「お前の夢は今日で終わりだ」…

「お前の夢は今日で終わりだ」...

「お前の夢は今日で終わりだ。」

閉店後の店に、夫・直の声が落ちた。テーブルには離婚届。伸びてきた手が、私の通帳と家の鍵、そして店の鍵を順に取り上げていく。

「返して。それは私のお金よ」
「店も家も俺の名義だ」

二十年連れ添った夫が、目を合わせない。知らない男の顔だった。

「理由を教えて」
「この店もお前の夢も終わりだ」

理由を尋ねても、直はもう答えなかった。私は震える指でペンを握り、署名欄に「杉浦弓」と書いた。その名前を書いたのは、あの夜が最後になった。店を出る扉が閉まる寸前、背中の向こうで何かが崩れるような音がした。振り返らなかった。

夜道では、答えの出ない問いだけが回り続けた。二十年の、一体どこで間違えたのか。

それから三年。閉店したはずの店の前で私は立ち尽くすことになる。真新しい看板に刻まれていた名前。その意味と向き合う日が来るなんて、あの夜の私は思いもしなかった。

私は弓、四十九歳。三年前まで杉浦弓という名前だった。話はあの夜よりずっと昔から始めなければならない。私の原点は母の台所にある。

母の名は片岡文子。海辺の隣町の古い一軒家に住んでいた。決して裕福ではなかったのに、母の台所からはいつも湯気が上がっていた。一人暮らしのおじいさんに肉じゃがを届け、学校の子供たちには芋の煮っ転がしを振る舞う。そういう人だった。

「料理はね、お腹だけじゃなく、寂しい心も温められるのよ」

お玉を片手に母は笑った。幼い私はその隣で味見係を任されるのが誇らしかった。

忘れられない光景がある。連れ合いをなくしたばかりの近所のおじいさんが、母の肉じゃがを一口食べて、俯いたまま動かなくなった。泣いているのだと子供の私にも分かった。帰り際、おじいさんは言った。

「文子さん、わしは明日も生きるわ」

料理は人を生かすのだ。あの日の玄関先の光景が、私という人間の芯を作った。いつか自分の店を持ちたい。夢はあの狭い台所で生まれた。

高校を出て、私は町の料理屋で働き始めた。皿洗いから始めて、コツコツと厨房へ上がった。オムライスの卵の巻き方も、デミグラスソースの寝かせ方も、体で覚えた。この緊張が私を育てた。

直と出会ったのはその店だった。週に三度、閉店間際にやってくる会社員。頼むのはいつもオムライス。食べ終わると必ず厨房に向かって頭を下げた。

「ごちそうさまでした。今日もうまかったです」

不器用で、口数が少なくて、でも誠実な人だった。通い始めて三度目の春、その人は言った。

「俺と結婚してください」

二十六の春だった。私は片岡弓から杉浦弓になった。式はあげていない。その分のお金も、いつかの店のために取っておこうと二人で決めた。

役所からの帰り道、母が私のバッグに小さな包みを押し込んだ。開けると桜色の軸の印鑑が出てきた。掘られていたのは「弓」。苗字ではなく、名前の判子だった。

「あんたの名前の判子よ。銀行の届けにしなさい。苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のままだからね。お守り代わりにいつも持っておくの」

母らしい贈り物だった。言われた通り銀行印にして以来、その判子は私のバッグから離れたことがない。

結婚して五年目の夜だった。ビールのグラスを傾けながら、直がぽつりと言った。

「いつか弓の名前をつけた店を出そう」
「私の名前なんて恥ずかしいわよ」
「君の料理を食べに来る店なんだから、当然だろう」

冗談めかして返したけれど、直の目は本気だった。その翌月から夫婦の貯金通帳の表紙に「店」と書いた紙が貼られた。安月給から一万円ずつ、二万円ずつ。ボーナスが出れば十万円。私の給料からも同じ額を入れた。外食を減らし、旅行を我慢して、夢はゆっくりとでも確かに積み上がっていった。

母は店を見ることなく亡くなった。私が三十四の冬のことだ。棺の前で私は約束した。

「お母さん、あなたの台所みたいな店を必ず作るから」

開店の日を迎えたのは、それから三年後、十二年前の五月だった。見つけたのは商店街の外れに立つ古い店舗付きの家。一階が店で二階が住まい。南向きの窓から午後の光が床に長く伸びていた。

「ここだわ」

内見の日、私は即決した。この光を見た瞬間、母の台所を思い出したのだ。改装は業者に頼むお金を惜しんで、自分たちの手も使った。壁のペンキは直が塗り、私は母の台所と同じ木の板を注文した。貯めた八百万円を頭金にして、残りはローン。売買契約書も銀行の書類も、保険所に出す営業許可の申請書も、名前の欄は全部「杉浦直」だった。経営も名義も夫。私は厨房。名義なんて気にしたこともなかった。夫婦なんだから、どっちの名前でも同じこと。あの頃の私は本気でそう思っていた。

店の名前は「ひより」にした。

「本当は弓の店にしたかったんだけどな」と、看板を見上げて直が笑う。
「やめてよ。お客さんが恥ずかしがるわ」

開店の日、真っ先にのれんをくぐってくれたのは、呉服屋の女将の八重さんだった。当時六十代、着姿の背筋がピンと伸びた人で、オムライスを綺麗に食べ終えると帯から小さなカメラを取り出した。

「ご夫婦、看板の下にお並びなさいな。最初の日の写真は、後で宝物になるんだから」

照れながら並んだ一枚。直は仏頂面で、私は笑いすぎて目が線になっていた。八重さんは後日、焼き増しした写真を額に入れて持ってきてくれた。レジの奥の壁が、その額の定位置になった。

とはいえ商売は甘くなかった。開店の物珍しさが消えると、客足はパタリと落ちた。雨の火曜日など、一人も来ない日があった。仕込んだハンバーグが十個丸ごと残った夜、二人でカウンターに並んで冷めたそれを黙って食べた。

「うまいな」
直がぽつりと言う。
「こんなにうまいのになんで客が来ないんだろうな」
「宣伝が下手なんじゃないの? 営業担当さん」
「違いない」

力なく笑い合った。悔しかったけれど、不思議と絶望はしなかった。母の言葉が体の中にあったからだと思う。

「お腹と寂しい心を温める相手は、目の前の一人からでいい」

だから私は、来てくれる一人一人の顔を覚えた。一人暮らしのお年寄りにはご飯を小盛りにして、その分のおかずの野菜を一品足した。野菜嫌いの子供には人参を型で抜いてハンバーグの脇に隠した。お金のない学生には大盛を無料にした。そして常連さんの誕生日には、小さなプリンをそっと出した。八重さんの誕生日が最初だった。

「なら頼んでないわよ」
「お誕生日でしょ? お店からです」

八重さんは目を丸くして、それから帯の辺りを押さえて笑った。

「この店は料理と一緒に別のものを出すのね」

大盛無料に通い詰めた大学生が、就職して初給料の日に来てくれたことがある。伝票の裏に千円札を挟んで走って帰ろうとするから、捕まえた。

「多いわよ」
「いや、あの、足りなかった分です。四年分」
「じゃあ、利子は出世払いね。また食べにいらっしゃい」

直と二人、角を曲がるまでその背中を見送った。ああいう夜のために店をやっている。心からそう思えた。それからは常連さんの誕生日を手帳に書き留めるのが私の癖になった。八百屋のご主人が形の悪い野菜を安く回してくれたり、向いの花屋さんが毎週カウンターに小さな花を生けてくれたり、商店街の人たちにも店は育ててもらった。

そんな毎日を重ねるうち、雨の火曜日にもぽつりぽつりと傘が並ぶようになった。二年目には常連さんの顔触れが揃い、三年目には夕方の仕込みが追いつかなくなった。夫婦二人では手が回らない。そう思い始めた矢先、この店に一人の青年が転がり込んでくる。

その青年が店の戸を叩いたのは、開店から三年が過ぎた冬。九年前のことだ。のっそりと入ってきたのは痩せた若い男の子だった。名前は水島翔太。高校を途中でやめて、工場や引っ越し屋を点々としてきたらしい。履歴書の職歴の欄はどれも一年と続いていなかった。面接の間、翔太君は一度も目を合わせなかった。

「言っときますけど、俺なんかすぐやめますよ」

客席の椅子で私は思わず笑ってしまった。

「やめるかどうかは働いてから決めればいいでしょう。はい、まずは明日も来なさい」

その日の晩ご飯のつもりで、私はオムライスを出した。翔太君はスプーンを持ったまま固まって、それから一気に食べた。食べる間、鼻をすするような音が混じる。理由は聞かなかった。

翌朝、翔太君は開店の二時間前に来た。それから毎朝続けた。最初の仕事は皿洗いと湯飲み磨き。次が玉ねぎの皮むき。キャベツの千切りが板につくまで半年。ソースの味加減を任せるまで二年。焦がして、しょっぱくして、その度に私と直の雷が落ちた。それでも翔太君は翌朝、開店二時間前に立っていた。

一度だけ、翔太君が無断で休んだことがある。電話にも出ない。直が自転車でアパートへ走ると、熱を出して寝込んでいた。お粥を届けた翌週から、翔太君はどんな小さな不調も申告するようになった。

ある夜、片付けの途中で翔太君が口を開いた。

「俺、初めてだったんです」
「何が?」
「明日も来いって言われたの。どこ行っても、もう来なくていいって言われてばっかりだったから」

手を止めずにそう言うから、私も手を止めずに答えた。

「じゃあ、私は明日も言うわね。明日も来なさい」
「はい」

接客は直が仕込んだ。グラスの置き方、常連さんの名前の覚え方、お年寄りへの声の大きさ。閉店後の客席で直が客の役をやって、翔太君に練習させる。気真面目な顔で「いらっしゃいませ」を繰り返す二人がまるで親子みたいで、私は厨房で笑いを噛み殺した。働き始めて四年目には、翔太君の作るナポリタンに常連さんの注文がつくようになった。

店は育っていた。土曜の開店前には通りの隅まで列が伸びるようになった。八重さんが列の整理を買って出て、常連さん同士が列の中で世間話を始める。夜、二階の住まいに上がる階段で直がよく言った。

「弓、俺たちの店すごいことになってきたな」
「私たちの店じゃなくて、みんなの店よ」
「違いない」

正月には店の座敷に八重さんやパートの奥さんたちの家族も呼んで新年会をやった。誰かの笑い声が絶えない座敷で、直がそっと耳打ちしてきた。

「お母さんの台所って、こんなだったのかもな」
「そうね。きっとこんなだった」

夫婦で始めた小さな夢は、翔太君が育ち、常連さんの笑い声が重なり、確かな形になっていた。あの頃が私の人生で一番幸せな時期だったと思う。そして幸せの絶頂で、あの人が店に現れた。

四年半前の春、町の情報誌に店が載った。見開きの写真には、湯気の立つオムライスと照れ笑いの直が映っていた。遠くの町から来る新しいお客さんも増え、嬉しい悲鳴の毎日だった。その雑誌を片手に、あの人は現れた。

「おお、直、繁盛してるらしいじゃないか」

昼時の店に、図々しい大きな声が響いた。スーツに金の腕時計。直の五つ上の兄、卓さんだった。食品卸の会社「杉浦食品」を経営していて、法事の度に景気のいい話ばかりする人だった。ただ、亡くなった親の思い出話さえ最後は金の話に変わる人で、私はどうにも苦手だった。

卓さんはカウンターの奥まで勝手に入り、厨房を見回した。

「狭いが、まあ小綺麗にやってるな」
「兄さん、今は昼時だから」
「おい、水。気が利かないな、この店は」

翔太君が慌ててグラスを出す。卓さんは礼も言わずに飲み干して、直の肩に腕を回した。

「なあ直、客が入ってるなら仕入れも経理も身内に任せた方が安心だ。うちは卸のプロだぞ。他の業者に中間で抜かれてるのが俺には見てられんのだよ」
「いや、今の八重さんのところとは開店からの付き合いで…」
「付き合いで商売するから個人は潰れるんだ。素人の経理なんて穴だらけだしな。弟の店は俺の店みたいなもんだろ。悪いようにはせん」

直は曖昧に笑って、はっきり断らなかった。断れない理由を私は知っていた。兄弟は早くに父親をなくしていて、直の高校の学費は働きに出た卓さんが出したのだという。「兄貴には頭が上がらない」が直の口癖だった。恩は本物だったのだと思う。ただ、恩を盾にされた時、人は正しい判断ができなくなる。

卓さんは返事を待たず、翌週から店に出入りするようになった。

最初に変わったのは野菜だった。開店からの付き合いだった八百屋さんが、申し訳なさそうに頭を下げに来た。取引は杉浦食品に一本化すると卓さんから通告されたのだという。届くようになった段ボールを開けて、私は手が止まった。玉ねぎの箱の底がうっすら傷んでいる。豚肉の色も悪く見えた。

「お兄さん、この玉ねぎ、下の段が痛みかけています。お客さんに出すものですから、前のところと同じものを入れてください」

勇気を出していった私に、卓さんは鼻で笑った。

「いい舅は分からんよ。味なんて客には分からんのだ。原価を下げるのも経営のうちだぞ、奥さん」
「分かりかねます。うちのお客さんには分かります」
「あ、じゃあ聞くがね。回転率はいくつだ? 人件費比率は? 答えられんだろう。奥さんは厨房だけ見てりゃいいんだよ」

言い返せなかった。数字は全部直に任せてきたから。悔しさでその夜は仕込みのキャベツを刻みすぎた。山になった千切りを翔太君が黙って袋に分けてくれた。

それでも私は傷んだ野菜を黙って使う気にはなれなかった。痛みを外して芯を選り分け、いつもの味になるまで手間を倍かけた。それでも隠しきれない日はある。ある昼下がり、八重さんがスプーンを置いて首をかしげた。

「弓さん、ハンバーグの味、変わった?」

背筋が冷たくなった。ごまかしはこの人には通じない。

「ちょっと仕入れ先が変わって…すぐ戻します。必ず」
「そうならいいの。この店の味はね、弓さん、あなたの味なのよ。誰にも触らせちゃだめ」

帯をぽんと叩いて八重さんは笑った。私はその夜から、届いた食材の検品を自分の仕事にした。ダメなものはダメと伝票に書いて突き返す。卓さんの機嫌は目に見えて悪くなった。

「高が玉ねぎでいちいちうるさい奥さんだ」
「玉ねぎで店は傾くんです」
「だったら単価を上げろ。メニューを二割値上げりゃ済む話だ。年寄りの常連なんて、どうせ他に行く店もない」
「うちのお客さんを、そんな風に言わないでください」

睨み合いになりかけたところで、直が間に割って入った。仲裁はいつも同じ。兄には謝り、私には目で詫びる。その繰り返しだった。

帳簿は、いつの間にか店の棚から消えていた。経理は杉浦食品の事務所で預かると卓さんが決め、月末の数字さえ私は見られなくなった。ある夕方には、レジの引き出しを開けた卓さんが、直の実印と店の銀行印を無造作に鞄へ入れるのを見た。

「お兄さん、そこまで持っていくんですか?」
「経理を預かるってのはそういうことだ。いちいち取りに来るのは二度手間だろう」

その夜、私は初めて直に強く言った。

「帳簿も印鑑も店の外に出すなんておかしいわよ。いくら身内でも」
「兄貴にも悪気はないんだ。昔から俺の面倒を見てきた人だから。でも会社のことは俺に任せて、弓は料理に集中してくれな。それが一番店のためだ」

直がそう言うなら、私は自分にそう言い聞かせた。夫を信じることと目をつむることの区別が、あの頃の私にはついていなかった。

秋風が吹く頃、直の背中に見慣れない影を見るようになる。

最初に気づいたのは夜中の音だった。二階の寝室で目が覚めると隣の布団が空いている。階段を降りると店の明かりが漏れていた。カウンターの隅で直が電卓を叩いている。広げているのはコピー紙の束だった。

「どうしたの? こんな時間に」
「ああ、いや。棚卸しの計算だよ。すぐ寝る」

直は笑った。その笑い方が、嘘の下手なこの人の精一杯の嘘だと分かった。思えばその半年ほど前の春、建物のローンをようやく払い終えたばかりだった。最後の返済を終えた日、直は通帳を仏壇に備えて、柄にもなく手を合わせた。

「これで店も家も、本当に俺たちのものだ」

あんなに晴れやかだった顔が、秋には別人のように曇っていた。秋の彼岸を過ぎた頃から、直は昼の営業を私と翔太君に任せて出かけることが増えた。行き先は言わない。ある日、銀行の名前が入った封筒を小脇に抱えて帰ってきて、そのまま店の裏に一時間こもっていた。出てきた顔は紙みたいに白かった。

「銀行に何の用だったの?」
「ローンの手続きの残りだよ」

ローンは春に終わったはずだ。喉まで出かかった指摘を、私は飲み込んだ。問い詰めて壊れそうなほど、直の顔は追い詰められていた。

電話も増えた。店の裏で押し殺した声。

「兄さん、この請求書は何だ? うちはこんな量仕入れてない」
「店の登記がどうとか、俺は聞いてないぞ。おい兄さん」

戻ってきた直に何の電話かと聞くと、仕入れの調整だという。目が合わない。食も細くなった。私のハンバーグを残して、味の感想も言わなくなった。二十年以上、どんなに疲れた日も「うまいな」だけは欠かさなかった人がだ。

一度だけ、店の裏で兄弟が向かい合っているのを見た。ゴミ出しに行った私に気づかず、直が低い声で言っていた。

「反抗返してくれ。経理ももう自分でやる」
「おいおい、今更何を言い出すんだお前は」
「兄さん、俺は兄さんを信じてたんだ」
「信じてりゃいいだろう。悪いようにはせんと言ったはずだが」

卓さんは笑いながら車に乗り込み、窓を開けて私に気づいた。

「おお、奥さん。景気の悪い顔した弟で大変だな。まあ、うちの弟をよろしく頼むよ」

何がおかしいのか笑い声を残して、車は消えた。

ねえ、何かあるなら話して。夫婦でしょ。

「何もないよ。心配するな」
「私、数字は分からないけど、働くことなら手伝えるわ」
「弓は店のことだけ考えてくれ。頼むから」

その言い方が、突き離すというよりすがるように聞こえて、私はそれ以上踏み込めなかった。そういえばあの頃、直が妙なことを聞いてきた。

「弓、お母さんの家の権利書ってどこにある?」
「実家の仏壇の戸棚よ。どうして?」
「いや、大事にしまっとけよ。誰にも渡すなよ」

海辺の家は母が私に残してくれた家だ。誰にも渡すはずがない。変なことを言う人だと、その時は聞き流した。

しばらくして、卓さんの出入りがパタリと減った。ほっとするどころか、直の顔色は一層悪くなった。二階へ上がらず、店の座敷で朝を迎える日もあった。夫婦の会話は業務連絡だけになっていく。布団の中で背中を向け合う夜。

翔太君も異変には気づいていた。

「弓さん、社長大丈夫ですかね? 夕べ、閉めた店で一人で座ってました。レジの横の、開店の日の写真をじっと見て。俺にできることないですか?」
「翔太君はいつも通りでいて。いつも通りが一番の薬だから」

そう答えながら、私自身がいつも通りの作り方を見失いかけていた。

数日後の朝、直が背中を向けたまま言った。

「弓、今夜、閉めた後で話がある」

一晩中、胸騒ぎが消えなかった。そして夜が来た。のれんをしまい、看板の明かりを落とし、私はテーブルに着いた。向かいに腰を下ろした直の手には、折りたたまれた一枚の紙があった。夜の店は、別の建物みたいによそよそしかった。

やがて直はその紙をテーブルの上で開いて、滑らせた。緑色の枠、見慣れない書式。理解が追いつくまで数秒かかった。

「何これ?」
「見れば分かるだろう。離婚届だ」
「どうして? 私、何かした?」
「もうお前と店を続けるつもりはない」
「冗談なら笑えないわ」
「冗談でこんな紙を出すか」

「お兄さんに何か言われたの?」
「兄さんは関係ない」

即答だった。

「ちょっと待って。話が全然見えないわ。店を続けないって何? この店をどうするの?」
「閉める。もう決めたことだ」
「決めたって、二人の店でしょ。翔太君は? パートさんたちは? 常連さんたちはどうなるの?」
「関係ない。お前にはもう関係のないことだ」

直が立ち上がった。レジ裏の引き出しを開け、深緑の通帳を取り出して戻ってくる。母の家の分も入れてある、私名義の通帳だった。続けてレジ横に置いていた私のキーホルダーから、家の鍵と店の鍵が指の力で外されていく。

「返して。それは私のお金よ」
「店も家も俺の名義だ」
「名義の話なんてしてないでしょ。ねえ、私の顔を見てよ。何があったのか話してよ。お兄さんのこと、お金のこと。私も一緒に…」

直は答えなかった。

「翔太君たちには、何て言うの? あの子、行く場所ないのよ」
「俺から話す。お前が心配することじゃない」

「八重さんには? 商店街のみんなには?」

テーブルを直の拳が打った。水のグラスが跳ねて、水が広がった。

「うるさいな」

低い声だった。初めて聞く声だった。

「この店も、お前の夢も終わりだ」

息が止まった。「夢」という言葉を、この人はそういう風に使う人ではなかった。いつか私の名前をつけようとまで言った人が、私の夢をゴミみたいに床へ払い落とした。私の中で何かの糸が切れた。怒りではなかった。悲しみとも違う。二十年かけて積み上げてきたものが、音もなく崩れていく感覚だった。

「一つだけ教えて。私の料理も、この店で過ごした時間も、全部いらなかったの?」
「ああ、二度とここへ戻ってくるな」

直はやはり私を見なかった。争う気力はもう残っていなかった。何を言っても、この人はもう戻らない。長年連れ添った勘のようなものが、そう告げていた。

ペンを取るまでに、随分長くかかった。私は震える指でペンを握り、署名欄に「杉浦弓」と書いた。その名前を書くのはそれが最後になった。財布と母の形見の判子が入ったバッグと、着ていた服。持って出たのはそれだけだった。

戸口で一度だけ振り返った。

「さよなら。ごちそうさまも、言ってくれないのね」

直の肩が揺れた気がした。それでも言葉は帰ってこなかった。店を出る。扉が閉まる寸前、背中の向こうで何かが崩れるような音がした。確かめる理由はもう私にはなかった。振り返らなかった。振り返らないと決めたのだった。

その晩は隣町の駅前の小さなホテルに止まった。鞄の中の桜色の判子のことを思い出した。母の声が聞こえた気がして、私は声を殺して泣いた。

翌朝、私は高校時代からの友人、安子に電話をかけた。事情を話す途中で声が出なくなった。安子は最後まで聞かず、住所とだけ言った。その日の夕方には彼女の家の食卓で、私は湯気の立つ雑炊を前にしていた。人の作ってくれたご飯で泣いたのは、母が亡くなって以来だった。

「ねえ、悔しくないの? 二十年よ。財産分与だって慰謝料だって、争えば取れるものがあるはずよ」
「悔しいって思う元気も出ないのよ。それにね、争う相手があの直なのよ。想像できる? 法律とかお金とか、そういう場所にあの人と並んで座るの。無理よ。私、あの人の作るナポリタンの味も、もやしの炒め方の癖も知ってるのよ」

安子は何か言いかけてやめて、私の布団を軽く叩いた。

安子の家には三週間いた。その間に離婚の後始末は淡々と進んだ。役所で手続きをして、私は杉浦弓から片岡弓に戻った。子の家を出る前に一度だけ実家へ行った。母が残してくれた古い家。仏壇に手を合わせて、私は報告した。

「お母さん、ごめんね。店なくなっちゃった。あなたの台所みたいな店にするって約束したのに、守れなかった」

仏壇の戸棚には、この家の権利書がそのままあった。直に言われた通り、誰にも渡さなかった家。売れば当面は暮らせる。でもそれだけはどうしてもできなかった。母の台所まで失ったら、私という人間の芯が今度こそ折れてしまう。だから家はそのままにして、自分の食いは自分で稼ぐと決めた。

携帯には翔太君からの着信が何度も残った。留守番電話も入っていた。

「弓さん、今どこにいるんですか? 一度だけ話せませんか?」

再生する度、指が通話ボタンの上で止まった。何を話せというの? 店を捨てて出ていった女が、今更あの子に何を? 結局一度も出ないまま、私は番号を変えた。

一ヶ月後、私は電車で一時間離れた隣の県に、六畳一間のアパートを借りた。四十六歳。道具は段ボール三つ。それが私の再出発だった。

仕事はまず飲食店を探した。二十八年、料理だけやってきたのだ。それしかできることがない。面接を受けた料理屋で、試しに一品作って欲しいと言われた。厨房に立ち、包丁を握った。まな板の上には玉ねぎ。いつも通り、何万回もやってきた仕事のはずだった。

できなかった。玉ねぎの白い断面を見た瞬間、「ひより」の厨房が蘇った。隣で鍋を振る直の背中。翔太君の「いらっしゃいませ」。八重さんの笑い声。全部が一度に押し寄せて、手が動かなくなった。まな板の上に涙が落ちていた。私は包丁を置いて頭を下げて、その店を出た。それから料理の仕事は探さなくなった。

スーパーの品出しと、夜はオフィスビルの清掃。黙々と棚に牛乳を並べ、黙々と床を磨く。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。ある夜、清掃先の管理人さんに声をかけられた。

「片岡さんの磨いた床は艶が違うね。手際もいいし。あんた、前は何か商売でもやってたの?」
「いえ…」
「そうかい。料理とかやらせたら、うまそうな手をしてるがなあ」

何気ない世間話に、その夜は眠れなかった。やらせたら、やっていたんです。九年、自分の店で。喉の奥で言えなかった言葉が、もういた。

安子は月に一度電話をくれた。話すことなんて何もないのに、欠かさず三十分付き合ってくれる。誘いは毎回やんわり断った。楽しむということが、うまく思い出せなかった。

そうやって一年が過ぎた。そして冬の始め、風の便りがとどめを刺しに来た。その知らせは安子からの電話で届いた。

「弓、あのね、落ち着いて聞いてね。『ひより』、閉めたんだって。え、商店街の知り合いから聞いたの。もうだいぶ前からシャッターが降りたままなんだって」

受話器を持ったまま、私は台所の床に座り込んだ。閉めると、あの夜直は確かに言った。でも心のどこかで信じていなかったのだ。あの人はあの店を、私と同じくらい愛していたはずだから。翔太君がいる。パートさんたちがいる。常連さんたちの毎日の賑わいが、あそこにはあったはずだから。

「それでね、直さんのことなんだけど」安子は言いにくそうに続けた。「杉浦食品って、お兄さんの会社だったわよね。あそこ、潰れたらしいのよ」
「潰れた?」
「それだけじゃないの。警察が入ったとか、社長が捕まったとか、そんな噂まであって。本当のところは誰も知らないんだけど」

「だったら直は? あの人は今、どこで何をしてるの?」
「直さんの行方は、誰も知らないって。家も店も、人手に渡ったって聞いた」

不思議なことに、卓さんが捕まったかもしれないと聞いても、ざまあみろとは思えなかった。胸に広がったのは、暗い穴のような感覚だけだった。あの店を追われ、家を失い、それで悪い人にバチが当たったとして、私の九年は戻らない。

年が明けて、離婚から二度目の正月は海辺の実家で一人で越した。お母さん、私、何のために生きてるのかしらね。仏壇の母は、写真の中で笑っているだけだった。

生活は変わらず続いた。品出しと清掃と見切り品の食材だけが、めくれていく。四十七歳になり、四十八歳になった。白髪が増えた。手の甲の火傷の跡だけが、料理人だった頃の名残りだった。直を憎んでいたかと聞かれたら、今も答えにつまる。憎もうとした。憎めたらどんなに楽だっただろう。でも夜中にふと浮かぶのは、ひどい言葉を吐いたあの夜の顔ではなく、湯気の向こうで「うまいな」と笑った顔の方だった。それが一番苦しかった。

そして季節が三度巡り、三度目の秋が来た。金木犀が香る頃だった。その日、アパートの郵便受けに一通の封筒が入っていた。白い、何の変哲もない封筒。宛名は「片岡弓様」。丁寧な小さい字。裏を返して手が止まった。差出人の名前がない。消印だけが押されていて、そこにはあの町の名前があった。

中から出てきたのは一枚の写真と一枚のメモだった。写真を見て、息が止まった。若い直と若い私が、真新しい看板の下に並んでいる。仏頂面の直と、笑いすぎて目が線になっている私。開店の日、八重さんが撮ってくれたあの一枚だった。レジ裏の壁に九年間かかっていた、額の中の写真。添えられたメモには、写真と同じ小さな字で一行だけこう書いてあった。

「あなたの夢はまだ終わっていません」

それだけだった。説明も署名も何もない。夢は終わっていない。終わったのだ。あの夜、あの人がそう宣告して、私も署名して、全部終わったはずなのだ。それなのに、その夜は眠れなかった。

三日目の夜、私はヤ子に電話で打ち明けていた。

「写真とメモ? 何それ。誰から?」
「分からない。分からないから怖いの」
「弓、行ってきなさいよ。三年間、あんたはあの町から逃げてきた。逃げるのが悪いとは言わない。でもね、差出人はきっと、あんたに来て欲しい人よ。悪意のある人間は、開店の日の写真なんて選ばない」

四日目の昼、私はあの町へ向かう下りの電車に乗った。降りてしまえば楽になれる。そんな弱気は、窓に映る自分の顔ごと振り払った。膝の上のバッグにはあの封筒と母の判子が入っていた。お守りはちゃんと持ってきた。

改札を出ると、金木犀の匂いがした。何一つ変わらない、あの町の秋の匂いだった。商店街は記憶より少し古びていた。八百屋さんの店先には変わらず段ボールが積んである。花屋さんの水の匂いもそのままだった。八重さんの店先でご主人が客と立ち話をしていた。とっさに私は電柱の影に身を寄せた。合わせる顔がない。三年間、挨拶一つなく消えた人間に、この商店街を歩く資格なんてない。

角を曲がれば店が見える。足が止まった。心臓が痛いほどなっていた。シャッターと色褪せた日溜まりの看板。見えるのはそのはずだった。私はゆっくりと角を曲がった。

そこにあったのは、全く別の光景だった。建物が生きていた。外壁は塗り直され、木の窓枠は新しくなり、入り口では見覚えのない藍色ののれんをかけようと誰かが脚立に乗っている。窓越しの店内には明かりが点り、働く人影が見えた。呆然と見上げた視線の先に、それはあった。真新しい木の看板。掘り込まれた文字に、西に傾き始めた日差しが当たっていた。

「弓の料理店 ひより」

読み間違いかと思った。瞬きをして、もう一度読んだ。読み直しても、同じ文字がそこに並んでいた。私の名前が、看板の一番上に一番大きく掘られていたのだ。二十年近く前、恥ずかしいからと私が断ったあの名前が。

「弓…私の名前だ」

声が勝手に漏れた。見間違いでも同じ名前の誰かでもない。その証拠に、看板の隅には小さくこの型のオムライスの絵が掘られていた。私が九年焼き続けた、あの形だった。

立ち尽くす私の前で、店の扉が開いた。白いコックコートの男の人が飛び出すように出てきて、そして固まった。記憶よりずっと大人になった。でも間違いのない顔だった。

「弓さん」

翔太君だった。目に見るみる涙が盛り上がって、彼は深々と頭を下げた。

「やっと、やっと来てくれたんですね」

翔太君は店の中へ振り向いて、大声で叫んだ。

「みんな来て! 弓さんが帰ってきた!」

飛び出してきたのは、パートだった正代さんと恵さんだった。二人ともエプロンのまま私に抱きついて、わんわん泣いた。

「弓さん、弓さん、心配したんですよ。どこにいたんですか!」

私はもみくちゃにされながら、まだ看板を見上げていた。

「翔太君、教えて。これ、どういうこと?」
「中で話します。全部、最初から。お帰りなさい、弓さん」

導かれるまま、私は三年ぶりに店の敷居をまたいだ。中は新しい。でも同じだった。壁は塗り直され、床板は張り替えられ、椅子もテーブルも新品になっている。それなのに、配置がそっくりそのままだった。南向きの窓のそばに四人掛けが二つ。奥に座敷。カウンターは同じ木の色。窓際には二人掛けの席。八重さんの指定席だ。厨房を覗けば、コンロも作業台も、私が使っていた頃と同じ場所に収まっていた。厨房の壁に、私の古いエプロンが洗い上げられてかけてあった。洗いすぎて色の抜けた布地に焦げ穴が一つ。捨てられて当然のボロ切れを、誰かがずっと洗って守っていた。

「座ってください。お茶入れますから」

正代さんが座敷に座布団を並べ、恵さんが湯飲みを運んでくる。翔太君は私の向かいに正座して、膝の上で拳を握った。

「どこから話せばいいのか…」
「最初からって言ったでしょ」
「はい。最初からですね」

翔太君は一度目を閉じて、話し始めた。

「あの日の翌日です。社長が、直さんが俺たちを店に集めました。閉店を告げられると思いました。直さんは俺たちの前で床に手をつきました。土下座なんて、あの人がするところを初めて見ました。そして、こう言ったんです。『弓を守るため、店を一度閉めます。俺は弓に憎まれることをしました。でも、あの人の夢だけは終わらせたくありません』って」

意味が分からなくて、俺は直さんの胸倉を掴んだんです。弓さんを守るってなんだ? あんたが弓さんを追い出したんじゃないのかって。そしたら直さんは、抵抗もしないで。ただ「その通りだ」って。

「店は最後の一円まで払われました。最終職場も、直さんが事務所へ頭を下げて世話をしました。俺は隣町の料理屋に移りました。その別れ際、直さんは俺にだけ、こう頼んだんです」

「いつか必ず、弓の店をもう一度開ける。その時、あの人の味を隣で支えられるのは、お前しかいない。だから頼む。腕を錆びらせないでくれ」

「俺、わけもわからないまま約束しました。それから三年、隣町で働きながら給料を貯めました。賄いを作るたびに思うんです。味の直し方、弓さんならどう言うかなって。忘れないように、弓さんに教わったことは全部ノートに書きました。三冊になりました」

翔太君は、使い込まれた大学ノートを三冊、卓の上に積んだ。表紙には「ひよりの味」と書いてあった。ページの端はどれも油を吸って丸くなっていた。

「正代さんも恵さんも同じです。みんな、いつかこの店に戻るつもりで散らばったんです」
「私たちね、月に一度はここに集まってたんですよ」と正代さんがお茶を継ぎ足しながら言った。「閉まったままの店の前を掃除して、いつ再開してもいいようにって。八重さんも杖をつきながらいらしてね。看板が上がった日なんて、あの人、通りの真ん中で泣いてらして」

「でも、店は人手に渡ったって…」
「はい。建物は一度売られました。買ったのは駅前の不動産屋さんです。黒田さんが銀行の支店長さんが、間に立ってくれました。事情を全部話して、いつか店として貸して欲しいって。不動産屋の社長さん、うちの常連だったんですよ。初カレーを大盛で食べてた。毎週金曜の、あの紺のスーツのいい人だ。あの人がこの建物を買って、待っていてくれた。改装は俺たちの三年分の貯金です。開店の資金は弓さん名義で借りられるように、黒田さんが銀行の融資を整えてくれています」

「どうして…そこまで」

「迷惑?」翔太君は、初めて怒ったような顔をした。「弓さん、俺はこの店に拾われたんです。すぐやめると言った俺に、『明日も来なさい』と言い続けてくれた人がいたから、今の俺があるんです。この店は俺たちに料理を教えてくれた弓さんの店です。だから、看板には弓さんの名前が必要だったんです」

それから翔太君は、あのメモと同じ、小さい字であなたの夢はまだ終わっていませんと書いた下書きの紙をポケットから出して広げた。

「写真とメモを送ったのも俺です。勝手にすみませんでした。住所は商店街の八百屋のご主人に、ヤ子さんって方を探し当てて頭を下げて、教えてもらいました。看板が上がるまでは、弓さんに黙ってて欲しいって俺がお願いしたんです。ただ、これだけは先に言わせてください。翔太君は畳に手をついて、頭を深く下げた。直さんが何を守ろうとしたのか、俺の口からじゃなく、ちゃんと順番に聞いて欲しいんです。もうすぐ来ますから」

その三十分も経たないうちに、店の前に一台の車が止まった。降りてきた人を見て、私は座敷で腰を浮かせた。白た。白髪の紳士。商店街の隣の銀行の、黒田支店長だった。

「弓さん、お久しぶりです。お帰りなさい」

黒田さんは深々と一礼して、座敷の向かいに正座した。翔太君からどこまで聞きましたか、と聞かれ、私は答えた。

「店を閉めた経緯と、この店の再開の準備のことまで。でも、肝心なことはまだ何も」

黒田さんは頷いて、湯飲みを置いた。

「三年ほど前の夏です。直さんが、閉店後の私を尋ねてきました。顔色は、今も忘れられません。紙のように白かった。その数日前、直さんはよそから届いた一通の書類を見つけたそうです。直名義の借入金の返済予定表。心当たりのない額でした。血の気が引いて調べ始め、行き着いた先が、実の兄だった。直さんが差し出したのは、その借入金の書類の写しでした。お兄さんは店の経理と印鑑を預かる立場を利用していました。直名義の借入金が二千万円。店とご自宅が担保、つまり返せなければ建物ごと取られる形です。杉浦食品からの仕入れには、実態のない水増し請求が上乗せされていました」

そこで黒田さんは一度、言葉を切った。

「そして、連帯保証人の欄に、弓さん、あなたの名前がありました。あなたの筆跡を真似た偽物の署名です。印鑑も勝手に作られた別物でした」

私は、自分の声が他人のもののように遠く聞こえた。

「それだけじゃありません。卓さんは弓さん名義の預金や、お母様が残された家のことまで調べていました。いざとなれば、そちらも差し出させればいい。そういう目論見だったようです。直さんは卓さんを問い詰めたそうです。帰ってきた言葉を、私は直さんから聞きました。『夫婦なんだから借金も一緒に背負えばいい。店が潰れたら、弓の実家を売れば済む話だ』それを聞いて、直さんは覚悟を決めたと言っていました」

「それから直さんは弁護士の真辺先生を交えて、何度も相談を重ねました。真辺先生の見立てはこうです。署名が偽物である以上、争いは守れる。ただ、争いになれば時間がかかる。その間、弓さんの口座やご実家が仮差し押さえ、つまり裁判の間、凍結されて動かせない状態にされかねない。だから…」

「はい。店を畳んで証拠を固め、兄の手が届く前に、弓さんを店の経営からも杉浦の家からも切り離す。それが直さんの選んだ道でした」

「待ってください。守る方法なら、他にもあったはずでしょう。どうして離婚まで?」

黒田さんはすぐには答えなかった。翔太君と目を交わした。

「それは私の口からお答えすることじゃない。ただ、事実だけお伝えします。真辺先生があげた選択肢に離婚は入っていました。ですが、先生は最後まで勧めてはいません」

その後のことは、黒田さんが淡々と教えてくれた。直は警察に告訴し、先方の銀行も被害届を出した。卓さんは私が町を出た年の暮れ、印章偽造などの疑いで逮捕された。会社は破産し、裁判で有罪になり、今も刑務所の中にいるという。

「お兄さんの悪事は、一つ残らず記録の上で暴かれました。弓さんが手を汚す必要も、心を痛める必要もない相手です」

不思議なくらい胸は波立たなかった。それよりも、たった一つの問いが胸の中で膨らみ続けていた。

「守られていた。それは分かった。でも、どうして直は私に一言も話してくれなかったんですか?」

黒田さんと翔太君が、また目を交わした。

「それをお伝えするには、まずお返しするものがあります」

黒田さんが膝元の鞄を引き寄せ、中から布の包みを取り出した。両手で、うやうやしく。包みの中から出てきたものを見て、私は目を疑った。通帳だった。深緑の表紙の、あの銀行の通帳。角が少し丸くなった、十年以上使い込んだ私名義の通帳だった。

「これ、私の…」
「はい。弓さんの通帳です。あの夜のままの」

あの深夜、直が私から奪ったもの。私は諦めて、忘れたことにして、思い出の底に沈めた一冊だった。

「あの夜、直さんが奪ったものです。離婚の翌朝、一番に直さんは真辺先生の事務所へこれを持ち込みました。預かり証を切って、金庫で保管してもらうためです。ご自分の手元には置かない。兄の手にも絶対に渡さない。弓さんが取りに来られる日まで、第三者の金庫で守る。それが条件でした」

「でも、あの人、私のお金だって分かってて、私から取り上げて…」
「取り上げなければならなかったんです。あの家から一番に消えるべきものだったから。考えても見てください。印鑑も帳簿も握っていた兄の目と鼻の先に、弓さんの通帳が置かれたままだったんですよ。暗証番号がお手元にある以上、簡単には下ろせません。ですが、相手は人の署名を偽って作る男です。手がかりの一つも、あの家に残しておきたくなかったのでしょう」

言われて、ぞっとした。あの人はレジ裏の引き出しも、二階の箪笥も、我が物顔で開ける人だった。

「今朝、真辺先生の了承を得てお預かりしましてね。その足で記帳を済ませてきました。三年分まとめて、数字が途切れないよう窓口で一行ずつ打たせました。随分長くかかりましたよ。中をご覧なさい」

震える手で私は表紙を開いた。見覚えのある数字の並びの最後に、あの十月の残高がある。三百二十万円。母の家の固定資産税や修繕のために取り分けてきたお金と、料理屋の勤め時代からコツコツ貯めた私のお金。借金に消えたと思い込んで、諦めた数字だった。それが、そっくりそのままそこにあった。

その下に、数字は続いていた。翌月の十五日、杉浦直。その翌月の十五日、杉浦直。ページをめくってもめくっても、途切れていない。金額は月ごとに増減しながら、一度も、ただの一度も欠けることなく、三年分。二年目からは、夏と冬に一回り大きな数字が並ぶ。ボーナスの月だと気づいた瞬間、視界が揺れた。ボーナスなんて出る暮らしじゃなかったはずだ。それでも、その月だけは余計に入れずにいられなかったのだ。最後の行の残高は、六百八万円になっていた。

「減るどころか、増えてる。どうして…」
「直さんの言葉を、そのままお伝えします。『このお金は一円も俺のものじゃありません。弓が店で働いて稼いだ金と、まだ渡せていなかった弓の取り分です。何年かかっても、必ず本人に返してください』そう言って、あの人は毎月振り込み続けました」

「店の名前も、真辺先生が先に商標の出願だけ済ませて抑えていて、私の名義に移す手続きは私の承諾を待って仕上げる形にしてあるそうだ。誰にも二度と、店の名前を勝手に使わせないために」
「私、そんなこと何も頼んでいません」
「ええ、だから何一つ完了していないんです。お金も、名前も、この店も。あなたが受け取るというまで、全部が途中で止めてある。あなたの人生を、あなたの承諾なしに動かさない。それが直さんなりのけじめだと、私は受け取りました」

「遅すぎるけじめだ」と思った。あの夜に同じことができたなら、三年なんていらなかったのに。

「直さんはね、弓さん」黒田さんの声が初めて詰まった。「三年間、一番安い部屋に住んで、一番安い飯を食って。それでも十五日の振り込みだけは絶やさなかった。私はね、銀行員として四十年、いろんなお金を見てきました。綺麗な金も、汚い金も。でも、この通帳の三年分ほど、人の祈りみたいな金は見たことがない」

通帳のページの間に、小さな紙が挟まっていた。折りたたまれたメモ用紙。開くと、見慣れた下手くそな字があった。伝票の裏にメニューの思いつきを書き殴っていた、あの字だった。

「これは君の人生だ。俺には奪う権利はない」

二人で文字が読めなくなった。メニューの試作を書きつける時、あの人はいつも語尾の棒を跳ねる。この紙の最後も、癖のまま跳ねていた。こんな短い走り書きにまで、あの人の二十年が滲んでいた。

気づけば私は通帳を胸に抱きしめていた。声を上げて泣くのは久しぶりだった。分かっているのに止まらなかった。翔太君も正代さんたちも、誰も何も言わずに、私が泣き止むのを待っていてくれた。

涙の底から、小さな棘のような問いがもう一度、頭をもたげた。

「だったら、なおさらどうして。どうして、あの夜、一言言ってくれなかったの? 一緒に戦わせてくれなかったの?」

黒田さんは、厨房の方へ目をやった。

「あと一つだけ、弓さんにお渡しするものがあります」

翔太君が立ち上がって、厨房を指さした。

「厨房の作業台の引き出しに、それは入っていました。直さんから、弓さんへの手紙です。直さんから預かったのは半年前です。店の改装が決まった日でした。『弓さんが来たら、厨房で渡して欲しい。ここが弓さんの帰る場所だから』って」

みんなが座敷へ下がって、厨房には私一人が残された。夕方の光の中で、私は封を切った。

便箋には、癖のある字で書き始められていた。

「弓。この手紙を君が読んでいるなら、君はあの店の厨房に立っている。それだけで、俺には十分すぎる。三年前の夜のことを、順番に話す。言い訳になることを承知で。それでも、君には全部を知る権利がある」

兄の不正に気づいた経緯、偽物の署名、母の家まで狙われていたこと、真辺先生と黒田さんに相談したこと。そこまでは昼間に聞いた話と重なっていた。そして手紙は、あの問いに触れた。

「真辺先生は離婚しろとは一度も言わなかった。弓と二人で戦う道もあると、最後まで言ってくれていた。それを選ばなかったのは俺だ。あの秋の夜、廊下で聞いてしまったんだ。君が翔太に言っていた。『この店は何があっても守る。直が困っているなら、私も一緒に背負う。それが夫婦でしょう』と。あの夜、廊下にこの人はいた。嬉しかった。そして、心の底から怖くなった。君に事情を話せば、君は必ず一緒に戦うと言っただろう。借金も裁判も、兄の悪意も、全部半分に背負おうとしただろう。君はそういう人だ。二十年隣にいた俺が、一番よく知っている。裁判は何年かかるか分からないと言われた。その間、君を差し押さえの恐怖と、警察と、兄の顔と同じ世界に立たせておくのか。お母さんの残した家まで担保にされかけている事実を、君に背負わせるのか。考えるほど、分からなくなった。だから俺は、君が俺を嫌いになる方法を選んだ。憎ませて遠ざけて、あの泥沼から君だけを外へ出す。それしか思いつかなかった。守ったつもりだった。でも、本当は、君を信じる勇気がなかっただけかもしれない。一緒に戦おうと言ってくれる君を信じて、隣で戦い抜く勇気が、俺にはなかった」

便箋の上に、ぽたりと落ちるものがあった。自分の涙だと一拍遅れて気づいた。

「兄が捕まった後、すぐにでも君に話に行くべきだった。それも分かっていた。だが、行けなかった。店を潰し、君の人生を勝手に決めた男が、どの面下げて会いに行く。せめて店を君に返せる形に戻すまでは、そう決めて翔太たちと準備をしてきた。振り込みの金は、最初の一年は俺の蓄えから。建物を売ってからは、残った金と今の職場の給料から出している。心配しないでほしい。建物を明け渡す前の晩は、一人で厨房を磨いた。九年分の油の焼き付きを落としながら、ここで君が焼いたオムライスの数を考えた。数えきれなかった。お母さんの仏壇には、まだ手を合わせに行けていない。『台所みたいな店を作る』と誓った娘の店を、俺は一度潰した。合わせる顔ができたら、真っ先に詫びに行く。店も通帳も鍵も奪った俺を許して欲しいとは言わない。ただ、君の夢だけは、君に返したかった。いつか看板に君の名前をつけるという約束だけは、守らせてほしい」

手紙の最後に、短い文字があった。

「あの夜、君が出て行った後、俺は床に座り込んで立てなかった。扉の向こうの君に聞こえていないことだけを祈った。あんな音を残してすまなかった」

何かが崩れるような、あの音。ずっと耳の底に残っていた音の正体は、崩れ落ちた夫の体の音だった。

「俺は今、南の港町の水産加工場で、社員食堂の調理場に立っている。元気でやっている。君が幸せなら、それでいい」

工場の名前と、町の名前が書き添えてあった。

読み終えて、もう一度最初から読んだ。二度目は、泣きながら読んでいた。一番安い部屋で、この便箋に向かう猫背が見えた。書いては消し、消しては書いたのだろう。ところどころ、紙が薄く毛立っていた。

私は手紙を折りたたんで、封筒に戻した。それから厨房を見回した。磨かれたコンロ、真新しい作業台、壁にかかる私のエプロン。そして、ここへ帰ってくるはずのない私を待ち続けていた人たち。

守られていた。それはもう疑いがなかった。でも、と私は思う。手紙を胸に当てたまま、はっきりと思う。守るためだったとしても、何も説明せず私の人生を勝手に決めたことは、間違いだ。一緒に背負うと言った私の言葉を、あなたは聞いていたくせに、信じなかった。私から奪ったのは、店でも通帳でもない。あなたの隣で戦う、その資格だ。

座敷へ戻ると、翔太君たちが心配そうに私を見上げた。泣きはらした顔のまま、私は言った。

「翔太君、私、行ってくるわ」
「はい。行ってらっしゃい」

行き先は聞かれなかった。聞くまでもなかったのだろう。

その晩、アパートに帰って安子に電話をかけた。順番に全部話すと、受話器の向こうで鼻をすする音がした。

「何よそれ。何よそれ? バカじゃないの? あんたの元旦那、バカなのよ。とびっきりのね。で、会いに行くんでしょ?」
「ええ。聞きたいことが、山ほどあるから」

翌週の休みの日、私は南へ向かう電車に乗った。電車を二本乗り継いで二時間。言うべきことを道中いくつも組み立てた。ありがとうが先か、バカ野郎が先か。組み立てては崩し、崩しては組み立て、結局まとまらないうちに、車窓に海が見えた。

着いた港町は、塩の匂いと魚の匂いが混ざる小さな町だった。水産加工場は港のすぐそばにあった。昼下がりの社員食堂は、作業着姿の人がまばらに残るだけだった。配膳台の奥、湯気の向こうに、その人はいた。白い調理服、白い帽子、頬がこけて一回り小さくなった背中。それでも、鍋を振る腕の角度は変わっていなかった。

配膳台の前に立つと、気配に気づいた直が顔を上げる。

「いらっしゃい。定食でいい…」

言葉が途中で消えた。お玉を持った手が、空中で止まる。目が、私の顔に釘付けになったまま動かない。

「どうして、ここに…」
「二度と戻るなと言ったのは、あなたでしょ」

声が震えないように、お腹に力を入れた。

「戻るなと言われたのは店よ。ここは初めて来たもの。約束は破ってないわ」

直は、お玉を置いた。調理服の裾を握りしめて俯いて、それから深く腰を折った。配膳台に額がつきそうなほど、深く。

「すまなかった」

「翔太から聞いたんだな」
「全部。手紙も読んだわ。通帳も受け取った。看板も見た」
「そうか」

直は顔を上げられないまま、絞り出すように言った。

「君を守りたかった。それは嘘じゃない。でも、守ると言いながら、君の気持ちも人生も勝手に決めた。ひどい言葉で傷つけて、三年放り出した。俺のやったことは、兄貴と同じだ。君の署名を、君に無断で書いたのと同じことだ」

「そこまで分かってるのね」
「毎晩考えた。考えない夜はなかった。俺に会いたくないなら、それでいい。今後の前に現れない。ただ、これだけは…」

「許さないわよ」

直の言葉を、私は遮った。顔を上げた直と、ようやく目があった。あの夜、一度もこちらを向かなかった目だった。

「あなたのおかげで守られたものはある。母の家も、お金も、店の名前も。それはちゃんと分かってる。ありがとうとも思ってる。でもね、あの日から三年間、私は自分に価値がないと思って生きてきたのよ。二十年が全部いらないものだったって、あなたに言われたと思って生きてきたの。料理も作れなくなった。包丁を持つと、手が止まるの。私から料理を取ったら、何が残るのよ」

言いながら、目の縁が熱くなるのを止められなかった。

「守るためなら、どんな言葉で傷つけてもいいわけじゃない。一緒に背負うって言った私の言葉を、あなたは廊下で聞いていたくせに、信じなかった。それが一番悔しい」

直は言い訳をしなかった。もう一度、頭を下げた。

「すまなかった。本当にすまなかった」

下げられた頭の上に、白いものが増えていた。この月を、この人はこの人で罰のように生きてきたのだろう。

「それでも、と私は思う。泣くのは、渡すものを渡してからだ」

食堂の窓の外で、かもめが鳴いた。私は息を整えて、バッグからあるものを取り出した。真新しい銀色の鍵。前の日に店へ寄って、翔太君から預かってきた、新しい店の鍵だった。窓からの光を受けて、手のひらで小さく光っている。

差し出された鍵を見て、直は後ずさった。

「翔太たちが、どうしてもと言うんだな。気持ちだけで十分だと伝えてくれ。それは受け取れない。俺にあの店へ戻る資格はない」
「ええ、ないでしょうね」

私は頷いた。

「夫としての資格はないわ。あなたが自分で捨てたんだもの。だから、これは夫として渡す鍵じゃないわ」

私は、差し出した鍵を一旦手のひらに握り込んだ。これが道中で組み立て続けた末の、私の答えだった。許すのでも、切り捨てるのでもない。私の店の、私の決め方で、もう一度始める。

「翔太君に聞いたわよ。から揚げから焼き場まで、何でもできる調理員さんがいるって。うちは今、人手不足なの。店で働きたいなら、一人の料理人として面接に来て」

直が、目を見開いた。

「面接?」
「そう、面接。この鍵は、採用が決まった日に渡します。履歴書も書いてきてね。言っておきますけど、時給は安いわよ。新人ですから。まあ、ついてきます。世界一のがね」

直の喉が、上下に動いた。

「取るかどうかは、あなたが決めます」

私は背筋を伸ばして、今までで一番綺麗に笑ってみせた。

「私の店ですから。店主は私よ」

湯気の向こうで、直の顔がくしゃりと歪んだ。笑ったのか泣いたのか、多分両方だった。この人のこんな顔を見るのは、初めてだった。

「はい」

かれた声で、元夫は店主にそう返事をした。

駅までの道で、一度だけ振り返った。食堂の窓の向こうで、白い調理服がまだ深々と頭を下げていた。

帰り道、港の防波堤によって、私は通帳を開いた。最後のページの、几帳面な数字の列。風がページをめくろうとするのを、指で抑えた。返してもらったのは、お金じゃない。三年分の十五日という日付。あの人が積み続けた、折れない何かだ。今度はそれを、私の見ている場所で積んでもらう。海に向かって、私は小さく声に出した。

「面接、待ってるから」

かもめが、一声返事みたいに鳴いた。

それから、季節がいくつか巡った。私は弓、五十歳になった。「弓の料理店 ひより」の店主だ。開業の届けも、保険所の営業許可も、銀行の融資の書類も、今度は全部、私の名前で出した。ペンを握るたび、母の判子がバッグの中で鳴る。苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のまま。お母さん、あなたの言う通りだったわ。

開店までの数ヶ月はあっという間だった。翔太君の三冊のノートを二人で読み直し、正代さんたちとメニューの試食会を重ねる。黒田さんの支店で融資の書類に判を押し、真辺先生の事務所では、店主を私の名義に移す承諾書に署名した。どちらの判も、桜色だった。母の言ったお守りは、こういう日のためにあったらしい。

開店の初日、開店前の通りには行列ができた。先頭は、杖をついた八重さんだった。

「遅いわよ、弓さん。三年も待たせて」
「すみません。仕込みに時間がかかりました」
「うまいこと言って」

八重さんは窓際の二人掛けに座り、オムライスを綺麗に食べて、それから小さなプリンに目を丸くした。

「あら、頼んでないわよ」
「三年分のお誕生日です。お店からです」
「もう、この店は昔から料理と一緒に別のものを出すのよね」

八重さんは袂で目元を抑えながら笑った。

列の中には安子もいた。厨房は料理長の翔太君が仕切っている。ホールは正代さんと恵さん。そして、新入りと仕入れには、面接を経て採用された新入りの調理員がいる。履歴書を持ってきた日の直は、編み物みたいに固かった。緊張で膝の落ち着かない五十二歳に、私は店主として告げた。

「採用します。ただし、皿洗いからです。返事は『はい』以外、受け付けません」

仕入れを任された直が、真っ先に頭を下げに行ったのは、あの八百屋さんだった。野菜はまた、あの店から届く。その直が、先日煮込みの鍋に口を出しかけた。デミグラスの味加減が、昔の癖で気になったらしい。私はお玉を持ったまま、にっこりと振り返った。

「店主は誰でしたか?」
「弓店主です。よろしい」
「よろしい。皿溜まってますよ」

厨房の隅で、翔太君が吹き出していた。あの雷を落とされていた青年が、今は落とす側の顔で笑う。賄いの時間には、みんなで座敷の卓を囲む。誰かが冗談を言い、誰かが翌日の仕込みの話をする。湯気の向こうの顔触れを眺めながら、思う。ここはもう、母の台所に似てきた。

レジの奥の壁には、あの額が戻っている。開店の日の、若い夫婦の写真。その横に、私は母の言葉を小さな木の板に書いてかけた。

「料理は、お腹だけでなく寂しい心も温める」

ある日の午後、常連の親子連れの女の子が、看板を指さして聞いた。

「ねえ、弓って誰?」

皿を下げていた直が、腰をかがめて答えた。

「この店を作った人だよ」
「違うでしょ。みんなで作った店よ」

思わず口を挟んだ私に、直は首を横に振った。

「でも、守りたかった夢は、弓の夢だった」

全く、この人は皿洗いのくせに、時々そういうことを言う。夫婦に戻るかどうかは、まだ決めていない。信頼は通帳の数字みたいに、一円ずつしか積み上がらない。それでいいと思っている。あの人は今、逃げずに、一ヶ月ずつ積んでいる。今度は、私の見ている場所で。

閉店後、一人で表に出て看板を見上げるのが日課になった。「お前の夢は今日で終わりだ」。あの夜、この場所で私はそう宣告された。同じ場所に、今、私の名前がかかっている。夕日に照らされた「弓」の名前と、この型のオムライス。私の夢は、あの日、終わらなかった。憎まれ役を選んだ不器用な人と、「明日も来なさい」を守り続けた青年と、帰りを待っていてくれた町の人たちが、終わらせなかったのだ。だから、私は明日ものれんを出す。お腹を空かせた誰かの、寂しい心まで温められるように。この店を、母の台所のような場所に育てていきたい。

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