「おじちゃん、いも100個買ってください」
その声で、俺は商店街の外れで足を止めた。時間に遅れそうで、よそ見をする余裕なんてなかった。なのに、その声だけはどうしてか足を止めさせた。
見下ろすと、5歳の女の子がいた。俺の腰くらいまでしかない。両手で自分の体よりも大きそうなダンボール箱を抱えている。中には土のついたじゃがいもが山のように積まれていた。
女の子はもう一度、俺を見上げていった。
「100個買ってください。お願いします」
たどたどしい声だった。だけど、その目だけは妙に必死だった。通りの奥には、シャッターが半分閉まりかけた古い八百屋が一軒あった。色あせた赤い日除けに、掠れた字で「やおや」と書いてある。店先には誰もいなかった。
俺はため息をついた。正直に言えば、面倒だと思った。子供の遊びに付き合っている暇はない。そう思いながらも、箱の中のじゃがいもから、なぜか目を離せずにいた。
この小さな女の子との出会いが、俺が長い間忘れたふりをしてきたものを静かに掘り起こすことになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。
俺の名前は河合修平。43歳。この町で温泉旅館「松風」を営んでいる。松風は、亡くなった妻の実家が代々続けてきた宿だ。俺は12年前にこの家へ婿として入り、義父の後を継いだ。従業員は20人ほど。山あいの小さな宿だが、料理が評判でなんとか経営の舵を守ってきた。
妻の名前は奈緒と言った。2年前、病でこの世を去った。不幸中の幸いだったのは、俺たちの間にはまだ子供がいなかったことだ。母親と離れ離れになった我が子なんて、見るに耐えない。苦しむのが俺だけで良かった。
妻を見送ってから、俺は変わったと思う。人に笑うことが減った。宿のことも、数字と効率でしか考えなくなった。仕入れも、手間のかかる地元の店はやめて、トラックでまとめて運んでくる業者に全て切り替えた。その方が安いし、楽だったからだ。
あの女の子に出会ったのは、ちょうどそんな時期のことだった。
妻が生きていた頃、松風の食卓にはいつも湯気が立っていた。奈緒は料理が好きな人だった。宿の厨房に立つのは板前の仕事だったが、奈緒は奈緒で、仲居や常連さん向けの小鉢を毎日せっせと作り出めた。中でも評判だったのが、奈緒の肉じゃがだ。出しを効かせて少し甘めに炊いた肉じゃがは、ほっくりと崩れるじゃがいもが口の中でとろけるようだった。
奈緒はよく言っていた。
「この宿はね、誰かのお帰りを待つ場所でいたいの。遠くから来てくれたお客さんに『ただいま』と言ってもらえる宿でありたい」
それが奈緒の目指すところだった。俺が松風に婿に入ったのも、元を言えば奈緒に惚れたからだ。よそ者で身寄りのない俺を、奈緒は分け隔てなく受け入れてくれた。義父も口は悪いが情の深い人で、俺を本当の息子のように接し、宿の仕事を仕込んでくれた。俺はこの宿で初めて、帰る場所というものを手に入れた気がしていた。
ある日、その義父が病で倒れた。見つかった時には、もう手の施しようがなかった。あっという間だった。半年も経たないうちに、奈緒も病に倒れた。見つかった時には、もう何もできなかった。
俺はしばらく何も手につかなかった。夜になると、奈緒のいない部屋でただ天井を見ていた。宿を放り出すわけにはいかないと頭では分かっていたけれど、体が動かなかった。
それから、俺は肉じゃがを宿の品書きから外した。誰も奈緒のようには作けなかったし、何よりあの匂いを厨房でかぐのが辛かったからだ。妻を失ってからの俺は、まるで別人のようになった。朝起きて帳簿を見て、原価を削る。それが俺の1日になった。お客さんの顔より数字を見ている方が楽だった。笑わなくてもいい。期待しなくてもいい。誰かを大切に思って、また失う。あの痛みを、もう2度と味わいたくなかった。だから俺は心に分厚い壁を作った。
従業員たちも、そんな俺にだんだん何も言わなくなった。古くからいる仲居が、思切ったように1度だけ言ったことがある。
「旦那さん、近頃笑わなくなりましたね」
俺は笑って、「宿が回るなら苦労はない」とだけ答えた。仲居は悲しそうな顔をして、それきり黙った。
1度、こんなこともあった。常連の老夫婦が久しぶりに泊まりに来て、「奈緒さんの肉じゃが、もう食べられないのかね」とフロントで遠慮がちに尋ねてきた。俺は「申し訳ありません。今はやっておりません」とだけ事務的に答えた。それだけだった。あの肉じゃが誰かにとってどれほど大切な思出だったのか。その時の俺は、考えようともしなかった。
あの宿は料理は上等だが、なんかよそよそしくなったね。後でそんな口コミを見つけて、俺はふんと鼻で笑った。よそよそしくて結構。情けで宿は守れない。本気でそう思っていた。
そして、俺は商店街そのものを避けるようになっていた。理由は宿の効率だけではなかった。実を言うと、俺はこの町の生まれだ。婿に入る前からこの土地を知っていたけれど、それは思出したくない時代の話だった。
子供の頃、俺の家はとにかく貧しかった。父は俺が小さいうちに家を出ていき、母が1人で俺を育てていた。母はいくつもの仕事をかけ持ちして、家にいないことが多かった。朝早くに出て行って、帰ってくるのはいつも俺が寝た後だった。冷蔵庫はいつも空っぽぽに近かった。腹をすかせて、暗い台所にポツんと座っていた夜のことを、俺は今でもよく覚えている。電気をつけるのももったいなくて、膝を抱えて母の足音をただ待っていた。
俺の右手の甲には、小さい火傷の跡がある。あれは空腹のあまり、1人で夜間の湯を沸かそうとして、火にかけた夜間を倒した時のものだ。湯が手にかかって、俺は声も出せずにうずくまった。今でもうっすらと、引きつれたような跡が残っている。袖の長い服を着るのは、その頃からの癖だった。あの後を人に見られたくなかった。あれは俺の貧しさの印のようなものだったからだ。
それでも不思議と、あの子供時代を思返すと、苦しさの記憶ばかりではなかった。腹をすかせてとぼとぼと歩いていた帰り道。どこかで誰かが温かいものを握らせてくれた。そんなぼんやりとした感触だけが、なぜか心の隅に残っていた。けれど、それがいつ、どこでのことだったのか、長い間俺は思い出そうともしなかった。思い出せば、あの貧しさごと全部蘇ってきそうで怖かったのだ。
俺が10歳になる頃、母は体を壊した。養生のために母の遠い親戚を頼って、俺たちはこの町を出た。それっきり、俺はこの土地に戻らないつもりだった。昔の貧しさを誰にも知られたくなかった。母もろくに体が休まらないまま、俺が二十歳の時に亡くなった。最後まで俺に頭を下げ続けるような人生だった。
だから奈緒と出会って再びこの町へ戻ってきてからも、昔住んでいた辺りにはほとんど近づかなかった。商店街にも、用がなければ足を向けなかった。あそこには、腹をすかせて俯いて歩いていた子供の自分が、まだ立っている気がしたのだ。
俺は自分の力でここまで来たのだと思っていた。誰の世話にもならず、歯を食いしばって、よそ者から宿の主人にまでなった。だから人にも甘い顔はしない。それが俺の生き方だと信じていた。
そんな俺が、12年ぶりにあの商店街の通りへ足を踏み入れることになった。きっかけは町内会の寄合だった。古くからの旅館組合同の集まりが、たまたま商店街の集会場であったのだ。気は進まなかったが、宿の主人として出ないわけにもいかなかった。だから俺はその日、あの通りを歩いていた。気が重いまま、足元ばかり見て。そして、あのダンボール箱を抱えた女の子に出くわしたのだった。
「100個買ってください。お願いします」
女の子はもう一度、同じことを言った。俺はしゃがんで、目線を合わせた。誰かにこんな風にしゃがむのも、随分久しぶりだった。
「100個も、おじさん1人じゃ食べれないよ。どうしてそんなにたくさん売りたいんだい」
女の子は、ギュッと箱を抱え直した。
「いっぱい売れたら、じじが元気になるから」
「じじ?」
その言葉を聞いて、俺は通りの奥の八百屋に目をやった。「やおや」。シャッターが半分降りた古い店だ。その時、店の奥からしわがれた声が飛んで来た。
「ひまり、こら。お客さんに迷惑をかけるんじゃない」
腰の曲がった白髪のおじいさんだった。前かけをして、足を引きずるようにして出てくる。会話の内容から察するに、女の子の祖父らしかった。
「すいません、すいません。この子が勝手なことを」
おじいさんは何度も頭を下げた。日に焼けた、ささくれだった手だった。長い間、土と野菜に触れてきた手だ。女の子はひまりと呼ばれていた。おじいさんはひまりの腕を掴んで店に戻そうとしたけれど、ひまりは依然としてダンボール箱を離さなかった。
「だって、じじがなくなるって泣いてたもん」
おじいさんの顔がくしゃっと歪んだ。何か言いかけたけれど、言葉にならず、ただひまりの頭に手を置いた。そんな、不器用な仕草だった。
2人のやり取りを見た俺は、なぜかしばらく動けずにいた。「よかったらお茶でも」と進められて、俺は促されるまま店の中へ入った。そこは畳1枚ほどの土間に、野菜の木箱が並んでいるだけの小さな店だった。聞けば、八百屋はもう何十年もこの商店街で野菜を売ってきた店だという。けれど、近くに大きなスーパーができてからは、客足がすっかり遠のいた。仕入れに行っても、売れ残れば捨てるしかない。おじいさん1人では、もう配達も力仕事も追いつかない。店は今月いっぱいで畳むかどうかという、瀬戸際だったようだ。
それを5歳のひまりは、子供なりに分かっていたらしい。じじが夜中にため息をついているの。電卓を叩いて肩を落としているの。布団の中でじじが小さく泣いているのを、ひまりは聞いてしまったのだという。だからひまりは考えた。野菜がたくさん売れれば、じじはまた笑う。それなら自分が売ればいい。通りを行く大人を捕まえて、「100個買ってください」と頭を下げる。それが5歳の女の子が思いつき、実行できる精一杯の作戦だった。
じじを助けたい。その一心で、ひまりは重いダンボール箱を抱えて店の前に立っていたのだ。俺はその話を聞きながら、ひまりの小さな手を見ていた。土で爪の間まで黒くなった、小さな小さな手。重い箱をずっと抱えていたのだろう。手のひらには赤い擦り傷もあった。
5歳の子が、ここまでするのか。胸の奥がズキリと痛んだ。まるで昔の自分を見ているようだった。誰にも頼れず、自分の力だけでなんとかしようとしていた、子供の自分を。
俺は気づけば、無意識のうちに自分の財布を取り出していた。
「おじさん、旅館をやってるんだ。そこで出すから、じゃがいもをもらおうかな」
ひまりの顔が、パッと明るくなった。
「本当? 100個?」
「100個は多いから。そうだなあ。まずは10個」
ひまりはそれでも嬉しそうに、土のついたじゃがいもを1つ1つ数えて袋に入れてくれた。1、2、3と。途中で何度も数え間違えて、シンが次が出てこなくて最初から数え直す。それを何度も繰り返した。
「えっとね、1、2、3。あれ? 3の次、何だっけ?」
「4だよ」
「そうだ。4」
そう言って、にっこり笑う。その笑顔を見ていたら、急いでいたはずの寄合のことなんて、すっかりどうでも良くなっていた。おじいさんは申し訳なさそうに、それでもどこか救われたような顔で俺を見ていた。
「兄さん、ありがとうございます。こんな子供の言うことに付き合ってもらって」
「いえ、本当にうまそうなじゃがいもだったからですよ」
そう言うと、おじいさんは照れたように鼻の頭をかいた。店を出る時、俺はもう一度店先を振り返った。色あせた赤い日除け。店先に並んだ土つきの野菜。そして奥から漂ってくる、土とダンボールと青物の匂い。それがなぜか、ひどく懐かしかった。胸の辺りがギュッと掴まれるような感じがした。俺はこんな店、来たこともないはずだった。それなのに、この匂いを俺は知っている気がした。胸の奥で何かが小さく軋んだけれど、その意味を俺はまだ掴めずにいた。
その夜、俺は宿の厨房で買ってきたじゃがいもを袋から出してみた。土がついて、大きさもバラバラで、形もいびつだった。業者から届くじゃがいもとはまるで違うけれど、とにかくずっしりと重かった。手にすると、なぜか手のひらがその重さを覚えているような気がした。俺はひとまず、ふかしてみようと思った。気づけば蒸して、塩を振って1つ口に入れていた。ホクホクと甘かった。その瞬間、ずっと奥にしまい込んでいた遠い記憶の扉が、わずかに開いた気がした。
お腹空いてるんだろう? これ持っておいき。誰かの声がした。温かい女の人の声だった。手のひらには、ほかほかと湯気を立てる蒸したじゃがいもの感触。けれどそれが誰の声だったのか、いつのことだったのか、どうしても思い出せなかった。モヤがかかったように、その記憶はぼんやりとしていた。
次の日も、俺は無意識のうちに商店街へ足を運んでいた。なぜ、特に理由もないのにこの店に来たのか。自分でもうまく説明がつかなかった。あの店のことが、どうにも頭から離れなかったのだ。店の前に立つと、またひまりが飛び出してきた。
「あ、じゃがいものおじちゃん」
すっかり覚えられていた。ひまりは俺の手を引いて、店の中へ連れて行こうとする。
「今日はね、にんじんが甘いよ。じじが言ってた」
店の奥では、おじいさんこと田島豊造さんが野菜を並べていた。腰をかがめながら、ゆっくりと1つ1つ。俺はにんじんと玉ねぎとほうれん草を買った。大した量ではなかったけれど、豊造さんはまるで大口の客のように丁寧に新聞紙で包んでくれた。
「兄さん、旅館をやってるんだってね。ひまりから聞いたよ」
「ええ、松風という小さな宿です」
「松風さんかい? 立派な宿だ。うちの野菜なんかでよけりゃ、また来てくれ」
そう言って、豊造さんは深く頭を下げた。
それから俺は、毎日八百屋に通うようになった。最初はほんの少しの野菜を買うのみだったけれど、毎日通ううちに俺は気づいた。豊造さんの野菜は、土はついているし形も揃ってはいないが、味がピカイチだった。にんじんは香りが濃く、ほうれん草は甘い。じゃがいもは煮ても崩れず、ほっくりと仕上がる。品物では味わえない味だった。豊造さんは野菜の見分け方を、つぶさに教えてくれた。
「じゃがいもは、ずっしりとくて目の出ていないものがいい。にんじんは、葉っぱの付け根が小さい方が柔らかい」
俺は宿の主人のくせに、そんなことも知らなかった。これまでは業者が選んだものを、ただ受け取っていただけだったからだ。そのうち俺は、店の手伝いまでするようになった。仕入れの荷を店の奥へ運ぶ。重い大根の箱を棚に上げる。腰の悪い豊造さんには、もう辛い仕事だった。最初は断られた。お客さんにこんなことをさせられないと。けれど、俺が「いいんですよ。これも運動です」と言って勝手に体を動かしているうちに、豊造さんも「ありがとうな」と任せてくれるようになった。
店の奥の小さな机の上に、写真が1枚立ててあった。割烹着を着た小柄なおばあさんが、店先で笑っている写真だった。
「うちのやえだよ。6年前に行っちまった。この店は、こいつが半分。あ、いや、8割方回していたようなもんだ。わしは力仕事だけ。帳簿も子供の相手も、全部こいつの役目でなあ」
俺はその写真をしばらく見ていた。とても優しそうなおばあさんだった。けれど、その顔に見覚えはなかった。少なくとも、その時の俺にはそう思えた。
ひまりは俺が来るたびに、店の前で待っていた。
「おじちゃん、今日も来る? 明日も来る?」
「ああ、来るよ」
「約束」
「約束だ」
ひまりは小指を差し出してきた。俺はゴツゴツした自分の小指を、その小さな指に絡めた。指切りなんて、何年ぶりだろう。ひまりの指は驚くほど小さくて、温かかった。
ひまりは母親と暮らしていなかった。聞けば、ひまりの母親、豊造さんの娘の美沙さんは、町の方で働いているという。夫とは数年前に別れ、女手一つでひまりを育てていたけれど、店の借金もあって暮らしは楽ではない。美沙さんは住み込みの仕事を見つけて、稼いだお金を家に入れる。ひまりはその間、祖父の豊造さんに預けられていたのだ。ママは月に1度帰ってくるかどうかだという。ひまりは寂しいとは言わなかったけれど、夜になるとママの匂いのする古いハンカチを握って眠るのだと、豊造さんがこっそり教えてくれた。
「ママはね、お仕事頑張ってるの。ひまりも頑張るの」
そう言って、ひまりは胸を張った。5歳の子が、母とじじのために見張っている。俺はその小さな背中を見ているのが辛かった。同時に、放っておけなかった。
ある日、ひまりが店先の地面に木の枝で絵を描いて俺を待っていた。下手くそな太陽と家と、棒人間の絵だ。
「これね、じじとママとひまり」
そう説明して、それからひまりは棒人間をもう1人書き足した。
「で、これが、じゃがいものおじちゃん」
俺はその絵を見て、何も言えなくなった。いつの間にか俺は、この小さな女の子の世界の中に、家族のように書き込まれていた。喉の奥が詰まった。
ある日、俺は厨房で買ってきたじゃがいもを煮てみた。肉じゃがだった。奈緒が死んでから、1度も作らなかった料理だ。出しを引いて、玉ねぎを炒め、肉を入れ、じゃがいもを加えて甘めに炊く。奈緒がいつも作っていた手順を、体が覚えていた。鍋の中でじゃがいもがことこと音を立てる。甘い出しの匂いが立ちのぼってくる。炊き上がった肉じゃがは、奈緒のものにはまだまだ及ばなかったけれど、じゃがいもだけはほっくりと甘かった。
俺は一口食べて、箸を止めた。厨房に、奈緒の肉じゃがの匂いが戻ってきていた。忘れていた匂いだった。胸の奥がじんと温かくなった。同時に、目の奥がツンと痛んだ。
奈緒。と思わず声に出しそうになった。
俺はその肉じゃがを皿に取り分けて、翌日八百屋へ持っていった。豊造さんとひまりに食べてもらいたかったのだ。豊造さんは一口食べて、目を細めた。
「うまいなあ。うちのじゃがいもが、んなごちそうになるとはな」
ひまりはほっぺたを両手で抑えて、足をバタバタさせた。
「おいちい! ひまり、これ好き!」
その顔を見て、俺はまた目の奥が熱くなった。誰かに自分の作ったものを美味しいと言ってもらう。その人がほっぺたを抑えて、足をバタバタさせる。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいものだったのか。奈緒がなぜあんなに料理を楽しそうに作っていたのか、今になってようやく分かった気がした。奈緒はこの顔が見たかったのだ。お客さんの、ほっとしたこの顔が。俺はそのことを、すっかり忘れていた。
その日から、八百屋に行くのが俺の一番の楽しみになった。朝目を覚ますと、今日はひまりに何を持っていってやろうかと考える。宿で余った煮物の1つを、こっそり包んで。そんなことを考えている自分に気づいて、俺は少しおかしくなった。2年間、何を見ても何を食べても灰色だった毎日に、小さな色が1つ2つと戻ってくるようだった。
ある日、ひまりが熱を出して寝込んだことがあった。俺は宿の仕事を早めに切り上げて、お粥を作り、八百屋の2階へ持っていった。布団の中のひまりは、いつもの元気が嘘のようにしょんぼりしていたけれど、俺の顔を見るとほんの少しだけ笑った。
「おじちゃん、来てくれたの?」
「ああ、お粥作ってきたぞ。食べられるか?」
ひまりはこくんと頷いて、ふーふーと冷ましながらお粥を一口入れた。
「おいしい」
たったそれだけのことが、なぜかたまらなく嬉しかった。豊造さんが隣で目を細かせていた。冷え切っていたはずの俺の心に、少しずつ温かいものが戻ってくるのが分かった。妻を亡くしてから、ずっと忘れていた感覚だった。
だが、現実は笑顔ばかりではなかった。俺が八百屋に通い始めて1月ほどが経った頃だった。ある朝、店の前に見慣れない車が止まっていた。中から降りてきたのはスーツを着た男だった。手には書類のようなものを持っている。男は豊造さんに、何やら話しかけていた。
「ですから、この店はまだ畳まんと言っとるだろう」
「ですがね、田島さん。借入れの返済も滞っています。この区画はちょうど駐車場の用地として話が来ているんですよ。今なら悪い条件じゃない。ご高齢ですし、お孫さんのためにも、楽になられた方が」
どうやら不動産の業者らしかった。近くのスーパーが駐車場を広げる話があり、八百屋の土地を買い取ろうと持ちかけているようだった。豊造さんは首を横に振り続けていたけれど、その背中はひどく小さく見えた。不動産屋の男は最後に俺の方をちらりと見て、名刺を1枚置いていった。
「よろしければ、旅館さんもご一緒に、再開発の話を」
俺はその名刺を受け取らなかった。男が帰った後、俺が店に入ると、豊造さんはレジの前で肩を落としていた。
「兄さん、聞こえてたかね? みっともないところを見せたな」
「いえ」
「店を始めたのはわしの親父でね。これをやえと2人でなんとか続けてきたけど、もう潮時かもしれん」
豊造さんはぽつりと言った。
「やえが生きてたら、もうちょっと頑張れたんだろうがなあ」
その言葉に、俺は胸を突かれた。俺も同じだったからだ。妻を亡くしてから、何もかもどうでも良くなった。頑張る理由を見失っていた。だから俺には、豊造さんの気持ちが痛いほど分かった。俺は思わず、口を開いていた。
「豊さん、うちの宿で、あなたの野菜を使わせてもらえませんか?」
豊造さんは顔を上げた。
「業者との契約を見直そうと思っていたんです。じゃがいも、玉ねぎ、にんじん。うちは毎日たくさん使う時期で、まとまった量を仕入れたい」
「兄さん、気を使ってくれるのはありがたいけど、同情ならええんよ」
「同情じゃありません。これは商売人としての選択です。あなたの野菜はうまい。それだけです」
豊造さんはじっと俺の目を見ていた。それから、ゆっくりと目元を拭った。
けれど、話はそう簡単には進まなかった。宿に戻ってその話を切り出すと、板長が渋い顔をした。板長は義父の代からこの宿を支えてきた、無口で頑固な男だ。
「旦那さん、本気ですか? あの店の野菜は土はついてるし、大きさもバラバラだ。下ごしらえに余計な手間がかかりますよ。今の業者の方が、ずっと楽です」
番頭も首をかしげた。
「値段だって、業者の方が安い。わざわざ高い野菜に変えて、赤字が上がったらどうするんです? この2年、せっかく切り詰めてきたのに」
2人の言うことは最もだった。数字だけ見れば、業者の方がいい。効率を考えれば、答えは出ている。2年間、俺はずっとその効率だけを信じてきた。コストを下げ、無駄を削る。それが宿を守ることだと思い込んでいた。けれど、あの土つきのじゃがいものほっくりとした甘さと、それを数えて袋に詰めたひまりの小さな手と、深々と頭を下げた豊造さんの背中を思い出すと、俺はどうしても引き下がれなかった。
「手間はかかる。値段も上がる。それでも、やってみたいんだ」
板長はしばらく黙っていた。それから、ぽそりと言った。
「旦那さんが、そんな風に何かをやりたいって言うのは、奥さんが亡くなってから初めてですね」
俺ははっとした。
「正直、この2年、旦那さんを見ているのは辛かった。まるで抜け殻みたいでね。奥さんが亡くなった時、俺たちは旦那さんまでいなくなっちゃうんじゃないかと心配したんですよ。わかりました。やってみましょう。手間はこっちでなんとかします。下ごしらえは私が回します。久しぶりに腕が鳴りますよ」
そう言って、板長は不器用に笑った。この男のこんな顔を見るのも、随分久しぶりだった。俺は深く頭を下げた。鼻の奥がツンとした。1人で抱え込んでいたつもりだったが、俺はこんなにもたくさんの人に支えられていたのだ。
こうして松風は、八百屋から野菜を仕入れることになった。じゃがいもを中心に、毎月30ケース。それが2人で決めた契約だった。契約を交わした日、豊造さんは何度も「ありがとうな。ありがとうな」と声をつまらせた。ひまりは何のことか分からないまま、俺の手を取ってぴょんぴょん飛び跳ねた。
「おじちゃん、じじのお店、好きになってくれたの?」
「ああ、大好きになったよ」
「やった!」
その夜、八百屋ではささやかなお祝いをしたらしい。ひまりが一番好きなコロッケが食卓に並んだのだと、後で聞いた。じゃがいものコロッケだ。
けれど、契約1つで何もかもがうまく回り出すほど、現実は甘くなかった。通ううちに、八百屋の台所事情が少しずつ見えてきた。正直に言って、店はいつ潰れてもおかしくない状態だった。スーパーに客を取られ、長年の借金も残っている。30ケースの契約が入っても、それでようやく息がつけるという程度だった。豊造さんはもう70を過ぎていた。腰を悪くしていて、長く立っているのが辛そうだった。それでも毎朝暗いうちに起きて、市場へ仕入れに行き、店を開けていたのだ。ひまりを育てるために、他の道はなかったのだという。
ある日、八百屋によるといつもの元気がなかった。聞けば、保育園で「潰れかけの八百屋の子」だとからかわれたのだという。スーパーの野菜の方が安くて綺麗だと誰かの親が言っていたのを、真似されたらしい。
「ねえ、おじちゃん。じじのお野菜は、本当はダメなお野菜なの? だからみんな買ってくれないの?」
豊造さんがひまりをぎゅっと抱きしめた。その手が、少し震えていた。俺はひまりの前にしゃがんだ。そして、できるだけまっすぐにその目を見ていった。
「いいか、ひまり。じじの野菜は、おじちゃんが今まで食べた中で一番うまい野菜だ。ダメな野菜なんかじゃない。みんながまだ、それを知らないだけだ。だからおじちゃんが、みんなに教えてやる。じじの野菜がどれだけすごいかを」
ひまりは俺の目をじっと見ていた。それから、こくんと小さく頷いた。だが、その目にはまだ不安の色が残っていた。子供に言葉だけで分からせるのは難しい。ならば、見せるしかない。俺はそう思った。
けれど、壁はそれだけではなかった。契約を交わして数日が経った朝のことだ。宿に1本の電話が入った。フロントの者が顔色を変えて、俺を呼びに来た。電話の相手は、ひまりだった。受話器の向こうで、ひまりは泣きじゃくっていた。
「おじちゃん、大変なの。じじが倒れちゃったの」
俺は宿を飛び出して、病院へ向かった。豊造さんは店先で倒れたのだという。重い荷物を運ぼうとして、その場に崩れ落ちた。過労と軽い脳の発作だった。幸い命に別状はなかったけれど、しばらくは入院が必要で、店は当分開けられそうになかった。
病室に着くと、ベッドの豊造さんのそばにひまりがちょこんと座っていた。小さな手で豊造さんの手を、ギュッと握っている。まるでその手を離したら、じじがどこかへ行ってしまうとでも思っているように。
「兄さん、すまんな。せっかく契約してもらったのに。これじゃあ、野菜を届けられん」
「そんなこと、今はいいんです。体を治してください」
その時、病室の扉が勢いよく開いた。息を切らせて入ってきたのは、若い女性だった。ひまりが椅子から飛び降りた。
「ママ!」
ひまりの母親、美沙さんだった。連絡を受けて、町から飛んで帰ってきたのだ。美沙さんはひまりを抱きしめ、それからベッドの豊造さんを見て唇を噛んだ。
「お父さん、無理ばっかりして。だから言ったのに」
美沙さんは俺に気づいて、丁寧に頭を下げた。
「松風さんですね。父と娘がお世話になって、ありがとうございます」
それから美沙さんは、寂しそうに笑った。
「でも、もう店は畳もうと思うんです。父もこの年です。私が町で働けば、ひまりと2人でなんとか暮らしていけます。父には、ゆっくりしてもらいたくて」
それは娘として当然の思いだった。父の体を案じるなら、それが一番いい。けれど、それを聞いたひまりが、ぶんぶんと首を振った。
「やだ。お店、なくさないで。じじの、大事なお店だもん」
「ひまり、わがまま言わないの」
「わがままじゃないもん! ひまり、いっぱいお手伝いしたもん!」
ひまりはぽろぽろと涙をこぼした。病室がしんと静まった。俺は何も言えなかった。店を続けるべきだなんて、無責任なことは言えない。畳むのが正しいのかもしれないと、さえ今は思う。けれど、ひまりの涙を見ていると、喉の奥が詰まった。
ひまりは泣きながら、ベッドの豊造さんの手をまた握った。
「じいじ、死なないで。お店、ひまりが守るから。だから、死なないで」
豊造さんはしわだらけの手で、ひまりの小さな手を包んだ。
「バカだなあ。じじは死にせんよ。ひまりがいるんだから」
そう言って笑おうとして、豊造さんの声は震えていた。俺は思わず窓の方を向いた。見ていられなかったのだ。このたった2人の家族から、店まで取り上げていいのか? 何が正しいのか、俺には分からなくなっていた。
その日の帰り、俺は美沙さんと病院の廊下で少し話した。
「父は、本当は店を続けたいんです。1度も畳むなんて、自分からは言いませんでした。今日だって、私が言い出して、ようやく頷いたんです。でも、もう限界なんです。借金もあって、私1人じゃ、ひまりを育てながらお店まで、とても……」
美沙さんの目に涙が滲んでいた。働き詰めで疲れきった目だった。
「子供の頃、私もあの店で育ったんです。母がね、店先でご近所の子供たちに野菜を分けてあげていて」
俺は足を止めた。
「ご近所の子供たちに?」
「ええ。お腹を空かせた子がいると、ほっとけない人で。蒸したじゃがいもをよく握らせてあげてました。お金も取らずに。『お腹が膨れれば、大抵の心配事は小さくなるんだよ』って。それが口癖で」
その瞬間、俺の頭の奥で、モヤがすっと晴れた気がした。
お腹空いてるんだろう。これ持っておいき。お腹が膨れれば、大抵の心配事は小さくなるからね。あの温かい女の人の声。手のひらの、蒸したじゃがいもの感触。あれは、あれは、この店だったのか。背中を冷たいものが駆け上がった。けれど、確信はなかった。ただの偶然かもしれない。この町には昔、八百屋なんていくつもあった。蒸したじゃがいもを子供に分ける店も、1つではなかったかもしれない。
俺は震える声で、美沙さんに尋ねた。
「失礼ですが、おばあ様のお名前は」
「やえと言います。田島やえ。6年前に亡くなりました」
やえさん。その名を、俺は知らなかった。子供の頃の俺は、ただ「八百屋のおばちゃん」としか覚えていなかった。顔ももうほとんど思い出せない。けれど、その口癖だけは、確かに俺の体に刻まれていた。何度も何度も、耳元で聞いた言葉のように。
美沙さんはまだ話したそうだった。母のことを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「母はね、自分の子供よりよその子に甘いんじゃないかって、私、すねたこともあったんですよ。でも大人になって分かりました。母はただ、お腹を空かせた子を見過ごせなかったんです。自分も若い頃苦労したからって。困っている子に、黙って1個。それが母の流儀でした。不思議なんです。母が野菜を分けてあげた子たちは、みんな立派になってね。お盆やお正月になると、今でも時々訪ねてくる人がいるんですよ。『あの時のおばちゃんのじゃがいもが忘れられなくって』って。母はもういないのに」
俺はその話を聞いて、立っているのがやっとだった。あの時のおばちゃんのじゃがいも。それはまさに、俺の中に残っているものだった。モヤの向こうの温かい手。ほくほくしたあの味。
美沙さんは、ふと思い出したように付け加えた。
「そうだ。母は亡くなる前に、店の帳面にその子たちのことを全部書き残していたみたいなんです。私もちゃんとは見ていないんですけど、誰に何を分けてあげたか、こまごまと。押入れの奥にしまってあるって言ってました」
帳面。子供たちの記録。その言葉が、俺の胸に深く刺さった。もしそれが本当にあるなら、もしそこに俺のことが書かれているなら、確かめれば全てが分かる。けれど、それが怖くもあった。確かめてしまえば、もう知らなかったことにはできないからだ。35年間、忘れたふりをしてきた自分の弱さと向き合わなければならなくなる。
それでも、俺は確かめたかった。あの温かい手の持ち主に、一言でいい、お礼を言いたかった。たとえその人が、もうこの世にいないのだとしても。
俺はその夜、眠れなかった。あのモヤの向こうの記憶を、何度もたぐり寄せようとした。暗い台所。空っぽの腹。そして帰り道、店の前で足を止めたあの感覚。誰かがしゃがんで、俺の手に何かを握らせてくれた。温かくて、ほくほくした何か。けれど、その女の人の顔だけが、どうしても見えなかった。
もし、あの記憶の中の女の人がやえさんだったとしたら、俺は自分を救ってくれた人の店の前を、12年もの間、何度も素通りしていたことになる。恩を忘れて。それどころか、商店街そのものを恥じて、避けて。そう思うと、いても立ってもいられなかった。俺は、確かめなければならなかった。
豊造さんが退院したのは、それから2週間後のことだった。店はまだ閉めたままだったが、俺は時々様子を見に通っていた。あの日、美沙さんから聞いた話が頭から離れなかったからだ。
ある日の午後、俺は豊造さんと2人で店の片付けをしていた。畳むにしても、長年溜め込んだ荷物がある。それを少しずつ整理していたのだ。古い秤、傷んだ木箱、色あせた札。1つ1つに、この店の長い歴史が染み込んでいた。
奥の物置きから、古い木の箱が出てきた。随分、ほこりをかぶっていた。豊造さんが蓋を開ける。中には、色あせた帳面が数冊入っていた。
「ああ、これは、やえの帳面だ」
「帳面ですか?」
「付けのようなものでね。常連さんの注文を書きつけてた。けど、やえはちょっと変わっててな」
豊造さんは1冊を手に取って、ぱらぱらとめくった。そして、ふっと笑った。
「ほら」
俺はその帳面を覗き込んだ。そこには注文や金額ではなく、子供の名前のようなものがいくつも書かれていた。日付と名前と、短い書き込み。
「けんちゃん。今日も来た。空弁当だった。おにぎり持たせた」
「みっちゃん。お母さん帰りが遅いそうな。にんじんかじってた。煮物を持たせる」
「ゆうくん。お父さんがまたお酒を。元気がない。じゃがいも多めに」
「さっちゃん。今日は笑ってた。よかった。トマト1つおまけ」
それは付けではなかった。腹を空かせた近所の子供たちの記録だった。やえさんは、お金を取らずに野菜を分けた子供たちの名前を、こうして1人1人、書き留めていたのだ。誰にも言わずに。ただ心配して。ちゃんと食べているか、元気にしているか。
俺の手が、震え出した。
「やえはなあ。お腹を空かせた子を見ると、ほっとけない人でなあ。うちだって楽じゃなかった。それでも、子供にだけは腹いっぱい食べさせてやりたいって言ってなあ。わしには内緒のつもりだったんだろうが、わしは全部知ってたよ」
俺はページをめくった。何冊もの帳面に、何年分もの記録。知らない名前がいくつも並んでいた。日付は随分古いものまであった。なぜか心が妙にざわついた。なぜだか手が止められなかった。心のどこかで、俺は探していたのだと思う。この中に、自分がいるのではないかと。
そして、ある1冊のあるページで、俺の指が止まった。そこには、こう書いてあった。
「しゅうちゃん。今日も遅くなるまで店の前にいた。お母さんが働き詰めで、ご飯がない様子。蒸したじゃがいもを5つ持たせた。右手の甲に火傷の跡がある。夜鍋で火傷したんだそうな。1人で湯を沸かそうとしたんだ。かわいそうに。たくさんお上がり」
そしてその下に、こう続いていた。
「この子が大きくなって、いつか誰かに同じことをしてあげられる人になりますように」
俺は声を上げて泣いた。店の床に座り込んで、子供のようにわあわあと泣いた。しゅうちゃん。それは、俺だ。右手の甲の火傷の跡。1人で湯を沸かそうとして、夜鍋を倒したあの夜。ずっと隠してきた、あの傷。あの蒸したじゃがいもは、やえさんが俺に握らせてくれたものだったのだ。腹を空かせた俺に、お金も取らず、温かいじゃがいもを持たせて、頭を撫でてくれた。「気をつけてお帰り」と言ってくれた。あの八百屋のおばちゃん。それが、やえさんだった。
俺はこの店に、生かされていた。父がいなくなり、母が働き詰めで、空っぽの台所にうずくまっていたあの貧しい子供時代。俺が腐らず、ひねくれずに生きてこれたのは、この八百屋の、やえさんの何気ない優しさのおかげだったのだ。そして、俺はそれをすっかり忘れて生きてきた。自分の力でここまで来たような顔をして。貧しかった過去を隠して。商店街に背を向けて。よりによって、自分を救ってくれたこの店を、恥じてさえいた。
豊造さんは、泣き崩れる俺の背中を、黙ってさすってくれた。あの日、ひまりの背中をさすっていたのと同じ手で。
「あんた、あの時の、しゅうちゃんかい?」
俺は何度も頷いた。言葉が出てこなかった。
「そうかい。そうかい。やえが生きてたら、どんなに喜んだか」
豊造さんの目からも、涙がこぼれ落ちていた。
「あいつはな、いつも言ってた。『あの子たちは今頃、どうしてるかな』って。『みんなちゃんとご飯食べてるかな』って。死ぬ間際まで、それを気にしてたんだ。あんたがこうして立派になって戻ってきたと知ったら、あいつはきっと飛んで喜ぶよ」
豊造さんは、目を細めた。遠い日を思い出すように。
「そういえば、あいつは亡くなる少し前に、ぽつりと言ったことがあってな。『火傷の跡のある、痩せた男の子がいた』って。『1人で湯を沸かして火傷した、不器用な子が。あの子はちゃんとあったかいご飯を食べられる大人になれただろうか』って。まさか、その子がこうして目の前にいるとはなあ」
俺はもう、言葉が出なかった。やえさんは亡くなるその間際まで、35年前にたった数日、店の前に立っていただけの、名も知らぬ貧しい子供のことを案じてくれていた。俺はその人のことを、顔さえ忘れていたというのに。
俺は帳面を胸に抱きしめた。やえさんの最後の願い。「この子がいつか、誰かに同じことをしてあげられる人になりますように」。俺はその願いを忘れていた。それなのに、巡り巡って、俺は今、この店の前に立っている。あのじゃがいもが、35年の時を超えて、俺をここへ連れ戻したのだ。
そして、ふと気づいた。あの日、商店街でひまりに「じゃがいも100個買ってください」と頭を下げられて、俺が足を止めたのは、偶然ではなかったのかもしれない。土とダンボールの匂いを懐かしいと感じたのも、蒸したじゃがいもの味に涙が出そうになったのも、きっと俺の体がずっと前から覚えていたのだ。この店の、この優しさを。忘れていたのは、頭だけだった。
帳面を抱えたまま、俺は店の天井を見上げた。
「やえさん、遅くなってすいません。やっと思い出しました。あなたにもらった、あのじゃがいものことを」
俺は決めた。この店を、畳ませない。やえさんが守り、豊造さんが守ってきた、この八百屋を終わらせない。それが、俺に残されたたった1つの恩返しだった。
その夜、俺は美沙さんと豊造さんを宿に招いた。そして2人の前で、深く頭を下げた。
「店を続けさせてください。お願いします」
「でも、松さん。それは私たちには……」
俺はあの帳面のことを、2人に打ち明けた。35年前、俺がこの店の前で空腹に震えていたこと。やえさんに蒸したじゃがいもで命をつないでもらったこと。そして、その恩をすっかり忘れて生きてきたことを。
「俺はこの店に生かされたんです。今度は、俺がこの店を生かす番だ。同情でも、義理でもありません。これは、俺が35年間ずっと返せていなかった、借りを返すだけのことなんです」
美沙さんは口を手で抑えて、泣いていた。
「松風で、毎月30ケース買わせてください。じゃがいもを中心に、にんじんも玉ねぎも。それだけじゃない。宿の名物に、肉じゃがを復活させます。八百屋のじゃがいもで炊いた、肉じゃがを。うちの亡くなった女房の味です」
板長も、その場にいた。板長は力強く頷いた。
「うちの宿の看板料理にします。八百屋のじゃがいも、出しがきいててね。お客さんに胸を張って出せますよ。下ごしらえの手間なんて、安いもんだ」
「店の立て直しも、俺も手伝います。配達は、宿の若いもんを回す。重い荷物は任せてください。豊造さんは、無理のない範囲で店に立ってくれればいい」
そして俺は、美沙さんに向き直っていった。
「美沙さん、町の仕事をやめて、戻ってきてもらえませんか? 八百屋と松風で、ちゃんとした給料を出します。ひまりちゃんも、もう寂しい思いをしなくていい。親子で、毎日一緒にいられる。それが、一番いいはずだ」
美沙さんはしばらく声を上げて泣いていた。それから、両手で顔を覆ったまま、何度も頷いた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。母が生きていたら、きっとこんな風に誰かを助けたんだと思います。母の優しさが、こうして私たちのところに帰ってきたんですね」
豊造さんはしばらく俯いて、肩を震わせていた。それから顔を上げて、ぽつりと言った。
「やえ。お前があの時まいた種が、こんなに立派に実ったぞ。お前は何ひつ見返りなんて求めちゃいなかったのになあ。ありがとうな、しゅうちゃん。あ、修平さん。あんたが戻ってきてくれて、わしはもう、思い残すことはないよ」
「演技でもないですよ。これからですよ。豊造さん、一緒にこの店をもう1度、町一番の八百屋にしましょう」
豊造さんは涙を拭って、しっかりと頷いた。ひまりは何が起きたのかよく分かっていないようだったけれど、大人たちが泣きながら笑っているのを見て、自分もにこにこと笑っていた。
「お店、なくならないの?」
「ああ、なくならないよ。ひまりちゃんが頑張って売ってくれたからな」
「ひまりのおかげ?」
「ひまりのおかげだ」
ひまりは満面の笑顔を浮かべた。
それから1月後、八百屋は再び店を開けた。俺は商店街に声をかけて、ささやかな祭りを開いてもらった。八百屋の復活の祭りだ。色あせた赤い日除けを、宿の若いもんと一緒に塗り直した。鮮やかな赤が、朝の光に映えた。シャッターを下ろしていた近所の店も、この日ばかりは戸を開けて、店先に品物を並べた。
店先には、土のついた野菜が山のように並んでいた。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、ほうれん草。豊造さんが目利きして、選り抜いて選んだものだ。そして店の隅には、松風の屋台を出した。鍋いっぱいの肉じゃが。八百屋のじゃがいもで炊いた、奈緒のあの肉じゃがだ。板長と宿の料理人たちが、袖をまくってくれた。
甘い出しの匂いが、商店街に広がった。その香りに誘われて、人が集まってきた。昔からの常連さん、近所の人、スーパーに通っていた人たちも、足を止めた。寂れていたはずの通りに、いつの間にかちょっとした人だかりができていた。肉じゃがを一口食べた年配の女性が、目を丸くした。
「あら、この味、懐かしい。昔、松風さんで食べたあの肉じゃが。また食べられるなんて」
俺は目の奥が熱くなった。奈緒の味は、ちゃんと生きていた。誰かの記憶の中で、ずっと待っていてくれた。
人だかりの中に、見覚えのある老夫婦がいた。いつか宿のフロントで「奈緒さんの肉じゃがは、もう食べられないのか」と尋ね、俺が素っ気なく断ってしまった、あの2人だった。俺は屋台を若いもんに任せて、2人のところへ行った。そして、肉じゃがを盛った器を手渡して、深く頭を下げた。
「あの時は申し訳ありませんでした。冷たい言い方をして。やっとまた、お出しできます」
おじいさんは肉じゃがを一口食べて、目を潤ませた。
「ああ、この味だ。これをもう1度食べたかったんですよ。家内とね、ずっと話していたんです。松風の肉じゃが、どうなったんだろうって」
俺は自分がいかに多くの人のささやかな楽しみを、素っ気なく断ってきたかを思い知った。胸の奥がじんと痛んだ。けれど、その痛みは不思議と温かかった。
この土地を買い取ろうとしていた不動産屋も、人だかりを遠くから眺めていた。けれど、これだけ人が集まり、町中がこの店を惜しんでいるのを見て、何も言わずに帰っていった。それきり、2度と姿を見せなかった。
シャッターを下ろしていた商店街の店の主人たちも、久しぶりに外へ出てきた。豆腐屋の主人が八百屋の野菜を買い込みながら、しみじみと言うのが聞こえた。
「昔は、この通りもこんな風に賑やかだったよな」
隣の呉服屋の主人が、うんうんと頷いていた。長い間、灯りの消えていた通りに、人の声と笑いと湯気が戻っていた。たった1件の八百屋の復活が、寂れた商店街全体に小さな火を灯したのだ。そして、その日を最初に灯したのは、紛れもなく5歳のひまりだった。じゃがいも100個買ってくださいと頭を下げた、あの小さな勇気が、全ての始まりだった。
ひまりは小さなエプロンをつけて、店先に立っていた。あの日と同じように、箱を抱えて声を張り上げる。
「いらっしゃいませ! じゃがいも美味しいよ! 100個買ってください!」
通りに笑い声が溢れた。本当に100個買っていく客も現れた。豊造さんはレジの前に座って、その光景を眩しそうに眺めていた。その膝の上には、あの帳面が置かれていた。俺は屋台の鍋をかき混ぜながら、空を見上げた。
やえさん。あなたが握らせてくれた、あのじゃがいもが、ここまで俺を連れてきました。あなたの願いは、ちゃんと届いてますよ。
湯気の向こうに、優しく笑う誰かの顔が見えた気がした。
祭りは大盛況だった。じゃがいもは昼前には売り切れた。肉じゃが鍋も、何度もおかわりが出た。豊造さんは何十年ぶりかという、たくさんの常連客から声をかけられ、1日中、店先で何度も何度も頭を下げていた。あの肉じゃがに反対していた番頭も、手伝いに来てくれた。汗をかきながら器を配って、番頭はぽそりと言った。
「旦那さん、原価がどうとか、言ってすいませんでした。こういうのも、悪くないですね。なんだか、宿を始めた頃を思い出しましたよ」
俺は黙って頷いた。数字には決して出てこないけれど、確かにここにある。そういうものを、俺は長い間、見ないふりをしてきたのだと思った。
その日の夕方、店じまいの後、豊造さんが俺のそばに来た。手には、あの帳面があった。
「兄さん、これを、あんたに持っていてほしい」
「え、これは、やえさんの大事な」
「だからだよ。やえの願いを一番ちゃんと受け取ってくれたのは、あんただ。しゅうちゃん。これはあんたが持ってるのが一番いい」
俺はその帳面を、両手で受け取った。ずっしりと重かった。あの日のじゃがいもと同じ、重さだった。
「必ず続けます。やえさんがしてくれたことを。腹を空かせた子がいたら、ほっとかない。そういう宿に、そういう八百屋にします」
豊造さんは、にっこり笑って頷いた。俺はその帳面を開いて、最後のページの書き終わったところに目を落とした。やえさんの字が途切れているその先。まだ何も書かれていない、白いページだ。ここに、これから俺が書き継いでいくのだ。やえさんが巻き、母のような人たちが育てて、そしてひまりたちの代へと続いていく、優しさの記録を。
ふと、最後のページの裏に、やえさんの小さな字で、こう書き添えてあるのに気づいた。
「いつか、この帳面がいっぱいになる日まで」
俺はその文字を、指でそっとなぞった。きっと、まだまだページは足りない。それで、いいのだと思った。
その時、ひまりが俺の足に、ぎゅっと抱きついてきた。
「おじちゃん!」
「うん」
「あのね、ひまりね、おじちゃんのこと、好きだよ」
俺はしゃがんで、ひまりの目を見た。
「おじちゃんも、ひまりのことが、大好きだよ」
「じゃあね、おじちゃん、ひまりのもう1人のじじになって」
俺は言葉に詰まった。じじには、まだ早い気もした。けれど、その小さな願いが、たまらなく愛しかった。子供がいなかった俺に、こんな日が来るなんて。
「ああ、なってやる。ひまりのじじだ」
ひまりはきゃっきゃっと笑って、俺の首にぎゅっと抱きついた。その小さなぬくもりが、2年間凍りついていた俺の胸を、ゆっくりと溶かしていった。
奈緒。俺は、また誰かを大切に思ってもいいだろうか。失うのが怖くて、ずっと1人で生きてきた俺は、今、こんなに小さな手にもう一度、捕まえてもらった。
美沙さんがそばで、そっと目元を拭っていた。豊造さんが、その肩をぽんと叩いた。
「修平さん。父も、ひまりも、私も。これから、あなたにたくさん甘えてしまうと思います。それでも、いいですか?」
「もちろんです。俺の方こそ、もう1度家族みたいなものをもらえて、嬉しいんです。子供もいなかったし、女房を亡くしてからは、ずっと1人でしたから」
美沙さんは噛みしめるように笑って、もう一度頭を下げた。夕焼けが、赤い日除けを一層赤く染めていた。なんだか、店全体が笑っているように見えた。長い間、シャッターを半分閉じていた、あの店が。
それから、3年が過ぎた。八百屋は今も、商店街の外れで店を開けている。塗り直した赤い日除けは、すっかり町の顔になった。松風が毎月買う野菜だけでなく、近所の店もまた、八百屋から仕入れるようになった。1件、また1件と、シャッターの上がる店が増えていった。美沙さんは町の仕事をやめて、町に戻ってきた。今は豊造さんに代わって、八百屋を切り盛りしている。親子そろって、毎晩同じ食卓を囲んだ。重い荷物を運ぶのは、松風の若いもんの仕事だ。豊造さんは無理のない範囲で、店先に座って野菜の目利きをしている。あの倒れた日が嘘のように、気色が良くなった。
松風の肉じゃがは、また宿の名物に戻っていた。八百屋のじゃがいもで炊いた、奈緒の味だ。これを食べに来たと言ってくれるお客さんも、戻ってきた。厨房には、また温かい湯気が立つようになった。口コミに、こんな言葉が並ぶようにもなった。
「あの宿の肉じゃがを食べたら、なんだか家に帰りたくなりました」
それは、奈緒が一番喜びそうな言葉だった。
そして、やえさんの帳面は、松風の玄関にそっと飾ってある。俺はあの願いを引き継いだ。腹を空かせた子がいると聞けば、宿の厨房で温かい飯を食べさせる。蒸したじゃがいもを握らせてやる。やえさんがあの日、俺にしてくれたように。帳面には、また新しい名前が書き足され始めている。この前は、近所の母子家庭の男の子の名前を、1行書いた。お母さんの帰りが遅くて、夕方1人で宿の裏に座っていた子だ。蒸したじゃがいもを2つ握らせたら、ぺこりと頭を下げて、大事そうに食べていた。その姿が35年前の自分と重なって、俺はしばらく、その場を動けなかった。
優しさは、こうして誰かから誰かへ、手渡されていくのだと思う。
ひまりは8歳になった。すっかり店の看板娘だ。相変わらず、お客さんに向かって元気に声を張り上げている。
「いらっしゃいませ! うちのじゃがいも、すごく美味しいよ!」
そして、時々俺の顔を見ると、にっこり笑ってこう言うのだ。
「じじ、今日も来てくれたんだね」
この前、ひまりが宿に遊びに来た時、玄関に飾ったやえさんの帳面をじっと見上げていた。そして、「これ、なに?」と聞いてきた。俺はしゃがんで、教えてやった。
「これはな、ひまりのおばあちゃんが、困っている子に優しさを分けてあげた、その記録だよ」
ひまりはふーんと頷いて、それから誇らしげに言った。
「じゃあ、ひまりも大きくなったら、いっぱい優しくする!」
俺はその頭を、そっと撫でた。優しさは、もう次の世代へと、手渡され始めていた。
人は1人では生きていけない。何もない誰かの小さな優しさに、知らないうちに支えられて生きている。俺は自分の力でここまで来たと思っていたけれど、本当は、たくさんの人の手のひらに乗せられて、運ばれて、ここまで来たのだ。そして、その優しさは巡り巡って、いつかまた、誰かのところへ帰っていく。
あの日、5歳の女の子が抱えていた土のついたじゃがいも。あれは、35年の時を超えて、俺のところへ帰ってきた、1つの優しさだったのだと、今なら分かる。ひまりがあのダンボール箱を抱えて立っていてくれなかったら、俺は今でも冷えた心のまま、数字ばかりを見て生きていただろう。救ったつもりで、本当に救われたのは、俺の方だったのだ。



