大きなセダンが猛スピードで、まっすぐ私に向かって走ってきた。とっさに避けようとしたが、車の方が少しだけ速かった。ハンドルを切った瞬間、バンパーが消火栓に当たり、衝撃が和らいだ。それでも私の体は宙に舞い、尻餅をついた勢いで、路面に置かれたホテルの看板に頭をぶつけた。
薄れゆく意識の中で、声が聞こえた気がした。「ああ、多分息はしてねえよ。計画通りだ。これでミユの保険金も入る」
私は秋山ミユ、50歳になるスナックの雇われママだ。夫のトオルは、年下のベンチャー企業の社長。20歳で起業し、業界のトップランナーとして駆け上がってきた。私も都心の高級クラブで働いてきた。トオルとは、上得意様に連れられて来店したことがきっかけで知り合い、妊娠が分かって結婚した。子育てが一段落して店に復帰し、7年前から雇われママをしている。
夫婦揃って収入は安定し、一等地のマンションに住み、高級車も2台所有していた。娘のミユが大学を卒業して就職で家を出てからは、夫と2人暮らしだ。
トオルは典型的なワーカホリックだった。「今日も会社に泊まってきたの?」と聞くと、「新規事業の立ち上げでな、システム開発に時間がかかってるんだ」と答える。朝帰りでも、シャワーを浴びて着替えたらまた出かける。「プロジェクトの大詰めなんだよ。来月になったら海外でのんびりしようか」と言うのが常だった。
私は夫を信じていた。就職して家を出た娘も、時折遊びに来る。家族としては普通で、幸せだと思っていた。
その日の夕方、夫からLINEが来た。「今夜も帰れそうにない。着替えを準備してくれないか」続けて、「秘書のナミノを向かわせる。使用の車の鍵も渡してくれ」という内容だった。
しばらくして、秘書のナミノさんが家に現れた。華やかな女性で、以前会った時から、うちの店にスカウトしたいと思うほどの器量だった。私は着替えの入ったボストンバッグと車の鍵を渡した。彼女は一礼して、丁寧にドアを閉めて去っていった。
ただ、その時の彼女の微笑みが、不敵で怖いものに見えたのだ。
仕事柄、私は相手の表情の変化に敏感だ。少しの違和感も見逃さずに、お酒を注ぐタイミングやお会計のタイミングを計っている。だから、あの微笑みは気になった。しかし、深く考えないようにして、仕事の準備に取りかかった。
数日後、実家の施設から連絡が入った。難病を患っていた父が、亡くなったという。私は夫と娘に連絡を入れ、実家へ向かった。父は「葬儀は最小限に」と言っていたが、私と夫の職業柄、それは難しかった。大きな式場での葬儀となった。
喪主は私一人で、葬儀を取り仕切るのは初めてで慌てそうになったが、ナミノさんがテキパキと動いてくれて助かった。夫も参列者に丁寧に頭を下げて挨拶をしていた。しかし、葬儀に一度も顔を出さず、介護にも一切関与しなかった夫の姿が、悲劇のヒロインを気取っているように見えた。
葬儀が終わり、ナミノさんに礼を言うと、彼女はこう言ったのだ。「いえ、私は社長の手助けをしたまでです。奥様が悲劇のヒロインを演じていらっしゃるのを、楽しんで拝見できました」
あの時の不敵な微笑みと同じ表情だった。確実に、彼女は私に敵意を持っていた。
父の遺産相続の話が進むと、私は驚くほどの額を相続することになった。夫も驚くかと思ったが、会社の金を動かしているせいか、顔色ひとつ変えない。弁護士が家に出入りすることを了承してくれた。
この頃から、私の身の回りで不思議なことが起こり始めた。雨の日にタイヤが切られていたり、店の玄関に汚い言葉が書かれた紙が貼られたりした。店同士の嫌がらせだろうと思い、スタッフには気をつけるよう伝えた。
しかし、その数日後、今度は自宅のポストに黒い封筒が投函されていた。宛名は私で、差出人はない。「気をつけたほうがいい」とだけ書かれていた。コンシェルジュデスクに防犯カメラの解析を依頼し、警察に被害届を出すことにした。
その翌日の夜、私は帰宅が遅くなった。夫が久しぶりに帰宅できるというので、早めに店を閉めて帰ると約束していたのだ。しかし、2時間ほど遅くなってしまい、運転手には先に帰ってもらっていた。タクシーも捕まらず、歩いて帰ることにした。夫にはLINEで知らせたが、既読はつかない。家で寝てしまったのだろうと思った。
ひっそりとしたホテル街を足早に通り過ぎようとした、その時だった。大きなセダンが、猛スピードで私に向かって走ってきた。
とっさに避けようとしたが、車の方が速かった。体は弾き飛ばされ、頭を強く打った。「ああ、多分息はしてねえよ。計画通りだ。これでミユの保険金も入る」
薄れゆく意識の中で、夫の声が聞こえた気がした。私は最後の力を振り絞って、スマートウォッチの緊急通報サービスを起動した。車がぶつかった音と警告音に気づいたホテルの従業員が、外に出てきてくれた。「助けて」と、それだけしか言えなかった。
目を覚ますと、病院のベッドの上だった。娘のミユが付き添ってくれていた。打撲程度の怪我で、精密検査の結果、異常はないと言われた。帰ろうとした時、警察官が事故の話を聞きたいという。状況を話していると、警察官が変なことを言い出した。
「ご主人の秋山トオルさんも、自動車事故を起こして、別の病院に入院されています」
「運ばれたのはいつですか?」
「朝方です」
私が事故に遭ったのは、深夜の2時頃だった。夫は、私の事故の知らせを聞いて病院に向かう途中だったのかもしれない。しかし、事故現場は家から病院へ向かう途中ではない。
夫に会いたいと伝えたが、「事故の調査があるから無理です」と言われた。
不可解なことばかりで頭が混乱していたが、帰宅する前に、私は思い出したのだ。事故の瞬間、とっさにスマホで動画を撮影したことを。その動画を、交番の警察官に見せた。
動画に映っていたのは、ひき逃げした車。夫の車だった。娘のミユも「パパの車だ」と認めた。そして、動画の1分ほど経ったところで、あの声が鮮明に録音されていた。「ああ、多分息はしてねえよ。計画通りだ。これでミユの保険金も入る」
警察官はどこかに電話を入れ、こう言った。「多分、当分の間ご主人には会えないでしょう」
夫の車は、前夜に中央分離帯にぶつかる自損事故を起こしていたという。しかし、その事故とは無関係の、不自然なバンパーのへこみがあったため、調べを進めていたらしい。私の動画を見せたことで、裏が取れたのだ。警察官は「共犯者がいると思われます。1人での行動は避けてください」と言った。私は、信頼できる弁護士のもとに、娘と一緒に身を寄せた。
弁護士が警察から聞き出した驚くべき事実。私への嫌がらせは、全て夫の不倫相手であるナミノさんの仕業だった。そして、事故当日。ナミノさんは夫の車を運転し、私を跳ねた。本来は、運転手付きの車に追突して逃げる計画だったが、私が歩き始めたのを見て、計画を変更したのだ。ハンドル操作を誤って消火栓にぶつかったため、その傷を隠すために、夫はわざと自損事故を起こしたのだった。
夫は、私を殺して、私の遺産と保険金を奪おうとしていた。私の名義で生命保険に加入し、死亡保険金も狙っていた。夫は自損事故で怪我をするはずだったが、エアバッグが開いた衝撃で鎖骨と肋骨を骨折し、入院していたのだ。
夫は逮捕された。ナミノさんは逃亡したが、捕まるのも時間の問題だろう。私は弁護士に離婚届を作成してもらい、署名をした。夫に対する離婚と慰謝料、ナミノさんへの慰謝料と損害賠償。弁護士は「私の知らないところで生命保険を契約していた件も含めて、裁判を始めましょう」と言ってくれた。
その後、私は夫やナミノさんと一切顔を合わせていない。未遂とはいえ、計画性があったことから、2人の罪はかなり重いものになった。
私はこの件で心身のバランスを崩し、入院した。その間も娘や常連のお客様が気遣ってくれて、少しずつ元気を取り戻している。店は畳むことにし、明るい時間にできる仕事に切り替えようと決めた。第2の人生を歩むために、まずは体を整えたいと思う。


