営業定例会議で、社長の息子が突然立ち上がって宣言した。「この100億円の契約、僕が取りました」——映し出された資料は、半年かけて僕が築いてきた取引先との交渉内容そのものだった。僕が「それは私の担当案件です」と反論すると、社長は笑いながら言った。「じゃあ、その契約を今すぐ解除してみろよ。お前が本当に取ったなら相手も納得するだろ」会議室の全員が凍りついた。15年の信頼を、たった一言で踏みにじられ…

営業定例会議で、社長の息子が突然立ち上がって宣言した。「この100億円の契約、僕が取りました」——映し出された資料は、半年かけて僕が築いてきた取引先との交渉内容そのものだった。僕が「それは私の担当案件です」と反論すると、社長は笑いながら言った。「じゃあ、その契約を今すぐ解除してみろよ。お前が本当に取ったなら相手も納得するだろ」会議室の全員が凍りついた。15年の信頼を、たった一言で踏みにじられ...

営業定例の会議室で、朝村渡が立ち上がった。プロジェクターに映し出された資料を見た瞬間、俺の背筋は凍りついた。それは、俺が半年以上かけて川端専務と詰めてきたエイリス伝の契約内容そのものだった。

「この契約は僕が全体を取りまとめ、成立させました。全て僕の成果です」

会議室がざわめいた。何人かが資料を見返し、何も言えずに目を伏せる者もいた。誰もが異常だと分かっているのに、誰も口を開かない。その沈黙が、俺の胸を締めつけた。

「その契約を担当していたのは西岡だ」
静かに立ち上がったのは、井口部長だった。

「でも、今プレゼンをしているのは僕ですし、川端専務との話も僕がまとめました。もう正式に決まったんです」

渡は笑みを浮かべたまま言い放った。誰の目にも強引で不自然な主張だったが、それを止める声は上がらなかった。

「まあまあ、いいじゃないか。誰がやったかなんて些細なことだろ。どうせ同じ会社なんだし」

社長であり渡の父親である朝村友智が、軽く笑いながら言った。その無神経な一言が、俺の胸に深く刺さった。

俺は立ち上がった。
「納得できません。その契約は半年以上かけて私が進めてきた案件です。麻村さんは一度も関与していません」

「だったら、その契約を今すぐ解除してみろよ。お前が本当に取ったって言うなら、相手も納得するはずだろ」

会議室が凍りついた。俺の努力を預けるような言葉だった。信頼を積み上げてきた年月を、たった一言で踏みにじられた気がした。

俺は何も言わず、椅子を引いてその場を去った。背中で沈黙を返すように、振り返らずに。

屋上に向かい、空を見上げながらスマホを取り出す。迷いはなかった。川端専務の名前をタップし、電話が繋がる。

「突然のご連絡申し訳ありません。ご報告とお詫びがあります。先ほどの社内会議で、私が担当してきた契約について別の社員が自分の成果だと発表しました。社長はその主張を受け入れ、私に対して『お前の契約なら解除してみろ』と言いました」

川端専務はしばらく黙っていたが、やがて抑えた声で答えた。
「これはとても残念な話ですね。私は西岡さん以外の誰とも話をしていません。あなたの対応が誠実だったから、我々は契約に踏み切った。そうでなければ、そもそもここまで至っていませんよ」

その言葉に胸の奥が熱くなるのを感じた。だが、同時に自分がこのまま会社に残っていてはいけないという思いが強くなっていた。

「ありがとうございます。ですが、私はこのまま契約を進めることはできません。私の努力を否定された以上、解除という選択を突きつけられました。会社に従って契約を守ろうとすれば、私は川端さんとの信頼関係を裏切ることになります。だから、私は契約を解消する決断をしました」

「わかりました。とても苦しい判断だったと思います。今後の責任は御社に請求させていただきます。あなた個人に落ち度があったとは考えていませんから」

その言葉が、最後の背中を押してくれた。

翌朝、俺は退職届を提出した。井口部長には、どうしても直接伝えておきたかった。

「本当にやめるのか?」
「はい。申し訳ありません。でも、これ以上ここで働いていても、自分を偽ることになる気がして」

井口さんはしばらく書類を見つめていたが、やがて立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。
「お前の判断を俺は否定しない。正直、人材を失うと思ってる」

「今まで本当にありがとうございました」
ドアを開けて部屋を出ようとした時、背中に声が届いた。
「頑張れよ」

その瞬間、胸の奥で何かがじんと熱くなった。

数日後、セレクトテックに一通の封筒が届いた。エイリス伝からの契約解除通知と、損害賠償請求書だった。

「本契約は、担当者・西岡新一との信頼関係に基づき締結されたものであり、担当者が契約から外れたことで履行が不可能となりました」

賠償額は数億円に上っていた。会社は総然とし、社長室では友智が机を叩き、井口部長に怒鳴り散らした。

「ふざけるな! 西岡との信頼関係ってどういう意味だ? どうしてそんな重要な契約を西岡なんかに任せたんだ!」

井口は唇を結んだまま、黙って頭を下げた。口を開けば責任を押し付けられるだけだと分かっていた。

「お前が契約を取ったって言ったんだろ! 責任を取ってエイリス伝を取り戻してこい!」

命じられるまま、渡はエイリス伝へ向かった。受付で丁寧に名乗り、面会を求めたが、断られた。

「本日は全ての対応をお断りしております」

粘って面会を求めると、やがて川端専務が応接室に現れた。無表情のまま、渡に告げる。

「契約の件で来られたんですよね。ですが、もう話すことはありません」
「誤解があるようでしたら、ちゃんと説明させてください。今回の件は、私がまとめるよう社内で指示を受けたものでして」

「朝村さん、今回の契約は西岡さんだったから結んだものです。私はあなたと契約する気は一切ありません。西岡さんが戻ってこない限り、契約の可能性はゼロです。当社としては、御社の一方的な都合で契約内容を覆されたと認識しています。従って、当社の被った損害は全て御社に責任があると考えています」

渡は言葉も出せず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

会社を辞めてから一ヶ月ほどが過ぎた頃、井口部長から電話がかかってきた。
「社長と麻村主任が、話がしたいと言っている」

心は揺れなかった。俺は短く返した。
「会うなら場所はこちらで決めさせてください」

指定したのは、郊外にある静かなレストランの一角だった。この一ヶ月で俺は小さな営業コンサル会社を立ち上げ、ようやく形になりつつあった。

現れた朝村友智と渡は、二人とも疲れきった顔をしていた。友智のスーツは肩が落ち、渡は落ち着きなく視線を泳がせている。

「率直に言う。今、会社は厳しい。川端専務からも、西岡君が戻らない限り話はできないとまで言われた。契約解除による損害賠償だけでも数億円規模で、社内外からの信用も一気に傾いている。どうか戻ってきてくれないか。君じゃないとダメなんだ」

「今更ですか? あの時、私に何を言ったかもうお忘れですか?」

友智は視線を落とし、押し黙った。次に口を開いたのは渡だった。
「でも俺は関係ないだろ。全部父さんが勝手にやったことだし、俺は社内の流れに従っただけだ」

「自分の口で『俺が契約を取った』って言ってましたよね」

言い返せないと分かった瞬間、渡の肩がわずかに震えた。

「私が悪かった。全部私の責任だ。あの時、お前を信じきれなかった。今更謝って済むことじゃないのは分かってる。だけど、このままだと会社が潰れる」

友智の声は震えていた。だが、その言葉に心は動かなかった。

「御社が私を切り捨てたのは、私の成果を誰かの手柄にするためでした。それを止めるどころか、私に『契約を解除してみろ』と笑ったのは御社の判断です。その結果が今の状況なんじゃないですか」

すると渡が突然声を荒げた。
「違うんだよ! 俺のせいじゃない! あの時は注目されたくて、ただそれだけで……ちょっとくらいならって思っただけで、まさか契約まで消えるなんて」

言葉が崩れていく。どんどん泣き声に近づいていき、意味をなさなくなっていく。
「会社が潰れるなんて聞いてない! 俺の人生まで終わるなんて! 誰か助けてくれよ!」

目は真っ赤に腫れ、鼻水をすすりながらわめき散らす。まるで自分が何をしたかも忘れたように、現実から逃げることだけに必死だった。

俺は静かに言った。
「もう戻る気はありません。私は今、私の責任で事業を始めているところです。失った信用はもう戻りません」

立ち上がると、二人は同時に顔を上げた。だが、もう会話は終わっていた。
「ここで失礼します。今後の件については、御社の責任として処理されるべきです」

背を向けると、背後から渡の泣き叫ぶ声が響いた。
「お願いだ! 頼む! 戻ってきてくれ! 俺が悪かった! 俺が本当に悪かったから! 助けてくれよ!」

振り返ることなく、俺は扉に向かって歩いた。その場に残されたのは、顔を伏せて震える父と子。自分たちが失ったものの重さにようやく気づき始めたが、あまりにも遅すぎた。

あの場を去ってから数ヶ月、セレクトテックの転落は一気だった。損害賠償は数億円規模。銀行からの融資も凍結された。さらに匿名のSNS投稿が火をつけた。上司の成果を盗んだ社長の息子、現場の忠告を無視して笑った社長。添付された会議資料や内部の録音はあまりにも生々しかった。取引先の間でも共有されるようになり、長年続いた安定取引が次々と切られた。社員の離職も相次ぎ、いよいよ再建は不可能になった。友智は自ら追い込まれ、渡も役職を外された。その後、倒産負債整理の場にも朝村親子の姿はなかった。

しばらくして、知人から一枚の写真が送られてきた。駅前のベンチで、毛布にくるまり、背を丸めて眠る親子らしき姿。俺はスマホの画面を見つめながら、何も言えなかった。もしかしたら本人じゃないかもしれない。だが、もしそうなら、あまりにも遅すぎた代償だった。

一方、俺は静かに事業を広げていた。誠実な仕事ぶりを評価してくれる人たちがいて、新たな依頼も少しずつ増えている。今では井口さんも協力者として加わってくれている。かつて影で支えてくれた人と、今は同じテーブルで未来を語り合えるようになった。川端専務との関係も変わらず、あの契約が消えた後も、彼はまっすぐに俺の誠意を見てくれている。

次の訪問先へ向かう道すがら、俺はスーツの袖を軽く整えた。冷たい風が頬をかすめる。だが、心は静かだった。

信頼は守るものだ。積み重ねて、裏切らずに。

俺はゆっくりと歩を進めた。振り返ることなく。

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