父の葬式から一週間後、顧問弁護士が遺言状を読み上げた。「全株式の65%を長女のひかるに。代表取締役社長はひかるが継ぐ」その瞬間、二十年来の常務だった笠原の顔色が変わった。翌日から、役員たちは私を完全に無視した。書類は渡されず、会議には出席させてもらえず、社員には「社長室に近づくな」と通達が出ていた。そして三週間後、私は役員会議室の前で、笠原の声を聞いてしまった。「十八歳の小娘に気づかれないよ…

父の葬式から一週間後、顧問弁護士が遺言状を読み上げた。「全株式の65%を長女のひかるに。代表取締役社長はひかるが継ぐ」その瞬間、二十年来の常務だった笠原の顔色が変わった。翌日から、役員たちは私を完全に無視した。書類は渡されず、会議には出席させてもらえず、社員には「社長室に近づくな」と通達が出ていた。そして三週間後、私は役員会議室の前で、笠原の声を聞いてしまった。「十八歳の小娘に気づかれないよ...

役員会議室の空気は、重く張り詰めていた。スーツを着た七人の役員たちが、分厚い机を囲んでいる。その先頭で、笠原が軽蔑の視線を送っていた。

「金髪ギャルが社長? 一日たりとも会社を任せられるわけがない。もし本当に社長なら、今すぐ我々役員全員を辞めさせてみろ」

その言葉に、役員たちは嘲笑を漏らした。廊下から見守っていた秘書室長の長瀬が、そっと声をかける。だが、少女は静かに首を振った。

「大丈夫です。心配しないでください」

机の前に、一人の少女が立っていた。ゆるふわの金髪に、明るいネイル。完璧なギャルメイクを施した十八歳の少女。それが、新社長・真木ひかるだった。

少女は役員たちを静かに見渡し、息を吐いた。

「では、そのお言葉、喜んでお受けいたします」

その静かな声が、空気を凍らせた。誰もが、その言葉の意味を測りかねていた。役員たちの運命を決める、静かで確かな宣言。父が三十五年かけて守ってきた会社を、今日ここで守るための、第一歩。

これは、父の遺志を継いだ金髪ギャルが、全役員を解任するまでの物語である。

数ヶ月前、真木興業は精密機械業界で確固たる地位を築く中堅企業だった。創業者の真木巌が二十八歳で小さな町工場から始めた会社は、腕一本で技術を磨き、三十五年後には年商三百五十億、従業員二百八十人を抱えるまでに成長していた。巌は社員一人ひとりの名前や家族構成まで把握し、誕生日には必ず電話をかける男だった。

「会社は社員と取引先のためにある。それを忘れたら終わりだ」

それが巌の口癖だった。しかし、一人だけ、その教えを例外とする人物がいた。ひとり娘のひかるである。当時のひかるは、ゆるふわ髪にルーズソックス、友人たちとショッピングモールを歩き、たこ焼きを食べて笑う、どこにでもいる十七歳の高校生だった。

しかし、家に帰れば話は別だった。真木家の食卓は、特別だった。

「ひかる、第二工場の稼働率、今月は覚えているか?」

「78. 4%です。部品の調達が三日遅れたせいで、目標を下回りました」

「原因は?」

「川本製作所の納期遅延です。サプライヤーの評価はもう確認済みです」

巌は箸を置いて笑った。

「飲み込みが速いな。ひょっとすると、私より向いているかもしれない」

「また始まったよ。私はギャルなんだから」

「ギャルでいいさ。人より倍考えられる頭があれば、それで十分だ」

ひかるが八歳の頃から、食卓には毎晩決算書が広げられた。無理強いではなく、雑談の延長として、数字の読み方を自然に語り続ける。取引先の事情、競合他社の社員の顔や名前、家族構成、強みや弱み。十年の歳月をかけて、これらすべてがひかるの頭に丹念に刻み込まれていった。巌は一度も、ひかるを後継者だとは言わなかった。しかし、その行動のすべてが、メッセージだった。

「お父さん、私、将来何になりたいのかな」

「何になりたいかより、何ができるかを磨きなさい。答えは後からついてくる」

「それ、答えになってないよ」

「今わからなくていい。目の前のことを覚え続けなさい」

当時のひかるには、その言葉の半分も理解できなかった。だが、その夏の終わりに、悲劇は突然訪れた。朝七時、秘書室長の長瀬が社長室に電話を入れたが、応答がない。不審に思った長瀬が自宅を訪ねると、巌が書斎で倒れていた。救急車で搬送されたが、意識は戻らない。診断はくも膜下出血。即座に手術が始まった。

「お父さん、頑張って、目を開けて」

ひかるは手術室の前で、壁に背をつけたまま崩れ落ちた。手術は八時間に及んだ。ひかるは待合室に一人、椅子から立ち上がることもできずにいた。ただ一人、長瀬だけが何も言わずにそばにいた。朝が来て、夜になり、また世界が明けても、長瀬はその場を離れなかった。

「社長は諦めません。社長は必ず戻ってきます」

翌朝、手術を終えて意識は戻った。しかし、その顔は、ひかるが知っている父の顔ではなかった。巌はひかるの手を握り、かすれた声で言った。

「ひかる、会社に頼る社員たちを守ってくれ」

「そんなことは言わないで。お父さんは元気になるんだから」

「それだけが……言いたかったことだ」

巌の手は冷たかったが、確かな力でひかるの手を握っていた。その三日後、早朝、真木巌は静かに息を引き取った。享年五十五歳。社葬には、二百八十人の社員全員が涙を流して参列した。取引先の代表者も多く訪れ、深く頭を下げた。

一週間後、顧問弁護士の柏木が遺言状を読み上げた。真木興業の重役会議室で、七人の役員が勢揃いする中でのことだった。

「真木巌の遺言により、全株式の65%を長女の真木ひかるに相続させる。ひかるは、代表取締役社長の職を引き継ぐこと」

その瞬間、重役会議室に重い沈黙が落ちた。笠原の顔色が変わる。

「65%だと……」

隣に座っていた今治が腕組みをしたまま、口を閉ざした。全員が同じことを考えていた。これは、法的に有効な遺言だ。自分たちの計画は、完全に覆された。

「ひかるさん。あなた宛の封筒も預かっています」

後で。ひかるは、遺言状の最後の一文を静かに読んだ。

「会社は社員と取引先のためにある。ノットリアから守れ」

父の直筆のその言葉は、ひかるの心に深く刻まれた。その夜、ひかるは母と食卓を囲んだ。目を潤ませた母が、そっとひかるの手を握った。

「あなたには、重すぎるかもしれない。でも、お父さんの選んだことだから」

「うん。できるかできないかじゃない。やるしかないんだ」

母は何も言わず、ひかるの手を握り返した。

翌月、ひかるは正式に代表取締役社長に就任した。初出社の日、スーツに着替えたひかるが会議室のドアを開けようとすると、笠原が腕を組んで立ちはだかった。

「経営経験のある者しか役員会には出席できません。お引き取りください」

「株式会社の定めにより、正式に任命されています。私には入室する権利があります」

「手続きはどうであれ、実務は我々が回します。ご安心ください、社長」

「社長」という言葉には、明確な嘲笑が込められていた。役員たちはひかるに背を向け、それぞれの業務に向かった。ひかるの屈辱の日々は、この日から始まった。

就任一週間が経っても、社長宛の書類はひかるに渡されなかった。「書類の検証が不十分」という言い訳が繰り返された。就任十日目、ひかるは重要な取引先との契約書を確認しようとしたが、契約書庫の鍵は笠原の机の中にあった。

「社長宛の書類は会社の資産です。適切に管理されるべきです。社長が確認できない契約書は、適切に管理されているとは言えません」

「では、役員会で議題にしましょうか」

「次の日程を調整します」

もちろん、その「次の日程」が何週間後になるのか、誰にもわからなかった。就任初日の夕方、大口取引先の担当者から電話があった。

「真木さんから直接ご連絡をいただき驚きました。笠原常務から、社長への連絡はすべて笠原経由になると伺っていましたので」

笠原が、取引先との連絡ルートをすべて握っていたのだ。ひかるは電話を切り、静かに置いた。社長就任の挨拶も「日程調整中」と言われ続け、結局なくなってしまった。役員会議の日程も知らされず、後から「議事録の写し」だけが送られてきた。ひかるは社長室と呼ばれる小さな部屋に、毎日一人で座っていた。社員たちも、ひかるに話しかけることを躊躇していた。笠原が「社長室に近づくな」という通達を出していたからだ。

「社長、お茶をお持ちしました」

「今日は回覧された書類はありましたか?」

「はい。でも、それは……」

「長瀬さん、聞いてもいいですか?」

「何でもお聞きください。私にできることなら」

「最近、外の会社が出入りしていると聞きました。グローバル・アセット・パートナーズというファンドらしいのですが」

長瀬美子は、創業以来二十年間、巌の秘書を務めてきた女性だった。役員たちが暴走を始めてから、ひかるのことを密かに案じていた。彼にとって、ひかるは巌から引き継いだ大切な存在だった。ひかるはメモアプリにそのファンドの名前を記録した。

ある日、昼前。笠原が新しいファンドの担当者をVIPとして迎えていた。廊下でばったり出会っても、笠原はひかるに見向きもしなかった。自分の会社なのに、まるで透明人間のように扱われる。就任三週間目の午後、ひかるは役員会議室の前を通りかかった。分厚いドアの向こうから、笠原の声が漏れ聞こえてきた。

「グローバル・アセットは来月末までに最終合意を求めてきている。売却益は我々七人で分配する。報酬という名目で処理すれば、税務上のリスクは低い」

「十八歳の小娘に気づかれないように進めるぞ。数字も読めないだろうからな」

ひかるは廊下に立ち尽くしたまま、すべてを聞いた。会社を新興ファンドに密かに売却し、その売却益をリベートとして分配する計画。父が三十五年かけて築いた会社が、売られようとしている。二百八十人の社員の仕事が、数人の私欲によって奪われようとしている。ひかるは廊下で歯を食いしばり、拳を強く握った。絶対に、そんなことはさせない。しかし、まだ動くわけにはいかない。証拠も、権限行使の方法も、まだ何もなかった。

その夜、ひかるは社長室に一人残り、入手できた書類を整理した。父が経営していた頃と、笠原が主導権を握ってからの決算書を照合し、不審な支出が別の名目に付け替えられているのを発見した。しかし、それが正式な証拠として使えるかどうかは、専門家に相談する必要があった。

就任一ヶ月後の金曜日、役員会で笠原はひかるを試した。

「前年度の営業利益を言ってみろ。社長なんだからな」

役員全員が、にやにやしながらひかるを見た。

「前年度は経費が0. 8%減の十二億三千万円です。主な課題は、原材料費の高止まりと第三工場の稼働率低下です。設備投資の前倒しを提案します」

一瞬、会議室が静まり返った。誰も予想していない回答だった。

「お父さんに数字を叩き込まれたからね」

役員たちは、どっと笑い声を上げた。ひかるはそれ以上、何も言わなかった。怒りを表しても何も変わらないと、ひかるは悟っていた。怒りを飲み込み、静かに部屋を出た。廊下を歩きながら、父の言葉が頭に響いた。

「できることを磨け、答えは後からついてくる」

しばらく歩くと、社員が一人、ひかるに近づいてきた。第三工場のチームリーダーで、業界歴二十年のベテランだった。

「社長、我々は応援しています」

それだけ言うと、男はすぐに廊下の向こうへ消えた。笠原の目があるから、それ以上は言えなかったのだろう。ひかるは軽くうなずき、前を見た。その言葉が、ひかるの背中を温かく押した。

その夜も、ひかるは社長室で一人、書類と向き合った。消灯した会社の中で、社長室の灯りだけがついていた。決算書のページをめくり続け、数字の変化を追う。五年前の父の時代と、二年前から笠原が主導した時代を比べると、役員報酬の欄に不自然な増加が見られた。外注費の項目に、具体的な説明のない支出がある。まだ証拠として十分ではない。しかし、方向性は見えた。

―これが、お父さんが気づいていたことなんだ。

呟きながら、ひかるはノートに書き続けた。深夜一時を過ぎても、ひかるはペンを置かなかった。やがて、警備員が廊下を通りかかり、社長室の灯りに驚いた。

「おや、社長、まだいらっしゃったんですか」

「はい。少し調べものがしたくて」

「お疲れさまです」

警備員は一瞬何か言いかけて、やめた。そして、小さく呟いて、廊下の向こうへ消えていった。

「頑張ってください」

二百八十人のうちの一人が、確かにひかるの味方だった。

次の重要な会議で、笠原はついに言った。

「金髪ギャルが社長とは笑わせる。さっさと辞めさせろ」

そして、ひかるは静かに答えた。

「では、そのお言葉、喜んでお受けいたします」

その夜、ひかるは初めて、父の書斎を丁寧に整理した。本棚の奥に、三冊の古いノートが並んでいた。「社長の日記」と題されたそれらは、五年前から始まっていた。最初のページには、こう書かれていた。

「笠原は変わった。会社のことより、自分のことしか考えていない」

ページをめくるごとに、笠原への疑念が詳細に記されていた。接待費の水増し請求、外注費の架空計上、グローバル・アセット・パートナーズとの密約。会社を売却した後、七人の役員がそれぞれ五億円のキックバックを受け取る計画。父は、すべてを知っていた。そして、すべてを記録していた。三冊目の日記には、こんな言葉もあった。

「笠原には能力がある。だからこそ、欲が出た。ひかるには人を見る目と数字を読む力がある。この二人なら、会社を守れる。そう信じている」

「お父さん……ずっと、私を信じてくれていたんだね」

ひかるは日記を胸に抱きしめ、しばらく動けなかった。十年間、娘を信じて準備を続けていた父の想いが、胸に突き刺さる。三冊目の日記の最後のページには、封筒が挟まれていた。

「ひかるへ。困ったら、柏木弁護士に渡しなさい。愛している。父より」

一滴の涙が、ひかるの目からこぼれ落ち、畳に落ちた。しかし、泣いている暇はなかった。ひかるは立ち上がり、電話をかけた。

「柏木さん、お休みのところすみません。父の日記に挟まれていた封筒を見つけました」

「それはよかった。巌さんから頼まれていました」

「あなたは知っていたんですか? 封筒の中身は?」

「役員全員の名前と、分配の証拠が記された書類のコピーです。準備を整えておきましょう」

柏木博之は、真木興業の顧問弁護士であり、巌とは学生時代からの親友だった。彼は、娘のために三週間前から証拠の整理を始めていた。父は、役員たちが暴走した場合に備えて、ひかるが使えるように準備をしていたのだ。封筒の中には、三百枚を超える証拠書類のコピーが入っていた。経費精算書、非公式な役員会メールのプリントアウト。三週間でまとめたものではない、完璧な証拠の数々。柏木は静かに封筒を受け取り、これで戦える、と言った。

翌日、ひかるは柏木の事務所で、公認会計士も交えた検討会を持った。すべての書類を確認した会計士は言った。

「これは十分な証拠です。65%の株式を持つ筆頭株主として、臨時株主総会を招集できますか?」

「単独過半数があれば、会社法上可能です。招集通知から二週間かかります」

「請求額はどのくらいになりますか?」

「公認会計士の試算では、三億二千万円以上です。業務上横領と特別背任の罪が適用できるという見解が出ました」

「では、手続きを進めてください」

「ひかるさん、よく二ヶ月耐えました。お父さんは、すべてあなたのために準備していたんですよ」

「私がしなければならないのは、それを使うだけなんですね」

「巌さんは、最後まであなたのことを考えていました」

「わかっています。だからこそ、絶対に守らなければならないんです」

証拠が揃い始めた頃、一通のメッセージが届いた。

「社長、お渡ししていないものがあります。巌社長から預かっていたものです。これは、笠原常務が密かに進めていた株主総会の議決権行使書の写しです。全員が署名しています。全役員が、悪質ファンドへの売却に同意したことが書かれています。証拠は、すべて揃っています」

ひかるは、ゆっくりと深く息を吐いた。

「柏木さん、招集通知を出してください。お願いします」

「わかりました。臨時株主総会は二週間後です」

臨時株主総会の招集通知が、真木興業の全役員に送付された。

「招集? 私が承認するはずがないだろう」

「これは、真木ひかるの株主としての招集権に基づく正式な通知です。出席は義務です」

笠原の表情が変わった。法律に従った正式な手続きに、拒否する理由はなかった。笠原はすぐに顧問弁護士に連絡したが、対応は困難という回答だった。今治が笠原に、ひかるがどこまで調査しているのかを何度も尋ねた。しかし、笠原にも確認する術はなかった。

その夜、ひかるは静かに仏壇の前に座った。何も言わずに、ただ、写真の中の父の顔をじっと見つめた。

「お父さん、やってみるよ。お前が守ってきたものを、私が守る」

写真の中の巌は、いつもの優しい笑顔だった。

臨時株主総会の前夜、ひかるは社長室で最終確認を行った。証拠書類を順に並べ、想定される質問と回答を声に出して練習した。笠原が強く異議を唱えた場合、手続き上の問題を指摘した場合。どんな展開にも即座に応じられるよう、何度も同じことを繰り返した。深夜を過ぎた頃、長瀬から短いメッセージが届いた。

「明日、社長を信じています。おやすみなさい」

「ありがとうございます、長瀬さん」

ひかるはスマートフォンを置き、窓の外を見た。品川の夜景が広がり、無数の灯りが静かに輝いている。その一つひとつの灯りの背後に、誰かの生活と仕事がある。

二週間後、午前十時。臨時株主総会が始まった。会場は真木興業の重役会議室で、機関投資家の代表と七人の役員が招集された。社員たちは廊下に集まり、固唾を飲んで会場の外で待っていた。

「何が始まるんだ?」

「社長を信じよう」

廊下で、長瀬が静かに社員たちを落ち着かせていた。

「大丈夫です。社長を信じましょう」

ひかるはスーツ姿で議長席に着いた。金髪は同じでも、目に宿る光は二週間前とは違っていた。机に並べた書類を一度確認し、静かに顔を上げた。

「株主確認。65%の株式を所有する筆頭株主、真木ひかるの出席を確認しました。機関投資家の代表者の出席も、確認しました」

「待て。この総会には手続き上の瑕疵がある。無効だ」

「会社法に基づく正式な手続きです。瑕疵はありません」

「ひかる君、君は十八歳だ。経営の現実がわかるはずがない。我々はこの会社を二十年支えてきた。わかってほしい」

「わかっています」

ひかるは静かに、しかし確かな口調で続けた。それは、二十年間の役員たちの行為を、すべて説明するためのものだった。

「笠原さん。先日、役員会で言いましたよね。『本当に社長なら、役員全員を辞めさせてみろ』と。私、そのお言葉にお応えします。役員全員の解任を決議します」

会議室が静まり返った。役員たちは全員、あの言葉を覚えていた。柏木が机上に決議案を配布した。

「第一号議案、役員全員の解任。賛成の方は、挙手をお願いします」

ひかるは静かに右手を挙げた。機関投資家の代表者も、無言のまま手を挙げた。

「賛成率85%、圧倒的多数で原案は可決されました」

ひかるは「それで」と言いかけて、柏木が見つめるのを見て、口を閉じた。他の役員たちは互いを見合ったが、誰も動かなかった。笠原が立ち上がり、机を叩いた。

「こんな決議、認めるわけにはいかない。この会社を二十年支えてきたのは、この私だ」

「笠原さん、どうぞこちらを」

ひかるは封筒から書類を取り出し、静かに机の上に並べた。役員報酬の水増しを証明する書類、受注斡旋料の流用、グローバル・アセット・パートナーズとの秘密文書のやり取り、全役員が署名した株式売却の合意書。それらがすべて、テーブルの上に広げられた。

「そんな書類、どこから……。誰が、すべての裏で糸を引いていたんだ?」

「父が、残してくれていました。父は、ずっとあなたたちを見ていたんです」

笠原は震える手で書類を手に取り、自分の目で確認した。すべてが本物であることを、笠原は誰よりもよく知っていた。

「今日中に、背任と横領の証拠として警察に提出します」

笠原の顔から、瞬時に血の気が引いた。他の役員たちも、一人また一人と椅子に沈み込み、うつむいた。

「待て、話し合いで解決できるはずだ」

「会社を売却して、一人五億円のリベートを分配する話し合いですか?」

笠原は口を開いたが、言葉が出なかった。役員たちも、誰一人として反論できなかった。父親に十年かけて鍛えられた少女は、騙されることはなかった。

しばらくして、会場のドアが静かに開いた。警察官が二人、部屋に入ってきた。

「笠原常務、お願いします」

笠原は辺りを見回したが、同僚の役員たちは誰一人として目を合わせなかった。肩を落として立ち上がった笠原の背中は、初めて小さく見えた。次に、今治が呼ばれた。残りの役員たちも、静かに自分の名前を呼ばれ、静かに立ち上がった。七人全員の名前が、役員の名簿から消えた。

総会終了後、ひかるは本社エントランスに全社員を集めた。廊下にいた社員たちが、入口に整列した。第三工場のチームリーダーが、ひかるを見るなり深く頭を下げた。それに引き込まれるように、社員たちも次々と頭を下げた。

「お待たせしました。今日をもって、役員体制を一新します。私は、あなたたちの仕事を守ります。これは、父との約束です」

社員たちは唇を噛みしめ、目を赤くした。入口に、大きな拍手が響いた。「社長」という声が、廊下に響き渡る。ひかるは全員に、深く頭を下げた。金髪が揺れて頭を下げる姿に、再びすすり泣く声が聞こえた。顔を上げると、社員たちは温かい目でひかるを見つめていた。

「父は言っていました。『会社は社員と取引先のためにある』と。私は、その言葉に従って会社を経営していきます。引き続き、よろしくお願いします」

拍手は鳴り止まなかった。入口は、笑顔と涙で溢れていた。気づけば、ひかるの目にも涙が溢れていた。金髪がそっと揺れ、ひかるの顔に、父と同じ笑顔が浮かんでいた。

翌日、大口取引先の担当者から、ひかるの携帯に直接電話があった。

「真木社長。昨日の話は、もう業界中に広がっています。ぜひ、今後も真木興業とお取引を続けさせてください」

ひかるは、電話を持つ手が少し震えていることに気づいた。

「はい。ぜひ、よろしくお願いします」

ひかるは笑顔で答えた。その日の午後、ひかるは初めて第三工場のフロアを歩いた。機械の音が工場内に響き、チームリーダーが機械を止めて振り返った。二十人の作業員が、全員でひかるの方を向いた。

「社長、来ていただいたんですか」

「ずっと来たかったんです。会社が回っているのは、みなさんのおかげです」

誰も何も言わなかった。ただ、静かにうなずいた。ひかるは工場の隅々まで歩き、機械の名前を一つ一つ確認した。チームリーダーが隣を歩きながら、機械の説明をする。三年前に導入した設備で、笠原常務に却下された改造提案があったこと。チームリーダーは、苦い思いを込めてそう語った。ひかるは隣でメモを取った。

「この改造提案、もう一度提出してください。検討します」

チームリーダーは一瞬立ち止まり、驚いた顔で聞いた。

「本当ですか?」

彼は、こんなに丁寧に話を聞いてくれる社長に、これまで出会ったことがなかった。

臨時株主総会から三ヶ月が経ち、真木興業は新体制の下で業績を順調に回復させていた。柏木が新会長に就任し、長瀬が役員に昇格した。笠原ら元役員は全員起訴され、刑事裁判が始まろうとしていた。横領、背任、特別背任の罪。会社が悪質ファンドに売却されていたら、二百八十人全員の雇用は消えていた。ひかるは数字を再度確認し、静かに目を閉じた。怒りは消えていた。残ったのは、静かな安堵だった。密かな売却計画は完全に失敗し、取引先からの信頼も戻り始めていた。第三工場では、チームリーダーの指導のもと、残業なしで販売目標を達成した。社長を守ろうという雰囲気が、静かに広がり始めた。笠原がいた頃は言えなかった意見が、会議で次々と出始めた。「改善提案」という言葉が、社内のあちこちで聞かれるようになった。

ある朝、ひかるが出社すると、入口に花束が置かれていた。取引先の山崎電機からの祝い花だった。社長就任の祝いが、遅れて届いたのだ。本物だと確信できてから送ってきたのだろう。ひかるは花束を手に取り、社長机の隣に飾った。誰も訪れなかった小さな社長室に、少しずつ変化が現れていた。

一方、笠原は自宅で、家族とも連絡を取らずにいた。「自分がこの会社を築いた」と言っていた男は、今、自宅で一人、裁判を待っていた。十八歳の娘を「何ができる」と嘲笑った男は、その小さな娘にすべてを暴かれた。皮肉な逆転だった。

「お母さん、経営の学校って、やっぱり難しいのかな?」

「できるわよ。あなたはあの台帳を全部読めるんだから」

「大学に通いながら社長をやってる人もいるの?」

「いるわ。あなたも、その一人になれる」

「うん。お父さんに恥じない経営者になるよ」

ひかるは柔らかく微笑み、手にした湯飲みのお茶を一口含んだ。食卓でいつも父が広げていた台帳の数字が、頭の中をよぎる。あの頃は理解できなかった数字が、今はすべて読める。父が十年かけて教えてくれたことは、ひかるの一部になっていた。

ひかるは、毎朝出勤前に仏壇に手を合わせるようになった。

「お父さん、今日も行ってくるね」

答えはない。しかし、いつもそこにいるような気がした。ひかるは今日も、金髪ギャルのまま、会社へ向かう。父の遺志を胸に、二百八十人の未来を守るために。かつて彼らが嘲笑った少女が、本当の敵が誰だったのかを、今や彼ら自身が思い知っている。あの傲慢な朝が、自らの没落を招いたのだ。これは、正しく生きた父の愛が、確かに娘に受け継がれた物語である。

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