心構えだ。だが、お前にはそれができる素質がある。海外での経験、そして最近のプロジェクトでの活躍。社員からの信頼も厚い」
「分かった。俺にはまだまだ勉強が必要だ。でも、この会社を社員のみんなをもっと幸せにできる会社にしたい。そのために、精一杯努力する」
社長室を出ると、廊下で双葉が待っていた。彼女は俺の手を取った。
「私、あなたがどんな立場になってもそばにいるから。プライベートも仕事もずっと一緒よ」
「ああ、ありがとう。君がいてくれるなら、どんな困難も乗り越えられる気がするよ」
夕日に照らされた廊下で、俺たちはキスを交わした。これから待ち受ける困難も、きっと二人で、いや、この会社のみんなと乗り越えていける。そんな確信と幸せを胸に、俺たちは夕暮れの会社を後にした。
それから数年後、俺は研修で得た知識と技術を活かし、あるプロジェクトを担当していた。深夜のオフィスで、若き責任者が焦っていた。
「どうしよう。この数字、全部書き換えられてる。こんな時間じゃ修正なんて間に合わないわ」
騒ぎを聞きつけた夜間警備員の俺は、彼女の慌てぶりを横目に端末のログをチェックした。
「確かにこれは巧妙に書き換えられてますね。でも大したことありませんよ。やったのは素人ですから」
涙目になっていた美春が、驚いた表情でこちらを見上げる。
「え、そんな簡単に言うけど、あなたただの警備員なんでしょう。本当に平気なの?」
「ご心配なく。短時間でやれることは限られますが、やりようはあります。俺だってただの警備員じゃないんです」
俺の本当の姿を明かすと、彼女が息を飲む声が聞こえた。
俺の名前は黒崎周一。元々は警察の特殊部隊に所属していたが、組織の理不尽な命令に耐えられず辞めた。今は大手警備会社の夜勤として働いている。元同僚の高さんの頼みで、大手企業グループの令嬢である柊美春のボディガードを任されることになった。
最初はわがままで高飛車な態度を取る美春だったが、ある夜、不審者が彼女に襲いかかった事件をきっかけに、少しずつ打ち解けていった。彼女は若くして重要なプロジェクトを任され、周囲の派閥争いに巻き込まれながらも、一人で必死に戦っていた。
ある日、美春が開発した新システムのプレゼン資料が、巧妙に書き換えられるという事件が起こった。俺はすぐにシステムを解析し、ウイルスの仕掛けを暴いた。それは明らかに内部犯行で、彼女の従兄である竜星が関与している証拠を掴んだ。
竜星が美春に襲いかかろうとした瞬間、俺は彼を制圧した。
「言い忘れましたけど、俺はただの警備員じゃないんですよ。前の職場はもっと物騒で、特殊部隊で訓練を受けていました。こんな乱暴はお手のものです」
竜星は会社の内規に基づき処分され、派閥争いは終結した。美春はプロジェクトを成功させ、会社は安定を取り戻した。
その後、美春は俺に問いかけた。
「あなた、やっぱり何者なの?」
俺は、過去の特殊部隊での経験と、組織に失望して辞めたこと、今こうして彼女を守ることへのやりがいを語った。そして美春も、自分の弱さをようやく打ち明けてくれた。
数日後、社長室に呼ばれた俺。そこには高さんと美春もいた。高さんは青い顔で言った。
「前の職場から、戻ってこないかって話が来ているんだ。どうする?」
美春がすがるような表情で俺を見つめた。
「あの、私、このままあなたにボディガードを続けてもらいたいんです。会社はまだ最近の途中だし、不安なことも多くて」
「正直俺も前の職場にはもう未練はありません。大切な人ができてしまったんで。美春さんがこうして頼んでくれるなら、俺はここに残ります」
そう言うと、美春は嬉しそうな笑顔を見せた。
それからというもの、俺は美春の専属ボディガードとして再契約し、彼女と共に会社を成長させていく日々を送った。そして一年後、俺と美春は結婚した。
かつて理不尽な組織に失望した俺も、今では守るべき誰かがいることがこんなに温かいものだと知っている。結局、人を支えながら自分も支えられる。その喜びを二人で分かち合っていく日々が、これから始まるのだ。


