土曜日の朝、カーテンを開けると、義実家の駐車スペースに赤い車が入ってきた。また義弟の裕二さん夫婦が来たのだ。ほぼ毎日、朝から我が家にやってくる。いくら何でも行き過ぎだと思った。
夫の賢太も寝ぼけ眼で隣に来て、義弟夫婦が車から降りるのを眺めた。
「マジかよ。朝早いな」
「昨日、何も言ってなかったじゃない?」
夫はどこか他人事だった。私がどれだけストレスを感じているか、まったく分かっていない。義弟夫婦は我が家から車で10分ほどのアパートに住んでいるのに、毎日のように来ては長時間入り浸る。昼ご飯はうちで食べ、夕飯は義実家でみんなで揃って食べるのが恒例になっていた。自分の時間が持てない日々に、私は限界を感じていた。
「あ、俺さ、今日休日出勤だから。あとよろしく」
「え?昨日何も言ってなかったじゃない?」
「しょうがないだろ。急に決まったんだ。夜中に上司からLINEが来てたんだよ」
夫は残業や休日出勤を理由に、家にいようとしない。今日もまた、私は義弟夫婦と過ごさなければならない。イライラが募る。
「お腹にそんな連絡してくるなんて、ブラックすぎない?」
「仕方ないだろ。俺は中途だし、仕事があるだけありがたいだろう」
夫はむっとした顔をした。これ以上言っても無駄だ。私はため息をついた。
我が家は、私と夫が結婚する3年前に、展示会場のモデルハウスが抽選で当たって手に入れたものだ。夫は私と出会う前、別の女性と結婚する予定で応募した。だが、結婚式の日取りも決まっていたのに、彼女の浮気で別れてしまったという。夫は会社も辞め、自暴自棄になった時期もあった。それでもモデルハウスを買うことに決め、私と出会って結婚した。私たちが結婚する頃に工事が完了し、結婚と同時に入居した。
新婚当時、義母にこう言われたことがある。
「お姉さん、この家に住むのは嫌じゃないんですか?ケン太って、相手の女性の浮気で別れたんでしょ?」
「だって家には罪がないじゃない?こんな素敵な家に住めるなら、文句なんてないわ」
私はにっこり笑って答えた。だが義母は浮かない顔をして、まだ何か言いたそうだった。私はその違和感を、気のせいだと思うことにした。
その日も、義弟夫婦は昼前に我が家へやってきた。義弟はソファで本を読み、その嫁のなおさんはレース編みをしている。なぜ自分の家でやらないのか、理解に苦しむ。時間がじりじりと過ぎていき、昼ご飯の準備をしようと思っていたら、義母から電話があった。
「今日はみんなで食べにいらっしゃい」
義実家の食卓で、義父が優しく声をかけてくれた。
「ほら、みささんも遠慮しないで、たくさん食べなさい」
「ありがとうございます。この煮物、とっても美味しいですよね」
「なおさんが前に美味しいって言ってくれたから、また作ったの。みさんのお口にもあってよかったわ」
義母の言葉に、私はもやっとした。義両親、特に義母は、私よりも義弟の嫁のなおさんのことを可愛がっている。嫁になった期間が長いなおさんと義母が仲がいいのは仕方ないけれど、たまに義母となおさんが二人で真剣に話しているのを見かける。私が行くと、パッと話をやめる。義両親と義弟夫婦が何か言いたそうに私を見ることもあった。私はその視線にそわそわして、とても嫌だった。
「ご飯食べたら、買い物行ってきますね。お米を切らしていたのを思い出したんです。裕二さんたちは、こちらでお母さんとお父さんと一緒にゆっくりしてくださいね」
私は言い訳をしながら、席を立った。せっかくだから、と普段行かない繁華街へ向かった。開放感でいっぱいだった。
すると、私は見てしまった。休日出勤のはずの夫が、知らない女と腕を組んで歩いているのを。どう見ても恋人同士という甘い雰囲気で、私の怒りは頂点に達した。私は義弟夫婦からストレスを受けまくっているのに、夫は楽しく女と遊び歩いている。問い詰めようと思ったが、やめた。スマホを取り出して、証拠写真を撮った。繁華街で腕を組んでいただけでは、浮気の証拠として弱いかもしれない。とにかく決定的な証拠を集めようと、家へ急いだ。
家に着くと、まだ義弟夫婦の赤い車が止まっている。私はうんざりした。夫も最低だけど、義弟夫婦も一体どういう神経をしているんだろう。
「あ、お姉さん、帰ってきたんですね。じゃあ、そっちの家に行っていいですか?」
義弟夫婦が義実家の玄関から顔を出した。今日はこれから夫の浮気の証拠を探さなければいけないのに。我慢の限界だった。
「もういい加減にしてください。どうして毎日来て入り浸るんですか?親戚中にも礼儀ありって言うじゃないですか。限界なんです。迷惑だから来ないでください」
私は頭を下げながら、内心すっきりしていた。これでもう義弟夫婦は二度とうちに来ることはないだろう。正直に言えば、夫の浮気への八つ当たりだったけれど、その勢いがなければ言えなかった。
私の言葉に、義弟夫婦は顔を見合わせた。私が持っていたのと反応が違って戸惑っていると、義弟がぽつりと一言。
「あの、この家は僕たちの家ですよ」
「え?それってどういうこと?この家ってケン太の家でしょ?」
「いえ、違います。お姉さんは兄さんから何も聞いていないんですね。この家は僕の名義で、僕がローンを払っているんです」
「え、嘘だって。モデルハウスが当たったって健太から聞いていたけど」
「お兄さんが当たったのは本当です。でも、違うんです。いらないからって、私たちに譲ってくれたんです。お兄さんが当たったのは本当ですが、いらないからって私たちに譲ってくれたんです」
何?一体どういうことなの?わけがわからなかった。そこへ騒ぎを聞きつけた義母が出てきて、「とにかく入りなさい」と言った。
義実家のリビングで、私と義両親、義弟夫婦が揃った。私だけ全然状況が分からないけど、みんな分かっているようで、目くばせし合っている。
最初に言葉を発したのは義父だった。
「以前、健太の話を聞いてないか?彼女から浮気されたショックで自暴自棄になったって」
「はい。聞いていました」
「本当は違う。健太が浮気をして、振られたんだ。みんなで謝罪をしに行って、結婚は破談になったんだ」
え、まさか。夫の言っていることと事実は全く違っていた。仕事をやめたのも、浮気相手が同じ職場だったから、いづらくなってやめたのが本当の話だった。
「じゃあ、無職ではローンが通らないのは分かるね。本体価格は安くても、維持費や税金、水道や電気、いろんなお金がかかってくるのは分かるかい?」
義父から優しく説明され、私は急に恥ずかしくなる。安く手に入ったって聞いて、その家をローンで購入するのは常識なのに、夫と私が結婚する頃には手続きが全部済んでいたし、夫の話しぶりからもう払い終えていると勝手に思っていた。でも、冷静に考えたら、家関係の話を細かく聞いたことはない。結婚に浮かれ、私は夫の言うことを全部信じていた。
私が口ごもっていると、義弟が横から口を出す。
「お姉さん、あの頃、ちょうど僕たちが結婚するので、兄さんから家をやると言われたんです。じゃあ、その後の費用って、全部僕たちが払っています。今もローンを払っていますし」
私が自分の家だと思っていた家は、なんと義弟夫婦の家だった。そこに私と夫が我が者顔で住んでいたのだから、みんなが何か言いたそうにしていたわけだ。
義母が口を開いた。
「家が出来上がる寸前に、みさんとの結婚が決まって、健太は『やっぱり俺たちが住む』って言い出したの。元々当選したのは健太だから、裕二もなおさんも我慢して譲ってくれることになったんだけど、健太がいつまで立ってもローンの変更手続きに応じないのよ。名義の変更や税金の支払いも全部、裕二にさせて、全然お金を返さないの。そのくせ、みさんには絶対に言うなってね」
聞けば聞くほど、全て夫が悪い。一度は義弟に譲ったのに、自分の都合で取り上げて、さらにお金も払わないなんて、ひどすぎる。
「そんな健太から言われていても、私にも教えてくれたら」
「だって、みさんが悪いわけじゃないもの。悪いのは健太でしょ。でも、そう思っていても、私たちも態度が良くなかったわね。ごめんなさい」
「健太が変わるのを待っていたんだが、すまなかったな」
「僕たちもつい長居しちゃって、申し訳なかったです。本当は僕たちの家だと思うと、つい」
「そうなんです。言えなくて。それに、何も言わない方がお兄さんとお姉さんの中がこじれないんじゃないかと思って。本当にごめんなさい」
義母、義父、義弟、なおさんから次々に謝られて、私は変な汗がぶわっと出てきた。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした」
私はその場に土下座した。あまりの申し訳なさに、汗と涙と鼻水がだらだら出てきた。ドヤ顔してもう来ないでくださいとよく言えたものだ。知らなかったとはいえ、私も義弟夫婦の家に住んでいた加害者なんて、恥ずかしすぎる。
泣いて謝罪をして、義両親と義弟夫婦と仲直りしたものの、真相が分かり、私の怒りは夫へと向いた。夫が二重に許せない。私は義両親と義弟夫婦に、さっき撮った夫の浮気の証拠写真を見せ、夫と別れようと思っていることを話した。すると義両親も義弟夫婦も、夫が懲りずにまた浮気したことに怒り出した。私の離婚のため、浮気の決定的な証拠を手分けをして探してくれることになったのだ。
夕方になって帰ってきた夫は、平気で嘘をついた。
「ただいま。今日も仕事大変だったよ」
「あれ?今日、なんでみんな我が家にいるんだ?」
夫はリビングに私だけでなく義両親も義弟夫婦もいることにびっくりしたようだ。夫の疑問には答えず、私はにっこり笑顔で言ってやった。
「ねえ、健太、私たち離婚しましょう」
「は?なんで急に?」
「あのね、裕二さんがあなたの部屋のパソコンから浮気相手とのやり取りを発見してくれたし、なおさんは浮気相手からのメッセージカードとプレゼントのネクタイピンを見つけ出してくれたの。あちこちに浮気の証拠があったわ。休日出勤とか残業をよくしているのに手当てがつかないのもおかしいって、気づくべきだったわ」
私が皮肉混じりに言うと、夫は逆切れした。
「うるさいな。浮気くらいで何だよ。別れればいいんだろ。遊びなのに目くじら立てやがって」
みんな夫の開き直りにドン引きだ。
「浮気相手と別れたからってもう無理よ。あなたにはもっと他の大問題があるから。裕二さんたちから全部聞いたわ。子供がおもちゃを取るのとはわけが違うのよ。弟の家を奪うなんて、恥ずかしいと思わないの?」
「だって、元は俺が当たったものだぞ。当選したのはね。でも、それだけよ」
「お前だってこの家に住んでいい思いしてたのに、偉そうなこと言うな」
「実際にお金を払ったのが裕二さんたちだなんて、知らなかったからよ」
「家族なんだし、弟の家に俺が住んで、何の問題があるんだ?」
夫は居直るが、私は夫が情けなかった。義両親と義弟夫婦も同じだった。
「兄さん、いい加減にしてよ。僕、実は弁護士と相談中なんだ。兄さんがこれ以上ごねるなら、法的な処置を取るからね」
「は?そんなの大げさだろう」
「いいえ、私も離婚に応じないなら弁護士を頼むわ。口で言ってもあなたには通じないもの」
「健太、お前もいい加減反省しなさい。いつか分かってくれると待っていたが見込み違いだった」
「親父まで、そんなこと言うなよ。裕二は弟なんだし、兄の俺のために家をくれてもいいだろう」
「ダメに決まっているでしょ。あなたこそ、今までの占有料もしっかり払って、裕二さんたちに家を譲りなさいよ」
義弟と私の集中攻撃で夫に説教した。どうやら夫は、義弟夫婦が根負けするまで待って、お金を払わずに家を手に入れるつもりだったらしい。夫の人間の小ささ加減に全員が一時絶句したけど、義両親の怒りが爆発した。徹底的に叱られ、最後に夫は泣きながら土下座した。そして夫は、私と別れること、義弟夫婦の家から出ていくことを約束したのだ。
その後、財産分与をしっかりして慰謝料を支払ってもらい、夫とは完全に縁が切れた。私も家を占有した加害者として、義弟夫婦にお金を渡そうとしたけど、「お姉さんも被害者だから」と彼らは受け取らなかった。その分、元夫からしっかりと損害賠償を受け取ったそうだ。元夫は今では、どこかのボロアパートで暮らしているらしい。
結婚した嬉しさから、ローンのことや家のことがすっぱり頭から抜けていた私も悪かった。かなり恥ずかしい失敗だったけど、お金に疎すぎるのはダメだと思い、ファイナンシャルプランナーの資格を取るきっかけになった。今では資格を生かして働いているから、人生はどこでどう転ぶか分からないものだ。
私は今年で53歳になるパート主婦であり、投資家でもある。投資家と言うと聞こえは良いが、私の場合、運が良かっただけ。両親から相続した土地にマンションを建てたら、これが当たり。夫の友人が立ち上げた会社に投資をしたら、これも当たった。それを元に買った土地を駐車場にし、株もいくつか買ったら、不労所得で生活できるようになった。でも、それを公表することはしていない。普段はスーパーでパートをしていて、基本的には夫の収入と私のパート代で慎ましく生活している。投資の不労所得は、息子が二人いるのでその学費に当てることはしたけど、息子たちが独立した今は、夫と旅行に行くくらいだ。
長男の周平が結婚したのは1年前。女っけのない息子が連れてきたのは、随分と派手な、2つ年下のかな子さんだった。友達の紹介で知り合ったと言っていたが、どうやら出会いは合コンらしい。大人しい息子に合うのか心配だったけど、年下だけどしっかりしていて、息子とは案外合うようだ。結婚までは半年ほど。息子は当時30歳を目の前に、焦りもあったのかもしれない。
結婚してから、かな子さんは専業主婦になった。息子夫婦は私たちの家から10分ほどのマンションを購入。息子はたまに顔を出すけど、かな子さんとはほとんど会わない。向こうが私たちを避けているようだ。「年寄りと関わるのは面倒」と息子に話しているのが聞こえてしまったことがあり、それ以来、私も必要最低限しか関わらないようにしている。
ある日、夫が帰ってくる少し前に雨が降ってきたので、傘を持って夫を駅まで迎えに行こうとしたら、次男の浩二も同じくらいに帰宅すると連絡が来た。それなら駅で待ち合わせて外食でもしよう、となり、私は駅までの道を歩いていた。すると、路地からいきなり車が出てくる。ライトが眩しくて、私は目をつぶった。次の瞬間、私の意識は遠のいた。
気がつくと、病院のベッドの上で、夫と次男が隣で見守っている。何が起こったのか分からず、状況を整理しようと起き上がると、自分の体じゃないみたいに重い。あの時、車に跳ねられた私は、救急車で運ばれたという。待ち合わせをしていた夫が何度も私の携帯に電話をくれていたので、すぐに夫に連絡がつき、夫と次男が病院に駆けつけてくれたそうだ。私はなんとか無事だったけど、足の怪我がひどく、自分の足で歩けるようになるかは分からないと言われた。ショックを隠せなかったけど、命に別状がなくて本当に良かった、と泣く夫の姿を見たら、本当にその通りだと思えた。私は車椅子の生活をしながら、リハビリをすることになる。
翌日には、長男の周平とかな子さんがお見舞いに来てくれた。と言っても、かな子さんはただ一緒にいるだけで、会話も特にない。途中、周平が仕事の電話がかかってきたからと席を外すと、かな子さんがきつく言ってきた。
「車椅子になったからって、こっちを頼らないでくださいね」
私は少し驚いたけど、なんとか笑ってごまかした。周平が戻ってくると、その顔は一瞬でニコニコしながら帰っていった。どちらが彼女の本性なのだろう。もし周平のことを本当に愛してくれているのなら、私たちを煙たがっていてもいいのだけれど、息子を騙しているのなら少し心配だ。とはいえ、そんなことを周平に言うのもどうかと思い、モヤモヤした感情を抱えたまま二人を見送った。
車椅子の生活にも慣れてくると、徒歩で行けるところは時間をかければ車椅子でも行けるようになった。気分転換も兼ねて、買い物に行くのが日課になる。いつもは自分がパートをしているスーパーで買い物をしているけれど、小さい店なので車椅子で入るのは大変だ。長男夫婦の住んでいる方向にあるショッピングモールに入っている大きなスーパーへ行くことにした。
モールの中へ入ると、かな子さんが向こうから歩いてくる。なんていう偶然。私は挨拶だけでもしようとかな子さんに近づいた。すると彼女は私の方を一瞥する。明らかに目が合っていたのに、無視して足早に去ってしまった。あまりにも失礼だと思ったが、車椅子で追いかけるわけにもいかない。私は買い物を済ませて帰宅した。
今までのように身軽に買い物に出ることはできないけど、ここなら車椅子用の通路もあるし、お店も大きいので気分転換にもなる。私は時々このショッピングモールを利用するようになった。生活圏が同じなのでかな子さんにも何度か出くわしたが、いずれも私を見ると睨みつけたり無視したり、まるで他人扱い。特に誰かと一緒にいるところに遭遇した時は、ものすごい形相で睨まれたので、私も彼女を無視するようになった。
私はなんとかリハビリを続け、このまま行けば回復の見込みはあると言われて頑張っている。夫と次男が交代で家事をしてくれているので、生活はさほど困っていない。長男は休みの日や仕事帰りに顔を出してくれることもある。
私はある日、長男に尋ねた。
「かな子さんとは、うまくやっているの?」
「はあ。どうだろう?仕事から帰ってきても、かな子がいないこともあるし。今日も友達と遊びに行くって言って、朝からいないんだよね。まあでも、会えば話はするし。一人でずっと家にいろとも言えないからね」
仕事から帰ってきても、いないことがある。私は疑問に思ったけど、長男があまり話したがらないので、「何かあったら、お父さんや浩司にでもいいから話しなさいよ」と言って会話を終えた。
それから2日後、私はショッピングモールで買い物に行くと、かな子さんに出くわした。どうやら私を待っていたようだ。
「ちょっと、周平に何吹き込んだんですか?」
怖い顔でこちらに向かってきて、挨拶もなしに言ってくる。
「周平が何を言ったのかは知らないわ。私は『かな子さんとうまくやっているのか』『何か困ったことがあったら相談するように』と言っただけよ」
「家を出た息子のことを心配するなんて、過保護にも程があるのよ」
それだけ言って、かな子さんは去っていく。心配はしているが、過保護まで言われる筋合いはない。でも私が言い返す間もなく、彼女の姿は見えなくなった。
私はその夜、夫に話をした。今までかな子さんに言われたこと、今日の態度、息子は大丈夫かと心配していること。夫は難しい顔をする。
「かな子さんは俺にはニコニコしてくるけど、なんか裏があるような気がしてな。でも、周平も男なんだし、自分のけじめは自分でつけるよ。母さんが心配するのも分かるけど、俺たちはあいつが相談してきた時に手を差し伸べればいいと思うよ」
確かに、心配しすぎも良くない。私は夫の考えに同意し、息子夫婦とは距離を置いていた。
半月ほど経った頃、息子夫婦が揃って家を訪れる。夫と私が出迎えて、どうしたのかと話を聞くと、かな子さんが妊娠したという。私も夫ももちろん喜んだ。夫は気が早く、「男の子か女の子か」と明らかにウキウキしている。そして、息子たちが赤ちゃんの頃に使っていたもので使えるものがあれば持っていって欲しいと、息子と一緒に2階へ上がった。私はかな子さんにお茶を出して、「楽にしていてね」という。それを聞いて、彼女はため息をついた。
「わざわざ来てやったのにお茶だけですか?」
耳を疑ったが、ぐっとこらえて笑った。
「あ、ごめんなさいね。突然来るから、何も用意していなくて。何か食べたいものはある?食べられるものがあれば、今度家まで持っていくわよ」
そう言っても、かな子さんは私を睨みつける。
「は?わざわざ家になんて来られても困るから。周平がどうしても報告しておきたいって言うから、仕方なく来てやったの。私が喜んであんたに会いたいなんて思うわけないでしょ」
妊娠して不安定だからなのか、いつもよりきつい態度だ。怒りは募ったけど、相手は妊婦。しかも息子のお嫁さんだ。私は笑ってやり過ごすしかなかった。
「何かあったら、遠慮なく言ってね」
「そういう『いい人アピール』、うざいんだけど。私とあんたは他人なの?いい人ぶって首突っ込まないでくれる?」
「いくらなんでも、それは言いすぎじゃないか」
さすがに我慢できずに、私も苛立ってきた。
「かな子さん、そんな言い方ないでしょ」
「何?説教とか聞きたくないんだけど」
「その態度はどうなの?相手がいくら気に入らなくても、そんなに攻撃的にならなくてもいいでしょ」
「うるさいわね。あんたみたいなババアとは絶縁するから」
私が驚いていると、彼女は私を見て笑った。
「そんな車椅子なんかで、何ができるっていうの?子供が生まれるっていうのに、ババアの介護までしてられないわよ」
そんなことを言っているが、私が彼女に介護をしてもらったことは一度もない。彼女は私に釘を刺す。
「これからは会釈以外、関わらないで。車椅子のババアなんて、お荷物なのよ」
私はその言葉に、笑みがこぼれた。
「いいわよ。だったら、1億の遺産は次男の浩二に託すわね。周平に託したら、あなたにどう使われるか分からないもの」
そう言うと、かな子さんはあっさり顔色を変える。
「1億。え?なんで、高々パートしかしてないのに」
その慌てぶりに、私は笑った。
「不労所得があるなんて、わざわざ言わないからね」
かな子さんは慌てて取り繕う。
「え、いや、やだなあ。お母さん、全部冗談ですよ。私、妊娠してなんだか気が立っているんだと思います。ほら、初めての子供ですし。そういうこと、ありますよね」
彼女が私にすがりついてくると、後ろで物音がした。夫と周平がダンボールを持って2階から降りてきたのである。かな子さんは青ざめた。
「え、今のって……」
周平が呆然とかな子さんを見るが、彼女は急にしらばっくれる。
「え、え、な、え、何?あ、なんか私、疲れてるみたい」
私はあいた口が塞がらなかった。夫もポカンとしている。周平はどうやら戸惑っているようだ。どこから会話を聞いていたのか、おそらく暴言を吐いているところからだろう。私たちが立ち尽くしていると、リビング前の廊下から物音が聞こえた。
「ああ、浩二、帰ってたのか」
夫が声をかけると、次男がスマホを片手に立っている。浩二がリビングに入ってきて、スマホの画面を私たちに向け、動画を再生し出した。先ほどの私とかな子さんのやり取りだ。かな子さんの顔は見る見る青ざめる。周平はその動画を食い入るように見ていた。再生が終わると、浩二が口を開く。
「兄貴、これがこの人の本性だよ。今後のことを考え直した方がいいんじゃないの?」
浩二は、玄関を開けたら私たちの声がして、何か様子がおかしいと直感的にスマホで撮影したという。周平はかな子さんに向かって問いかけた。
「俺の両親も、本当の両親みたいに思ってるって言ってたの。嘘だったのか」
かな子さんは首を振る。
「え、ち、違うの?こんなこと言うつもり全然なくて。お母さんを大事に思っているのは本当よ。ただ、どう接していいか分からないというか」
それを聞いて、私は笑いが込み上げた。
「大事にしていたら、外ですれ違ったら挨拶くらいするわよね。様に無視したり、わざわざ暴言を吐いたりする人が、大事に思っているなんて言わないでくれる?」
「ち、違うんです。違うんですよ。お母さん」
私はその必死な姿にもう一度笑った。
「心配しなくても、あなたに私の遺産が入ることはないから、安心してね」
崩れ落ちるかな子さんに、周平が言う。
「お前はお金目当てだったもんな。俺のことも、そうだろ。俺はそれでも夫婦で仲良く過ごせるならいいと思ったから、結婚したんだよ。でも、今後のことは考えさせてくれ」
すると、然としていたかな子さんが、突然笑い出した。
「当たり前でしょ。夫の両親なんて他人よ。他人。周平は私と離婚するってこと?別にいいわよ。その代わり、財産分与と養育費はしっかり払ってよね。こんな車椅子のババアの介護を押し付けられる前に、逃げようと思ってたのよ。外で話しかけられて恥ずかしかったんだから。もう二度と私と関わらないで」
それを聞くと、珍しく温厚な周平が大きな声を出す。
「車椅子のババアだとよくもそんなことが言えたな。二度と関わらないで欲しいのはこっちの方だ。出ていけ」
周平にそう言われ、かな子さんは荷物を持って出ていく。
「分かったわよ。後悔しても知らないんだからね」
捨てゼリフを吐いて、大きな音を立てて玄関を閉めた。かな子さんが去った後、周平は私たちに頭を下げる。
「父さん、母さん、本当にごめん。浩二も、ごめん。ありがとう」
周平が言うには、私たちを早く安心させたくて、お金目当てだと分かっていても結婚がしたかったという。逆にお金目当てなら生活するのも割り切れるし、それはそれでうまく生活ができるかもしれない、と考えたそうだ。
「俺、かな子とは離婚するよ。さすがに母さんのことをあんな風に言う人と、結婚生活は続けられない。お腹の子のことは責任持つけど、夫婦としてやっていく気がなくなったよ。やっぱり、家事もろくにしないで、俺のお金で浮気されてるなんて、いい気分もしないしな」
その言葉に、私たちは全員が周平を見る。周平は笑って言う。
「まだ結婚して1年なのに、浮気されてたんだよね。まあ、もう別れたみたいだけどさ」
どうやら、かな子さんが私に「何を吹き込んだのか」と怒鳴ってきた前の晩、浮気がバレて周平と修羅場になったようだ。かな子さんは、私が浮気を目撃したと周平に告げ口したと思ったらしい。あの時のかな子さんの態度の理由が、ようやくわかった。周平はかな子さんから「お腹の子は周平の子供で、浮気相手とはもう別れた」と泣きつかれたから、一度は許したというのだが、お金目当てのかな子さんがあんなにあっさり離婚を承諾するのはおかしい。何か他に秘密がある気がするのだ。
私はそこでピンと来た。
「ねえ、妊娠してたのは本当?」
かな子さんは、お腹に気をつけている様子がなかった。もし周平と離婚するとなったら、財産分与で手元にはそれなりのお金が入る。かな子さんは計画的に離婚しようとしてたんじゃないか。
その後、周平はかな子さんに離婚届を突きつけた。「離婚でも何でもしてやるわよ」と言って、あっさりと離婚届にサインをする。そして得意気に「財産分与と養育費よろしくね」と言ったそうだが、周平の言葉で顔色を変えた。
「そもそも、妊娠なんかしてないんだろ。それと、財産分与をするのはいいけど、俺は浮気の慰謝料を請求させてもらうからな」
あの日、家に戻った周平は、パソコンのメールを開いた。そこには、かな子さんと浮気相手のやり取りが残っていた。私の予想した通り、かな子さんは妊娠したと嘘をつき、周平に財産分与と養育費を請求して、そのお金で浮気相手と暮らすつもりだったようだ。「離婚して遠くに引っ越してしまえば、子供が生まれたかどうかなんて確かめようがない」というやり取りもあったそうだ。とんでもないことを考えるものである。
結局、慰謝料を払いきれなかったかな子さんは、両親に立て替えてもらい、実家に帰ったそうだ。向こうのご両親は激怒して、「立て替えた分はきっちり稼いでもらう」と、今では実家で監視されながら、昼夜問わず働いているという。私がかな子さんとショッピングモールで会った時に一緒にいた人は、友達ではなく浮気相手だったようだ。私とすれ違っている場所で浮気相手とデートしているなんて、私には信じられなかった。
もう一つ信じられない行動といえば、かな子さんが実家に強制送還された後、私に電話がかかってきたこと。
「お母さん、お金を貸してください」
涙ながらに私に訴える。
「お母さんのことが大好きで、どうしていいか分からなかったんです。介護もしますから、私に慰謝料の分のお金を貸してください」
それを聞いて、私は笑うしかなかった。
「それは借りるんじゃなくて、もらおうと思ってるのよね。どう接していいか分からなくて、あんな態度取るなんて最低ね。それに、介護は当分必要ないの。私、もう車椅子卒業してるから」
そう言って電話を切り、着信拒否にした。
周平は離婚してから仕事に没頭し、順調に出世コースに乗っている。浩二は大学時代から付き合っている彼女と、そろそろゴールイン予定。私はリハビリが功を奏して、杖があれば歩けるところまで回復した。今では夫と二人、無理のない範囲ではあるけど旅行に行くことができるようになり、人生を楽しんでいる。



