「お前、自分が相手を選べる立場だと思ってるのか?実家暮らしの子供部屋おばさんのくせに。年収1000万の男が声をかけてくれただけで感謝しなさい」
母のその言葉に、私は凍りついた。
38歳、独身。実家に住み、両親からは「生き遅れ」と蔑まれる日々。父は「いつまでこの家に居座るつもりだ」と怒鳴り、母は見合いサイトに勝手に登録した。
そして、その画面に映っていたのは、私より24歳も年上の62歳の男。条件には「友働き希望、家事全般を完璧にこなせる方、80代の両親と同居し介護を雇わない健康な女性」とあった。
これは結婚ではない。介護要員兼家政婦の募集だ。
「嫌だ」と言えば、両親は烈火の如く怒った。
「贅沢言うんじゃないよ!あんた自分が誰だと思ってるの?仕事もせずに家に居座ってる老け女が」
違う。私は都内でバリバリ働いている。3ヶ月に及ぶ大型プロジェクトをリーダーとして成功させたばかりだ。それなのに、この家では私の成果は何の価値もない。気の利かない娘として、ただ台所に立たされるだけ。
「じゃあ、今週末にでも会えるように返信しておいてあげるから」
母の言葉に、私は咄嗟に口を開いていた。
「……相手はいる」
自分でも驚くほど冷たく、はっきりとした声だった。
「え?」
「今まで黙っててごめんなさい。会社の人と結婚を前提に真剣にお付き合いしているの」
母はニヤリと笑った。嫌な笑い方だった。
「あ、そう。じゃあ今週末にでもうちに連れてきなさい。本当にそんな人がいるんなら、挨拶に来させるのが筋でしょ。もしそいつが鼻であしらうような男だったら、この年収1000万と結婚しなさいね」
やってしまった。付き合っている相手なんて、もちろんいない。男友達すらいない。仕事以外で男性と話す機会すら、何年もなかった。
翌日、職場で書類を届けるために営業部長の会議室を訪れた。ナルセ部長。会社でその名前を知らない者はいない。彫りの深い端正な顔立ちで、モデルと言われても信じてしまうほどの美しさ。でも、いつも無表情で必要最低限のことしか話さない「冷鉄」と評される男だ。
書類を置いた時、指先に力が入らず書類が床に滑り落ちた。慌てて拾おうとして、私はそのまま床に膝をついてしまった。膝が笑って、立ち上がれない。情けなさと絶望で視界が滲んできた。
「どうしましたか?」
ナルセの声がすぐ近くで聞こえた。
「すみません。すぐに拾いますね」
「顔を上げてください、増田さん」
拒絶を許さない低い声。指示に従い、ゆっくり顔を上げると、彼は眉間に深い皺を刻み、私の顔を凝視していた。
「ひどい顔ですね。また自分で自分を傷つけるような真似をしたんですか?」
「いや、何も……」
いくら笑っても空気は和まない。逆にナルセの眉間の皺はさらに深まる。
「何かあったんですね。仕事に支障が出るレベルですよ。事情を話しなさい」
助けて欲しいわけではなかった。けれど、その強制的な言葉に、極限状態だった私の心は簡単に崩れた。
「……売られるんです。62歳の知らない男の人に売られるんです。両親が結婚しろって。それが嫌で、私、嘘をつきました。会社に結婚を前提に付き合っている人がいるって」
床に座り込んだまま、私は全てを話した。年収1000万円という数字に釣られた両親に、今週末、恋人のふりをした男を家に連れて行かなければならないこと。
ナルセは黙って聞いていた。話し終えると、会議室には痛いほどの沈黙が流れた。ああ、終わった。こんな泥沼の話を聞かされて、彼は呆れているに違いない。
「お付き合いしている相手が本当にいるんですか?」
「いえ、そんな……私なんかと付き合うような素敵な男性はいませんよ。すみません。本当にくだらない話は忘れてください」
首の後ろを掻きながら自嘲気味に笑い、立ち上がろうとしたその時、ナルセが私の腕を掴んだ。
「なんで笑ってるんだよ。何も楽しくないだろう」
「あ、いえ、すみません……」
大きな目に睨まれて、私は笑顔のまま固まった。ナルセが顔を寄せてくる。毛穴も見えないほど滑らかな肌。私などが彼の美貌に見惚れては失礼だと目をそらす。でも、彼は首を傾げて、私の目をまっすぐ見つめた。
「俺が恋人役をするよ」
「え?」
耳を疑った。今、ナルセは何と言ったの?
「増田さん一人でご両親に立ち向かっても勝ち目はありません。ご両親に流されるまま、よくわからない男と結婚してしまうでしょう。あなたはそれでいいんですか?」
言葉はどこまでも事務的だった。でも、彼の瞳の奥には確かな熱があった。
戸惑いもあった。でも、確実に地獄とわかっている結婚から逃げられるなら。私はナルセの申し出を、藁にもすがる思いで受け入れた。
その夜、作戦会議という名目で、私たちは駅近くの落ち着いた和食店に入った。会社でも一際目を引くナルセ部長と二人きり。しかも恋人役をお願いしているのだ。心臓がうるさくて、お茶を飲む手さえ震えてしまう。
「まずは設定を詰めましょう。増田さん、あなたの趣味は何ですか? 休みの日は何をしていますか?」
「えっと、趣味ですか? 特には……休みの日はたまった家事を片付けて、あ、月曜からの仕事の手順を考えたりしてます」
もごもごと答えると、ナルセは眉間に皺を寄せた。すみません。つまらない女で。趣味とか特になくて。長らく恋人もいなくて。あ、友達もいないかも、と思わず自虐的な笑いがこぼれた。しまった。つい癖で笑ったけれど、ナルセは自虐的な笑いを良く思わない。
叱られるかと思いきや、彼はふっと表情を緩めた。
「お前もか」
口元を上げたナルセが、白い歯をちらりと覗かせた。
「俺も同じようなものです。休日は与えられたプロジェクトの資料を読み込んでいます。お互い、プライベートが壊滅的のようですね」
「あ、本当ですね。これじゃあ、恋人らしい話題なんて出てこないわけだ」
初めて、自然な笑いがこぼれた。仕事一本で自分の幸せを後回しにしてきた似た者同士。ナルセの不愛想そうな顔が、少しだけ柔らかく見える。
「……自分は結婚する気がないんですよ」
彼のプライベートは未知の領域だ。隙のない完璧な人に見える。悩みや葛藤とは無縁で、我が道を迷わず進む人。そう思っていた。
「俺の両親は幼い頃に離婚しています。それからは母に育てられ、何人かの父親が現れては消えました。家庭というものに、あまりいい思い出はありません」
ナルセが自己開示した。私は驚きながらも、自分自身のことも少しだけ打ち明けることにした。
「実は私もなんです。幼い頃に両親が離婚して、少しの間、不安定でした。でもすぐに再婚して、今の母が来たんです」
「そうですか。共通点が多いですね」
ナルセの声が優しく響いた。この人なら、私の歪んだ家庭環境も笑わずに聞いてくれるかもしれない。
「失礼ですが、過去に恋人とか……」
「……いました。結婚したいと思うほど好きな人がいました。恥ずかしながら、恋人がいたのはその一度きりですけど。15年前の話です」
38歳。いい年して15年も恋人がいないと改めて口にするのは気まずい。ヘラヘラ笑ってごまかしたかったが、ぐっと我慢した。ナルセは真剣な眼差しで私を見つめている。
「そうですか。あなたがそういう人には見えないんですけどね」
「え? いやいや、私なんてどう見てもそういう人じゃないですか」
話題を変えたくて、バッグからスマホを取り出した。先日、酔った勢いで父が家族写真を撮ろうと言い出したのだ。無理やり笑わされている私と、赤い顔の両親が映っている。
「これ、うちの両親なんですけど。父も母も、結婚しろってうるさいくせに、自分たちの仲がいいわけでもないんですよ。二人を見ていたら、結婚したいって気持ちもなくなっちゃいます」
次の瞬間、ナルセの表情が凍りついたように動かなくなった。
「ナルセ部長?」
彼の瞳の奥に、猛烈な怒りの炎が灯った。私に向けられたものではない。凄まじいまでの殺意に満ちた目で、スマホの画面を睨みつけている。
「こ、の、部長、どうしたんですか?」
問いかけにも答えない。ナルセは私のスマホを奪い取るように掴み、画面を凝視し続けた。その手が白くなるほど強く震えている。
「……父親か。やっぱり」
低く冷たい、吐き出すような声だった。そういえば彼は、両親が離婚して母親に育てられたと言っていた。父親という存在そのものに、拒否感を持っていても不思議ではない。それなのに私は、仲が良くないなどと前置きしながら、一見すれば仲睦まじく映る偽りの家族写真を見せてしまった。自分の無神経さに絶望を覚えた。
「すみません。私、入慮が足りなくて。嫌な思いをさせました」
慌ててスマホを引っ込めようとした私の手首を、ナルセが強い力で掴んだ。
「お前は、この男が嫌いか?」
「え?」
「嫌いかと聞いているんだ」
テーブルを叩くような勢いで詰め寄る。その猛烈な圧に押され、私は心の奥底に隠していた本音を思わず吐き出していた。
「……はい。嫌いです。傲慢で自分勝手で、私の人生を何とも思っていないあの人が嫌い。もう、嫌だ」
すると、ナルセの手の力がふっと抜けた。彼は私の手首を離し、自分自身の手のひらを見つめた後、深いため息を漏らした。
「俺も、大嫌いです」
「え?」
今度は恐ろしいほど、ナルセの声は静かだった。彼はまっすぐ私を見据える。
「協力する。お前を助けたい。全てを終わらせてやろう」
その夜、私たちは偽装恋人の契約を超えた、奇妙な連帯感で結ばれた。
一週間後の週末、迎えた決戦の日。
ピクニックにでも出かけたくなるほど穏やかな日曜日。私は昨日から家中を徹底的に片付け、お客様用のお茶菓子を用意した。一方、両親はと言えば、恋人を連れてくると言う私の言葉を端から信じていないようだ。「嘘に決まっている。どうせ適当な言い訳をしてドタキャンするに違いない」と、侮蔑の入り混じった空気で二人とも部屋着のままテレビを眺めている。
「駅まで迎えに行ってくるね」
「あ、そう。駅まで行くんならアイス買ってきて。俺、チョコ味な」
返事はせずに家を出た。約束の時間の5分前。駅のロータリーには、ナルセが立っていた。体のラインに沿ったスーツをまとい、ただそこにいるだけで周囲の空気を支配するような圧倒的な佇まいだ。私などが声をかけるのも畏れ多いほど完璧なイケメンである。
「ナルセ部長、今日はよろしくお願いいたします」
「覚悟はできていますね」
二人で歩く自宅までの6分間。言葉はなかった。けれど歩くナルセから伝わってくる決意の強さが、震える私の背中を支えていた。
とうとう玄関のドアを開ける。「ただいま」と声をかけても、両親は出てこない。私とナルセは顔を見合わせて、リビングに足を向けた。
「ただいま。あの、お母さん、紹介するね。こちら、お付き合いしているナルセ誠さん」
リビングでお客様用のクッキーを勝手に開封してかじっていた母が、跳ねるように振り返った。ナルセの姿を見た瞬間、母の目はこれ以上ないほど見開かれる。
「え?」
裏返った声を発しながら、自分のよれよれの部屋着を隠すように慌てて立ち上がった。ナルセは目を見張るほどのイケメンだ。まさか家にこれほど美しい男性がやってくるとは思っていなかったのだろう。母は急に体をそわそわさせ、ボサボサの髪を手で撫でつけ始めた。
「ちょっとナツキ、本当に連れてきたの? やだ、私、メイクもしてないのに。お客様が来るんなら、きちんと格好するのに。いてよ」
頬を染める母。自分の娘と同年代の男性に対して、どんな感情を抱いているのか。その浅ましさが、今の私にはひどく滑稽に見える。
そこへ、トイレに行っていた父がズボンを直しながらのっそりとリビングに入ってきた。
「なんだ、騒がしい。あ、本当に男を連れてきたのか。どうせその辺のロクデナシだろう」
言いかけて、父の言葉が止まる。彼の視線が、私の隣に立つナルセの顔に固定された。
「う……」
父の顔から一気に血の気が引いた。ズボンのポケットに入れていた手を出すことも忘れ、だらしがない格好のまま、膝をガタガタと震わせている。
「まさか、こんなところで……」
ナルセは極上の微笑みを浮かべた。美しさがより一層際立つ。けれど、その瞳にぬくもりはなく、完全に覚め切っていた。
慌てふためく父と、色めく母。私とナルセは背筋を伸ばし、その醜態を静かに見下ろした。
「え? なんで? まさか? いや、違う」
父は幽霊でも見たかのように目を見開いて怯えていた。その顔は土気色を通り越して白に近い。
「父さん、どうしたの? 紹介するね。私の婚約者のナルセ誠さん。私と同じ会社で営業部長をされているの」
平然とナルセの紹介を続けると、それまで髪を撫でつけていた母が、弾かれたように割って入った。いつの間にかリビングを抜け出していたらしく、その唇には普段は使わないようなどぎつい真っ赤な口紅が塗られている。
「まあ、ナルセさんってお洒落なのね。お名前も素敵。かっこいい。ナルセさんってナツキから聞いていてより、ずっとずっと素敵な方ね」
母は私の存在を無視して、ナルセの目の前で体をくねらせた。
「もう嫌だわ。こんなに急に来るなんて。もっときちんとおもてなしの準備をしておけばよかったねえ。ナルセさん、ナツキみたいな地味な子のどこが良かったの? もっと他にいい女がいたでしょう」
ニコニコと媚びた笑みを浮かべて、ナルセの腕に触れようとする母。毛玉のできた部屋着から、夜会にでも着ていくような薄い生地のワンピースに着替えており、胸を寄せて胸元を強調していた。浅ましいアピールに吐き気がする。
一方、父はようやく少しずつ正気を取り戻し始めていた。
「ナルセ? いや、ナルセじゃない。じゃあ違うか。うん。違うな」
一人で何やら納得し、彼の目に卑屈な光が戻ってきた。自分の恐怖を打ち消すようにわざとらしく鼻を鳴らし、どかりとソファーに座り込む。
「部長だかなんだか知らんが、気に食わないね。ナツキ、お前、会社で枕営業でもしたのか? こんな顔だけはいい男が、お前を相手にするはずないだろう」
「やだ、なんてこと言うの? いい加減にして。こんないい男に対して失礼じゃないの?」
母がキンキンとした声で諫めた。
「あんたはいつもそう。ナツキが幸せになろうとすると、そうやって邪魔して。あんたよりいい男だから嫉妬してるんでしょ。ああ、やだ、やだ。男の嫉妬は見苦しいね」
「黙れ! この男には何か裏がある。そういう顔をしてるんだよ。俺には分かるんだ」
リビングの中で、見苦しい言い争いが始まった。いつもなら、私はここで「まあまあ」とピエロの微笑みを浮かべて間に入り、二人をなだめていただろう。けれど今日は違う。隣で無言のまま、冷徹な瞳で両親を観察しているナルセの存在が、私の心を強くしてくれた。
「お父さん」
テレビの音さえ聞こえなくするような両親の喧嘩を、私は静かな声で止めた。
「また邪魔するの? 15年前と同じように」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「自分の都合で私の幸せを壊しただけじゃ、まだ足りない。自分の犯した罪を隠すために、また嘘をつくの?」
父の顔が再び引きつっていく。
「は? 意味わかんない。何のこと? 知らないし」
私は一歩、父に向かって踏み出した。15年間、心に深く刺さったままだった棘を、今この手で引き抜く。
「15年前、匠との結婚をあれほど醜いやり方で反対したのには、理由があったんだよね。匠の務め先は大手企業。経理部だった。結婚に無関心だった父さんは、それを聞いた瞬間、顔色を変えたんだ」
父の額に脂汗が滲む。
「びっくりしたでしょう。私の婚約者と、お父さんの浮気相手が、同じ会社に勤めていたんだもんね」
父が「ヒッ」と短い悲鳴をあげた。
「同じ会社の、よりにもよって同じ部署だ。浮気相手との関係が、婚約者にバレるかわからない。そんな状況に、父さんは危機感を覚えた。結婚に反対した理由は単純。自分の不貞がバレるのを恐れていたから。それだけだ」
「あ、ああ。何をでたらめなことを言うんだ! そんな偶然があるわけないだろ。知らない。俺は知らないぞ!」
父は震える声で私を指差したが、その声に覇気はなかった。
じっと成り行きを見守っていたナルセが、ゆっくりと一歩前に出る。彼の影が父を覆い尽くし、黒く染めた。
「いくらあなたが嘘をつけても、私は事実を知ってるんですよ。偶然って残酷ですね」
そこで彼は自分の正体を明かす。
「私は、当時のあなたが浮気していた女の息子です」
父は、ハンマーで殴られたように白目を向いた。ナルセは、噂によると両親が離婚していて、母親の写真こそ見たことがないが、見た目は母親そっくりらしい。小さな頃から「お母さんそっくりで可愛いね」「女の子みたい」と周りから声をかけられてきたそうだ。父の反応を見るに、相当似ているのだろう。
ナルセは空気が凍りつきそうなほど冷たい目をして、口を開いた。
「私の母から、当時、面白おかしく聞かされていましたよ。『彼氏の娘が結婚されたらマジで面倒だ。娘の結婚を潰すにはどうしたらいいかな』って、笑っていました。そんな相談を息子に冗談として持ちかける母親です。普段から男にだらしなくて、どうしようもない人間性だと分かりますね」
ナルセが母親を嫌うのも納得だ。
「結局、ナツキさんと当時の婚約者は別れてしまい、結婚は白紙になったそうですね。色々理由はあったと思いますが、お父様、あなたが原因ではないでしょうか?」
父とナルセの母親は浮気関係。それがバレないかと心配なら、二人が別れるという選択肢はなかったのだろうか。私の結婚より、自らの快楽が優先されたのだ。
「……匠に嘘を吹き込んだの? 私が男好きで遊んでるって」
父がごくりと唾を飲み込む。
「当時、母は『私の作戦でうまくいった』と喜んでいましたよ。自分の保身のために、娘の尊厳さえ無惨に踏みにじって、得られるはずだった幸せを壊したんですね」
結婚を潰すために、私の嘘を匠に吹き込んだ。匠は信じたくなかったが、私が「ごめんね」と謝ったことで、知人の不確かな話が事実かもしれないと不安になったのだろう。
その時、母の金切り声が響いた。
「ちょっと待って! じゃあ、あんた、よその女と浮気してたってこと?」
真っ赤な口紅を塗った母の顔が、怒りで妖怪のように歪む。
「ああ、汚らしい! 今もその女とよろしくやってるわけ?」
「いや、違う! 10何年も前のことだし! 違うよ!」
母の剣幕に押されて、父は肩を丸めた。
「てか、浮気相手の息子が何しに来たの? 気持ち悪い。そんな無駄に甘いマスクで、女を散々騙してきたんでしょう。親が親なら子も子ね。あんたの母親は、自分の立場も分きまえずに人の男を寝取ったわけじゃないの?」
母は口汚く罵る。親を侮辱され、ナルセは激昂するかと思った。けれど、彼は穏やかに目を細め、自嘲気味な笑みを浮かべてその罵倒を受け止めた。
「ええ、その通りです。既婚男性と知りながら関係を持ち続けた私の母は、到底許される存在ではありません。あなたの言う通り、愚かで救いのない女でした」
あまりにも潔すぎる返答に、母が毒気を抜かれたように言葉を失う。だが、ナルセの反撃はここからだった。彼は視線を、ソファーに沈み込んでいる父へと移した。
「ですが、浮気というものは女一人では成立しないと、お分かりですね」
ナルセの低い声が、父の心臓を優しくノックする。
「妻子がありながら、若い母と楽しく遊び、娘の結婚も潰した。あなたの旦那様もまた、同罪なんですよ」
「え?」
窓ガラスが割れそうなほど空気を震わせて、母が奇声を発した。正直、母はヒステリックで扱いが面倒くさい。機嫌がいい時は適当に合わせておけば済むけれど、一度火がつけばギャンギャン喚くのみだ。これだから父が母を恐れた気持ちも理解できる。ただし、許しはしない。母を好きになり、結婚を決めたのは父だ。その父が、めんどくさいからと母を蔑ろにするのは間違っている。今回、私を年収1000万円の男で売り飛ばそうとした現凶は母だ。父は偉そうにふんぞり返っているけれど、実際は「いいぞ、いいぞ。もっとやれ」と援護射撃をする腰抜けタイプだ。とはいえ、まさかこんなにも呆気なく崩れるとは。思っていた以上に小物だった。
父に対する恐怖心が、すっと引いていく。
「自分の秘密を守るために、私がどんなに苦しんでも構わなかったんだね。あなたは、父親ですらない」
もはや、リビングの空気は修羅場と化していた。
「あんた、よくも私を騙してたわね。最低! 下半身に脳みそついてんの?」
「ごめん、でも昔のことだし」
「うるさい! 黙れ!」
母の怒りの矛先が、父にザクザクと刺さる。テーブルにあったお茶を、母は父の顔を目がけてぶちまけた。
「私が生きてるうちに、そんな女と許さないよ。絶対に! 他人の男に手を出す馬鹿の何が言い訳? 不潔バカ男! 浮気するやつは男も女もバカ!」
情けなく頭を守る父と、ヒステリックに叫び続ける母。結婚の挨拶をするはずが、随分な騒動となった。
「あんたは本当にバカ! 疫病神! ナツキの昔の彼氏は大手に勤めてたんだよ。あの時、あんたが余計なことをせずにナツキを結婚させていれば、今頃うちはもっと金持ちで贅沢な暮らしができていたはずなのに」
結局、私への同情ではなく、自分がいかに損をしたかと喚いている。
「あんたの汚い下半身のせいで、私の人生まで台無し!」
散々罵られ、とうとう父の頭の血管が切れた。
「うるさい! 浮気なんてずっと前のことだろう!」
これまでの卑屈な沈黙を破り、父は野獣のような声を上げた。
「つうか、お前だってあの時、ナツキの結婚に反対してたじゃん。顔が悪いとか何とかって、お前が悪いんだろ! ナツキが結婚できなかったのは、お前のせいなんだよ!」
思いがけない反撃に、母の罵声が一瞬止まった。けれど、すぐに勢いを取り戻して唾を飛ばす。
「責任転嫁しないでよ! あの男をあんたが気に食わないって言うから、私もそうかなって思ったんだもん! あんたのせいでしょ!」
「あんたが浮気さえしてなければ!」
お互いに自分の過ちから目をそらし、相手の罪を挙げ合う。私から見れば、二人とも共犯者だ。
「黙れ黙れ! 俺だけに罪をなすりつけるな! 俺には理由があったんだからしょうがないだろ! でもお前は、どうせナツキを困らせて楽しんでただけだろう! 性格悪いな!」
罵詈雑言の応酬が始まった。テレビからは、幸せそうな家族がカレーを囲むCMが流れている。いくら過去の記憶を辿っても、CMのようなカレーを家族で囲んだ瞬間がなかったことに、改めて気がついた。一応、穏やかに過ごしてきたつもりだったけれど、我が家はずっと異常だったのかもしれない。私はただ、醜悪な両親の罵り合いを、醒めきった心で見つめた。
ずっと黙って二人を観察していたナルセが、静かに口を開いた。
「お母様のおっしゃる通りですよ」
ナルセの言葉に、母がはっとして振り返る。味方が現れたと、目がらんと輝く。
「そうでしょ! 全部こいつが悪いの! 女に捨てられて、金持ちになるチャンスを棒に振ったんだから! 浮気をするような人間は本当に最低! 人間のクズよ!」
「ええ、私も自分の母とこの男を、心の底から軽蔑しています。ところでお母様、そこまでおっしゃるのなら、ご自身のこともさぞお嫌いなのでしょうね」
ナルセは、フランス人形のように作り物の美貌を母に向けた。
「あ……」
一瞬にして、母の顔が歪む。
「『クズでノータリン』。それ、お母様の自己紹介ですよね」
ナルセの笑みがより冷ややかになった。
「あなた方二人の出会いも、浮気からの略奪だったのではないですか」
賑やかなテレビの音が、場にそぐわない。父は顔を背け、母は唇をぎゅっと結んだ。そういえば、実の母がいなくなり、父が現在の母と再婚した頃から、親戚付き合いというものをほとんどしてこなかった。正月もお盆も、家には誰も来ないし、親戚の家にも行かない。仲が良かったはずの従姉妹とも、いつの間にか疎遠になった。
「あいつらはバカだから、付き合う必要ない」と父が言って、親戚たちを遠ざけていた気がする。略奪という不道徳な道を選んだ二人を、周囲が拒絶していたのだとしたら、腑に落ちる。叱られるのがむかつくとか、そんなくだらない理由で逃げたのではないだろうか。
「そうだよね。考えてみればおかしいよ。離婚から再婚まで、すごく早かった。それってつまり、離婚より前から浮気してたんだね」
私はナルセの隣で、生まれて初めて父をまっすぐ睨みつけた。普段なら踏みにじられて耐えるばかりだったが、強く出てみれば、父は喉を詰まらせる。イケメンのナルセに鼻の下を伸ばしていた母も、唇を噛み締めた。
私の肩に、ナルセがそっと手を置く。
「真実を知る権利が、あなたにはありますよ」
その手のぬくもりが、私に一歩を踏み出す勇気をくれた。これまでの38年間、濃度の薄い毒ガスが充満したような家庭で苦しんできた。今、家を出れば、ようやく新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込める。
「私、知りたい。全部、聞いてくる」
私はナルセの手を引いて、家を飛び出した。背後で父が「待て、ナツキ!」と呼ぶ声がしたが、もう振り返るつもりはなかった。
走るなんて、何年ぶりだろう。心臓が口から飛び出しそうだし、肺が苦しい。住宅街の角を曲がったところで足が縺れそうになった瞬間、大きな手ががっしりと私の腕を支えてくれた。
「焦ることないよ。事実は逃げない」
ナルセは息を乱さず、私の隣を並走している。
「ナルセ部長、すみません。私、乗りかかった船で……」
「いや、俺が自ら乗り込んだ船だ。最後まで付き合うよ」
その言葉に背中を押され、私は再び走り出した。実は、ナルセは会社で私の名前を聞いた時から、母親の元彼氏の娘ではないかと気がついていたそうだ。でも、「あなたの父親は浮気してた」とまさか尋ねられるわけがない。だからナルセは、過去のこととして胸に秘めてきたという。今回、私が弱音を吐いたことで、忘れようとしていた過去が鮮明に蘇ってきたのだ。
バスに飛び乗り、隣の町へ。目的地は、古くも手入れの行き届いた一軒家。父の弟、つまり私の叔父の家だ。小学生の頃の記憶を頼りに進んだが、意外にも迷わずたどり着いた。
「はい、どなたですか?」
玄関先に現れたのは叔父。肩で息をする私と、その横に立つ見知らぬ端正な顔立ちの男性を見て、明らかに動揺し警戒の色を浮かべる。
「あの、増田ナツキです」
「うっ、ナツキちゃん! まあ、どうしたんだい? そんなに息を切らして」
奥から叔母も顔を出した。
「ナツキちゃんだって! 何年ぶりだろう。急にどうしたんだい?」
親戚の家とはいえ、私にとってはほぼ他人の家だ。記憶の中の叔父たちはもっと若く、今の私より年下だったかもしれない。考えなしに走ってきてしまったが、すっかり見た目が変わっていて緊張する。けれど、二人は門前払いすることなく、リビングに通してくれた。
冷たくて美味しい麦茶を一口飲んだ時、張り詰めていた糸がふっと切れた。
「教えてくれませんか? 私の、本当のお母さんのこと」
私が絞り出すように言うと、叔父と叔母は顔を見合わせた。
「ナツキちゃんは、どんな風に聞いてるんだい?」
「えっと、私がだらしなくて、勉強ができないから、お母さんが出ていったって……」
二人はまた視線を絡ませ、苦く頷いた。
「そんな嘘を教えていたんだね」
苦々しく吐き捨てる叔父。
「ナツキちゃんのお母さんはね、ナツキちゃんを置いていったんじゃないんだよ。あの、お父さんが今の女と浮気をして、お母さんを追い出したんだ」
叔母が唇をぎゅっと結び、覚悟を決めてから話し始めた。
「お母さんは最後まで、ナツキちゃんを連れて行こうと泣いてすがってたんだよ。でも、病気が悪化して、子育てできる状態じゃなかったから、まあ、仕方ないよね」
言われてみれば、実母は病気がちだったかもしれない。仕事も家庭も全力で、いつもパワフルに動き回っていたけれど、何回か入院していた。私が不安にならないよう、実母は非常に振る舞っていたのだろう。
「ナツキちゃんがだらしなくて勉強ができないからお母さんが出ていったなんて、それだけは絶対に嘘だからね」
叔母が強く私の手を握る。
「浮気女と本気になって、お母さんが邪魔だから、お父さんが一方的に捨てたんだよ。あの時、助けてあげられなくてごめんね。『夫婦のことに口を出すな』って、あのバカ男が俺たちにも拒絶して……」
視界が一気に涙で滲んだ。自分を責め続けた30年。「私が悪い子だから、お母さんは去ったのだ」と。自分には価値がないのだと、呪いをかけられて生きてきた。でも、真実は違う。実の母は、私を愛し、守ろうとしてくれていた。
「お母様の気持ちが分かって、良かったですね。増田さん」
ナルセが静かに私の肩に手を置く。その時だった。
「ナツキに、勝手なことを吹き込むなよ!」
玄関が荒々しく開け放たれ、息を切らせた両親が転がり込んできた。父の顔は怒りと恐怖で引きつり、母はどぎつい真っ赤な口紅が唇の端まで伸びている。
「おい! 余計なことを喋ってないだろうな! これはうちの家族の問題だ!」
「家族の問題だって?」
叔父が立ち上がり、父の胸倉を掴みそうな勢いで詰め寄った。
「兄貴、いい加減にしろ! ナツキちゃんを使って、うまいこと前の嫁さんから金を巻き上げたんだろう! 遺産だって入ったんじゃないか! それだけ奪ったのに、まだ足りないっていうのか!」
「遺産……お母さんは、もう……」
私は涙を拭うのも忘れて、叔父を見つめた。両親の顔が、今度こそ完全に凍りつく。
「ナツキちゃんのお母さんはね、自分がいなくなった後、ナツキちゃんが不自由しないようにと、ちゃんと考えてたんだよ」
叔父は握り拳を父に突きつけて圧をかけながら、真実を一気に吐き出した。
「家族で住んでた家は、元々お母さんのものだったらしいんだよ。それを、あいつに分け渡したんだ。だけどね、あいつが『俺の名義にしろ』と強要したのを、お母さんは突っぱねてね。家の名義は、ナツキになってるはずだよ」
私の頭の中で、かちりとパズルのピースがはまった。だから、家が古くなっても立て替えなかったのか。名義が自分じゃないから、勝手にできなかった。父は顔を背け、蛇に睨まれたカエルのように硬直している。
私が収入を得てからは、生活費に加え固定資産税を支払ってきた。「住ませてやってるんだから当然」とお金を取られていたけれど、支払い用紙を見せてもらったことはない。お金だけ私から回収して、めんどくさがりの彼らがわざわざコンビニまで支払いに行ってくれていた。普通に考えたら、おかしなことだ。両親には逆らわない。とにかく言われた通り素直に動く。もちろん笑顔で。それが染みついていたから、おかしいと思う感情すら失っていた。
「それだけじゃないわよ、ナツキちゃん」
叔母が私の手を握り、涙ながらに続けた。
「お母さんは遠方のご実家で長く病気療養をしていて、思うように体も動かせなかったの。でも、離婚してからずっと欠かさず養育費を送っていたそうよ。病気の体を引きずって会いに行けば、お父さんが激昂するから。遠めにこっそり見てみると、ナツキちゃんはニコニコ顔で新しいお母さんの手を握っていたらしい。『私が幸せに暮らしている』と確認して、それからお母さんは顔を見に行くこともやめたそうだ。新しい家族に馴染んでいるのなら、それでいいと。お母さんは静かに身を引いたんだよ」
私はなんて残酷なことをしてしまったのだろう。実母に捨てられた直後、新しくやってきた母にも嫌われたくない一心で愛想を振りまいていた。まさか、実母がどこかで見ていることも知らずに。
「お母さんは、ナツキちゃんのこと、本当に大切にしていたのよ。ナツキちゃんの大学の費用も積み立てたから、もう心配いらないって」
「そうなんですか? ……1円も受け取っていません」
私の声は、困惑と湧き出る怒りで震える。大学には通ったが、自分で奨学金を借りた。高校生の頃からアルバイトをして、生活費も入れ続けている。
「だから、余計なことを言うなよ! うちの話だから! 弟だからって、しゃしゃり出てくんな!」
とうとう父が激昂し、叔父に掴みかかろうとした。
「俺が悪いみたいに言うけど、あいつ結局、早いうちにぽっくり逝ってんじゃん! 産むだけ産んで無責任だよな! ナツキをここまで育て上げたのは俺だ! 子供の金をどう使おうが、俺の勝手だろう!」
なんだかんだ言っても、彼らは私の唯一の両親。実の父に、育ての母だ。家庭を息苦しく感じる時もあったけれど、「大切にしなければいけない存在だ」と思っていた。
「最低ですね」
ナルセが、ひどく軽蔑した様子で吐き捨てた。
「娘を『生き遅れ』と罵り、人生を食いつぶした。実の母親の愛まで汚したんですよ。よくもそんな台詞が吐けたものですね。それが、親のすることですか?」
端正な顔を歪め、両親を見下ろす。母は真っ赤な唇をへの字にして、「私は知らない」と保身を図った。
私の信じてきた家庭とは、何だったのだろう。初めからそこに愛なんかないのに、私は気がつかないふりをして、無邪気な子供を演じてきた。涙が次から次へと溢れてくる。悲しいからではない。30年間、私が自分にかけていた「親に捨てられた悪い子」という呪いが、今、溶けていくのを感じたからだ。
実母は私を愛していた。私を守るために住む場所を残し、身を削るようにしてお金を送り続けてくれていたことが、何よりの証拠だ。会いに来なかったのにも理由がある。病と戦いながら、私が新しい家族と穏やかに暮らせるようにと、遠くから祈り続けてくれていたからだ。決して、私を嫌いになったのではない。
「……最低だよ」
無意識に、同じ言葉を口にしていた。それを発した瞬間、奇妙な静寂に包まれる。父と母は、まるで自分の耳を疑うかのように目を見開いて、私を凝視した。これまで私は従順だった。反抗期さえなかった。捨てられたくない一心で、彼らが望む都合のいいお人形さんであり続けた。その人形が初めて、瞳に憎しみを宿し、自分たちを「最低」と断じたのだ。
父が、ぐらりと一歩後ずさる。偉大な父の情けない仕草が、今の私にはひどく滑稽に見えた。
「な、なんだ、その生意気な面は! 目つきが悪いぞ! 親を馬鹿にすんなよ!」
自分が気が小さくなっていることに気がついていないのか。小型犬のようにキャンキャンと吠える。
「お前、自分が誰のおかげでここまで生きて来られたと思ってるんだ! 俺が育ててやったんだぞ! そんなに、お前を捨てていなくなった母親が恋しいなら、今すぐうちから出ていけ!」
「ま、大好きなママはもう天国にいるんだけどね。寂しいなら、あんたも天国まで追いかけていけば? まさか、キモい」
母は半開きだった口を手の甲で拭って、声を張り上げた。真っ赤な口紅を唇の端まで伸ばし、阿婆擦れのような顔して笑う。
二人は口を揃えて、私ともうここにはいない実母を罵った。私の隠していた傷口を、見えているかのように一番痛いところをえぐってくる。これまでの無理やり繕ってきた気遣いや、「大切な家族」という幻想が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
罵声の嵐の中で、私はふっと笑った。それは自分を貶めるピエロの微笑みではない。両親のあまりの矮小さに、心の底から呆れ果て、つい鼻で笑ってしまったのだ。
「うわ、また笑ってる! 何笑ってんの? 気持ち悪い! あんたのそういうところ、大嫌い! 本当にキモいから、私の前からとっとと消えてほしいわ!」
激昂する母を、私は氷のような視線で射抜いた。
「だったら、お母さんが消えて。家から出ていくべきなのは、私じゃない。お父さんと、お母さんだよね」
不思議と恐怖心はない。隣にはナルセがいる。目の前には真実を語ってくれた叔父叔母がいる。初めて味方を得た私の背筋は、自然とまっすぐに伸びていた。
「家の名義が本当に私なら、お父さんたちはただ人の家に住んでいただけ。そこに住む権利があるのは、私だけだよね。ねえ、お父さんとお母さんは、何の権利があって、うちにいるの?」
「は?」
父の虚ろな返事が、何よりの解答だった。叔父たちの話が勘違いかもしれないという不安は、その瞬間に確信へと変わる。
「お父さん、さっき『俺がお前を育ててやった』って言ったよね」
私は一歩、父に向かって踏み出す。
「本当のお母さんからの養育費を奪い、家を奪い、私の給料まで毟り取って、それを『育てた』と言うの? 私をただのATMとして利用しただけでしょう。そんなに私が嫌いなら、うちから出ていくのは、あなたたち」
その宣言は、38年分の叫びだった。これまで両親のご機嫌を伺いながら払ってきた固定資産税。それは、無駄に搾取されていた苦い記憶ではなく、実母が私に残してくれた家を、私が守り続けてきた証だったのだ。
「本当のお母さんが私のために残してくれた大切な家を、もう一銭たりとも、あなたたちの好きにはさせない。今すぐ、出ていって」
静まり返った叔父の家のリビングに、私の声は響いた。一瞬の沈黙。その後、信じられないものを見たというように、父がゆっくりと私の顔を覗き込む。いつもの、穏やかで威圧的な父親の目は、今はもうどこにもなかった。ただの、追い詰められた小動物のような瞳で、私を見上げている。
「はあ……お前、本気で言っているのか? 誰に向かってそういう口を聞いてる? 俺は、お前の父親だぞ」
父の声は枯れていた。怒鳴っているつもりなのだろうが、喉が詰まっている。語尾は情けなく掠れた。これまでは、父の一言で私はひれ伏していた。けれど、威圧的な権威を誇るはずの父が、中身のないハリボテのように見えて仕方がない。
「父親なら、娘が愛した人を、嘘をついて追い払ったりしない。父親なら、自分の浮気を隠すために、娘の人生を台無しにしない」
淡々と述べると、父はまるで殴られたかのように、床に膝をついた。いつもなら「黙れ」と机を叩いていたはずの手が、膝の上で情けなく震えている。私に反撃されるなど、夢にも想像していなかったのだろう。絶対的な支配者だと思っていた父は、娘の反論一つに怯える、ただの臆病な初老男性でしかなかった。
「ナツキ……あんた、なんて子なの?」
母が絞り出すような声で援護する。だが、私を射抜くような鋭さはなかった。どぎつい真っ赤な口紅は唇の端まで広がり、ピエロのメイクが崩れた後のような、滑稽で惨めな顔をしている。
「恩を仇で返すことを、『恩』っていうの。実母が私に残した家を、両親のものだと思い込んで。私を『生き遅れ』と罵りながら、その私の稼ぎを当てにしていた。一体、どこに私が恩を感じる要素があるでしょう。お母さんに感謝することなんて、何もない。むしろ、これまで私を騙していたことを、謝って欲しいくらいだよ」
「うっ、そんな言い方しなくても……ひどい。なんで?」
母が顔を覆って泣き崩れた。それは我が子のように育てきた私が反抗的で絶望したからではない。自分の思い通りにならない世界で、わがままな子供のように駄々をこねているだけだ。あれほど口汚く罵ったくせに、今更泣いても、下手くそなパフォーマンスにしか見えない。
「見苦しい」
ナルセが、短く切り捨てるように言った。軽蔑に満ちたナルセの視線にさらされ、父はさらに身を小さく丸めて、床にうずくまったまま動けなくなる。彼らが私を支配できていたのは、私が「いい子」でいたからだ。けれど、過剰に従いすぎて、彼らは親を越えて王様になっていた。私がいい子をやめれば、王様の地位も揺らぐ。
「お父さん、お母さん、もう一生分、尽くしたよね。親孝行は、おしまいにする」
そう告げると、父はただ打ちひしがれて、地蔵のように丸まった。澱んでいた視界が、徐々に澄んでいく。もう、この人たちのために笑う必要はない。
「あ、あんた、そんなわがままが通ると思ってるの?」
母が虚勢を張る。ナルセがそっと、私の肩を引き寄せた。恋人のふりという枠を超えて、ぬくもりが伝わってくる。
「わがままではなく、正当な主張ですよ。今すぐ、あなた方は増田さんの家から立ち去るべきです。でなければ、警察を呼びましょうか。これまでの不法占拠と、資産の不正流用。どちらでも、構いませんが」
ナルセの冷徹な宣告に、両親は言葉を返すことさえできなかった。激しく目を泳がせて黙り込む父と、顔を引き攣らせる母。両親の再婚から30年。十分にピエロを演じてあげた。とうとう、開幕だ。
両親の無様な姿を冷ややかに見つめていた叔父が、重い口で話を切り出した。
「で、兄貴。家を追い出されて、行く当てはあるのか? そもそも、お前、お金持ってんの?」
叔父の問いに、父はびくりと肩を竦めた。父は数年前に勤め先を辞めてからは自営業をしている。実際には、たまに知人から回ってくる些細な雑用を手伝う程度。母も無職だ。それなのに、二人の生活が困窮している様子はない。私はそれを、自分が家に入れている毎月の生活費と、父の蓄えがあるからだと思っていた。
「仕事もしてないくせに、嘘をつけ」
叔父がピシャリと切り捨てる。
「ただの無職で、娘の給料を当てにしていただけなら、まだただの最低な親で済んだ。だけど、お前がやっていたのは、それだけじゃないだろう」
一つため息をついてから、叔父は話を続けた。
「うちのまなみが結婚するんだけどね。仕事を辞める手続きや税金の処理を進める中で、不審な点が見つかったんだ。なんと、まなみが得体の知れない会社の社員になっていたそうだ。調べてみたら、それ、兄貴の会社だったよ。もちろん、まなみはそこに就職なんかしてないし、給料だって1円ももらってないけどね」
全然関わりのない親族まで利用していたのか。父の肩が震える。へらりと笑って、父はごまかそうとした。
「ああ、それは、節税対策だ」
嘘くさい笑顔に、私は吐き気がする。いくら笑ったところで、場が和むわけがない。
「これは、立派な詐欺行為だ」
叔父は声を荒らげることなく、淡々と述べていく。
「身内にこんな不正を働いている人間がいると分かれば、まなみの婚約だって危うくなるところだったんだぞ。直接お前に抗議しても話にならないと思って、すでに弁護士に相談してある。兄貴、覚悟しとけよ」
父の顔から、完全に正気が失われた。ただの兄貴分では済まないと、頭の悪い父でも理解しているだろう。薄くなった頭頂部を見下ろして、私は静かに告げる。
「私は、あなたの娘じゃなかったんだね。結局、便利に使える道具だったんだ」
完全に目が覚めた。叔母が私の手を取り、撫でる。心底申し訳なさそうに、眉を下げた。
「ナツキちゃん、今まで何もしてあげられなくて、本当にごめんね」
私と両親は、ごく普通の仲のいい親子だと、他人の目には映っていたはずだ。いきなり現れた新しいお母さんにすぐ懐ついているように見えたから、実母も安心して身を引いたくらいである。
「いいえ。ニコニコして平気なふりをしていた、私が悪いんです。助けてもらえなかったなんて、そんなことは思っていません」
私は自分の行動を戒しめるように、首を振った。ピエロの面をかぶり、周囲に「幸せです」という嘘を振りまいていたのは、自分自身だ。叔父はそんな私を労わるように見つめ、その後、床に転がっている両親に鋭い一瞥を向ける。
「こいつらは、しばらくうちで預かることにする。このまま外に出せば、名義がナツキちゃんになっている家に戻るしかないからな。それは、許さない」
それは、叔父夫婦に迷惑をかけてしまう。戸惑う私を、叔父は制した。
「いいんだよ。これは、今まで何もできずにいた俺たちの罪滅ぼしだ。もちろん、このクズ共に、ずっとタダで住居を提供するつもりはない。すぐにでも、自分の足で立ってもらう。そのための教育を、させてもらうよ」
叔父のにっこりとした笑顔には、妙な威圧感が宿っていた。
「後のことは、私たちに任せて。ナツキちゃんは、行きなさい」
私は叔父の言葉に甘え、席を立った。玄関へ向かおうとすると、父と母が虫の息のようにして手を伸ばす。
「待って、ナツキ! 見捨てないでよ!」
だが、叔母がその前に立ちふさがり、満面の笑みでピシャリと言い放った。
「人情が悪いわよ、お二人さん。娘に縋る親なんて、恥ずかしいと思わない?」
その後、叔母は振り返って「さっさと帰るように」と手で指示をする。
「ナツキちゃん、幸せになるのよ」
彼女の目は、私の隣にいるナルセに向けられていた。ああ、何と答えればいいのか。迷っていた私の肩を、ナルセが抱き寄せる。
「はい」
叔父は心から安心した顔をして、私たちを送り出してくれた。きっと、これが「親の顔」というものなのだろう。
数日後、私の家を訪れたナルセは、分厚い書類を私の前に置いた。彼と叔父が調査し、弁護士と連携してまとめた、父の不正の全貌だ。
「増田さんの父親は、あなたの名前を勝手に使って、ペーパーカンパニーの役員にしていました。これは有印私文書偽装にあたります。さらに、あなたへの給与という名目で金を引き出し、所得を隠蔽していました。税務署が動けば、莫大な追徴課税と重加算税が発生しますね。まあ、小さな会社だったので、大した金額にはならないかもしれません。でも、無職のあの二人にとっては、一生かかっても払いきれないほどの重荷になるでしょうね」
仕事の時と同じように、感情を見せずに事実を並べていく。淡々としていて、容赦ない。さらにナルセは、もう一枚の書類を差し出した。それは、私の知らないところで、私の名義で組まれていた消費者金融の借金だった。
「え? 私、こんなの借りてません!」
「分かっています。サインも判子も、全て偽造でしょう。すでに弁護士を通じて、筆跡鑑定の準備を整えてあります。借金の契約そのものが無効であることを、法的に証明しましょう。あなたに、返済義務は一切ありません」
私は目を見開いた。つまり、両親はこれから所得税の制裁金を払い続けなければならない。しかも、いざとなればシラを切るはずだった、娘名義の借金まで背負うことになる。もちろん、娘の私に助けてもらうという楽な逃げ道も、完全に断たれた。
「大変だろうな」
思わずつく、とも。ナルセも同意した。
「ええ、大変でしょうね。でも、その苦労を全てあなたに負わせるつもりでいたんですよ。同情はできませんね。二人がどうなっても」
私や実母の幸せを奪い、楽して生きてきた彼らが、今度こそ報いを受ける。どんなに助けを求められても、救いの手は差し伸べない。
「ナルセさん、ここまで……ありがとうございました」
私はわずかに口元を上げた。真顔のナルセが、私の顔を覗き込む。
「もう、笑わなくていいんですよ」
その一言をきっかけに、私は書類を握りしめ、初めて声をあげて泣いた。泣けば泣くほど、奪われてきた自分自身の尊厳が、少しずつ戻ってくる。体が次第に温かくなり、凍りついていた心が溶けていくようだった。
しばらくして、叔父夫婦から報告を受けた。両親は、縁もゆかりも、そして頼れる知人も一人もいない、遠く離れた地方の町へと移送されたらしい。叔母の遠い親戚が営む農家や工場に仕事を斡旋してもらい、逃げ場のない環境に放り込まれたのだ。
「関係の壁の薄い安アパートの契約だけ済ませて、あとは『勝手にしろ』って置いてきたよ。最低限の布団と鍋だけ持たせてね。コンビニもないって嘆いてたけど、無駄に贅沢できる立場じゃないって、まだ分かってないのね」
叔父が電話越しに、晴れた声で教えてくれた。物理的な距離がある。これが何よりも安心した。彼らには、私に会いに来るための旅費さえない。それどころか、叔父たちは借金の返済に当てるためという名目で、二人のスマホも解約させたそうだ。
「嫌だって泣き喚いてたけどね。言ってやったよ。『あんたたち、スマホを持ってて誰に連絡するの? 友達なんていないでしょ』って。そしたら、黙り込んじゃってさ」
笑いながら話す叔父夫婦の徹底ぶりを聞き、私は心底肩の荷が下りた。これでようやく、私の静かな生活が守られる。
そう思っていた矢先、私の元に一通のメールが届いた。差出人の名を見た瞬間、心臓が跳ね上がり、呼吸が止まった。
「匠から……」
15年前、一番愛していた人の名前。メールアドレスを変えずにいたのは、心のどこかで彼との思い出を捨てきれなかったからかもしれない。連絡してきた理由に検討もつかず、恐る恐るメールを開いた。内容を見て、一気に落胆する。
「『ナツキ、久しぶり。突然の連絡ごめんね。実は僕の勤め先に、ナツキのご両親から電話があったんだ。かなり混乱した様子で、『ナツキと連絡が取りたい。助けて』と泣いていたよ』」
血の気が引いた。あの二人は、私の電話番号も、勤務先も、友人の名前すら知らない。興味がなかったからだ。唯一分かっていたのは、匠の勤め先。15年前に激しく攻撃したことを忘れ、最後の頼みの綱として縋りついたらしい。どこまで無知な人たちなのだろう。けれど、続く匠の言葉は優しい。
「『でも、安心して。ご両親の話があまりに自分勝手で醜かったから、そのまま信じたりはしてない。ナツキの連絡先は知らないと言って、電話は切ったからね。それで良かったかな』」
急に視界が滲んだ。詳しい事情なんて説明しなくても、彼は察してくれたのだ。あの、どこまでも優しかった匠の笑顔が、鮮明に蘇る。私は震える指で、短い返信を打った。
「『ありがとう。私の親が迷惑をかけて、本当にごめんなさい。連絡先を教えないでくれて、助かりました』」
すぐに返信が来た。
「『大丈夫だよ。ご両親よりも、自分の人生を大切にしてね。身体に気をつけて』」
それだけ。彼が今の私をどう思っているのか、すでに結婚しているのか。そんなことは、何も書かれていなかった。今の私たちなら、父が吹き込んだ醜い嘘を見抜き、匠と手を繋いで逃げ出せたかもしれない。でも、あの頃の私たちは若すぎた。嘘を見抜く賢さも、親を捨てる勇気もなかった。
もう、過去には戻れないんだね。冷たくて硬いスマホを胸に抱き、私は一人、静かに涙をこぼした。15年前に別れた私に対して、こんなにも優しくしてくれるのだ。彼はきっと、心穏やかな生活を送っているのだろう。かつて愛した人が、今、別の場所で自分らしく生きている。そう感じられただけで、十分だ。
両親が私の目の前から消えた数週間後、平和が戻ったかのように思えた私の元に、一本の電話が入った。なんと、警察からだ。父は、叔父が用意した安アパートや仕事の環境に耐えられず、脱走を図ったらしい。隣町まで数時間かけて歩き続け、疲れ果ててよたよたと徘徊していたところを、認知症の疑いで保護されたという。「娘に会いに行くんだ」と警官にも訴えたそうだが、所持金はほぼゼロ。飛行機の距離を、歩いていけるはずもない。
「すみません。そのものとは、すでに絶縁しております。ご迷惑をおかけしました」
父は警察から「娘さんに迷惑をかけちゃいけないよ」と窘められたらしい。だが、問題はその先だった。警察が私の連絡先を確認するために書類を広げた一瞬の隙に、私の電話番号を暗記したらしい。その凄まじい視力と記憶力を、なぜもっと別の正しい場所で使えなかったのか。翌日から、非通知や公衆電話からの着信が相次いだ。もちろん、全て無視し、着信拒否の設定をした。
でも、ある日の仕事中。つい油断して、知らない番号からの電話に出てしまった。
「ナツキ! この親不孝者が! お前のせいで、お父さんもお母さんも、めちゃくちゃな目に遭ってんだ!」
受話器の向こうから聞こえる父の喚き声に、うんざりする。
「いい加減にしてよ。自分のしたことの結果でしょ」
私が切り返したその時、たまたま隣にいたナルセが、無言で私の手からスマホを奪い取った。
「まだ、増田さんに絡んでるんですか?」
父が一瞬、口ごもる。
「お、お前、ナツキの男か! 部外者のくせに口出すな! 普通、助ける義務があるだろう! ナツキは、俺の子供なんだから!」
「義務ですか? ナルセは鼻で笑った。もう無関係な他人として切り離してやるつもりでしたが、そちらから関わってくるというのなら、仕方がありません。親子だから助けろとナツキさんに義務を課す前に、あなたはもう一人の娘さんを助けてあげてはいかがですか?」
「娘がもう一人? そんなものがいれば、よかったけどね。ナツキなんか、役立たずで、何の役にも立たない。ちゃんとした、使える子供をもっと作っときゃよかった」
悪口を叩く父。叔父の家で最後に見た両親の姿は、床にうずくまり小さくなっていた。しかし、新しい環境で反省するどころか、私を悪者にして開き直っている。
ナルセは、何の脈略もなく語り始めた。
「私には、年の離れた妹がいます」
私も聞いたことがない事実を、彼は淡々と述べる。
「私の母と、あなたはとても仲が良かったそうですね。でも、母が妊娠を伝えた途端、あなたは逃げたと聞きました」
電話の向こうで、父が息を飲む音が聞こえた。
「あ、れ、マジだったの? 妊娠なんて嘘かと思った。てか、本当に産んだのかよ」
浮気していただけでもクズ。妊娠した浮気相手を捨てるなんて、信じられない。命を授かる覚悟もなく、気楽に遊んでいたのだ。
「私の母は、あなたを深く恨んでいます。あなたの現在の居場所を、母に伝えておきましょうか。ついでに、強制的なDNA鑑定や、未払いの養育費の請求権についても、教えてもいいですよ。弁護士の紹介もできますが」
「い、や、やめてくれ! 勘弁してくれ! あいつ、ヒステリックなんだよ。お前も、親子なら分かってるだろう!」
ナルセの言葉を遮って、父が悲鳴をあげる。どうやらナルセの母親は、素直に別れを受け入れたのではなく、一方的に捨てられた。本当は執念深い性格らしい。ただ、どう動けばいいか分からず、立ち止まっていただけだ。ナルセがアドバイスさえすれば、話が変わる。
「ちょっとあんた! 隠し子までいたの?」
今度は受話器越しに、母の金切り声が響いた。
「最低! 人間のクズ! 私を騙して、バカ女に子供まで産ませてたなんて!」
「違うよ! 俺は関係ない! 産む前に別れたもん! あいつが勝手に産んだんだって!」
「うるさい! このバカ男! 許さないから!」
両親が罵り合っている真ん中で、ナルセは通話の終了ボタンを押した。ふっと短く息を吐き、大人しくなったスマホを私に返してくる。
「もしまた連絡してきたら、こちらも動きましょう。でも、もう二度と連絡はないかもしれませんね。彼らは、今頃、お互いを食いつぶし合っているはずだ」
ナルセは、少しだけ苦しげに、けれど晴れやかな顔で苦笑した。それ以降、私のスマホが鳴ることは、一度もなかった。父が私の電話番号を破棄したのではないだろうか。母と浮気相手の二人から責められては、たまらない。
ちなみに、ナルセの母親は、別に私の父を恨んでいないそうだ。
「あの、お母さんと妹さん、大丈夫ですか?」
「ああ、もちろん。かなり年が行ってからできた子が、相当可愛いみたいでね。女同士、仲良くやってます。あの奔放だった母も、すっかり男遊びをやめたんですよ」
ナルセは肩を竦めた。彼の母親は、クズの父など必要としていない。母娘二人で穏やかに暮らしているようで、ほっと胸を撫で下ろした。
両親から離れて、一年が経った。平穏な日々の中で、私はたまに叔父から近況を聞くことがある。当初は「嫌だ嫌だと」喚いていた二人も、ようやく自分たちが置かれた絶望的な状況を理解したらしい。叔父の親戚の監視下で、父は近所の工場、母は農家の手伝いと、慣れない肉体労働に汗を流しているという。特に、隠し子騒動でナルセに恫喝された父は、母に対して完全に頭が上がらなくなったそうだ。母の顔色を窺いながら、家事の全てをやらされる日々。逆らおうものなら、「この隠し子作りの下半身で生きてる男に、人権はない」と罵声が飛ぶ。
「もう、すっかり毒気も抜けたんじゃないかしら」と叔母は言っていたけれど、あの欲深い二人が簡単に更正するはずもなかった。
ある日、叔父から電話がかかってきたのだが、電話の向こうで、堪えきれないといった様子で吹き出す。
「ナツキちゃん、聞いてくれ。あいつら、またやってくれたよ」
ことの顛末はこうだ。窮屈なアパート暮らしで、小銭を数えて胃をキリキリさせる日々。そんな地獄に耐えきれなくなったのは、今度は母の方だった。父のように計画性もなく隣町まで歩き、警察にお世話になるヘマはしない。両親は一年間、それなりに真面目に働いて貯めたわずかな金を握りしめ、自分名義の格安スマホを購入したのだ。
世界に繋がるスマホを手にした母の頭に浮かんだのは、かつて私を売ろうとして利用した、婚活サイトだった。
「アタシみたいな地味で売れ残りの子ですら、年収1000万の男が釣れたんだもん。元がいいアタシが本気を出せば、すぐにでも見初められて、こんな生活から抜け出せるに決まってる。男にモテまくっちゃったら、どうしよう」
母は有頂天だった。プロフィールには、胸元のアップ写真。少しでも若く魅力的に見えるようにと、顔を隠して強調した胸元だ。さらに年齢を大幅に詐称し、いかにも世間知らずで守ってあげたくなる雰囲気を装って、網を張った。やがて、一人の男性からアプローチがある。名前はローマ字の「K」で、年齢も、年収も、そして顔写真すら非公表。そんな謎のプロフィールに、母は逆に「きっと、とてもじゃないけど公開できないほどの大富豪に違いない」と、勝手な妄想を膨らませた。
メッセージのやり取りの中で、Kは驚くほど母の好みを熟知していた。甘い言葉の数々に母はすっかり溺れ、ついに初対面の日を迎える。決戦の日は日曜日。母は何十年も前の彼氏に買ってもらったブランド物のバッグを引っ張り出し、真っ赤な口紅を何重にも分厚く塗って、待ち合わせ場所である近所のスーパーの前へと向かった。
「今日で、この貧乏長屋ともおさらばよ」
高揚感混じりに家を出て、スーパーの入り口で「素敵な紳士」の登場を待つ。すると、通りの向こう側。植え込みの影でそわそわしながら、自分と同じように待ち合わせをしている様子の男が目に入った。首元が黄ばんだポロシャツをズボンの中にしまい込み、薄くなった頭髪を必死に整えている。手に小さな花束を持った、情けない男。
「は? 何してんの?」
「え? そっちこそ」
そこに立っていたのは、父。彼もまた、スマホを手に入れた直後、真っ先に婚活サイトに登録していた。若くて従順な女を探し当てて、今日が初デートだと意気込んでいたらしい。色っぽい胸元写真の女に鼻の下を伸ばしていたのだ。まさか、その魅力的な胸の持ち主が、すぐ隣にいるとは思わずに。
「お前、ここで何してるんだよ!」
「今日は仕事に行くって言ってたじゃん! 嘘ついたのか!」
焦りのあまり、父が唾を飛ばす。
「それはこっちのセリフよ! あんたこそ、また浮気する気だったの! 安っぽい花束なんか持っちゃって、気持ち悪い! 女を騙す気満々じゃない!」
「うるさい! お前だって、そのつもりで男を誘い出したんだろう! 何だ、その格好は! 若作りしやがって! もっと若くて可愛い女が来ると思ったのに、騙された!」
お互いに、自分を地獄から救い上げてくれる「最高の相手」だと思っていた相手が、一番顔も見たくない配偶者だったという、あまりにも皮肉で無様な結末。スーパーの利用客たちが白い目を送る中、二人は真っ赤な顔をして罵り合いを始めたという。
「いや、運命の赤い糸で結ばれてるんだね」
叔父からその話を聞いた私は、職場の休憩室でお腹を抱えて大笑いしてしまった。一度は略奪婚で結ばれた二人が、お互いに裏切りを重ねようとした末に、再び同じ穴の狢として引き戻される。それ以上の笑い話が、他にあるだろうか。
「そんなに笑って、どうしたんですか?」
ナルセが、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
「悪いことをすると、ちゃんと自分に帰ってくるんだなって話を聞いたんです」
私は涙を拭い、少し清々しい気持ちでもう一笑いした。その日以降、両親のクラスワの狭いアパートは、お互いを監視し合う檻と化した。年の割に若々しかった母は、今は見る影もない。農作業に明け暮れ、爪の間には土が詰まっている。真っ赤な口紅を塗る余裕はなく、ガサガサの唇に98円の薬用リップクリームを塗るのが精一杯だ。一方の父は、工場での単純作業の繰り返しで腰を痛めた。だからと言って、心配してくれる人は皆無だ。帰宅すれば母の罵声に肩を竦め、小さく丸まって家事をこなす。いくら真面目に働いても、二人の生活は楽にならない。叔父たちが法的に突きつけた税金が、生活を圧迫する。
「ねえ、今月の手取り、これだけ? 本当、使えない男だね」
薄っぺらな給与袋をテーブルに叩きつける母。
「お前だって、大した稼ぎじゃないじゃん。俺より稼げないのに、偉そうにしてんねよ、バカ野郎」
「何? 何か言った?」
「いや、別に」
彼らには、趣味を楽しむ余裕もない。外出といえば、仕事への往復だけ。それ以外の時間は、狭い部屋でお互いの過去の過ちを蒸し返し合うことだけに追いやられる。
「え、今日の夕飯、これだけなの?」
テーブルに並ぶのは、値引きシールの貼られた見切り品のコロッケと、薄いインスタントスープだ。自分たちの食費を稼ぐだけで精一杯。税金と過去の借金の返済に追われ、手元に残るお金はごくわずか。夜、狭い部屋で布団をくっつけて眠る際、二人は背を向け合い、暗闇の中でどんなことを考えているのかと想像した。娘を邪険に扱わなければよかったと、父は後悔しているかもしれない。妻でありながら、他の男を誘惑しなければよかったと、母は猛省しているだろうか。いくら考えても、二人の心の内は分からない。とにかく、両親は一生お互いを疑い、蔑み合いながら、狭いアパートで泥沼の生活を続ける。それこそが、彼らに与えられた最高の罰に違いない。
さて、私とナルセの「恋人のふり」という契約は、いつの間にかどちらからともなく、形を変えていた。
「え? 増田さんとナルセ部長が、結婚?」
月曜日の朝、オフィスに激震が走った。報告を聞いた同僚たちは驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになり、フロアは騒然とした雰囲気に包まれる。
そこへ、いつものようにデリカシーをどこかに置き忘れた部長が、ニコニコしながら割って入ってきた。
「いやあ、驚いたよ、増田さん。ナルセ部長のどこがいいの? やめときなって。毎日あんな怖い顔で睨まれたら、家でも気が休まらないでしょうに。もっとこう、愛想のいい男はいなかったのかい?」
周囲の同僚たちがハラハラしながら見守る中、私はナルセの隣で、ふっと小さく笑う。
「いえ、ナルセ部長、じゃなくて、誠さんは、とっても優しいですよ。昨日の夜だって、私が仕事を頑張りすぎていたからって、私の大好きなケーキを買ってきてくれたんです。世界で一番、温かい人です」
迷いのない言葉を口にした瞬間、フロアは冷やかしと温かな祝福の拍手に包まれた。ふと横を見ると、あの冷鉄を絵に書いたようなナルセが、耳の付け根まで真っ赤に染めて、立ち尽くしている。
「え、何を言ってるんですか、人前で……」
「あ、すみません。つい、本当のことなんで」
ナルセは困ったように眉を下げ、それからふにゃっと柔らかい笑顔を見せた。
「幸せにします。部長、ご心配なく」
その言葉に、また大きな拍手が湧き起こる。私はもう、誰かのために無理に笑う必要はない。ありのままの自分を愛し、守ってくれる人が、隣にいる。



